最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
グアテマラの深い熱帯雨林の中、巨大な石のピラミッドの頂上が木々の上に突き出しています。サルが吠え、オウムが飛んでいきます。ここがティカル、今も中央アメリカに暮らしているマヤの人々が築いた都市です。
最も栄えていた頃、ティカルとその周辺には何万人もの人々が暮らしていました。王のための宮殿、儀式のための広い広場、神聖な球技のための球戯場、市場、家々、そして畑がありました。いちばん高い神殿はおよそ70メートル、20階建てのビルほどの高さです。
マヤの人々は、グリフと呼ばれる絵のような文字による、独自の文字体系を持っていました。彼らはこれをステラと呼ばれる背の高い石に刻み、誰が王だったか、いつ生まれたか、どの戦争に勝ったか、どの神をまつったかを記しました。専門家たちが今ではこの文字のほとんどを読めるようになったおかげで、私たちはティカルの多くの王たちの名前を知ることができます。
ティカルにはカラクムルという大きなライバル都市がありました。何百年もの間、この二つの都市は戦い合い、他の都市と友好関係を結び、いちばん力のある存在になろうと競い合いました。あるとき、ティカルはひどい敗北を喫し、その後百年以上、王たちは年代を刻んだ新しい記念碑を建てず、建物もあまり建てなくなりました。けれども、やがて新しい王が大きな勝利をおさめ、都市はかつてないほど大きくなりました。
およそ1,100年前、人々は少しずつこの都市を去っていき、森がその上を覆いました。けれども、マヤの人々が消えてしまったわけではありません。彼らの子孫は今もマヤの言葉を話しながらこの地域に暮らしており、ティカルは今では、遺跡と森の野生動物の両方を守る国立公園になっています。
ひと目でわかる
- 何か
- 神殿、宮殿、広場、貯水池、そして何千もの建造物を備えた、古典期マヤ最大級の都市の一つ
- 場所
- グアテマラ北部ペテン県の、低地の熱帯雨林
- 古代の名
- 都市の紋章文字が示す「ヤシュ・ムタル(『最初のムタル』の意)」
- 居住の歴史
- 紀元前1000年頃から農耕の村。紀元前400〜300年頃から記念建造物の建設。最盛期は紀元後200〜900年頃
- 主な出来事
- テオティワカンと結びつくシアフ・カアクの「到来」(378年)、敗北と「空白期」(562年)、カラクムルへの勝利(695年)、最後の年代を刻んだ記念碑(869年)
- 最も高い建物
- 神殿IV、高さ約70メートル。古代アメリカ大陸でも屈指の高さを誇る建造物
- 人口
- 推定には幅があり、後期古典期の最盛期でおよそ1万人から9万人に及ぶ
- 指定
- 国立公園(1955年)。ユネスコ世界遺産(1979年)
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ティカルとは何か
ティカルは、グアテマラ北部ペテン地方、熱帯雨林に覆われた低く平らな土地に残る、マヤの大都市の遺跡である。これは、およそ紀元後250年から900年までの古典期マヤの時代において、最も強力な都市の一つだった。当時、今日の南メキシコ、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラスにあたる地域では、何十ものマヤの王国が覇を競っていた。
「ティカル」という名前は近代につけられたもので、通常はユカテク・マヤ語で「水場のところ」を意味する語句として説明される。都市の統治者たち自身は、碑文の中で自分たちの王国を「ムタル」あるいは「ヤシュ・ムタル」と呼んでいた。これは、王の称号に使われた特別な記号である「紋章文字」からわかることで、これはちょうど紋章のように、それぞれの王国を示すものだった。
今日、訪れる人が目にするのは、この都市の儀礼上の中心部である。切り立った神殿ピラミッド、いくつもの部屋を持つ宮殿、広い広場、球戯場、そして彫刻を施した石碑の列である。しかしティカルは、単なる宗教的な中心地よりもはるかに大きな存在だった。考古学者たちは、森の奥深くにまで広がる何千もの住居、貯水池、参道、畑を地図化しており、これがまぎれもない一つの都市であったことを示している。
ティカルは、1955年に創設された国立公園として保護されており、1979年にはユネスコ世界遺産に登録された。その考古学的な価値と、これを取り巻く熱帯雨林の両方が評価されている。
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都市を「読む」方法
都市の中心には大広場がある。その東側には、高さおよそ47メートルの「大ジャガー神殿」とも呼ばれる神殿Iが立ち、これに向き合うように西側には神殿IIがある。神殿Iは、ティカル最大の王の一人、ハサウ・チャン・カウィール1世の葬祭記念建造物であり、その墓ははるか地下深くに眠っている。二つの神殿は広場をはさんで向かい合っており、そこで行われた儀式は、王と、しばしばその王妃と考えられている人物の記念建造物の間で執り行われたのである。
広場の北には北のアクロポリスがある。これは何世紀にもわたって積み重ねられた基壇で、代々の王たちがここに葬られ、新しい建物がケーキの層のように古い建物を覆っていった。広場の南には中央のアクロポリスがあり、これは王家や貴族が暮らし働いた、宮殿の部屋と中庭が入り組んだ複合施設である。
さらに西には、ティカルで最も高い建物である神殿IVがそびえ、その高さはおよそ70メートルに及ぶ。その頂上からは、森という海のような広がりを見渡すことができ、そこから他の神殿の屋根飾りが顔をのぞかせている。南西には「ムンド・ペルディド(『失われた世界』の意)」複合体があり、これはティカルにおける先古典期最大の儀礼複合体で、この都市が、後の有名な古典期の神殿群よりもずっと以前から、すでに重要な存在だったことを示している。
サクベと呼ばれる、高く盛り上げられた広い道路が、主要な建造物群を結んでいた。ティカルはまた、「双子ピラミッド複合体」でも知られている。これは、マヤの暦で約20年にあたる「カトゥン」という期間の終わりを祝うために建てられた、頂上が平らな一対のピラミッドである。それぞれの複合体には、彫刻の施されたステラ(石碑)と祭壇があり、その儀式を執り行った王の記録が残されている。
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熱帯雨林の都市に生きる
ペテン地方で暮らすことは容易ではなかった。ティカルの近くには大きな川がなく、一年のうちある時期にはほとんど雨も降らない。ティカルの人々はこれを、貯水池を作ることで解決した。舗装された広場や斜面が雨水を集め、石で縁取られた大きな貯水槽へと流し込んだのである。考古学者たちは、乾季を生き抜くために欠かせなかった、およそ十基の主要な貯水池を確認している。
住民の多くはトウモロコシ、豆、カボチャを育てる農民であり、森からは果実や獲物、木材も得ていた。近年、この地域を対象に行われたレーザー測量は、段々畑、水路、盛り土された畑を明らかにしており、マヤの人々が大規模に景観を作り変え、多くの人口を養っていたことを物語っている。
マヤの人々は、数百の記号からなる文字体系を持っていた。単語全体を表す記号もあれば、音節を表す記号もあった。書記たちは樹皮紙に本を描き、彫刻家たちはステラや祭壇、まぐさ石に碑文を刻んだ。彼らは「長期暦」と呼ばれる精密な暦を用い、出来事を日単位で正確に記録した。何十年にもわたる解読作業のおかげで、歴史学者たちは今、都市自身が残した記念建造物から、ティカルの王朝の歴史を読み解くことができる。
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村から王国へ
最初の農民たちがティカルの周辺に定住したのは、紀元前1000年頃のことだった。大規模な建設は紀元前400〜300年頃に始まり、ペンシルベニア大学の発掘調査は、紀元前600年頃までにはティカルが「機能する共同体」となっていたと結論づけている。先古典期後期には、ムンド・ペルディド複合体と初期の北のアクロポリスは、すでに記念建造物としての規模を備えていた。
後の統治者たちは、自分たちの王朝の起源を、おそらく紀元後1世紀か2世紀に生きていたヤシュ・エブ・シュークという創始者にまでさかのぼらせた。この王朝は歴代の統治者を丹念に数え上げており、後の王たちは、この継承の系譜における自分の順位を誇らしげに記した。古典期前期(紀元後250〜550年頃)にかけて、ティカルは低地地帯を代表する都市の一つへと成長し、わずか20キロメートルほど北にあったワシャクトゥンのような近隣の都市と競い合った。
初期の王たちは北のアクロポリスに墓を築き、豪華な衣装を身にまとい、神聖な権力の象徴を手にした自分の姿を示すステラを建てた。マヤの王たちは、神々や祖先との特別な結びつきを主張し、都市の儀礼生活の多くは、王の儀式、供犠としての瀉血、そして暦の節目の記念行事を中心に営まれていた。
中級
378年——西からの来訪者
378年1月、ティカルと近隣の都市の碑文は、西からやってきたシアフ・カアク(「火は生まれた」の意)という人物の「到来」を記録している。同じ日に、ティカルの王チャク・トク・イチャアク1世が死んだ。それから一年もたたないうちに、新しい王ヤシュ・ヌーン・アイーン1世がティカルの王座に就いた。碑文は、彼を「スピアスロワー・アウル(槍投げ器のフクロウ)」というあだ名で呼ばれる人物の子であると記している。この名は、1,000キロメートル以上離れた中央メキシコの大都市テオティワカンと結びつく記号で書かれている。
この出来事の後、テオティワカンの様式が、ティカルや他のマヤの都市に現れ始める。中央メキシコの武器や頭飾りを身につけた戦士たち、独特の形をした土器、そしてタルー・タブレロと呼ばれる建築様式である。シアフ・カアクは、ワシャクトゥンをはじめとする他のいくつかの遺跡でも上位の支配者として現れており、これは低地地帯における広範な権力の再編を示唆している。
およそ70年後、ヤシュ・ヌーン・アイーンの子であるシアフ・チャン・カウィール2世は、ステラ31を建てた。そこには、マヤの王としての装いをした彼自身が、テオティワカンの戦士の姿をした父にはさまれて描かれている。その裏面に刻まれた長い文章は、この時代を知るための重要な歴史資料の一つである。この記念碑は、ティカルの統治者たちが後に、この外国とのつながりを、威信と正統性の源として提示していたことを示している。
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戦う二つの超大国——ティカルとカラクムル
古典期の歴史を支配していたのは、ティカルと、7世紀以降、今日の南メキシコにあたるカラクムルから統治していたカアヌル(「蛇」)王朝との対抗関係だった。どちらの都市も、マヤの世界全体を征服することはなかった。それぞれが同盟国や従属王国のネットワークを築き上げ、その争いは、しばしば二つの超大国どうしの戦いになぞらえられてきた。
562年、ティカルは壊滅的な敗北を喫した。王ワク・チャン・カウィールは捕らえられて殺された可能性があるが、その正確な運命ははっきりしない。カラコルの碑文はこの戦争を記録しており、多くの研究者は今日、勝者はカアヌルの王で「スカイ・ウィットネス」として知られる人物であり、カラコルはその同盟者だったと考えている。これに続いて、「ティカルの空白期」と呼ばれる一世紀以上の期間が訪れ、この間、ティカルでは年代を刻んだ記念碑は一つも建てられず、大規模な建設も大きく落ち込んだ。
7世紀、カラクムルの王ユクノーム・チェーン2世(在位636〜686年)は、強力な同盟網を築き上げた。ティカル王家自身の王子によって建てられたドス・ピラスは、カラクムル側に寝返り、ティカルと戦うようになった。こうして、同じ王家の二つの系統が敵どうしとなったのである。
この均衡が変わったのは695年、ティカルの王ハサウ・チャン・カウィール1世(在位682〜734年)が、カラクムルの支配者ユクノーム・イチャーク・カアクを打ち破ったときだった。ティカルはその力を取り戻し、ハサウとその子イキン・チャン・カウィールは、大規模な建設事業に乗り出した。ハサウの葬祭神殿である神殿Iと、一般にイキン・チャン・カウィールと結びつけられ8世紀半ばのものとされる神殿IVは、いずれもこの復興の時代に属している。
中級
同じころ、世界では
ティカルはユーラシア大陸と接触を持たなかったため、その歴史は碑文と考古学に基づき、ティカル自身の文脈で読み解かなければならない。たとえば、遠く離れたテオティワカンと結びついたシアフ・カアクが到来した378年の激変や、カアヌル王朝との長い対抗関係である。それでも、これらの年代を世界の他の地域と並べてみることには、別の意味で価値がある。マヤの人々が、ローマやペルシア、中国の諸帝国と同じ時代に、文字、天文学、記念碑的な都市をまったく独自に発展させたことを思い起こさせてくれるからだ。
ティカルが敗北を喫した562年には、新羅が朝鮮半島に最後まで残っていた伽耶の国を併合し、コンスタンティノープルでは、再建されたハギア・ソフィアのドームが献堂された。ほぼ同じ頃、ビザンツ皇帝ユスティニアヌスとペルシア王ホスロー1世は長期の和平条約を結んでいる。ちょうどティカルがカラクムルの影に覆われたように、地中海と近東の世界も、ビザンツとペルシアという二つの大国を中心に組み立てられていたのである。
ティカルの長い空白期は、イングランドのサットン・フーである王が葬られた頃(625年頃)、ムハンマドのメディナへの移住(622年)を経てのイスラームの興隆、そして中国における唐王朝の建国(618年)と重なり合っている。695年、ハサウ・チャン・カウィールがカラクムルを打ち破ったとき、新羅は唐との戦争を経て朝鮮半島の大半を統一したばかりであり、唐の都・長安は、壮大な大明宮を擁する世界最大級の都市の一つだった。
ティカルで最後に年代が刻まれた記念碑は869年に彫られた。同じ世紀、唐王朝は衰えつつあり、ヨーロッパのカール大帝の帝国は、すでにその後継者たちの間で分裂していた。マヤ低地地帯の王たちの偉大な時代は終わりを迎えつつあったが、その一方で、北方のユカタン半島では、チチェン・イッツァのような都市が興隆していた。
中級
王都の終わり
8世紀、ティカルはその最大規模に達していたが、マヤ低地地帯南部の全体には、次第に困難が広がりつつあった。年代を刻んだ記念碑の数は急激に減少し、750年頃には年に何十基もあったものが、900年頃までにはゼロになった。ティカルで最後に年代が刻まれた記念碑は869年のもので、950年頃までには都市の中心部はほぼ放棄された。その後もしばらくの間、少人数の集団が廃墟の中で暮らし続けていた。
歴史学者たちはかつて、突然の、謎めいた「崩壊」という言葉を使っていた。今日、多くの研究者は「変容」や「断絶」といった言葉を好んで用いる。というのも、マヤ文明そのものが消え去ったわけではないからである。チチェン・イッツァや、後のマヤパンといった北方の都市は繁栄を続け、今日でも数百万人のマヤの人々が、およそ30のマヤ諸語を話しながらメキシコ、グアテマラ、ベリーズに暮らしている。
南部の諸都市が終わりを迎えた理由としては、長く続いた干ばつ、王国どうしの絶え間ない戦争、人口過剰と森林破壊、交易路の変化、そしてもはや雨や繁栄を保証できなくなった王たちへの信頼の喪失などが挙げられている。ティカルでは、貯水池の研究によって、赤色顔料に使われた辰砂に由来する水銀や藻類の異常発生といった汚染の痕跡が見つかっており、これが乾季の間、一部の水を安全に飲めないものにしていた可能性がある。
中級
再発見、発掘、そして新しい技術
地元の人々やチクル(チューインガムの原料となる樹液)採集者たちは、森の中の遺跡について以前から知っていたが、ティカルが公式な記録に登場したのは1848年、グアテマラの官吏モデスト・メンデスとアンブロシオ・トゥットが率いる調査隊がこの地に到達したときのことだった。その後の数十年で、探検家たちは神殿を撮影し、彫刻の施された木製のまぐさ石をいくつかヨーロッパの博物館に持ち去った。
1956年から1969年にかけて、ペンシルベニア大学博物館は、ウィリアム・コウが現地で指揮を執り、アメリカ大陸でこれまでに行われた中でも最大級の考古学プロジェクトの一つをティカルで実施した。彼らは都市の中心部を地図化し、北のアクロポリスを発掘し、主要な神殿を修復した後、グアテマラに管理を引き継いだ。その後、グアテマラの考古学者たちは、ムンド・ペルディドの調査を含む、独自のプロジェクトを続けている。
2018年、航空機からのレーザー測量(LiDAR)を用いたチームが、ペテン地方の2,100平方キロメートル以上を対象とした調査結果を学術誌『サイエンス』に発表した。レーザーは森の樹冠を透かして地表を「見通し」、それまで地図化されていなかった何万もの構造物、そしてティカル周辺の参道、畑、防御施設を明らかにした。この結果は、低地地帯が、以前の研究者たちが考えていたよりも、はるかに人口密度が高く、集約的に耕作されていたことを示唆している。
ティカルは大衆文化の中にも足跡を残している。その神殿からの眺めは、1977年の映画『スター・ウォーズ』において反乱軍の基地として登場した。観光はグアテマラに収入をもたらす一方で、保存のあり方や、マヤの人々の共同体が自らの遺産からどのように恩恵を受けるべきかという問いも投げかけている。
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さまざまな見方
378年の出来事は征服か、それとも同盟か。碑文を読み解いた碑文学者デイヴィッド・スチュアートらは、シアフ・カアクの「到来」は、古い王朝を打ち倒し、テオティワカンと結びついた統治者を据えた軍事介入だったと論じている。一方で、テオティワカンの影響は378年以前からすでに存在していたこと、マヤの支配層が自分たち自身の威信のために外来の象徴を取り入れていたこと、そして証拠は政治的な同盟、婚姻関係、あるいは交易関係とも整合しうることを強調する研究者もいる。ティカルの支配層の骨格についての科学的な調査は、この論争のどちらの側からも用いられてきた。この問いは、今なお活発に議論され続けている。
562年にティカルを破ったのは誰か。カラコルで調査にあたった考古学者たちが支持してきた、カラコルの「祭壇21」についての初期の読み方は、この戦争を主にカラコルの勝利として提示していた。しかし、サイモン・マーティンらの碑文学者による後の読み方は、カアヌルの王「スカイ・ウィットネス」を主たる勝者とし、カラコルはその同盟者にすぎなかったとしている。この違いは重要である。これによって、この戦争が単なる地域的な争いから、二つの地域大国どうしの対決へと、その姿を変えるからである。
なぜ南部の都市は衰えたのか。気候学者たちは、湖の堆積物や洞窟の鍾乳石が記録する9世紀の深刻な干ばつを指摘しており、2018年のある研究は、降水量がおよそ40〜50パーセント減少したと推定している。多くの考古学者は干ばつを主要な要因として認めているが、それはすでに戦争や社会的不平等、環境への負荷によって弱まっていた社会を襲ったのだと強調し、また都市ごとに衰退の時期が異なっていたことも指摘する。これまでに80を超える説明が提唱されてきたが、今日の多くの研究者は、複数の原因が組み合わさっていたと考えている。
これは誰の歴史なのか。1848年に「よそ者」によって発見された「失われた都市」、あるいは「消え去った」文明という語り方は、この地域に残り続けたマヤの人々や、遺跡についての地元の知識を無視しているとして批判されてきた。グアテマラのマヤ系の団体は、ティカルのような遺跡が、儀式のためにどう使われ、どう解釈されるべきかについて、次第に発言権を主張するようになっている。ティカルを、単なる考古学上の記念物としてではなく、今も生きているマヤの遺産の一部として提示することは、今日、多くの研究者にとって重要な目標となっている。
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証拠と方法——森の中の都市を読む
ティカルの歴史は、注意深く組み合わせなければならない二種類の証拠に基づいている。碑文は名前、日付、出来事を伝えてくれるが、これらは王の命によって作られたものであり、物語は王の視点から語られている。勝利や捕虜については記録されても、敗北が記されることはめったにない。これに対して考古学は、住居、食物、埋葬、建築の段階を明らかにし、支配者だけでなく、普通の人々の暮らしをも示してくれる。たとえば562年以降の「空白期」は、年代を刻んだ記念碑がないことと、大規模な建設が止まっていることの両方から見て取ることができる。
1970年代から80年代にかけて、解読はこの分野を一変させた。それ以前、多くの研究者は、マヤの碑文が主に暦や天文学を扱っていると考えていた。この文字が話し言葉としてのマヤ語と、王家の歴史を記録していることが明らかになると、ティカルのような都市には、名前を持つ王たちや同盟、戦争からなる政治史が与えられることになった。サイモン・マーティンとニコライ・グルーベによるマヤ諸王朝の概観のような年代記は、こうした読み方をまとめたものだが、個々の記述の解釈は今なお変わり続けている。
人口を推定することは、とりわけ難しい。ティカルについての数字は、都市の境界をどう定めるか、同時にどれだけの住居が使われていたか、そして一戸あたり何人が暮らしていたかによって、およそ1万人から9万人までの幅がある。LiDARは、知られている構造物の数を大幅に増やしたが、それらの年代を確定するには、なお発掘調査が必要である。LiDARを用いた調査チームは、後期古典期の低地地帯には、およそ700万から1,100万人が暮らしていた可能性があると推定しているが、この数字は他の研究者たちによって今も検証され続けている。
最後に、建物の年代はしばしば、関連する碑文、土器の様式、そして放射性炭素年代測定に依存している。これが、史料によって神殿Iをはじめとする建造物の年代や高さが、いくらか異なって示される理由である。証拠が確かでない場合には、注意深い記述は、正確な数字ではなく、幅を持った範囲を示すべきである。
重要なポイント
- 神聖王権
- マヤの王たちは、神々や祖先との特別な結びつきを主張し、神殿やステラ、儀式はこの神聖な権威を表現するものだった。
- 紋章文字
- 王国の名を示す王の称号のこと。ティカルの王たちは「ムタルの聖なる君主」と名乗った。
- 都市国家どうしの対抗関係
- 古典期マヤの政治は、多くの王国からなるネットワークであり、その一部はティカルとカラクムルという二つの対抗勢力を中心にまとまっていた。
- 外国とのつながり
- テオティワカンとの結びつきは、その正確な性格がどうであれ、378年以降、ティカルの統治者たちに威信を与え、その美術と政治を変化させた。
- 水の管理
- 川を持たなかったティカルは、舗装された地表から雨水を集める貯水池に頼っていた。
- 消滅ではなく変容
- 南部の王都は9〜10世紀に衰えたが、マヤの人々とその文化は今日まで続いている。
- 森を透かして見る
- LiDARによる測量は、樹冠の下に隠されていたティカルの居住地、道路、畑の真の規模を明らかにした。
記録
- 紀元前1000年頃 — ティカル周辺に最初の農耕集落ができる(中期先古典期)。
- 紀元前400年頃 — 大規模な建設が始まる。その後の数世紀でムンド・ペルディドと北のアクロポリスが発展する。
- 378年 — 1月14日、シアフ・カアクが「到来」する。同じ日に王チャク・トク・イチャアク1世が死す。まもなくヤシュ・ヌーン・アイーン1世が王となる。
- 445年 — シアフ・チャン・カウィール2世がステラ31を奉納し、王朝の歴史とテオティワカンとのつながりを記す。
- 562年 — ティカルが大敗を喫する。王ワク・チャン・カウィールは捕らえられて殺された可能性がある。百年以上に及ぶ「空白期」が始まる。
- 648年頃 — ティカル王朝の一族が治めるドス・ピラスがカラクムルの影響下に入り、ティカルと戦う。
- 695年 — ハサウ・チャン・カウィール1世がカラクムルの王ユクノーム・イチャーク・カアクを打ち破る。ティカルの復興が始まる。
- 734年 — ハサウ・チャン・カウィール1世が没する。その後、彼の墓の上に神殿Iが建てられる。
- 869年 — ティカルで最後に年代が刻まれた記念碑。
- 950年頃 — 都市の中心部がほぼ放棄される。
- 1848年 — モデスト・メンデスとアンブロシオ・トゥットが率いる調査隊が遺跡を記録する。
- 1956年 — ペンシルベニア大学のティカル・プロジェクトが始まる(1969年まで)。
- 1979年 — ティカル国立公園がユネスコ世界遺産に登録される。
- 2018年 — 『サイエンス』誌に発表されたペテン地方のLiDAR調査が、ティカル周辺の居住地の規模を明らかにする。
用語集
- ステラ(石碑)
- 背の高い、彫刻を施した石の板で、しばしば王の姿と、日付や出来事を記した碑文が刻まれている。
- グリフ(文字)
- マヤ文字における記号のこと。単語を表すものもあれば、音節を表すものもある。
- 長期暦
- 決まった起点から日数を数えていくマヤの暦で、正確な日付を記すことができた。
- カトゥン
- 7,200日、およそ20年にあたるマヤの暦の周期。
- アクロポリス
- ここでは、何世代にもわたって神殿や宮殿が積み重ねられて築かれた、大きな基壇を指す。
- 屋根飾り(ルーフコム)
- マヤの神殿の頂上にある、背の高い装飾的な石の飾り。
- タルー・タブレロ
- 傾斜した壁の上に垂直な区画を重ねる、中央メキシコの建築様式で、テオティワカンと結びつけられる。
- サクベ(参道)
- マヤの都市の各部分を結ぶ、漆喰で舗装された、盛り上げられた道路。
- LiDAR(ライダー)
- 航空機からのレーザー測量で、植生を透かして地表を計測する技術。
- 古典期
- 紀元後およそ250年から900年までのマヤ史の時代で、王たちが自らの功績を記念建造物に記録した。
よくある質問
マヤの人々は消えてしまったのですか。
いいえ。南部の偉大な王都は放棄されましたが、今日でも数百万人のマヤの人々が中央アメリカに暮らし、マヤの言語を話しています。
ティカルの神殿はどれくらいの高さがあるのですか。
神殿IVは高さおよそ70メートル、神殿Iはおよそ47メートルです。いずれも高い基壇の上に建てられているため、森の上に高くそびえ立っています。
ティカルの王たちの名前はどうやってわかったのですか。
彼らは自分の名前や称号、日付を石の記念建造物に刻んでおり、研究者たちは今では、マヤの文字のほとんどを読むことができます。
378年、テオティワカンはティカルを征服したのですか。
碑文は、シアフ・カアクの到来と王の交代を記録しており、多くの研究者はこれをテオティワカンと結びついた介入と見ていますが、それが征服だったのか、同盟だったのか、あるいはその中間だったのかについては、今も議論が続いています。
なぜ人々はティカルを去ったのですか。
おそらく、干ばつ、戦争、土地と水への負荷、そして統治者への信頼の喪失といった、いくつもの問題が重なったためだと考えられます。科学者たちは、これらの要因がどのように組み合わさっていたのかを、今も研究し続けています。
ティカルには何人くらいの人が住んでいたのですか。
都市をどう定義するか、住居をどう数えるかによって、推定はおよそ1万人から9万人までの幅があります。
LiDARによってティカルについて何が変わったのですか。
この都市とその周辺地域に、これまで誰も歩いて地図化していなかったほど多くの住居、道路、畑、防御施設があったことが明らかになりました。
出典・参考文献
- Tikal. Wikipedia
- Tikal (Expedition Magazine). Penn Museum, University of Pennsylvania
- Tikal. World History Encyclopedia
- Siyaj K'ak'. Wikipedia
- Calakmul. Wikipedia
- Classic Maya collapse. Wikipedia
- Lasers reveal a vast, sophisticated Maya civilization under the Guatemalan jungle. Brown University, 2018
- Simon Martin and Nikolai Grube, Chronicle of the Maya Kings and Queens. Thames & Hudson, 2000 (2nd ed. 2008)
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
