最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
雲が町より下を流れることもある、山の上の町を想像してみてください。両側は深い谷で、ずっと下には川が流れています。そこが、南アメリカのペルーにあるマチュ・ピチュです。
インカの人々は1400年代にこの町を造りました。鉄の道具も、荷車の車輪も、馬もありませんでした。それでも硬い石をきれいに削り、セメントを使わずに、パズルのようにぴったり組み合わせました。
マチュ・ピチュは大きな都市ではありませんでした。家や神殿、作業場、噴水、長い階段がある、山の上の宮殿のような場所でした。多くの研究者は、インカの王パチャクティのものだったと考えています。王や家族が滞在し、数百人の人々がそこで働いていました。
町の周りには、山の斜面を階段のようにした段々畑があります。平らな場所で作物を育て、大雨で土が流れるのを防ぐためです。地面の下には、水を流すための水路もあります。
1530年代にスペイン人の兵士がペルーに来た後、人々はマチュ・ピチュを離れました。地元の人々はずっとその場所を知っていました。1911年、アメリカ人の探検家ハイラム・ビンガムが案内されて訪れると、世界中に知られるようになりました。今では世界でも特に有名な遺跡の一つです。
ひと目でわかる
- 建設時期
- 15世紀。埋葬された人々の放射性炭素年代測定によると、西暦1420年ごろから1532年ごろまで人が暮らしていた
- 場所
- ペルーのクスコから北西へ約80 km、ウルバンバ川を見下ろすマチュ・ピチュ山とワイナ・ピチュ山の間の尾根
- 標高
- 海抜約2,430 m。アンデスの高地と森林に覆われた東側の斜面が接する場所
- 建設した人々
- インカ国家(タワンティンスーユ)。伝統的に統治者パチャクティと結び付けられている
- 役割
- 宮殿や神殿があり、数百人の従者が暮らす王領だった可能性が最も高い
- 当時の名称
- 不明。近年の古文書研究では、ピチュまたはワイナ・ピチュと呼ばれていた可能性が示されている
- 指定
- マチュ・ピチュ歴史保護区。1983年にユネスコ世界遺産(文化・自然複合遺産)に登録
- 世界的に知られるきっかけ
- 1911年7月24日のハイラム・ビンガムの訪問と、1913年4月号の『ナショナル ジオグラフィック』によって世界に広く紹介された
やさしい
マチュ・ピチュとは?
マチュ・ピチュは、ペルー南部のアンデス山脈にある、15世紀のインカの集落跡です。鞍のような形の尾根に位置し、南にはケチュア語で「古い峰」を意味するマチュ・ピチュ山、北には「若い峰」を意味する険しいワイナ・ピチュ山があります。はるか下では、ウルバンバ川(ビルカノタ川とも呼ばれる)が尾根の三方を囲むように流れています。標高は約2,430 mで、インカの都クスコより低く温暖です。寒冷な高地から、アマゾンへと続く湿った森林へ移り変わる地域にあります。
集落の広さはわずか数ヘクタールですが、家、広間、神殿、倉庫、作業場など100棟をはるかに超える建物があります。数百か所の石段が建物を結び、山腹には段々畑が広がります。大きな中央広場が集落を主に二つの区域に分けています。山の泉の水は石造りの水路を流れ、町を下るように連なる小さな噴水へ送られていました。
マチュ・ピチュは、美しい立地、インカの優れた石造技術と土木技術、そしてスペイン植民地時代の著述家に記録されないまま残り、20世紀初めに外の世界に広く知られた経緯で有名です。ユネスコは、文化的価値と自然的価値の両方を持つ、数少ない「複合」世界遺産の一つに登録しています。
やさしい
マチュ・ピチュの見方:町を歩く
訪問者はふつう南端近くから入ります。そこには、石と土で造られた幅広い段々畑や、貯蔵と警備に使われた建物がある農業区域が広がっています。この区域と居住区域の間には、乾いた堀と長い壁があります。居住区域には、重厚な石のまぐさを備えた一つの主要な門から入ります。この配置から、町への出入りが管理されていたことが分かります。
居住区域は中央広場で分けられています。西側の高い場所には、特に精巧に造られた建物があります。聖なる広場には主神殿と三つの窓の神殿が面し、後者の台形の窓は広場の東側を向いています。その上の小さな丘には、自然の岩盤を斜めの面と短い突起の形に彫ったインティワタナがあります。「太陽をつなぐ柱」と訳されることもあるこの名は、後世に付けられたものです。正確な用途は不明ですが、儀礼上きわめて重要だったことは明らかです。
近くには、太陽の神殿、またはトレオンと呼ばれる建物があります。自然の岩の上に、精密に組み合わされた石で曲線を描く壁を築いた塔です。窓の一つは、アンデスでは真冬に当たる6月の冬至の日の出の方向を向いています。その下には彫り込まれた壁龕のある洞窟があり、「王の墓」と呼ばれることもありますが、埋葬の痕跡は見つかっていません。トレオンの隣には精巧な住居があり、多くの研究者は統治者の居室と考えています。専用の庭と浴場があり、最初の噴水にも直接行けました。
東側の低い場所には、比較的粗い石で造られた家や作業場が集まっています。南端にはコンドルの神殿があり、コンドルの頭のように彫られた平たい岩と、広げた翼に似た自然の岩が、聖なる鳥の姿を形づくっています。町の外へ続く道は、ワイナ・ピチュ山、崖に設けられた狭いインカ橋、そしてクスコからのインカ道を進むと初めて町が見える太陽の門(インティ・プンク)へ通じています。
やさしい
インカはどのように建設したか
インカの建設者たちは、山そのものを石切り場として利用しました。尾根に散らばる花崗岩の巨石を石の槌や青銅の道具で割り、より硬い石槌でたたいて形を整えました。切り出した石材は、大勢の作業員が綱、てこ、傾斜路を使って運んだと考えられます。インカには重い荷物を引けるほど力の強い役畜がいませんでした。リャマが運べるのは小さな荷物だけです。
石積みには二つの種類が見られます。重要な建物には、石を正確に加工してモルタルを使わずに組み合わせる切石積みが使われました。石を整った列に並べたものも、多角形の石を互いにかみ合わせたものもあります。一般の建物には、粗い自然石を泥のモルタルで積む方法が使われました。もとは表面にしっくいが塗られ、彩色されていた可能性もあります。扉、窓、壁龕は上より下が広い台形で、壁は少し内側に傾いています。こうした特徴は、アンデスで多い地震に建物が耐える助けとなります。
最も優れた土木技術は、目に見えない部分にあるかもしれません。尾根には雨季に大量の雨が降り、遺跡は二つの地質断層の間にあります。インカの建設者たちは深い基礎を造り、段々畑に岩、砂利、砂、表土を層にして詰めました。これにより雨水が染み込んで排水され、山の土が流されるのを防ぎました。地表の水路と排水溝も町中に張り巡らされています。アメリカの水文学者ケネス・ライトとペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガラの研究は、この排水設備が遺跡を500年にわたって良好な状態で残した理由の一つだと結論付けています。
中級
建設した社会:インカ帝国
15世紀初め、インカはクスコ地方で競い合う複数の集団の一つでした。インカの口承をもとにしたスペイン植民地時代の年代記によると、転機となったのは近隣のチャンカとの戦争です。後にパチャクティ(「世界を覆す者」などと訳される)と呼ばれる王子がクスコを救い、王位に就いたとされます。その後、パチャクティと後継者たち、とりわけ息子のトゥパ・インカ・ユパンキは、現在のエクアドルとコロンビア南部からチリ中部まで約4,000 kmに及ぶ帝国、タワンティンスーユ(「四つの地方を合わせたもの」)を築きました。チャンカとの戦争の物語にどれほど史実が含まれ、どれほど後世の王家の伝説が含まれるかについては、歴史家の意見が分かれています。
インカ国家には、市場で使う貨幣もアルファベットによる文字もありませんでした。キープと呼ばれる結び目のあるひもで情報を記録し、ミタという制度で労働を組織しました。各共同体は一定期間、国家のために働く義務を負い、働いている間は食事や飲み物、宿泊場所を提供されました。宿駅や倉庫を備えた広大な道路網カパック・ニャンが帝国を結び、マチュ・ピチュもその支道でクスコとつながっていました。
パチャクティは、クスコを壮大な都として造り直したとも伝えられています。インカの統治者たちはウルバンバ渓谷などに、自分と子孫のための宮殿、畑、居住する労働者を備えた地方の領地を設けました。こうした領地は統治者の血縁集団(パナカ)の私有地で、統治者の死後も一族が所有し、利用しました。ピサック、オリャンタイタンボ、マチュ・ピチュなどは、クスコ北方の渓谷にある王領の例です。
中級
なぜマチュ・ピチュは造られたのか:王領、聖域、景観
20世紀の大半を通じて、マチュ・ピチュは要塞、インカ最後の避難地、「太陽の処女」の修道院などではないかと推測されてきました。現在の解釈の鍵となった証拠は、植民地時代の文書から得られました。1990年、アメリカの人類学者ジョン・ロウは、パチャクティが「ピチュ」の土地を所有し、スペインによる征服後も子孫がその権利を主張していたことを示す16世紀の法律文書を公表しました。現在、考古学者の多くは、マチュ・ピチュをパチャクティとその一族の王領と見ています。
王領として、この場所には複数の役割がありました。統治者が家族や客人と休息し、宴を開き、儀式を行うための別荘で、主に乾季に使われたと考えられます。また、太陽、山々、水を敬う宗教的な中心地でもありました。さらに、これほど建設の難しい尾根に精巧な町を造ることは、インカ国家の力を示しました。常住人口は通常約750人と推定され、その多くは建物を維持し、支配層に仕える従者でした。
立地にも意味がありました。アンデスの信仰では、山々(アプ)は力を持つ存在で、泉、岩、川も聖なるもの(ワカ)となり得ます。マチュ・ピチュは南方のサルカンタイ山をはじめとする重要な山々に囲まれ、インカが神聖視したウルバンバ川に抱かれています。多くの建物は特定の山を望むように造られたり、自然の岩を取り込んだりしています。また、いくつかの建造物は至点の日の出や日没の方向に合っています。こうした配置がどこまで体系的だったかは議論されていますが、建設者たちが周囲の景観を意識して町を設計したことは明らかです。
中級
誰が暮らしていたのか:埋葬とDNAから分かること
1912年と1915年の調査で、ビンガムの隊は遺跡周辺の洞窟や岩陰から100件を超える埋葬を発掘しました。初期の分析では人骨の大半が女性とされ、「選ばれた女性たち」の共同体というロマンチックな説が広まりました。その後、自然人類学者が骨を再調査すると、男女の割合はもっと均等であることが分かり、「太陽の処女」説は退けられました。
マチュ・ピチュに埋葬されていたのは、クスコで盛大な儀式とともに葬られたはずの王族ではなく、常駐していた人々でした。植民地時代の史料は、こうした従者をヤナコナと呼びます。故郷の共同体から離され、生涯にわたってインカの支配層に仕えた人々です。人骨の研究から、多くの人がトウモロコシを食べ、働いて暮らしていた一方、大半は極端に重い肉体労働には従事していなかったことが分かっています。
2023年、ルーシー・サラサールが率い、リチャード・バーガーやデイビッド・ライヒら遺伝学者が参加した研究チームは、マチュ・ピチュに埋葬された34人の古代DNA研究を発表しました。住民は海岸地方、高地、アマゾン地域を含む帝国各地の出身で、異なる祖先を持つ人々が共に暮らし、子どもを育て、埋葬されていたことが分かりました。これは、さまざまな民族集団から王領の働き手が集められたという植民地時代の記述を裏付けます。また、インカ帝国の政策によって人々が長距離を移動したことも示しています。
中級
放棄とスペインによる征服
マチュ・ピチュに人が暮らした期間は約1世紀にすぎません。1520年代後半には、天然痘の可能性もあるヨーロッパ由来の感染症がスペイン人より先にアンデスに広がり、統治者ワイナ・カパックが亡くなりました。その後、息子のワスカルとアタワルパが激しい内戦を戦いました。1532年、フランシスコ・ピサロ率いる少数のスペイン軍がカハマルカでアタワルパを捕らえました。翌年アタワルパは処刑され、スペイン軍は1533年にクスコへ入りました。
インカ国家の崩壊とともに、王領の仕組みも失われました。マチュ・ピチュの埋葬の放射性炭素年代は征服期ごろで終わり、遺跡はその後数十年の間に徐々に放棄されたようです。1537年から1572年まで、マチュ・ピチュの北西にある奥地のビルカバンバ地方では独立したインカの国が存続しましたが、1572年にスペイン人が最後の統治者トゥパク・アマルを捕らえて処刑しました。マチュ・ピチュはこの境界地帯に近いものの、ビルカバンバの抵抗に関わった明確な証拠はありません。
スペイン人の年代記作者がマチュ・ピチュについて記さなかったため、町は植民地当局や宣教師によるインカの聖所の組織的な破壊を免れました。建物はしだいに草ぶき屋根を失い、森に覆われましたが、石壁の大部分はそのまま残りました。地名は地元の文書に残り、農民たちは一部の段々畑で暮らし、作物を育て続けました。
中級
「失われた都市」? ビンガム、地元の知識、イェール大学の収集品
マチュ・ピチュは、本当の意味で失われていたわけではありません。1902年、クスコの農民で探検家でもあったアグスティン・リサラガが遺跡に到達し、三つの窓の神殿の壁に木炭で「A. Lizárraga 1902」と書き残しました。19世紀の地図や地元の土地記録にもその場所が記され、外部から訪問者が来たときには、家族が段々畑を耕していました。
イェール大学の講師だったハイラム・ビンガム3世は、インカ最後の避難地ビルカバンバを探してペルーを訪れました。1911年7月24日、農民メルチョル・アルテアガがペルー人の警察軍曹を伴って、ビンガムを山上へ案内しました。頂上ではリチャルテ家とアルバレス家が遺跡の中で暮らして畑を耕しており、少年がビンガムを最も見事な建物へ導きました。ビンガムは当初、リサラガが先に訪れていたことを認めていましたが、後には次第に自分を発見者として紹介するようになりました。彼はビルカバンバを見つけたと思っていましたが、その遺跡は後に、さらに西にあるエスピリトゥ・パンパと特定されました。ビンガムはそこも訪れていました。
ビンガムは1912年と1915年に、イェール大学とナショナル ジオグラフィック協会の支援を受けて再訪しました。1913年4月号の『ナショナル ジオグラフィック』は全号をマチュ・ピチュに充て、遺跡を有名にしました。調査隊は遺跡の草木を取り除き、測量し、数千点の遺物と人骨をイェール大学へ持ち出しました。ペルー政府は、その許可を貸与のためのものと見なしていました。返還をめぐる争いはほぼ1世紀続きました。合意とペルーによる訴訟を経て、イェール大学は2011~2012年に収集品を返還しました。現在はクスコで、サン・アントニオ・アバド国立大学との協力のもと保管されています。
今日、多くのペルー人や歴史家は、ビンガムの功績は発見ではなく、広報と科学的な記録にあったと強調しています。数え切れないほどの本や映画で繰り返された「失われた都市」の物語は、遺跡を以前から知っていたペルー人や先住民の存在を見えなくしました。
中級
今日の遺産、観光、保全
ペルーは1981年、遺跡と周囲の山地の森林を守るため、この地域を歴史保護区に指定しました。森林には、メガネグマや多くのランの仲間を含む豊かな動植物が生息しています。ユネスコは1983年、その文化的価値と自然的価値の両方を認め、マチュ・ピチュ歴史保護区を世界遺産に登録しました。2014年には、インカの道路網カパック・ニャンが、6か国にまたがる別の世界遺産として登録されました。
マチュ・ピチュはペルーを代表する象徴であり、大きな収入源でもあります。訪問者の多くは列車でアグアス・カリエンテス(マチュピチュ村)へ行き、20世紀半ばに造られた道路をバスで上ります。数日かけてインカ道を歩く人もいます。年間訪問者数は100万人を大きく超えるようになり、ペルー政府は1日の入場者数の上限、時間指定の入場、定められた見学路を設けています。これらの規則は何度も変わっており、遺跡の保護と地元の人々の暮らしをどう両立させるかをめぐって議論が続いています。
保全上の課題には、浸食や地滑り、何百万人もの足による摩耗、麓の町の無秩序な拡大、事故による損傷などがあります。例えば2000年には、広告撮影に使われたクレーンがインティワタナの石を欠けさせました。地域の先住民であるケチュアの共同体も、遺跡の管理や紹介の仕方について、より大きな発言権を求めています。
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論争:マチュ・ピチュの年代とインカの編年
長い間、マチュ・ピチュの年代は文書から推定されてきました。ジョン・ロウが1940年代に主にミゲル・カベリョ・バルボアの年代記(1586年)をもとに提唱した、広く使われるインカ統治者の編年では、パチャクティの即位は1438年とされます。マチュ・ピチュは、パチャクティがウルバンバ川下流域を征服した後に彼のために建てられたと考えられていたため、建設は通常1450年ごろ以降とされ、居住期間は約80年にすぎないと推定されていました。
2021年、リチャード・バーガー、ルーシー・サラサール、ジェイソン・ネスビット、イーデン・ウォッシュバーン、ラース・フェーレン=シュミッツは、ビンガムの時代に発掘された人骨と歯について、加速器質量分析法(AMS)による26件の放射性炭素年代測定結果を発表しました。結果は、マチュ・ピチュに西暦1420年ごろから1532年ごろまで継続して人が暮らしていたことを示し、従来の編年より約20年早く始まります。著者らは、出来事から1世紀後に編まれた植民地時代の年代記がインカの歴史を短くまとめており、帝国の拡大はロウの年代より早く始まった可能性があると論じました。ほかのインカ遺跡の放射性炭素年代を用いて、同様の結論に達した研究者もいます。
これらの発見ですべての疑問が解決したわけではありません。埋葬の放射性炭素年代が示すのは人々が生きた時期であり、個々の建物の建設時期ではありません。また、15世紀の年代較正には幅があります。新しい年代とパチャクティやトゥパ・インカの治世との関係は議論が続いており、建設が二代の治世にまたがったと考える研究者もいます。より広い教訓は、スペイン語の文書だけに基づくインカの編年を、独立した考古学的年代測定で検証する必要があるということです。
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論争:遺跡の名前、役割、史料
インカの人々はこの町を何と呼んでいたのでしょうか。2021年、歴史家ドナト・アマド・ゴンサレスと考古学者ブライアン・バウアーは、ビンガムの野帳、19世紀の地図、16~17世紀の文書を調べ、町の本来の名はピチュ、さらに可能性が高いのはワイナ・ピチュであり、マチュ・ピチュという名が遺跡に結び付いたのはビンガムの出版物によるものだと論じました。証拠の一つは、ビルカバンバ地方の人々が「ワイナ・ピチュ」へ戻ることを検討していたと記す1588年の文書です。この説は広く報じられましたが、マチュ・ピチュという名はすでに定着しており、改称は提案されていません。
何のための場所だったのでしょうか。王領という解釈は、ロウが公表した植民地時代の文書、建築の特徴(支配層の住居、精巧な神殿、少人数ながら多様な出身地を持つ常住者)、ウルバンバ渓谷のほかの王領との比較に基づいています。別の見方や補足的な見方では、宗教的な聖域や巡礼地としての役割、天文現象に合わせた配置、経済的・戦略的な重要性を持った可能性のあるアマゾン低地との境界という立地が重視されます。これらは互いに両立し、多くの研究者は現在、居住、儀礼、権力の誇示が組み合わさっていたと考えています。
史料はどれほど信頼できるのでしょうか。文書史料は主に、インカの口承史を記録したフアン・デ・ベタンソス(1551年)やペドロ・サルミエント・デ・ガンボア(1572年)などのスペイン語の年代記と、土地に関する植民地時代の法律文書です。ただし年代記は、情報提供者や植民地官吏の利害の影響を受けています。考古学的証拠には建築、1912~1915年に発掘された資料(その多くはペルーへの返還後にようやく研究されたもの)、その後のペルー側の発掘成果があります。近年は生物考古学、同位体分析、古代DNA研究により、そこに暮らした人々について直接的な証拠が加わりました。
重要なポイント
- 王領
- インカの統治者と子孫が所有した、宮殿、畑、常住する働き手を備えた地方の領地。マチュ・ピチュはその一つと考えるのが最も適切です。
- 切石積み
- 正確に加工した石をモルタルなしで組み合わせる工法で、インカの重要な建物に使われました。
- 景観を生かした土木技術
- 段々畑、基礎、排水設備によって、雨が多く不安定な尾根を長く残る町に変えました。
- 聖なる景観
- アンデスの信仰では山、岩、泉、川が力を持つ存在であり、町はそれらとの関係を意識して設計されました。
- 移動する労働力
- DNA研究は住民が帝国各地から来たことを示し、国家や支配層に仕えさせるために人々を移動させたインカの政策を反映しています。
- 失われた都市という神話
- 遺跡は1911年以前から地元で知られており、「発見」の物語には外部の人々による見方が表れています。
- 年代記の検証
- 放射性炭素年代測定は、文書に記されたインカの編年を考古学の証拠と照らし合わせる必要があることを示しています。
記録
- 1420年頃 — AMS放射性炭素年代測定によると、埋葬資料から、このころマチュ・ピチュに人が暮らしていたことが分かる。
- 1438年頃 — ロウの編年に基づく、チャンカとの戦争後にパチャクティが即位したとする伝統的な年代。
- 1532年 — スペイン人がカハマルカでアタワルパを捕らえる。マチュ・ピチュの最も新しい放射性炭素年代はこのころに当たる。
- 1572年 — スペイン人がビルカバンバを制圧し、トゥパク・アマルを処刑する。このころまでにマチュ・ピチュはおそらく放棄されていた。
- 1588年 — 植民地時代の文書に「ワイナ・ピチュ」という地名が現れる。町の本来の名だった可能性がある。
- 1902年 — アグスティン・リサラガが遺跡を訪れ、三つの窓の神殿に自分の名を残す。
- 1911年 — 7月24日、メルチョル・アルテアガがハイラム・ビンガムを遺跡へ案内する。
- 1913年 — マチュ・ピチュを特集した4月号の『ナショナル ジオグラフィック』によって、世界的に有名になる。
- 1981年 — ペルーがマチュ・ピチュ歴史保護区を指定する。
- 1983年 — ユネスコが歴史保護区を世界遺産一覧表に登録する。
- 2011年 — イェール大学がビンガムの調査隊による発掘品をペルーへ返還し始める(2012年に完了)。
- 2021年 — 新たなAMS放射性炭素年代測定によって、居住開始時期が1420年ごろまでさかのぼる。
用語集
- インカ
- もとは統治者の称号。現在は、15世紀から16世紀初めにかけてアンデスに広がった帝国の人々や国家を指す。
- タワンティンスーユ
- インカ帝国のケチュア語名。「四つの地方を合わせたもの」という意味。
- ケチュア語
- インカ国家で使われた言語。現在もアンデスで数百万人が話している。
- 段々畑
- 斜面を階段状に平らにし、石壁で支えた土地。農業や土の流出防止に使われる。
- 切石積み
- 丁寧に切り出して加工した石材を組み合わせる石積み工法。
- ワカ
- アンデスの信仰における聖なる場所や物。祠、岩、泉など。
- アプ
- アンデスの信仰における山の精霊、または聖なる山。
- ミタ
- 共同体が交代で国家への労働を担うインカの制度。
- ヤナコナ
- 故郷の共同体から離され、インカの支配層に恒久的に仕えた人々。
- カパック・ニャン
- 帝国を結んだ、総延長約30,000 km以上のインカの道路網。
- AMS放射性炭素年代測定
- 加速器質量分析計で炭素14を測定し、かつて生きていたものの年代を調べる方法。少量の試料で測定できる。
よくある質問
インカはどうやって重い石を山の上まで運んだのですか?
石の大半は山の尾根そのものから得たため、遠くから運ぶ必要はありませんでした。作業員はその場で巨石を割って形を整え、綱、てこ、傾斜路で石材を移動させました。
マチュ・ピチュは失われた都市だったのですか?
正確には違います。地元の農民は段々畑で暮らし、アグスティン・リサラガも1902年に訪れていました。1911年以降にハイラム・ビンガムが広く紹介するまで、外部の人々にはほとんど知られていなかったのです。
なぜスペイン人は破壊しなかったのですか?
スペイン人の年代記作者が記録していません。おそらく征服後に重要性を失い、放棄されたためで、インカの聖所の破壊を免れました。
何人が暮らしていたのですか?
常住者は最大で約750人と推定され、その多くは従者でした。統治者と宮廷の人々が訪れた際には、さらに人数が増えたでしょう。
いつ建てられたのですか?
伝統的にはパチャクティのために1450年ごろ建てられたとされますが、2021年に発表された放射性炭素年代は、1420年ごろから1532年ごろまで人が暮らしていたことを示しています。
インティワタナは何に使われたのですか?
正確には分かっていません。自然の岩盤を彫った、儀礼上きわめて重要な場所で、太陽の観察や周囲の山々を敬う行為に関係した可能性があります。
「マチュ・ピチュ」は当時の名前ですか?
おそらく違います。アマド・ゴンサレスとバウアーの研究は、インカの人々が町をピチュまたはワイナ・ピチュと呼んでいた可能性を示しています。
なぜイェール大学の収集品をめぐって論争が起きたのですか?
ペルーは、1912~1915年に発掘された遺物と人骨を貸与したものと考えていました。イェール大学は約1世紀にわたって保管し、2011~2012年に返還しました。
出典・参考文献
- Historic Sanctuary of Machu Picchu. UNESCO World Heritage Centre
- Machu Picchu. Wikipedia
- Hiram Bingham III. Wikipedia
- Pachacuti. Wikipedia
- Inca road system. Wikipedia
- Richard L. Burger, Lucy C. Salazar, Jason Nesbitt, Eden Washburn, Lars Fehren-Schmitz, New AMS dates for Machu Picchu: results and implications. Antiquity 95 (383), 2021
- Lucy C. Salazar et al., Insights into the genetic histories and lifeways of Machu Picchu’s occupants. Science Advances, 2023
- Donato Amado Gonzales, Brian S. Bauer, The Ancient Inca Town Named Huayna Picchu. Ñawpa Pacha 42 (1), 2021
- Richard L. Burger, Lucy C. Salazar (eds.), Machu Picchu: Unveiling the Mystery of the Incas. Yale University Press, 2004
- Kenneth R. Wright, Alfredo Valencia Zegarra, Machu Picchu: A Civil Engineering Marvel. ASCE Press, 2000
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
