文学

カビール

कबीर (Kabīr)

1440–1518年頃 · ヴァーラーナシー(北インド)

ひとことで

カビールは15世紀の北インド、ヴァーラーナシーに暮らした織物職人で詩人です。短く鋭い歌で、神は寺院やモスク、儀式ではなく心の中にいると、ヒンドゥー教徒にもイスラム教徒にも語りかけました。その詩は今も南アジア各地で歌われています。

カビール
画像: India Post, Government of India · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

今から約550年前、インドのガンジス川ぞいにある聖なる町ヴァーラーナシーに、カビールという織物職人がいました。カビールは毎日、機織り機で糸を行ったり来たりさせて布を作りました。そして、仕事をしながら歌を作りました。

カビールの歌は短くて、聞く人をおどろかせました。神は寺院やモスク、遠い山の中にかくれているのではない、とカビールは言いました。花の中の香りのように、神はあなたの中にいるのです。たくさん本を読んでも心に愛のない宗教家を、カビールはからかいました。「『愛』という言葉のわずかな文字を学びなさい。そうすれば、どんな学者よりもかしこくなれる」と語りました。

カビールの時代、人々は宗教やカーストによって分けられていました。カーストは生まれたときに決まる集団で、仕事や、だれといっしょに食事をするかにも関係しました。カビールは、そうしたへだたりを作ったのは神ではなく人間だと言いました。イスラム教徒の織物職人の家で育ちましたが、ヒンドゥー教徒が神の名として使う「ラーム」についても歌いました。どちらか一方だけに属したいとは思っていませんでした。

カビールはおそらく文字を読み書きできませんでした。歌はほかの人たちが覚えて歌い継ぎ、何年もたってから文字に書きとめられました。人々は歌をとても気に入り、カビールの名前をつけた新しい歌も作りました。そのため、どの歌を本当にカビールが作ったのか、今ではわかりにくくなっています。

有名な物語では、カビールが亡くなったとき、ヒンドゥー教徒は遺体を火葬したいと考え、イスラム教徒は土に埋めたいと考えました。ところが、かぶせてあった布をめくると、そこには花だけがありました。人々は花を分け合い、それぞれのやり方でカビールを大切に弔いました。

ひと目でわかる

生きた時代
15世紀、おそらく16世紀初めまで。1398年ごろ~1448年ごろ、1440年ごろ~1518年ごろなどの説がある
場所
ヴァーラーナシー(ベナレス、カーシー)。伝承によれば、現在のウッタル・プラデーシュ州にあるマガルで死去
出自
ジュラーハー(イスラム教徒の織物職人)の家で育ち、自身も織物職人として働いた
言語
ボージュプリー語、アワディー語、ブラジュ語、カリー・ボーリー語の特徴が混ざった初期ヒンディー語。サードゥッカリー語とも呼ばれる
詩の形式
サーキー(二行詩)、サバドまたはパド(歌)、ラマイニー(短い詩節)
主な詩集
『ビージャク』(カビール・パント)、『カビール・グランターヴァリー』(ラージャスターン、ダードゥー・パント)、シク教の『グル・グラント・サーヒブ』に収められた讃歌
思想的伝統
サントの伝統における、ニルグナ・バクティ(形のない神への信愛)の代表的な詩人
後世への影響
ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、シク教徒から敬われ、カビール・パントはカビールを創始者とみなす

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カビールとはだれか

カビールは、15世紀に北インドのガンジス川沿いの聖地ヴァーラーナシーとその周辺で暮らした詩人であり、宗教的な教えを説いた人物です。ジュラーハーと呼ばれる織物職人の共同体に属していました。この共同体は、おそらくカビールの時代からさほど遠くない過去にイスラム教へ改宗していました。カビールは機織りで生計を立て、織ること、糸を紡ぐこと、糸そのもののイメージを詩に繰り返し用いました。

カビールは南アジアで最も親しまれている詩人の一人です。その二行詩は学校で学ばれ、演説や新聞で引用されます。ラージャスターンからベンガル、パンジャーブからマディヤ・プラデーシュまで、民謡の演奏家や古典音楽の歌手、信仰の集まりで歌われています。死後500年以上たった今も、その名は宗教について率直に語ることの代名詞です。

カビールは寺院を創設せず、本も書きませんでした。その教えは歌や言葉を人から人へ伝える実演の中で生き続け、多くが文字に記されたのは1世紀以上後のことでした。このため、その言葉は至る所に残る一方、歴史上の人物としての実像を知るのは難しいのです。

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伝説に語られるカビールの生涯

カビールの生涯について語られることのほとんどは、彼の時代から長くたって記録された伝説に由来します。その多くは、信奉者やほかの信仰共同体が書いた聖人伝です。単純に史実として扱うことはできませんが、人々がカビールをどう記憶してきたかを知るうえで重要です。

広く知られる物語では、カビールはバラモンの未亡人から生まれ、捨てられたといいます。赤ん坊だったカビールはヴァーラーナシー近くのラハルターラー池のハスの上に浮かんでいるところを、イスラム教徒の織物職人ニールーと妻ニーマに見つけられ、二人に育てられました。この物語は、イスラム教徒の織物職人が、ヒンドゥー教の神の名を用いる信仰の担い手になった理由を説明します。現代の読者の多くは、カビールに社会的に立派な出生を与えようとした話だと考えます。一方、カビール・パントには、カビールが奇跡によってハスの上に現れたという別の伝承があります。

師にまつわる伝説も有名です。カビールは偉大なヴィシュヌ派の教師ラーマーナンダの弟子になりたいと望みましたが、ラーマーナンダは通常、イスラム教徒を弟子にしませんでした。そこでカビールは夜明け前、沐浴場へ下りる階段に横たわりました。水浴びに来たラーマーナンダがカビールを踏んで「ラーム! ラーム!」と叫ぶと、カビールはその聖なる名を入門の言葉として受け取りました。歴史家は二人の生存期間が重なったかどうかを疑っていますが、この物語はカビールを北インドに広がるラーム信仰と結びつけています。

ほかの伝説には、デリーのスルタン、シカンダル・ローディーの前で受けた試練から奇跡的に救われた話や、シク教の創始者グル・ナーナクと会った話があります。伝承によると、カビールは晩年、そこで死ねば解脱できると多くの人が信じたヴァーラーナシーをわざと離れ、悪い生まれ変わりを招くといわれた町マガルで亡くなりました。そうした信仰が誤りだと示すためです。死後、遺体を覆う布の下に花があったという物語は、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間に位置するカビールの姿を表しています。現在のマガルには、ヒンドゥー教のサマーディ(聖人の墓所)とイスラム教の墓が並んでいます。

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カビールの詩の特徴

カビールの詩の形式で最もよく知られるのは、ドーハーの韻律で作られた二行詩、サーキーです。ことわざのように真理を述べます。「サーキー」は「証人」を意味し、一つひとつの詩が、詩人の見たものを証言します。最も有名なサーキーの一つは、次のように訳せます。「本を読みながら世の人々は死んでいったが、学識を得た者はいなかった。/愛という二文字半を読めば、賢くなれる」。ヒンディー語で愛を意味する「プレーム」は、二文字半で書かれます。

サバド(「言葉」)またはパドと呼ばれる長めの詩は、歌うための作品です。「求道者の兄弟たち」(サードー)や、パンディト(ヒンドゥー教の学者)、カーディー(イスラム教の法官)に呼びかけることがよくあります。「カビールは言う、聞きなさい、求道者の兄弟たちよ」といった署名句で終わるものも多くあります。第三の形式ラマイニーは、教えを説く詩節に別の韻律を用います。

詩は率直で、ユーモラスで、ときに手厳しいものです。聖なる川で沐浴しても心の中は汚れたままの人、聖なる糸を身につける人、ミナレットから大声で祈る人、心をさまよわせながら数珠を繰る人を、カビールはからかいます。市場、台所、火葬場、そして何より機織り機など、身近なものを詩に使いました。言葉は平易ですが、ウラトバーンスィー(「逆さまの言葉」)と呼ばれる謎かけの詩もあります。牛が子牛から乳を搾ったり、魚が木に登ったりするありえない場面で、聞き手のいつもの考え方を揺さぶります。

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カビールの生きた世界――15世紀のヴァーラーナシー

ヴァーラーナシーは、ベナレスやカーシーとも呼ばれ、昔も今もヒンドゥー教で最も聖なる都市の一つです。バラモンの学問、巡礼、ガンジス川のガート(川岸の階段)で行う葬送儀礼の中心地でした。カビールの時代、この地域はイスラム教徒の王朝に統治され、初めはデリー・スルタン朝とジャウンプルのシャルキー朝、15世紀後半からはデリーのローディー朝の支配下にありました。イスラム教徒とヒンドゥー教徒は隣り合って暮らし、スーフィー教団も都市や農村で活動していました。

社会は、職業、結婚、儀礼上の清浄さを左右する世襲の集団(ジャーティ)による階層、すなわちカーストによって秩序づけられていました。織物職人は社会的地位の低い職人集団でした。多くがイスラム教に改宗しましたが、その理由の一つはカーストによる負担から逃れる望みだったかもしれません。それでもイスラム教徒の間にも、カーストに似た区別は残りました。こうしてカビールは、バラモンの支配層からも、イスラム教の宗教学者(ウラマー)からも距離のある立場にいました。

この時代には、神との個人的で愛情深い関係を重んじ、しばしば宗教家の権威やカーストの壁に異議を唱えるバクティ信仰が盛んになりました。バクティの詩人たちは、サンスクリット語やペルシア語ではなく、庶民が使う各地の言葉で詩を作りました。カビールとほぼ同時代には、ヴァーラーナシーの皮革職人で聖人のラヴィダースがいます。一世代ほど後には、パンジャーブにグル・ナーナクが現れました。

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中級

カビールの教え――形のない神

カビールはニルグナ・バクティ、つまり「属性のない」、形のない神への信愛を語った最も有名な詩人です。物語や家族、寺院内の像をもつ神としてクリシュナや王ラームを崇める人々とは異なり、カビールは姿を描くことも場所を定めることもできない神に呼びかけました。その神を「ラーム」と呼ぶことは多いものの、カビールのラームは『ラーマーヤナ』の主人公ではありません。「ハリ」「アッラー」「ラヒーム」「サーヒブ」などの名も使い、そのすべてが同じ実在を指すと説きました。

カビールによれば、神は人の内に見いだされます。巡礼で神を探す人を、自分の体から出る香りを求めて森を駆け回るジャコウジカにたとえました。神へ至る道は、心の中で神を思い起こす「名」(ナーム)、弟子を目覚めさせる真の師(グル)、そして日常の言葉を超えた霊的な音や気づきである「言葉」(シャバド)にあります。こうした考えは、とりわけヨーガを修めるナート派などの先行する伝統や、ヴィシュヌ派の信愛、さらにスーフィズムからも影響を受けた可能性があります。

こうした内面の信仰から、外面的な宗教への批判が生まれました。カビールは偶像崇拝、巡礼、断食、動物の供犠、割礼、書物としてのヴェーダとクルアーンの権威、そしてバラモンやムッラーが特別に聖なる存在だという主張を退けました。バラモンの血は乳で、ほかの人の血だけが血なのかと問い、カーストを直接批判しました。また死についても生き生きと繰り返し語り、手遅れになる前に目を覚ませと聞き手に促しました。

カビールの詩は批判だけで成り立っているわけではありません。多くの詩は、夫を待つ花嫁にたとえられた魂、神への愛に酔う喜び、神と一つになる静けさなど、憧れや愛、喜びを表します。厳しい批判と優しい信愛の組み合わせが、作品を今日まで生き続けさせてきました。

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中級

カビールを読む――機織り機、市場、身体

カビールの名で歌われる愛唱歌の一つ「ジーニー・ジーニー・ビーニー・チャダリヤー」(「細やかに、細やかに織られた肩掛け」)は、人間の身体を神が織った肩掛けにたとえます。縦糸と横糸は息ででき、糸は身体の中を通る道筋で、織り上げるには何か月もかかりました。神々も賢者も普通の人々もそれをまとい、汚しました。しかし真の信仰者だけは大切にまとい、受け取ったときと同じきれいな姿で作り手に返しました。この歌は、織物職人の毎日の仕事を、人の一生を描くイメージに変えています。

市場(バザール)もよく使われるイメージです。人生は縁日への短い訪問のようなもので、人々は値切り、見栄を張り、争います。しかし日が暮れればだれもが去らなければならず、買ったものは何も持っていけません。カビールはほかにも、壺を形作り壊す陶工、衣服をたたいて洗う洗濯人、火で金属を試す金細工師、不注意な旅人を待ち伏せする泥棒を描きます。学校に行かなかった職人や農民にも、こうしたイメージは教えを覚えやすくしました。

死はカビールの詩に絶えず寄り添います。多くのサーキーは、時間あるいは死を意味する「カール」を、いつも近くにいる狩人として描き、身体はいつ壊れてもおかしくない土の壺のようだと警告します。これは単に人を怖がらせるためではありません。カビールにとって死を意識することは、おごりや根拠のない安心感を取り去り、心を真実へ向けることでした。研究者たちは、こうした主題に、ヨーガを修めるナート派の伝統や、宗教を超えて広がった中世の出家・離欲の文学とのつながりを見ています。

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中級

詩はいかに保存されたか――三つの伝承

カビールの詩は、文字に書きとめられる前に長く口伝えで広まりました。現在は、内容の一部だけが重なる複数の地域的な伝承として残っています。研究者は通常、三つの主な系統を区別します。

東方の系統は、ヴァーラーナシーやビハール地方と結びつくカビール・パントの聖典『ビージャク』(「種子」または「記録」)です。ラマイニー、サバド、サーキーの三つの主要部分から成ります。『ビージャク』は諸詩集の中でも、しばしば最も急進的で批判的だと考えられます。現存する写本は比較的新しく、現在の形になった時期については研究者の間で議論があります。リンダ・ヘスとシュクデーオ・シンによる英訳で広く知られています。

西方の系統はラージャスターンで、とりわけ16世紀に始まった信仰共同体ダードゥー・パントによって保存され、『カビール・グランターヴァリー』として知られています。最も広く使われる1928年刊のシャームスンダル・ダース編の版は、編者が1504年のものとした写本に基づきますが、その年代には疑問も示されています。ラージャスターンの詩集には、愛や憧れを歌う詩が数多く含まれます。

パンジャーブの系統は、シク教徒の聖典『グル・グラント・サーヒブ』です。グル・アルジャンが編纂し、1604年に完成しました。シク教徒以外のバガト(聖人)の中では、カビールの讃歌と二行詩が最も多く収められ、一般的な数え方では541編に上ります。16世紀後半の初期シク教写本「ゴーインドヴァルのポーティー」にも、すでにカビールの詩が含まれています。シク教の文献は年代が確かなので、多くの研究者はカビール伝承を伝える初期の史料として最も信頼できると考えています。

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中級

信奉者と後世への影響――カビール・パント、シク教、そしてその先へ

カビール・パント(「カビールの道」)は、カビールを創始者であり師とみなす宗教共同体です。カビールの死後に発展し、ヴァーラーナシーのカビール・チャウラー僧院や、チャッティースガルを中心とするダラムダースの系統など、主要な分派が生まれました。信徒は数百万人と推定され、歴史的には低いカーストやダリトの共同体の出身者が多くを占めます。南アジアからの移住に伴い、トリニダード、フィジー、北アメリカなどにも広まりました。皮肉なことに、カビール・パントには独自の儀礼、師の系譜、聖典が発達しました。カビール自身は、ほかの文脈でこうしたものを批判していました。

カビールは、ラージャスターンのダードゥー・パントをはじめ、後の北インドの多くのサントの伝統に影響を与えました。『グル・グラント・サーヒブ』に詩が収められたため、世界各地のシク教寺院グルドワーラーでは、その言葉が毎日歌われています。ダリトの運動も、カビールをカーストに反対する闘いの先駆者とみなしてきました。

20世紀には、カビールは国民的な詩人となりました。ラビンドラナート・タゴールがイーヴリン・アンダーヒルとともに手がけた英訳『Songs of Kabir』(1915年)は、西洋の読者にカビールを紹介しました。ただし、そこに含まれる詩の多くは近代のベンガル語詩集に由来し、初期の写本には見られません。ヒンディー文学では、ハザーリー・プラサード・ドヴィヴェーディーの研究書『Kabir』(1942年)が、カビールを文学の礎を築いた人物として位置づけるのに役立ちました。インドの政治指導者や作家も、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和を象徴する人物として引用してきました。

カビールの歌は、マールワーやラージャスターンの民謡、クマール・ガンダルヴァやプラフラード・シン・ティパーニヤーらの歌、映画、祭典、そしてシャブナム・ヴィルマーニーが率いる「カビール・プロジェクト」などの録音で、今も生きた上演として続いています。歌われるたびに言葉は新たな形を取り、カビールを伝えてきた口承の営みを受け継いでいます。

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論争――カビールはいつ生き、何を知ることができるのか

カビールの生没年は確かではありません。カビール・パントは伝統的に生年を1398年、没年を1518年とし、120年の生涯を伝えますが、ほとんどの歴史家はこれを伝説とみなします。研究者が論じてきた主な代案は二つあります。一つは伝承上の生年を保ちながら、長すぎる寿命を退け、1398年ごろから1448年ごろまで生きたとする説です。もう一つは、シカンダル・ローディー(在位1489~1517年)やグル・ナーナク(1469~1539年)と結びつける伝説も踏まえ、活動時期を1440年ごろから1518年ごろとする説です。どちらにも同時代の文書による裏づけはなく、後世の伝承がどれほど信頼できるかに左右されます。

主な外部の証拠には、ラヴィダース、シク教のグル、聖人ダードゥーの作とされる詩など、16世紀の詩人たちによるカビールへの言及や称賛があります。また、1570年代の「ゴーインドヴァルのポーティー」にはカビールの詩が収められています。したがって16世紀後半までには、カビールはすでに過去の著名人でした。ナーバーダースの『バクタマール』(1600年ごろ)や、アナンタダース作とされる『カビール・パラチャーイー』などの聖人伝は、カビールがどう記憶されたかを知る貴重な資料ですが、デイヴィッド・ロレンゼンらが示したように、信仰上の目的に沿って形作られています。

ラーマーナンダとの関係は、とくに議論があります。ラーマーナンダ自身の年代も不確かです。カビールやラヴィダースを含むさまざまなカースト出身の聖人の師だとする見方は、ラーマーナンダ派が後から人気のある人物たちを自派に結びつけようとした結果かもしれません。実際に関係があったと考える研究者もいれば、カビールはヴィシュヌ派のどの系譜からも独立していたとみる研究者もいます。

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論争――作者、口承、宗教的アイデンティティー

どの詩が本当にカビールの作なのでしょうか。数千もの詩がその名で伝わる一方、三つの文献系統に共通する詩は限られています。詩人や歌い手が新しい歌を作り、末尾にカビールの署名句を置くことは、信仰詩では普通に行われました。ジョン・ストラットン・ホーリーらの研究者は、「カビール」を一人の作者としてだけでなく、多くの詩人が共有する伝統や語りの声としても考えるよう提案しています。リンダ・ヘスはマールワーの歌い手を調査し、口頭での上演が今もカビールの詩を生み、変え、解釈していることを示しました。そして口承を原文が単に損なわれたものとは考えられないと論じています。

カビールはヒンドゥー教徒だったのでしょうか、イスラム教徒だったのでしょうか、それともどちらでもなかったのでしょうか。ヒンドゥー・ナショナリズムの立場や改革派の著述家は、ラームという名を使い、ヴィシュヌ派やヨーガとつながりがあることを強調して、本質的にヒンドゥー教徒だったと描くことがあります。一方、神への愛のイメージや師の役割など、スーフィズムの要素を重視する人もいます。シャルロット・ヴォードヴィルは、その思想は主にナート派のヨーガの伝統とヴィシュヌ派のバクティから育ち、スーフィズムの直接的な影響は限られていたと論じました。今日、多くの研究者は、カビールがヒンドゥー教とイスラム教の双方の宗教的権威を退け、どちらか一方のアイデンティティーに収まることを詩の中で意図的に拒んだと強調します。有名な花の伝説は、この曖昧さを劇的に表しています。

カビールの社会的な意味についても議論があります。主に神秘家であり、社会批判は二次的だったとみる読者がいます。一方、とくにダリト研究では、カーストの批判者であり、主流のヒンドゥー教の伝統や国民文化に取り込まれる中で急進的な教えが和らげられたとみます。どの詩を翻訳し、出版するかによっても、カビール像は大きく変わります。たとえばタゴールが選んだ穏やかで神秘的な詩と、手厳しい『ビージャク』とでは、非常に異なる姿が現れます。

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重要なポイント

ニルグナ・バクティ
形や属性のない神への信愛。神を像や寺院ではなく、人の内に見いだす。
儀礼への批判
カビールは、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の双方の巡礼、断食、偶像崇拝、信仰を見せびらかす行為をからかった。
カーストの否定
生まれによって、だれかがほかの人より清らかで神聖になることはないと説いた。
神の名と師
神の名を心にとどめ、真の師に従うことが悟りへの道である。
日常のイメージ
機織りや市場、日々の暮らしが、精神的な真理を表すイメージになる。
逆さまの言葉
逆説的な謎かけの詩(ウラトバーンスィー)が、聞き手の習慣的な考え方を揺さぶる。
口承の伝統
カビールの詩は歌われる中で生き続け、歌い手や地域ごとに詩の集まりが形作られる。
宗教のはざまで
ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、シク教徒、ダリトがそれぞれ敬うカビールは、一つのアイデンティティーには収まらない。

記録

  1. 1398年頃 — カビール・パントの伝承によるカビールの生年。
  2. 1448年頃 — 一部の研究者が唱えるカビールの没年。
  3. 1469年 — シク教の創始者グル・ナーナクが誕生。伝説ではカビールと結びつけられる。
  4. 1489年 — シカンダル・ローディーがデリーのスルタンになる。伝説には、カビールが彼の前で試練を受けたとある。
  5. 1518年頃 — 伝承によるカビールの没年。亡くなった場所はマガルとされる。
  6. 1570年頃 — 初期のシク教写本「ゴーインドヴァルのポーティー」に、カビールの詩が収められる。
  7. 1600年頃 — ナーバーダースの『バクタマール』が、カビールを偉大な信仰者の一人として取り上げる。
  8. 1604年 — グル・アルジャンが、カビールの作品を数百編含む『アーディ・グラント』(後の『グル・グラント・サーヒブ』)を完成させる。
  9. 1915年 — ラビンドラナート・タゴールが英語の『Songs of Kabir』を出版する。
  10. 1928年 — シャームスンダル・ダースが『カビール・グランターヴァリー』を出版する。
  11. 1942年 — ハザーリー・プラサード・ドヴィヴェーディーが、影響力の大きいヒンディー語の研究書『Kabir』を出版する。

用語集

バクティ
神への愛に満ちた信愛。中世インドで各地の言葉によって表現された宗教運動。
ニルグナ
「属性のない」という意味。神に形がなく、言葉で表せないことをいう。
サント
「善なる人」または聖人。形のない神を崇めた北インドの聖人詩人の呼び名。
サーキー
「証人」という意味。二行からなる詩で、カビールの最も有名な詩の形式。
サバド/パド
歌うために作られた歌や讃歌。
ジュラーハー
北インドの織物職人の共同体。その多くはイスラム教徒だった。
カースト(ジャーティ)
伝統的に職業、結婚、儀礼上の地位を決めていた世襲の社会集団。
グル
宗教的・精神的な師。
ビージャク
カビールの詩を集めた、カビール・パントの主要な聖典。
カビール・パント
カビールを創始者として信奉する宗教共同体。
聖人伝
批判的な歴史研究としてではなく、信仰を深めるために書かれた聖人の伝記。

よくある質問

カビールは読み書きができましたか?

おそらくできませんでした。詩の一つで、墨や紙に触れたことがないと述べています。歌は人々に覚えられ、歌い継がれ、後にほかの人が書きとめました。

カビールはヒンドゥー教徒でしたか、それともイスラム教徒でしたか?

イスラム教徒の織物職人の家で育ち、ヒンドゥー教で使われる神の名も用いました。しかし、両方の宗教の指導者や儀礼を批判しました。今では両方の信徒に加え、シク教徒からも敬われています。

カビールが生きたのは正確にはいつですか?

はっきりとはわかりません。伝承では1398~1518年とされ、研究者は1398年ごろ~1448年ごろ、または1440年ごろ~1518年ごろという説を唱えています。

なぜカビールの詩がシク教の聖典に入っているのですか?

シク教のグルたちは、形のない一つの神への信愛を分かち合う詩人たちを高く評価しました。グル・アルジャンは1604年に『アーディ・グラント』を編纂した際、カビールの讃歌を収めました。

カビールの名がついた詩は、すべて本人の作ですか?

すべてが本人の作というわけではありません。何世紀にもわたり、歌い手や詩人がカビールの署名句をつけた歌を数多く加えました。そのため研究者は、初期の詩集を比べて古い詩の核を見極めようとしています。

カビールの詩に出てくる「ラーム」とは何ですか?

形のない唯一の神を指す名で、『ラーマーヤナ』の王子のことではありません。カビールは「ハリ」「アッラー」「ラヒーム」などの名も用います。

タゴールの翻訳は、カビールを知るうえで信頼できますか?

美しい翻訳ですが、詩の多くは近代のベンガル語詩集に由来し、初期の写本には見られません。そのため研究者は慎重に扱います。

出典・参考文献

  1. Kabir. Wikipedia
  2. Kabir Panth. Wikipedia
  3. Guru Granth Sahib. Wikipedia
  4. Bhakti movement. Wikipedia
  5. Ramananda. Wikipedia
  6. Linda Hess, Shukdeo Singh (trans.), The Bijak of Kabir. Oxford University Press, 2002
  7. Charlotte Vaudeville, A Weaver Named Kabir: Selected Verses with a Detailed Biographical and Historical Introduction. Oxford University Press, 1993
  8. John Stratton Hawley, Mark Juergensmeyer, Songs of the Saints of India. Oxford University Press, 1988
  9. Linda Hess, Bodies of Song: Kabir Oral Traditions and Performative Worlds in North India. Oxford University Press, 2015
  10. David N. Lorenzen, Kabir Legends and Ananta-Das’s Kabir Parachai. State University of New York Press, 1991

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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