文化遺産

アヤソフィア

Ἁγία Σοφία (Ayasofya)

532–537年 · コンスタンティノープル

ひとことで

アヤソフィアはイスタンブールにある巨大なドームを持つ建物で、皇帝ユスティニアヌスのためのキリスト教会としてわずか5年(532~537年)で建てられた。その後、モスク、博物館を経て、現在は再びモスクとなっている。

アヤソフィア
画像: Arild Vågen · CC BY-SA 3.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

トルコの都市イスタンブールにあるアヤソフィアに入ると、頭の上には高い丸屋根が広がります。中には15階建ての建物が入るほどの大きな空間があります。昔コンスタンティノープルと呼ばれたこの町で、人々は約1500年もの間、その大きさにおどろいてきました。

「アヤソフィア」はギリシャ語で「聖なる知恵」という意味です。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝ユスティニアヌスが、教会として建てさせました。暴動で古い教会が焼けてしまったため、皇帝は新しい立派な教会を造るよう命じました。何千人もの人が働き、約5年で完成させました。

いちばん有名なのは、ドームという大きな丸屋根です。四角い部屋の上で、四つの曲がった部分に支えられています。ドームの下には40の窓があり、日光が入ると屋根が光の輪の上に浮かんでいるように見えます。

中の壁には、色とりどりの大理石と、小さなガラスや金色のかけらを並べて作ったモザイク画があります。イエスや母マリア、天使、皇帝を表したものもあります。

1453年にオスマン帝国が町を征服すると、アヤソフィアはイスラム教徒が祈るモスクになりました。外にはミナレットという高い塔が加えられました。1935年には博物館になり、2020年からは再びモスクになっています。今も礼拝の時間以外は、だれでも中を見学できます。

ひと目でわかる

建設
西暦532~537年(537年12月27日に献堂)。崩落後にドームを再建し、562年12月24日に再献堂
場所
コンスタンティノープル(現在のトルコ、イスタンブール)。旧大宮殿に近い歴史地区の半島
建設を命じた人物
皇帝ユスティニアヌス1世(在位527~565年)
設計者
トラレスのアンテミオスとミレトスのイシドロス。再建されたドームは小イシドロスが設計
規模
主要部分は約82×73メートル。中央ドームは直径約31~33メートル、床からの高さ55.6メートルで、周囲に40の窓がある
用途の変遷
大聖堂(537~1453年。1204~1261年はラテン・カトリックの大聖堂)、モスク(1453~1934年)、博物館(1935~2020年)、2020年から再びモスク
登録状況
1985年に登録されたユネスコ世界遺産「イスタンブール歴史地域」の一部
重要性
古代末期の建築の到達点であり、ビザンツ建築を代表する記念建造物。後の教会やオスマン帝国の皇帝モスクの手本となった

やさしい

アヤソフィアとは何か

アヤソフィア(ギリシャ語でἉγία Σοφία、「聖なる知恵」。トルコ語ではAyasofya)は、イスタンブールの歴史地区の半島の先端、金角湾とマルマラ海の間に建つ。900年以上にわたり、東ローマ(ビザンツ)帝国の首都コンスタンティノープルの大聖堂であり、東方正教会で高い地位にあるコンスタンティノープル総主教の教会だった。その名はソフィアという聖人を指すのではない。神の知恵としてのキリストにささげられた教会である。

現在見られる建物は、この場所に建てられた3代目の教会である。激しい反乱で前の教会が焼失した後、皇帝ユスティニアヌス1世の命により532~537年に建てられた。何世紀にもわたり世界最大の屋内空間を持ち、ペンデンティブと呼ばれる四つの曲面三角形の構造に支えられた中央ドームは、大胆な工学上の試みだった。

アヤソフィアは四つの時代を経験した。537~1453年はキリスト教の大聖堂(第4回十字軍以後にはラテン・カトリックの時期もあった)、1453年から1930年代まではオスマン帝国の皇帝モスク、1935~2020年はトルコ共和国の博物館、そして2020年7月からは再び礼拝が行われるモスクである。各時代の痕跡が建物に残り、現在はビザンツ時代のモザイクとオスマン時代のカリグラフィーが同じ壁を飾っている。

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やさしい

建物の見方――下には四角形、上には天

外から見るアヤソフィアは、ドームと控え壁が重なる山のようで、四隅にはオスマン時代の細長いミナレットが立つ。その大きな構造の多くは、建物を支えるために長い年月の間に加えられた。当初の構想は内部から見ると分かりやすい。

見学者は西側から、外ナルテクスと内ナルテクスという二つの細長い玄関廊を通って入る。中央の「皇帝の門」は、かつて皇帝のための入口だった。その先に、広い中央空間である身廊が開ける。中心には一辺約31メートルの正方形があり、四つの巨大な柱がその角を示す。柱の間にはアーチが架かり、アーチの間にある四つのペンデンティブが上方と内側へ曲がって、ドームを載せる円形の土台を作る。東西には二つの半ドームが空間を広げ、そこからさらに小さな半ドーム状の壁龕が広がる。視線は曲線を次々とたどり、主ドームへと上がっていく。

ドームの付け根には40の窓が環状に並ぶ。そこや壁の多くの窓から差し込む光によって、重い構造が目立たなくなり、ドームが浮いているように見える。新しい教会を見た歴史家プロコピオスは、ドームが頑丈な石積みの上に載るのではなく、金の鎖で天からつり下げられているようだと書いた。

身廊の三方は側廊に囲まれ、その上には馬蹄形に広がる回廊がある。ビザンツ時代には皇后と宮廷の人々などが回廊を使った。西側回廊の緑色の石の円盤は、皇后の席があったと考えられる場所を示す。東端の曲がった聖域は後陣で、かつて祭壇が置かれた。オスマン時代には、礼拝のためにメッカの方角を示すくぼみであるミフラーブがそこに設けられた。メッカは南東にあるため、教会の中心軸から少しずれた位置にある。

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やさしい

建設の理由――火災、暴動、皇帝の野心

この場所に最初に建てられた「大教会」は、皇帝コンスタンティウス2世の時代の360年に献堂された。司教ヨハネス・クリュソストモスの追放をめぐる404年の暴動で焼失した。皇帝テオドシウス2世の下で建てられた2代目の教会は、415年に献堂された。柱の並ぶその入口の遺構は、現在の建物の前に今も見られる。

532年1月、コンスタンティノープルの戦車競走で対立していた青組と緑組の支持者が、ユスティニアヌスに反対して結びついた。彼らの叫び声「ニカ!(勝て!)」から、この争乱はニカの乱と呼ばれる。2代目のアヤソフィアを含め、都心の広い範囲が焼けた。反乱は競馬場で多くの犠牲者を出して鎮圧され、古代の史料は数万人が殺されたと伝える。

わずか数週間後、ユスティニアヌスは前例のない規模で再建を始めた。新しい大聖堂は、皇帝が秩序を回復し、その統治が神に祝福されていることを示すものだった。暴動から6年もたたない537年12月27日に献堂された。後世の伝説によれば、完成した教会に入った皇帝は、エルサレムの神殿と比べて「ソロモンよ、私はお前を超えた!」と叫んだという。しかし、この話はずっと後の文献に現れるため、史実とはみなされていない。

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中級

ドームの建設――設計者、材料、崩落

ユスティニアヌスは、現代でいう建設業者というより幾何学と力学の専門家で、史料では「メカニコイ」と呼ばれる二人に事業を任せた。光学と集光鏡について著述した数学者トラレスのアンテミオスと、アルキメデスの著作を編纂した幾何学者ミレトスのイシドロスである。二人の設計は、伝統的な教会平面であるバシリカ式の長い軸と、ドーム建築の中心を強調する形を組み合わせた。

壁とヴォールトは主に、厚いモルタルの層を挟んで積んだれんがで造られ、柱には石が使われた。大理石は地中海各地から運ばれた。白い大理石はマルマラ海のプロコンネソス島から、緑色の石はテッサリアから、赤紫色の斑岩はエジプトから来た。古い伝説は、柱が異教の神殿から奪われたものだと主張した。現在の研究者は、斑岩は再利用された可能性があるものの、大理石の大半は新たに切り出されたと考えている。鉄製のかすがいやつなぎ材も石積みを支えた。

急いで建てたことには代償があった。次の層を積む前にモルタルが固まる時間が十分に取られず、最初の浅いドームの重さで柱と壁が外側へ押された。553年と557年の地震を経て、558年にドームの一部が崩落した。ミレトスのイシドロスの甥にあたる小イシドロスは、外向きの力を減らすため、傾斜を急にして40本のリブを設け、約6メートル高い位置にドームを再建した。教会は562年12月24日に再献堂され、詩人の宮廷官パウロスはその機会に建物を詳しく描写する長い詩を作った。

その後も地震により、989年と1346年に部分的な崩落が起きた。989年の後にはアルメニア人建築家トルダトが西側のアーチとドームの一部を再建し、1346年の後には1350年代に修復が行われた。こうした修復のため、現在のドームはわずかに楕円形で、6世紀の構造は一部しか残っていない。ビザンツ皇帝たちに加え、16世紀にはオスマン帝国の建築家ミマール・スィナンも控え壁を増設した。その補強は、後の地震から建物を守る助けになったと評価されている。

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中級

ビザンツの大教会――礼拝、権力、モザイク

ビザンツ人にとって、アヤソフィアは単に「大教会」(メガレ・エクレシア)だった。首都の荘厳な典礼、皇帝の戴冠式、重要な教会会議や儀式の舞台となった。皇帝と総主教はここで会い、教会と国家の理想的な調和を儀式で示した。1054年、教皇の使節がコンスタンティノープル総主教ミカエル・ケルラリオスに対する破門状をアヤソフィアの祭壇に置いた。この出来事は、カトリック教会と正教会の分裂を象徴する始まりとされることが多い。

『原初年代記』には、980年代にキーウ公ウラジーミルの使節がここで礼拝に参列し、自分たちが天にいるのか地上にいるのか分からなかったと報告した話がある。年代記によれば、これがウラジーミルにコンスタンティノープルからキリスト教を受け入れる決心をさせる一因となった。この話を文字どおりの史実とみなせるかは別として、建物が礼拝者に与えようとした感覚を表している。

ユスティニアヌスの教会は当初、人物像よりも大理石の壁板、金色のモザイク、十字架を中心に飾られた。宗教画像が禁じられた聖像破壊運動の時期(726~787年と814~842年)には、人物を表す宗教美術が退けられた。843年に聖像が復活すると、その後の数世紀に人物モザイクが加えられた。よく知られる作品には、後陣の聖母子像がある。総主教フォティオスが867年に説教でその像を紹介したが、現存する像の制作年代には議論がある。また、南西入口の上には皇帝コンスタンティヌスとユスティニアヌスが都市と教会を聖母にささげる図、南側回廊には皇帝と皇后の肖像、そして聖母と洗礼者ヨハネの間にキリストを描いた感動的な「デイシス」がある。デイシスはおそらく1261年の直後に作られた。

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中級

十字軍、衰退、オスマン帝国の征服

1204年、コンスタンティノープルに矛先を向けた第4回十字軍の軍隊が都市を略奪した。アヤソフィアも略奪され、多くの宝物や聖遺物がヴェネツィアなど西方の都市へ運ばれた。その後57年間、十字軍の支配下でラテン・カトリックの大聖堂となった。攻撃を率いたヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロは教会に埋葬され、東側回廊には19世紀に置かれた標識が、その推定場所を今も示している。

ビザンツ人は1261年に首都を取り戻したが、復興した帝国は貧しく、領土も縮小していた。14世紀の地震による損傷は、苦労して修復された。15世紀初めには、訪問者たちが教会を荒廃した状態だと記している。

1453年5月29日、オスマン帝国のスルタン、メフメト2世がコンスタンティノープルを征服した。都市は3日間略奪され、アヤソフィアに逃げ込んだ人々は捕らえられたり殺されたりした。その後メフメトは教会をモスクに改めるよう命じ、まもなくそこで金曜礼拝が行われた。正教徒にとって、都市の陥落と大教会の喪失は、長く続く悲劇の象徴となった。オスマン帝国の人々や後のトルコ人にとっては、この征服は国家の礎となる勝利であり、コンスタンティノープルの征服者をたたえるとされるハディースの実現として記憶された。

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中級

アヤソフィア――オスマン帝国の皇帝モスク

モスクとなったアヤソフィアは、イスタンブール最初の皇帝モスクとして、ワクフという慈善基金から豊かな財産を与えられた。オスマン帝国はミフラーブと説教壇であるミンバルを加え、時代を追って四つのミナレットを建てた。最初の塔は征服直後に、西側の二つの大きな塔は16世紀後半にスィナンによって建てられた。人物を描いたモザイクは徐々に漆喰や絵の具で覆われたが、旅行者の記録によれば、長い間見えていたものもあった。建物の周囲にはスルタンたちの墓廟、学校、礼拝前に体を清めるための泉などが造られた。

アヤソフィアはオスマン建築に大きな影響を与えた。スィナンは補強工事をしながらその構造を研究し、イスタンブールのスレイマニエ・モスクやエディルネのセリミエ・モスクなど、自身のモスクでそのドームに並び、超えることを目指した。17世紀初めに正面の向かい側で完成したスルタンアフメト・モスク(「ブルーモスク」)も、中央ドームと半ドームを組み合わせる形式を発展させている。

1847~1849年、スルタンのアブデュルメジト1世は、スイス系イタリア人建築家ガスパーレとジュゼッペのフォッサーティ兄弟に修復を依頼した。兄弟は鉄の鎖でドームを補強し、柱をまっすぐにし、発見したモザイクを記録してから再び覆った。書家カザスケル・ムスタファ・イッゼト・エフェンディが神、預言者ムハンマド、最初の4人のカリフ、預言者の孫ハサンとフサインの名を記した8枚の巨大な円形木製板も、身廊に掛けられた。現在もそこに残っている。

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中級

博物館から再びモスクへ――現代のアヤソフィア

トルコ共和国の成立後、建物は修復のため1931年に閉鎖された。同年から、トマス・ウィットモア率いるアメリカ・ビザンツ研究所がモザイクの発見と保存を始めた。1934年の閣僚会議の決定でアヤソフィアは博物館となり、1935年に開館した。ムスタファ・ケマル・アタテュルクの下にある世俗主義の共和国にとって、博物館は建物を一つの信仰だけの所有物ではなく、人類共通の遺産として示すものだった。トルコで最も多くの人が訪れる記念建造物となり、1985年にはユネスコ世界遺産「イスタンブール歴史地域」に含まれた。

その後の数十年で、モスクとして再開するよう求める声が強まった。2020年7月10日、トルコの最高行政裁判所である国務院は、建物はメフメト2世が設立した基金に属し、モスク以外の目的には使えないと判断して、1934年の決定を無効とした。レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は建物を宗教庁の管理に移し、同年7月24日に金曜礼拝が行われた。

トルコなどの多くのイスラム教徒は、この変更をモスクの復活として祝った。一方、ギリシャ政府、正教会や他の教会の指導者、ユネスコ、一部のトルコ人の著述家や政治家は、世界共通の記念建造物が国家や政治の目的に使われているとして批判した。現在の正式名称はアヤソフィア大モスクである。礼拝時間外は見学者に開かれている。礼拝中には、後陣のモザイクなど礼拝場所に面したキリスト教の画像は、カーテンで覆われるか、照明によって見えなくされる。入場、保存、ビザンツ時代の装飾の保護については、国際的な議論が続いている。

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中級

影響と遺産

アヤソフィアは、三つの伝統における宗教建築の基準となった。正教会世界では、キーウやノヴゴロドなどに「聖なる知恵」を名に持つ大聖堂が建ち、ドームを持つ教会は、通常ははるかに小規模ながら、ビザンツやスラヴの教会建築の典型となった。イスラム世界では、15~17世紀の古典的なオスマン・モスクの形に影響を与えた。西洋では、19~20世紀の建築家たちがそのドームや半ドームを意識的に取り入れたネオ・ビザンティン様式の教会を建てた。

ローマのパンテオンのドームのほうが幅は広いが、頑丈な円形の壁の上に載っている。アヤソフィアの達成は、四方に開かれた正方形の空間の上方に直径30メートルを超えるドームを架けたことであり、何世紀もの間、世界最大の屋内空間を包んでいた。技術者たちは、大規模な石造建築物が地震にどう反応するかを調べる場として研究してきた。

また、アヤソフィアは見る人によって意味の変わる象徴でもある。正教徒には失われたビザンツの中心、多くのトルコ人には1453年の征服の記念物、世俗主義のトルコ人や多くの海外からの訪問者には共存を表す博物館である。この建物を理解するには、こうしたすべての物語を合わせて知る必要がある。

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上級

研究上の論争と未解決の問題

最初のドーム。537年に完成したユスティニアヌス時代のドームは現存せず、その形はプロコピオスの記述、558年の崩落に関するヨハネス・マララスとテオファネスの年代記、そして残存する柱、アーチ、ペンデンティブの分析から復元しなければならない。復元案の多くは、おそらくペンデンティブと連続する、より浅いドームを想定している。しかし正確な輪郭や窓の役割、崩落に対して急速な建設、地震被害、柱の変形がそれぞれどれほど重要だったかについては、ローランド・メインストーンやマークとチャクマクの編著の執筆者らを含む構造技術者と歴史家の間で議論が続いている。

設計と寸法。設計は、数学の訓練を受けた設計者による幾何学の応用として分析されてきた。中央の正方形の一辺は約31メートルで、長くビザンツ尺の100尺に等しいと考えられてきた。これに対し建築史家ヘルゲ・スヴェンションは、√2に近い比を示す古代の辺と対角線の数列(70対99)に関連する99尺を提案した。このような説は興味深いが、何度も変形と修復を受けた建物では証明が難しい。

モザイクの年代。後陣の聖母子像の制作時期には異論がある。フォティオスが867年に描写した像と同一視する研究者がいる一方、フォティオスは立つ聖母について述べているのに、現存するモザイクでは座っていると指摘する研究者もいる。現存する像を聖像破壊運動以前、989年の地震以後、あるいは1346年の崩落後の14世紀末に位置づける説もある。デイシスは様式から通常1261年以後とされるが、これも銘文ではなく比較に基づく判断である。

遺産と意味。2020年以降、議論のある歴史を持つ現役の宗教施設に世界遺産の原則をどう適用するかが、研究者の間で論じられている。「顕著な普遍的価値」を守るには博物館である必要があるのか、国家や宗教共同体の権利と国際的な関心をどう調整するか、モスク内のキリスト教美術をどう展示するか、といった問題である。これらは美術史だけでなく、法律、倫理、政治の問題でもある。

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上級

史料と研究方法

文献史料。最も重要な同時代の文献は、ユスティニアヌスを称賛するために書かれた、カイサレイアのプロコピオスの『建築について』(De aedificiis)である。第1巻はアヤソフィアから始まる。目撃者による記述である一方、皇帝をたたえる文章でもあるため、神の霊感や皇帝自身の役割に関する主張は批判的に読む必要がある。宮廷官パウロスが562年の再献堂のために作った建物描写の詩は、調度、照明、典礼の配置を詳しく伝える。ヨハネス・マララスやテオファネスなどの年代記作者は崩落を記録した。9世紀のアヤソフィア建設をめぐる『物語』(Narratio)には、「ソロモンよ」という言葉を含む伝説が多い。6世紀の事実よりも、後世のビザンツ人の考え方を知る資料として重視される。

画像と記録文書。西洋の旅行者による絵、現在スイスのティチーノ州に保管されるフォッサーティ兄弟の修復記録、1930年代のアメリカ・ビザンツ研究所による写真と報告書は、どのモザイクが存在したか、また、たとえば1894年のイスタンブール地震でどの程度が修復されたり失われたりしたかを知るために欠かせない。

建物そのもの。れんがの刻印、モルタルの分析、建材の継ぎ目や変形から、建設と修復の各段階が分かる。近年、技術者たちは実測、レーザースキャン、地中レーダー、重力測定、地震時の挙動を再現するコンピューターモデルを用いて構造を研究している。建物周辺の発掘では、5世紀の教会とその周囲の遺構が見つかった。2020年代半ばには、地震に備えてドームを補強する大規模な保存事業が進められていた。

研究方法から得られる教訓。アヤソフィアは単一の6世紀の建造物ではなく、ビザンツ、ラテン、オスマン、共和国の各時代に加えられた変更が重なった建物である。研究者はそれぞれの層を区別すると同時に、どの層も建物の歴史の一部だと認識しなければならない。

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重要なポイント

ペンデンティブ・ドーム
四角い平面を円形の土台へつなぐ、四つの曲面三角形に支えられたドーム。アヤソフィアは初期の最大級の例の一つである。
聖なる知恵
教会はソフィアという聖人ではなく、神の知恵(ソフィア)または神の言葉としてのキリストにささげられた。
光の建築
窓、金色のモザイク、磨かれた大理石によって、巨大な構造を軽やかで天上のもののように見せる工夫。
皇帝の教会
大教会は、皇帝と総主教が教会と国家の協力関係を示す舞台だった。
重なり合う遺産
ビザンツ、ラテン、オスマン、現代トルコの各時代が建物を変え、そのどの層も建物の意味を形作っている。
建築の手本
中央ドームと半ドームは、正教会の教会、オスマン帝国の皇帝モスク、後のネオ・ビザンティン様式の建物に影響を与えた。
意見の分かれる象徴
この建物は、正教徒、イスラム教徒、世俗主義のトルコ人、世界の人々にとって、それぞれ異なる、ときには対立する意味を持つ。

記録

  1. 360年 — この場所で最初の大教会が、皇帝コンスタンティウス2世の時代に献堂される。
  2. 415年 — 404年の火災後、テオドシウス2世の下で建てられた2代目の教会が献堂される。
  3. 532年 — ニカの乱で2代目の教会が破壊され、数週間後にユスティニアヌスが現在の建物の建設を始める。
  4. 537年 — 12月27日、アヤソフィアが献堂される。
  5. 558年 — 地震の後、最初のドームの一部が崩落する。
  6. 562年 — 小イシドロスがより高く再建したドームを持つ教会が、12月24日に再献堂される。
  7. 1054年 — 教皇の使節が祭壇に破門状を置く。東西教会分裂の象徴的な始まりとされる。
  8. 1204年 — 十字軍がコンスタンティノープルを略奪し、教会は1261年までラテン・カトリックの大聖堂となる。
  9. 1453年 — 5月29日にメフメト2世がコンスタンティノープルを征服し、アヤソフィアをモスクに変える。
  10. 1847年 — フォッサーティ兄弟がスルタン、アブデュルメジト1世のために大規模修復を始める(1849年まで)。
  11. 1935年 — アヤソフィアがトルコ共和国の博物館として開館する。
  12. 2020年 — 国務院が博物館化の決定を無効とし、7月24日に建物がモスクとして再開する。

用語集

ビザンツ帝国
東ローマ帝国の現代の呼び名。1453年までコンスタンティノープルを中心に統治した。
ペンデンティブ
四角い土台と丸いドームをつなぐ、曲面の三角形をした構造部分。
身廊
教会の中央にある主な空間。
ナルテクス
教会の正面に沿って設けられた玄関廊。
後陣
通常は教会の東端にあり、祭壇が置かれる半円形のくぼみ。
モザイク
色石、ガラス、金箔ガラスなどの小片を多数並べて作る絵。
聖像破壊運動
宗教画像を拒み、または破壊する動き。ビザンツ帝国では726~787年と814~842年に公式政策となった。
ミフラーブ
礼拝のため、メッカの方角を示すモスクの壁のくぼみ。
ミナレット
モスクのそばに立ち、礼拝への呼びかけに使われる高い塔。
ワクフ
イスラム法で、宗教や公共の目的に財産をささげる慈善基金。
エクフラシス
美術作品や建物を、しばしば詩で描写する文学表現。

よくある質問

「アヤソフィア」とはどんな意味ですか?

ギリシャ語で「聖なる知恵」という意味です。教会は神の知恵としてのキリストにささげられました。

これほど大きなドームを、どうして短期間で造れたのですか?

ユスティニアヌスが莫大な資源と何千人もの労働者を集めました。ドームは四つの巨大な柱の上にあるペンデンティブで支えられ、比較的軽いれんがとモルタルで造られています。ただし建設を急いだことも問題を生み、最初のドームは558年に一部が崩落して、より高く造り直されました。

アヤソフィアは教会ですか、それともモスクですか?

両方だった時期があります。537~1453年は教会、1453年から1930年代まではモスク、1935~2020年は博物館で、2020年から再びモスクです。

見学者は今もキリスト教のモザイクを見られますか?

礼拝時間外には、多くのモザイクを見ることができます。礼拝中は、後陣の聖母子像など礼拝場所に面した画像が覆われるか、照明によって見えなくされます。

アヤソフィアを設計したのは誰ですか?

数学と力学を研究したトラレスのアンテミオスとミレトスのイシドロスです。558年の崩落後は、小イシドロスが新しいドームを設計しました。

ビザンツ時代の建物に、なぜミナレットがあるのですか?

1453年に教会がモスクになった後、オスマン帝国によって加えられました。現在の四つのミナレットは15~16世紀に造られたものです。

プロコピオスの記述はどの程度信頼できますか?

プロコピオスは建物を実際に見て、生き生きと描写しました。ただし『建築について』はユスティニアヌスを称賛する作品なので、歴史家は建物の構造やほかの史料と照らし合わせて読みます。

2020年にモスクへ戻されたことが、なぜ論争になったのですか?

支持者は、メフメト2世が設けたモスクの復活だと考えました。一方、ユネスコや多くの教会を含む批判者は、世界で共有する遺産が国際的な協議なしに変更され、政治的な意味を帯びたと主張しました。

出典・参考文献

  1. Historic Areas of Istanbul. UNESCO World Heritage Centre
  2. Hagia Sophia. Wikipedia
  3. 하기아 소피아. 위키백과
  4. Nika riots. Wikipedia
  5. Anthemius of Tralles. Wikipedia
  6. Procopius. Wikipedia
  7. Mimar Sinan. Wikipedia
  8. Thomas Cohen, Hagia Sophia. World History Encyclopedia, 2015
  9. Rowland J. Mainstone, Hagia Sophia: Architecture, Structure and Liturgy of Justinian’s Great Church. Thames and Hudson, 1988
  10. Robert Mark and Ahmet Ş. Çakmak (eds.), Hagia Sophia from the Age of Justinian to the Present. Cambridge University Press, 1992

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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