最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
たいていの建物は、レンガや石、木を積み上げて作られます。ところがラリベラの教会は、まったく逆の方法で作られました。作業員たちは岩の丘の頂上から始め、教会にならない部分をすべて削り取り、周りに深い溝を掘っていきました。真ん中に残った部分が、壁も屋根も窓も柱もすべてそろった、一つの教会になったのです。ひとつづきの岩からできた教会です。
東アフリカのエチオピアにある山あいの町ラリベラには、こうした教会が11も残っています。最も有名な聖ゲオルギオス教会は十字架の形をしています。地上からはその平らな屋根を見下ろす形になります。教会全体が四角い穴の底に建っているため、まるで大きな石のおもちゃが穴の中に置かれているようです。
エチオピアのキリスト教徒たちは、ラリベラという名の王についての言い伝えを語り継いでいます。彼が赤ん坊だったとき、蜂の群れが彼のまわりを取り巻き、母親はそれを彼が偉大な人物になる印だと受け止めました。のちに彼は、自分の国に聖なる都エルサレムを新しく建てよという啓示を受けたと伝えられています。そのため、この町にはヨルダンという名の川があり、聖地にちなんだ名の教会が並んでいます。
天使たちが手伝ったという古い言い伝えもあります。昼間は作業員たちが岩を彫り、夜になると天使たちが作業を引き継いだというのです。歴史家たちは、実際には多くの熟練した人々がハンマーとのみを使い、おそらく長い年月をかけて作り上げたのだろうと考えています。
今日、これらの教会は博物館ではありません。司祭たちが毎日祈りを捧げ、クリスマスやティムカットの祭りには、白い衣をまとった何千人もの巡礼者が訪れて歌い、祈り、祝います。
ひと目でわかる
- 内容
- 生きた岩を掘って作られた、完全独立型および半独立型の岩窟教会11棟。溝とトンネルで結ばれている
- 所在地
- エチオピア北部高地、アムハラ州ラスタ地方のラリベラ(伝統的にはロハと呼ばれた)。標高約2,500メートル
- 年代
- 伝承ではゲブレ・メスケル・ラリベラの治世(1181年ごろ〜1221年ごろ)。研究者の間では7〜8世紀から14世紀まで複数の段階を経たとする見方もある
- 建立
- 伝承によれば、ザグウェ王朝(1137年ごろ〜1270年ごろ)のラリベラ王の命による
- 構成
- 北群(5棟)、東・南群(5棟)、単独で建つ聖ゲオルギオス教会(ベテ・ギヨルギス)
- 宗教
- エチオピア正教テワヘド教会。特にゲンナ(クリスマス、1月7日)とティムカット(顕現祭、1月19日)に多くの巡礼者が集まる
- 地位
- 1978年よりユネスコ世界遺産
- 構想
- ヨルダンと呼ばれる小川と、聖地にちなんで名づけられた教会群からなる象徴的な「新しいエルサレム」
やさしい
ラリベラの岩窟教会群とは何か
ラリベラは、エチオピア北部の山中、アムハラ州ラスタ地方にある、標高約2,500メートルの小さな町である。その周囲には、建てられたのではなく、彫り出された中世の教会が11棟ある。作業員たちが丘の硬い火山岩を上から下へと掘り下げて作ったのである。そのうち4棟は周囲の岩から完全に切り離された独立した岩塊であり、残る7棟は一面以上がまだ岩と地続きになっている。
この町は伝統的にロハと呼ばれていた。現在の名前は、1181年ごろから1221年ごろまで治めたザグウェ王朝の統治者、ゲブレ・メスケル・ラリベラに由来する。エチオピアの伝承はこの教会群を彼が作らせたものと伝え、エチオピア正教テワヘド教会は彼を聖人として崇敬している。
教会群は、ヨルダンと名づけられた小さな季節河川を挟んで集まっている。5棟がその北側に、5棟が南・東側にあり、最も有名な十字架形の聖ゲオルギオス教会は西側に単独で建っている。それぞれの群の中で、溝、通路、トンネルが教会同士を結んでいる。
この遺跡は、1978年にユネスコの世界遺産リストに最初期に登録された遺産の一つである。多くの古代遺跡と異なり、本来の目的で使われ続けることが一度も途絶えていない。司祭や修道士、修道女たちがそこに暮らし礼拝を続けており、エチオピア正教のキリスト教徒にとって最も神聖な巡礼地の一つとなっている。
やさしい
遺跡の「読み方」――地面に埋まった教会
初めて訪れる人にとって最も奇妙なのは、教会をしばしば上から見下ろすことになる点である。上から掘り下げて作られているため、屋根の高さはほぼ周囲の地面と同じ位置にあり、壁を見るには深い溝の中を見下ろさなければならない。中に入るには、岩を切り開いた細い通路を下っていく。
聖ゲオルギオス教会(ベテ・ギヨルギス)は、このことを最もはっきりと示している。十字架の形に彫られているため、上から見ると建物全体が地面に刻まれたキリスト教のシンボルのように読み取れる。この教会は四角い穴の底に単独で建ち、細く曲がりくねった溝をたどり、教会の近くでトンネルへと変わる道からたどり着く。一般に、教会群の中で最も新しく、保存状態の最も良いものの一つと考えられている。
他の教会はそれぞれ異なる姿を持つ。ベテ・メドハネ・アレム(「世界の救い主の家」)は大きな長方形の教会で、「ラリベラの十字架」として知られる有名な行列用の十字架を納めている。おそらく最も古いとされるベテ・マリアム(「マリアの家」)には、幾何学模様と聖書の場面を描いたカラフルな絵画がある。ベテ・ゴルゴタには珍しい人物像の浮き彫りがあり、伝承によればラリベラ王の墓があるとされる。
細部にも注目したい。多くの窓や扉の枠には角に張り出した石材が使われ、木材と石材の層を交互に積んだように見せかけている壁もある。これらは、古代エチオピア王国アクスムの木材と石材を組み合わせた建築様式を石で模したものであり、その様式は今もティグライやエリトリアに残るいくつかの古い建造教会に見ることができる。
やさしい
新しいエルサレム
エチオピアの伝承によれば、ラリベラは王になる前に、幻の中で、あるいは実際の旅によってエルサレムへ連れて行かれ、エチオピアに第二のエルサレムを建てるよう告げられたという。町の多くの名前は、この構想に沿っている。小川は、イエスが洗礼を受けた川にちなんでヨルダンと呼ばれる。イエスが十字架にかけられたゴルゴタや、生まれたベツレヘムにちなんだ教会があり、周囲の土地にも聖書にちなんだ地名が付けられている。
専門家の中には、この構想を実際の出来事と結びつける者もいる。1187年、ムスリムの指導者サラディンが十字軍からエルサレムを奪回した。エルサレムへの巡礼がより困難で危険なものとなったのなら、聖なる都を故郷に再現しようとしたのではないか、という説が唱えられている。ただしこれはあくまで一つの解釈であり、文献で裏づけられた事実ではない。
エチオピアのキリスト教徒は、長らくエルサレムやエジプトと結びつきを持っていた。11〜12世紀にはエジプトにエチオピア人が暮らしていたことが確実な史料で確認でき、エルサレムのエチオピア人共同体は13世紀後半から記録に残るが、それ以前から存在していた可能性が高い。歴史家たちは、王が聖地について十分な知識を持っていたからこそ、首都の配置や地名の着想を得ることができたのだろうと考えている。
信者にとって、この象徴は歴史的な意味にとどまらない。教会から教会へと歩き、岩の中へ降りては再び上ってくる巡礼者たちは、キリストの生涯・死・復活を思い起こさせる聖なる風景の中を進んでいくのである。
中級
教会はどのように彫られたか
岩窟建築は「引き算」の建築である。材料を加えるのではなく、取り除くことで空間を作り出す。ラリベラの石工たちは、まず岩の表面に平面図を書き込み、教会となる岩塊の周囲に深い溝を掘った。上から下へと作業を進め、屋根、次いで上部の壁を成形し、扉や窓を通じて内部をくり抜いていった。部屋、柱、アーチ、ヴォールトのすべてが、同じ一つの岩から彫り出されたのである。
岩は柔らかい火山岩で、研究によって多孔質玄武岩あるいは火山凝灰岩と説明される。露出したばかりのときは比較的削りやすいが、時間が経つと風化してしまい、これが今日の保存における主要な問題の一つとなっている。道具はハンマーとのみという単純なものだった。間違いの許される余地はなかった。誤って彫ってしまった柱は元に戻すことができないからである。
教会はまた別の意味でも見事な工学の産物である。多くの教会のそばには井戸があり、水がたたえられているが、これは町が建つ尾根の岩を通って地下水を上へと押し上げる自噴井の仕組みによるものである。水は実用的な目的だけでなく、洗礼などの儀式にも池や井戸が用いられた。
これらすべてにどれほどの年月がかかったのかは分かっていない。1520年代にラリベラを訪れたポルトガル人たちは、現地の司祭から、教会は24年で作られたと聞かされた。王の聖人伝に記された後代の伝承では、夜になると天使たちが人間の労働者とともに作業したとされる。現代の研究者の多くは、実際にはもっと長い年月がかかり、いくつもの段階を経て、時には以前に彫られた構造物を作り直しながら進められたと考えている。
中級
ザグウェ王朝とその世界
この教会群は、1137年ごろから1270年までエチオピア北部とエリトリアの広い範囲を治めたザグウェ王朝の時代に属する。ザグウェの王家はラスタ出身のアガウ(アゲウ)人であり、その名は「アガウの」を意味するゲエズ語の言い回しに由来すると考えられている。彼らは、4世紀にキリスト教を受け入れた古代アクスム王国が衰退した後に権力を握った。
ザグウェ王朝については不確かなことが多い。王の数さえ論争の的で、名簿によって5人、11人、あるいは16人とされる場合もある。1270年にザグウェを打倒し、ソロモン王とシバの女王の子孫を自称したソロモン朝の後継者たちは、先代の王朝を正統性のないものとして描いたため、残された記録にもその見方が色濃く反映されている。
ラリベラは、ザグウェの王の中で最も記録が豊富な人物である。彼の生涯は、聖人伝『ガドラ・ラリベラ』に語られている。それによれば、彼はロハで生まれ、赤ん坊のとき蜂の大群が彼を取り囲んだ。その名は「蜂たちが彼の王権を認めた」という意味だと説明されている。彼は兄から王位を奪う前、数年間の亡命生活を送ったと伝えられ、その地はエルサレムだったともいう。彼の治世に由来する、1204年と1225年の日付を持つ土地授与の記録や、1210年ごろのアレクサンドリア総主教の使節団による報告も残っている。
ザグウェの王たちは、エチオピア教会の長であるアブナを任命していたエジプトのコプト教会と緊密な関係を保っていた。歴史家たちは、ラリベラの時代にエチオピアへやって来たコプト系エジプト人が装飾の一部に関わった可能性を指摘しているが、建築そのものは地元アクスムの伝統に従っている。
中級
生きた聖地
ラリベラの教会群は、東方諸教会の中で最大の規模を持つエチオピア正教テワヘド教会に属し、その起源は4世紀のアクスム宮廷の改宗にさかのぼる。それぞれの教会には、契約の箱を表す聖別された板「タボット」があり、司祭だけが入ることを許される内陣に安置されている。聖ゲオルギオス教会にも、カーテンの奥にこうした契約の箱の模造品がある。
教会では日々祈りと礼拝が続けられ、多くの教会は聖職者や修道士の住まいでもある。それぞれの教会には固有の聖職者団と、行列用の十字架などの宝物があり、古代の教会言語であるゲエズ語で歌われる典礼の舞台にもなっている。
特に二つの祭りに大勢の人が集まる。エチオピアのクリスマスにあたる1月7日のゲンナには、多くの巡礼者が訪れ、数日にわたる礼拝、行列、音楽が行われる。ヨルダン川でのキリストの洗礼を記念する1月19日の顕現祭ティムカットでは、豪華な布に包まれたタボットが司祭たちの頭に載せられて池まで行列し、そこで水が祝福され、信者たちにふりかけられる。
巡礼者はエチオピア各地、さらには海外からもやって来る。聖ゲオルギオス教会では、この地にたどり着いた後に亡くなった巡礼者たちが、周囲の岩壁に設けられた簡素な露出した墓に葬られた。巡礼者にとってラリベラは、古代の記念建造物ではなく、聖なるものが今も存在する場所なのである。
中級
その後の歴史――訪問者、戦争、そして存続
ラリベラは、ヴェネツィアのフラ・マウロの世界地図(1457〜1459年)に「ララベダ」として登場する。教会を初めて詳しく記録したヨーロッパ人は、1520年代にポルトガル使節団とともに訪れた司祭フランシスコ・アルヴァレスである。彼は驚きのあまり、自分が書いたことを誰も信じてくれないのではないかと恐れ、書いたことはすべて真実だと神に誓った。
1530年代、アダル・スルタン国のアフマド・イブン・イブラーヒーム・アル=ガーズィーの軍勢がエチオピア高地に侵攻した。彼の遠征を記録した年代記は、ラリベラの教会の一つを焼き払ったと主張している。歴史家リチャード・パンクハーストはこれに懐疑的で、王室の年代記にはこの記述が見当たらないと指摘し、もし本当だとすればベテ・メドハネ・アレムか近くの似たような教会のことを指すのではないかと示唆した。1540年代のあるポルトガル兵は、教会を破壊しようとした試みが失敗したと報告している。
20世紀にも、ラリベラはエチオピアの戦争の影響を受けた。1936年、イタリアの侵攻の最中、ハイレ・セラシエ皇帝はイタリア軍がこの町を占領する前に巡礼を行った。1980年代のエチオピア内戦の間には、反乱軍の攻撃で観光客が減少した。2021年のティグライ紛争では、この町は何度も支配勢力が入れ替わり、2023年には連邦軍とファノ民兵との間で戦闘が起き、教会群の安否について国際的な懸念が高まった。
こうした数々の危険にもかかわらず、教会群はほぼ無傷のまま存続してきた。それは一つには生きた岩から彫り出されているためであり、もう一つには地元の共同体が何世紀にもわたって絶えず手入れを続けてきたためである。
中級
保存――覆い屋根、雨、そして意見の対立
教会群は柔らかい火山岩を彫って作られ、風雨にさらされたままであるため、雨と浸食が表面や彫刻の細部、絵画にとって絶えざる脅威となっている。教会の性格を変えたり礼拝を妨げたりせずに保護することは容易ではない。
2008年、欧州連合の資金提供により、5棟の教会の上に大型の覆い屋根4基が仮設の保護策として建てられた。これらは予定よりもはるかに長く残り続けており、今ではこの重い構造物とその支柱が、もし崩れれば教会そのものを傷つけかねないという懸念が出ている。エチオピアの文化財当局は撤去すべきだと表明しているが、長期的な解決策はいまだ合意されていない。
米国大使館の資金でベテ・ガブリエル=ルファエルとベテ・ゴルゴタを対象に行われた事業など、他の修復プロジェクトも困難に直面してきた。国の文化財当局(ARCCH)と地元の教会委員会、外国のパートナーとの間の意思疎通は必ずしも円滑ではなく、作業の範囲をめぐって意見の食い違いも起きている。
こうした問題は、今も信仰の場として使われている宗教遺跡の多くに共通する根本的な問いを投げかける。すなわち、聖なる場所をどう保存するかは誰が決めるのか、という問いである。教会を日々使う聖職者や巡礼者、国内の専門家、国際機関のそれぞれが異なる優先順位を持つことがある。礼拝、観光、保存のバランスをとることは、ラリベラにとって今も中心的な課題であり続けている。
上級
教会はいつ作られたのか――年代をめぐる論争
伝承では11棟すべてがゲブレ・メスケル・ラリベラの手によるものとされ、古い教科書では1200年ごろの年代が記されてきた。しかし、その建設について記した碑文や同時代の文献は存在せず、年代づけは伝承・様式・考古学に頼らざるをえない。デイヴィッド・バクストンは広く用いられる様式編年を確立し、教会のうち二つが、デブレ・ダモやイェムレハンナ・クレストスに代表されるより古い建造伝統に非常に忠実に従っていると指摘した。これほど大量の岩を彫る作業は一人の王の治世には大きすぎる仕事に思えたため、彼は作業が14世紀まで続いたと示唆した。
ケンブリッジの考古学者デイヴィッド・フィリップソンは、より長く複雑な歴史を提唱した。彼は、現在教会として使われている構造物のうちベテ・メルコリオス、ベテ・ガブリエル=ルファエル、ベテ・ダナゲルなどは、アクスム後期にあたるおよそ600年から800年ごろに、まず要塞や宮殿の建物として彫られ、後になって教会に転用されたのではないかと論じた。この見方によれば、ラリベラの名前は彼の死後にこの複合遺跡全体に付けられたことになる。
他の証拠は異なる方向を指し示している。地元の歴史家ゲタチェウ・メコンネンは、ラリベラの王妃メスケル・キブラが夫を追悼するためにベテ・アバ・リバノスを作らせたと考えている。近年の発掘では900年から1100年ごろの土器と動物の骨が大量に見つかっており、この地が宗教の中心地となる前は主に世俗的な集落であったことをうかがわせる。これはラリベラの時代に起きた変貌とも整合する。近くのワシャ・ミカエル洞窟でキリスト教以前の動物の帯状浮き彫りが発見されたことは、この地域が当時なおキリスト教化の途上にあったことを示唆している。
現在ではほとんどの研究者が、教会群がザグウェ時代の大規模な作業と、その後の改変を含む複数の段階を経て発展したという点で一致しているが、どの教会が最初に作られたのか、そしてどこまでがラリベラ自身によるものなのかという詳細は、いまだに未解決のままである。文献史料も限られている。1882年に入手され、かつてはアレクサンドリアとエルサレムから連れて来られた外国人労働者500人について記した文書だと紹介された写本は、詳しく調べ直したところ、そのような記述はまったく含まれていなかった。
上級
土着の天才か外国人建築家か――様式・影響・解釈をめぐって
16世紀以降、ヨーロッパからの訪問者たちは、エチオピア人がこれらの教会を作れたはずがないとしばしば疑った。アルヴァレスは、多くの現地の人々が教会は主に外国人の手によるものだと語っていたと記録しており、後にマヌエル・デ・アルメイダやヒオプ・ルドルフといった著述家たちはエジプト人建築家の功績とした。こうした見方は、証拠と同じくらい、アフリカに対するヨーロッパ人の思い込みを反映していることが多かった。
現代の研究は、この建築の土着的な起源を重視してきた。スチュアート・マンロー=ヘイは、ベテ・アマヌエルが木の梁を突き出させるアクスム式の壁の技法を石で再現していること、また枠取りされた窓や扉が、アクスムの巨大なステラ(石碑)に見られる文様を反映していることを指摘した。バクストンは、一部の装飾の細部にはコプトの影響が見られるものの、岩窟教会群は地元の建造教会の様式に従っており、その様式自体がアクスムの原型にさかのぼると結論づけた。フィリップソンはさらに、アクスム的な特徴だけではアクスム時代の年代を証明することにはならないと付け加える。というのも、アクスムの滅亡後も長く使われ続けた可能性があるからだ。ただし、それらは強い文化的連続性を示している。
いくつかの特徴は、より広い東方キリスト教世界とのつながりを示唆している。ベテ・マリアムの切妻屋根とモールディングはシリアの教会建築と比較されてきており、マンロー=ヘイは、ラリベラの時代に多くのコプト系エジプト人がエチオピアに移り住み、装飾に関わった可能性があると指摘している。有力な見解は、外国の影響はエチオピアの建築伝統の枠内で、主に装飾技法にとどまっていたというものである。
ラリベラはまた、はるかに大きなエチオピアの岩窟教会の伝統の一部でもある。ティグライだけでも150を超える岩窟教会が記録されており、その大半はおそらく14〜15世紀に彫られたものであり、新しい岩窟教会は今日でも作られ続けている。ラリベラを孤立した驚異としてではなく、この伝統の中に位置づけて見ることは、その卓越した技術と、今も続く信仰生活の両方を理解する助けとなる。
重要なポイント
- 引き算の建築
- 材料を加えるのではなく岩を取り除いて作る建築。ラリベラのすべての壁・柱・窓は、生きた岩を彫って作られている。
- モノリシック教会(一枚岩の教会)
- 一つの岩塊から彫り出された教会。ラリベラの教会のうち4棟は完全に独立した一枚岩である。
- 新しいエルサレム
- ヨルダンの小川と聖地にちなんで名づけられた教会群からなる、聖なる都をエチオピアに再現するというラリベラの象徴的な構想。
- アクスムとの連続性
- 教会群は古代アクスムの木材と石材を組み合わせた建築様式を石で模しており、深い土着の起源を示している。
- 生きた文化遺産
- この遺跡は今も日々の礼拝と巡礼に使われており、そのことが保存や見学のあり方を左右している。
- 複数段階の年代づけ
- 多くの研究者は、教会群が一人の王の代に一度に作られたのではなく、複数の段階を経て作られ、改変されてきたと考えている。
- 伝承と歴史
- 天使や幻の物語は、この遺跡の宗教的な意味の一部であり、歴史家たちはこれを考古学や様式研究とあわせて検討している。
記録
- 330年頃 — アクスムの宮廷がキリスト教を受け入れ、エチオピア教会がアレクサンドリアのコプト教会と結びつく。
- 700年頃 — デイヴィッド・フィリップソンによれば、後に教会として使われる構造物の一部が最初に彫られた可能性のある時期。
- 1137年頃 — 伝承によれば、ザグウェ王朝が権力を握る。
- 1181年頃 — ゲブレ・メスケル・ラリベラが王位に就く(伝承上の年代)。
- 1187年 — サラディンがエルサレムを奪回する。一部の研究者はこれをラリベラの「新しいエルサレム」構想と結びつけている。
- 1221年頃 — ラリベラの治世が終わる(伝承上の年代)。
- 1270年 — ソロモン朝の始祖イェクノ・アムラクがザグウェ王朝を打倒する。
- 1520年頃 — ポルトガル人司祭フランシスコ・アルヴァレスが訪れ、ヨーロッパ人による最初の詳細な記録を残す。
- 1936年 — イタリアの侵攻の最中、ハイレ・セラシエ皇帝がラリベラへ巡礼する。
- 1978年 — 「ラリベラの岩窟教会群」がユネスコ世界遺産リストに登録される。
- 2008年 — EUの資金提供により、教会5棟の上に仮設の覆い屋根が建てられる。
- 2021年 — ティグライ紛争の間、この町は何度も支配勢力が入れ替わる。
用語集
- 岩窟建築
- 別々の石を積み上げて建てるのではなく、自然の岩を彫って作られた建築。
- モノリス(一枚岩)
- 一つの岩塊からできているもの。
- ザグウェ王朝
- 1137年ごろから1270年までエチオピア北部とエリトリアを治めたアガウ人の王朝。
- アクスム
- 西暦1世紀ごろから7世紀ごろまで栄えた、エチオピア北部・エリトリアの古代王国。4世紀にキリスト教を受け入れた。
- タボット
- 契約の箱を表す聖別された板。すべてのエチオピア正教会の聖所に安置されている。
- ティムカット
- イエスの洗礼を記念する、1月19日に祝われるエチオピア正教の顕現祭。
- ゲンナ
- 1月7日に祝われるエチオピア正教のクリスマス。
- ガドラ
- 聖人の生涯を伝える伝統的なゲエズ語の聖人伝。『ガドラ・ラリベラ』などがその一例。
- ゲエズ語
- 古代エチオピアの言語で、今もエチオピア正教会の典礼に用いられている。
- アブナ
- エチオピア教会の首座主教の称号。歴史的にはエジプトのコプト教会から任命されてきた。
よくある質問
教会は本当に一つの岩からできているのですか?
はい。4棟は周囲の岩から完全に切り離されており、残りはいくつかの面で岩と地続きになっていますが、別々の石を積み上げて建てられた教会は一つもありません。
天使が建設を手伝ったというのは本当ですか?
それは王の生涯の物語に見られ、多くの信者が信じている伝承です。歴史家たちは、熟練した人間の彫り手たちが長い年月をかけて作り上げたのだと説明しています。どちらの見方も、この遺跡をめぐる物語の一部です。
なぜエチオピアにヨルダンという名の川があるのですか?
ラリベラが「新しいエルサレム」として設計されたからです。小川はイエスが洗礼を受けた川にちなんで名づけられ、他の場所にも聖書にちなんだ名前がつけられました。
訪問者は中に入ることができますか?
はい、今も礼拝に使われているこれらの教会には、訪問者も入ることができます。ただし、タボットが安置された最も奥の聖所は司祭のみに限られています。
ラリベラ王が11棟すべてを建てたのですか?
伝承ではそう伝えられていますが、多くの研究者は、教会群が複数の段階を経て作られ、改変されたと考えており、彼の治世より前、あるいは後に作られたものもある可能性があります。
いくつかの教会の上にある大きな屋根は何ですか?
柔らかい岩に雨が直接当たらないよう、2008年に建てられた仮設の覆い屋根です。予定よりもはるかに長く残っており、今では保存上の懸念事項となっています。
ラリベラとアクスムはどのような関係にありますか?
教会群は、エチオピア北部にあった先行するキリスト教王国アクスムの建築様式を石で模しており、地元の伝統との強い連続性を示しています。
出典・参考文献
- Rock-Hewn Churches, Lalibela. Wikipedia
- Lalibela. Wikipedia
- Gebre Meskel Lalibela. Wikipedia
- Zagwe dynasty. Wikipedia
- Church of Saint George, Lalibela. Wikipedia
- Monolithic church. Wikipedia
- Ethiopian Orthodox Tewahedo Church. Wikipedia
- Timkat. Wikipedia
- David W. Phillipson, Ancient Churches of Ethiopia: Fourth–Fourteenth Centuries. Yale University Press, 2009
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
