歴史

ベヒストゥン碑文

Bisotun / Bīsotūn(現代ペルシア語)。古代の地名は古代ペルシア語で *Bagastāna(「神々の場所」)と再構されている

紀元前520年頃 · イラン西部ケルマーンシャー州のビーソトゥーン山(アケメネス朝ペルシア)

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ひとことで

ベヒストゥン碑文は、ペルシア王ダレイオス1世が紀元前520年ごろ、イラン西部の断崖の高所に刻ませた巨大な浮彫と碑文であり、彼がどのように王位に就き、1年にわたる反乱を鎮圧したかを三つの言語で語っている。そして2000年以上のちには、学者たちが楔形文字を再び読めるようになる手助けとなった。

ベヒストゥン碑文
画像: Korosh.091 · CC BY-SA 4.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

自分の言い分を、いつまでもみんなに知っていてほしいと願う王さまを想像してみてください。今から約2500年前、ペルシアのダレイオス王は、いまのイラン西部にある、人がたくさん通る道のわきの岩山に、大きな絵と長いメッセージをほらせました。とても高いところにあるので、登山の道具がなければだれも近づけません。

絵には、すっくと立ったダレイオスが、あおむけにたおれた男の上に足をのせている姿がえがかれています。王の前には、首をロープでつながれた小さな捕虜たちが一列にならんでいます。その上には、つばさのある人物がうかんでいます。これはふつう、アフラ・マズダーという神さまだと考えられています。ダレイオスは、勝利をこの神さまのおかげだと感謝しました。

メッセージには、ダレイオスがどのようにして王になったかが書かれています。ダレイオスによると、ガウマータという男が前の王さまの弟のふりをして、王の位をうばいました。ダレイオスはガウマータをたおし、さらに、王になる権利があるとうそをついたほかの反乱の「王」たちもたおしたといいます。ガウマータをふくめて、ぜんぶで9人の「うその王」です。でも、ダレイオスが本当のことをすべて話したとは、みんなが信じているわけではありません。本当のうそつきはダレイオスのほうだったかもしれない、と考える歴史家もいるのです!

ダレイオスは同じメッセージを、三つのちがうことばでほらせました。どれも「楔形文字(くさびがたもじ)」という、くさびの形をした小さなしるしで書かれています。長いあいだ、このしるしはだれにも読めませんでした。1800年代に、勇かんなイギリスの軍人ががけを登ってこれを書き写しました。そして学者たちは、答え合わせの表が三つついたパズルのように、三つの文章をくらべました。そのおかげで、楔形文字がまた読めるようになったのです。

のちの時代の人たちも、近くに自分たちの彫刻をのこしました。横になって休むヘラクレスや、パルティアの王たちの姿などです。いま、ビーソトゥーンの遺跡はユネスコの世界遺産として守られています。

ひと目でわかる

どんなものか
古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の三言語による長い楔形文字碑文をともなう、王の磨崖浮彫
場所
イラン西部ケルマーンシャー州のビーソトゥーン山。バビロンとエクバタナ(ハマダーン)を結ぶ古代の道沿い
制作者
ダレイオス1世(在位前522〜前486年)。治世の初期に制作
制作時期
前520年ごろに着工し、前518年ごろまで段階的に拡張された。主な物語は前522〜前521年の出来事を扱い、古代ペルシア語版の第5欄がその後2年間の遠征を書き加えている
大きさ
彫刻面全体は高さ約15m、幅約25m。断崖の高所にあり、平野から約60m(ユネスコ)、麓の泉から約66m(『イラン百科事典』)、ほかの記述では古い道から最大100mの高さとされる
碑文
古代ペルシア語:5欄414行。エラム語:2種類の版。バビロニア語:112行。全体でおよそ1200行
写し
バビロンで見つかったバビロニア語版の写しの断片。エジプトのエレファンティネから出土した、パピルスに書かれたアラム語訳(前420年ごろ)
登録
ユネスコ世界遺産「ビーソトゥーン」(2006年)

やさしい

ベヒストゥン碑文とは何か

イラン西部、メソポタミアとイラン高原を結ぶ古い道を見下ろす石灰岩の山に、ペルシア王ダレイオス1世は勝利の場面と自らの業績の長い記録を岩に刻ませた。ギリシアの著作家はこの山をバギスタノンと呼んでおり、学者たちはそこから古代ペルシア語の地名 *Bagastāna(「神々の場所」)を再構している。中世のアラビア語やペルシア語の地理学者はここをベヒストゥンと呼び、のちにヨーロッパ人もこの形を採り入れた。現代ペルシア語の名はビーソトゥーンである。

この記念碑は、互いに組み合わさった二つの部分からなる。一つは浮彫、すなわち人物が浮き出るように石を彫り込んだ絵であり、もう一つはそれを取り囲む碑文である。碑文は古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の三つの言語で書かれており、いずれもメソポタミアで最初に生まれたくさび形の文字、楔形文字が使われている。アケメネス朝の王碑文の中で最も長く、出来事を一続きの物語として語る唯一のものである。

ダレイオスは、遠くから見えるが簡単には近づけない場所を選んだ。古代の職人たちは、彫刻が完成した後にその下の登り口を削り取ったらしい。登るのが難しいことが、おそらく何世紀にもわたって故意の損傷の多くから碑文を守ったのだろう。ただし雨や岩からしみ出す水によって碑文の一部はすり減っており、崖の下からそれを読むことはだれにもできない。

19世紀には、この碑文は別の理由でも有名になった。一つの文章を三つの文字で繰り返しているため、学者たちが楔形文字を読めるようになる助けとなったのである。そのためしばしばロゼッタ・ストーンにたとえられる。2006年、後代の数多くの遺構を含むビーソトゥーンの遺跡は、ユネスコの世界遺産一覧表に登録された。

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やさしい

浮彫の読み方

まずいちばん大きな人物から見ていこう。ほぼ等身大に表されたダレイオスは、王権のしるしである弓を手にし、あおむけに倒れた男の胸に足をのせている。碑文はこの倒れた男をガウマータと名指ししている。ダレイオスが王位を盗んだと非難する「マゴス」である。王の背後には、王の武器を携えた二人のペルシア貴族が立っている。

ダレイオスの前には、王よりもはるかに小さく表された捕虜たちが並んでいる。両手を縛られ、首を一本の縄でつながれている。大きさで重要度を示すのは、古代オリエント美術の古い約束事である。短い銘文がそれぞれの捕虜の名前とその「偽り」を記している。たとえばある者は、バビロンの王ナボニドスの子ネブカドネザルだと名乗った。最後の人物は先のとがった高い帽子をかぶっており、スキタイ(サカ)系の一集団の首長スクンカである。この人物は後から場面に押し込まれた。

すべての上には、輪の中に収まった有翼の人物が浮かんでいる。ダレイオスは繰り返し、自分は「アフラ・マズダーの御心によって」勝利したと語っており、この人物は通常、場面を見守るその神と解釈されている。勝利した支配者が敵を踏みつけ、その前に捕虜の列が並ぶという全体の構図は、同じ山地にあるはるかに古い磨崖浮彫を思わせる。とりわけ、約150km西のサレ・ポレ・ザハーブにある、ルルビの王アヌバニニの浮彫がそうである。

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やさしい

ダレイオスが語る物語

文章はダレイオスの自己紹介から始まる。名前、称号、そして家系である。家系は父ヒュスタスペスを経て、アケメネスという祖先にまでさかのぼる。王家はこの祖先にちなんでアケメネス朝と呼ばれるようになった。続いて彼は、自分が王となったときに自分のものだったという23の国々を挙げる。ペルシアやバビロニアからエジプト、イオニアのギリシア人、バクトリア、ガンダーラにまで及ぶ。

次に、権力を手にした経緯が語られる。ダレイオスによると、キュロス大王の子カンビュセス王は、ひそかに自分の弟バルディヤを殺した。カンビュセスがエジプトに遠征していたあいだ、前522年にガウマータというマゴスがバルディヤを名乗って立ち上がり、多くの人々が彼を受け入れた。カンビュセスは死に、だれもこの偽りの王に挑もうとしなかった。そこへダレイオスが少数の仲間とともに、メディアのある要塞でガウマータを殺し、王となったという。彼が記す日付は前522年9月29日にあたる。

それから反乱が始まった。エラム、バビロニア、メディア、ペルシア本国、アルメニア、マルギアナなど、属州から属州へと、男たちが次々に王を名乗った。ダレイオスは19の戦いで彼らを破ったと述べ、それがすべて1年のうちに起きたと強調する。彼は反乱を一つの言葉、ドラウガ、すなわち「偽り」で説明する。反乱者たちは偽りを語り、偽りが国々を反乱させたというのである。最後に彼は、後の王たちに向けて、偽る者を罰し、この記念碑を守り、自分を助けた6人の貴族を敬うよう警告している。

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9人の「偽りの王」と1年の戦争

浮彫は敗れた対抗者たちを倒された順に示しているが、文章ではおおよそ地域ごとにまとめられている。ガウマータの次に来るのは、エラムのアーシナ、「ネブカドネザル」として数か月バビロンを治めたニディントゥ・ベル、古いメディア王家の血筋を主張したフラワルティシュ、二人目のエラムの反乱者マルティヤ、サガルティアのチサンタクマ、ペルシアで二人目の「バルディヤ」となったワフヤズダータ、バビロンで再びネブカドネザルを名乗ったアルメニア人アラカ、そして中央アジアのマルギアナのフラーダである。

このうち二つの主張は示唆に富む。バビロンの二人の反乱者は、ナボニドスの子ネブカドネザルを名乗った。新バビロニア帝国で最も有名な王の名を借り、前539年にキュロスに倒された最後の独立した支配者の血筋を主張したのである。独立の記憶がなお強い力を持っていたことは明らかである。また、二人の男がキュロスの子バルディヤを名乗ったことは、キュロスの血統が途絶えた後も、その一族への忠誠が強い政治的な力であり続けたことをうかがわせる。

これらの戦いすべてに「同じ一年のうちに」勝利したというダレイオスの自慢は、長いあいだ疑われてきた。アッシリア学者リュクレ・ボルガーは、ガウマータの殺害を別にすれば、日付のある遠征――前522年12月13日のバビロニア人に対する最初の勝利から、前521年12月28日のフラーダの敗北まで――は、バビロニアの暦で数えた1年、それも追加の月(閏月)によって長くなった1年の中に確かに収まると論じた。この読み方によれば、王の主張は見かけほど誇張されたものではない。ただし、それはこの条件付きでのみ成り立つ。

バビロニア語版とアラム語版には、殺された敵や捕らえられた敵の数など、古代ペルシア語版にない細部が加えられている。処罰の様子は容赦なく記されている。反乱の指導者の中には、身体の一部を切断され、宮殿の門でさらし者にされ、串刺しにされた者もいた。この碑文は、知らせるためだけでなく、威圧するためのものでもあった。

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中級

一つの記念碑、三つの言語、いくつもの段階

この記念碑は、初めから完成した三言語の碑文として計画されたわけではない。1960年代に足場を組んで行われた調査、とくにハインツ・ルシャイによる調査と、それに続くレオ・トリュンペルマン、ヴァルター・ヒンツ、リュクレ・ボルガーの研究によって、記念碑が段階的に大きくなったことが明らかになった。工事はおそらく、最後の反乱が鎮圧された後の前520年の初めに始まった。最初に浮彫が作られ、次に王の横の短いエラム語の銘と、浮彫の右側のエラム語の本文が刻まれた。

エラム語はイラン南西部にあった古いエラム王国の言語で、当時のペルシア宮廷で記録の作成に使われていた。だから最初に書かれる版としては理にかなっていた。続いて浮彫の左側の傾斜した面にバビロニア語版が刻まれ、最後に古代ペルシア語の文章が場面のすぐ下に刻まれた。ダレイオス自身の言語で書かれたこれらの古代ペルシア語の文章は、古代ペルシア楔形文字の、年代が確実にわかる最古の例である。

その後、出来事が変更を迫った。治世の2年目と3年目に、新たなエラムの反乱者アタマイタと、スクンカに率いられたスキタイに対する遠征を行った後、ダレイオスはスクンカの姿を捕虜の列の最後に加えさせた。新しい人物像は最初のエラム語の本文に食い込んでしまい、この本文は放棄されて別の場所に刻み直さなければならなかった。これらの後の遠征を記す第5欄は、古代ペルシア語版にだけ加えられた。

その結果、三つの版は同一ではない。ダレイオスが決定版として扱ったらしい古代ペルシア語版は、もとの4欄の最後を、文字と写しについての一節(第70節)で締めくくっているが、この一節はエラム語とバビロニア語の本文にはない。エラム語の対応する一節は浮彫の上の空いた場所に押し込まれた。一方、古代ペルシア語版には、後の遠征を記す第5欄が続く。記念碑はおそらく前518年ごろに完成した。

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中級

新しい文字と、帝国中に送られた写し

古代ペルシア語の文章に加えられた一節で、ダレイオスは次のように述べている(意訳)。「アフラ・マズダーの御心によって、これが私の作った文字の形であり、アーリヤ語で書かれたものである」。続けて彼は、それが粘土板と羊皮紙に書き記され、自分の前で読み上げられ、その後「あらゆる国々へ」送られたと語る。多くの学者は、これを、古代ペルシア楔形文字がまさにこの記念碑のために彼の命令で作られたという主張と受け取っている。

文字そのものも、ある程度この見方を裏づける。古代ペルシア楔形文字には、音を表す文字が約36しかなく、それにいくつかの表語文字と語の区切りの記号が加わるだけである。バビロニア語に使われた何百もの文字よりはるかに少ない。見た目は楔形文字だが、新しく簡略化された体系である。ビーソトゥーンでは、語の区切りの記号を含む二つの文字の形が、その後のすべての古代ペルシア語碑文のものとわずかに異なっており、これがこの文字の最初の試みだったことをほのめかしている。古代ペルシア語はほとんど王が誇示するための碑文にしか使われず、日常の行政はエラム語で、そしてしだいにアラム語で行われた。

現存する写しは、この文章が広められたことを裏づけている。バビロンでは、玄武岩の記念碑の断片にバビロニア語版の一部が残っており、浮彫の写しも添えられていた可能性がある。エジプト南部のナイル川の島で、ペルシア王に仕えるユダヤ人の軍事植民地があったエレファンティネでは、パピルスの断片にアラム語訳が残っている。これはダレイオス2世の治世、前420年ごろ、出来事から約1世紀後に書き写されたものである。公式の物語は、遠く離れた守備隊でもなお書き写されていたのである。

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中級

楔形文字を解き明かす――ペルセポリスからベヒストゥンへ

アケメネス朝の時代にすでに、宮廷に仕えたギリシア人の医師クテシアスは――後にディオドロスが引用している――この浮彫を伝説の女王セミラミスの記念碑だと思い込んでいた。帝国が滅びた後、楔形文字を読む力はしだいに失われ、1598年以降にここを通ったヨーロッパの旅行者たちはそれぞれに推測をめぐらせた。本格的な解読はここではなくペルセポリスで始まった。デンマークの調査隊の一員カールステン・ニーブールが、そこにある短い王碑文を書き写し、1778年に出版したのである。彼は、それらが3種類の楔形文字を使っており、最も簡単なものはわずか数十の文字しか持たないことに気づいた。

最初の突破口は1802年、ゲッティンゲンの若い学校教師ゲオルク・フリードリヒ・グローテフェントによって開かれた。ペルセポリスの写しだけを使い――ベヒストゥンはまだ書き写されていなかった――、彼は、これらの文章がアケメネス朝の王たちのものであり、シルヴェストル・ド・サシが少し前に読み解いた、はるかに後のササン朝の王碑文と同じ型、すなわち「X、大王、王の王、Yの子」に従っていると仮定した。オルフ・ティクセンとフリードリヒ・ミュンターの観察を土台にして、彼はある碑文で王の父が王と呼ばれていないことに気づいた。それは、王ではなかったヒュスタスペスの子ダレイオスと、ダレイオスの子クセルクセスに当てはまった。こうして彼はダレイオス、クセルクセス、ヒュスタスペスの名前を特定し、10ほどの文字におおよその音価を与えた。そのすべてが正しかったわけではない。彼は1802年9月4日にゲッティンゲン科学アカデミーで論文を発表したが、それは当時印刷されず、彼自身による最初の刊行された説明は1805年に出た。

その後、ラスムス・ラスク、ウジェーヌ・ビュルヌフ、クリスティアン・ラッセンらが、アヴェスター語とサンスクリットを手がかりに、古代ペルシア語の文字の読みをさらに正確にした。一方、ペルシアで軍事顧問を務めていたイギリス東インド会社の将校ヘンリー・ローリンソンが、ビーソトゥーンで作業を始めた。彼は1835年に初めてこの岩を見た。1836〜37年には繰り返し岩棚まで登り、古代ペルシア語の文章全体を書き写して、1837年9月に作業を終えた。1844年9月には古代ペルシア語の文章を写し直し、エラム語の紙型(スクイーズ)を取った。1847年には、ひどく損傷したバビロニア語の本文を手に入れた。一部は望遠鏡によって、一部は雇われたクルド人の少年が崖の表面をよじ登って取った紙型によってである。彼は古代ペルシア語の文章を1846〜47年に、バビロニア語の文章を1851年に出版した。

バビロニア語ははるかに難しかった。その文字は何百もあり、その多くが複数の音価を持っていたからである。アイルランドの聖職者エドワード・ヒンクスは1846年、これらの文字が部分的に音節文字であることを示し、その言語がセム語であることを見抜いた。ローリンソン、ヒンクス、ジュール・オペールらは、ニネヴェなどアッシリアの遺跡から発掘された新しい文書にも助けられながら、互いの研究を積み重ねていった。1857年、ロンドンの王立アジア協会は、ローリンソン、ヒンクス、オペール、ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットに、新たに見つかったアッシリア王ティグラト・ピレセル1世の同じ碑文をそれぞれ独立に翻訳するよう依頼した。審査員たちは、各訳が十分に近く、解読が本物であることを示していると判断した。バビロニアとアッシリアの言語であるアッカド語が、こうして読めるようになった。

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中級

幾重にも層をなす山――後代の彫刻と保存

ダレイオスの浮彫は、長い歴史の一つの層にすぎない。近くの洞窟は旧石器時代に使われており、斜面にある要塞は、ダレイオスによればガウマータが殺されたメディアの拠点かもしれないが、確かではない。前148年、アレクサンドロスの後に続いたセレウコス朝の王たちの時代には、年代入りのギリシア語碑文をともなう、横たわるヘラクレス像が道のそばに彫られた。パルティア人はミトリダテス2世の浮彫を、さらに後にはゴタルゼス2世の浮彫を加えた。

最も野心的な痕跡を残したのはササン朝の王たちである。王――おそらくホスロー2世(在位590〜628年)――と女神アナーヒターを表した大きな彫刻のある柱頭と、幅約200m、高さ約30mにわたって平らにならされた広大な岩肌がある。岩肌は、結局完成しなかった事業のために準備されたものらしい。土地の言い伝えや、12世紀の詩人ニザーミーの物語詩『ホスローとシーリーン』は、こうした造作を、シーリーンのために山を切り開いた恋わずらいの彫刻家ファルハードに結びつけた。この崖は今も「ファルハードの削り跡」を意味するファルハード・タラーシュと呼ばれている。

後の支配者たちもここに建物を建てた。モンゴル時代のある建物は14世紀初めのイルハン朝の君主オルジェイトゥと結びつけられており、1681〜85年には総督シャイフ・アリー・ハーン・ザンガネが大きなキャラバンサライを建てた。1684〜85年の彼の寄進碑文によって、ミトリダテスのパルティア浮彫の大部分が破壊された。

ダレイオスの記念碑は、雨、季節的な激流、岩にしみ込む水によって傷んできた。鉱物の皮膜が一部の文字を覆っているが、ほかの文字を守ってもいる。20世紀には、下の道路にいた兵士たちが人物像を射撃の的にしたと伝えられる。ユネスコが公表している説明は、浮彫の背後への水の浸透を主な脅威として挙げ、応急措置を恒久的な解決策に変える必要があるとしている。また、2004年に承認された管理計画と、2010年に採択された新しい計画についても記している。

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同じころの世界

ダレイオスの国々の一覧には、ヤウナ、すなわちキュロスの征服以来ペルシアの支配下にあったアナトリア西部のイオニアのギリシア人が含まれている。ギリシア人は帝国のためにも働いた。スサの建設碑文で、ダレイオスはイオニア人とリュディア人を石工として挙げている。一世代後、イオニアの諸都市が反乱を起こし(前499〜前493年)、ペルシアの懲罰遠征は前490年のマラトンの戦いにつながった。数十年後に書いたハリカルナッソスのヘロドトスは、ダレイオスの台頭について、ところどころベヒストゥンの文章にきわめて近い説明をしており、公式の記録が直接または間接に彼のもとに届いていたと考える学者もいる。

前525年にカンビュセスに征服されたエジプトでは、高官ウジャホルレスネトが自分の経歴を彫り込んだ像をサイスに建てた。おそらくダレイオスの治世3年目(前519年ごろ)、ちょうどビーソトゥーンが刻まれていたころのことである。彼は自らを、ペルシアの王たちにエジプトの神殿を敬うよう教えた忠実な臣下として描いている。二つの文章を並べて読むと、同じ年月を中心から見た姿と属州から見た姿が浮かび上がる。正統性を宣言する王と、なぜ王に仕えたのかを説明する地方のエリートである。

ユダでは、ハガイ書がその預言の日付を「ダレイオス王の第2年」としている。大多数の学者が考えるようにこれがダレイオス1世のことなら前520年にあたり、エルサレム神殿の再建工事が再開された年である。エズラ記は、神殿が彼の治世6年目に完成したと記している。

ダレイオスはまた、古代オリエントの王の宣伝という古い伝統の中で仕事をしていた。前539年にキュロスがバビロンを奪ったとき、キュロス・シリンダーは、彼を不敬な王に代わるべく神マルドゥクに選ばれた者として描いた。ダレイオスは自らを、偽りの簒奪者に代わるべくアフラ・マズダーに選ばれた者として描いた。どちらもメソポタミアの手本に依拠していた。

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さまざまな見方

ガウマータか、バルディヤか。ダレイオスとヘロドトスは、大筋では一致している。キュロスの次男がひそかに殺され、マゴスの偽者が現れ、7人の共謀者がその偽者を殺した、という筋である。ヘロドトスは生き生きとした細部を付け加えている。耳を切り落とされていたことから正体がばれた偽者、最善の政体をめぐる共謀者たちの議論、馬を使った策略で王位を勝ち取るダレイオスなどである。そして彼が挙げる7人の名前のうち、ダレイオスの一覧と異なるのは一人だけである。しかし一致は証明にはならない。ヘロドトスは、ダレイオス自身の宣伝から生まれた話に依拠しているかもしれないからである。バビロニアの文書が裏づけているのは、前522年にバルズィヤ(バルディヤ)という王が数か月間認められていたということだけである。

1938年のA・T・オルムステッド以来、ムハンマド・ダンダマエフやピエール・ブリアンを含む多くの歴史家は、ダレイオスが本物のバルディヤを殺し、王位への権利が弱い遠縁の者によるクーデターを正当化するために「ガウマータ」をでっち上げたのではないかと疑ってきた。ブリアンは、力で権力を奪った支配者は、しばしば前任者を伝統を壊した偽者として描くと指摘している。一方、A・シャープール・シャーバズィーのような研究者はダレイオスを擁護する。彼が記した出来事の年代は正確であることが確かめられており、バビロニア語版はガウマータをメディア人と呼んでおり、古代の著作家でダレイオスを簒奪で非難した者はいない、というのである。証拠からは決着がつけられないため、ダレイオスの物語は、ありのままの事実としてではなく、王の公式な主張として示すのが最もよい。

古代ペルシア文字を発明したのはだれか。ダレイオスの言葉と、古代ペルシア語の文章がすべて後から加えられたという記念碑の制作段階から、多くの学者は、この文字が前520年ごろにダレイオスのもとで作られたと確信している。一方、キュロスの時代に作業が始まっていたと考える研究者もおり、たとえば彼の名前クルシュを書くのに必要な文字の形が単純であることを指摘する。パサルガダエにあるキュロスの名による短い古代ペルシア語の文章や、ダレイオスの祖先の名による金板は、かつてはより早い時期に使われていた証拠とされたが、現在ではほとんどの専門家が後代のものと見ている。第70節の鍵となる語さえ解釈が分かれている。古い翻訳はこれを「碑文」と訳し、後の翻訳は「文字」と訳す。新しい読みも今なお提案されている。

楔形文字の「ロゼッタ・ストーン」か。このたとえは便利だが、単純化されている。古代ペルシア語版は学者たちに長く信頼できる文章を与え、ローリンソンの写しは後にほかの版の校訂の土台となった。しかし歴史家ケヴィン・キャスカートは、ビーソトゥーンのバビロニア語本文をローリンソンが出版したのは1851年末になってからであり、それはヒンクスらがペルセポリス、メソポタミア、ヴァン湖の碑文を使って重要な進展を遂げた後だったことを強調している。またピーター・ダニエルズは、エラム語とバビロニア語の写しの複製が出たのは1855年と1866年以降にすぎないと指摘している。アッカド語は競い合う何人もの学者によって解読されたのであり、ローリンソン一人の功績とする一般向けの説明は一面的である。

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証拠と方法――損なわれた王の碑文を読む

完全な版は一つもない。浸食の被害が最も大きいのはバビロニア語の本文である。現代の校訂版は、ローリンソンの写しを後の調査と組み合わせている。A・V・ウィリアムズ・ジャクソンの写真(1903年)、L・W・キングとR・C・トンプソンが率いた大英博物館の調査隊(1904年)、そしてジョージ・G・キャメロンのラテックスによる型取り(1948年)である。キャメロンの型取りは、かつて判読不能と考えられていた最初のエラム語版の多くを取り戻した。標準的な校訂版には、ローランド・ケントの古代ペルシア語テキスト(1950年、1953年改訂)、エリザベス・フォン・フォイクトランダーのバビロニア語版(1978年)、ジョナス・グリーンフィールドとベザレル・ポーテンのアラム語版(1982年)、リューディガー・シュミットの古代ペルシア語版(1991年)がある。古い写しには誤りや未解読の欠落が含まれるため、新しい研究が続いている。2013年からはサーベル・アミーリー・パリヤーンが、エラム語版の新しい校訂のために新たな写しを作っており、2017年から分冊で出版されている。

版どうしを比べることは、それ自体が研究の方法である。バビロニア語版とアラム語版は互いに似ており、殺された敵や捕らえられた敵の数、名前の形を共有している。エラム語版と古代ペルシア語版は、もう一つの組をなす。文章は帝国の実務言語であったアラム語で最初に起草されたのではないかと示唆する学者もいるが、証拠は決定的ではない。リューディガー・シュミットは、古代ペルシア語版は王の前で読み上げられ、王に承認されたと推測しており、そう考えれば小さな省略や変更が説明できる。

この文章は文学でもある。メソポタミア、とくにアッシリアの王の年代記にならっているが、どの節も「ダレイオス王は告げる」で始まり、口頭で読み上げられる布告のリズムを持っている。「アフラ・マズダーの御心によって」のような定型句は、アナトリア東部のウラルトゥの王碑文と比較されてきた。そのため歴史家は、これを二つの層で読まなければならない。バビロニアの文書やギリシアの著作家と照らし合わせて確かめる出来事の証拠として、そして一人の男の統治の権利を主張するために念入りに組み立てられた議論として、である。

年代の推定は、内部の証拠――治世年、岩の上に見える彫刻の段階、版による王の称号の違い――とバビロニアの暦を組み合わせて行われる。その結果はおよそ前520年から前518年という幅になる。ユネスコの説明は記念碑の制作年を前521年としており、参考文献のあいだでも必ずしも一致していない。

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重要なポイント

偽り(ドラウガ)
ダレイオスはあらゆる反乱を「偽り」のしわざとして説明し、自らをアフラ・マズダーに選ばれた真実の守り手として描く。
家系による正統性
碑文は、王位への権利についての疑いに答えるため、ダレイオスをアケメネスに結びつける家系図から始まる。
一つの帝国、多くの言語
エラム語、バビロニア語、そして新しい古代ペルシア文字を使うことで、王は領内の古くからの書記文化に、それぞれのやり方で語りかけることができた。
権力としての公布
ダレイオスはこの文章を粘土板や羊皮紙に書き写させて帝国中に送った。写しはバビロンやエジプトにまで届いた。
段階的に作られた記念碑
浮彫と碑文は新たな勝利のたびに拡張・変更された。これが版どうしの違いを説明する。
楔形文字解読の鍵
この三言語の碑文は、ほかの碑文とともに、19世紀の学者たちが古代ペルシア語、エラム語、アッカド語を解読する助けとなった。
記憶の層
セレウコス朝、パルティア、ササン朝、そしてそれ以降の支配者や語り手たちが、この山に独自の彫刻、建物、伝説を付け加えた。

記録

  1. 紀元前522年 — ダレイオスによれば、前522年、キュロスの子バルディヤを名乗るガウマータがカンビュセスに対して立ち上がった。カンビュセスの死後、ダレイオスは9月29日にガウマータを殺して王となった。
  2. 紀元前521年 — ダレイオスとその将軍たちが反乱の王たちを破る。最後のマルギアナのフラーダは前521年12月28日に倒される。
  3. 紀元前520年頃 — ビーソトゥーンの浮彫の制作が始まる(前520年ごろ)。最初にエラム語の文章が刻まれる。
  4. 紀元前519年頃 — バビロニア語版と古代ペルシア語版が加えられる。エラムとスキタイへの遠征の後、スクンカの像と古代ペルシア語版の第5欄が追加される(前519〜前518年ごろ)。
  5. 紀元前420年頃 — ダレイオス2世の治世に、エジプトのエレファンティネで碑文のアラム語訳がパピルスに書き写される(前420年ごろ)。
  6. 紀元前148年 — セレウコス朝の支配下で、年代入りのギリシア語碑文をともなう横たわるヘラクレス像がビーソトゥーンに彫られる(前148年)。
  7. 600年頃 — 王(おそらくホスロー2世)と女神アナーヒターを表したササン朝の柱頭が彫られる。未完に終わった事業のために広大な岩肌が整えられる。
  8. 1802年 — 9月4日、グローテフェントがペルセポリス碑文の王名の読みをゲッティンゲン・アカデミーで発表する。
  9. 1835年 — ヘンリー・ローリンソンが初めてビーソトゥーンの碑文を目にする。1836〜37年に古代ペルシア語の文章全体を書き写す。
  10. 1847年 — ローリンソンがバビロニア語版の紙型を取る。1851年に彼のバビロニア語版が出版される。
  11. 1857年 — 王立アジア協会の試験。4人の学者がティグラト・ピレセル1世の碑文をそれぞれ独立に翻訳し、アッカド語の解読が確かめられる。
  12. 2006年 — ビーソトゥーンがユネスコの世界遺産一覧表に登録される。

用語集

楔形文字
くさび形のしるしからなる文字。メソポタミアで最初に生まれ、のちに多くの言語に転用された。
古代ペルシア語
ペルシア王家の言語。主に王碑文に使われた、簡略化された楔形文字で書かれた。
エラム語
イラン南西部のエラムの言語。ペルシア宮廷の行政記録に用いられた。
バビロニア語(アッカド語)
バビロニアとアッシリアのセム語であるアッカド語の一形態。複雑な楔形文字で書かれた。
浮彫(レリーフ)
平らな背景から人物などが浮き出るように彫った彫刻。
三言語併記
三つの言語で書かれていること。ビーソトゥーンでは、同じ文章が三つの版で示されている。
マゴス(マギ)
祭司の役割と結びつけられるメディアの一集団の成員。ダレイオスはガウマータを「マゴス」と呼んでいる。
紙型(スクイーズ)
湿らせた紙(のちにはラテックス)を石に押しつけて取った碑文の型。
レス・ゲスタエ(業績録)
ラテン語で「なされたこと」の意。支配者が自らの業績を記した公式の記録。
アフラ・マズダー
ダレイオスがあらゆる勝利をその功に帰した最高神。

よくある質問

ダレイオスはなぜ碑文をこんなに高い所に刻ませたのですか?

おそらく、道からは見えるけれども簡単には傷つけられないようにするためです。彫刻が完成した後、職人たちが下の登り口を削り取ったようです。

地上から読むことはできますか?

できません。人物像は見えますが、文字は高すぎて小さすぎるため、登るか写真を使わなければ読めません。

ガウマータの話は本当ですか?

確かなことはだれにもわかりません。ダレイオスとヘロドトスは偽者についての似た話を伝えていますが、多くの歴史家は、ダレイオスが本物のバルディヤを殺し、権力奪取を正当化するために偽者をでっち上げたのではないかと疑っています。ダレイオスの説明を受け入れる研究者もいます。

グローテフェントは1802年にベヒストゥン碑文を解読したのですか?

いいえ。1802年に彼が取り組んだのはペルセポリスで書き写された短い碑文で、ダレイオス、クセルクセス、ヒュスタスペスの名前を正しく特定しました。ベヒストゥンの碑文が書き写されたのは1830年代以降で、ローリンソンによるものです。

本当に楔形文字の「ロゼッタ・ストーン」なのですか?

とくに古代ペルシア語とエラム語については似た役割を果たしました。しかしアッカド語の解読は、ほかの多くの碑文と、エドワード・ヒンクスをはじめとする何人もの学者にも支えられていました。

古代ペルシア文字を発明したのはダレイオスですか?

彼は新しい文字の形を作ったと主張しており、記念碑からは古代ペルシア語の文章が最後に加えられたことがうかがえます。この文字はキュロスの時代にすでに作られ始めていたと考える学者もおり、この問題は今も議論されています。

ビーソトゥーンにはほかに何がありますか?

セレウコス朝のヘラクレス像、パルティアの浮彫、ササン朝の彫刻と未完成の巨大な岩肌、イルハン朝の建物、サファヴィー朝のキャラバンサライなどの遺構があります。

出典・参考文献

  1. Rüdiger Schmitt, BISOTUN iii. Darius’s Inscriptions. Encyclopaedia Iranica, 2000 (online edition)
  2. Rüdiger Schmitt, BISOTUN i. Introduction. Encyclopaedia Iranica
  3. Heinz Luschey, BISOTUN ii. Archeology. Encyclopaedia Iranica
  4. Bisotun. UNESCO World Heritage Centre
  5. Jona Lendering, Behistun. Livius.org
  6. Behistun, Persian Text (adapted from the King/Thompson translation). Livius.org
  7. Pierre Briant, GAUMĀTA. Encyclopaedia Iranica
  8. A. Shapur Shahbazi, DARIUS iii. Darius I the Great. Encyclopaedia Iranica
  9. Rüdiger Schmitt, CUNEIFORM SCRIPT. Encyclopaedia Iranica, 1993
  10. GROTEFEND, GEORG FRIEDRICH. Encyclopaedia Iranica
  11. CTESIAS. Encyclopaedia Iranica
  12. Peter T. Daniels, RAWLINSON, HENRY ii. Contributions to Assyriology and Iranian Studies. Encyclopaedia Iranica
  13. Arthur John Booth, The Discovery and Decipherment of the Trilingual Cuneiform Inscriptions. Longmans, Green, and Co. (Project Gutenberg edition), 1902
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  16. Saber Amiri Parian, A New Edition of the Elamite Version of the Behistun Inscription (I). Cuneiform Digital Library Bulletin 2017:3, 2017
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  18. DSf: Darius’s foundation charter from Susa. Livius.org
  19. Behistun inscription. Wikipedia
  20. Decipherment of cuneiform. Wikipedia
  21. Bardiya. Wikipedia
  22. Udjahorresnet. Wikipedia
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  24. Alan B. Lloyd, The Inscription of Udjahorresnet: A Collaborator’s Testament. Journal of Egyptian Archaeology 68, 1982
  25. Haggai, chapter 1 (Hebrew–English, JPS 1917 translation). Mechon Mamre
  26. Ezra, chapter 6 (Hebrew–English, JPS 1917 translation). Mechon Mamre
  27. Book of Haggai. Wikipedia
  28. Cyrus Cylinder. Wikipedia

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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