最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
約2500年前、ペルシアの王たちは、当時の世界でいちばん大きな帝国を治めていました。その領土は、西のエジプトやギリシアから、東のインダス川まで広がっていました。紀元前518年ごろ、ダレイオス1世という王は、故郷のパールサに立派な宮殿の町を造ろうと決めました。ギリシア人は後に、その町を「ペルシア人の町」という意味のペルセポリスと呼びました。
建築にたずさわった人々は、山のふもとに、サッカー場をいくつも合わせたより大きな石の台を造りました。その上に、細くて高い石の柱が林のように並ぶ大広間を建てました。柱の中には、6階建ての建物ほど高いものもありました。柱のてっぺんには、2頭の雄牛などの動物の彫刻があり、木の屋根を支えていました。
ペルセポリスでとくに有名なのは、浮き彫りと呼ばれる石の絵です。大きな階段に沿って、彫られた人々が長い列を作っています。さまざまな土地から来た人々は、ちがう服や帽子を身に着け、馬、ラクダ、金の器、布、ライオンの子どもなどを王への贈り物として運んでいます。帝国の人々が行進するようすを石に表したものです。
考古学者は、小さな粘土板も何千枚も見つけました。そこには、くさび形の文字で、働く人が穀物やぶどう酒、ビールをどれだけ受け取ったかが記録されています。赤ちゃんを産んだ女性の働き手には、食べ物が多く配られたこともわかります。
紀元前330年、アレクサンドロス大王がペルシア帝国を征服し、その軍がペルセポリスに火をつけました。屋根は燃えて崩れましたが、石の柱や門、彫刻の多くは残りました。今、ペルセポリスはユネスコの世界遺産です。イランや世界各地から来た人々が、昔の使節も上った広い階段を歩いています。
ひと目でわかる
- 建設
- 紀元前518~515年ごろ、ダレイオス1世のもとで着工。クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世と後のアケメネス朝の王たちが、紀元前330年まで拡張した
- 場所
- イランのファールス州、シーラーズの北東約60 kmにあるマルヴダシュト平野のクーフ・エ・ラフマト(「慈悲の山」)のふもと
- 建設にたずさわった人々
- アケメネス朝ペルシア帝国(紀元前550~330年ごろ)。帝国の多くの民族の働き手や職人が参加した
- 構造
- 約12万5000 m²の高い石の基壇に謁見の間、宮殿、宝物庫、門が並ぶ。背後の山には王墓が岩を掘って造られた
- 有名な建造物
- 23の使節団を表した階段の浮き彫りを持つアパダーナ(謁見の間)、万国の門、百柱の間
- 文書庫
- 主にエラム語で書かれたペルセポリス城砦文書(紀元前509~493年)と宝物庫文書(紀元前492~457年)
- 破壊
- 紀元前330年にアレクサンドロス大王の軍によって焼かれた
- 指定
- 1979年からユネスコ世界遺産
やさしい
ペルセポリスとは何か
ペルセポリスはアケメネス朝ペルシア帝国の王都の一つだった。この帝国は、中東の大部分、エジプト、アナトリア、中央アジアを初めて一つの王朝のもとにまとめた。その古代ペルシア語名はパールサで、地域と人々を指す名前、すなわちペルシアとペルシア人の名と同じである。ギリシア語名のペルセポリスは、単に「ペルシア人の町」を意味する。後のイランの人々は建設者が誰かを知らなくなり、イランの伝承に登場する伝説上の王にちなみ、「ジャムシードの玉座」を意味するタフテ・ジャムシードと呼んだ。
遺跡は、イラン南西部にあるペルシア人の故地、ファールス州のマルヴダシュト平野で、山腹に接して築かれた広大な基壇の上にある。そこには謁見の間、宮殿、宝物庫、門楼、倉庫などの壮大な建物が並んでいた。帝国にはスサ、バビロン、エクバタナなど複数の都があり、王たちはその間を移動した。ペルセポリスは、王朝の本拠地で王の威光を示し儀式を行う場所であるとともに、重要な行政の中心地でもあった。
今日の遺跡には、立ったまま残る柱、彫刻のある門、浮き彫りで覆われた階段、岩を掘って造られた王墓がある。1979年にユネスコ世界遺産一覧表に登録されたペルセポリスは、古代世界で最も重要な考古遺跡の一つであり、イランの歴史を象徴する場所でもある。
やさしい
ペルセポリスの見方:基壇を歩く
昔も今も、訪問者は北西の隅に着き、段差の低い幅広の二重階段を上る。これは威厳を保って進めるように、おそらく馬に乗ったままでも上れるように造られた。上にはクセルクセス1世が建てた万国の門が立つ。西側の入口は巨大な石の雄牛、東側の入口は人の頭を持つ翼のある雄牛が守り、門を守護する像を置くアッシリアの伝統を受け継いでいる。古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の3言語による碑文には、建設者としてクセルクセスの名が記されている。
南には、ダレイオス1世が着工しクセルクセスが完成させた大謁見の間、アパダーナがそびえる。一辺がおよそ60メートルの正方形の中央広間には36本の柱が立ち、三方の柱廊を合わせると計72本に達した。柱は高さ約20メートルで、背中合わせになった2頭の雄牛、ライオン、またはグリフィンの前半身を彫った柱頭が、杉の屋根梁を支えていた。現在、立ったまま残る柱はわずかである。
さらに南と東には、ダレイオスの宮殿(タチャラ)、クセルクセスの宮殿(ハディシュ)、トリピュロンまたは会議の間と呼ばれる中央の建物、そして基壇上で最大の屋根付き空間だった百柱の間がある。百柱の間はクセルクセスが着工し、アルタクセルクセス1世が完成させた。南東の隅には帝国の富を収める宝物庫があった。基壇の上方の山には、一般にアルタクセルクセス2世とアルタクセルクセス3世のものとされる王墓が掘られている。
柱、扉や窓の枠、階段には地元の灰色の石灰岩が使われ、壁は厚い日干しれんがで造られたが、壁の大部分は失われた。彫刻はもともと鮮やかな色で彩られ、金属の装飾や象眼も施されていた。研究者は浮き彫りに顔料の痕跡を見つけている。
やさしい
石に刻まれた行列:アパダーナの浮き彫り
ペルセポリスで最も有名な彫刻は、アパダーナの北側と東側の階段を飾っている。一方には、帽子や服装で見分けられるペルシア人とメディア人の貴族や衛兵が列をなし、花を持つ者も交えながら歩き、語り合っている。もう一方には、帝国の各地から来た23の使節団が近づく姿があり、それぞれの一行は役人に率いられ、その役人は一人の手を引いている。
使節団はそれぞれの土地の衣装を着て、馬、ラクダ、こぶのある雄牛、雄羊、布、金銀の器、武器、宝飾品、オカピに似た動物、レイヨウ、ライオンの子どもなど、その土地に特徴的な贈り物を運ぶ。研究者は古代ペルシア語の王の碑文にある地名一覧を手がかりに、メディア人、エラム人、アルメニア人、リュディア人、イオニアのギリシア人、バビロニア人、エジプト人、バクトリア人、インド人、アラビア人、ヌビア人などを特定しようとしているが、判断が定まらないものもある。
場面の合間には、ライオンが雄牛を襲う図柄が繰り返し彫られている。これは季節の移り変わり、王権、宇宙の秩序を象徴する可能性があるが、正確な意味については議論が続く。目を引くのは、描かれていないものだ。以前のアッシリアの宮殿の壁にあった戦争の場面とは違い、戦闘も、殺される捕虜も、血を流す敵もいない。ペルセポリスは、王の周りに集う平和で秩序ある世界として帝国を表している。
中級
誰が、どのようにペルセポリスを建てたのか
キュロス大王は紀元前550年ごろにアケメネス朝を興し、約40 km北のパサルガダエに都を築いた。キュロスかその息子カンビュセスがすでにペルセポリスの場所を選んでいたと考える研究者もいるが、本格的な建設はダレイオス1世(在位紀元前522~486年)のもとで始まった。彼はベヒストゥン碑文に記された激しい王位継承争いの後に権力を握った。建設はクセルクセス1世(在位紀元前486~465年)とアルタクセルクセス1世(在位紀元前465~424年)の時代にも続いた。後の王たちも小規模な建造物を加え、アレクサンドロスが到着したときにも未完成の部分があった。
ダレイオスは創建碑文の中で、帝国の諸民族が力を合わせて建物を造ったことを強調している。スサの宮殿に関する碑文には、帝国各地から運ばれた材料と、イオニア、サルディス、エジプト、バビロンなどから来た働き手が列挙されている。ペルセポリスでは、1933年にアパダーナの四隅で発見された金銀の礎板に、ダレイオスの支配領域がソグディアナの向こうのスキタイ人の地からクシュまで、インドからサルディスまで広がると記されている。
ペルセポリス城砦文書は、労働力について非常に詳しい姿を伝える。そこには、エジプト人、イオニア人、リュディア人、バビロニア人、トラキア人など、多くの民族からなるクルタシュと呼ばれる働き手に支給された穀物、ぶどう酒、ビール、羊などが記録されている。男女ともに食糧の支給を受け、同じ仕事の男性と同量を受け取る女性もいた。出産した母親には追加の食糧が支給され、女の子より男の子を産んだ場合のほうが多かった。これらの働き手が自由な労働者、移住を強いられた人々、従属的な労働者のいずれだったかは議論されている。しかし粘土板が示すのは、鎖につながれた奴隷という姿ではなく、国家が組織的に支給を行う制度である。
中級
石の建造物を支えた帝国
ダレイオス1世の時代に最盛期を迎えたアケメネス朝の領土は、リビアやエーゲ海からインダス川流域と中央アジアまで広がった。帝国はサトラップ領と呼ばれる地方に分けられ、中継所を備えた王の道で結ばれ、銀や物品で税や贈り物を集めた。城砦文書には、封印された文書を携えた旅人が、インド、エジプト、サルディスなどの遠方へ行き来する途中、街道沿いの中継所で食糧を受け取ったことが示されている。
アケメネス朝は行政に複数の言語を使った。おそらくダレイオスの時代に作られた古代ペルシア語の楔形文字は、主に王の碑文に使われた。ペルセポリスの日常的な記録は、イラン南西部の古い言語であるエラム語で主に記され、帝国の共通語だったアラム語の記録も多い。バビロニア語(アッカド語)は王の碑文やメソポタミアで使われた。
碑文に表れた王権の理念では、王は神アフラ・マズダーに選ばれ、「虚偽」に対抗して真実と秩序を守る存在とされる。帝国の諸民族が調和のうちに贈り物を運ぶアパダーナの浮き彫りは、この理念を目に見える形にしたものだ。多くの歴史家は、ペルシアの支配下で地域の慣習、言語、宗教が存続することを認めた点にこの帝国の特徴を見る。ただし、反乱が起きた際には厳しく鎮圧した。
中級
アレクサンドロスとペルセポリスの炎上
紀元前331年のガウガメラの戦いでダレイオス3世を破った後、マケドニアのアレクサンドロスはペルシアへ進軍した。紀元前330年初めにペルセポリスへ到着すると、兵士たちに町の略奪が許され、莫大な財宝が運び去られた。数か月後の紀元前330年春、基壇上の宮殿群に火が放たれた。
その理由について古代の史料は一致しない。アリアノスは、先行する記録に基づき、紀元前480年にペルシア軍がアテナイの神殿を焼いたことへの計画的な復讐として描く一方、自身は賢明な行為だとは考えなかったと述べる。ディオドロス、プルタルコス、クルティウスは、より劇的な話を伝える。酒宴の席でアテナイ出身の遊女タイスがアレクサンドロスに宮殿を焼くよう促し、彼が最初のたいまつを投げたという。現代の歴史家は、火災がギリシア人に向けた計算された政治的な意思表示だったのか、ペルシア人に帝国の終わりを知らせる合図だったのか、酔った勢いによるものだったのか、あるいはそれらが重なったのかを議論している。
考古学者は厚い灰の層や焼け焦げた杉の梁、宝物庫の多くの品が壊された痕跡を発見した。火災で屋根と日干しれんがの壁は失われたが、石造部分は残り、宝物庫の粘土板も保存された。イランの人々にとって、この炎上は長く文化的な惨事として記憶されてきた。ギリシア・ローマの文献では、復讐やアレクサンドロスの人物像を語る物語としてしばしば描かれた。
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火災の後:記憶、伝説、再発見
ペルセポリスが王都として再建されることはなかったが、忘れ去られたわけでもない。近くの都市イスタフルは、後のペルシア諸王朝のもとで重要になった。後世の支配者も遺跡に足跡を残している。ダレイオスの宮殿には、ササン朝時代の中期ペルシア語碑文と、10世紀のブワイフ朝君主アドゥド・アッダウラのアラビア語碑文が刻まれている。ペルシアの伝承では、遺跡は『シャー・ナーメ』に登場する伝説上の王ジャムシードと結び付けられ、タフテ・ジャムシードという名が生まれた。ソロモン王と結び付けられることもあった。
ヨーロッパの旅行者は15世紀以降に訪れ、遺跡を記述し、絵に描いた。デンマーク系ドイツ人の旅行者カールステン・ニーブールは1765年に碑文を丁寧に写し取った。ドイツの学者ゲオルク・フリードリヒ・グローテフェントはこの写しを使い、1802年に古代ペルシア語の楔形文字にある複数の王名を正しく特定した。これは楔形文字の解読に向けた初期の重要な一歩となった。
科学的な発掘調査は1931年にシカゴ大学東洋研究所のエルンスト・ヘルツフェルトのもとで始まり、1935~1939年にはエーリヒ・シュミットが引き継いだ。調査隊はアパダーナの階段、宝物庫、粘土板の文書庫を発掘し、いわゆる「クセルクセスのハレム」の一部を、調査拠点兼博物館として復元した。その後もイランの考古学者が調査を進め、1960年代からはイタリアのチームも修復に取り組んだ。1971年にはモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィーがペルセポリスでイラン王制2500年祭を盛大に催し、その費用と政治的意図が批判された。
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粘土板の文書庫:帝国の実務記録
1933年、ヘルツフェルトの調査隊は基壇の北東にある城壁の中から、数万点の粘土板とその破片を発見した。これらの城砦文書はダレイオス1世の治世中、紀元前509~493年のものだ。大部分はエラム語で、約1000点はアラム語、少数はその他の言語で記され、古代ペルシア語、ギリシア語、フリュギア語のものもそれぞれ1点ある。倉庫から働き手、役人、旅人、王家、宗教儀礼へ食糧や家畜が配分されたことを記録している。これより小規模な別の宝物庫文書(紀元前492~457年)には、一部が銀で行われた支払いが記されている。
これらの粘土板は研究のため、1935年にイランから東洋研究所へ貸し出された。リチャード・ハロックが1969年にエラム語文書2087点を刊行すると、研究は大きく進んだ。2006年以降はマシュー・ストルパーが率いるペルセポリス城砦文書プロジェクトが、残る資料の記録と刊行に取り組んでいる。数百点の粘土板は、長年にわたってイランへ返還された。また、文書群は「ルービン対イラン・イスラム共和国訴訟」の対象にもなった。1997年の爆破事件の被害者たちは、イランに対する判決に基づく賠償に充てるため粘土板の差し押さえを求めたが、2018年に米国最高裁判所は全員一致で、その法律に基づく文化財の差し押さえは認められないと判断した。
文書庫は、ギリシア人の歴史家たちの記述にはない世界を明らかにする。エラムやイランの神々への供物を含む国家負担の宗教的な供物、王の道を使った移動、領地と働き手を持つイルダバマやイルタシュドゥナ(アルテュストネ)といった王家の女性たちの役割、そして古代帝国の日常的な運営である。粘土板に残る何千もの印章の押印も、アケメネス朝美術の重要な史料となっている。
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学術上の論点:役割、意味、歴史の見方
ペルセポリスは何のために使われたのか。かつて有力だった見解では、主に新年祭(ノウルーズ)に使われる儀礼都市で、各地の使節団が贈り物を持参し、アパダーナの浮き彫りもその行事を記録したものとされた。現在、多くの研究者は、ペルセポリスとノウルーズを直接結び付ける古代の証拠はないと注意を促している。また、城砦文書は周辺地域が年間を通じて活発な地方行政の中心だったことを示す。基壇は王の居所、儀礼の舞台、宝物庫、行政拠点を兼ねていたと考えるのが適切かもしれない。
浮き彫りは何を表すのか。以前の研究者は使節団が「貢納」を運ぶ姿と説明することが多かった。一方、実際の出来事の記録ではなく、帝国の秩序を理想化した図像であり、贈り物も通常の税ではなく象徴的な献上品だと論じる研究者もいる。玉座の王と皇太子が役人を迎える二つの中央謁見図は、古代にアパダーナの階段から宝物庫へ移された。そこに描かれた王が誰かについても議論がある。
帝国の歴史をどう語るべきか。何世紀もの間、西洋のペルシア像は、ペルシアの敵の視点から記したヘロドトスらギリシア人の著作や、後に生まれた、ペルシアの「退廃」がアレクサンドロスの勝利につながったという物語に左右されてきた。1980年代以降、ヘレーン・サンシシ=ウェールデンブルフとアメリー・クアートが主催したアケメネス朝史の研究会や、ピエール・ブリアンら歴史家の仕事は、ペルシア語、エラム語、バビロニア語、アラム語の史料を研究の中心に据えるよう促した。碑文、浮き彫り、文書庫を備えるペルセポリスは、この転換の中心にある。一方、イランでは、この遺跡は強い国民的意味を持ち、パフラヴィー朝とイスラム共和国のもとで異なる解釈がなされてきた。
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証拠、保存、未解決の問題
ペルセポリスについてわかっていることの多くは、1930年代のシカゴ大学による発掘調査、なかでもエーリヒ・シュミットの全3巻の『Persepolis』(1953~1970年)による。発掘者たちは現在の基準から見れば急いで調査を進めたため、地層、建設の順序、持ち去られたり復元されたりしたものについて疑問が残る。浮き彫りや遺物の一部は、古物取引を通じて、またはそれ以前の時代に遺跡から持ち出され、現在はイラン国外の博物館に収蔵されている。
保存には、石灰岩の風化、浮き彫りに生える地衣類などの生物、雨や気温の変化の影響、観光による負担といった課題が続いている。イランの保存修復専門家は、ときに国際的な協力者とともに石材を監視・処置しており、どの程度の修復や保護屋根が適切かも議論してきた。
未解決の研究課題には、各建物の詳しい建設年代、浮き彫りの元の彩色、使節団の特定、ペルセポリスとパサルガダエやナクシェ・ロスタム(ダレイオス1世ら4人の王が岩窟墓に葬られた場所)など近隣の遺跡との関係、基壇と周囲の下町がどのように連携していたかがある。城砦文書の新たな解読も、その姿を変え続けている。
重要なポイント
- 王権の表現
- ペルセポリスは、訪問者や臣民にアケメネス朝の王の権力、秩序、富を示すよう設計された。
- 平和な帝国の姿
- 浮き彫りには、戦争や残虐な場面ではなく、帝国の諸民族が調和のうちに贈り物を運ぶ姿が描かれている。
- 多くの民族による建設
- 帝国各地から集まった働き手や職人、材料が王の建造物に使われた。
- 行政の中心地
- 粘土板の文書庫は、ペルセポリスが食糧の支給、税、移動、記録管理の拠点だったことを示す。
- 多言語の帝国
- 古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語、アラム語が碑文や記録で並行して使われた。
- 破壊と記憶
- アレクサンドロスによるペルセポリスの焼き討ちは、ギリシア、イラン、現代の物語で異なる形で記憶されてきた。
- ギリシア側の見方を越えて
- ペルセポリスは、主にギリシア人の著作に基づく従来の歴史像を見直すための、ペルシア側の証拠を提供する。
記録
- 紀元前522年 — ダレイオス1世が王位継承争いの後に即位する(紀元前522年)。
- 紀元前518年頃 — ダレイオス1世のもとでペルセポリスの基壇の建設が始まる(紀元前518~515年ごろ)。
- 紀元前509年 — 現存する最古のペルセポリス城砦文書が書かれる(紀元前509年。文書は紀元前493年まで続く)。
- 紀元前486年 — クセルクセス1世が即位し、万国の門を含む建設を続ける(紀元前486年)。
- 紀元前480年 — クセルクセスの軍がアテナイのアクロポリスにある神殿を焼く(紀元前480年)。後に復讐の理由として挙げられる。
- 紀元前330年 — アレクサンドロス大王の軍がペルセポリスを略奪し、焼く(紀元前330年)。
- 1802年 — ゲオルク・フリードリヒ・グローテフェントが古代ペルシア語の楔形文字にある王名を特定する。
- 1931年 — エルンスト・ヘルツフェルトがシカゴ大学東洋研究所の発掘調査を始める(1935~39年にはエーリヒ・シュミットが継続)。
- 1933年 — 城砦文書とアパダーナの礎板が発見される。
- 1971年 — ペルセポリスでイラン王制2500年祭が開かれる。
- 1979年 — ペルセポリスがユネスコ世界遺産一覧表に登録される。
- 2018年 — 米国最高裁判所が「ルービン対イラン訴訟」で、ペルセポリスの粘土板は差し押さえられないと判断する。
用語集
- アケメネス朝
- 伝説上の祖先アケメネスにちなむ名を持つペルシアの王朝(紀元前550~330年ごろ)。
- アパダーナ
- 柱のある謁見の間を指す古代ペルシア語。ペルセポリス最大のものはダレイオス1世が着工した。
- 基壇
- 高く造成された平らな土台。ペルセポリスは、山に接する一部人工の基壇の上に建つ。
- 浮き彫り
- 平らな背景から図像が浮き出るように彫る彫刻。
- 楔形文字
- 粘土に押し付けたり石に刻んだりする、くさび形の文字。古代中東の多くの言語に使われた。
- エラム語
- 古代イラン南西部の言語。ペルセポリスの行政用粘土板の大部分に使われた。
- サトラップ領
- サトラップが統治するアケメネス朝の地方行政区。
- クルタシュ
- ペルセポリスの粘土板で、王の行政機関から食糧の支給を受ける働き手を指す語。
- アフラ・マズダー
- アケメネス朝の王たちが碑文で呼びかけた最高神。
- タフテ・ジャムシード
- 伝説上の王にちなむ、ペルセポリスのペルシア語名。「ジャムシードの玉座」の意味。
- ノウルーズ
- 春分に祝うイランの新年。かつてはペルセポリスで行われた主要な祭りと広く考えられていた。
よくある質問
ペルシアの王はいつもペルセポリスに住んでいたのですか。
いいえ。王たちはスサ、バビロン、エクバタナなど複数の都を行き来しました。ペルセポリスは儀式や行政の拠点として使われた王都の一つです。
ペルセポリスは奴隷が建てたのですか。
粘土板には、多くの民族の働き手が定期的に食糧の支給を受け、出産した母親には追加の食糧が与えられたことが記されています。彼らの正確な法的地位は議論されていますが、証拠は、単に奴隷だけではなく、組織的に支給を受ける労働力を示しています。
アレクサンドロスはなぜペルセポリスを焼いたのですか。
古代の著述家たちの説明は一致しません。紀元前480年にペルシア軍がアテナイを焼いたことへの復讐だとする人もいれば、酒宴の勢いだったと記す人もいます。計画的だったのか、衝動的だったのか、歴史家の間で議論が続いています。
ペルセポリスには何語が書かれていますか。
王の碑文は通常、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の3言語で書かれています。日常的な記録の大部分はエラム語で、アラム語のものも多くあります。
階段に彫られた人々は誰ですか。
メディア人、リュディア人、イオニア人、エジプト人、インド人、ヌビア人など、帝国各地から王に贈り物を運ぶ23の使節団を表しています。どの民族かはっきりしない人々もいます。
ペルセポリスはノウルーズの祭りに使われたのですか。
古くからよく知られた説ですが、それを直接示す古代の証拠はありません。現在、多くの研究者はペルセポリスが王室と行政に関わる複数の役割を担ったと考えています。
ペルセポリスの粘土板はなぜ重要なのですか。
ペルシア帝国自身が残した文書として最大のまとまりであり、ギリシア人の歴史家が記さなかった、働き手への食糧の支給、役人への支払い、旅の手配の仕組みがわかるからです。
出典・参考文献
- Persepolis. UNESCO World Heritage Centre
- Persepolis. Wikipedia
- Apadana. Wikipedia
- Persepolis Administrative Archives. Wikipedia
- Achaemenid Empire. Wikipedia
- Naqsh-e Rostam. Wikipedia
- Erich F. Schmidt, Persepolis I: Structures, Reliefs, Inscriptions. University of Chicago Press, 1953
- Richard T. Hallock, Persepolis Fortification Tablets. University of Chicago Press, 1969
- Pierre Briant (trans. Peter T. Daniels), From Cyrus to Alexander: A History of the Persian Empire. Eisenbrauns, 2002
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
