文学

ホメロス

Ὅμηρος (Hómēros)

紀元前750–650年頃 · イオニア

ひとことで

ホメロスは、トロイア戦争と英雄の長い帰郷の旅を描く二つの大叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』の詩人に、古代ギリシア人が与えた名である。ただし、彼が何者だったのか、また一人の人物が両作品を作ったのかは、確かには分かっていない。

ホメロス
画像: NikonZ7II · CC BY-SA 4.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

本がまだない時代を想像してみよう。人々は物語を読むのではなく、歌で聞いていた。古代ギリシアの歌い手は町から町へ旅をし、宴会で火を囲みながら、英雄や神々、戦いの長い物語を暗記して歌った。何時間も、時には何日も続くことがあった。

その歌い手の中で、いちばん有名なのがホメロスだ。ギリシア人は、ホメロスは目が見えず、今のトルコにあたるエーゲ海の東岸に生まれたと言った。『イリアス』と『オデュッセイア』という、とても長い二つの詩を作ったと考えられていた。どちらも厚い本になるほど長い。

『イリアス』はトロイア戦争の物語だ。ギリシア軍はトロイアという町を10年間攻めている。いちばん強い戦士アキレウスは、自分たちの王に腹を立て、戦うのをやめる。そのために、ひどいことが起こる。怒りや友情、悲しみ、そして英雄とはどんな人かを考えさせる詩だ。

『オデュッセイア』は戦争の後の物語だ。知恵のある英雄オデュッセウスは、妻ペネロペイアと息子テレマコスの待つ家へ船で帰ろうとする。でも、帰るまでに10年もかかる! 一つ目の巨人、男たちをブタに変える魔女、歌う怪物セイレーンなどに出会う。その間、家では失礼な男たちが、彼の家を乗っ取ろうとしている。

ここには謎がある。ホメロスが本当はどんな人だったのか、私たちは知らない。一人のすぐれた詩人が両方の詩を作ったと考える研究者もいれば、何百年もの間に多くの歌い手が歌い継いだ物語から生まれたと考える研究者もいる。どちらにしても、この二つはヨーロッパで最も古い物語の一つで、約3000年たった今も世界中で読まれている。

ひと目でわかる

年代
不明。詩がおおむね現在の形になったのは、紀元前8世紀後半か紀元前7世紀と考えられる
場所
伝承では小アジアのエーゲ海沿岸にあるイオニア。古代にはスミュルナとキオス島が特に強く出身地を主張した
言語
ホメロスのギリシア語。主にイオニア方言を基礎とし、アイオリス方言や古い語形も含む、詩のための人工的な言語
形式
長短短六脚韻による叙事詩。もともとは口頭で歌うために作られた
作品
『イリアス』(1万5693行)と『オデュッセイア』(約1万2100行)。後にそれぞれ24巻に分けられた
かつて作者とされたその他の作品
『ホメロス風讃歌』、喜劇的な『蛙鼠合戦』など。現在は、後代の別の詩人たちの作品と考えられている
主な論争
「ホメロス問題」。誰が、どのように、いつ詩を作ったのか、また一人の詩人が両方を作ったのかという問題
重要性
ギリシア文学と教育の基礎となり、世界各地の叙事詩の手本となった作品

やさしい

ホメロスとは誰か

古代ギリシア人にとって、ホメロスは「詩人」そのものだった。彼らはギリシア文学で最も古く、最も高く評価された二つの作品『イリアス』と『オデュッセイア』を彼の作とし、教育の基礎、神々や英雄についての共通の物語の源、言葉遣いや道徳の手本とみなした。

しかし、ホメロスの生涯について分かっていることはほとんどない。古代の「ホメロス伝」は詩の成立から何世紀も後に書かれ、内容も互いに食い違う。スミュルナ(現在のイズミル)、キオス島、コロポン、キュメ、アルゴス、アテナイなど、いくつもの都市が彼の出生地を主張した。多くの伝記は、彼は目が見えず、小さなイオス島で亡くなったと伝える。キオス島では、ホメリダイ(「ホメロスの子孫」)と呼ばれる朗誦者の一族または集団が、彼の子孫だと主張した。

現代の研究者は、こうした伝記を伝説とみなす。実在した一人のホメロスを疑う研究者もいれば、卓越した一人、あるいは二人の詩人が、長く受け継がれた伝統から現在の詩を形作ったと考える研究者もいる。「ホメロス」という名は、ギリシア人が自分たちの偉大な叙事詩の源に与えた名と考えるのが適切である。

[1][2]

やさしい

『イリアス』――アキレウスの怒り

『イリアス』の舞台は、ギリシア軍がトロイア(別名イリオン。作品名の由来)を包囲して10年目である。戦争の全体は語らない。数週間の出来事と、冒頭の一語メーニス、すなわち「怒り」で示される一つの主題に焦点を当てる。冒頭の一行は「女神よ、ペレウスの子アキレウスの怒りを歌え」と訳せる。

物語は、ギリシア軍の総大将アガメムノンが、ギリシア側で最も強い戦士アキレウスから捕虜の女性ブリセイスを奪うところから始まる。ひどい侮辱を受けたアキレウスは戦いから退き、母である海の女神テティスに、ギリシア軍が自分の必要性を悟るまでトロイア軍を勝たせるようゼウスを説得してほしいと頼む。プリアモス王の子ヘクトルに率いられたトロイア軍は、ギリシア軍を船のところまで追い詰める。

アキレウスの親友パトロクロスは彼の鎧を着て戦場に出るが、ヘクトルに殺される。悲しみで我を失ったアキレウスは戦いに戻り、ヘクトルを殺して、その遺体を戦車の後ろに引きずる。最終巻では、老王プリアモスが夜ひそかにアキレウスの陣営を訪れ、息子の遺体を返してほしいと願う。敵同士の二人は、それぞれが失ったものを思って共に泣き、アキレウスは遺体を返す。詩はトロイアの陥落ではなく、ヘクトルの葬儀で終わる。

『イリアス』には戦闘の場面が多いが、単に戦争をたたえる作品ではない。妻アンドロマケと幼い息子に別れを告げるヘクトル、親たちの悲しみ、トロイアが滅びて女性たちが奴隷にされる運命など、双方の苦しみを深い共感をもって描いている。

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『オデュッセイア』――長い帰郷の旅

『オデュッセイア』の主人公は、知略で知られるイタケ島の王オデュッセウスである。トロイアの木馬を考え出したのも彼だった。詩は「ムーサよ、さまざまな経験を重ねた男について語れ」と始まる。トロイアの陥落から10年たっても、彼は故郷に帰っていない。妻ペネロペイアの周りには、宮殿で宴会を開き、再婚を迫る求婚者たちが群がる。息子テレマコスは父の消息を求めて旅立つ。

この詩の構成には工夫がある。最初に登場するオデュッセウスは、彼を7年間引き留めてきたニュンペー、カリュプソの島にいる。ようやく解放された彼は難破し、パイアケス人の国にたどり着く。そこで、一つ目の巨人キュクロプスのポリュペモス、魔女でもある女神キルケー、死者の国への旅、セイレーン、怪物スキュラとカリュブディス、仲間たちが太陽神の神聖な牛を食べて全員失われたことなど、自らの冒険を語る。

パイアケス人は彼を故郷イタケへ送り届ける。物乞いに変装したオデュッセウスは家の者たちの忠誠を確かめ、老犬アルゴスと乳母エウリュクレイアに正体を見抜かれる。そしてテレマコスや忠実な召使いたちと共に求婚者たちを殺す。夫に劣らず賢いペネロペイアは、二人の寝台の秘密を使って彼を試してから、本当に夫が帰ってきたと信じる。

『イリアス』が戦争と運命の詩であるのに対し、『オデュッセイア』は生き延びること、客人をもてなすこと、変装、そして帰郷の詩である。数え切れないほどの冒険物語の源流でもある。

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詩はどのように作られたか――口承詩

両叙事詩は、音節の長短の組み合わせに基づく六つの韻脚からなる長短短六脚韻で作られている。「ばら色の指をした暁」「足の速いアキレウス」「葡萄酒色の海」など、繰り返される表現が多い。こうした反復は、何世紀にもわたって読者を悩ませた。

アメリカの研究者ミルマン・パリーは、1928年にパリで提出した博士論文で、これを説明した。人物や物に添える決まった言葉や表現は、精密な体系をなしている。通常、それぞれの英雄や物について、各文法上の格に応じ、詩行の特定の位置に収まる表現が一つある。このような体系は一人の詩人が発明したものではなく、歌いながら詩を作る歌い手たちが、何世代にもわたって築いたものだとパリーは示した。

この考えを確かめるため、パリーと助手のアルバート・ロードは1930年代にユーゴスラビアで、当時活動していた口承詩人たちの歌を録音した。グスレという一弦の楽器に合わせて歌う彼らは、決まった表現や典型的な場面を使い、その場で長い歌を作ることができた。その一人アヴド・メジェドヴィッチは、1万2000行を超える歌を作った。ロードは後に『The Singer of Tales』(1960年)で、この理論を詳しく述べた。

口承定型句理論はホメロス研究を一変させた。『イリアス』と『オデュッセイア』が、『オデュッセイア』にも登場するペミオスやデモドコスのような歌い手(アオイドス)の伝統から生まれたことを示したのである。同時に、その伝統が口承なら、この二つの詩はどのように、いつ書き記されたのかという新たな問いも生んだ。

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中級

詩の背景にある世界

詩は、力ある王、豊かな宮殿、青銅の武器がある英雄時代を描く。この姿には、ミュケナイやピュロスなどの宮殿が紀元前1200年ごろに崩壊した、後期青銅器時代のミュケナイ文明(紀元前1600~1100年ごろ)の記憶が一部残っている。『イリアス』に記され、ミュケナイ文明の墓からも発見された猪の牙の兜や、古い時代の地理を反映している可能性がある地名を並べた「軍船の目録」など、実際に古い細部もある。

しかし、詩には後の時代に属するものも多い。英雄たちは初期鉄器時代に一般的だったように死者を火葬する。また、首長、集会、贈り物の交換が見られる詩の社会は、紀元前10~8世紀のギリシア世界に似ている。これらの詩は、多くの時代の記憶と慣習が、何世代もの歌い手によって混ぜ合わされたものと考えるのがよい。

詩が最終的な形になり始めたと考えられる紀元前8世紀、ギリシアは急速に変化していた。人口が増え、新しい都市国家が成立し、ギリシア人は地中海各地に植民市を築いた。オリュンピアとデルポイの大神域が栄え、ギリシア人はフェニキア文字を取り入れた。文字によって、長い詩を初めて記録できるようになった。

トロイア戦争は実際にあったのだろうか。トロイアの遺跡は、一般にトルコ北西部のヒサルルクの丘とされ、1870年代からハインリヒ・シュリーマンが、その後カール・ブレーゲンやマンフレート・コルフマンらが発掘した。そこには後期青銅器時代に何度も破壊された大きな都市があった。ヒッタイトの文書にはウィルサという地名があり、多くの研究者はこれをギリシア語の(ウ)イリオスと結び付ける。伝説の背景に実際の戦争があったかどうかは、今も議論されている。

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中級

思想と主題

名誉と死。ホメロスの英雄たちはクレオス、すなわち死後も歌い継がれる「名声」を求める。アキレウスは、長く目立たない人生と、短く栄光に満ちた人生のどちらかを選ばねばならないと知っている。『イリアス』は、友情や愛、命そのものと比べたとき、栄光にどれほどの価値があるのかを問う。『オデュッセイア』では、アキレウスの亡霊が、死者すべての王になるよりも地上で貧しい雇い人として働きたいと語る。

神々と人間。オリュンポスの神々はそれぞれ味方を選び、言い争い、時には滑稽なほど人間の出来事に介入する。それでも、運命と人間の命の限界は重大な問題として残る。詩が示す世界では、神々が人間を通じて働きかける一方、人間も自らの選択に責任を負う。

客人をもてなす習わし(クセニア)。『オデュッセイア』の中心には、客人を迎える主人の務めと、客人として守るべき振る舞いがある。客を食べるキュクロプスと、オデュッセウスの家を食い物にする求婚者たちは、この決まりを大きく破り、どちらも罰を受ける。

知恵と正体。オデュッセウスは知略、変装、語りによって生き延びる。『オデュッセイア』には偽りや試練があふれ、傷跡、弓、寝台の秘密などによって、どうすればその人だと見分けられるのかを問う。また、オデュッセウス自身が四巻にわたって冒険を語るなど、物語を語る行為そのものへの関心から、現代の物語論でも重要な作品となっている。

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中級

歌から本へ――テキストはどう伝わったか

古代の伝承によると、アテナイの統治者ペイシストラトス(紀元前528/527年没)はホメロスの詩を集めて順序を整え、アテナイのパンアテナイア祭で全編を朗誦させた。この「ペイシストラトスによる編集」が実際にあったかどうか、研究者の間では議論がある。ただし、詩が初期に文字で伝えられる過程で、アテナイが大きな役割を果たしたことは明らかである。

ヘレニズム時代には、アレクサンドリア図書館の研究者たち――エフェソスのゼノドトス、ビュザンティオンのアリストファネス、とりわけサモトラケのアリスタルコス――が写本を比較し、疑わしい行に印を付け、標準的な本文を定めた。それぞれの詩をギリシア文字の各字で示す24巻に分けたことも、通常は彼らの功績とされる。

主にローマ時代のエジプトで作られたホメロスのパピルス断片が数百点残り、これらの詩がギリシア世界で最も多く書き写された作品だったことを示している。『イリアス』で最も重要な中世の写本は、10世紀に書かれ、現在はヴェネツィアにある「ヴェネトゥスA」である。その余白には、アレクサンドリアの研究者たちに由来する注釈が残る。1788年、フランスの学者ジャン=バティスト=ガスパール・ダンス・ド・ヴィロワゾンがこれを出版した。

中世の西ヨーロッパではギリシア語の知識が薄れたが、ビュザンティオンではホメロスは読み継がれた。14世紀にはペトラルカとボッカッチョがラテン語訳を支援し、1488年にはデメトリオス・カルココンディリスがフィレンツェで最初の印刷版(初版本)を出版した。

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中級

影響と後世への遺産

古代ギリシアで、ホメロスは教育の基礎だった。子どもたちはその詩句を使って読み方を学び、物語は悲劇、壺絵、哲学に共通の題材を与えた。ヘロドトスは、ホメロスとヘシオドスがギリシア人に神々の姿を示したと述べた。哲学者たちはホメロスを論じた。クセノパネスは、神々を盗みや欺きをする存在として描く詩人たちを批判し、プラトンの描くソクラテスは理想の国家から詩を追放するか検閲しようとした。一方、アリストテレスは『詩学』で、統一された筋立ての手本としてホメロスを扱った。

ローマ人もホメロスを古典として受け入れた。知られている最初のラテン語文学作品は、紀元前3世紀にリウィウス・アンドロニクスが作った『オデュッセイア』の翻訳である。ウェルギリウスの『アエネイス』は意識的に両作品を作り替え、前半を『オデュッセイア』のような放浪の物語、後半を『イリアス』のような戦争の物語にした。

近代以降、ホメロスは世界の多くの言語に翻訳されてきた。作家たちも繰り返し彼の作品に立ち返っている。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922年)は『オデュッセイア』をダブリンの一日として語り直し、カリブ海の詩人デレク・ウォルコットの『オメロス』(1990年)はホメロス的な主題をセントルシアに移した。近年の翻訳者や小説家は、ペネロペイアや奴隷にされたトロイアの女性たちなど、詩に登場する女性に新たな声を与えている。

ヨーロッパ以外では、ホメロスは『ギルガメシュ叙事詩』、『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』、『シャー・ナーメ』といった偉大な叙事詩の伝統とよく比較される。これらには、伝統的な口承による創作、英雄の行動規範、神々と人間の関係などの共通点がある。比較することで、叙事詩に広く見られるものと、ギリシアの詩に特有のものの両方が見えてくる。

[1][4][3]

上級

ホメロス問題

「ホメロス問題」とは、誰が、どのように、いつ詩を作ったのかをめぐる一連の問題である。すでに古代には、ホリゾンテス(「分離派」)と呼ばれる研究者たちが、『イリアス』と『オデュッセイア』は別々の詩人によると主張した。近代の論争は、フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフの『Prolegomena ad Homerum』(1795年)から始まった。ヴォルフは、詩はもともと口承で伝わった短い歌を集めてできたもので、文字に書かれたのは後の時代だと論じた。

19世紀の「分析派」は、ある巻で死んだ人物が後の巻に再び現れるといった矛盾を指摘し、詩を異なる作者による層に分けようとした。「統一派」は、そのような食い違いは長い作品では自然に起こりうるし、詩には全体を貫く一つの構想が見られると反論した。論争は決着しなかった。

パリーとロードは論争の焦点を変えた。詩は、伝統に根ざし、口承から生まれた作品だと示したのである。しかし、それによって新たな問いも生まれた。アルバート・ロードと、その後のリチャード・ジャンコらは、優れた歌い手が書記に詩を口述し、紀元前8世紀ごろに固定された本文ができたと提案した。グレゴリー・ナジーは、詩が何世紀もの上演を通じて徐々に固定され、成立の一時点はないとする「進化モデル」を提案した。マーティン・ウェストらは、紀元前7世紀に文字を使って仕事をした詩人を重視した。

現在の研究者の多くは、詩が長い口承の伝統から生まれ、それぞれに際立った構成上の統一性があると認めている。『オデュッセイア』は『イリアス』よりやや新しいと考える人も多い。「ホメロス」が一人の人物だったのか、二人だったのか、それとも一つの伝統の名だったのかは、なお未解決である。

[2][1][6]

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成立年代と証拠

古代に伝えられたホメロスの年代には大きな幅がある。ヘロドトスはホメロスを自分の時代の約400年前、つまり紀元前9世紀半ばごろに置いた。一方、トロイア戦争と同時代の人とする説もあった。現代の年代推定は、作品の内部と外部の証拠に基づく。

言語の証拠。ホメロスのギリシア語には、異なる時代や方言の語形が混在する。リチャード・ジャンコらは、古い語形が新しい語形に置き換わる速さを統計的に調べ、『イリアス』、『オデュッセイア』、ヘシオドスの順に成立し、『イリアス』は紀元前8世紀の作品だと推定した。これに対し、詩のための人工的な言語では古い語形を意図的に残せるため、こうした方法で分かるのは正確な年代ではなく相対的な前後関係だという批判がある。

考古学と歴史の証拠。甲冑、神殿、神像など、物や慣習への言及から紀元前8世紀または7世紀の成立を主張する研究があり、マーティン・ウェストは『イリアス』を紀元前7世紀半ばの作品とした。イタリアのピテクサイで出土した、銘文のある陶製の杯「ネストルの杯」(紀元前8世紀後半)には「ネストルの杯」を冗談めかして語る文が刻まれている。これを『イリアス』に登場する有名な杯への言及と読む研究者もいるが、議論がある。壺絵では、トロイア伝説の場面が紀元前7世紀に一般的になる。

本文の証拠。紀元前5~4世紀の著述家による引用、通常の本文にない行を含む初期のパピルス、アレクサンドリアの学者たちに由来する注釈から、本文はヘレニズム時代以前にはまだいくらか流動的だったと分かる。これは、本文が徐々に固定されたとする見方を支える。慎重に言えば、詩は紀元前750~650年ごろに現在に近い形に達し、その後も修正が続いた可能性が高い。

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古代の伝記はどこまで信頼できるか

現存する古代のホメロス伝には、ヘロドトスの作と誤って伝えられたものや『ホメロスとヘシオドスの歌競べ』がある。これらは古い資料を利用しているものの、現在伝わる形になったのはローマ時代である。ホメロスの誕生、旅、失明、詩作、死を語るが、しばしば詩句から出来事を作り出している。

失明はそのよい例である。『オデュッセイア』では盲目の歌い手デモドコスがムーサに愛され、『アポロン讃歌』の末尾には「岩の多いキオス島に住む盲人」が登場する。古代の読者は、これらをホメロスの自画像と受け取った。現代の研究者は、盲目の吟遊詩人を、霊感を受けた詩人を表す伝統的な姿と考え、伝記上の証拠とはみなさない。

出生地をめぐる各都市の競合も、ホメロス本人より後代のギリシア都市について多くを語る。ホメロスを自分たちの出身者と主張することは、都市の名誉になったのである。その名自体についても、古代と現代の著述家は「人質」を意味するとか、「盲目」を表す語と関係するとか説明してきたが、これらの語源説は確かではない。

研究上、伝記は、ギリシア人が詩人をどう思い描き、ホメロスをどう受け止めたかを知る資料として価値がある。しかし、その生涯を復元するためには使えない。確かに言えるのは、紀元前6世紀までにギリシア人が『イリアス』と『オデュッセイア』を、イオニアの尊敬すべき詩人ホメロスと結び付けていたことだけである。

[1][2]

重要なポイント

叙事詩
英雄や神々を格調高い文体で語る長い物語詩。『イリアス』と『オデュッセイア』は、現存するヨーロッパ最古の例である。
口承定型句による詩作
伝統的な表現や場面を使い、歌いながら詩を作ること。パリーとロードは、ホメロスと南スラヴの歌い手についてこれを示した。
クレオス
英雄が偉業によって得て、歌の中で後世まで生き続ける、「人に聞かれる」栄光や名声。
クセニア
客人をもてなす習わし。主人と客の間の神聖な務めで、『オデュッセイア』の大部分を形作る。
メーニス(怒り)
『イリアス』の冒頭の一語。アキレウスの怒りとその結果が詩を動かす。
ノストス
帰郷。『オデュッセイア』や、トロイアから帰る英雄たちを描いた他のギリシア詩の主題。
ホメロス問題
詩の作者、作られ方、成立年代、伝承をめぐる長い学術論争。

記録

  1. 紀元前1200年頃 — ミュケナイ文明の宮殿社会が崩壊する。トロイア(ヒサルルク)は後期青銅器時代に破壊される。
  2. 紀元前1184年 — ヘレニズム時代の学者エラトステネスが、トロイア陥落の年として計算した年代。
  3. 紀元前900年頃 — 初期鉄器時代に、ギリシアの口承叙事詩の伝統が発達する。
  4. 紀元前750年頃 — ギリシア人がアルファベットを取り入れる。『イリアス』と『オデュッセイア』が最終的な形になり始める(紀元前650年ごろまで)。
  5. 紀元前720年頃 — ピテクサイの「ネストルの杯」に、ネストルの杯を冗談めかして語る銘文が刻まれる。
  6. 紀元前550年頃 — 伝承によると、アテナイでペイシストラトスのもと詩が整理され、パンアテナイア祭で朗誦される。
  7. 紀元前150年頃 — サモトラケのアリスタルコスがアレクサンドリアでホメロスの本文を編集する。
  8. 950年頃 — ビュザンティオンで『イリアス』の写本「ヴェネトゥスA」が書き写される。
  9. 1488年 — デメトリオス・カルココンディリスがフィレンツェでホメロスの最初の印刷版を出版する。
  10. 1795年 — フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフの『Prolegomena ad Homerum』をきっかけに、近代のホメロス問題が始まる。
  11. 1873年 — ハインリヒ・シュリーマンがヒサルルクで「プリアモスの財宝」を発見したと発表する。
  12. 1928年 — ホメロスの伝統的な枕詞を論じたミルマン・パリーの博士論文がパリで発表される。

用語集

長短短六脚韻
音節の長短に基づく、ギリシア叙事詩の六つの韻脚からなる韻律。
枕詞
「足の速いアキレウス」のように、名前に添える描写的な語や表現。
ラプソドス
祭典などでホメロスの詩を朗誦した職業的な朗誦者。
アオイドス
『オデュッセイア』のデモドコスのように、叙事詩を作って歌う歌い手。
イオニア
小アジア西岸の中央部と周辺の島々。イオニア方言を話すギリシア人が住んだ。
ミュケナイ文明
都市ミュケナイにちなむ、後期青銅器時代のギリシア文明。
スコリア
古代や中世の写本の余白に書かれた注釈。
初版本
ある作品の最初の印刷版。
分析派と統一派
19~20世紀の二つの立場。前者は詩を複数の層に分け、後者は作品の統一性を擁護した。
ヒサルルク
一般に古代トロイアの遺跡とされる、トルコ北西部の丘。

よくある質問

ホメロスは本当に目が見えなかったのですか。

分かっていません。失明についての古代の物語は、おそらく詩に登場する盲目の歌い手や、霊感を受けた詩人というイメージに基づいています。

ホメロスは自分で詩を書き記したのですか。

そうではなかった可能性があります。書記に口述したと考える研究者もいれば、何世代にもわたる上演の中で詩が徐々に固定されたと考える研究者もいます。

トロイア戦争は実際にあったのですか。

トロイアは実在した都市で、後期青銅器時代に破壊されました。しかし、詩に描かれたような戦争が起きたかどうかは、今も議論されています。

同じ表現が何度も出てくるのはなぜですか。

それらは、歌い手がその場で長い詩を作る助けとなった伝統的な決まり文句です。ミルマン・パリーがその仕組みを示しました。

『イリアス』と『オデュッセイア』では、どちらが古いのですか。

言葉遣いや内容から、『イリアス』のほうがやや古いと考える研究者が多いですが、成立年代は近いかもしれません。

二つの叙事詩は同じ詩人が作ったのですか。

意見が分かれています。古代にも現代にも、別々の詩人の作と考える人と、両方の背後に一人の卓越した詩人がいると考える人がいます。

『イリアス』と『オデュッセイア』は、ほかの叙事詩とどう比べられますか。

『ギルガメシュ叙事詩』やインドの叙事詩と同じく、長い伝統から生まれ、英雄らしさ、死すべき命、神々の力といった主題を共有しています。

出典・参考文献

  1. Homer. Wikipedia
  2. Homeric Question. Wikipedia
  3. Iliad. Wikipedia
  4. Odyssey. Wikipedia
  5. Milman Parry. Wikipedia
  6. Oral-formulaic composition. Wikipedia
  7. Venetus A. Wikipedia
  8. Homer, Homer, Iliad (Greek text). Perseus Digital Library, Tufts University
  9. Homer, Homer, Odyssey (Greek text). Perseus Digital Library, Tufts University
  10. Albert B. Lord, The Singer of Tales. Harvard University Press, 1960

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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