歴史

ハンムラビ法典

Akkadian: dīnāt mīšarim (“judgments of justice”)

紀元前1754年頃 · バビロン

ひとことで

ハンムラビ法典は、約3800年前、バビロンの王ハンムラビが自分の公正さを示すため、事件を裁く約280の決まりを背の高い黒い石に刻ませたものです。

ハンムラビ法典
画像: Mbzt · CC BY 3.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

大人の背より高い、黒くてつるつるした石を想像してください。上から下まで、小さなくさび形の文字がびっしり刻まれています。これがハンムラビ法典です。この文字は楔形文字といい、世界で最も古い文字の一つです。書かれている言葉は、今のイラクにあった大きな町バビロンで使われていたアッカド語です。

石のいちばん上には、絵が彫られています。ハンムラビ王は、相手の話をうやうやしく聞くように、手を顔の近くに上げて立っています。向かいに座っているのは、太陽と正義の神シャマシュです。バビロンの人々は、太陽は何でも見ているので、シャマシュにはだれが本当のことを言っているか分かると考えました。

絵の下には、決まりが並んでいます。多くは「もしだれかがこれをしたら、その人にはこうする」という形です。ぬすみ、畑に水を引くこと、牛を借りること、結婚や子ども、医者や家を建てる人の仕事、人を傷つけたときのことなど、いろいろな決まりがあります。

今の私たちには、とても厳しく思える決まりもあります。たとえば、同じ身分の人の目を傷つけたら、その人の目も傷つけるというものです。これはよく「目には目を」と呼ばれます。でも、決まりはだれにでも同じではありませんでした。身分の高い自由な人、そうでない自由な人、奴隷にされた人は、ちがうあつかいを受けました。

王は、強い人が弱い人を苦しめず、夫を亡くした女性や親を亡くした子どもも公平にあつかわれるよう、この決まりを作ったと書いています。ハンムラビが亡くなった後も、書記になるために学ぶ子どもたちは、学校でその言葉を書き写しました。石は今、パリのルーヴル美術館にあります。

ひと目でわかる

年代
紀元前1754年ごろ。バビロン王ハンムラビの治世末期(中年代法では紀元前1792~1750年ごろ)
場所
バビロンで作成。現存する石碑はおそらくシッパルに建てられ、のちにスサ(現在のイラン南西部)へ運ばれた
言語と文字
古バビロニア時代のアッカド語。意図的に古風な形にした記念碑用の楔形文字で記されている
資料
高さ約2.25メートルの玄武岩の石碑。太陽神シャマシュの前に立つハンムラビの浮彫りがある。パリ、ルーヴル美術館所蔵(Sb 8)
内容
詩的な序文、現代の研究者が番号を付けた282の「条文」、詩的な結語。全文は約4130行
発見
1901~1902年、ジャック・ド・モルガン率いるフランスの調査隊がスサで発掘。ジャン=ヴァンサン・シェイルが1902年に初めて刊行した
ほかの写本
粘土板の写本や別の石碑の破片が50点以上あり、1000年以上にわたって書き写された
重要性
古代オリエントで最も長く、最もよく残る法集成であり、メソポタミア社会と王権の考え方を知る重要な史料

やさしい

ハンムラビ法典とは何か

ハンムラビ法典は、紀元前18世紀に統治したバビロン第1王朝の第6代王ハンムラビの名で示された、法律上の判断を集めた文書です。最もよく知られているのは、現在パリのルーヴル美術館にある、美しく彫られた1基の石碑です。暗色の硬い石(玄武岩)でできた石碑は高さ約2.25メートルで、両面に楔形文字の文章が列をなして刻まれています。

文章は三つの部分から成ります。格調高い詩的な言葉で書かれた長い序文は、ハンムラビを神々に選ばれた王としてたたえ、王が世話をした都市や神殿を列挙します。次に決まりそのものが続きます。現代の研究者はこれを282の段落に分けて番号を付けましたが、その番号は石碑にはありません。最後の結語は、王が石碑を建てた理由を説明し、将来これを傷つけたり書き換えたりする支配者に呪いをかけています。

「法典」という呼び名は、近代になってこの文章を初めて編纂した研究者が付けたもので、誤解を招くことがあります。現代の法典は生活のあらゆる分野を扱おうとし、裁判所で適用されます。一方、ハンムラビの文章は扱う事柄を選んでおり、日常の多くの場面が抜けています。現存する数千点のバビロニアの裁判記録や契約書にも、ほとんど引用されません。この文章が実際には何で、どう使われたのかは、最も興味深い問題の一つです。

それでも、これは古代から残る最も重要な文書の一つです。約4000年前のバビロニアの日常生活について、家族のあり方、農地の賃借、負債の返済、医師や建築者の責任、身分の異なる人々の扱いなどを詳しく伝えています。

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石碑の「読み方」

石碑の上部には浮彫りがあります。左側には、つばの広い丸い帽子と長い衣を身に着けたハンムラビが立っています。右手を口元に上げているのは、祈りや敬意を表すしぐさです。向かいには神シャマシュが、神殿の正面をかたどった玉座に座り、様式化された山々に足を置いています。肩から炎や光線が立ち上る姿は、シャマシュが太陽神であることを示します。手には棒と輪を差し出しています。これらは神から与えられる権威、おそらく測量や正義をも象徴します。

この場面は、シャマシュがハンムラビに法を「授ける」姿と説明されることが多いものの、研究者の解釈は少しずつ異なります。本文には、神が法を口述したとは書かれていません。ハンムラビが述べているのは、神々から王権と正義を打ち立てる務めを与えられ、そのうえで自らの公正な判断を書き記した、ということです。浮彫りは、神の前にいる王が、公正に治める権威を受ける姿を表しています。

浮彫りの下では、文章が横方向の帯の中に列をなして続きます。石碑が作られた当時、この文字の書き方はすでに古風でした。書記たちは古い形の文字を使い、伝統的な向きに列を配置して、記念碑に威厳と古さを感じさせました。現代の碑文を古代ローマの大文字で刻むのに少し似ています。

石碑の前面には、磨かれて何も書かれていない部分があります。古代に数列分の文章が削り取られました。後世の王が自分の碑文を加えるためだったことはほぼ確実ですが、実際には刻まれませんでした。失われた条文の一部は、ほかの粘土板の写本から分かっています。

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やさしい

条文には何が書かれているか

ほぼすべての条文は、「もし人がXをしたら、Yとする」という同じ形を取ります。研究者はこれを、具体的な事例に基づく「決疑法」と呼びます。条文はおおむね話題ごとに並んでいますが、現代の読者が予想する順序とは限りません。

最初の条文は裁判そのものを扱い、虚偽の告発、うその証言、封印済みの判決を変更する裁判官について定めています。次に窃盗や強盗、兵士と国有地、農業、灌漑、果樹園、家屋、商取引に関する規定が続きます。大きな一群は家族生活に関するもので、婚約と結婚時の贈り物、離婚、妻・寡婦・子どもの権利、養子縁組、相続を扱います。後半には身体への傷害、医師や建築者の報酬と責任、船・牛・労働者の雇用、最後に奴隷の売買が記されています。

驚くほど細かな条文もあります。建築者が建てた家が崩れて持ち主が死亡した場合、その建築者は死刑とされます。外科医が治療に成功すれば患者の身分に応じた報酬を受け取りますが、手術で身分の高い自由人を死なせれば手を切り落とされます。自分の畑の堤防を手入れせず、あふれた水で隣人の土地を水浸しにした人は、失われた穀物を弁償しなければなりません。借金のため妻や子どもを債務労働に出さざるを得なかった人については、4年目にその家族を解放すると定めています。

弱い立場の人を守る規定もあります。夫が戦争で捕虜となり、暮らす手段のない妻は、罰を受けずに別の男性と暮らせます。子どもを産んだ妻と離婚する男性は、持参財を返し、子どもを育てるための財産も分け与えなければなりません。一方で、条文は奴隷制を認め、犯罪によっては水に沈める刑や火あぶりの刑を定め、女性の権利を男性より少なくしています。

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中級

「目には目を」と身分によって分かれた社会

最も有名なのは、ラテン語で「レクス・タリオニス」とも呼ばれる報復の原則に基づく条文です。ある人がアウィールム(完全な身分を持つ自由人)の目を失わせたら、その人の目も失わせる。骨を折ったら、その人の骨も折る。同じ身分の人の歯を折ったら、その人の歯も折る、というものです。ウルのウル・ナンムに帰せられる法など、それ以前のメソポタミアの法集成では、身体への傷害には通常、金銭による賠償を求めました。そのため、ハンムラビの条文が身体への報復をより強調していることは注目されます。

ただし、報復が適用されたのは対等な身分の人同士だけでした。被害者がムシュケーヌムという、身分が低い、または従属的な立場の自由人だった場合(この語の正確な意味には議論があります)、加害者は代わりに銀1ミナを支払いました。被害者が他人の奴隷だった場合は、所有者への賠償として、その奴隷の価値の半額を支払いました。条文はこのように、アウィールム、ムシュケーヌム、そしてワルドゥム(男性奴隷)またはアムトゥム(女性奴隷)という大きく三つの区分を認めています。

この段階的な仕組みは、バビロニアの司法が法の下の平等に基づいていなかったことを示します。刑罰や報酬は加害者と被害者双方の身分、性別、家族内の立場によって変わりました。歴史家はこうした違いを古バビロニア時代の社会構造を知る手がかりにしますが、条文が示すのは社会の実態を数え上げた記録ではなく、理想化された姿だと考えています。

報復の原則は残酷に思えるかもしれません。しかし、刑罰は受けた傷害に見合うもので、それを超えてはならないという限度を設けたのだと指摘する研究者もいます。似た表現は後のヘブライ語聖書にも見られます(たとえば『出エジプト記』21章23~25節)。これは、そうした考え方が古代オリエントに広く見られた法の伝統に属していたことを示唆します。

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中級

ハンムラビと古バビロニア時代

ハンムラビは、ユーフラテス川沿いの都市バビロンを治めたアムル人の王朝に属していました。広く用いられる「中年代法」で紀元前1792年ごろに即位したとき(ほかの年代法では数十年ずれます)、バビロンはメソポタミアで競い合ういくつもの王国の一つでした。南にはラルサ、東にはエシュヌンナ、ユーフラテス川中流にはマリがあり、シャムシ・アダドが築いた上メソポタミアの王国もありました。

治世の大半を通じて、ハンムラビは外交と同盟を使って行動しました。マリで見つかった書簡は、王たちが絶えず交渉する世界を示しています。治世の後半にはラルサのリム・シンを破り(紀元前1763年ごろ)、続いてエシュヌンナとマリも征服して、メソポタミアの南部と中部の大半をバビロンの支配下に置きました。法典の序文は、これらの都市の多くを、ハンムラビがその神々と人々の世話をした場所として挙げています。このことから、文章は治世の最後の数年間、紀元前1755~1750年ごろのものと考えられます。

ハンムラビは自らを民の「牧者」、正義の王として示しました。メソポタミアの支配者には、古くからキットゥムとミーシャルム、すなわち「真実」と「公正」を打ち立てることが期待されていました。実際には、ある種の負債を帳消しにし、人々を債務奴隷から解放する布告を出すことも含まれました。法典もこの理想に属し、神々の下で公正を守る王の姿を示しています。

ハンムラビの帝国は長続きしませんでした。息子サムス・イルナの時代に南部が離反し、中年代法で紀元前1595年にはヒッタイトの襲撃によってバビロン第1王朝が終わりました。それでも、ハンムラビとその法の名声は何世紀も続きました。

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中級

写本、戦利品としての移動、再発見

ルーヴル美術館の石碑は、おそらく唯一のものではありませんでした。本文にはバビロンのマルドゥク神殿エサギラが登場し、研究者は複数の都市に石碑の写しが建てられたと考えています。ルーヴル美術館によると、現存する石碑はもともと太陽神シャマシュの都市シッパルに建てられていました。少なくとももう1基の石碑の破片も見つかっています。

紀元前12世紀、エラムの王シュトルク・ナフンテはバビロニアを襲い、有名な記念碑を戦利品として、現在のイラン南西部にある首都スサへ運びました。ハンムラビの石碑も、おそらくナラム・シンの戦勝碑など、ほかのメソポタミアの記念碑とともに運ばれました。前面で削り取られた文字の列は、この奪取を記すエラムの碑文のために用意された可能性が最も高いと考えられます。

文章は粘土板にも残りました。知られている写本は50点以上あり、古バビロニア時代から新アッシリア時代、新バビロニア時代まで、1000年以上に及びます。条文、とりわけ序文と結語は、修業中の書記たちによって書き写され、ニネヴェにあったアッシリア王アッシュルバニパルの図書館などにも保管されました。後代の粘土板には、注釈や翻訳を加えたものさえあります。

1901~1902年の冬、ジャック・ド・モルガンが率いるフランスの考古学調査隊は、スサで三つに割れた石碑を発見しました。アッシリア学者ジャン=ヴァンサン・シェイルは数か月後の1902年に本文と翻訳を刊行しました。この発見はヨーロッパで大きな反響を呼びました。条文がモーセの律法より古く、いくつかの点で似ていたことも、その理由の一つです。

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中級

前後の時代に続く法集成の伝統

発見当初、ハンムラビ法典は世界最古の法典と称されました。その後の発見により、さらに古い伝統に属することが分かりました。ウル・ナンム法(シュメール語、紀元前2100年ごろ)、イシンのリピト・イシュタル法(シュメール語、紀元前20世紀)、エシュヌンナ法(アッカド語、ハンムラビよりやや古い時期)には、序文、具体的な事例に基づく条文、結語という構成や、扱う話題に共通点があります。

中アッシリア法やヒッタイト法など、後のオリエントの法集成も同じ基本形式を受け継ぎました。ヘブライ語聖書の法律部分、とくに『出エジプト記』21~23章の「契約の書」も、形式と内容の両方でハンムラビの条文に似ています。有名な例は牛が人を突く場合です。どちらの文章も、以前に人を突いたことが知られていなかった牛と、持ち主が注意を受けていた牛を区別しています。

ほとんどの研究者は、こうした類似をハンムラビの石碑から直接書き写した結果とは考えていません。古代オリエント全域に共有された書記と法律の文化の中で、模範となる事例や考え方が広く知られていたためだと説明します。一方、紀元前1千年紀の聖書の書き手が、新アッシリア時代の書記教育などを通してメソポタミアの文書をより直接的に知っていた可能性を主張する研究者もいます。この問題に決着はついていません。

現代では、ハンムラビは法の支配の象徴となっています。その肖像は、アメリカ合衆国下院議場に並ぶ偉大な立法者たちの中にもあり、石碑の複製はニューヨークの国際連合本部を含むいくつかの場所に置かれています。

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中級

序文と結語:王の正統性と信仰を示す法

読者は詩的な前後の文章を読み飛ばしがちですが、本文を理解するには欠かせません。序文は神々の時代から始まります。アヌとエンリルがバビロンの神マルドゥクに最高の地位を与え、ハンムラビの名を呼んで、国に正義を行き渡らせ、悪人を滅ぼし、強い者が弱い者を虐げないようにする役目を与えた、と述べます。続いて20以上の都市とその神殿を挙げ、ハンムラビをそれらの恩人として描きます。

結語では、ハンムラビが「正義の王」として自分の像の前に石碑を建てたのは、不当な扱いを受けた人が訪れ、碑文を読み聞かせてもらい、自分の問題を理解して救いを得られるようにするためだと説明します。国を守った牧者として王をたたえ、最後には言葉を無視し、変え、消す将来の支配者に対して、主な神々を一柱ずつ呼び出して長い呪いを述べます。

序文と結語から、この記念碑が単なる法律の参考書ではなかったことが分かります。神々、ハンムラビの臣民、将来の王たちに向けて、自分が王としてふさわしいことを公に示すものでもありました。公正な判断を長く残る石に記すことで、王は神々から与えられた務めを果たしたと示したのです。

序文と結語は文学としても高く評価されました。その文体は優れたバビロニア語の手本となり、後の時代の書記学校でも特によく書き写されました。

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上級

論争:制定法か、法的判断の集成か、王の記念碑か

20世紀初めの研究者は、この文章を現代的な意味での制定法、つまり裁判官を拘束する法律集として扱いました。しかし、この見方には大きな難点がありました。古バビロニア時代の契約書、書簡、訴訟記録は数千点残っているのに、法典に言及することはほとんどなく、実際の扱いが条文と異なるように見える場合もあるのです。また、裁判官が参照を義務づけられていた証拠もありません。

アッシリア学者F・R・クラウスは、1960年の影響力のある論文で、条文を制定法ではなく、模範的な判断を集めた法的思考の文書として理解するほうがよいと論じました。のちにジャン・ボテロは、これを占いの徴候集や医学文書など、同じく「もし……ならば……」という形式を使うメソポタミアの知識体系にたとえました。その見方では、条文は機械的に適用する規則ではなく、原則を示すために、自由人・一般の人・奴隷、初犯・再犯といった条件を変えて並べた模範事例です。

別の側面を重視する研究者もいます。レイモンド・ウェストブルックは、このような集成が裁判官の参考資料となり、共通の法的伝統に属していた可能性を論じました。マーサ・ロスらは、石碑が読まれるとともに見られることも意図された、王の理念を示す記念碑である点を強調します。マルク・ファン・デ・ミーループは、征服後にハンムラビが広く行った自己表現の中に、この文章を位置づけています。

現在の専門家の多くは、これらの見方を組み合わせるでしょう。法典は現実の法律上の慣行や問題を反映し、それらを学者たちが模範事例に作り直し、王の公正さを示す証拠として記念碑に刻んだものです。その権威は、裁判の手続き上のものというより、道徳や理念に関わるものでした。この議論は、「法典」や「制定法」といった現代の分類で古代の文章を読むことの難しさを示しています。

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上級

史料、本文、解釈

法典の本文は二種類の史料から復元されます。最もまとまった本文を伝える一方、削り取られた列が欠けているルーヴル美術館の石碑と、欠落部分の大半を補い、本文の異同も示す粘土板の写本です。1902年にシェイルが導入した条文番号は、便利なため使い続けられています。ただし、石碑そのものは条文をそのようには区切っておらず、欠落部分の条文には文字で番号を付ける版もあります。

条文の翻訳は簡単ではありません。ムシュケーヌムのような社会的地位を表す重要語には、現代語で正確に対応する語がなく、「一般人」「宮廷に従属する人」「隷属農民」などと訳されてきました。法律用語や計量単位も、同時代の文書と慎重に比べる必要があります。マーサ・ロスによる『Law Collections from Mesopotamia and Asia Minor』所収の訳など、標準的な現代英訳は多くの研究の基礎となっています。オンラインで広く読めるL・W・キングの1910年のような古い翻訳も役立ちますが、一部は現在の研究から見ると古くなっています。

歴史家は条文をほかの史料とも照らし合わせなければなりません。たとえば、ハンムラビがラルサの役人に送り、土地や灌漑をめぐる争いに自ら介入する姿を示す書簡、シッパルなどの都市の裁判記録、負債を帳消しにする王の布告です。これらは、裁判官、証人、宣誓、川による神判が働いていた法律制度を明らかにします。その中で法典は、従うべき規則集というより、理想を示す参照点として機能したようです。

最後に、ハンムラビの治世の年代は、メソポタミアの絶対年代をめぐる未解決の問題に左右されます。ここで用いた年代は「中年代法」に従います。「低年代法」や「高年代法」では、治世をそれぞれ数十年後または前に置きます。ただし、相対的な年代は確かです。法典はラルサとマリの征服後、治世の最後の数年間に作られました。

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重要なポイント

決疑法
一般原則ではなく、「もし人がXをしたら、Yとする」という形で、具体的な事例として書かれた決まり。
レクス・タリオニス(同害報復)
「目には目を」という報復の原則。ハンムラビの条文では主に同じ身分の人同士に適用される。
社会的身分
刑罰は、被害者がアウィールム(自由人)、ムシュケーヌム(身分の低い自由人)、奴隷のどれに当たるかによって変わる。
正義の王
メソポタミアの王には「真実と公正」(キットゥムとミーシャルム)を打ち立てることが期待され、法典はハンムラビがその務めを果たす姿を示す。
神に認められた正統性
浮彫りと序文は、ハンムラビの権威が神々、とくにシャマシュとマルドゥクから与えられたものとして描く。
模範となる判断
多くの研究者は、条文を裁判所が適用する制定法集ではなく、学び考えるための模範事例と見ている。
共有された法の伝統
ハンムラビの条文は、ウル・ナンム法からヘブライ語聖書に至る、オリエントの法集成の系譜に属する。

記録

  1. 紀元前2100年頃 — 知られている中で最古のメソポタミアの法集成、ウル・ナンム法がシュメール語で編纂される。
  2. 紀元前1792年頃 — ハンムラビが父シン・ムバリトの後を継ぎ、バビロン王となる(中年代法)。
  3. 紀元前1763年頃 — ハンムラビがリム・シンを破ってラルサを征服する。ほどなくエシュヌンナとマリも陥落する。
  4. 紀元前1754年頃 — ハンムラビの治世末期に法典が作成され、石碑に刻まれる。
  5. 紀元前1750年頃 — ハンムラビが死去し、息子サムス・イルナが後を継ぐ。
  6. 紀元前1595年頃 — ヒッタイトの襲撃によってバビロンが略奪され、第1王朝が終わる(中年代法)。
  7. 紀元前1158年頃 — エラムの王シュトルク・ナフンテが、石碑を含むとみられるメソポタミアの記念碑をスサへ運ぶ。
  8. 紀元前650年頃 — 条文の写本がニネヴェのアッシュルバニパル王の図書館に保管され、書記たちは引き続き本文を学ぶ。
  9. 1901年 — ジャック・ド・モルガン率いるフランスの調査隊が、スサで石碑を発見する(1901~1902年の冬)。
  10. 1902年 — ジャン=ヴァンサン・シェイルが最初の校訂版とフランス語訳を刊行する。
  11. 1960年 — F・R・クラウスが、条文は制定法ではなく模範的な判断だと論じ、議論に新たな方向を与える。

用語集

石碑
文字や浮彫りを刻み、公の記念碑として立てられた石の板。
楔形文字
くさび形の記号を粘土に押し付けたり石に刻んだりする文字。メソポタミアで約3000年間使われた。
アッカド語
古代メソポタミアのセム語の一つ。古バビロニア語はハンムラビの時代に使われた形。
アムル人
シリアとメソポタミアにいた人々。紀元前2千年紀初め、彼らの王朝がバビロンをはじめ多くの都市を治めた。
シャマシュ
メソポタミアの太陽神。すべてを見通すと考えられたため、正義の神でもあった。
マルドゥク
バビロンの守護神。のちにバビロニアの神々の中で最高神となった。
アウィールム
条文における、完全な身分を持つ自由人。
ムシュケーヌム
身分が低い、または従属的な立場の自由人。正確な意味には議論がある。
川による神判
訴えられた人を川に入れて、事件の判断を行う方法。川の神が有罪か無罪かを決めると考えられた。
中年代法
初期メソポタミアの絶対年代を定める方法のうち、最もよく使われるもの。ハンムラビの治世を紀元前1792~1750年ごろとする。

よくある質問

ハンムラビ法典は最初の法典ですか?

いいえ。ウル・ナンム法、リピト・イシュタル法、エシュヌンナ法など、より古い法集成が知られています。ハンムラビ法典は、その中で最も長く、最もよく残っているものです。

本当に「目には目を」と書かれていますか?

はい。いくつかの条文では、傷害に対して同じ傷害を与えると定めています。ただし、被害者と加害者の身分が同じ場合に限られます。身分の低い人や奴隷への傷害には、代わりに金銭の支払いが求められました。

石碑は今どこにありますか?

パリのルーヴル美術館にあります。複製はほかの場所にもあり、別の石碑の破片や多くの粘土板の写本は、世界各地の博物館に収められています。

なぜイラクではなくイランで発見されたのですか?

作られてから約600年後の紀元前12世紀、エラムの王が戦利品としてスサへ運んだからです。

バビロニアの裁判官は実際に使いましたか?

現存する裁判記録にはほとんど引用されません。そのため、多くの研究者は、裁判官が従うべき規則集ではなく、公正な判断の手本であり、王の記念碑だったと考えています。

モーセの律法と関係がありますか?

人を突く牛や報復についての決まりなど、よく似た点があります。ほとんどの研究者は、直接書き写したというより、古代オリエントで共有されていた法の伝統によるものと説明します。

石に何も書かれていない部分があるのはなぜですか?

古代に数列分の文字が削り取られました。エラムの王が自分の碑文を加えるためだったと考えられます。失われた条文の一部は粘土板の写本から分かっています。

出典・参考文献

  1. Code of Hammurabi. Wikipedia
  2. Hammurabi. Wikipedia
  3. 함무라비 법전. 위키백과
  4. Law Code of Hammurabi, king of Babylon (Sb 8). Musée du Louvre, Collections
  5. The Code of Hammurabi, translated by L. W. King. The Avalon Project, Yale Law School
  6. Martha T. Roth, Law Collections from Mesopotamia and Asia Minor (2nd ed.). Scholars Press (Society of Biblical Literature, Writings from the Ancient World), 1997
  7. Marc Van De Mieroop, King Hammurabi of Babylon: A Biography. Blackwell, 2005

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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