最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
山の中を長く曲がりくねって走る、細い割れ目を歩いていくところを想像してください。両側にそびえる岩の壁は高く、空はほんの細い帯のようにしか見えません。1キロメートル以上進むと、その割れ目が開け、目の前には柱や彫像を持つ巨大な建物が現れます。高さは12階建てのビルほどもあります。しかしそれはれんがで建てられたのではありません。彫刻のように、崖そのものを彫って作られたのです。これが「トレジャリー(宝物殿)」で、ほとんどの訪問者がペトラで最初に目にするものです。
ペトラは、ナバテア人と呼ばれる人々の故郷でした。2,000年以上前、彼らは商人でした。ラクダの隊商は、乳香や没薬という、神殿で焚かれる甘い香りの木の樹脂を、アラビアから地中海沿いの都市まで、砂漠を越えて運びました。ペトラは、忙しい中継地であると同時に、宝物庫のような場所でもありました。
ペトラは、雨が年に数回しか降らない、とても乾燥した場所にあります。それなのに、どうやって何千人もの人がそこで暮らせたのでしょうか。ナバテア人は、水を扱う優れた技術者でした。彼らは岩に水路を彫り、ダムを築き、「シスターン」と呼ばれる大きな地下の貯水槽を掘って、一滴の雨も無駄にせず集め、突然の洪水が都市を押し流さないようにしました。
その後、ローマ人がペトラを支配下に置きました。地震で多くの建物が崩れ、交易は他の場所へ移り、人々は少しずつ去っていきました。何百年もの間、道を知っているのは地元のベドウィンの家族だけでした。1812年、ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトというスイス人の旅行者が、現地の旅人の格好をしてアラビア語を話しながらペトラにたどり着き、世界にその存在を伝えました。
今日、ペトラは世界遺産であり、混雑する年には約100万人が訪れます。それは仕事を生みますが、人々の足音や洪水、風、塩が、柔らかい石を少しずつ削っていきます。ペトラを守ることは、考古学者、ヨルダン政府、そして地元の人々が今も一緒に取り組んでいる、大きな課題なのです。
ひと目でわかる
- 場所
- ヨルダン南部、マアーン県のワディ・ムーサ周辺。ワディ・アラバの東側に広がる砂岩の山々の中
- 建設者
- 乳香・香料の隊商路を支配したアラブの民、ナバテア人
- 主な時代
- 紀元前312年に初めて記録される。紀元前2世紀ごろからナバテア王国の首都。紀元前1世紀〜紀元後1世紀に建設の最盛期
- ローマの支配
- 紀元後106年、トラヤヌス帝のもとで併合され、属州アラビア(アラビア・ペトラエア)の一部となる
- 有名な建造物
- シークの峡谷、アル・ハズネ(「トレジャリー」)、王家の墓、劇場、大神殿、カスル・アル=ビント、アド・ダイル(「モナステリー」)
- 材質
- 柔らかく多彩な砂岩。ほとんどが建てられたのではなく彫られている
- ヨーロッパへの再発見
- 1812年8月22日、ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによる
- 登録状況
- ユネスコ世界遺産(1985年登録)。2007年の一般投票による「新・世界七不思議」の一つ
やさしい
ペトラとは何か
ペトラは、ヨルダン南部、ぎざぎざした砂岩の山々に囲まれた盆地に隠れた古代都市の遺跡である。その名はギリシャ語で、単に「岩」を意味する。これを築いた人々、ナバテア人は、自分たち自身の碑文に現れる名前で、これをラクムと呼んだ。「モーセの谷」を意味する現代の町ワディ・ムーサは、主な入口のすぐ外側にある。
ペトラを有名にしているのは、建設者たちがこの地形をどう利用したかである。彼らはブロックを積んで建物を建てる代わりに、しばしば崖に直接それを彫り込んだ。何百もの岩を彫った正面が谷の壁に並んでいる――墓、儀式用の食事の間、祠堂、住居である。谷の底には、切り出した石による独立した建物もあり、神殿、柱の並ぶ通り、市場、浴場などが含まれるが、そのほとんどは今では崩れている。
数世紀にわたり、ペトラはナバテア王国の首都であった。この国家は、アラビア、エジプト、シリア、地中海沿岸を結ぶ砂漠の交易路を支配していた。その最盛期、紀元後1世紀には、人口はおよそ2万人から3万人と推定されているが、こうした数字は国勢調査の数値というより、根拠のある推測にすぎない。
ペトラは1985年にユネスコ世界遺産に登録された。保護区域は広大で、約2万6,000ヘクタール、およそ260平方キロメートルにおよび、有名なメインルート沿いの建造物よりはるかに多くのものを含んでいる。考古学者たちはしばしば、古代都市のごく一部しか発掘されていないと言う。
やさしい
ペトラを「読む」――シークからモナステリーへの道のり
ペトラは一つの旅として理解するのがいちばんよい。訪問者はまず「バブ・アル=シーク(シークの門)」から歩き始める。ここには最初の大きな墓と、「ジン・ブロック」と呼ばれる大きな石塊が道沿いに立っている。それから道はシークそのものに入る――長さ約1.2キロメートルの、狭く曲がりくねった峡谷である。場所によっては幅がわずか約3メートルしかなく、両側の壁ははるか上まで高くそびえる。シークは人が掘ったものではなく、地殻の動きによって作られ、後に水によって滑らかにされた自然の割れ目である。ナバテア人はこれを舗装し、水路を通し、聖なる石を安置する小さな壁龕をその壁に彫った。1998年の発掘で、ラクダを引く二人の商人を描いた浮き彫りの遺構が見つかっており、この都市を富ませたものを思い起こさせる。
シークの終わりで、峡谷は突然開けて「アル・ハズネ(トレジャリー)」の前に出る。暗く狭い通路との対比は劇的とも言えるほどで、多くの研究者は、この効果が意図されたものだったと考えている。トレジャリーは高さ約39メートル、幅約25メートルである。その2階建ての構造は柱、途中で途切れる切妻、円形の東屋のような「トロス」、そして浮き彫りの人物像で覆われている。下段には通常カストルとポルックスの双子と同定される騎馬像、上段には斧を持つ踊るアマゾンの女性たち、そして中央にはしばしばイシスあるいは女神アル・ウッザーと同定される女性像がある。内部にはただ何の装飾もない、簡素な部屋があるだけである。
トレジャリーを越えると、谷は広がって、いわゆる「ファサードの通り」となる。並ぶ墓の頂部は階段状の装飾(「クロウステップ」の意匠)で飾られている。次に来るのは丘の斜面に彫られた劇場で、約8,500人を収容できたと推定されている。その向かいの東側の崖には、王家の墓――アーン(壺)の墓、シルクの墓、コリント式の墓、宮殿の墓――が連なり、その一部にはピンク、黄、白の石の縞模様が絹のように走っている。
道はその先、市の目抜き通りである柱廊通りを西へ進み、大神殿と庭園・池の複合施設を通り、切り石造りの独立した大きな神殿カスル・アル=ビントへと至る。そこから、約800段の岩を彫った階段が山を登り、ペトラでも最大級の正面を持つ「アド・ダイル(モナステリー)」に達する。その高さと幅はおよそ47〜48メートルである。その途中や近くの山頂には「高台」があり、ナバテア人がいけにえや儀式を行った野外の壇となっている。
ペトラを読み解くとは、三つのことに気づくということである。まず、この都市は移動と突然の眺めを軸に設計されていたこと。次に、墓、神殿、食事の間が混じり合って配置されており、死者と神々が都市生活の一部であったこと。そして、その建築は地元の伝統と、ギリシャ、エジプト、近東の理念を融合させたものであったことである。
やさしい
正面はどのように彫られたのか
ペトラの岩は砂岩であり、鉄の道具で彫るには十分に柔らかく、しかし形を保つには十分に硬い。ナバテア人の石工は、まず崖の全高にわたって足場を組むようなことはしなかった。ペトラやサウジアラビアのヘグラにある未完成の正面を根拠とする通説では、彼らは上から下へ向かって作業したとされる。まず崖の表面をならし、頂上に達するための階段や棚を彫り、いちばん上の細部を彫り、それから下へ向かって石を取り除いていった。彼らが立つ地面は、まだ彫っていない岩そのものであった。
この方法では、間違いを直すのが難しかった。彫り損ねた柱頭を単純に取り替えることはできなかった。またこれは、正面の柱がなにも支えていないことも意味する。それは構造ではなく彫刻なのである。豪華な正面の背後には、簡素な長方形の部屋があることが多く、時には壁に埋葬用のくぼみ(ロクリ)が彫られている。
今日見られる正面はむき出しの石だが、いつもこうだったわけではない。ところどころに漆喰(スタッコ)と塗料の痕跡が残っており、考古学者は、多くの表面がかつて色付きの漆喰で仕上げられ、砂岩本来の縞模様を隠していたと考えている。カスル・アル=ビントのような独立した建物には、切り出した石のブロック、石灰モルタル、さらには壁の中に組み込まれた木材まで使われた。放射性炭素分析による年代測定にも役立ったこの木材は、揺れの一部を吸収することで、建物が地震を生き延びる助けになったのかもしれない。
ナバテアの職人たちはまた、しばしば「ナバテア式柱頭」と呼ばれる、古典的な柱頭の独自の簡素な様式を発展させた。大神殿では、発掘者が象の頭で飾られた柱頭を見つけており、これはナバテア人がいかに広く理念を借用し、それを自分たち流に作り変えていたかを示す印象的な例である。
中級
人工のオアシス:水の技術
ペトラの降水量はきわめて少なく、その多くは短く激しい嵐として降る。住民にとっての課題は二つあった。乾季のために十分な水を蓄えること、そして狭い谷を猛烈な勢いで押し寄せるおそれのある鉄砲水から都市を守ることである。ナバテア人は、ダム、段丘、水路、パイプ、シスターン(貯水槽)からなる網の目状のシステムでこの両方を解決し、この盆地を、しばしば「人工のオアシス」と呼ばれるものに変えた。
このシステムのもっとも目に見える部分はシークの中にある。峡谷の壁に彫られた水路と、そこに設置された素焼きの粘土パイプが、アイン・ムーサの泉を含む都市外の水源から中心部へ水を運んだ。入口では、ダムとトンネルが、ワディ・ムーサの洪水をシークから逸らし、山の周りへ回していた。同じ場所にある現代のダムは、1963年、そして1991年に再建されたもので、古代のものと同じ考え方に従っている。
遺跡全体には、開放型の貯水池もあれば、屋根付きの地下室もある何百ものシスターンがあり、むき出しの岩から流れ落ちる雨水を蓄えていた。側谷の段丘の壁は流出を遅らせ、農業を可能にした。市の中心部の発掘では、島状のあずまやと庭園を持つ大きな池が見つかっており、かつては市場だと考えられていた。砂漠の真ん中に開けた水をたたえる池を保つことは、富と自然の支配を意図的に誇示する行為であった。
水の管理は、ペトラの興隆と、その脆弱さの両方を説明する。水路が維持されている間、都市は多くの人口を養い、印象的な公共空間を支えることができた。364年のような地震がこのシステムを傷つけ、修復のための資金や労働力が乏しくなると、都市での生活は厳しくなっていった。現代の保存作業者たちは古代の排水システムの一部を復活させている。なぜなら、2,000年前にペトラを脅かした同じ洪水が、今日も訪問者や建造物を脅かしているからである。
中級
ナバテア人:砂漠の商人から王へ
ナバテア人はアラブの民で、紀元前4世紀末に文献史料に登場する。紀元前1世紀に著述したギリシャの歴史家ディオドロス・シケリオテスは、より古い史料に基づきながら、紀元前312年の出来事の文脈で彼らを描写している。彼の記述では、彼らは開けた砂漠に暮らす遊牧民であり、家を建てず、自分たちの水源の秘密を守っていた。その年、アレクサンドロス大王の帝国を分割した将軍の一人アンティゴノス1世は、部下の将軍アテナイオスに命じて、ある岩の要害にいた彼らを襲撃させた。襲撃者たちは男たちが留守の間に品々を奪ったが、ナバテア人はこれを追跡して部隊を壊滅させた。この「岩」がペトラそのものであったかどうかは議論があり、当時そこに町があったかどうかも明らかではない。
その後の2世紀の間に、ナバテア人は定住し、豊かになり、王国として組織されるようになった。史料に名の残る最初の王は、紀元前169〜168年ごろに言及されるアレタス1世である。その後の統治者には、紀元前93年ごろにハスモン朝の王アレクサンドロス・ヤンナイオスを破り、死後は神として崇拝されたオボダス1世、王国をダマスカスにまで広げたアレタス3世、そしてペトラの建設が最盛期を迎えた紀元前9年から紀元後40年まで長く統治したアレタス4世がいる。最後の王ラベル2世は106年に亡くなった。
彼らの富は交易から生まれた。ナバテア人は、南アラビアからの乳香や没薬、インドなどから届く香料やその他のぜいたく品を運ぶ隊商路を支配し、それらを北は地中海のガザへ、ダマスカスへ、そしてエジプトへと運んだ。彼らは道中で水、案内人、警備、市場を提供し、通行料を徴収した。この王国には、ハウランのボスラ、ヒジャズのヘグラ(マダイン・サーレフ)、ネゲヴのアヴダトやマムシットといった町が含まれていた。
ナバテアの社会は多言語であった。人々はアラビア語の一形態を話していたようだが、公式の碑文は、近東の国際語であったアラム語で記された。彼らのアラム文字は独特の草書体を発展させ、ほとんどの研究者は、アラビア文字が後にこれから発展したと考えている。ナバテアの貨幣は王だけでなく女王の姿も描いており、碑文には女性が墓を所有していたことが記録されている。これは、エリート層の女性が目に見える法的・公的役割を持っていたことを示唆している。
ローマとの関係は長く複雑であった。紀元前62年、ローマの司令官マルクス・アエミリウス・スカウルスがペトラを包囲し、アレタス3世は貢納に同意した。それ以来この王国は、しばしば隣接するユダヤの政治に巻き込まれながら、ローマの影響下にある属国となった。
中級
神々、墓、そして宴:ペトラの宗教
ナバテア人の主神はドゥシャラ(ギリシャ語ではドゥシャレスとも表記される)であり、その名はふつう、ペトラを取り巻く山地シャラの神を意味すると理解されている。彼は王室から特別な庇護を受けていた。女神たちも重要であり、とくにギリシャのアフロディーテやエジプトのイシスと結びつけられることの多いアル・ウッザーと、アッラートがそうである。当初、ナバテア人は自分たちの神々を、主に単純な立石やブロックとして表し、単純な目だけを持つか、まったく特徴を持たないこともあった。ベテュルと呼ばれるこれらの石は、シークなどの壁龕に今も見ることができる。ギリシャ・ローマの影響のもと、神々はしだいに人の姿で表されるようになった。
礼拝は多くの場で行われた。祭壇、水盤、液体を流すための水路がある山頂の野外の「高台」、道沿いの壁龕や祠堂、そしてカスル・アル=ビントのような市中心部の大きな神殿である。カスル・アル=ビントがどの神を祀っていたかは今も議論があり、ドゥシャラがもっとも一般的な説だが、ギリシャ語の碑文とベテュルの断片から他の説も提起されている。
死もまた、宗教生活の中心をなすものだった。ペトラの岩を彫った正面の大半は墓であり、多くの墓の複合施設には中庭、シスターン、岩に彫られたベンチを持つ食事の間(トリクリニウムあるいはビクリニウム)が含まれていた。家族や結社は、死者や神々をたたえる儀礼的な食事のためにそこに集まったようである。アド・ダイルの碑文は、神格化された王オボダス1世と思われる「神オボダト」に関連する、宗教的な結社あるいは宴会の一種である「マルゼーフ」に言及している。これは、アド・ダイルが墓としてではなく、集会のために使われていたことを示唆している。
中級
ローマの属州、ビザンツの都市、中世の廃墟
106年、ラベル2世の死後、ナバテア王国は皇帝トラヤヌスのもとでローマに併合された。当時シリア総督だったのはアウルス・コルネリウス・パルマである。これは属州アラビア、しばしばアラビア・ペトラエアと呼ばれる属州となった。史料は併合がどのように行われたかについてほとんど語っておらず、戦闘があったかどうかも定かでない。貨幣は新しい領土を祝い、トラヤヌスはボスラからペトラを経て、紅海沿岸のアイラ(アカバ)に至る道路、ウィア・ノヴァ・トライアナを建設した。
ペトラはローマの支配下で崩壊したわけではなかった。「メトロポリス」の称号を与えられ、130年に皇帝ハドリアヌスが訪れた際には、都市はハドリアナ・ペトラという名を名乗った。しかしボスラが属州統治の主な拠点となり、時とともに、より多くの品が紅海とエジプトを経由する海路で運ばれるようになった。
363年の大地震は多くの建物を破壊し、水利システムに損害を与えた。それでも都市は生き続けた。ビザンツ帝国の支配下で、ペトラは司教座となり、パラエスティナ・テルティア属州の主要都市となった。446年、アーン(壺)の墓は教会に改修された。精緻な床モザイクを持ついわゆる「ペトラ教会」の発掘と、近くの建物からは、1993年に約140点の炭化したパピルスの巻物が見つかった。ギリシャ語で書かれ、6世紀にさかのぼるこの「ペトラ・パピルス」は、おもに一つの裕福な家族――助祭テオドロスを中心とする一族――の記録であり、結婚、相続、財産の売買、税に関する事柄が記されている。これらは、6世紀にもペトラがなお活動的な町であったことを示している。
7世紀のイスラームの征服後、ペトラは文献史料にまれにしか現れなくなり、しだいに小さな集落へと縮小していった。12世紀、十字軍はこの地域に小さな砦を築いた。ワディ・ムーサ近くのアル・ワイラや、ペトラ内部のアル・ハビスの頂上にある砦もその一つで、これらは後に失われた。13世紀末、マムルーク朝のスルタン、バイバルスがこの地を通り、遺跡を訪れた。その後、ペトラはヨーロッパの知識から姿を消したが、決して本当に「失われた」わけではなかった。地元のベドウィンは記念建造物の間で暮らし続け、それらをよく知っていた。
中級
ブルクハルト、画家たち、そして考古学者たち
ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルト(1784〜1817年)は、ローザンヌ生まれで、いずれサハラを横断することを期待していたロンドンのアフリカ協会に仕えた旅行者であった。彼はシリアでアラビア語とイスラームを学び、「シェイク・イブラヒム・イブン・アブダッラー」の名で旅をした。1812年8月、ダマスカスからカイロへ向かう途中、彼はワディ・ムーサにある目を見張るような遺跡について耳にした。近くの山にある預言者アロン(ハールーン)の墓でヤギをいけにえに捧げたいのだと説明し、地元の案内人を説得して谷を通り抜けた。8月22日、彼はトレジャリーや他の記念建造物を目にした。長く滞在したり公然と記録を取ったりすることはできなかった。関心を示せば疑いを招いたはずだからである。彼の記録は、死後の1822年に『シリアと聖地紀行』として出版された。
ブルクハルトは、他の人々への道を開いた。1828年、レオン・ド・ラボルドとルイ=モーリス=アドルフ・リナン・ド・ベルフォンが最初の正確な図面を作成した。スコットランドの画家デイヴィッド・ロバーツは1839年に訪れ、その石版画によってペトラの薔薇色の断崖はヨーロッパで有名になった。後の旅行者、写真家、画家たち――1868年のアメリカ人フレデリック・エドウィン・チャーチなど――も、そのロマンチックなイメージに彩りを加えた。20世紀には『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』(1989年)のような映画が、トレジャリーを世界でもっとも見覚えのある古代の正面の一つにした。
科学的な考古学はゆっくりと始まった。1929年、イギリスの考古学者アグネス・コンウェイとジョージ・ホースフィールドが、パレスチナ人の医師で民族学者のタウフィーク・カナーンと、デンマークの学者ディトレフ・ニールセンとともに、初期の発掘と調査を行った。ヨルダンの独立後、ヨルダン考古局と多くの外国の調査団がこの仕事を引き継いだ。主要な事業には、1993年からブラウン大学のマーサ・シャープ・ジョウコウスキーが率いた大神殿の発掘、1990年代にアメリカ東洋研究センターが行ったペトラ教会の発掘、そして住居、神殿、墓、水利システムに関する多くの国からの調査団による長期的な調査が含まれる。
発見は今も続いている。2003年、トレジャリーの前で発掘していた調査団は、現在の地面より低い位置に彫られた墓を見つけ、この正面がかつて谷底からもっと高くそびえていたことを明らかにした。衛星画像やドローンを使った調査は、地上からは見えない構造物を今も発見し続けている。
上級
論争:年代、機能、そして都市の姿
ペトラの建造物のうち、年代が刻まれた碑文を持つものはごくわずかであるため、その年代決定は様式の比較、層序、そして時折の科学的な測定に頼っている。トレジャリーはその典型例である。多くの研究者は今日、これをアレタス4世の治世、紀元前後の時期に位置づけ、彼の墓であったと示唆する者もいるが、過去2世紀にわたる提案は、紀元前1世紀から紀元後2世紀のローマ時代まで幅がある。ジュディス・マッケンジーの著書『ペトラの建築』(1990年)は、その古典的な装飾を分析し、アレクサンドリアなど年代の分かる他の建築と比較することで、正面の相対年代の系列を構築しようとした影響力のある試みであった。彼女の枠組みは広く用いられているが、普遍的に受け入れられているわけではなく、新たな発掘が今もそれを修正し続けている。
機能についても同様に論争がある。トレジャリーは王家の墓だったのか、神殿だったのか、それとも両方の役割を兼ねた記念物だったのか。その簡素な内部の部屋と、その下で見つかった墓は、埋葬の場という解釈を裏づけるが、神々、アマゾン、中央の女性像といった彫刻は、より広い宗教的な意味を示唆する。ブラウン大学が発掘した大神殿は、建物内部に約600席の劇場のような講堂を含んでいる。その発掘者や他の研究者たちは、これが神殿だったのか、評議会の議場だったのか、王の謁見の間だったのか、それとも行政の中心だったのかを議論してきた。神格化されたオボダスをめぐる宴会の結社に言及するアド・ダイルの碑文は、共同体的な儀式を示唆するが、その正確な役割は今も議論されている。
より広い論争は、ナバテア文化そのものの性格に関わる。以前の著述家は、ペトラを地中海の流行を模倣したギリシャ化・ローマ化された都市として描くことがあった。より近年の研究は、ナバテア人自身の主体性を強調する。地元の後援者たちは、ギリシャ、エジプト、メソポタミアの要素を選び取り、ベテュルやクロウステップの正面、宴会の間といったアラビアの伝統と組み合わせて、新しいものを作り出したのである。同じ議論は文字の歴史にも関わっており、ナバテア文字はアラビア文字の発展における重要な結節点だからである。
最後に、この都市全体がどのような姿をしていたのかという問いがある。観光ルートは主に記念建造物の中心部を通るが、調査によれば、そこにははるかに広がりのある景観――住居、農地、採石場、水利施設――が存在していた。2万〜3万人という人口の推定は大まかなものであり、住宅密度や水の供給についての仮定に左右される。
上級
保存、観光、そしてバドゥール族:ペトラはだれのものか
ペトラの美しさは、その弱さでもある。砂岩は多孔質で柔らかい。水分が運ぶ塩が石の内部で結晶化し、表面を剥がれさせる。風は正面に砂を吹きつけ、鉄砲水は谷を削り取る。地震はこの遺跡に繰り返し損害を与えてきた。こうした自然の脅威に加えて、人為的な脅威もある。手入れされない構造物の崩壊、排水の不備、不適切な材料を使った修復作業、そして訪問者そのものによる圧力である。この遺跡の状態に関する調査は、崩壊、洪水による浸食と排水不良、塩による風化、不適切な修復、そして持続不可能な観光を、主要なリスクとしてしばしば挙げている。
観光は1990年代以降に劇的に増加し、2019年には年間100万人を超えたが、地域紛争の年や、2020年のようなパンデミックの年には数が急減する。観光はワディ・ムーサや近隣の村で何千もの雇用を支えているが、人混みは階段や床をすり減らし、ホテルは保護区域の縁を圧迫している。1989年に設立されたペトラ国家遺産基金、ヨルダン考古局、そして国際的なパートナーたちは、シークの舗装を修復し、古代の洪水制御システムの一部を再建し、記念建造物を安定させてきた。観光客を乗せるロバやラクダの利用も、動物福祉の観点から批判されている。
もっとも敏感な問題は、ペトラ内部の洞窟やテントで何世代にもわたって暮らし、農業や牧畜を営み、後には観光業で働いてきたベドウィンの一部族、バドゥール(ベドゥルとも表記される)に関わるものである。彼らの起源についての伝承はさまざまで、古代のナバテア人と結びつける説もあれば、より古い、あるいは異なる祖先と結びつける説もあり、人類学者ケネス・W・ラッセルは、これらの物語がどのように用いられてきたかを研究してきた。1985年にペトラが世界遺産に登録されたころ、ヨルダン政府は約140のバドゥール家族を、約10キロメートル離れた新しい村ウム・サイフーン(正確な距離は資料によって異なる)へ移住させ、そこには住宅、学校、診療所、電気、水道が提供された。
この移住についての評価は分かれている。支持者は、これが記念建造物を保護し、家族に近代的なサービスを提供したと主張する。批判者は、これが人々を、彼らの故郷であり生計の場でもあった土地から切り離したこと、村がすぐに過密になったこと、そして地元の共同体が観光収入や意思決定を必ずしも公平に分かち合ってこなかったことを指摘する。2024年にこの地域からさらに住民が立ち退かされたという報告は、この問題がまだ決着していないことを示している。ペトラの事例は今日、記念建造物を保護することと、そこに暮らす人々の権利や知識を尊重することとの間の緊張を示す例として、文化遺産研究の中でしばしば取り上げられている。
重要なポイント
- 岩を彫る建築
- ブロックを積み上げるのではなく、崖から石を取り除いて作る建物。ペトラでは正面は通常上から下へ彫られたため、柱や切妻は構造ではなく彫刻である。
- 隊商経済
- ペトラの富は、乳香、香料、ぜいたく品のための砂漠の交易路を支配し、それに水、警護、市場を提供し、通行料を徴収したことから生まれた。
- 力としての水
- ダム、水路、シスターン、池によって、ナバテア人は砂漠で暮らし、都市を鉄砲水から守り、市中心部の野外の池と庭園のようなぜいたくさえ示すことができた。
- 文化の融合
- ナバテアの建設者は、アラビアの伝統(聖なる石、クロウステップの意匠、宴会の間)を、ギリシャ、エジプト、メソポタミアの形式と組み合わせ、単なる模倣ではなく取捨選択と適応を行った。
- 劇場としての景観
- シークの暗く曲がりくねった通路と、トレジャリーの突然の眺めは、建設者たちが劇的な効果のために自然の地形をどう利用したかを示している。
- 長く続いた後半生
- ペトラは106年に消え去ったわけではない。ローマとビザンツの都市として存続し、教会とパピルス文書庫を抱え、十字軍の砦を引きつけ、ベドウィンの共同体の故郷であり続けた。
- 生きた遺産
- 現代の保存活動は、脆い石、大衆観光、そしてバドゥール族のような地元住民の権利のバランスを取る必要があり、ペトラを「遺産はだれのものか」をめぐる議論の重要な事例にしている。
記録
- 紀元前312年 — アンティゴノス1世が、岩の要害にいたナバテア人を襲撃させる――ディオドロス・シケリオテスが記録した、ナバテア人についての歴史上最初の言及(紀元前312年)。
- 紀元前169年頃 — 史料に名の残る最初のナバテア人の統治者アレタス1世が言及される(紀元前169〜168年ごろ)。
- 紀元前62年 — ローマの司令官マルクス・アエミリウス・スカウルスがペトラを包囲し、アレタス3世が貢納に同意する(紀元前62年)。
- 紀元前9年 — アレタス4世が長い治世(紀元前9年〜紀元後40年)を始める。ペトラの建設がもっとも盛んだった時期であり、トレジャリーもふつうこのころとされる。
- 106年 — ラベル2世の死後、ローマがトラヤヌスのもとでナバテア王国を併合し、属州アラビアを作る。
- 363年 — 大地震が多くの建物を破壊し、水利システムに損害を与える。
- 446年 — アーン(壺)の墓が教会に改修され、ペトラのビザンツ・キリスト教時代を反映する。
- 1100年頃 — 12世紀、十字軍がアル・ワイラとアル・ハビスに小さな砦を築く。
- 1812年 — 8月22日、ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトが、記録に残る最初の近代ヨーロッパ人としてペトラを訪れる。
- 1929年 — アグネス・コンウェイ、ジョージ・ホースフィールド、タウフィーク・カナーン、ディトレフ・ニールセンが初期の発掘と調査を行う。
- 1985年 — ペトラがユネスコ世界遺産に登録される。同じころ、約140のバドゥール家族がウム・サイフーンへ移住させられる。
- 1993年 — ペトラ教会で約140点の6世紀のパピルスが炭化した状態で見つかる。大神殿の発掘が始まる。
用語集
- ナバテア人
- 砂漠の交易路を支配し、紀元前2世紀ごろから紀元後106年まで、ペトラを中心とする王国を治めたアラブの民。
- シーク
- ペトラの主要な入口をなす、長さ約1.2キロメートルの狭い自然の峡谷。
- アル・ハズネ
- アラビア語で「トレジャリー(宝物殿)」の意。ペトラでもっとも有名な岩を彫った正面で、頂上の石の壺に財宝が隠されているという地元の伝説にちなんで名づけられた。
- ベテュル
- 神を表すために用いられた聖なる立石やブロック。ナバテアの宗教で一般的なもの。
- ドゥシャラ
- ナバテア人の主神。ペトラを取り巻く山々と王家に結びつけられる。
- 高台
- 丘や山頂にある野外の聖域で、いけにえや供物のための祭壇と水盤を持つ。
- トリクリニウム/ビクリニウム
- 三方(あるいは二方)にベンチを備えた食事の間。ペトラでは、墓や神々に関わる儀礼的な宴会に使われた。
- トロス
- 円形の柱を持つ構造物。トレジャリーでは上階の中心部を成す。
- シスターン
- しばしば岩を彫って作られた、雨水を蓄えるための水槽。
- アラビア・ペトラエア
- 106年、ナバテア王国から作られたローマの属州アラビア。
- バドゥール
- 何世代にもわたりペトラ内部で暮らしたベドウィンの部族。1980年代に村ウム・サイフーンへ移住させられた。
よくある質問
なぜペトラは「バラ色の都市」と呼ばれるのですか?
その砂岩の多くが、とくに朝夕の光の中でピンクや赤に輝くためです。この表現は19世紀の英語の詩に由来し、正確というより詩的なものです。岩には黄色、白、紫、茶色の縞も見られます。
トレジャリーには本当に財宝があるのですか?
いいえ。この名前は、正面の頂上にある石の壺に財宝が隠されているという地元の伝説に由来します。壺に残る弾痕は、それを撃って開けようとした人々によるものとされています。この建物は、おそらく王家の墓か、宗教的な機能を持つ記念物だったと考えられています。
機械もなしに、どうやってこれほど巨大な建物を彫ったのですか?
鉄のノミやピック、そして多くの技術と綿密な計画によってです。石工はふつう崖の頂上から始め、まだ彫っていない下の岩の上に立ちながら下へ向かって作業しました。
ペトラは本当に「失われて」いたのですか?
ヨーロッパ人にとってだけです。地元のベドウィンはこの場所を絶えず知り、使い続けており、マムルーク朝のスルタン、バイバルスのような中世の旅人もここを訪れています。1812年のブルクハルトの訪問が、これをヨーロッパの学問の世界に紹介したのです。
ローマ人はペトラを破壊したのですか?
いいえ。ローマは106年にこの王国を併合しましたが、都市はしばらくの間繁栄を続けました。その衰退は緩やかで、交易路の変化、他の地域の中心地の台頭、そしてとくに363年の地震と結びついていました。
ペトラの建造物の年代決定はどれほど確かなのですか?
あまり確かではありません。年代が刻まれた正面はほとんどないため、年代決定は様式分析、発掘層、いくつかの科学的手法に頼っています。たとえばトレジャリーは、通常アレタス4世の治世あたりに位置づけられますが、それより早い、あるいは遅い年代も提案されています。
ペトラの洞窟に暮らしていた人々はどうなったのですか?
多くのバドゥール家族が、1980年代にヨルダン政府によって新しい村ウム・サイフーンへ移住させられました。この移住は近代的なサービスをもたらしましたが、住まいと生計の喪失も伴い、今も議論が続いています。
出典・参考文献
- Petra. Wikipedia
- Nabataean Kingdom. Wikipedia
- Al-Khazneh. Wikipedia
- Siq. Wikipedia
- Ad Deir. Wikipedia
- Great Temple (Petra). Wikipedia
- Petra papyri. Wikipedia
- Johann Ludwig Burckhardt. Wikipedia
- Bedul. Wikipedia
- Judith McKenzie, The Architecture of Petra. Oxford University Press (British Academy Monographs in Archaeology), 1990
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
