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約1700年前、今のエチオピア北部にあたる高地に、アクスムという豊かで強い王国がありました。王たちは、遠くのローマやインド、アラビアの人々と象牙や金、香料を売り買いし、自分たちの硬貨も作りました。
大切な人が亡くなると、アクスムの人々は墓の上に「石碑」と呼ばれる大きな石の柱を立てました。アクスムのオベリスクは、その中でも特に大きなものです。一つの石から作られ、高さは約24メートル、重さはゾウ約30頭分あります。
この石柱は、石でできた高い建物のように彫られています。下には開かない作り物の扉があり、その上には作り物の窓や、木のはりの先を表す丸い飾りが、何階にもわたって並んでいます。空に向かってそびえる宮殿の模型のようです。
石工たちが、こんなに重い石をどうやって運んだのかは、はっきり分かっていません。町の外の丘から石を切り出し、大勢の人が縄を使って、丸太やそりに載せて引いたのでしょう。ゾウも手伝ったかもしれません。そして土の坂道やてこを使って、石を立てたと考えられています。
このオベリスクは、長い旅をしています。昔、倒れて割れました。1937年、エチオピアに攻め込んだイタリアの兵士たちは、それをいくつかに切って、戦利品としてローマへ持っていきました。エチオピアは長い間返すよう求め、2005年にようやく取り戻しました。2008年には、元の場所であるアクスムに再び立てられました。
ひと目でわかる
- 何か
- 一つの石から造られた墓の石碑。一般にはオベリスクと呼ばれ、考古学では「石碑2号」と呼ばれる
- 造られた時期
- おそらく西暦4世紀。一部の研究者は3世紀末の可能性も認めている。正確な年代は不明
- 場所
- エチオピア北部、ティグライ州アクスムの北の石碑群
- 大きさ
- 高さ約24メートル、重さ約160トン。硬い火山岩の一つの塊から造られた。岩石は通常、霞石閃長岩または響岩とされる
- 造った人々
- アクスム王国の石工たち。誰のために造られたかは不明だが、支配層の人物のためと考えられる
- 形
- 何階もある建物をまねており、下部には開かない扉、各面には作り物の窓と突き出たはりの先がある
- 近現代の歴史
- 1937年にファシスト政権下のイタリアがローマへ持ち去り、2005年にエチオピアへ返還。2008年にアクスムで再建された
- 位置づけ
- 1980年からユネスコ世界遺産に登録されているアクスムの遺跡の一部
やさしい
アクスムのオベリスクとは?
アクスムのオベリスクは、エチオピア北部の町アクスムに立つ、彫刻の施された高い石柱です。古代世界の大国の一つ、アクスム王国の人々が、おそらく西暦4世紀に造りました。高さは約24メートル、重さは約160トンで、一つの石の塊から彫り出されています。
「オベリスク」と呼ばれることが多いものの、考古学者は通常「石碑」を意味するステラという語を使います。エジプトのオベリスクは四角い柱で、上に向かって細くなり、先端は小さなピラミッド形です。アクスムの石柱はより平たく、建物をかたどった彫刻があり、頂部は丸みを帯びています。エジプトのオベリスクを模倣したものではなく、何世紀もかけて大型化し、装飾が複雑になった、この地域独自の墓標です。
アクスムには、大きさの異なる石碑が100基以上あります。加工されていない荒い石から、念入りな装飾が施された巨大なものまでさまざまです。学術文献で「石碑2号」と呼ばれるアクスムのオベリスクは、装飾のある巨大な石碑の中で2番目に大きいものです。現在の町の端にある、アクスムの支配層の墓地「北の石碑群」に立っています。
現在、オベリスクはエチオピアの国家的な象徴です。その歴史は、古代の紅海交易路から、1930年代のイタリアによるエチオピア侵攻、そして文化財が元の国へ返還された著名な事例にまで及びます。
やさしい
石碑を「読む」:石の高層建築
アクスムのオベリスクで最も目を引くのは、高い建物に見えるよう彫られていることです。下部には、浮き彫りの錠や戸をたたく金具を備えた、開かない扉があります。まるで墓や死者の家に入れるかのようです。その上では、石柱が横向きの帯によって、想像上の各階に分けられています。
各階には、実際のアクスムの建築に見られる特徴が表されています。作り物の窓が列をなし、階と階の間には横向きのはりが走っています。表面から突き出た小さな丸形や四角形の部分は、アクスムの建物の壁から出ていた木のはりの先をまねたもので、考古学者は「猿の頭」と呼んでいます。実際のアクスムの宮殿や教会も、このように石と木を重ねて建てられました。デブレ・ダモ修道院の教会など、後の時代のエチオピアの教会にも、この様式が見られます。
石碑の頂部は、半円形に丸くなっています。穴や痕跡から、かつてそこに金属製の板や枠が取り付けられていたことが分かります。研究者たちは、巨大な石碑の一部には金属製の円盤や紋章が付いていたと考えています。それが何を表していたかは不明です。キリスト教が広まる前のアクスムの硬貨や碑文には、王国の神々の象徴である三日月と円盤がよく使われていました。
石碑を下から上へ見ると、何階にも重なって空へ伸びる死者の家が見えてきます。正確な宗教的意味が何であれ、ここに葬られた支配者は、町中から見える石の宮殿にふさわしい人物だと示す、力強い記念碑でした。
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石碑群の巨石
アクスムのオベリスクは、北の石碑群にある、全面に装飾が施された3基の巨大な石碑の一つです。最大のものは「石碑1号」または「大石碑」と呼ばれ、長さは約33メートル、重さは500トン以上と推定されています。古代の人々が立てた一枚岩の中でも最大級になったはずですが、現在は割れて地面に横たわっています。多くの考古学者は、立てる作業中か、その直後に倒れて砕けたと考えています。
3番目の巨石である石碑3号は、高さ約21メートルで、「エザナ王の石碑」と呼ばれることがあります。この名前は近代に生まれた伝承によるもので、古代の碑文に基づくものではありません。石碑にはエザナ王と結びつける文字はありません。19世紀から20世紀初めにヨーロッパの旅行者や考古学者がアクスムについて記したとき、装飾のある巨大な石碑の中で立っていたのはこれだけでした。時とともに傾いています。
巨石の周囲には、彫刻のあるものも荒削りのものも含め、多くの小さな石碑と地下の墓があります。この場所は数世紀にわたり支配層の墓地として使われました。それぞれの石碑の大きさは、その下や近くに葬られた人の地位を反映しているようです。
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石を切り出し、運び、立てる
石碑は、アクスムの西の丘で採れる、きめの細かい硬い火山岩から切り出されました。考古学者は、町から数キロメートル離れた場所で古代の採石場跡を確認しています。そこには、加工途中で放棄された石碑も残っています。石工たちはおそらく、並べて開けた穴にくさびを打ち込んで岩を割り、鉄の道具や研磨材で形を整え、磨き上げました。
100トンを超える石を数キロメートル運ぶのは、大仕事でした。作業を記した文書が残っていないため、方法についての説明はすべて推定です。多くの研究者は、整えた道の上で木製のそりや丸太を使い、大勢の人が縄で石を引いたと考えています。アクスムの人々が捕らえて利用していたゾウも、手伝った可能性があります。細かな彫刻は、石が墓地に着いてから仕上げられたのかもしれません。
石碑を立てる工程は、最も危険でした。まず基部を用意した穴に滑り込ませ、木材で石を支えながら、てこ、縄、土の斜面を使って上部を少しずつ持ち上げたと考えられます。根元の周りには、大きな台石や固定用の石が置かれました。大石碑の崩壊は、この方法に限界があったことを示しています。石が大きいほど、自らの重さで割れる危険も高くなりました。
この事業には、何百人もの働き手を組織し、食料を与え、木材、鉄、縄を供給できる国家が必要でした。したがって石碑は、美術作品であると同時に、アクスムの支配者たちの経済力と政治力を示す証拠でもあります。
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アクスム王国:古代世界の交流の要地
アクスム王国は、西暦1世紀ごろ、現在のエチオピア北部とエリトリアにあたる高地で発展しました。1世紀半ばに書かれたギリシア語の商人向け案内書『エリュトゥラー海案内記』には、すでにアクスムと、その紅海沿岸の港アドゥリスが記されています。この港からは象牙などが輸出されていました。
その後の数世紀で、アクスムは地中海のローマ世界、アラビア、インドを結ぶ交易の大国となりました。象牙、金、香料、動物の皮などを輸出し、布、ガラス製品、金属製品、ワイン、油を輸入しました。3世紀末には、エンドゥビス王が金貨、銀貨、銅貨を発行し始めました。当時、自国の硬貨を発行できた国は少なく、これは王国の力を示しています。アクスムの硬貨は、遠く地中海東部やインド南部でも見つかっています。
3世紀のペルシアの宗教家マニは、ローマ、ペルシア、中国と並んで、アクスムを世界の四大王国の一つに挙げたと伝えられています。アクスムの王たちは、ゲエズ語(独自の文字で書かれるエチオピアの古典語)、サバ語(南アラビアの言語)、ギリシア語で碑文を残しました。これらは、アフリカと紅海の向こう側の双方に目を向けた社会を映しています。
6世紀、カレブ王の時代に最盛期を迎えたアクスムは、一時、イエメンの一部まで支配しました。ただし、巨大な石碑が造られたのはそれより前、キリスト教が宮廷の宗教となる以前の時代です。
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宗教と死:石碑は何のために造られたのか?
石碑はアクスムの支配層の墓を示していました。北の石碑群の地下や周囲で、考古学者は岩を掘った墓や石造りの墓を見つけています。複数の部屋を持つものもあります。倒れた大石碑の隣には「霊廟」と呼ばれる大きな石造りの墓があり、近くには「レンガのアーチの墓」もあります。墓の多くは古代に盗掘されましたが、土器、ガラス、金属製品などの出土品から、死者が価値ある品々とともに葬られたことが分かります。
キリスト教以前のアクスムの宗教については記録が少ないため、石碑に込められた正確な信仰は分かっていません。碑文や硬貨には、アスタル、ベヘル、王と結びついたマフレムなどの神々の名が見られ、円盤と三日月が象徴として使われています。多くの研究者は、何階もある建物の形が、墓を死者の家や宮殿とみなす考えを表し、石碑の高さが支配者とその一族の力や地位を示したと考えています。
石碑は生きている人々にも役割を果たしました。町の広い範囲から見える亡き支配者の記念碑は、王家の偉大さを人々に思い起こさせ、次の支配者が正統性を主張する助けになりました。支配者や一族の間で、より大きな石碑を立てようと競い合った可能性もあります。
石碑の近くでは、溝のある石の台など、供え物を置いたとみられる場所が見つかっています。これは埋葬後も墓で儀式が続けられたことを示唆します。
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キリスト教の受容と石碑の伝統の終わり
4世紀、エザナ王はキリスト教を受け入れました。その背景には、若いころ捕虜としてアクスムの宮廷に連れてこられ、後に初代司教となった、ローマ世界出身のキリスト教徒フルメンティウスの影響がありました。エザナの硬貨の図柄は、古い円盤と三日月から十字架へ変わりました。国家の硬貨に十字架が使われた最初期の例の一つです。3言語で刻まれた「エザナ石碑」を含む彼の碑文には、軍事遠征が記録され、後期のものではキリスト教の神がたたえられています。
この変化の後、巨大な石碑は立てられなくなりました。そのため多くの研究者は、アクスムのオベリスクを含む、装飾された巨大な石碑を、エザナの改宗の直前かその前後、つまり4世紀かそれより少し前のものと考えています。大石碑が倒れたという目立つ失敗が、この伝統の終わりに影響した可能性を指摘する歴史家もいますが、これは推測です。
キリスト教は、エチオピア高地に長く続く信仰となりました。世界で最も古いキリスト教会の一つであるエチオピア正教テワヘド教会は、アクスムを最も聖なる町とみなしています。エチオピア正教の信者は、アクスムのシオンの聖マリア教会に「契約の箱」が納められ、一人の修道士が守っていると信じています。この伝承はエチオピアの宗教的な自己認識の中心をなしています。
イスラム教の伝承によれば、7世紀、預言者ムハンマドの初期の信奉者たちはメッカでの迫害を逃れ、アクスムのキリスト教徒の王に保護されました。「第一次ヒジュラ」と呼ばれるこの出来事により、アクスムはイスラム教徒の記憶の中でも敬意を集めています。
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倒壊、略奪、そして返還
7世紀以降、紅海を通る交易路が変わり、エチオピア高地の政治の中心が南へ移るにつれて、アクスムは衰退しました。王国は8世紀初めごろに硬貨の発行をやめました。それでも町は聖地であり続け、エチオピア皇帝の戴冠式が行われることもありました。アクスムのオベリスクは、いつのことか分かりませんが倒れて数片に割れ、何世紀も地面に横たわっていました。
1935~36年、ファシスト政権下のイタリアは、独立を保っていた数少ないアフリカの国の一つ、エチオピアに侵攻しました。戦争ではイタリア軍が兵士や民間人に毒ガスを使用し、その後の占領下でも、1937年2月のアディスアベバでの殺害事件など、大規模な報復が行われました。1937年、ムッソリーニの命令で、倒れていた石碑がアクスムからイタリアへ運ばれ、ローマで再建されました。ファシスト党によるローマ進軍から15周年にあたる1937年10月28日に披露され、イタリア領アフリカ省の建物の前にあるポルタ・カペーナ広場に立てられました。
第二次世界大戦後の1947年の平和条約で、イタリアはエチオピアから持ち去った品々を返すことに同意しました。しかし、費用、技術上の危険、所有権をめぐる議論の中、オベリスクはその後も何十年もローマに残りました。エチオピアの人々にとって、オベリスクは占領による屈辱の象徴となり、政権が変わっても返還を求める運動が続きました。2002年5月には落雷で損傷しました。
2003~04年、オベリスクは再び3片に解体され、2005年4月に世界最大級の貨物機による複数回の飛行でエチオピアへ戻されました。元の場所の近くには壊れやすい墓が地下にあるため、再設置には慎重な調査が必要でした。ユネスコの監督の下、石碑は北の石碑群に再建され、2008年9月4日に公開されました。この返還は、戦争や植民地支配の下で持ち去られた文化財を元の場所へ戻すことをめぐる国際的な議論で、しばしば取り上げられます。
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研究上の議論:年代、造られた順序、意味
年代。巨大な石碑には碑文がないため、年代の推定は、関連する墓の考古学的調査、そこで見つかった品々と別の場所の年代が分かる資料との比較、そしてキリスト教の受容後には巨大な石碑が立てられなくなったという一般的な見方に基づいています。多くの専門家は石碑2号を西暦4世紀のものとしますが、3世紀末の可能性を認める人もいます。3基の巨石が造られた順序も議論されています。アクスムの石碑文化全体は、西暦紀元後の最初の千年間にわたる数世紀に及ぶと推定され、初期の簡素な墓標から後期の巨大な装飾石碑へと発展したと考えられています。
大石碑の倒壊。石碑1号は、霊廟の区域を横切るように割れて横たわっています。デイヴィッド・フィリップソンらの考古学者は、基礎が不十分だったため、立てる作業中かその直後に倒れたと論じ、最後に造られた巨大な石碑だった可能性を示しています。一方、後の時代に倒れた、あるいは意図的に倒された可能性を検討する研究者もいます。この問題は、石碑が造られた順序や、伝統の終わり方の理解に関わります。
名前と人物の特定。「エザナ王の石碑」のように石碑を特定の支配者と結びつける通称は、碑文によって裏付けられていません。後のゲエズ語文献や口承に記録された地域の伝承では、アクスムはシバの女王や、ソロモン王朝の伝説上の始祖メネリク王と結びつけられます。しかし、こうした伝承は石碑よりずっと後のもので、考古学上の証拠というより、エチオピアの宗教史や国民史に属します。
意匠の意味。彫刻された石碑が何階もある建物を模している点では研究者の意見は一致していますが、どれほど実際の建物を写したものかについては見解が分かれます。実在の宮殿の姿とみる人もいれば、死者のための象徴的な「家」、または地下の墓と上空とのつながりを表す方法とみる人もいます。失われた頂部の金属製の飾りが残っていれば、いくつかの疑問は解けたかもしれません。
「オベリスク」という言葉。「アクスムのオベリスク」という広く使われる名前には、アフリカの記念碑をエジプトの記念碑と比較してきたヨーロッパの慣習が反映されています。より正確であり、アクスム独自の伝統を示すためにも、多くの研究者は「石碑」または「石碑2号」という呼び方を好みます。
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証拠と調査方法:石碑について分かっていること
初期の調査。ヨーロッパの旅行者は16世紀以降、石碑について記しました。最初の体系的な研究は、東洋学者エンノ・リットマンが率いた1906年のドイツ・アクスム調査隊によって行われました。隊は記念碑、碑文、建築を記録しました。その図面や写真は、後に変化した部分を知るうえでも、今なお貴重です。
近代の発掘。1970年代には、ネヴィル・チティックの指揮の下、東アフリカ英国研究所が石碑群を発掘し、巨大な石碑と関連する墓を確認しました。エチオピアの政治的混乱で調査は中断されましたが、1990年代にデイヴィッド・フィリップソンの下で再開されました。彼は霊廟やレンガのアーチの墓などを発掘し、採石場も調べました。その後も、イタリアやドイツの考古学者を含む、エチオピアと国際的な調査隊が現地調査を続けています。
文字による証拠。アクスム自身のゲエズ語、サバ語、ギリシア語の碑文と硬貨から、一部の王の名前や順序が分かります。しかし、石碑に直接言及するものはありません。『エリュトゥラー海案内記』、ギリシア・ローマの著述家、コスマス・インディコプレウステスに帰せられる6世紀の記録など、外部の資料は、アクスムの交易や宮廷を伝えています。『ケブラ・ナガスト』など後のエチオピアの文献には、町の聖なる過去に関する伝承が記されています。
保存修復の科学。石碑2号の返還と再建には、石の割れ目、地盤、その下の墓に関する工学的な調査が必要でした。2008年の組み立てでは、石の各部分の間に現代の補強材が使われました。傾いた石碑3号の状態を監視し、壊れやすい墓を守ることは、今も課題です。この事例は、アクスムでは文化財の保存、考古学、政治が深く関わり合っていることを示しています。
重要なポイント
- 石碑
- 地面に立てる石の記念碑。アクスムのものは一つの石から造られた墓標で、非常に大きなものもある。
- 一枚岩の記念碑
- 一つの石から造られた記念碑。アクスムのオベリスクは、長さ約24メートルの一つの石から彫り出された。
- 石に表された建築
- 彫刻された石碑は、実際のアクスムの建築をもとに、開かない扉、窓、はりの先を備えた高層の建物を模している。
- 支配層の顕彰
- 各石碑の大きさや装飾は、死者の地位と、その一族や王家の力を反映していた。
- 紅海交易
- アクスムの富は、アフリカ、地中海地域、アラビア、インドを結ぶ交易から生まれ、記念碑の建設を支えた。
- キリスト教の受容
- 4世紀にエザナ王がキリスト教を受け入れた後、巨大な石碑は立てられなくなった。
- 文化財の返還
- 2005年にオベリスクがローマから返還されたことは、戦争で持ち去られた文化財の返還をめぐる議論の重要な事例となった。
記録
- 50年頃 — 『エリュトゥラー海案内記』に、アクスムと、その紅海沿岸の港アドゥリスが記される。
- 270年頃 — エンドゥビス王が、アクスム独自の金貨、銀貨、銅貨を発行し始める。
- 300年頃 — 石碑2号を含む、装飾された巨大な石碑が彫られ、立てられたと考えられる時期。西暦4世紀ごろとされるが、年代は確定していない。
- 340年頃 — エザナ王がキリスト教を受け入れる。硬貨に十字架が現れ、巨大な石碑は立てられなくなる。
- 520年頃 — カレブ王がイエメンに遠征し、アクスムの勢力が最大となる。
- 615年頃 — イスラム教の伝承によれば、メッカを離れた初期のイスラム教徒がアクスムの王に保護される。
- 1906年 — ドイツ・アクスム調査隊が、石碑群を初めて体系的に調査する。
- 1937年 — 占領中のイタリア軍が倒れていた石碑をローマへ運び、10月28日に公開する。
- 1947年 — イタリアが平和条約で、エチオピアから持ち去った品々の返還に同意する。
- 1980年 — アクスムの遺跡がユネスコ世界遺産に登録される。
- 2005年 — 4月、3片に分けられたオベリスクが航空機でエチオピアへ返還される。
- 2008年 — 石碑がアクスムに再建され、9月4日に公開される。
用語集
- 石碑(ステラ)
- 記念碑として立てられた石の板や柱。墓標として使われることが多い。
- オベリスク
- 本来は、先端が小さなピラミッド形になったエジプトの四角い石柱。ほかの高い石の記念碑にも広く使われる呼び名。
- 一枚岩の記念碑
- 一つの石の塊から彫り出された記念碑。
- 偽扉
- 開かないように彫られた扉。墓や死者の世界への入り口を象徴する。
- 「猿の頭」
- アクスムの建物の壁から突き出た木のはりの先を指す、考古学者の通称。石碑にも石で再現されている。
- ゲエズ語
- エチオピアの古典語とその文字。現在もエチオピア正教会の典礼で使われる。
- アドゥリス
- 現在のエリトリアにあった、アクスムの紅海沿岸の主要な港。
- エリュトゥラー海案内記
- 1世紀にギリシア語で書かれた商人向けの案内書。エジプトからインドまでの港と交易を記している。
- 霊廟
- 大きな墓の建物。アクスムでは、大石碑のそばにある石造りの墓の名前。
- 文化財の返還
- 持ち去られた文化財を、元の国や共同体へ戻すこと。
よくある質問
アクスムのオベリスクは、本当にオベリスクなのですか?
エジプトのオベリスクとは異なります。建物のように彫られ、頂部が丸い、アクスムの石碑です。「オベリスク」は広く知られた呼び名です。
機械を使わずに、どうやってこんなに重い石を持ち上げたのですか?
記録は残っていませんが、大勢の人が縄を使い、そりや丸太に載せて石を引き、てこ、木の支え、土の斜面を使って立てたと考えられています。
その下には誰が埋葬されていますか?
分かっていません。支配層の墓地の一部を示していますが、誰のための石碑かを記した碑文はありません。
なぜローマにあったのですか?
イタリアによるエチオピア占領中の1937年、倒れていた石碑がファシスト政権の戦利品としてローマへ運ばれたためです。2005年に返還されました。
なぜ石碑はキリスト教が広まる前のものと考えられるのですか?
4世紀にエザナ王がキリスト教を受け入れた後、巨大な石碑は立てられなくなりました。また、関連する墓からはキリスト教以前の品々が見つかっています。
大石碑は一度でも立っていたのですか?
立っていなかった可能性もあります。多くの考古学者は、長さ33メートルの大石碑が、立てる作業中かその直後に割れたと考えていますが、議論が続いています。
建物をかたどった形には、どんな意味があるのですか?
何階もあるアクスムの建物を模している点では、研究者の意見は一致しています。死者のための家や宮殿であり、一族の力も示したと考える人が多いものの、正確な信仰は分かっていません。
出典・参考文献
- Obelisk of Axum. Wikipedia
- Axum. Wikipedia
- Kingdom of Aksum. Wikipedia
- Ezana Stone. Wikipedia
- Aksum. UNESCO World Heritage Centre
- Stuart Munro-Hay, Aksum: An African Civilisation of Late Antiquity. Edinburgh University Press, 1991
- David W. Phillipson, Ancient Ethiopia: Aksum, Its Antecedents and Successors. British Museum Press, 1998
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
