文化遺産

グレート・ジンバブエ

Dzimba dza mabwe (Shona)

1100–1450年頃 · グレート・ジンバブエ

ひとことで

グレート・ジンバブエは、約700~900年前にアフリカの人々がアフリカ南部に築いた巨大な石壁の都市で、現在の国名「ジンバブエ」の由来にもなった重要な遺跡です。

グレート・ジンバブエ
画像: Unknown · CC BY-SA 3.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

セメントをまったく使わず、何千もの平たい灰色の石を積み重ねて作った、3階建ての建物ほど高い壁を想像してください。巨大な石のヘビのように曲がるその壁は、アフリカ南部のジンバブエという国の丘にある、昔の都市グレート・ジンバブエの一部です。

約700~900年前、ここには力のある王たちが住み、何千人もの人が暮らすにぎやかな町がありました。多くの家族は、土で作り、草で屋根をふいた丸い家に住んでいました。王や重要な人々は高い石壁の内側に住み、その壁で自分たちの力を示しました。

グレート・ジンバブエの人々は畑を耕し、牛を育て、交易もしていました。金や象牙をインド洋の海岸へ送り、代わりにガラス玉や布、遠い中国から運ばれた陶器まで手に入れました。考古学者は遺跡で中国の器の破片を見つけています。

都市を見下ろす丘では、緑がかった灰色のやわらかい石で彫られた、美しい鳥の像が8つ見つかりました。どの鳥も高い石の柱の上に置かれていました。今では、そのうちの1羽がジンバブエの国旗に描かれています。

長い間、アフリカの人々がこれほど立派な都市を築いたと信じようとせず、遠くから来た人々が建てたという話を作り出すヨーロッパ人もいました。しかし、考古学者はそれが間違いだと証明しました。グレート・ジンバブエを築いたのは、今もこの地域に暮らすショナ人の祖先です。

ひと目でわかる

時期
西暦1000年ごろから定住。石造建築は主に12~15世紀ごろ。最盛期は1300~1450年ごろで、15~16世紀に衰退
場所
ジンバブエ南東部のマシンゴ近郊、ジンバブエ高原の南端
建設者
ショナ人の祖先にあたるバントゥー系言語を話す人々(ジンバブエ王国)
建材
地元の花崗岩を割った石材を、モルタルを使わない空積みの石壁に使用。住居にはダガ(土)を使用
主な区域
丘陵区、大囲壁、谷地区。遺跡全体の面積は約7 km²
大囲壁
外壁は長さ約250 m、最大で高さ約11 m。サハラ砂漠以南で最大の植民地化以前の石造建築物
ユネスコ
「グレート・ジンバブエ国立記念物」として1986年から世界遺産
重要性
インド洋交易につながるアフリカ南部の有力国家の首都であり、ジンバブエの国家的象徴

やさしい

グレート・ジンバブエとは何か

グレート・ジンバブエは、現在のジンバブエの都市マシンゴから南東へ約25 kmの場所にある、アフリカ南部の王国の首都遺跡です。丘から谷にかけて曲線を描く、モルタルを使わずに積まれた巨大な花崗岩の壁で知られています。ザンベジ川とリンポポ川の間の地域には、「ジンバブエ」と呼ばれる同様の石壁遺跡が数百あり、その中で最大のものです。

「ジンバブエ」という語は、現在の国民の多数が話すショナ語に由来します。一般には「石の家々」を意味する「dzimba dza mabwe」、または首長の家や墓を指す「崇められる家々」を意味する「dzimba woye」に由来すると説明されます。ポルトガル人は1531年にはすでに、王宮を意味する「Symbaoe」としてこの名を記録していました。「グレート(大)」は、ほかの小規模な遺跡と区別するために付けられています。

この都市は11世紀ごろの農村から発展し、14世紀には人口が1万人以上に達した可能性のある首都となりました。牛の飼育と農業に加え、スワヒリ海岸からインド洋へと運ばれる金や象牙の交易を支配することで富を得た国家の中心でした。16世紀までには中心地としての役割を失い、地域の権力は北や西へ移りました。

グレート・ジンバブエはユネスコの世界遺産であり、ジンバブエで最も重要な国家的記念物です。1980年の独立時、国はこの遺跡から名前を取りました。現在も地元の多くの共同体にとって神聖な場所です。

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やさしい

遺跡を歩く:丘陵区、大囲壁、谷地区

遺跡は大きく3つの区域に分かれます。丘陵区は谷より約80 m高い、急な花崗岩の丘にあります。ここでは巨大な自然石の間や上に壁を築いたため、岩と石積みが一体化しています。遺跡で最も古い区域で、12世紀ごろまでには石造建築が始まっていました。いくつもの囲壁があり、有名なソープストーン製の鳥の像の大半が見つかった東囲壁も含まれます。多くの研究者は、この丘が王権や儀礼にとって重要な場所だったと考えています。

丘の下には、最も印象的な単体の建築物である大囲壁があります。長さ約250 m、高さ最大約11 m、基部の厚さ最大約5 mの外壁が、ほぼ楕円形を描きます。壁の上部の一部には、石をジグザグの山形模様に並べた装飾帯があります。内側にはさらに古い内壁があり、二重の壁の間を、高い壁に挟まれた細い「平行通路」が円錐形の塔に向かって延びています。

円錐形の塔は、石を積んだ高さ約9 m、基部の幅が5 mを超える、内部が詰まった塔です。入口も内部の部屋もありません。何を意味するかは分かっていません。支配者の寛大さや富を示す穀物庫の象徴、男性器や豊穣の象徴、あるいは他のジンバブエ遺跡の塔に形を似せた記念物などの説があります。

この2つの主要区域の間と周囲には、主に14~15世紀に築かれた小さな囲壁群からなる谷地区の遺構があります。石壁の外にも都市は広がり、多くの人々はダガ(土と砂利を混ぜたもの)で作り、草で屋根をふいた丸い家に住んでいました。今は石造部分だけがはっきり残っているため、石壁がはるかに大きな町の支配層の中核部分だったことを見落としがちです。

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やさしい

石壁はどのように築かれたか

建設者は周囲の丘の花崗岩を使いました。この地域では、岩が昼に熱せられ、夜に冷えることで、花崗岩の丸い岩体から薄く均一な層が自然にはがれます。この過程を「剥離」といいます。はがれた板状の岩をれんがほどの大きさに割り、建築現場へ運ぶことができました。火で岩を熱してから水で冷やし、剥離を早めたと考える研究者もいますが、それを直接示す証拠は限られています。

すべての壁は「空積み」です。石材をモルタルなしで水平な列に積み、自重と精密な組み合わせで安定させています。各段を下の段より少し内側に置くため、壁は緩やかに内側へ傾き、安定性が増します。現代的な意味での基礎はなく、しばしば岩盤や突き固めた土の上に直接築かれました。出入口は丸みを帯び、中には木製のまぐさや階段が付いたものもありました。

建築技術は時代とともに変化しました。考古学者は、20世紀半ばにアンソニー・ウィッティが導入した分類に従い、形が粗く不ぞろいな石を使う初期の様式、整った石を均一な段に積む後の様式、そしてさらに後の、やや不規則な様式を区別します。整った様式の最も優れた例は大囲壁の外壁です。こうした様式は、遺跡内の各部分の相対的な年代を考える手がかりになります。

工事の規模は非常に大きなものでした。大囲壁の外壁だけで、約1万5000トンの石が使われたと推定されることがあります。工事の組織方法を記した文書はありませんが、長期間にわたって多くの働き手が必要だったはずです。後世のショナ人の国家と同じように、支配者の権威と共同体の労働義務によって人々が動員された可能性があります。

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中級

人々と国家:牛、金、王権

グレート・ジンバブエは、アフリカ南部に暮らしたバントゥー系言語を話す農耕共同体の長い歴史の一部です。紀元後最初の千年紀から、この地域には鉄を加工し、モロコシやキビなどを栽培する農民が住んでいました。11世紀ごろには、考古学者が「グマニェ」と呼ぶ共同体が遺跡で建築を始めました。その土器と生活様式は、グレート・ジンバブエ文化へと直接つながります。

グレート・ジンバブエの直前に栄えたのは、リンポポ川流域を中心としたマプングブエ王国です。中心地は現在の南アフリカにあり、ボツワナとジンバブエの国境に近い場所でした。13世紀に繁栄し、1300年ごろに放棄されました。マプングブエでは、支配層はすでに一般の人々より高い丘の上に住み、海岸との間で金や象牙を交易していました。マプングブエが衰退したころにグレート・ジンバブエが台頭したことは、権力と交易の中心が北へ移った可能性を示します。

グレート・ジンバブエでは、富は何よりも牛の数で測られました。遺跡の動物の骨は、支配層が大量の牛肉を食べていたことを示します。牛は同盟を結び、婚資を払い、従者に報いるためにも使われました。支配者は遠距離交易も管理しました。金は主に西方のジンバブエ高原で採掘され、象牙とともに仲介者を通じてソファラやキルワなどスワヒリ海岸の都市へ輸出されました。輸入品には、ガラス玉、布、ペルシアの陶器、13~15世紀の中国製青磁がありました。

最盛期の人口推定は約1万人から1万8000人まで幅があり、その大半は石壁の外に住んでいました。大きな囲壁の内側に住んだ支配層は、数百人ほどだったと考えられています。この都市を中心とする国家は数万平方キロメートルの地域を支配した可能性がありますが、その境界や仕組みの詳しいことは分かっていません。

世界史の中では、グレート・ジンバブエは西アフリカのマリ帝国(マンサ・ムーサが有名な巡礼を行ったのは1324年)、東アフリカ沿岸のスワヒリ都市国家、中国の元と明の初期、ヨーロッパの中世後期と同時代に存在しました。アフリカ、アラビア、インド、中国を結ぶインド洋交易圏の一部でした。

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中級

宗教的・文化的意味とジンバブエの鳥

グレート・ジンバブエは政治の中心であると同時に、神聖な場所でもありました。後世のショナ人の伝統では、王(マンボ)は王家の祖先や神ムワリとのつながりを通じて権威を持ち、霊媒がその土地の祖先の言葉を伝えました。洞窟、巨岩、囲壁のある丘陵区も、雨乞いを含む儀礼に関わったと考える研究者は少なくありません。ただし、これは直接の証拠ではなく、後世の民族誌に基づく解釈です。

遺跡で最も有名な遺物は、ソープストーン(滑石とも呼ばれる、緑がかった柔らかい石)で彫られた8羽の鳥です。それぞれ高さ約40 cmで、約1 mの石柱の上に据えられていました。大半は丘陵区の東囲壁で見つかりました。特定の1種を写実的に表したものではなく、ダルマワシやサンショクウミワシなどの猛禽類の特徴と、鉤爪の代わりに足指を持つといった人間に似た特徴を組み合わせています。王家の祖先、あるいは生者と祖先、神をつなぐ使者を表すという解釈が一般的です。

鳥の像は近代に激動の歴史をたどりました。1889年、ある狩猟者が1羽を持ち去ってセシル・ローズに売り、それは今もケープタウンにあるローズの旧居、グローテ・スフールに残っています。ほかの像も南アフリカやドイツへ運ばれました。南アフリカは1981年に4羽を返還し、ベルリンにあった鳥の像の下半分は2000年代初めに返還されました。鳥はローデシア、そして独立後のジンバブエの象徴となり、国旗、国章、通貨に描かれています。

地元の共同体にとって、グレート・ジンバブエは今も儀式が行われる祖先の地です。立ち入り、儀礼、遺跡を守る権利をめぐって、伝統的指導者や霊媒と遺産管理者との間に緊張が生じたことがあり、近隣の氏族同士にも異なる主張があります。こうした現在も続く関係を尊重することは、今日の遺跡管理の一部です。

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中級

衰退とその後の歴史

15世紀からグレート・ジンバブエは中心地としての役割を失い、1550年ごろには主要な首都ではなくなりました。ただし、その後も人々は遺跡に住み続けました。衰退の原因は議論されています。人口が多かったために周辺の放牧地、農地、薪などの資源が乏しくなったこと、金の交易が北のザンベジ川流域へ移ったこと、支配家系内の政治的対立などが考えられます。

ショナ人の口承伝承には、ニャツィンバ・ムトタという王子が塩を求めて北へ向かい、のちのムタパ国を建てたという話があります。口承伝承を歴史の証拠として使う際には注意が必要ですが、この話は、権力が北のムタパ国と西のトルワ国へ移ったという考古学的な見方と合います。ムタパ国には16世紀にポルトガル人が接触しました。トルワ国は、もう一つの世界遺産であるカミを中心とし、のちにロズウィがこれに代わりました。

海岸を拠点とするポルトガル人の著述家は、16世紀初めに石造建築物についての情報を記録しました。ソファラの隊長ヴィセンテ・ペガードは1531年、地元の人々が「Symbaoe」と呼ぶ、モルタルを使わずに「驚くほど大きな石で築かれた」要塞について書きました。歴史家ジョアン・デ・バロスも16世紀半ばに同様の記述を繰り返しました。ただし、彼らは誰も遺跡を直接訪れておらず、情報源はアフリカ人やスワヒリ人の伝え手でした。

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中級

「ジンバブエ論争」:植民地時代の否定と考古学的証明

1871年、ドイツ人地質学者カール・マウフは、狩猟者アダム・レンダーが発見した遺跡へ案内され、アフリカ人が建てたはずはないと主張しました。彼は、シバの女王の宮殿を模したもので、木製のまぐさはフェニキア人が運んだ杉材だと推測しました。聖書に登場するオフィルの地をめぐる以前のポルトガル人の伝説にも通じるこうした考えは、まもなくこの地域を占領するヨーロッパ人入植者に都合のよいものでした。

1890年にセシル・ローズのイギリス南アフリカ会社がこの地域を支配下に置くと、ローズはジェームズ・セオドア・ベントに資金を出し、1891年に発掘させました。考古学の訓練を受けていなかったベントは、建設者をフェニキア人かアラブ人と結論づけ、円錐形の塔の近くを破壊的な方法で掘りました。1895年から1901年ごろにかけては、ローデシア古代遺跡会社が探鉱者に遺跡内での金の採掘を許可しました。1902~04年には、管理官に任命されたリチャード・ニックリン・ホールが、自分の考える「カフィール」(人種差別的な呼称)の居住の痕跡を取り除くため、大囲壁から何メートルもの考古学的な堆積層を除去しました。遺跡の年代を知る手がかりの多くが失われました。

現地で調査した最初の専門の考古学者デイヴィッド・ランドール=マカイヴァーは、1905年に発掘し、著書『Medieval Rhodesia』(1906年)で建造物は中世のアフリカ人によるものだと結論づけました。1929年にはガートルード・ケイトン=トンプソンが英国学術協会のために発掘を率い、慎重な層位学的調査によってその結論を確認しました。年代を特定できる遺物は、いずれもバントゥー系言語を話す建設者と中世の年代を示していました。多くの入植者は彼女の発見を拒み、彼女自身も建造物を見下すような言葉で記述しましたが、科学的な結論は明らかでした。

1950年代以降の放射性炭素年代測定は中世という年代を裏付け、そのころにはアフリカ人による建設が考古学者の共通見解になっていました。それでもローデシアの白人少数派政府は、とりわけ1965年の一方的な独立宣言後、起源を不明または外国由来として紹介するよう博物館や案内書に圧力をかけました。事実を公に述べた考古学者は検閲に直面しました。政府の記念物監察官ピーター・ガーレイクは1970年に国外へ去り、国立博物館のロジャー・サマーズも離れました。この論争は、人種差別と政治が過去の解釈をゆがめうることを示す、教科書的な事例となっています。

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中級

今日の保存

グレート・ジンバブエはジンバブエ国立博物館・記念物局が管理し、1986年にユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。石壁は、初期の発掘者が支えとなっていた堆積層を取り除いたことによる崩落、木や根の成長、水害と浸食、地衣類、訪問者が壁に登る行為など、多くの脅威にさらされています。

過去の復元工事そのものが批判されることもあります。20世紀には、崩れた部分が十分な記録なしに積み直されることがあり、元の石積みと後の修復部分を見分けにくくなりました。現在の保存活動では、監視、必要最小限の介入、すべての修理の記録、訓練を受けた地元の石工による伝統的な空積み技術の使用が重視されています。

地域社会の参加は重要な課題です。独立後、遺跡は国家的記念物や観光地として管理されましたが、遺跡を神聖な場所と考える地元の人々の立ち入りが制限されることもありました。ジンバブエ人考古学者ウェバー・ンドロを含む文化遺産の専門家は、保存活動では石を守るだけでなく、遺跡の精神的な意味を認め、地元の共同体を参加させるべきだと論じています。

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中級

遺産:国の名の由来

ローデシアの白人少数派支配と闘うアフリカ人民族主義者にとって、グレート・ジンバブエはアフリカ人の功績と自治を示す力強い象徴となりました。1980年の独立時、国はジンバブエと名付けられ、ソープストーン製の鳥が新しい国旗に描かれました。現代国家のアイデンティティーに、これほど直接的な役割を果たした考古遺跡は多くありません。

独立後も、この遺跡は、その時々の政府が好む国家の歴史観を支えるなど、政治的に利用されてきました。歴史家は、植民地主義の著述家も民族主義の著述家も、自分たちの現在の見方を支えるためにグレート・ジンバブエを用いたと指摘します。これは、文化遺産が常に解釈の対象であることを思い起こさせます。

学問の上でも、グレート・ジンバブエはアフリカの過去についての考え方を変えました。外部からの征服者の影響を受けずにサハラ砂漠以南のアフリカで複雑な国家と都市が発展したこと、そしてヨーロッパの植民地支配より何世紀も前にアフリカの人々が大陸とアジアを結ぶ交易網に参加していたことを示す重要な例です。

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学術的な議論と未解決の問い

年代。標準的な編年では、まず丘陵区(11~12世紀ごろから)、次に大囲壁(13~15世紀)、そして谷地区(14~15世紀)が築かれたとされます。これは放射性炭素年代、輸入品、石壁の様式に基づいて組み立てられました。しかし、初期の発掘で地層の多くが破壊されたため、根拠は限られています。2010年代にシャドレック・チリクレと共同研究者たちは、ベイズ統計モデルで放射性炭素年代を再検討し、遺跡の各区域は「丘、次に囲壁、最後に谷」という単純なモデルが想定するよりも、同時期に使われていたと論じました。

大囲壁は何のために使われたのか。主に2つの解釈が議論を主導してきました。歴史家デイヴィッド・ビーチらに結び付く説では、各区域の違いは、歴代の支配者が時とともに住まいを移したことを表します。考古学者トマス・ハフマンが後世のショナ人とヴェンダ人の民族誌を用いて発展させた「構造主義的」解釈では、各区域は同時代に異なる役割を持ちました。丘陵区は王の住居と儀礼の中心、大囲壁は王の妻たちの住居と通過儀礼の場だったというものです。批判者は、現代の民族誌を数世紀前に当てはめるのは危険であり、年代もこの説を明確には支持しないと指摘します。

建設者は具体的に誰だったのか。考古学者は、グレート・ジンバブエを築いたのは、その文化がショナ人の間に受け継がれているバントゥー系言語を話すアフリカ人だったという点で一致しています。より具体的な帰属については議論があり、多くはショナ人の一集団であるカランガ人の祖先と結び付けます。一方、ヴェンダ語を話す共同体とのつながりを主張する伝承もあり、レンバ人にも遺跡と自分たちを結び付ける口承伝承があります。これは現代のアイデンティティーと古代の人々の関係についての問いであり、アフリカ人が建てたかどうかについての問いではありません。

なぜ衰退し、人口はどれほどだったのか。人口の推定は、ほとんど発掘されていない石壁の外に、どれほどの家があったと考えるかで変わります。近年のモデルは、以前の最大1万8000人という推定より少ない、約1万人未満という数字を示唆しています。衰退の原因として、環境への負荷、交易路の変化、政治的な分裂がそれぞれどの程度重要だったかは、なお未解決です。

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証拠と研究方法

文字資料がないこと。グレート・ジンバブエの人々は文字を使わなかったため、都市自体に由来する碑文や年代記はありません。知識の源は考古学、内陸の金や王国に言及するスワヒリ海岸・アラビア語・ポルトガル語の外部文献、後に記録された口承伝承、そして後世のショナ人社会との比較です。どの証拠にも限界があり、適切な解釈にはそれらを慎重に組み合わせる必要があります。

年代の調べ方。放射性炭素年代測定は、木炭や木材などの有機物に含まれる炭素14の減衰を測ります。遺跡では二十数件以上の年代が得られていますが、1950年代の最初期の測定値は現在では信頼できないと考えられています。14~15世紀の中国陶磁器や、種類ごとの年代が分かるガラス玉など、年代が判明している輸入品は照合の手がかりになります。相対的な年代の判断には、層位学(堆積した層の順序)と石壁の様式を用います。

損なわれた記録。1890年代から1900年代にかけての宝探しや初期の発掘による破壊は、研究方法上の大きな問題です。考古学者は、かき乱された堆積層を調べ、古い発掘記録を読み直し、比較的損傷の少ない近隣の遺跡やほかのジンバブエ遺跡を研究して、この首都の姿を理解しなければなりません。

研究史。グレート・ジンバブエの研究史は、学問上の問いが政治的な状況によってどう形作られるかを示します。初期の説は植民地主義の思想に動かされ、科学的な反証は入植者の政治によって受け入れが遅れ、独立後の語りも国家的な目的のために過去を単純化することがありました。現在はジンバブエ人を含む多くの研究者が、証拠を重んじながらアフリカの視点で遺跡の歴史を記そうとしています。

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重要なポイント

空積みの石造建築
モルタルを使わず、石を精密に組み合わせて築く壁。グレート・ジンバブエでは、この技術が巨大な規模と高い完成度に達しました。
ジンバブエ文化
マプングブエからグレート・ジンバブエ、カミ、さらに後の遺跡に至る、ジンバブエ高原の石壁を持つ支配層の中心地に見られる考古学的文化。
牛と金による富
支配層の力は、牛の群れと、インド洋沿岸へ向かう金・象牙の交易の支配に基づいていました。
神聖な王権
支配者の権威は祖先や神と結び付いていました。石壁は支配層を隔て、その地位を示しました。
ジンバブエ論争
アフリカ人が遺跡を築いたことを否定した植民地時代の主張。考古学によって反証されましたが、ローデシアでは1980年まで政治的に維持されました。
文化遺産とアイデンティティー
この遺跡は現在のジンバブエに国名と紋章の鳥を与え、今も地元の共同体にとって神聖な場所です。
インド洋とのつながり
中国やペルシアの陶磁器とガラス玉は、アフリカ南部の内陸がアジアまで広がる交易網の一部だったことを示します。

記録

  1. 300年頃 — 鉄を加工する初期の農耕共同体がこの地域に暮らす。
  2. 1000年頃 — グレート・ジンバブエの丘とその周辺で農耕民の定住が始まる。
  3. 1150年頃 — 丘陵区に最初の石壁が築かれる。
  4. 1300年頃 — マプングブエが放棄され、グレート・ジンバブエが地域の主要な中心地となる。
  5. 1350年頃 — このころ、大囲壁の外壁と円錐形の塔が築かれる。
  6. 1450年頃 — 権力が北のムタパと西のトルワ・カミへ移り、衰退が始まる。
  7. 1531年 — ソファラのポルトガル人隊長ヴィセンテ・ペガードが「Symbaoe」についての記述を記録する。
  8. 1871年 — カール・マウフが遺跡を訪れ、外国人が建てたと主張。「ジンバブエ論争」が始まる。
  9. 1891年 — J・セオドア・ベントがセシル・ローズのために発掘し、遺跡をフェニキア人かアラブ人のものとする。
  10. 1905年 — デイヴィッド・ランドール=マカイヴァーが発掘し、遺跡は中世のアフリカ人によるものだと結論づける。
  11. 1929年 — ガートルード・ケイトン=トンプソンの発掘が、アフリカ人による建設と中世という年代を裏付ける。
  12. 1986年 — ジンバブエが1980年に独立してから6年後、グレート・ジンバブエ国立記念物がユネスコ世界遺産一覧表に登録される。

用語集

ショナ人
ジンバブエ最大の言語・民族集団。グレート・ジンバブエの建設者の子孫です。
バントゥー系言語
ショナ語を含み、アフリカの中部、東部、南部で話される、互いに関連する大きな言語群です。
空積みの石壁
モルタルを使わず、石を組み合わせて作る壁です。
剥離
岩が熱せられたり冷えたりすることで、薄い板状に自然にはがれること。建設者は、こうしてできた平たい石板を利用しました。
ダガ
土に砂利を混ぜた建材で、住居、床、土台に使われました。
山形模様
石を斜めに並べて作るジグザグの装飾模様。大囲壁の壁の一部に見られます。
ソープストーン(滑石)
彫刻しやすい柔らかい石で、ジンバブエの鳥の像に使われました。
青磁
緑色の釉薬をかけた中国の陶器。グレート・ジンバブエで破片が見つかりました。
マンボ
王や支配者を表すショナ語の称号です。
層位学
土や堆積物の層を調べる研究。通常は下の層ほど古く、出土品の年代を考える手がかりになります。
放射性炭素年代測定
炭素14の減衰を測って、有機物の年代を調べる方法です。

よくある質問

グレート・ジンバブエを築いたのは誰ですか?

現在のジンバブエに暮らすショナ人の祖先にあたる、バントゥー系言語を話すアフリカ人です。考古学によって疑いの余地なく証明されています。

グレート・ジンバブエは何年前のものですか?

西暦1000年ごろから人々が住み、石壁の大半は12~15世紀ごろに築かれました。石壁の年代はおよそ600~900年前です。

なぜ石壁にはセメントやモルタルが使われていないのですか?

建設者は空積みの技術を使いました。平たい花崗岩の石材を隙間なく組み合わせ、上の段を少しずつ内側に置くことで、石の重みだけで壁を安定させました。

グレート・ジンバブエは何に使われていましたか?

王国の首都で、王の住居、宗教の中心、そして町でした。各区域が具体的に何に使われたかは、今も議論されています。

なぜ外国人が建てたと主張する人がいたのですか?

19世紀のヨーロッパ人植民者には、アフリカ人にこのような建造物は築けないという人種差別的な考えがあり、その主張は植民地支配を正当化するのに役立ちました。考古学者は1905年以降、その説を反証しました。

ジンバブエの鳥とは何ですか?

遺跡で見つかった、高い石柱の上に置かれた8羽のソープストーン製の鳥の像です。おそらく王家や祖先に関係する象徴で、1羽はジンバブエの国旗に描かれています。

なぜグレート・ジンバブエは放棄されたのですか?

原因を一つに決めることはできません。地元の資源への負荷、金の交易路の変化、政治的な分裂などが考えられ、権力はムタパ国やトルワ国へ移りました。

国名のジンバブエは、この遺跡に由来するのですか?

はい。1980年の独立時、旧ローデシアはこの遺跡に由来する「ジンバブエ」という国名を選びました。

出典・参考文献

  1. Great Zimbabwe National Monument. UNESCO World Heritage Centre
  2. Great Zimbabwe. Wikipedia
  3. Kingdom of Zimbabwe. Wikipedia
  4. Kingdom of Mapungubwe. Wikipedia
  5. Zimbabwe Bird. Wikipedia
  6. Gertrude Caton Thompson. Wikipedia
  7. Department of the Arts of Africa, Oceania, and the Americas, Great Zimbabwe (11th–15th Century). The Metropolitan Museum of Art, Heilbrunn Timeline of Art History, 2001
  8. Peter Garlake, Great Zimbabwe. Thames and Hudson, 1973
  9. Innocent Pikirayi, The Zimbabwe Culture: Origins and Decline of Southern Zambezian States. AltaMira Press, 2001
  10. Gertrude Caton-Thompson, The Zimbabwe Culture: Ruins and Reactions. Clarendon Press, 1931

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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