文学

ルーミー

مولانا جلال‌الدین محمد بلخی (Mowlānā Jalāl al-Din Mohammad Balkhi)

1244–1273年 · コンヤ(ルーム・セルジューク朝)

ひとことで

ルーミーは13世紀に、現在のトルコにあるコンヤで活動したイスラム教の学者でありスーフィーの師である。愛や憧れ、神の探求をうたったペルシア語の詩は、今も世界中で読まれ、歌われている。

ルーミー
画像: Hossein Behzad · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

約800年前、中央アジアにジャラールッディーンという男の子が生まれました。お父さんは有名な宗教の先生でした。ジャラールッディーンがまだ子どものころ、家族は西へ向かう長い旅に出ました。大きな町や砂漠を通り、最後に現在のトルコにあるコンヤという町に住みました。

ジャラールッディーンも、お父さんのようにイスラム教を教える立派な先生になりました。人々は「私たちの先生」という意味で、彼をマウラーナーと呼びました。今はルーミーという名でよく知られています。これは、彼が暮らした地方の昔の名前「ルーム」に由来します。

37歳ごろ、ルーミーは旅をしていたシャムス・タブリーズィーという宗教家に出会いました。二人は何日も語り合い、親しい友だちになりました。シャムスとの出会いで、ルーミーの人生は変わりました。詩を作り、音楽を聴き、喜びの中でくるくる回って踊るようになったのです。シャムスが姿を消すと、ルーミーは悲しみと愛の気持ちを何千もの詩に表しました。

ルーミーの詩には、草むらから切り取られた葦で作った笛が出てきます。笛は、ふるさとが恋しくて、美しくも悲しい音を出します。ルーミーは、私たちの心も同じように、すべての愛の源である神のもとへ帰りたいと願っている、と考えました。

ルーミーが亡くなったあと、弟子たちはメヴレヴィー教団という集まりを作りました。白い服を着た人たちが、音楽に合わせてゆっくり回る儀式で知られています。これは祈りの一つです。コンヤにあるルーミーのお墓には、世界中から人々が訪れます。

ひと目でわかる

本名
ジャラールッディーン・ムハンマド。マウラーナー(メヴラーナ)、ルーミー、またイランやアフガニスタンではバルヒーとしても知られる
生年・出生地
1207年、バルフ地方。多くの研究者は、家族が暮らしていた場所を現在のタジキスタンにある小さな町ヴァフシュとみている
没年月日・没地
1273年12月17日、ルーム・セルジューク朝のコンヤ(現在のトルコ)
使用言語
主にペルシア語。一部にアラビア語を用い、トルコ語やギリシア語の語句や詩行もまれに見られる
主な著作
『マスナヴィー』(全6巻、約2万5000対句)、『シャムス・タブリーズィー詩集』(抒情詩)、『フィーヒ・マー・フィーヒ』(講話集)、書簡および説教
宗教
ハナフィー派に属するスンナ派イスラム教の学者であり、スーフィズム(イスラム神秘主義)の師
転機
1244年末、コンヤで遍歴の神秘家シャムス・タブリーズィーと出会ったこと
後世への影響
メヴレヴィー教団とそのセマー(旋回)の儀式。世界で最も広く読まれている詩人の一人

やさしい

ルーミーとはどんな人物か

ルーミーは1207年から1273年まで生きたイスラム教の学者、説教師、スーフィーの師、詩人である。成人後の人生の大半を、当時ルーム・セルジューク朝の都だったアナトリア中部の都市コンヤで過ごした。彼が「ルームの人」を意味するルーミーと呼ばれるのはそのためである。この名は、アナトリアが長く東ローマの世界に属していたことを伝えている。トルコでは「私たちの師」を意味するメヴラーナ、イランやアフガニスタンではマウラヴィー、または出生地の地方名にちなんでバルヒーと呼ばれることが多い。

ルーミーは人生の大半にわたり、クルアーン、イスラム法、神学を学んだ、尊敬される宗教学者だった。30代後半に遍歴の神秘家シャムス・タブリーズィーと親しくなったことが、彼をペルシア語文学屈指の詩人へと変えた。

二つの代表的な詩作は、物語を豊富に含む長編の宗教詩『マスナヴィー』と、膨大な抒情詩を集めた『シャムス・タブリーズィー詩集』である。後者の名は「シャムス・タブリーズィーの詩集」を意味し、ルーミーがしばしば友人シャムスの名を詩に記したことに由来する。その言葉は何世紀もの間、ペルシア、トルコ、アラブ、南アジアの各地で大切にされ、近代にはほかの多くの言語でも親しまれるようになった。

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やさしい

旅を続けた子ども時代

ルーミーは1207年、ペルシア語文化圏の東部にあたるバルフ地方(現在のアフガニスタン北部)で生まれた。父の著作に関する研究から、伝統的に出生地とされるバルフではなく、家族は実際にはアムダリヤ川(オクサス川)の北、現在のタジキスタンにある小さな町ヴァフシュに住んでいたと考えられている。父バハーウッディーン・ワラドは説教師であり学者で、その宗教的な思索を集めた『マアーリフ』は、のちに息子に影響を与えた。

1210年代、家族は中央アジアを離れた。後世の伝記作者は出発をモンゴルの脅威と結びつけているが、現地の支配者や学者との対立も一因だった可能性がある。一家はサマルカンド、ニーシャープール、バグダードを経由し、メッカへ巡礼した。その後、アナトリアに数年間暮らし、とくにラーレンデ(カラマン)ではルーミーが結婚し、息子スルタン・ワラドが生まれた。ニーシャープールで老詩人アッタールが少年ルーミーに会い、将来の偉大さを予言したという有名な伝説があるが、歴史家はこれを信仰に基づく逸話とみなしている。

1228年ごろ、一家はコンヤに定住した。伝承によれば、セルジューク朝のスルタン、カイクバード1世に招かれたという。1231年にバハーウッディーンが亡くなると、若いルーミーは父の教職を引き継いだ。父の元弟子であるティルミズのブルハーンウッディーン・ムハッキクが神秘主義の修行を導き、ルーミーはシリアの学問の中心地アレッポとダマスカスでも学んだ。

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やさしい

シャムス・タブリーズィーとの出会い

1244年末、シャムスッディーン・タブリーズィーという遍歴のダルヴィーシュがコンヤにやって来た。彼は60代で、歯に衣着せぬ物言いをし、名声にも通り一遍の宗教的学問にも関心を示さなかった。二人が初めて会ったときの記録はさまざまだが、その出会いがルーミーに強い衝撃を与えた点では一致している。数か月にわたり、二人はほとんどの時間を共に過ごし、対話を重ねて宗教的な交友を深めた。

ルーミーの弟子や家族は、見知らぬ人物に師を奪われたと感じ、嫉妬してシャムスに反発した。1246年、シャムスはダマスカスへ去った。悲しみに暮れたルーミーは、息子スルタン・ワラドを迎えに行かせ、シャムスを連れ戻した。しかし緊張は再び高まり、1247年か1248年にシャムスは姿を消し、そのまま戻らなかった。後世の物語には、ルーミーの息子アラーウッディーンが関与して殺害されたとするものもあるが、初期の史料では確認できず、多くの歴史家はシャムスがただ立ち去った可能性もあると考えている。

ルーミーは友人を捜してダマスカスまで旅したが、見つけられなかった。やがて彼は、自分自身の内にシャムスを見いだしたと感じるようになった。この友情に伴う悲しみ、憧れ、喜びは、『シャムス詩集』の抒情詩の大きな主題である。シャムス自身の言葉も弟子たちによって記録され、『マカーラート』(講話集)として知られる。

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中級

著作――詩集、マスナヴィー、散文

『シャムス・タブリーズィー詩集』(「大詩集」を意味する『ディーワーニ・カビール』とも呼ばれる)には、ガザルと呼ばれる短い押韻抒情詩が約3万5000対句、ルバーイーと呼ばれる四行詩が約2000編収められている。多くは即興で作られ、伝承によれば、ルーミーが音楽を聴いたり踊りながら回ったりしているときに生まれたものもある。詩には恋人、酒、酒場、月、庭が登場する。ペルシア恋愛詩のイメージを使い、ときにはシャムスを通して、魂の神への愛を表している。

シャムスのあと、ルーミーはまず身分の低い金細工師サラーフッディーン・ザルクーブ、次いで弟子のフサームッディーン・チャラビーに親しい仲間を見いだした。伝承によれば、弟子たちのために長い教訓詩を作るようルーミーに頼んだのはフサームッディーンだった。その成果が『マスナヴィー・イェ・マアナヴィー』(「深い意味を持つ押韻対句」)である。1250年代末ごろからルーミーの死まで長年にわたって口述され、フサームッディーンが書き取った。全6巻、約2万5000対句に及び、第6巻は未完のまま途切れている。

『マスナヴィー』は、動物の寓話や民話からクルアーンの逸話、預言者の言行に至るまで、何百もの物語に解説や脱線を織り交ぜ、一つの話から次の話へと広がっていく。有名な「葦笛の歌」で始まり、葦笛が別離を嘆いて語る物語に耳を傾けるよう呼びかける。ペルシア語圏では『マスナヴィー』は「ペルシア語のクルアーン」と呼ばれてきた。詩人ジャーミーの言葉とされるこの呼び名は、イスラム教の内面的な意味を知る手引きとして深く敬われてきたことを示している。

ルーミーの散文には、弟子や訪問者へのくだけた講話を記録した『フィーヒ・マー・フィーヒ』(「そこにあるものは、そこにある」)、説教を集めた『マジャーリス・イェ・サブア』(「七つの集会」)、人々の実際の困り事を助けるために書かれたものを多く含む書簡集がある。これらは詩人であると同時に、教師であり共同体の指導者でもあったルーミーの姿を伝えている。

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中級

中心となる思想――愛、別離、変容

ルーミーは、イスラム教の神秘主義的な伝統であるスーフィズムに属していた。スーフィズムは、愛、信仰、修行、宗教的な師の導きを通じて、神を直接体験しようとする。ルーミーの中心的な主題は愛(エシュク)である。それは魂を自己中心的なあり方から神へと向かわせる、燃えるような変容の力だった。

別離と帰還は、彼の世界観の中心にある。葦笛は葦原から切り離されたために泣き、人間の魂は神に由来する故郷から離れたために帰りたいと願う。その憧れは苦しいが、魂を帰還へと動かすため、尊いものでもある。ルーミーはしばしば「死ぬ前に死ぬ」こと、つまり自我を手放し、神のうちに新たな自己として生まれ変わることを語った。

ルーミーの詩には逆説や大胆なイメージがあふれ、ときには宗教の外面的な形式を超えるようにも見える。しかし彼はイスラム教を実践する学者でもあり、『マスナヴィー』にはクルアーンやハディースからの引用が満ちている。研究者は、彼が広く共感を呼ぶのはイスラム信仰を離れたからではなく、その信仰に根ざしていたからだと強調する。ルーミーは外面的な実践と内面的な意味が結びついていると教え、日常的な物語を通じて、高慢さ、貪欲、怒りがいかに心を閉ざすかを示した。

音楽と身体の動きも、彼の宗教生活の一部だった。ルーミーはサマーという集まりに参加した。そこでは音楽や詩に耳を傾け、ときには高揚の中で回って踊った。当時、この実践に反対する宗教学者もおり、それを擁護したこともルーミーの遺産の一部となった。

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中級

ルーミーの生きた世界――モンゴル時代のコンヤ

ルーミーは、西アジア史でも特に激動の13世紀を生きた。1219年以降、モンゴルの侵攻は中央アジアとイランに壊滅的な被害をもたらし、学者、神秘家、職人を含む多くの難民が西のアナトリアへ向かった。1243年、モンゴル軍はキョセ・ダーの戦いでセルジューク朝を破り、ルーム・セルジューク朝はモンゴルのイルハン朝に従属するようになった。1258年にはモンゴル軍がバグダードを略奪した。

その一方で、当時のコンヤは文化の中心地として栄えた。ペルシア語はセルジューク朝の宮廷と高度な文学の言語、アラビア語は宗教学問の言語、トルコ語は多くの庶民の言語だった。市内にはギリシア系やアルメニア系のキリスト教徒、ユダヤ教徒も住んでいた。ルーミーの周囲には商人、職人、役人がおり、詩に時折現れるギリシア語やトルコ語の句にも、この多様な社会が映っている。

コンヤには、ほかにも重要なスーフィーの人物が暮らしていた。とくに哲学者・神秘家イブン・アラビーの高弟、サドルッディーン・クーナウィーが知られる。ルーミーの愛の詩と、イブン・アラビー学派のより体系的な形而上学は、共に栄えたスーフィー文化の二つの流れだった。ただし、両者がどの程度影響し合ったかについては歴史家の間で議論がある。

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中級

ルーミーの死後――メヴレヴィー教団と旋回の儀式

ルーミーは1273年12月17日、コンヤで亡くなった。伝記によれば、葬列には市内のイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒など、あらゆる共同体の人々が加わった。弟子たちは命日を「婚礼の夜」を意味するシェブ・イ・アルースと呼ぶ。死を、魂が愛する存在と一つになることと考えるためである。緑色のタイルで覆われたドームの下にある墓は、現在のメヴラーナ博物館にある。

ルーミーの死後はフサームッディーン・チャラビーが弟子たちを率いた。その後、息子スルタン・ワラド(1312年没)と孫ウル・アーリフ・チャラビーが弟子たちをスーフィー教団、メヴレヴィー教団として組織した。教団の修行場はアナトリア各地に広まり、のちにオスマン帝国全域へと広がった。また、詩、音楽、書道を支える重要な存在となった。

この教団で最もよく知られるのがセマーの儀式である。背の高いフェルト帽と白い衣を身に着けたダルヴィーシュが、葦笛ネイや太鼓の音楽に合わせてゆっくり回る。片手は恩寵を受けるために上げ、もう一方はそれを大地へ渡すために下げる。1925年、トルコ共和国はすべてのスーフィーの修行場を閉鎖したが、儀式は長年、私的な場で受け継がれ、のちに公開の場でも演じられるようになった。ユネスコは2005年にメヴレヴィーのセマー儀式を「人類の口承及び無形遺産の傑作」と宣言し、2008年には無形文化遺産の代表一覧表に記載した。

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中級

世界に広がるルーミー

何世紀もの間、『マスナヴィー』はバルカン半島からベンガルまでの地域で学ばれ、書き写され、注釈が付けられた。注釈書はペルシア語、オスマン・トルコ語、ウルドゥー語、アラビア語で書かれた。ヘラートのジャーミーや、20世紀の南アジアのムハンマド・イクバールなどの詩人は、ルーミーを師と仰いだ。ペルシア語圏では『マスナヴィー』の詩句がことわざにもなった。

西洋での近代的な関心は19世紀の翻訳に始まり、レイノルド・A・ニコルソンの学術研究によって高まった。彼は1925年から1940年にかけて『マスナヴィー』の校訂版、翻訳、注釈を刊行した。その弟子A・J・アーベリーも研究に貢献した。20世紀後半には、アメリカの詩人コールマン・バークスによる自由な英語版が、ルーミーをアメリカで最も売れる詩人の一人にした。

こうした人気の英語版については、ルーミーの詩をイスラム教やペルシア文化の文脈から切り離し、ときに宗教色のない精神的な師として描いていると、多くの研究者が批判している。一方で、何百万人もの読者を彼の世界に導いたという見方もある。この議論は、翻訳や文化の取り込み、宗教詩人の言葉が文化を超えてどう伝わるかという重要な問いにつながる。

複数の国がルーミーを自国にゆかりのある人物としてたたえている。トルコは、彼が暮らし、教え、埋葬されたアナトリアの人物として、イランとアフガニスタンは、ペルシア語文化圏東部に生まれたペルシア語詩人として、タジキスタンは出生地にゆかりのある人物として敬う。生誕800周年の2007年には、ユネスコが国際的な記念行事を支援した。ルーミーはこれらすべての伝統に属すると考える人も多い。

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伝記はどれほど信頼できるか

ルーミーの生涯について知られていることのほぼすべては、家族や弟子が書いた史料に基づく。最も早いものには、息子スルタン・ワラドによる韻文の伝記『エブテダー・ナーマ』(『ワラド・ナーマ』ともいう)と、40年間ルーミーの弟子だったと称するファリードゥーン・セパフサーラールの『リサーラ』がある。最も詳しいのは、シャムスッディーン・アフラキーが1318年ごろから1353年ごろにかけて著した『マナーキブ・アルアーリフィーン』(「神を知る者たちの偉業」)である。

アフラキーの著作は聖人伝であり、ルーミーとメヴレヴィー教団の系譜をたたえるための、教訓的な逸話や奇跡の物語を集めている。貴重な情報を含む一方、伝説や時代錯誤もあり、ルーミーの死から二、三世代後に書かれた。そのため歴史家は、記された話をルーミー自身の著作、父の『マアーリフ』、シャムスの『マカーラート』、ルーミーの書簡、メヴレヴィー教団以外の史料と照らし合わせて検討する。

英語で書かれた最も包括的な近代の批判的伝記は、フランクリン・D・ルイスの『Rumi: Past and Present, East and West』(Oneworld、2000年)である。伝説と証拠を吟味し、現代までのルーミーの受容を概観している。それ以前には、イランのバディーウッザマーン・フォルーザンファル、トルコのアブデュルバーキ・ギョルプナルル、ドイツのアンネマリー・シンメルによる研究が基礎を築き、フリッツ・マイヤーによるバハーウッディーン・ワラドの研究が一家のヴァフシュにおける出自を明らかにした。

正確な出生地、一家が移住した理由とその時期がモンゴル軍の進軍より前かその影響によるものか、シャムスの到着と失踪の正確な時期、そしてシャムスのその後など、今も議論されている点がある。伝記を注意深く読むには、史料が何を報告し、何を教えようとし、何が確認できるのかを区別する必要がある。

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本文、写本、解釈をめぐる議論

ルーミーの著作は、成立時期に近い写本として残っている。『マスナヴィー』の写本は死後数年以内にコンヤで作られた。メヴラーナ博物館所蔵のヒジュラ暦677年(1278年)の日付を持つ写本は、本文を知るうえで重要な史料とみなされている。ニコルソンの校訂版は初期の写本に基づき、イランのモハンマド・エステアラーミーやタウフィーク・ソブハーニーによる後の校訂版も、最古の写本を用いてフサームッディーンが書き取った本文により近づこうとした。

『詩集』の本文にはさらに問題がある。何世紀もの間、ルーミーの名で伝えられた詩集には、ほかの作者の詩が数多く加えられた。フォルーザンファルの『ディーワーニ・カビール』校訂版(1957~1967年、テヘラン刊)は、初期の写本を使って真正な詩と後世の追加分を区別し、現在も標準的な本文となっている。インターネット上でルーミーの言葉として広まっている詩句の中には、彼の著作にまったく見つからないものもある。

解釈についても議論がある。古典的な注釈者は、たとえば「存在一性論」の考え方など、イブン・アラビー学派の形而上学を通じて『マスナヴィー』を読むことが多かった。これに対し、ルーミー自身の思想はそれほど体系的ではなく、父やサナーイー、アッタールといった先行するペルシア語詩人の、倫理と信仰を重視するスーフィズムにより深く根ざしていると論じる現代の研究者もいる。シャムスの役割を主に教義の師、宗教的体験を引き起こした人物、あるいはルーミーが神聖な恋人を投影した文学上の人物のどれとして捉えるべきかも論点である。

さらに研究者は、『マスナヴィー』を文学作品としても調べている。物語を包む構成、語り手・登場人物・解説の間で切り替わる声、口述による教えに由来する性格などである。こうした特徴は、この作品が宗教的修行の手引きであると同時に、世界文学を代表する物語集の一つとして読まれる理由を説明している。

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重要なポイント

愛(エシュク)
ルーミーの思想の中心となる力。魂を自己中心的なあり方から神へと向かわせ、変える情熱。
別離と帰還
葦原から切り離された葦のように、魂は神に由来する故郷への帰還を願う。その憧れ自体が贈り物である。
宗教的な交友
シャムス、サラーフッディーン、フサームッディーンとの関係は、友や導き手を通じて神聖なものに出会うというスーフィーの信念を示す。
死ぬ前に死ぬこと
自我を手放し、自己が生まれ変わること。ルーミーが多くのイメージで表現した、伝統的なスーフィーの考え方。
物語による教え
『マスナヴィー』は寓話、民話、クルアーンの物語を使い、普通の聞き手にも分かる形で内面的な意味を教える。
サマー
音楽や詩に耳を傾け、ときには回って踊ることで宗教的な体験に至ろうとする実践。メヴレヴィー教団の儀式の源となった。
イスラム教に根ざし、世界へ広がる詩
ルーミーが広く共感を呼ぶ詩はイスラム信仰とペルシア文化に根ざしている。研究者は文脈を切り離した読み方に対し、この点を強調する。

記録

  1. 1207年 — ジャラールッディーン・ムハンマドがバルフ地方、おそらくヴァフシュで生まれる。
  2. 1216年頃 — 一家が中央アジアを離れ、サマルカンド、ニーシャープール、バグダード、メッカを経て西へ旅する。
  3. 1228年頃 — 一家がルーム・セルジューク朝の都コンヤに定住する。
  4. 1231年 — 父バハーウッディーン・ワラドが亡くなり、ルーミーが教職を継ぐ。
  5. 1243年 — モンゴル軍がキョセ・ダーでセルジューク朝を破り、ルーム・セルジューク朝はモンゴルに従属する。
  6. 1244年 — ルーミーがコンヤでシャムス・タブリーズィーと出会う。
  7. 1247年頃 — シャムスが姿を消し、戻らなくなる(1247年または1248年)。
  8. 1258年頃 — ルーミーがフサームッディーン・チャラビーに『マスナヴィー』を口述し始める。
  9. 1273年 — ルーミーが12月17日にコンヤで亡くなる。
  10. 1312年 — ルーミーの弟子たちをメヴレヴィー教団として組織したスルタン・ワラドが亡くなる。
  11. 1925年 — トルコ共和国がメヴレヴィー教団を含むスーフィーの修行場を閉鎖する。
  12. 2008年 — メヴレヴィーのセマー儀式がユネスコの無形文化遺産の代表一覧表に記載される(2005年に傑作として宣言)。

用語集

スーフィズム
イスラム教の神秘主義的な伝統。愛、信仰、宗教的な修行を通じて、内面的に神へ近づこうとする。
ダルヴィーシュ
スーフィー教団の一員。またはシャムスのような遍歴のスーフィー修行者。
マスナヴィー
押韻する対句で書かれた長編のペルシア語詩。ルーミーの作品は非常に有名で、単に『マスナヴィー』と呼ばれることが多い。
ガザル
通常は愛を題材に、同じ韻を用いる短い抒情詩。ルーミーの『詩集』の主な形式。
ルバーイー
四行からなる詩。四行詩。
ディーワーン
詩人の抒情詩を集めた詩集。
ネイ
葦で作った笛。メヴレヴィー教団の音楽の中心的な楽器で、故郷を恋しく思う魂の象徴。
セマー(サマー)
音楽や詩に耳を傾ける儀式。メヴレヴィー教団では、回って踊る儀礼を指す。
聖人伝
聖なる人物をたたえ、人々を教え導くための伝記。奇跡の物語を含むことが多い。
ルーム・セルジューク朝
アナトリアにあったセルジューク系トルコ人の国家(約1077~1308年)。都はコンヤ。

よくある質問

なぜルーミーと呼ばれるのですか。

「ルーミー」は「ルームの人」という意味です。ルームは彼が暮らしたアナトリア(現在のトルコ)の昔の呼び名です。現地では「私たちの師」という意味のメヴラーナとも呼ばれました。

ルーミーは何語で書きましたか。

主にペルシア語です。アラビア語の詩も一部書き、トルコ語やギリシア語の語句や詩行も少し使いました。

シャムス・タブリーズィーはどうなったのですか。

1247年か1248年にコンヤから姿を消しました。殺害されたという後世の伝説がありますが、初期の史料では確認できず、ただ立ち去った可能性もあります。

旋回するダルヴィーシュはルーミーに由来するのですか。

はい。ルーミーは音楽や踊りを伴う集まりに参加しました。彼の死後、息子と孫が弟子たちをメヴレヴィー教団として組織し、その旋回の儀式は今も行われています。

インターネット上にあるルーミーの言葉は、すべて本物ですか。

いいえ。広く知られる言葉には自由な言い換えが多く、彼の著作にまったく由来しないものもあります。確認するには、校訂版に基づく学術的な翻訳が役立ちます。

アフラキーによるルーミーの伝記は信頼できますか。

貴重な史料ですが、ルーミーとメヴレヴィー教団をたたえる聖人伝で、二、三世代後に書かれました。歴史家はルーミー自身の著作、父の『マアーリフ』、シャムスの『マカーラート』と照らし合わせて検討します。

ルーミーはトルコ人、ペルシア人、アフガニスタン人のどれですか。

こうした現代の国民という区分は、当時はありませんでした。彼はペルシア語文化圏の東部に生まれ、ペルシア語で書き、セルジューク朝時代のアナトリアで暮らしました。そのためアフガニスタン、タジキスタン、イラン、トルコのいずれでも敬われています。

出典・参考文献

  1. Rumi. Wikipedia
  2. Masnavi. Wikipedia
  3. Shams Tabrizi. Wikipedia
  4. Mevlevi Order. Wikipedia
  5. Mevlevi Sema Ceremony. UNESCO Intangible Cultural Heritage
  6. Franklin D. Lewis, Rumi: Past and Present, East and West. The Life, Teachings and Poetry of Jalâl al-Din Rumi. Oneworld, 2000
  7. Reynold A. Nicholson, The Mathnawí of Jalálu’ddín Rúmí (edition, translation and commentary). E. J. W. Gibb Memorial Trust, 1925–1940

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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