最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
昔、ローマ人は自分たちの町の始まりについて、有名な物語を語っていました。王女にロムルスとレムスという双子の男の子が生まれました。父親は戦いの神マルスだといわれていました。悪い王は、いつか二人に王の座をうばわれるのをおそれ、二人をティベリス川に流すよう命じました。
でも、赤ちゃんを乗せたかごは岸に流れ着きました。雌オオカミが二人を見つけ、自分の子のように乳を飲ませました。その後、親切な羊飼いと妻が二人を家に連れ帰り、育てました。大きくなった双子は悪い王を倒し、新しい町をつくることにしました。
兄弟は、どこに町をつくるかで意見が合いませんでした。二人は別々の丘に立ち、空を飛ぶ鳥を見ました。ローマ人は、鳥が神々の考えを伝えると信じていたのです。どちらが勝ったかで言い争いになり、最後にはレムスが殺されてしまいました。ロムルスは最初の王になり、町は彼の名からローマと呼ばれました。
ローマは本当にそのように始まったのでしょうか。昔のことを調べるために地面を掘る考古学者たちは、別のことを発見しました。約3000年前、ローマの丘には丸い小屋が集まった小さな村がありました。何百年もかけて村々は一つになり、水でぬかるんだ谷を整え、広場をつくりました。そうして少しずつ、一つの都市になったのです。
つまり双子の物語は、実際の出来事をそのまま伝える記録ではなく、伝説です。でもローマ人にとっては、とても大切な物語でした。自分たちは強く、勇敢で、神々に守られていると伝える一方、暴力をふるうこともあると示していたからです。今もローマでは毎年4月21日に都市の誕生日を祝い、双子に乳を飲ませるオオカミの絵は都市のシンボルになっています。
ひと目でわかる
- 伝承上の建国日
- 紀元前753年4月21日(紀元前1世紀のローマの学者ウァロが計算した日付。ほかの古代の著述家は紀元前814年から紀元前728年までの異なる年を挙げた)
- 場所
- イタリア中部のラティウム地方、ティベリス川沿いのパラティヌスの丘とその周辺の丘
- 伝説上の建国者
- レムスの双子の兄弟ロムルス。軍神マルスとレア・シルウィアの子とされた
- 関係した人々
- ラテン人。近くにはサビニ人、北にはエトルリア人、南にはギリシア人の植民都市があった
- 考古学が示すこと
- 紀元前10~9世紀ごろからの村々が徐々に一体化し、紀元前8~7世紀には公共の場所や城壁が現れた
- 主な文献史料
- リウィウス、ハリカルナッソスのディオニュシオス、プルタルコス。いずれも伝承上の建国日から600年以上後に執筆した
- シンボル
- 双子に乳を飲ませる雌オオカミ(カピトリーノの雌オオカミ)
- 後世への影響
- 「建国以来」(AUC)を起点とするローマの紀年法と、現在も4月21日に祝われる「ローマの誕生日」
やさしい
ローマの建国とは?
「ローマの建国」には二つの意味があります。一つはローマ人が自らについて語った物語です。ロムルスという一人の人物が、パラティヌスの丘の周りに犂で神聖な境界線を引き、ある一日に都市を建てて初代の王になったというものです。もう一つは、歴史家や考古学者が復元できる実際の過程です。ティベリス川沿いの丘にあったいくつもの小さな集落が、長い時間をかけて成長し、結び付き、都市としてまとまっていきました。
伝承上の日付である紀元前753年4月21日は、何世紀も後にローマの古代研究家たちが計算したものです。この年は「建国以来」を意味するアブ・ウルベ・コンディタ(AUC)というローマの紀年法の起点になりました。現代の歴史家は紀元前753年を実際に建国が行われた年とは考えませんが、考古学でもほぼ同じ時期にパラティヌスの丘で重要な変化が起きたとされています。
このページでは、千年以上にわたってローマ人の自己認識を形づくった伝説と、古代イタリアで都市が実際に成立した過程を示す証拠の両方を見ていきます。
やさしい
伝説:トロイアからパラティヌスの丘へ
ローマの物語は、遠く離れたトロイアから始まります。ギリシア人がトロイアを滅ぼした後、トロイアの英雄アイネイアスは父と息子を連れて逃れ、長い旅の末にイタリアへたどり着きました。その息子は、後のローマの南東にあるアルバ山地にアルバ・ロンガの町を建て、代々の王がそこを治めました。
王の一人ヌミトルは、弟アムリウスに王位を奪われました。アムリウスはヌミトルに後継者が生まれないよう、その娘レア・シルウィアを、結婚を禁じられた巫女であるウェスタの処女にしました。しかしレア・シルウィアはロムルスとレムスという双子を産み、父親は軍神マルスだと語りました。アムリウスは赤ん坊たちをティベリス川で溺れさせるよう命じました。
召使いたちは、増水した川のほとりに双子を置きました。水が引くと雌オオカミが二人を見つけ、パラティヌスの丘のふもとにある、後にルペルカルと呼ばれる洞窟で乳を飲ませました。マルスの聖鳥とされたキツツキも、二人に食べ物を与えるのを助けたといわれます。羊飼いのファウストゥルスが二人を見つけ、妻のアッカ・ラレンティアとともに育てました。
成長した双子は自分たちの出自を知り、アムリウスを殺して、祖父にアルバ・ロンガの王位を返しました。そして命を救われた場所に新しい都市を建てようとしました。ロムルスはパラティヌスの丘を、レムスはアウェンティヌスの丘を選びました。神々に決めてもらうため、二人は空を飛ぶ鳥を観察しました。レムスが先に六羽のハゲワシを見て、その後ロムルスが十二羽を見ました。双方が勝利を主張しました。最も有名な説では、レムスはロムルスが築いていた新しい城壁をあざけって飛び越え、ロムルス本人かその従者に殺されました。ロムルスは都市に自分の名を付けました。
やさしい
ロムルスがその後に行ったとされること
伝説によれば、新しい都市には住民が少なかったため、ロムルスは逃亡者、追放された人、貧しい人など、誰でもローマ人になれる避難の場を設けました。女性が少なかったので、近隣のサビニ人を祭りに招き、ローマの男たちがその娘たちを連れ去りました。「サビニの女たちの略奪」と呼ばれるこの話を、ローマ人は建国の一場面として語りました。しかし、それは誘拐と強制結婚の物語であり、現代の読者が女性たちを暴力の被害者と見るのはもっともです。
伝説はさらに、サビニ人が娘たちを取り戻すために戦争を始めたと伝えます。戦いのさなか、女性たち自身が両軍の間に飛び込み、父親と夫に戦いをやめるよう懇願しました。和平が結ばれ、サビニ人の王ティトゥス・タティウスはロムルスと共同で統治しました。後のローマ人はこの話を、都市に複数の民族が混ざり合った理由として用いました。
ロムルスは百人の長老からなる最初の元老院を組織し、人々をいくつかの集団に分け、最初の軍をつくったとされます。長い治世の後、突然の嵐の中で姿を消しました。ローマ人は、彼が神々のもとへ迎えられ、クィリヌス神として崇拝されるようになったと語りました。その後、さらに六人の王が続きました。最後の三人はエトルリア人と関係があるとされ、伝承では紀元前509年に王政が倒されて共和政が始まりました。
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考古学が示すこと:成長してできた都市
ローマの立地には明らかな利点がありました。海から約25キロメートル内陸にあり、川の中州のおかげでティベリス川を渡りやすく、パラティヌス、カピトリヌス、エスクィリヌス、クィリナリスなど、守りやすい急な丘がいくつもありました。この渡河地点は北のエトルリア人の都市と南のラティウム、カンパニアを結び、河口の塩田から内陸へ向かう道もこの地域を通っていました。
考古学者は、最も古い定住集落を、紀元前1千年紀初頭のラティウム鉄器時代文化に位置付けています。後にフォルムとなる地域の墓は紀元前10世紀ごろまでさかのぼり、パラティヌスの丘に残る小屋の跡は紀元前9~8世紀のものです。岩に掘られた柱穴からは、木の骨組みと草ぶきの屋根を持つ楕円形の小屋があったと分かります。それは、後のローマ人が遺跡としてパラティヌスの丘に大切に保存した「ロムルスの小屋」によく似ています。
紀元前8~7世紀には、これらの集落は共同で活動するようになりました。丘の間の湿った谷は排水されて埋め立てられ、紀元前600年ごろまでにはフォルムが舗装され、公共の場所として使われていました。考古学者アンドレア・カランディーニが率いたパラティヌスの丘の下部斜面での発掘では、紀元前730~720年ごろの城壁跡が見つかりました。彼はこれを初期都市の神聖な境界線(ポメリウム)と解釈しました。城壁が古いことは認めても、それが一度の建国行為を証明するという見方には反対する研究者も多くいます。
そのため、ほとんどの歴史家はローマの起源を、別々の村々が徐々に結び付いて一つの政治共同体になる「集住」の過程と考えています。紀元前6世紀までにローマは神殿や公共建築を備え、エトルリア文化の強い影響を受けた大きな都市になっていました。これは最後の王たちがエトルリア人だったという伝承とも合います。
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紀元前8世紀のイタリアと地中海
ローマは孤立した場所で始まったわけではありません。紀元前8世紀のイタリア中部では、多くの共同体が活発に競い合っていました。北ではエトルリア人が金属資源に恵まれた強力な都市を築いていました。ラティウムでは、数十のラテン人共同体が言語、祭り、聖域を共有していました。丘陵地にはサビニ人やほかのイタリック系民族が住んでいました。
同じころ、ギリシア人とフェニキア人が西へ航海していました。イスキア島のギリシア人の入植地ピテクサイは紀元前8世紀前半に建設され、続いて本土にクマエが築かれました。フェニキア人は北アフリカにカルタゴを建設しました。伝承上の建設年は紀元前814年です。こうした交易者との接触によって新しい品物や考え方が伝わり、やがてギリシアからエトルリア人とラテン人へ文字も伝わりました。
この背景は、ローマの伝説が都市をトロイアと結び付ける理由を理解する助けになります。物語が形づくられたころには、ギリシア神話はイタリア各地で知られていました。自分たちの都市をトロイア戦争の英雄につなげることは、より広い地中海世界での地位を主張する方法でした。ローマ人は最終的に、トロイアから来たアイネイアスとアルバ・ロンガから来たロムルスという二つの建国物語を結び付けました。そのために、トロイアの陥落から紀元前753年までの数世紀の隔たりを埋めるアルバの歴代王を設けたのです。
中級
なぜ紀元前753年なのか:ローマ人が起源を年代付けした方法
古代の著述家たちの間でも、ローマの建国年について意見は一致しませんでした。ギリシアの歴史家ティマイオスは、カルタゴと同じ紀元前814年を建国年としました。ローマの詩人エンニウスは、それよりかなり早い時期と考えていたようです。ローマ史を初めて書いたクィントゥス・ファビウス・ピクトルは、紀元前3世紀後半にギリシア語で執筆し、紀元前748/747年に相当する年を示しました。同時代のルキウス・キンキウス・アリメントゥスは紀元前729/728年を示しました。
標準となった紀元前753年という年は、紀元前1世紀の大変な博学者マルクス・テレンティウス・ウァロと結び付いています。伝承上の七人の王の在位期間を足し合わせ、共和政初期の年代とつなげて求められました。プルタルコスによると、ウァロの友人ルキウス・タルティウスは日を定めるためにロムルスの星占いまで計算しました。
4月21日は、神パレスをたたえる古い羊飼いの祭り、パリリアの日でした。人々は焚き火を飛び越え、自分たちと家畜の群れを清めました。ローマの誕生日を羊飼いの祭りに結び付けることは、羊飼いたちの中で育った双子の物語に合っていました。後にハドリアヌス帝はウェヌスとローマ女神に捧げる大きな神殿を建て、4月21日は引き続き都市の誕生日として祝われました。
中級
ローマ人にとって物語が意味したこと
ローマ人にとって、建国物語は単なる娯楽ではありませんでした。ルペルカルの洞窟、双子のかごが流れ着いたイチジクの木、パラティヌスの丘にあるロムルスの小屋など、実際に訪れることのできる聖なる場所の由来を説明していました。また、2月の祭りルペルカリアのように、若い男たちがパラティヌスの丘の周りを走る儀式でも再現されました。
この物語には道徳的、政治的な意味もありました。ロムルスは勇気、神々への敬意、何もないところから国家を築く力を表していました。彼の設けた避難の場はローマが新しい住民を受け入れた理由を説明し、サビニ人の物語は敵同士が同じ市民になれることを示しました。ローマ人は、こうしたことを自分たちの成功の秘訣と見なしました。
しかし物語には暗い面もあります。ローマは兄弟殺しで始まったのです。紀元前1世紀の内戦期には、ローマの著述家たちがこの主題を繰り返し取り上げました。詩人ホラティウスは、ローマ人がいまだにレムスの血の代償を払っていると示唆しました。オクタウィアヌスは権力を握ったとき、「アウグストゥス」を選ぶ前に、自分の称号として「ロムルス」を検討しました。建国者は手本であると同時に、戒めでもあったのです。
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歴史の中の雌オオカミと双子
双子に乳を飲ませる雌オオカミの姿は、世界で最もよく知られるシンボルの一つになりました。リウィウスによると、紀元前296年に政務官グナエウス・オグルニウスとクィントゥス・オグルニウスが、伝説のイチジクの木フィクス・ルミナリスの近くに雌オオカミと双子の像を建てました。この図柄はローマの硬貨に現れ、後に帝国全体へ広まりました。
最も有名なものは、ローマにある青銅製の「カピトリーノの雌オオカミ」です。長い間、紀元前5世紀のエトルリア人または初期ローマ人の作品と考えられていました。双子の像はルネサンス期、おそらく15世紀後半に付け加えられました。2000年代の科学的調査は、オオカミの像そのものも中世に鋳造された可能性を示しましたが、制作年代については今も議論があります。
近現代には、建国物語がさまざまな目的に使われてきました。1920~1930年代のイタリアのファシスト政権は、4月21日の「ローマの誕生日」を祝日として祝い、自らを古代ローマの後継者として示しました。戦後もローマでは祭りや歴史の再現行事によってこの日が記念されています。カピトリーノの雌オオカミの複製はイタリアから世界各地の都市に贈られ、オオカミはサッカークラブASローマの紋章にも描かれています。
イタリア以外に目を向けると、この伝説は建国神話のより広い世界的な伝統の一部です。捨てられた赤ん坊が動物や羊飼いに救われる話は、アッカドのサルゴンやペルシアのキュロスなどの伝承にも現れます。これらを比べると、各地の共同体が自分たちは何者かを説明するため、起源の物語をどのように使ってきたかが分かります。
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史料とその問題点
主な記録は、出来事とされる時代からずっと後に書かれました。リウィウスが『ローマ建国史』の第1巻を書いたのは紀元前20年代ごろです。ローマに住むギリシア人、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、その少し後に『ローマ古代誌』を刊行しました。プルタルコスが『ロムルス伝』を書いたのは西暦100年ごろです。彼らはいずれもファビウス・ピクトル、キンキウス・アリメントゥス、大カトーら先行する歴史家に依拠していますが、その著作は断片しか残っていません。しかも、伝承上の建国日から五世紀以上後の紀元前200年ごろより前に執筆した人はいません。
最初期のローマの歴史家自身も、利用できる文書が非常に限られていました。ローマの初期の記録は、紀元前390年ごろにガリア人が都市を略奪した際、ほとんど失われたといわれています。現代の年代表記では紀元前387年とする場合もあります。残ったのは祭司の名簿、貴族の家に伝わる話、地名、祭祀の慣行、口承の物語などでした。それ以前にも一部のギリシアの著述家は、ロメというトロイア人女性などを建国者とする別の起源譚を語っていました。ロムルスの物語は、そうしたギリシアの記述とのやり取りの中で形づくられた可能性があります。
リウィウス自身もこの問題を率直に認めています。序文では、都市の建設以前についての伝承は確かな歴史よりも詩にふさわしく、古い時代の物語が人間と神を交えて都市の起源をいっそう尊いものにすることは許される、と述べています。そのため現代の歴史家は、伝説を出来事の記録としてではなく、後のローマ人が何を信じ、重んじたかを示す証拠として読みます。
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議論:神話、記憶、考古学
伝説の中には、どれほどの史実が隠されているのでしょうか。一方には、アンドレア・カランディーニを代表とする少数の研究者がいます。彼らは、特に紀元前730~720年ごろの城壁など、パラティヌスの丘での考古学的発見が紀元前8世紀の実際の建国行為を裏付けており、後世の記憶がそれを「ロムルス」という人物の行為として描いたと論じます。他方、懐疑的な歴史家は、ロムルスという名がローマからつくられた「ローマ人」を意味する架空の名祖に見えること、物語に民話の要素が多いこと、そして考古学が示すのは一瞬の出来事ではなく徐々に進んだ成長であることを強調します。
多くの歴史家は中間の立場を取ります。たとえばティム・コーネルは、個々の物語は史実でなくても、王政期の伝承には制度や大まかな変化についての本当の記憶が一部残っていると論じます。その例が、紀元前6世紀におけるエトルリア人の王たちの重要性です。ティモシー・ピーター・ワイズマンは著書『Remus: A Roman Myth』で、レムスという人物像が比較的遅く物語に加わり、時代とともに作り変えられた可能性を分析しました。
「ローマ」という名そのものの意味も分かっていません。ティベリス川の古い呼び名「ルモン」、エトルリア人の家名、あるいはイチジクの木フィクス・ルミナリスと関係する「乳首」を意味する語「ルマ」と結び付ける説があります。どれも証明されていません。
新たな発見によって議論が再燃することもあります。2007年、考古学者たちはパラティヌスの丘の地下で装飾された部屋を発見し、ルペルカルかもしれないと発表しました。一方、別の専門家たちは、それは後の時代のニンファエウム、つまり装飾された泉の部屋である可能性が高いと論じました。この例は、ローマでの発見の解釈に伝説が今も強い影響を与えていることを示しています。
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証拠と研究方法
初期ローマの考古学的研究は困難です。古代都市が現代都市の下にあり、後のローマ時代の建設によって、それ以前の地層が平らにされたり覆われたりしたためです。分かっていることの多くは、19世紀後半以降に行われたフォルムやパラティヌスの丘での発掘、エスクィリヌスの丘などの墓地の調査、そして近隣にある保存状態のよいラテン人の遺跡との比較から得られています。年代の判定には土器の変遷を用い、可能な場合には科学的な方法も使います。ラティウムの鉄器時代の各段階の暦年代は近年見直されており、初期集落の年代付けにも影響しています。
碑文から得られる情報も少しあります。フォルムの「黒い石」を意味するラピス・ニゲルは、紀元前6世紀の碑文を覆っています。これは現存する最古級のラテン語文献の一つで、「レクス」(王)に言及しており、ローマがかつて王に治められていたという伝承を裏付けます。歴史時代まで続いた宗教行事、たとえば「七つの丘」の祭りセプティモンティウムやルペルカリアも、初期の共同体の組織について手がかりを残しているかもしれません。
研究方法の中心となるのは、二種類の証拠を、組み合わせる前に区別して考えることです。伝説からは、紀元前3世紀以降のローマ人が自分たちをどう理解していたかが分かります。遺物や遺構からは、鉄器時代の集落、経済、社会について分かります。パラティヌスの小屋と紀元前750年ごろという年代のように両者が合うように見える場合でも、歴史家は、それが本当の記憶を反映するのか、それとも後の著述家が目に見える古い遺構に合わせて物語をつくったのかを問わなければなりません。
重要なポイント
- 建国伝説
- 英雄的な建国者を通して都市の起源を説明する物語。ローマの伝説は、トロイアから来たアイネイアスの話とロムルス、レムスの話を結び付けている。
- 集住
- いくつかの村が結び付いて一つの政治共同体になること。ほとんどの歴史家は、ローマがこのように成立したと考えている。
- アブ・ウルベ・コンディタ(AUC)
- 「建国以来」という意味。ウァロが定めた紀元前753年を起点に年を数えるローマの方法。
- ポメリウム
- 都市の神聖な境界線。ロムルスが犂で引いたとされ、その境界は宗教的にも法的にも重要だった。
- 鳥占い
- 鳥の飛び方から神々の意志を読み取ること。双子は都市を建てる場所を決めるために用いた。
- 建国に伴う暴力
- レムスの兄弟殺しとサビニの女性たちの誘拐は、ローマ人が自らの起源を栄光と暴力の両面から語っていたことを示す。
- 神話と考古学
- 文献に残る伝説と物的証拠は異なる問いに答えるため、比較する前にそれぞれを別に解釈する必要がある。
記録
- 紀元前1000年頃 — 後にローマのフォルムとなる地域に、鉄器時代最初期の墓がつくられる。
- 紀元前850年頃 — ティベリス川沿いのパラティヌスの丘などに、小屋の集まる村が発達する。
- 紀元前814年 — ギリシアの歴史家ティマイオスが、ローマとカルタゴの両方の建設年とした年。
- 紀元前753年 — ウァロの計算によれば、4月21日にロムルスがローマを建国したとされる伝承上の年。
- 紀元前730年頃 — パラティヌスの丘のふもとに城壁が築かれる。一部の研究者は、これを都市最初期の境界線と解釈する。
- 紀元前600年頃 — フォルムの谷が排水・舗装され、公共の場所となる。このころまでにローマは一つの都市になっている。
- 紀元前509年 — 伝承上、王政が終わり、ローマ共和政が始まる。
- 紀元前296年 — リウィウスによると、オグルニウス兄弟が雌オオカミと双子の像を建てる。
- 紀元前200年頃 — クィントゥス・ファビウス・ピクトルが、建国物語を含む最初のローマ史を書く。
- 紀元前27年頃 — リウィウスが、ロムルスとレムスについて最も有名な記述を含む歴史書の第1巻を書く。
- 2007年 — 考古学者たちが、パラティヌスの丘の地下にある部屋をルペルカルかもしれないと発表する。ただし、この特定には異論がある。
用語集
- ラティウム
- ローマ周辺のイタリア中部の地方。ラテン語を話す人々が暮らしていた。
- パラティヌスの丘
- ローマの丘の一つ。伝承ではロムルスが最初の都市を築いた場所で、後には皇帝の宮殿が建てられた。
- ウェスタの処女
- 女神ウェスタに仕える巫女。奉仕する間は結婚しないことを誓った。
- ルペルカル
- 伝説で、雌オオカミが双子に乳を飲ませた洞窟。
- パリリア
- 4月21日に行われた古代の羊飼いの祭り。後にローマの誕生日となった。
- サビニ人
- ローマの北東に住んでいたイタリック系民族。ローマ初期の伝説で重要な役割を果たす。
- エトルリア人
- ローマの北にあたるイタリア中部に住んでいた有力な人々。その文化は初期のローマに強い影響を与えた。
- 名祖
- 実在したかどうかを問わず、何かの名前の由来とされる人物。ロムルスはローマの名からつくられた名祖かもしれない。
- 年代記作者
- ファビウス・ピクトルのように、出来事を年ごとに記して歴史を書いたローマの歴史家。
- カピトリーノの雌オオカミ
- ローマのカピトリーノ美術館にある有名な雌オオカミの青銅像。制作年代には議論がある。
よくある質問
ロムルスとレムスは実在したのですか?
少なくとも物語に描かれたとおりの人物がいたとは、ほぼ考えられていません。ほとんどの歴史家は二人を伝説上の人物と考え、ロムルスという名は単に「ローマ人」を意味するのかもしれません。
ローマは本当に紀元前753年に建国されたのですか?
その年は何世紀も後に計算されたものです。ローマは徐々に成長しましたが、紀元前8世紀ごろにパラティヌスの丘で重要な変化が起きたのは確かです。
本当にオオカミが双子に乳を飲ませたのですか?
それを裏付ける証拠はありません。捨てられた赤ん坊が動物に育てられる話は多くの文化に見られ、ローマではオオカミが軍神マルスとも結び付いていました。
なぜローマはトロイアと結び付けられるのですか?
都市をトロイア戦争の英雄につなげることで、ギリシア神話を知る地中海世界で名声を得られたからです。ウェルギリウスの『アエネーイス』がこの結び付きを広く知らしめました。
歴史家は初期のローマについて、どうやって知るのですか?
小屋、墓、城壁、フォルムなどの考古学的証拠、ラピス・ニゲルのような少数の碑文、そして古い伝承をもとに書いた後世の著述家から知ります。
サビニの女性たちの誘拐とは何ですか?
伝説では、ローマの男たちが結婚相手にするためサビニ人の女性たちを連れ去りました。ローマ人は建国物語として語りましたが、その内容は女性に対する暴力です。
カランディーニの城壁について、学者たちは何を議論しているのですか?
カランディーニはパラティヌスの城壁を紀元前730~720年ごろのものとし、実際の建国行為と結び付けました。多くの研究者は城壁の年代が古いことを認めますが、それだけで一度の建国行為が証明されるとは考えていません。
出典・参考文献
- Founding of Rome. Wikipedia
- Romulus and Remus. Wikipedia
- Livy, Livy, Ab urbe condita (Latin text and translation). Perseus Digital Library, Tufts University
- Livy. Wikipedia
- Quintus Fabius Pictor. Wikipedia
- Parilia. Wikipedia
- Capitoline Wolf. Wikipedia
- Latial culture. Wikipedia
- Lapis Niger. Wikipedia
- T. J. Cornell, The Beginnings of Rome: Italy and Rome from the Bronze Age to the Punic Wars (c. 1000–264 BC). Routledge, 1995
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
