最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
むかし、ローマは共和政というしくみで治められていました。王は置かず、指導者を選ぶのはふつう1年ごとでした。元老院という大切な会議もありました。ローマの人々はこのしくみをほこりに思っていました。何百年も前に最後の王を追い出したことを覚えていたので、「王」という言葉をきらう人もいました。
ユリウス・カエサルは、ガリア(今のフランスなど)を征服した、すぐれた将軍でした。その後、ローマ人どうしの戦争にも勝ちました。彼は特別な力を持つ「独裁官」になりました。ふつうは数か月だけの役職でしたが、カエサルは一生続けられることになりました。貧しい人や兵士を助けたので、彼を好きな人もいました。一方で、王になろうとしているのではないかと心配する人もいました。
およそ60人の元老院議員が、ひそかにカエサルを殺す計画を立てました。紀元前44年3月15日、ローマ人が「3月のイドゥス」と呼ぶ日に、カエサルは元老院の会議に来ました。計画に加わった人たちは、お願いをするふりをして彼を取り囲み、服にかくしていた短剣を取り出しました。カエサルは23か所を刺され、昔のライバル、ポンペイウスの像の足元に倒れて死にました。
その一人が、カエサルに許され、信頼されていたブルトゥスでした。シェイクスピアの有名な劇では、カエサルは「ブルトゥス、お前もか」と言います。でも、この言葉はずっと後に作られました。古代の作家によると、「お前もか、わが子よ」という意味のギリシア語を話したという人も、何も言わなかったという人もいました。
計画した人たちは、ローマを自由にしたと感謝されると思っていました。でも、ふつうの市民の多くは怒りました。新しい戦争が起こり、計画した人たちは敗れました。そしてカエサルの養子オクタウィアヌスが、アウグストゥスという名でローマ最初の皇帝になりました。共和政を守ろうとした計画は、かえって共和政の終わりにつながったのです。
ひと目でわかる
- 日付
- 紀元前44年3月15日、3月のイドゥス
- 場所
- ローマのカンプス・マルティウスにあったポンペイウス劇場内の会議場、ポンペイウスのクリア(現在のラルゴ・ディ・トッレ・アルジェンティーナ付近)
- 犠牲者
- 終身独裁官(dictator perpetuo)ガイウス・ユリウス・カエサル、55歳
- 共謀者
- マルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌス、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスらが率いた60人以上の元老院議員。名前が分かっているのは約20人
- 傷
- 刺し傷は23か所。医師アンティスティウスによると、致命傷はそのうち1か所だけだった
- 目的
- 王政に近いカエサルの権力を終わらせ、伝統的な共和政を回復すること
- 結果
- 新たな内戦、フィリッピの戦い(紀元前42年)での共謀者の敗北、オクタウィアヌス(アウグストゥス)の台頭とローマ帝政の成立
- 主な史料
- ダマスコスのニコラオス、プルタルコス、スエトニウス、アッピアノス、カッシウス・ディオの著作、およびキケロの書簡と演説
やさしい
何が起きたのか?
紀元前44年3月15日の朝、ローマ元老院はポンペイウスのクリアと呼ばれる会議場に集まった。通常の元老院議事堂は紀元前52年に焼失し、カエサルが建設中の新議事堂も完成していなかった。そのため、かつてカエサルのライバルだったポンペイウスが建てた大劇場に付属するこの会議場が使われていた。
カエサルは遅れて到着した。前夜、妻カルプルニアは恐ろしい夢を見て、家にいるよう懇願した。祭司が行った供犠でも不吉な兆しが現れた。しかし、カエサルが信頼していた共謀者の一人デキムス・ブルトゥスが家を訪れ、元老院を失望させないよう説得した。プルタルコスによると、道中でギリシア人教師アルテミドロスが陰謀を警告する書き付けを渡したが、カエサルは読まなかった。
カエサルが着席すると、元老院議員たちが彼を取り囲んだ。ルキウス・ティッリウス・キンベルは、追放された兄弟の帰還を願い出るふりをしてカエサルのトガを肩から引き下ろした。それが合図だった。プブリウス・セルウィリウス・カスカが最初の一撃を加え、ほかの者も続いた。混乱の中では互いを傷つける者まで出た。カエサルは23か所を刺され、ポンペイウス像の台座のそばに倒れた。
陰謀に加わっていなかった元老院議員たちは、恐慌に陥って逃げた。共謀者たちは短剣を掲げ、自由を叫びながら外へ出た。カエサルの遺体は空になった会議場に残され、やがて奴隷の召使い3人が担架で家に運んだ。そのとき、片腕は担架から垂れ下がっていた。
やさしい
背景:カエサルはいかにして強大な権力を得たのか
ローマは何世紀もの間、共和政をとっていた。権力は、任期1年の公職者、とりわけ2人の執政官と、元公職者からなる元老院の間で分けられていた。ローマ人は紀元前509年ごろ、最後の王タルクィニウス・スペルブスを追放したと語り継いだ。それ以来、王を意味する「レクス」という言葉そのものが嫌われた。
紀元前1世紀には、この制度が揺らぎ始めた。ローマの支配領域は大きく広がり、忠実な軍隊を持つ有力な将軍たちが権力を争った。ユリウス・カエサル(紀元前100年生まれ)は民衆に人気のある政治家として台頭し、紀元前58年から50年にかけて、激しい戦役を重ねてガリアを征服した。元老院内の敵対者が彼の軍指揮権を奪おうとすると、カエサルは紀元前49年、軍を率いてルビコン川を渡り、イタリアへ進んだ。こうしてポンペイウスと元老院政府に対する内戦が始まった。
カエサルは勝利した。ポンペイウスは紀元前48年にエジプトで殺され、カエサルは紀元前45年までにアフリカとヒスパニアに残るポンペイウス派を破った。彼は「クレメンティア」(寛容)で知られた。敗れた敵を処刑する代わりに、マルクス・ブルトゥスやガイウス・カッシウスを含む多くの人を許し、官職を与えた。
やさしい
なぜ共謀者たちはカエサルを殺したのか?
内戦後のカエサルは、それまでのどのローマ人よりも大きな権力を握った。紀元前46年に任期10年の独裁官となり、紀元前44年初めには「終身独裁官」(dictator perpetuo)となった。彼は公職に就く者を決め、元老院は黄金の椅子、古代の王たちの像に並ぶ彫像、存命中の肖像を刻んだ硬貨など、異例の栄誉を認めた。彼の生まれた月クィンティリスも、彼にちなんでユリウス(7月)と改名された。
彼が王になろうとしているという恐れを強める出来事もあった。元老院が栄誉を伝えに来たとき、カエサルは座ったまま迎えた。何者かが彼の像に、王権の印である冠を載せた。紀元前44年2月15日のルペルカリア祭では、同僚の執政官マルクス・アントニウスが人前でカエサルに冠を差し出した。カエサルは拒んだが、世論を試すための演出ではないかと疑う人も多かった。
カエサルはまた、東方のパルティア帝国に対する大規模な遠征のため、3月18日にローマを発つ予定だった。彼は何年も不在となり、その間は支持者たちが公職を握ることになる。共謀者たちにとって、行動を起こす最後の機会だった。
動機は一様ではなかった。ブルトゥスのように、共和政や、王を追放したとされる祖先ルキウス・ユニウス・ブルトゥスの記憶を重んじる者もいた。カエサルに出世を左右されることへの不満、地位の低下、個人的な恨みを抱く者もいた。カエサルに許された元ポンペイウス派も多かったが、デキムス・ブルトゥスやガイウス・トレボニウスのように、長年カエサルに仕えた将校もいた。
中級
共謀者たちと暗殺計画
スエトニウスによると、陰謀には60人以上が加わった。現在までに名前が伝わるのは約20人である。中心人物は、都市法務官で、誠実さを尊敬されていた哲学者でもある政治家マルクス・ユニウス・ブルトゥス、同じく法務官で経験豊かな軍人であり、計画の推進役と見なされることの多いガイウス・カッシウス・ロンギヌス、カエサルが特に信頼し、紀元前42年の執政官に予定されていた将軍デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス、そして元執政官ガイウス・トレボニウスだった。ほかにカスカ兄弟、ティッリウス・キンベル、ミヌキウス・バシルス、パルマのカッシウスらがいた。
共謀者たちは、聖道、選挙の場、元老院の会議のどこで襲うかを話し合った。元老院の会議を選んだのは、カエサルの周囲が元老院議員だけになるためであり、暗殺を個人的な殺人ではなく、統治機関による公的な行為として示せるためでもあった。カエサルは少し前にヒスパニア人の護衛を解任していた。
アントニウスも殺すべきかが議論された。ブルトゥスは、派閥による粛清ではなく正義の行為に見えるよう、殺すのは僭主だけにすべきだと主張した。暗殺当日、トレボニウスが会議場の外でアントニウスを引き止めて話した。デキムスが引き止めたとする記録もある。アントニウスは生き残ってカエサル派を率いることになり、この判断は共謀者たちにとって致命的だった。
共和派の政治家として最も名高い弁論家キケロには、計画が知らされなかった。共謀者たちが彼の決断力を疑ったためかもしれない。キケロはその後、書簡や演説で暗殺を強く称賛し、アントニウスを生かしたことだけを悔やんだ。
中級
3月のイドゥス:不吉な兆し、最後の言葉、致命傷
古代の作家たちは、偉人の死を語る際によくしたように、この日にまつわる不吉な兆しを数多く伝えた。占い師スプリンナは、3月のイドゥスまでに危険が訪れるとカエサルに警告していた。スエトニウスとプルタルコスによれば、当日カエサルが「イドゥスは来た」と冗談を言うと、スプリンナは「来ましたが、まだ過ぎてはいません」と答えた。「3月のイドゥスに気をつけよ」という有名な台詞は、シェイクスピアによる表現である。
カエサルの最後の言葉は分かっていない。スエトニウスによると、最初の一撃を受けたときには叫び声を上げたが、四方に短剣が見えると黙り、顔をトガで覆い、見苦しくない姿で倒れるよう衣のひだを整えたという。またスエトニウスは、ブルトゥスに襲われたとき、ギリシア語で「カイ・スュ、テクノン」(「お前もか、わが子よ」)と言ったと記す著者もいた、と伝える。プルタルコスによれば、カエサルは短剣を抜いたブルトゥスを見ると、トガを頭にかぶって抵抗をやめた。ラテン語の「エト・トゥー、ブルーテ?」(「ブルトゥス、お前もか?」)はルネサンス期の演劇に由来し、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』(1599年)によって広まった。
スエトニウスは、医師アンティスティウスが遺体を調べ、23か所の傷のうち致命傷は胸に受けた2番目の傷だけだったと判断した、と記している。これを記録に残る最初の検死報告と呼ぶこともあるが、行われたのは解剖ではなく遺体の検査だった。
中級
暗殺後:恩赦、葬儀、遺言
共謀者たちには、自由を宣言した後の具体的な計画がなかった。彼らはカピトリヌスの丘に避難し、都市は衝撃に包まれた。軍事力を握っていたのは、執政官アントニウスと、都市の近くの部隊を指揮していたマルクス・アエミリウス・レピドゥスだった。3月17日、元老院はキケロの支持を得て妥協案に合意した。暗殺者たちには恩赦を与える一方、カエサルの決定や人事はすべて有効とした。多くの元老院議員が彼によって地位を得ていたためである。
その後、世論は変わった。公開されたカエサルの遺言には、ローマ市民一人ひとりに300セステルティウスを残し、ティベリス川の向こう岸にある庭園を人々に贈るとあった。また、18歳の大甥ガイウス・オクタウィウスを養子とし、主な相続人に指定していた。フォルムで行われた公葬では、アントニウスの演説と血の付いたカエサルの衣服が群衆の怒りをかき立てた。人々はその場に薪を積んで遺体をフォルムで焼き、松明を持って共謀者たちの家へ押しかけた。ブルトゥスとカッシウスはまもなくローマを去った。
紀元前44年7月、カエサルをたたえる競技会の期間に、明るい彗星が7日間現れた。ローマ人はカエサルの魂が神々のもとへ昇った印と受け止め、これを「ユリウスの星」(sidus Iulium)と呼んだ。この頃カエサルを名乗っていたオクタウィアヌスは、その印を巧みに利用した。
中級
結果:新たな内戦と共和政の終わり
暗殺によって共和政は回復しなかった。まずオクタウィアヌス、アントニウス、元老院が互いに争った。その後、紀元前43年11月、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスは、3人による合法的な独裁体制である第二回三頭政治を成立させた。彼らは敵対者数百人の名前を載せた処刑者名簿を公表した。名を挙げられた者は財産を没収され、見つかれば殺された。キケロも犠牲者となり、紀元前43年12月7日に殺された。
紀元前43年に成立したペディウス法は、カエサルを殺した者たちに有罪判決を下した。トレボニウスは同年にアシアで殺され、デキムス・ブルトゥスもガリアで捕らえられて処刑された。ブルトゥスとカッシウスは東方の属州で軍を集め、自分たちの行為をたたえる硬貨を鋳造した。有名な銀貨の一つには、2本の短剣の間に解放奴隷の帽子が描かれ、「EID MAR」(3月のイドゥス)と刻まれている。紀元前42年10月、アントニウスとオクタウィアヌスはマケドニアのフィリッピで行われた二度の戦いで両者を破り、ブルトゥスとカッシウスはそれぞれ自ら命を絶った。スエトニウスは、暗殺者のうちカエサルの死後3年以上生き延びた者や、自然死した者はほとんどいなかったと記している。
紀元前42年1月1日、元老院はカエサルを神格化し、「神君ユリウス」(Divus Iulius)とした。後に、遺体が焼かれたフォルムの場所に神殿が建てられた。ポンペイウスのクリアは壁で閉鎖され、3月のイドゥスは「父殺しの日」と呼ばれるようになった。元老院がその日に会議を開くことは二度となかった。
最後に争ったのはオクタウィアヌスとアントニウスだった。紀元前31年のアクティウムの海戦に勝ったオクタウィアヌスは、ローマ世界の唯一の支配者となり、紀元前27年にアウグストゥスの名を授かった。彼は王や独裁官の称号を慎重に避けながらも、恒久的な権力を握った。君主政を防ぐために共謀者たちが殺した人物の後継者によって、ローマ帝政が始まったのである。
中級
後世の評価:僭主の討伐か、殺人か?
暗殺が何を意味するかについては、当初からローマ人の意見が分かれた。共謀者たちやキケロにとって、それは最初のブルトゥスの伝統を受け継ぐ、正当で栄誉ある僭主の討伐だった。カエサルの兵士、都市の貧しい人々、そして後継者たちにとっては、許された者たちによる「祖国の父」の殺害、すなわち父殺しだった。アウグストゥスと後の皇帝たちのもとでは、暗殺者を非難する見方が公式となった。それでも、紀元1世紀のルカヌスのように、共和派の理念への敬意を示す作家もいた。
後の時代にも、この物語は繰り返し書き換えられた。ダンテの『神曲』「地獄篇」では、ブルトゥスとカッシウスは主君を裏切った者として、ユダとともにサタンの口で永遠にかみ砕かれる。一方、ルネサンス期のフィレンツェの共和派はブルトゥスをたたえ、ミケランジェロはその胸像を彫った。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』(1599年)はブルトゥスを悲劇的な理想主義者、「ローマ人の中で最も高潔な人」として描き、「3月のイドゥスに気をつけよ」や「友よ、ローマ市民よ、同胞よ」といった台詞を広めた。
近代には、この暗殺が政治的暴力をめぐる議論で引き合いに出されるようになった。18世紀から19世紀の革命家たちは、自由の英雄としてブルトゥスの名を掲げた。一方、その後の展開を、指導者を殺しても目的が達成されるとは限らない証拠と見る人々もいた。歴史家は、共謀者たちのいう「自由」が主として一部の元老院議員層の自由だったことを指摘する。同時に、兵士や一般市民の間でカエサルに実際の人気があったことも認めている。
暗殺現場は、ローマ中心部のラルゴ・ディ・トッレ・アルジェンティーナにあると特定されている。この遺跡は1920年代後半から発掘され、共和政期の神殿跡の奥にポンペイウスのクリアの一部の基礎が見える。現在は野良猫の保護施設がある場所としても知られる。
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史料とその問題点
暗殺を目撃者が記した叙述は残っていない。最も詳しい記録が書かれたのは、事件の約半世紀後から200年以上後にかけてである。最も早いのは、ヘロデ大王やアウグストゥスを知るギリシア人学者ダマスコスのニコラオスによる『アウグストゥス伝』で、おそらく紀元前1世紀末から紀元1世紀初めに書かれた。抜粋でしか残っていないが、陰謀と当日の様子を詳しく伝える。次いでプルタルコスの『カエサル伝』と『ブルトゥス伝』(紀元100年ごろ)、スエトニウスの『神君ユリウス伝』(紀元120年ごろ)がある。アッピアノスの『内乱史』(紀元2世紀)とカッシウス・ディオの『ローマ史』(紀元3世紀初め)は、一連の出来事を続けて描いている。
これらの著者は、アシニウス・ポッリオの同時代史やリウィウスの関連する巻など、現在は失われた先行著作を利用していた。また、不吉な兆しや劇的な演説、高潔なブルトゥスと恨み深いカッシウスを対比する道徳的な描き方など、共通の文学的手法も用いた。カルプルニアの夢、アルテミドロスの書き付け、発せられた言葉の細部は、語り継がれる中で形づくられた物語の一部であり、慎重に扱う必要がある。
事件と同時代の証拠として残るのは、キケロの書簡、とりわけ暗殺後の数週間に友人アッティクスへ送った手紙と、紀元前44年から43年にアントニウスを攻撃した演説『フィリッピカ』である。そこからは暗殺後の数か月間の混乱、期待、失望が分かるが、キケロ自身の立場に偏っている。ブルトゥスが発行した「EID MAR」のデナリウス銀貨や、ポンペイウスのクリアの遺構も物的証拠となる。
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歴史家の間の論争
カエサルは王になろうとしていたのか。ヘレニズム時代の王政を手本に、公然と君主になることを目指したと考える歴史家もいる。一方、嫌われた王の名を使わずに実権を得られる独裁官の地位で満足しており、冠をめぐる出来事は支持者か敵対者による働きかけだったと考える歴史家もいる。古代の史料自体が一致していない。また、終身独裁官となった時点で事実上は君主だったため、「王になりたかったか」という問い自体が、当時の状況に必ずしも合わない可能性もある。
共和政はすでに終わっていたのか。ロナルド・サイムは『The Roman Revolution』(1939年)で、共和政は貴族の派閥争いに変わっており、君主政への移行は避けがたい成り行きだったと論じた。その見方では、暗殺が変えたのは誰が支配者になるかだけだった。別の研究者たちは、展開が偶然の要因に左右されたことを重視する。共謀者たちがアントニウスも殺していたら、あるいはカエサルがパルティアへ出征してそこで死んでいたら、結果は違ったかもしれない。
陰謀を主導したのは誰か。一般によく知られる物語ではブルトゥスが中心となる。近年の研究、とりわけバリー・ストラウスの『The Death of Caesar』(2015年)は、デキムス・ブルトゥスやカエサルの元将校たちの役割に光を当てる。この陰謀には、古くからのポンペイウス派だけでなく、不満を抱くカエサル派も加わっていた。中心人物以外の共謀者の動機は、ほとんど分かっていない。
カエサルは暗殺を予期していたのか。スエトニウスは、健康状態の悪かったカエサルが長生きを望まず、警告を無視したという見方を伝える。一方、護衛を解任したのは、新たな内戦を防ぐためには元老院が自分を必要としている、という自信の表れだと考える人もいる。こうした解釈は結局のところ推測だが、事件を、自由を守る高潔な行為と見るか、先を見通せなかった貴族層の反発と見るか、あるいは双方が状況を見誤った悲劇と見るかに影響している。
重要なポイント
- 共和政
- 選挙で選ばれる任期1年の公職者と元老院によってローマを治める制度。共謀者たちは、一人による支配からこの制度を守ろうとした。
- 僭主の討伐
- 僭主を殺すこと。ギリシア・ローマの思想では正当と見なされることがあり、共謀者たちも自分たちを僭主の討伐者と考えた。
- クレメンティア
- 敗れた敵を許すというカエサルの方針。支持を得た一方で、かつての敵が元老院に残り、その一部が彼を殺した。
- 終身独裁官
- カエサルに与えられた前例のない称号。緊急時の一時的な役職を、恒久的な権力に変えた。
- 意図しなかった結果
- 共和政の回復を目指した暗殺が内戦を引き起こし、アウグストゥスによる恒久的な君主政に至った。
- 記憶と伝説
- ダンテやシェイクスピアから近代の革命家まで、忠誠、自由、暴力についての時代ごとの考えに合わせ、この事件は語り直されてきた。
記録
- 紀元前49年 — カエサルがルビコン川を渡り、ポンペイウスと元老院に対する内戦を始める(紀元前49年)。
- 紀元前48年 — ポンペイウスがファルサルスの戦いで敗れ、エジプトで殺される(紀元前48年)。
- 紀元前46年 — カエサルが任期10年の独裁官となる(紀元前46年)。
- 紀元前44年 — カエサルが終身独裁官となる(紀元前44年初め)。2月15日のルペルカリア祭でアントニウスが彼に冠を差し出す。
- 紀元前44年 — 紀元前44年3月15日、カエサルがポンペイウスのクリアで暗殺される。3月17日、元老院は暗殺者たちに恩赦を与える。
- 紀元前44年 — 紀元前44年7月、カエサルをたたえる競技会で現れた彗星が、神々のもとへ昇る彼の魂の印とされる。
- 紀元前43年 — 第二回三頭政治が成立し、処刑者名簿の公表が始まる。キケロが殺される(紀元前43年)。
- 紀元前42年 — カエサルが「神君ユリウス」として神格化される(1月1日)。ブルトゥスとカッシウスがフィリッピで敗れ、死ぬ(紀元前42年10月)。
- 紀元前31年 — オクタウィアヌスがアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラを破る(紀元前31年)。
- 紀元前27年 — オクタウィアヌスがアウグストゥスの名を授かり、元首政が始まる(紀元前27年)。
- 121年頃 — スエトニウスが、暗殺の重要な記録である『神君ユリウス伝』を書く。
- 1599年 — シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』がロンドンで初演される。
用語集
- イドゥス
- ローマ暦で月の中ごろの日。3月、5月、7月、10月は15日、ほかの月は13日を指す。
- 元老院
- 元公職者からなるローマの会議体。公職者に助言し、大きな権威を持った。
- 独裁官
- もともとは非常時に最高権力を持ち、最長6か月間務める臨時の公職者。
- クリア
- 元老院が会議を開く建物。
- 執政官
- ローマ共和政で毎年選ばれる、最高位の公職者2人のそれぞれ。
- 法務官
- 執政官に次ぐ高位の公職者で、主に司法を担当した。紀元前44年にはブルトゥスとカッシウスが法務官だった。
- プロスクリプティオ(処刑者名簿)
- 法の保護を失ったと宣告された人々の名前を公表すること。名を載せられた者は財産を没収され、殺されることもあった。
- 三頭政治
- 3人が権力を分け合う政治体制。オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる第二回三頭政治は、紀元前43年に法律で正式に成立した。
- 神格化
- ある人物が神になったと公的に宣言すること。カエサルは、ローマ国家によって神格化された最初の指導者だった。
- リベラトレス
- 「解放者たち」という意味で、共謀者たちが自分たちに用いた呼び名。
よくある質問
なぜ「3月のイドゥス」と呼ぶのですか?
ローマ人は、ある月の中ごろの日を「イドゥス」と呼びました。3月のイドゥスは15日で、カエサルが殺された日です。
カエサルは本当に「ブルトゥス、お前もか」と言ったのですか?
そう言ったと記す古代の史料はありません。スエトニウスは、「お前もか、わが子よ」という意味のギリシア語を話したという説を伝える一方、何も言わなかったという説も伝えています。ラテン語の台詞を有名にしたのはシェイクスピアです。
ブルトゥスはカエサルの息子だったのですか?
ほぼ確実に違います。カエサルはブルトゥスの母セルウィリアと長く関係を持ち、後に噂が生まれました。しかし、ブルトゥスが生まれたとき、カエサルはまだ15歳ほどでした。
何人がカエサルを殺したのですか?
スエトニウスによると、60人以上の元老院議員が陰謀に加わり、多くの者がカエサルを刺しました。傷は23か所ありました。
暗殺はローマ共和政を救いましたか?
いいえ。さらに内戦が起こり、共謀者たちは敗れ、ローマ最初の皇帝アウグストゥスによる支配が始まりました。
カエサルが殺された正確な場所はどこですか?
フォルムの元老院議事堂ではなく、ポンペイウス劇場の一部だったポンペイウスのクリアです。その遺構は、ローマのラルゴ・ディ・トッレ・アルジェンティーナにあります。
不吉な兆しや警告の話は信頼できますか?
これらは運命を示す劇的な描写を好んだ、紀元1世紀から3世紀の作家たちによる記録です。実際の噂を反映したものもあるかもしれませんが、歴史家は事実と決めつけず、文学的な伝承として慎重に扱います。
キケロは暗殺に加わりましたか?
いいえ。キケロは計画を知らされていませんでしたが、暗殺後はこれを強く歓迎しました。その後、元老院によるアントニウスへの反対を率い、それが命を失う一因となりました。
出典・参考文献
- Assassination of Julius Caesar. Wikipedia
- Julius Caesar. Wikipedia
- 율리우스 카이사르. 위키백과
- Liberatores. Wikipedia
- Marcus Junius Brutus. Wikipedia
- Curia of Pompey. Wikipedia
- Suetonius, The Lives of the Caesars: Julius (trans. Alexander Thomson). Perseus Digital Library, Tufts University
- Plutarch, Life of Caesar (Loeb translation by Bernadotte Perrin). LacusCurtius (Bill Thayer), University of Chicago
- Ronald Syme, The Roman Revolution. Oxford University Press, 1939
- Barry Strauss, The Death of Caesar: The Story of History’s Most Famous Assassination. Simon & Schuster, 2015
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
