最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
約2350年前、世界で最も大きな国はペルシア帝国でした。エジプトやトルコから、アフガニスタンやインドの近くまで広がっていました。王はダレイオス3世です。りっぱな宮殿に住み、さまざまな人々を治めていました。
ギリシャの北にあるマケドニアの若い王アレクサンドロスは、軍を連れてペルシア帝国に進みました。すでに大きな戦いに2回勝っていました。ダレイオスは帝国の各地から兵士を集めました。中央アジアの騎兵、弓兵、車輪に鋭い刃を付けた戦車、インドから来た15頭のゾウもいました。
ダレイオスは、ガウガメラという村の近くにある、広く平らな土地を戦場に選びました。ガウガメラは「ラクダの家」という意味です。戦車が走りやすいように、地面をならさせました。戦いの数日前には月食で月が暗い赤色になり、両軍の人々はその意味を考えました。
戦いの日、アレクサンドロスは軍を横へ動かし、ならされた地面から離れました。ペルシア軍の列にすき間ができると、騎兵を率いてダレイオスに向かって突進しました。ダレイオスは逃げました。多くのペルシア兵も逃げ、何千人もの人が亡くなりました。兵士とその家族にとって、とてもつらい日でした。
戦いの後、バビロンやスサなどペルシアの大きな都市は、アレクサンドロスに門を開きました。数か月後、ダレイオスは自分の家臣たちに殺されました。古いペルシア帝国は終わり、ギリシャと西アジアの文化が交わる新しい時代が始まりました。
ひと目でわかる
- 日付
- 紀元前331年10月1日(9月20~21日の月食が日付の特定に役立つ)
- 場所
- 現在のイラク北部、モスルとアルビールの間にあるニネヴェ平原のガウガメラ近郊。正確な場所には議論があり、テル・ゴメルとカラムレスが有力候補
- 交戦勢力
- アレクサンドロス3世率いるマケドニア軍とギリシャ人同盟軍、ダレイオス3世率いるアケメネス朝ペルシア軍
- 指揮官
- アレクサンドロス、パルメニオン(マケドニア軍左翼)、ダレイオス、ベッソス(ペルシア軍左翼)、マザイオス(ペルシア軍右翼)
- 兵力
- マケドニア軍は約4万7000人。ペルシア軍の人数は不明(最大100万人とする古代の記述は誇張で、現代の推定にも大きな幅がある)
- 結果
- マケドニア軍の決定的な勝利。ダレイオスは逃亡し、紀元前330年に自分の家臣たちに殺された
- 影響
- バビロンとスサの降伏、ペルセポリスの焼失、アケメネス朝の終焉、西アジアにおけるヘレニズム時代の始まり
- 主な史料
- アッリアノス、ディオドロス、クイントゥス・クルティウス・ルフス、プルタルコス、ユスティヌス(いずれも戦いの数世紀後に執筆)。同時代のバビロニアの天文日誌
やさしい
ガウガメラで何が起きたのか?
ガウガメラの戦いは紀元前331年10月1日、のちにアレクサンドロス大王と呼ばれるマケドニア王アレクサンドロス3世の軍と、アケメネス朝ペルシア帝国の王ダレイオス3世の軍との間で行われた。戦場は北メソポタミアの広い平原で、現在のイラクのクルディスタン地域にあるガウガメラという村の近くだった。
これは両王の間で行われた3度目にして最後の大きな戦いだった。アレクサンドロスは紀元前334年にグラニコス川でペルシア軍を破り、紀元前333年にはイッソスでダレイオス本人を破っていた。ガウガメラでは、ダレイオスは帝国全土から可能な限り大きな軍を集め、自ら選んだ土地で戦った。それでもアレクサンドロスが勝ち、ダレイオスは逃げた。
この戦いは、ダレイオスが逃れた都市アルベラ(現在のアルビール)にちなみ、「アルベラの戦い」とも呼ばれる。しかし、プルタルコスやアッリアノスなどの古代の著述家は、実際の戦場はそこから離れたガウガメラだったと指摘している。プルタルコスによると、その名は「ラクダの家」を意味した。
やさしい
背景:2人の王と1つの帝国
アケメネス朝ペルシア帝国は、紀元前6世紀にキュロス大王が築いた、それまでの世界で最大の国家だった。王はサトラップと呼ばれる地方総督を通じて、エジプトやアナトリアから中央アジア、インダス川流域までの人々を治めた。スサ、バビロン、エクバタナ、ペルセポリスなどの都は王の道で結ばれていた。紀元前5世紀にはギリシャの都市国家と戦い、その後も資金や外交を用いてギリシャの諸問題にしばしば介入した。
紀元前4世紀、フィリッポス2世の下でマケドニアはギリシャ最強の勢力となった。フィリッポスはペルシアとの戦争を計画し、それを1世紀以上前のペルシアによるギリシャ侵攻への報復であり、小アジアのギリシャ人都市の解放でもあると訴えた。紀元前336年に暗殺されると、20歳の息子アレクサンドロスがその計画を引き継いだ。同じ年、宮廷で殺人が相次いだ後にダレイオス3世がペルシア王になった。
アレクサンドロスは紀元前334年にアジアへ渡った。グラニコス川とイッソスで勝利し、イッソスではダレイオスの母、妻、子どもたちを捕らえたが、すぐにペルシアの中心部へ進んだわけではない。まず、長期にわたるテュロス包囲戦を含め、東地中海沿岸を制圧した。続いてエジプトを取り、アレクサンドリアを建設した。ギリシャ側の史料によると、ダレイオスは和平、領土、娘との結婚を申し出たが、アレクサンドロスは拒んだ。紀元前331年、アレクサンドロスはメソポタミアへ向けて東進した。
中級
両軍の構成
アレクサンドロスの軍の中心は、長さ約5~6メートルの長槍サリッサを持つ歩兵が密集して組む、マケドニア式のファランクスだった。そのそばには精鋭歩兵のヒュパスピスタイが配置され、両翼には騎兵がいた。とりわけ、アレクサンドロス自らが率いるヘタイロイ騎兵とテッサリア騎兵が重要だった。アグリアネス人の投槍兵やクレタ人の弓兵などの軽装兵、ギリシャ人同盟軍の歩兵、傭兵も加わっていた。アッリアノスは歩兵約4万人、騎兵7000人と記しており、多くの歴史家はおおむね妥当な数字とみている。
ダレイオスの軍は帝国各地から集められた。アッリアノスは、王族の親族で構成された騎兵や王の護衛兵「リンゴ持ち」を含むペルシア人、中央アジアのメディア人、バクトリア人、ソグディアナ人、サカ人(スキタイ人)の騎兵、少数のゾウを伴うインド人、アラコシア人、アルメニア人、カッパドキア人、シリア人、バビロニア人などを挙げている。ギリシャ人の傭兵歩兵もいた。ダレイオスはさらに、敵の隊列を破るため、車輪や車軸に刃を付けた鎌付き戦車を約200両用意した。
ペルシア軍はどれほど大きかったのか。古代の著述家は現実離れした数字を伝えている。アッリアノスは歩兵100万人と騎兵4万人、ディオドロスは歩兵80万人と騎兵20万人、クルティウスは総勢約24万5000人と記した。現代の歴史家は、これらをアレクサンドロスの勝利を大きく見せるための誇張として退けている。推定には大きな幅があり、約5万~12万人とされることが多い。一般に認められているのは、ペルシア軍の騎兵がマケドニア軍よりはるかに多く、その戦列も長かったため、アレクサンドロスの軍が側面から包まれるおそれがあったという点である。
中級
戦いの前:進軍、月食、そして待機
紀元前331年の夏、アレクサンドロスはタプサコスでユーフラテス川を渡った。川沿いにバビロンへ向かう代わりに、補給がしやすく気候も涼しい北の経路を選び、抵抗を受けずにティグリス川を渡った。9月20日から21日にかけての夜には月食が起きた。バビロニアの天文学者はそれを日誌に記録した。ギリシャ側の史料によると、アレクサンドロスに仕えた予言者アリスタンドロスは、マケドニア軍の勝利を示すしるしだと解釈した。
ダレイオスはガウガメラ近くの広く開けた平原を選び、戦車と騎兵が自由に動けるよう、一部の地面をならさせた。アッリアノスによると、戦いの後にペルシア軍の布陣を記した文書が見つかった。ペルシア軍の詳しい配置は、アレクサンドロスの将校たちを通じて伝わったこの文書に基づくとされる。
ダレイオスの戦略についても、歴史家の意見は分かれる。ユーフラテス川とティグリス川の渡河地点を守らなかったため、アレクサンドロスを自軍のもとへ進ませることになった。意図的な選択だったとみる人もいる。山と海に挟まれた狭い土地でペルシア軍の数的優位を生かせなかったイッソスの敗北を踏まえ、ダレイオスは補給拠点に近く、騎兵と戦車に適した開けた場所で戦いたかったという見方である。一方、アレクサンドロスが予想外の北の経路を取ったため、ペルシア軍は位置を変え、当初予定していなかった場所で戦うことになったという見方もある。いずれにせよ、両王は一度の大きな戦いで戦争の行方が決まると考えていたようだ。
ギリシャ側の伝承によれば、老練な将軍パルメニオンは夜襲を勧めたが、アレクサンドロスは勝利を「盗む」つもりはないと言って断った。このやり取りが実際にあったかどうかは分からない。ただし、ペルシア軍は夜襲を恐れて一晩中武装して待機し、疲れた状態で戦いに臨んだと伝えられている。
中級
戦いの経過
アレクサンドロスは、自ら指揮するヘタイロイ騎兵を右翼、ファランクスを中央、パルメニオンとテッサリア騎兵を左翼に配置した。ペルシア軍の戦列のほうが長かったため、第一線の後方に歩兵の第二線を置き、両翼の部隊を斜めに配置した。包囲された場合には、軍が外側を向いて戦えるようにするためだった。
戦いが始まると、アレクサンドロスは右翼を斜め右に進め、ならされた地面から外れた。これを止めるため、ダレイオスはベッソス指揮下の騎兵を送り、アレクサンドロスの外側に回り込ませた。その側面で激しい騎兵戦が起きた。鎌付き戦車はマケドニア軍中央へ突進したが、軽装兵が御者や馬を射倒した。歩兵は隊列を開いて残る戦車を通し、通過した戦車は後方で対処された。
ペルシア騎兵が側面へ動いたことで、ペルシア軍の左翼寄りの中央にすき間ができた。アレクサンドロスはヘタイロイ騎兵と近くの歩兵を楔形にまとめ、そのすき間を突破してダレイオス本人へ向かった。ギリシャ側の記録では、ダレイオスは背を向けて逃げた。一方、バビロニアの日誌には、王の軍勢が王を見捨てたとある。いずれにしても、王が戦場を去るとペルシア軍の中央は崩れた。
その間、マケドニア軍左翼は深刻な危機に陥っていた。ペルシアとインドの騎兵がファランクスのすき間を突破し、マケドニア軍の物資を置いた野営地に達した。マザイオスもパルメニオンを激しく攻めた。パルメニオンが援軍を求める使者を送ると、アレクサンドロスは追撃をやめて引き返した。到着するころには、テッサリア騎兵がほぼ戦況を立て直していた。その後、アレクサンドロスは追撃を再開し、ダレイオスをアルベラまで追った。王の荷物、戦車、弓は手に入れたが、ダレイオス本人は捕らえられなかった。
中級
戦いの後:帝国の崩壊
古代の史料に記された死傷者数は信頼しにくい。アッリアノスはマケドニア兵の戦死者を約100人、ペルシア兵の戦死者を非常に多数とする。一方、ほかの史料ではマケドニア軍の損失を数百人から数千人、ペルシア軍の損失を数万人としている。確かなのは、ペルシア軍が戦闘部隊として壊滅したことである。亡くなった人の中には、この戦争との関わりが薄い遠方の属州から徴集された兵士も多かった。
バビロンは戦わずに降伏した。総督マザイオスは、ガウガメラでペルシア軍右翼を指揮した将軍でもあった。彼は都市を引き渡し、サトラップに再任された。アレクサンドロスからこの地位を与えられた最初のペルシア貴族である。続いてスサと、その莫大な財宝も手に入った。アレクサンドロスはザグロス山脈のペルシア門を突破し、紀元前330年初めに帝国の儀礼上の中心地ペルセポリスを占領した。都市は略奪され、数か月後には壮大な宮殿群が焼かれた。これが紀元前480年にペルシア軍がアテネを焼いたことへの計画的な報復だったのか、それとも一部の古代史料がいうように酒に酔った勢いで行われたのかは、今も議論されている。
ダレイオスはエクバタナへ逃れ、さらに東へ向かい、新たな軍を集めようとした。紀元前330年7月、バクトリアのサトラップであるベッソスが率いる家臣たちに捕らえられ、殺された。ベッソスはアルタクセルクセス5世を名乗って王位を宣言した。アレクサンドロスはダレイオスを王にふさわしく葬り、自らをその復讐者であり後継者だと示した。ベッソスは紀元前329年に捕らえられ、処刑された。
こうしてガウガメラはアケメネス朝支配の終わりを告げた。アレクサンドロスは紀元前323年にバビロンで死ぬまで、中央アジアとインドで遠征を続けた。彼の帝国はまもなく将軍たちが治める諸王国に分かれた。メソポタミアとイランのセレウコス朝、エジプトのプトレマイオス朝などである。ギリシャ語やギリシャの制度が、古くからの地域の伝統とともに西アジア各地へ広がるヘレニズム時代が始まった。
中級
戦いの記憶:ギリシャ、ペルシア、バビロニアの視点
ガウガメラについて知られていることのほとんどは、勝者の側から伝わった。アレクサンドロスの宮廷史家カリステネスは彼をたたえる記録を書き、後世の著述家たちはアレクサンドロスの将校たちの回想録を利用した。イッソスとガウガメラで二度逃げた臆病な王というダレイオス像は、マケドニア側の宣伝に役立った。多くの現代の歴史家は、ダレイオスは並外れた敵に直面した有能な統治者であり、ギリシャ側の史料は彼に不公平だと論じている。
イランでは、アレクサンドロスはまったく異なる形で記憶された。ずっと後の時代に中期ペルシア語で書かれたゾロアスター教の文献は、彼を「呪われたアレクサンドロス」と呼び、祭司を殺して聖なる書物を破壊したと非難する。1010年ごろにフェルドウスィーが完成させたペルシアの叙事詩『シャー・ナーメ』は、別の描き方をする。イスカンダル(アレクサンドロス)をダーラー(ダレイオス)の異母兄弟とし、征服者を正統なイランの王にした。これらの伝統は、征服の記憶が後世の宗教的・民族的な立場に合わせて作り替えられたことを示している。
メソポタミアの人々にとって、この戦いは自分たちの世界の終わりというより、支配者の交代を意味した。バビロニアの天文日誌は、惑星の動きを記すのと同じような淡々とした文体で、敗北、王の軍勢の逃亡、「世界の王」としてのアレクサンドロスのバビロン入城を記録している。神殿、書記、地域の有力者たちは、新たな支配者の下でも活動を続けた。
ヨーロッパでは、ガウガメラは軍事史の古典的な事例になった。規模は小さくてもよく訓練された軍が、機動、時機の選択、決定的な地点への戦力集中によって大軍を破る例として、何世紀にもわたり士官学校で研究されてきた。アレクサンドロスをたたえる絵画や映画にも描かれてきたが、ペルシア側の視点が示されることは少ない。
上級
史料とその問題点
目撃者が書いた物語形式の記録は残っていない。最も詳しい記述は、戦いから約500年後の紀元2世紀に書かれたアッリアノスの『アレクサンドロス東征記』第3巻にある。アッリアノスは、主にアレクサンドロスの将軍で後にエジプト王となったプトレマイオスと、遠征に同行したアリストブロスの著作に依拠したという。二人ともアレクサンドロスの死後に執筆し、それぞれ物語の描き方に影響する事情があった。
ほかの主な記録は、シケリアのディオドロスの『歴史叢書』第17巻(紀元前1世紀)、クイントゥス・クルティウス・ルフスの著作の第4巻(おそらく紀元1世紀)、プルタルコスの『アレクサンドロス伝』、ユスティヌスの抄録である。ディオドロス、クルティウス、ユスティヌスは、劇的な語り口で知られる歴史家クレイタルコスなど、共通の史料を利用したと考えられることが多い。これらの記録は、兵数、パルメニオンが援助を求めた時機、ダレイオスの行動など、細部が異なる。
同時代の史料はバビロニアのものが一つある。現在は大英博物館に所蔵される、バビロンの学者たちが付けた天文日誌である。そこには月食、戦い、王の軍勢の離反、アレクサンドロスのバビロンへの接近が記録されている。出来事に近い時期に書かれ、アレクサンドロスをたたえる目的もないため、戦いの日付を定め、ダレイオスの行動についてギリシャ側の見方を見直すうえで非常に貴重である。
古代の記述のうち、戦いの前の演説、夜襲をめぐるパルメニオンとのやり取り、和平を申し出るダレイオスの書簡などは、慎重に扱う必要がある。実際の記憶を含んでいる可能性はあるが、ギリシャ・ローマの歴史記述の慣習に従って形作られた文学的な場面でもある。
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研究上の論争
戦場は正確にはどこか。考古学的に戦場は特定されておらず、古代の史料にも地形について詳しい記述はほとんどない。候補地はすべて、モスルとアルビールの間にあるニネヴェ平原のジャバル・マクルーブ山地の周辺に位置する。地名が「ガウガメラ」と関連づけられているテル・ゴメルや、考古学者オーレル・スタインが1938年の現地調査後に有力視したカラムレスなどが挙げられる。近年の研究では、地形や見通しをモデル化して候補地を検討しているが、戦いの遺物は確認されていない。
ペルシア軍はどれほど大きく、なぜ敗れたのか。古代の兵数を退けたうえで、歴史家は実際の軍の規模と練度を議論している。アレクサンドロスが斜めに前進し、楔形の隊列で攻撃した戦術の巧みさを重視する人もいる。一方で、さまざまな地域の人々を集めたため一緒に訓練する機会が限られていたこと、一晩中武装して疲れていたこと、王の存在に軍の結束が左右されたことなど、ペルシア軍側の問題を重視する人もいる。王の軍勢が王を見捨てたというバビロニアの日誌の記述から、王本人の逃亡よりも士気の崩壊が決定的だったとみる研究者もいる。
ダレイオスの評価。ピエール・ブリアンは、Darius in the Shadow of Alexander(ハーバード大学出版局、2015年)で、弱く臆病なダレイオスというイメージが古代と現代の歴史記述の中でどのように作られたかをたどった。彼やほかのアケメネス朝研究者の仕事を受けて、歴史家はペルシア、バビロニア、アラム語の史料を用い、帝国をアレクサンドロスに征服された対象としてだけではなく、それ自体の歴史として研究するようになった。
解放か、征服か。かつてのヨーロッパの研究では、アレクサンドロスがギリシャ文明を東方へ広めたと描かれることが多かった。近年の多くの歴史家は、A・B・ボズワースのConquest and Empire(ケンブリッジ大学出版局、1988年)のように、征服に伴う暴力と現地の人々が払った犠牲、そしてマケドニアの支配下でもアケメネス朝の行政が続いたことを重視している。
重要なポイント
- 決定的な戦い
- 一度の戦いの結果が政治地図を大きく変えること。ガウガメラによってアケメネス朝は大国としての力を失った。
- 諸兵科の連携
- アレクサンドロスは重装歩兵、騎兵、軽装兵にそれぞれの役割を与え、連携させた。
- 斜めの前進と戦列のすき間
- アレクサンドロスが右へ動くと、ペルシア騎兵も後を追い、ペルシア軍の戦列にすき間ができた。そこへ決定的な突撃を行った。
- 戦場の選択
- ダレイオスは、狭い土地だったイッソスでの敗北を踏まえ、兵数、騎兵、戦車を生かせる開けた平地を選んだ。
- 王の存在
- アケメネス朝の軍では、王が軍の中心だった。ダレイオスが戦場を去ると、軍の結束が崩れた。
- 勝者が伝えた歴史
- 物語形式の史料のほとんどはギリシャ語かラテン語で書かれ、アレクサンドロスに好意的である。バビロニアの日誌は、まれな独立した視点を伝える。
- 征服後も続いた制度
- アレクサンドロスはマザイオスのようなペルシア人総督やアケメネス朝の制度を維持し、征服後も従来の統治を引き継いだ。
記録
- 紀元前336年 — フィリッポス2世が暗殺され、アレクサンドロスがマケドニア王になる。ダレイオス3世がペルシア王になる。
- 紀元前334年 — アレクサンドロスがアジアへ渡り、グラニコス川の戦いに勝つ。
- 紀元前333年 — アレクサンドロスがイッソスでダレイオスを破り、ダレイオスの家族が捕らえられる。
- 紀元前332年 — テュロス包囲戦。アレクサンドロスがエジプトに入る。
- 紀元前331年 — アレクサンドロスがエジプトにアレクサンドリアを建設し、その後メソポタミアへ進んでユーフラテス川とティグリス川を渡る。
- 紀元前331年 — 9月20~21日:バビロニアの天文学者が月食を記録する。
- 紀元前331年 — 10月1日:ガウガメラの戦い。ダレイオスは逃亡し、まもなくバビロンとスサが降伏する。
- 紀元前330年 — アレクサンドロスがペルセポリスを占領し、宮殿群が焼かれる。7月、ダレイオスがベッソスら家臣たちに殺される。
- 紀元前329年 — ベッソスが捕らえられ、後に処刑される。
- 紀元前323年 — アレクサンドロスがバビロンで死去する。
- 130年頃 — アッリアノスが、現存する中で最も詳しい戦いの記録を含む『アレクサンドロス東征記』を書く。
- 1938年 — オーレル・スタインがイラク北部を現地調査し、戦場の候補地を提案する。
用語集
- アケメネス朝ペルシア帝国
- キュロス大王が紀元前550年ごろに築き、アレクサンドロスの征服によって紀元前330年に終わったペルシアの帝国。
- サトラップ
- ペルシア帝国の地方総督。
- ファランクス
- 重装歩兵が密集して組む隊形。マケドニア式では非常に長い槍を使った。
- サリッサ
- マケドニア軍のファランクスの兵士が持った、長さ約5~6メートルの長槍。
- ヘタイロイ騎兵
- アレクサンドロス自らが率いた、マケドニア軍の精鋭重装騎兵。
- 鎌付き戦車
- 車輪に刃を付けた戦車。ペルシア軍は敵の戦列を破るために使った。
- 天文日誌
- バビロニアで夜空の観測を記録した日誌。物価、天候、政治上の出来事が書き添えられることも多い。
- ヘレニズム時代
- アレクサンドロスの死後(紀元前323~31年)、ギリシャ人が治める王国が東地中海から西アジアに広がった時代。
- アナバシス
- ギリシャ語で「内陸への進軍」。アッリアノスによるアレクサンドロスの遠征史の題名。
よくある質問
ペルシア軍のほうが兵士が多かったのに、なぜアレクサンドロスは勝てたのですか?
アレクサンドロスの軍はよく訓練され、部隊同士が連携していた。彼は攻撃する時機と場所を選び、ダレイオスが戦場を去るとペルシア軍は中心を失った。ペルシア兵は一晩中待機して疲れてもいた。
ダレイオスは本当に逃げたのですか?
ギリシャ側の著述家は、彼が逃げたとして臆病者のように描いている。一方、当時書かれたバビロニアの記録には、軍勢が彼を見捨てたとある。多くの歴史家は、ギリシャ側の描き方は不公平だと考えている。
鎌付き戦車とは何ですか?
車輪に鋭い刃を付けた戦車で、敵の隊列を切り崩すためのものだった。しかしガウガメラでは、マケドニア軍の軽装兵が多くの御者を射ち、歩兵は戦車を通す道を開いた。
戦いの正確な日付はどうして分かるのですか?
古代の史料は、戦いが月食の11日後に起きたと伝えている。バビロニアの天文学者がその月食を記録しており、現代の天文学で紀元前331年9月20~21日の夜と特定できる。
戦場は見つかっていますか?
確実には分かっていない。研究者はモスルとアルビールの間にあるニネヴェ平原にあったと考え、テル・ゴメルやカラムレスを有力候補としているが、戦いの考古学的な遺物は確認されていない。
イランではアレクサンドロスはどのように記憶されていますか?
記憶のされ方はさまざまだ。一部のゾロアスター教の文献は、聖なる教えを破壊した「呪われた」人物と呼ぶ。一方、『シャー・ナーメ』ではダーラーの異母兄弟イスカンダルとなり、イランの王たちの系譜に加えられる。
なぜ「アルベラの戦い」とも呼ばれるのですか?
戦いの後、ダレイオスがアルベラ(アルビール)の町へ逃れたため、その名が古代や現代の一部の記録に残った。実際に戦った場所はガウガメラだった。
出典・参考文献
- Battle of Gaugamela. Wikipedia
- Gaugamela (331 BCE). Livius.org
- Battle of Gaugamela. World History Encyclopedia
- Darius III. Wikipedia
- Arrian. Wikipedia
- Arrian, Anabasis (Greek text, ed. A. G. Roos). Perseus Digital Library, Tufts University
- Pierre Briant, Darius in the Shadow of Alexander. Harvard University Press, 2015
- A. B. Bosworth, Conquest and Empire: The Reign of Alexander the Great. Cambridge University Press, 1988
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
