文化遺産

ローマのパンテオン

Pantheum (Latin); Πάνθειον (Greek); today the Basilica of Santa Maria ad Martyres

113–125年頃 · ローマ

ひとことで

パンテオンは約1900年前に建てられたローマの神殿で、頂上に空へ開いた穴がある巨大な円形のコンクリート屋根は、同じ種類のドームとして今も世界最大です。

ローマのパンテオン
画像: NikonZ7II · CC BY-SA 4.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

高さが14階建ての建物ほどある大きなボールを想像してみてください。そのボールが床と天井のてっぺんにちょうど触れる部屋を作ったら、それがローマのパンテオンです。丸い部屋は幅と高さが同じで、屋根はドームという大きな半球の形をしています。

ドームのいちばん上には、小さな家の幅ほどもある丸い穴があります。ガラスはありません。そこから太陽の光が差しこみ、明るい丸い光が時計の針のように、昼のあいだ壁や床をゆっくり動きます。雨の日には雨が中に降りこみ、床の小さな穴から水が流れていきます。

古代ローマ人は、コンクリートでドームを作りました。コンクリートは、はじめは泥のようにやわらかく、あとで固くなる人工の石です。作り方には工夫があります。下のほうには重い石を、上のほうには軽くて小さな穴がたくさんある火山の石を混ぜ、屋根が重くなりすぎないようにしました。鉄の棒は使われていませんが、ドームは約1900年間立ち続けています。

「パンテオン」という言葉はギリシャ語から来ていて、「すべての神々のためのもの」に近い意味です。のちに建物はキリスト教の教会になりました。人々が使い続け、手入れをしてきたことが、よく残っている理由の一つです。今も教会であり、画家ラファエロやイタリアの2人の国王など、有名な人たちの墓もあります。

丸い部屋の前には、16本の大きな石の柱が支える玄関があります。柱はそれぞれ一つの花崗岩からできていて、大人4人が肩車で重なった高さよりも高く、エジプトから船で運ばれました。

ひと目でわかる

建設
現在の建物は紀元114~125年ごろに建設(完成は数年後の可能性もある)。トラヤヌス帝の時代に着工し、ハドリアヌス帝の時代に完成した。紀元前20年代にマルクス・アグリッパが建てた神殿に代わるもの
場所
カンプス・マルティウス(マルスの野)。現在のイタリア・ローマ中心部、ロトンダ広場
種類
ローマの神殿。のちにキリスト教の教会となった(紀元609年から)
ドーム
内部の直径は約43.3 mで、床から頂上までの高さも同じ。鉄筋を使わないコンクリート製ドームとして今も世界最大
オクルス
ドームの頂上にある、直径約9 mの丸く開いた天窓
柱廊
エジプトで切り出された、高さ約11.9 mの一枚岩の花崗岩柱16本
碑文
「M·AGRIPPA·L·F·COS·TERTIVM·FECIT」――「ルキウスの子マルクス・アグリッパが、3度目の執政官のときにこれを建てた」
現在の位置づけ
ユネスコ世界遺産「ローマ歴史地区」(1980年登録)の一部であり、現在も使われているカトリック教会

やさしい

パンテオンとは?

パンテオンはローマの中心部にある古代ローマの建物です。柱のある長方形の玄関(柱廊)、その奥にあるれんが張りの高い中間部分、そしてドームに覆われた巨大な円形の広間(ロトンダ)の三つの部分からなります。外の広場から見ると、柱廊は伝統的なギリシャやローマの神殿のようです。しかし青銅の扉を通ると、広く、丸く、光に満ちた内部が現れます。

現在見られる建物は、トラヤヌス帝とハドリアヌス帝の治世にあたる紀元2世紀初めに建てられました。紀元前20年代にマルクス・アグリッパが建てた、最初のパンテオンに代わるものです。アグリッパは初代皇帝アウグストゥスの友人で、将軍であり、娘婿でもありました。最初の建物は火災に遭い、何度か再建されたのち、全面的に建て替えられました。

パンテオンが有名な理由は三つあります。第一に、直径約43.3 mのドームです。1300年以上にわたって世界最大のドームであり、鉄筋を使わないコンクリート製ドームとしては今も史上最大です。第二に、整った比例です。床からドームの頂上までの高さがロトンダの直径に等しいため、想像上の球が内部にちょうど収まります。第三に、保存状態です。古代ローマの主要な建物の中でも特によく残り、今も屋根があり、使われています。

パンテオンは紀元609年以来キリスト教の教会で、正式にはサンタ・マリア・アド・マルティレス聖堂(聖母マリアと殉教者たちの聖堂)といいます。ローマ歴史地区を対象とするユネスコ世界遺産の一部で、イタリアでも特に多くの人が訪れる記念建造物の一つです。

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やさしい

建物の見方:神殿の正面から天空を思わせるドームへ

パンテオンに入ると、見慣れた形から驚くような空間へと進むことになります。柱廊には正面に8本、その奥に4本ずつ2列の柱があり、合計16本です。柱の上には、かつて青銅の彫刻が飾られていた三角形の破風と、アグリッパの名を記した有名な碑文があります。これはローマ人なら誰もが「神殿」と分かる外観でした。

柱廊とロトンダの間には、一般に中間部と呼ばれる高い長方形の部分があります。神殿正面の直線とロトンダの曲線という、まったく異なる形をつないでいます。建築家たちは、この接合部が完全にはなめらかでないことに以前から気づいていました。たとえば柱廊の屋根の上の中間部には、もう一つの、より高い破風の跡がかすかに見えます。このため、建設中に計画が変更されたという説が生まれました。

内部のロトンダには、色の異なる大理石と花崗岩を四角形や円形に組み合わせた床があります。円筒形の壁は上下2層に分かれます。下層には、入口、向かい側の大きな後陣、柱で縁取られた六つのくぼみという、計八つの大きな部分があります。上層にはもともと大理石の壁面装飾と小窓が並んでいました。今日見られる部分の多くは1747年に改装されましたが、20世紀に元の意匠の一部が復元されました。

その上にドームがそびえます。内側には格間と呼ばれるくぼんだパネルが28個ずつ、5列の輪になって並び、頂上に近づくほど小さくなります。格間はドームを軽やかに見せ、実際の重さも減らし、視線を頂上の開口部であるオクルスへ導きます。多くの研究者はドームを天の姿と解釈しています。再建から約1世紀後に記したローマの歴史家カッシウス・ディオも、空に似た丸天井が建物の名前の由来かもしれないと述べました。

光は、この建物で最も重要な装飾です。オクルスが唯一の窓なので、太陽が空を移動すると、丸い日光が格間や壁の上を動きます。そのため建物全体が巨大な日時計のようになります。

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やさしい

ドーム:ローマン・コンクリートが実現した構造

ローマン・コンクリート(オプス・カエメンティキウム)は、石灰、水、ローマやナポリ湾周辺で採れるポッツォラーナという火山灰に、骨材と呼ばれる石や割れたれんがの塊を混ぜて作りました。ポッツォラーナは石灰と化学反応を起こし、湿った状態でも固まる強いモルタルになります。この材料によって、ローマ人はそれまでにない規模のアーチ状の天井やドームを造れました。

パンテオンの建設者は、高さによって骨材を変えました。基礎や下部の壁には重いトラバーチンを使い、上に行くにつれて砕いた瓦や凝灰岩を使い、ドームの頂上近くには軽石など非常に軽い火山岩を使いました。ドーム自体も上に行くほど薄くなり、基部では約6.4 mですが、オクルスの周りでは約1.2 mです。上部を軽くすると、外向きに押す力が弱まります。この力はドームにひびを入れたり、崩壊させたりする原因になります。

ドームの外側には、基部近くに階段状の輪がいくつもあります。これらは外向きの力に抵抗するために必要な場所へ重さを加えています。厚さ約6 mの円筒形の壁は、内部がすべて詰まっているわけではありません。隠れた空間や、荷重を逃がすれんがのアーチがあり、重さを八つの主要な支柱と、幅約7 mのコンクリートの環状基礎へ伝えます。

直径約9 mのオクルスの縁には、圧縮力を受け止める輪のように働くれんがが並んでいます。頂上を開けておくことで、ドームの中で最も重く、造るのが難しい部分が不要になりました。材料と形を工夫すれば鉄筋がなくても大きな構造を造れることを示すため、技術者たちは今もパンテオンを研究しています。

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中級

アグリッパのパンテオンと碑文の謎

最初のパンテオンは、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパがカンプス・マルティウスで進めた建設事業の一環として建てられました。ここは古い市街の北にある低地で、アグリッパは浴場などの公共施設も建てました。カッシウス・ディオは完成を紀元前25年としています。彼によれば、アグリッパは内部にアウグストゥスの像を置き、その名を建物につけたいと考えましたが、アウグストゥスは断りました。そこでアグリッパは、神格化されたユリウス・カエサルの像を内部に、アウグストゥスと自分の像を柱廊に置きました。この話は、建物が新しい皇帝一族と深く結びついていたことを示しています。

19世紀末と20世紀の発掘で、現在の柱廊の下から以前の建物の遺構が見つかりました。アグリッパの神殿も同じく北を向いていたようですが、正確な形や、円形だったかどうかも分かっていません。建物は紀元80年の火災で損傷し、ドミティアヌス帝のもとで修復されました。トラヤヌス帝の治世、紀元110年ごろには落雷のあと再び焼失しました。

現在の正面の碑文には、実際に再建した皇帝ではなく、アグリッパの名があります。後期ローマの皇帝伝集『ヒストリア・アウグスタ』によると、ハドリアヌスはパンテオンを含む多くの建物を修復し、自分の名ではなく元の建設者の名を掲げました。この碑文のため、何世紀もの間、研究者たちは建物全体がアグリッパの時代のものだと考えていました。

その下にある二つ目の小さな碑文は、紀元202年に皇帝セプティミウス・セウェルスとカラカラが修復したことを記録しています。アグリッパの碑文の青銅文字は、元の取り付け穴にはめた現代の代用品です。一方、後世の碑文は、この建物がローマ時代を通じて手入れされ、修理されていたことを伝えています。

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中級

パンテオンの建設:年代、材料、運搬

現在の建物の年代を知る主な手がかりは、粘土がまだ湿っているうちにれんがに押された刻印です。ローマの多くのれんが工房は、製品に名前や、時には執政官の名で示す年を刻みました。ドイツ系アメリカ人の歴史家ヘルベルト・ブロッホは、1959年に発表した重要な研究でパンテオンのれんが刻印を分析し、その大半が紀元115~125年ごろのものだと示しました。これにより、現在の建物はアウグストゥス時代ではなく、ハドリアヌス時代に完成したことが明らかになりました。

近年ではリーセ・ヘトランドらが、刻印はトラヤヌス帝のもとで紀元114年ごろに建設が始まり、117年に即位したハドリアヌス帝が引き継いだ事業を完成させたことを示す、と論じています。この見方では、設計者はトラヤヌスのフォルムや市場を設計した優れた技術者、ダマスカスのアポロドロスだったかもしれません。魅力的な説ですが、証明はされていません。パンテオンの設計者を名指しする古代の史料はありません。ハドリアヌス自身も建築に強い関心を持ち、設計者とする著述家もいますが、こちらにも直接の証拠はありません。

柱廊の花崗岩の柱は、帝国全体に広がる物資の供給網を物語ります。灰色の柱材はエジプト東部の砂漠にあるモンス・クラウディアヌスから、ピンク色のものはアスワンから来ました。それぞれの柱身は高さ約11.9 m、重さ約60トンです。ナイル川まで引きずって運び、川を下って地中海を渡り、オスティアを経てテヴェレ川をさかのぼり、ローマへ運ぶ必要がありました。

柱廊の柱は建物に対して短すぎるように見える、と複数の研究者が指摘しています。中間部に残る破風の跡は、設計者が初めは高さ50ローマ・フィートの柱を計画しながら、40フィートの柱材を使ったことを示唆します。建築史家マーク・ウィルソン・ジョーンズは、大きい柱を予定どおり入手できず設計変更を迫られたと論じました。ラバン・テイラーは、現場で巨大な柱材を立てる難しさが問題だったと考えています。計画の変更や前庭の設計に関わる説明も提案されています。この論争は、名高い建物もさまざまな制約のもとで造られたことを思い出させます。

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中級

何のための建物だったのか:宗教、帝国、天空

パンテオンは有名な建物ですが、古代に何に使われたかは確かではありません。ギリシャ語で「すべての神々の」という意味の名前は、多くの神々、あるいはすべての神々を祭る神殿を思わせます。カッシウス・ディオ自身も確信していませんでした。マルスやウェヌスを含む多くの神々の像があったためか、ドームが天に似ていたためにそう呼ばれたのかもしれない、と書いています。「すべての神々」を祭る独自の祭司を持つ祭祀の記録はなく、ローマの通常の国家神殿の一覧にもこの建物は現れません。

ディオはまた、ハドリアヌス帝がパンテオンで裁判を行い、役人に会ったことも記録しています。そのため多くの歴史家は、単なる神殿以上の場だったと考えます。皇帝が神々や神格化された先代皇帝の像の間に姿を現し、ローマの支配が神々の秩序ある宇宙の一部であるという考えを示す空間だった、という見方です。皇帝一族に関わるほかの記念建造物に近いことや、アウグストゥスとのつながりも、この解釈を支えます。

光の動きから、天文学的な解釈も生まれています。ロバート・ハンナやジュリオ・マリらの研究者は、ローマの伝統的な建国記念日である4月21日など、特定の日の正午にオクルスからの日光が入口を照らし、入ってくる皇帝が光に包まれるよう設計されたと論じています。一方、そうした光の位置は偶然かもしれず、設計意図の証明は難しいと考える研究者もいます。ドームが空を思わせるよう意図され、光が設計の一部だったことは明らかです。

ローマ人にとって円と球は、宇宙や完全さと強く結びついていました。円筒の上に半球を載せ、内部に想像上の球を収めるパンテオンの幾何学的な形は、訪れた人が体で感じられる建築として、こうした考えを表しました。

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中級

神殿から教会へ:古代ローマ以後のパンテオン

4世紀末にキリスト教が帝国の国教となったあと、ローマの多くの異教の神殿は放棄され、建材として取り壊され、あるいは破壊されました。パンテオンはその運命を免れました。609年、ビザンツ皇帝フォカスが建物を教皇ボニファティウス4世に与え、教皇は5月13日に聖母マリアとすべての殉教者にささげる教会として聖別しました。伝承によれば、地下墓地から殉教者の遺骨が何台もの荷車で運ばれ、祭壇の下に納められました。こうしてパンテオンは、ローマで教会に転用された初期の神殿の一つになりました。

教会への転用ですべての損失を防げたわけではありません。663年、ローマを訪れたビザンツ皇帝コンスタンス2世は、屋根の金めっきされた青銅瓦をはがし、コンスタンティノープルへ送ろうとしました。その後、教皇グレゴリウス3世が730年代にドームを鉛で覆いました。中世には建物が要塞化され、周りに家や店が建ち、鐘楼も設けられました。

1620年代には、バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世が柱廊の屋根から青銅の梁を取り外しました。金属の大部分は溶かされ、サンタンジェロ城の大砲になりました。サン・ピエトロ大聖堂にあるベルニーニの青銅製天蓋に使われたという有名な話は、正しいとしても一部に限られます。ローマの人々は「Quod non fecerunt barbari, fecerunt Barberini」――「蛮族がしなかったことを、バルベリーニ家がした」――という有名なラテン語の皮肉で、この行為を笑いました。同じころ柱廊に加えられた二つの小さな鐘楼は「ロバの耳」と呼ばれ、長くベルニーニの作とされていましたが、1883年に撤去されました。

ルネサンス以降、パンテオンは墓所にもなりました。画家ラファエロは自らの希望により1520年に埋葬され、その後も芸術家や音楽家が葬られました。イタリア統一後には初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が1878年に葬られ、息子のウンベルト1世とマルゲリータ王妃も続きました。建物は今もミサが行われる教会です。2023年からは維持管理費に充てるため、訪問者から少額の入場料を徴収しています。

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中級

影響:世界中で模倣された建物

パンテオンはほぼ完全な姿で残ったため、後世の建築家にとってローマ建築の最も直接的な手本となりました。ルネサンスの建築家たちは熱心に測量し、図面に描きました。フィリッポ・ブルネレスキは、1436年に完成したフィレンツェ大聖堂のドームを造る前にローマの建物を研究しました。そのドームは径こそ近いものの、構造は大きく異なります。アンドレーア・パッラーディオは『建築四書』(1570年)にパンテオンの詳しい図面を載せ、その姿をヨーロッパ中に広めました。

神殿風の柱廊とドームを持つロトンダの組み合わせは、教会、図書館、博物館、議会建築の定番となりました。例として、アリッチャにあるベルニーニ設計の教会、ベルリンの聖ヘドヴィヒ大聖堂、トーマス・ジェファーソンが設計したバージニア大学のロトンダ、マルタのモスタ・ロトンダ、そして数多くの大学や政府の建物があります。パリのパンテオンは、名前と国民的英雄の墓所という考えを受け継ぎました。

パンテオンは国家や帝国の権力を表す建築にも影響しました。20世紀にはアルベルト・シュペーアが、ヒトラーのベルリンのために計画されながら建設されなかった巨大なドーム広間の着想源としました。この例は、一つの建物が時代ごとにまったく異なる価値観を表すために利用されうることを示しています。

技術者にとって、パンテオンは材料の耐久性を考える重要な事例です。ローマン・コンクリートがひび割れや風雨にどう耐えるかを調べる現代の研究も、鉄を使わないこのドームが約19世紀もの間立ち続けてきた理由を問うところから始まることがよくあります。

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上級

学術上の論争:年代、設計者、設計変更、用途

年代。ブロッホによるれんが刻印の研究(1959年)は、ハドリアヌス時代の完成を明らかにしました。ただし刻印が示すのはれんがの製造時期で、使用時期ではありません。蓄えておいたれんがが数年後に使われた可能性もあります。110年代の刻印の分布から、紀元114年ごろにトラヤヌス帝のもとで着工したという説が生まれました。奉献は125~128年ごろとされることが多いものの、確定していません。ハドリアヌスがローマに滞在した時期と工事を結びつける試みもありますが、確かな結論には至っていません。

設計者。ダマスカスのアポロドロス説は、特にトラヤヌスの市場など同時代の建物との様式や技術の類似点と、トラヤヌス時代の着工説に基づきます。カッシウス・ディオは、ハドリアヌスが建築をめぐってアポロドロスと争い、のちに追放して殺させたという話を伝えていますが、この逸話の信頼性には疑問があります。パンテオンは一人の天才の作品というより、皇帝の建設行政のもとで働いたチームの成果と考えるのが適切かもしれません。

柱廊の問題。柱廊と中間部が合っていないように見える点は、詳細な測量によって分析されてきました。高さ50フィートの柱身が計画されたものの、実際には40フィートの柱身が使われたというマーク・ウィルソン・ジョーンズの説は広く引用されています。一方、建物が本当に設計上の「欠陥」を持っていたのか、この構成は意図されたものではないかと問う研究者もいます。この議論は、完成した建物から設計意図を推定する際には、施工の順序、組積造の継ぎ目、材料運搬の事情を慎重に調べる必要があることを示します。

用途と意味。多くの神々を祭る一般的な神殿、アウグストゥスや神格化された皇帝たちと結びつく一族の聖所、皇帝の謁見の場、宇宙を表す記念建造物など、解釈はさまざまです。これらは両立しうる見方です。トッド・マーダーとマーク・ウィルソン・ジョーンズが編集した2015年の論集には、こうした問題や建物の後世の歴史に関する近年の研究が収められています。

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史料、保存、ローマン・コンクリートの科学

パンテオンに関する文献史料は多くありません。3世紀初めのカッシウス・ディオは、アグリッパの建物とハドリアヌスによる新しい建物の使用について、主な記録を残しました。『ヒストリア・アウグスタ』はハドリアヌスによる修復に触れ、後世のキリスト教史料である『教皇の書』などは、ボニファティウス4世による教会への転用と、コンスタンス2世による青銅瓦の撤去を記録しています。それ以外の多くは建物自体から推定しなければなりません。

そのため、測量、施工上の継ぎ目の分析、れんが刻印、花崗岩や大理石の岩石学的調査、柱廊の周囲や下の発掘といった建築考古学の方法で研究されてきました。20世紀末以降は、レーザースキャンやコンピューターモデルによって、ドームが荷重をどう分散するか、古代に生じたひびが安定性にどう影響するかなど、構造についての仮説を検証できるようになりました。

ドームには、おそらく初期の地盤沈下や地震によるひびが生じましたが、今も安定しています。技術者はその理由の一つを、ひび割れ後のドームが一連のアーチのように働き、重い円筒形の壁と基部の階段状の輪に支えられることに求めます。近現代の保存作業には、1930年代の後世の塗装の除去、2000年代初めの屋根の修理と内部のしっくいの補強、構造の動きを継続して測る監視などがあります。

石灰の塊や火山灰の化学反応を調べる研究を含め、ローマン・コンクリートの研究は、より長持ちし、製造時の二酸化炭素排出が少ない現代の材料への手がかりとして注目されています。ただし慎重に考える必要があります。パンテオンが残った理由には、継続的な使用と手入れ、さびる鉄筋がないこと、歴史上の幸運も含まれます。コンクリートの化学的性質だけでは説明できません。

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重要なポイント

ロトンダとドーム
半球形のドームで覆われた円形の広間。パンテオンでは高さと直径が等しく、内部に想像上の球が収まる。
オクルス
ドームの頂上に開いた「目」。建物で唯一の窓であり、日光を動く光の円に変える。
高さに応じて材料を変えたコンクリート
下部には重い骨材、上部には軽い火山岩を使い、ドーム自体も上に行くほど薄くすることで、重さと外向きの力を減らしている。
神殿の正面とドーム空間
伝統的な柱廊は神殿を示し、その奥のロトンダはローマン・コンクリート建築の新たな可能性を示す。
帝国と宇宙
建物は神々、天空、皇帝一族を結びつけ、ハドリアヌス帝が裁判を行う場としても使った。
使い続けることによる保存
紀元609年に教会となったことで、その後の約1400年間、建物の維持管理が続いた。
建築の手本
柱廊とドームを組み合わせる形式は、世界各地の教会、図書館、大学、政府の建物に取り入れられた。

記録

  1. 紀元前25年頃 — マルクス・アグリッパがカンプス・マルティウスに最初のパンテオンを完成させる(カッシウス・ディオは紀元前25年とする)。
  2. 80年 — アグリッパの建物が火災で損傷し、のちにドミティアヌス帝のもとで修復される。
  3. 110年頃 — トラヤヌス帝の治世、落雷のあと建物が再び焼失する。
  4. 114年頃 — トラヤヌス帝のもとで、現在のパンテオンの建設が始まったと考えられる。
  5. 125年頃 — ハドリアヌス帝のもとで新しいパンテオンが完成し、正面にアグリッパの名が掲げられる。
  6. 202年 — セプティミウス・セウェルス帝とカラカラ帝が建物を修復し、二つ目の碑文に記録される。
  7. 609年 — 教皇ボニファティウス4世がパンテオンを聖母マリアと殉教者たちの教会として聖別する。
  8. 663年 — コンスタンス2世が金めっきされた青銅の屋根瓦を撤去する。
  9. 1520年 — 画家ラファエロがパンテオンに埋葬される。
  10. 1625年頃 — 教皇ウルバヌス8世が柱廊の屋根から青銅を撤去し、「バルベリーニ家」を皮肉る言葉が生まれる。
  11. 1883年 — 17世紀に造られた「ロバの耳」と呼ばれる鐘楼が撤去される。
  12. 1980年 — パンテオンを含むローマ歴史地区がユネスコ世界遺産に登録される。

用語集

柱廊
建物の正面にある、柱で屋根を支えた玄関部分。
破風
古典様式の神殿正面で、柱の上にある三角形の部分。
ロトンダ
通常はドームで覆われた、円形の建物または部屋。
格間
天井やドームに設けられた、装飾や軽量化のためのくぼんだパネル。
オクルス
ラテン語で「目」。ここではドーム頂上の丸い開口部。
ポッツォラーナ
ナポリ近郊のポッツオーリやローマ周辺で採れる火山灰。ローマン・コンクリートに使われた。
骨材
コンクリートに混ぜる石、れんが、瓦などの破片。
れんが刻印
れんが工房がれんがに押した印。年代を示す場合があり、ローマの建物の建設時期を調べる重要な手がかりとなる。
一枚岩
パンテオンの柱身のように、一つの大きな石の塊からできたもの。
カンプス・マルティウス
「マルスの野」の意味。古代ローマの平らな地域で、のちに公共建築で埋め尽くされた。
聖別
パンテオンが教会となったときのように、建物や物を神聖なものとする儀式。

よくある質問

パンテオンの中に雨は降りますか?

はい。オクルスにはガラスがないため、雨がそのまま中に降りこみます。大理石の床にはごくわずかな傾斜と小さな排水穴があり、水を流します。

なぜドームは崩れないのですか?

建設者は頂上近くに軽い材料を使い、上に行くほどドームを薄くし、基部に重さを加え、頂上を開けておきました。古代から続く手入れも役立っています。

パンテオンを建てたのは誰ですか?

最初のパンテオンは、紀元前20年代にマルクス・アグリッパが建てました。現在の建物は紀元114年ごろトラヤヌス帝のもとで着工され、ハドリアヌス帝のもとで完成しました。設計者の名は分かっていません。

ハドリアヌスが建てたのに、なぜ碑文にはアグリッパの名があるのですか?

『ヒストリア・アウグスタ』によると、ハドリアヌスは修復した建物に元の建設者の名を掲げました。この碑文は、最初のパンテオンを建てたアグリッパをたたえています。

パンテオンは今も教会ですか?

はい。紀元609年からカトリック教会で、今もミサが行われています。

ハドリアヌス時代という年代はどの程度確かですか?

れんが刻印はハドリアヌス時代の完成を示しますが、刻印から分かるのはれんがが作られた時期で、使われた時期ではありません。現在は、紀元114年ごろトラヤヌス帝のもとで着工したと考える研究者も多くいます。

なぜ柱廊とロトンダは合っていないように見えるのですか?

より高い破風の跡から、当初はもっと高い柱が計画されていたと考えられます。材料の調達、建設上の難しさ、設計変更のどれが現在の形につながったのか、研究者の間で議論があります。

出典・参考文献

  1. Pantheon, Rome. Wikipedia
  2. Historic Centre of Rome, the Properties of the Holy See in that City Enjoying Extraterritorial Rights and San Paolo Fuori le Mura. UNESCO World Heritage Centre
  3. Hadrian. Wikipedia
  4. Marcus Agrippa. Wikipedia
  5. Roman concrete. Wikipedia
  6. William L. MacDonald, The Pantheon: Design, Meaning, and Progeny. Harvard University Press, 1976
  7. Mark Wilson Jones, Principles of Roman Architecture. Yale University Press, 2000
  8. Tod A. Marder and Mark Wilson Jones (eds.), The Pantheon: From Antiquity to the Present. Cambridge University Press, 2015

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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