歴史

コロンブスの第1回航海(1492〜1493年)

Primer viaje de Colón (Spanish)

1492–1493年 · バハマ諸島(カリブ海)

ひとことで

1492年、クリストファー・コロンブスはアジアを目指し、スペインの君主の支援を受けて大西洋を西へ渡った。しかし到達したのはルカヤン人とタイノ人が暮らすカリブ海の島々だった。この航海をきっかけにヨーロッパとアメリカ大陸の継続的な接触が始まり、先住民は征服、奴隷化、病気に苦しみ、世界全体が大きく変わった。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

1492年8月、ニーニャ号、ピンタ号、サンタ・マリア号という3隻の小さな木造船がスペインを出発しました。船長のクリストファー・コロンブスは、イタリアのジェノヴァ出身です。海を西へ進めば、中国、日本、インドに着けると考えていました。ヨーロッパの人々は、香辛料や絹、金が手に入るこれらの土地を「インド諸島」と呼んでいました。

コロンブスは地球の大きさをまちがえていました。当時、学問を学んだ人々はすでに地球が丸いことを知っていましたが、コロンブスは実際よりずっと小さいと考えたのです。アジアは遠すぎました。また、途中に北アメリカと南アメリカという二つの大陸があることも知りませんでした。

1か月以上海を進んだ1492年10月12日、船員たちは現在のバハマにある島を見つけました。その島は無人ではありません。そこはルカヤン人の故郷で、彼らはグアナハニと呼んでいました。近くのキューバやイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)には、タイノ人が暮らしていました。タイノ人は村をつくり、キャッサバやトウモロコシを育て、カヌーで魚をとり、カシケと呼ばれる首長を立てていました。コロンブスはインド諸島に着いたと思い、彼らを「インディアン」と呼びました。

タイノ人は初め、興味をもち、親切に迎えました。しかしコロンブスは金を探しており、タイノ人を召し使いにできると考えました。そして何人かをスペインへ連れていきました。その後の航海でやって来たスペイン人入植者は、タイノ人に金を掘らせ、畑で働かせました。抵抗した人を罰したり殺したりし、奴隷として売った人もいました。ヨーロッパから来た天然痘などの病気でも、非常に多くの人が亡くなりました。数十年のうちに、タイノ人の大多数が亡くなりました。

この航海から、植物や動物、病原体が海を越えて行き来する「コロンブス交換」も始まりました。アメリカ大陸のジャガイモ、トマト、トウモロコシ、チョコレート、トウガラシは世界へ広がり、馬、牛、小麦、サトウキビはアメリカ大陸へ渡りました。たとえば、韓国のキムチを赤くするトウガラシも、もとはアメリカ大陸の植物です。だから1492年は世界史でとても重要な年であり、人によってさまざまな受け止め方があるのです。

ひと目でわかる

日付
1492年8月3日にスペインのパロスを出発、同年10月12日に初めて上陸、1493年3月15日にパロスへ帰還
支援者
サンタ・フェ協約(1492年4月17日)に基づく、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世
船と乗組員
サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号。乗組員は約90人
到達した場所
バハマ諸島(グアナハニ。サン・サルバドルと命名)、キューバ北東岸、イスパニョーラ島北岸
出会った人々
バハマ諸島のルカヤン人と、キューバおよびイスパニョーラ島のタイノ人。いずれもアラワク語系の言語を話す人々
コロンブスの目的
西へ航海して東アジアに到達すること。死ぬまでアジアに到達したと考えていた
結果
ヨーロッパによるアメリカ大陸の継続的な植民地化、カリブ海地域の先住民人口の激減、大西洋奴隷貿易、コロンブス交換

やさしい

1492年に何が起きたのか?

クリストファー・コロンブス(イタリア語ではクリストーフォロ・コロンボ、スペイン語ではクリストバル・コロン)はジェノヴァ出身の航海者で、地中海や大西洋を航海し、ポルトガル人の西アフリカ航路にも乗っていた。長年、大西洋を西へ渡ってアジアへ向かう航海への資金援助を、まずポルトガル、次いでカスティーリャの君主に求めた。1492年、イサベル女王とフェルナンド王がついに同意した。

探検隊は1492年8月3日にパロス・デ・ラ・フロンテーラ港を出発し、カナリア諸島に立ち寄った後、9月6日にラ・ゴメラ島から西へ向かった。約5週間の航海を経て、10月12日未明に陸地が見つかった。その後の約3か月間、コロンブスはバハマ諸島、キューバ北東岸、イスパニョーラ島北岸を航海した。旗艦サンタ・マリア号がクリスマスの日に座礁すると、約30数人を小さな砦に残し、ほかの2隻で帰途につき、1493年3月にスペインへ戻った。

コロンブスはアメリカ大陸に到達した最初の人ではない。先住民は何千年も前からそこに暮らし、グリーンランドの北欧人も西暦1000年ごろにニューファンドランド島へ渡って短期間定住していた。1492年がそれまでと異なるのは、継続的な接触と植民地化が始まり、アメリカ大陸がヨーロッパ、アフリカ、アジアと恒常的に結びついた点である。

[1]

やさしい

そこにすでに暮らしていた人々

コロンブスが到達した島々には、数十万人、あるいは数百万人が暮らしていた。祖先は南アメリカから移住し、何世紀にもわたってカヌーで島々をたどってきた。大アンティル諸島(キューバ、イスパニョーラ島、プエルトリコ、ジャマイカ)の人々は現在、一般にタイノ人と呼ばれ、近縁のバハマ諸島の人々はルカヤン人と呼ばれる。どちらもアラワク語系の言語を話した。「タイノ」という名称は後世の研究者が用いたもので、島民は故郷をアイティ(イスパニョーラ島)、ボリケン(プエルトリコ)、キューバなどの名で呼んでいた。

ユカイェケと呼ばれるタイノ人の村では、木と草でできた家(ボイオ)が広場や球技場(バテイ)を囲んでいた。人々はコヌコと呼ばれる土を盛った畑でキャッサバ(ユカ)、サツマイモ、トウモロコシ、豆、トウガラシを育て、漁や狩りもした。社会では首長(カシケ)が、貴族(ニタイノ)や一般の人々(ナボリア)を率いた。女性の首長もいた。信仰生活の中心には、石、木、綿の彫刻品に表された精霊や祖先のセミがいた。指導者がコホバという嗅ぎたばこを吸い、霊の世界と交信する儀式も行われた。

タイノ人は航海に熟達し、大きな丸木舟で島々の間を行き来した。スペイン人はヨーロッパではなじみのなかったハンモックに注目し、キューバでは人々が巻いたタバコの葉を吸う姿を見た。英語やスペイン語の「ハンモック」「カヌー」「ハリケーン」「バーベキュー」「サバンナ」に当たる語は、タイノ語やその近縁の言語に由来する。

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中級

背景:なぜ西へ航海したのか?

15世紀のヨーロッパ人は、イスラム商人やヴェネツィア商人を何段階も経て届くアジアの香辛料、絹などを直接手に入れたいと考えていた。ポルトガルは数十年にわたってアフリカ沿岸を探検し、1488年にはバルトロメウ・ディアスが喜望峰を回って、インドへ東回りで向かう航路を開いた。コロンブスが提案したのは、西へ向かう近道だった。

この計画は誤った計算に基づいていた。学者たちは古代から地球が球体であることを知り、その大きさもかなり正確に推定していた。コロンブスは、自説に合う古代・中世の文献を選んで用い、地球はもっと小さく、アジアは大方の専門家が考えるよりずっと東まで広がっていると主張した。そのため、マルコ・ポーロの記述で知られる日本は、カナリア諸島から西へわずか数千キロメートルにあると考えた。ポルトガルとカスティーリャの王室諮問委員会は、距離があまりに長いと正しく判断して計画を退けた。コロンブスが地球は丸いと証明しなければならなかったという話は、19世紀に生まれた俗説である。

1492年はスペインにとって決定的な年だった。1月、イサベルとフェルナンドはイベリア半島最後のイスラム王国グラナダの征服を終え、3月にはキリスト教への改宗を拒むユダヤ人の追放を命じた。長い戦争が終わり、両君主はコロンブスへの支援に同意した。1492年4月17日のサンタ・フェ協約では、発見する土地の「大洋の提督」、副王、総督の称号と、そこから得られる収入の10分の1をコロンブスに約束した。こうした条件と、1492年の宗教的、十字軍的な空気が、その後の出来事を形づくった。

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中級

航海と最初の出会い

船団には2隻のカラベル船があり、ピンタ号はマルティン・アロンソ・ピンソン、その弟ビセンテ・ヤニェス・ピンソンはニーニャ号の船長を務めた。より大きなサンタ・マリア号はコロンブスが指揮した。歴史家アリス・バチェ・グールドは87人の乗組員を確実に特定しており、その大半はパロスと近隣の町の出身だった。乗組員には、ユダヤ教からキリスト教に改宗し、ヘブライ語とアラビア語を話すルイス・デ・トレスもいた。彼はアジアの宮廷で通訳をするために同行した。長い横断航海の間に乗組員は落ち着きを失い、コロンブスは二つの航海記録をつけた。その一方には、実際に進んだと本人が考えた距離より短い距離を記した。

10月12日、船団はルカヤン人がグアナハニと呼ぶバハマ諸島の島に到達した。コロンブスは正式な儀式でこの島をカスティーリャの領土だと宣言し、サン・サルバドルと名づけた。航海日誌では、住民を温厚で気前がよく、武器を持たない人々と記し、よい召し使いになり、容易にキリスト教徒にできるだろうと書いた。数日のうちに、道案内と通訳をさせるため、数人のルカヤン人を捕らえた。

南へ進んだスペイン人は10月28日にキューバへ到達した。コロンブスはそこがアジア大陸の一部かもしれないと考え、ルイス・デ・トレスとロドリゴ・デ・ヘレスを大ハーンの宮廷を探すため内陸へ送った。12月5〜6日にはイスパニョーラ島に着き、マリエンのカシケ、グアカナガリに迎えられた。12月24〜25日にサンタ・マリア号が座礁すると、グアカナガリの人々が積み荷を降ろすのを手伝った。コロンブスは船材でラ・ナビダードと呼ぶ砦を築き、金を探すよう命じて約39人を残した。帰路の1493年1月、イスパニョーラ島東部のサマナ湾で地元の人々と短い戦闘が起きた。これはヨーロッパ人と島民の間で記録された最初の武力衝突である。

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中級

帰還と知らせの広まり

嵐の中を渡った後、コロンブスは1493年3月4日にリスボンへ到着してポルトガル王ジョアン2世と会い、3月15日にパロスへ帰った。捕らえたタイノ人を数人、オウム、金の装飾品などとともに連れて、バルセロナのスペイン宮廷へ向かった。捕らえられた人々の中には、航海中に亡くなった人もいた。生き残った人々は洗礼を受け、そのうちの1人は第2回航海で通訳としてコロンブスに同行したと伝えられる。

印刷のおかげで知らせは急速に広まった。発見について記したコロンブスの手紙は1493年にバルセロナで印刷され、まもなくラテン語に翻訳されてローマ、パリ、バーゼル、アントウェルペンで出版された。手紙は島々を豊かで肥沃な土地とし、住民を改宗に応じる穏やかな人々として描き、困難についてはほとんど触れなかった。

スペインは領有権を確保するため迅速に動いた。1493年、教皇アレクサンデル6世は「インテル・カエテラ」を含む教皇勅書を出し、住民をキリスト教に改宗させることを条件に、大西洋上の線より西で発見された土地をカスティーリャに与えた。1494年、カスティーリャとポルトガルはトルデシリャス条約を結び、カーボベルデ諸島の西に引いた線に沿って新たに発見された土地を分けることに合意した。これらの文書は、先住民の土地をヨーロッパ人が領有できるものとして扱った。この考えは後に「発見の法理」と呼ばれ、現在も先住民の土地の権利をめぐる主張に影響を及ぼしている。

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中級

出会いから征服へ:暴力、強制労働、奴隷化

コロンブスは植民地を築くため、1493年末に17隻の船と千人を大きく超える人数を率いて戻った。ラ・ナビダードの砦は破壊され、残した全員が死んでいた。グアカナガリによれば、彼らはタイノ人女性を虐待して金を要求し、カシケのカオナボが彼らを攻撃したという。コロンブスは1494年にラ・イサベラの町を建設した。食料不足と病気で多くの入植者が亡くなり、スペイン兵は島を歩き回って食料、金、女性を要求した。

コロンブスは貢納制度を課した。金の産地シバオに住む14歳以上のタイノ人は、3か月ごとに決められた量の砂金を、ほかの地域では一定量の綿を納めなければならなかった。果たせない人は、時に厳しい罰を受けた。タイノ人の共同体が抵抗すると、スペイン軍は馬と犬を使って戦い、彼らを破った。1495年、コロンブスは約1500人のタイノ人を捕らえ、そのうち約500人を奴隷として売るためスペインへ送った。渡航中に約200人が亡くなった。イサベル女王は、自国の臣民とみなす人々を奴隷にすることに難色を示し、1500年には奴隷にされた人々の一部を帰還させるよう命じた。しかし後の布告では、「人食い」や反逆者とされた人々の奴隷化が認められた。

コロンブスの厳しく混乱した統治について入植者から苦情が出たため、両君主は調査官フランシスコ・デ・ボバディリャを派遣した。ボバディリャは1500年にコロンブスとその兄弟たちを逮捕し、鎖につないでスペインへ送った。コロンブスは釈放されたが、総督の地位を失った。新総督ニコラス・デ・オバンドの下、スペイン軍は1503年にハラグアでタイノ人の指導者たちを虐殺し、女性のカシケであるアナカオナを処刑した。労働はエンコミエンダ制によって組織された。これは先住民の集団をスペイン人入植者に割り当て、鉱山や畑で働かせることを認める制度だった。

抗議したスペイン人もいた。1511年、ドミニコ会修道士アントニオ・デ・モンテシーノスはサントドミンゴで説教し、タイノ人への扱いを非難した。王室はブルゴス法(1512年)を制定して対応したが、強制労働を規制するだけで廃止はしなかった。かつてエンコミエンダを保有し、後に修道士となったバルトロメ・デ・ラス・カサスは、自ら目撃した残虐行為を何十年も告発し、とりわけ『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(1552年)に記した。タイノ人も抵抗した。カシケのアトゥエイはイスパニョーラ島からキューバへ逃れ、そこでスペイン人と戦った後、1512年に火あぶりにされた。カシケのエンリキリョは1519年から1533年の和平合意まで、イスパニョーラ島の山地で反乱を率いた。

[1][5][6][2]

中級

タイノ人から見た人口の激減と生き残り

タイノ人にとって、1492年は大惨事の始まりだった。イスパニョーラ島の先住民人口は一世代のうちに激減し、1514年のスペイン側の調査では、エンコミエンダに割り当てられた人々は数万人しか記録されていない。島民が獲得免疫を持たなかったヨーロッパ由来の病気の流行は、大きな要因だった。とりわけ1518年に始まった天然痘の流行が深刻だった。しかし、強制労働、暴力、農業の混乱による飢餓、家族の離散、奴隷化も非常に多くの命を奪い、共同体を病気に対してさらに弱くした。スペインは16世紀初頭、先住民の労働力に代えるため、奴隷にしたアフリカ人を移入し始めた。これがアメリカ大陸へ向かう大西洋奴隷貿易の始まりとなった。

タイノ人自身の声を伝える史料は少ない。タイノ人は文字を用いず、記録の大半はスペイン人が残した。重要な例外の一つが、コロンブスに頼まれてタイノ人の間に暮らし、その信仰を記録した修道士ラモン・パネによる、1498年ごろのタイノ人の宗教についての記述である。考古学、口承、言語や遺伝学の証拠が、史料の不足を補っている。

タイノ人は消滅しなかった。スペイン人やアフリカ人との結婚を通じて、また山地や農村の共同体で、多くの人が生き残った。遺伝子研究では、プエルトリコ、ドミニカ共和国、キューバの多くの人々に、とくに母系を通じた先住民の祖先が確認されている。キャッサバのパンなどの食べ物、地名、言葉、農法もカリブ海地域の暮らしに残った。20世紀末からはカリブ海地域とその移住者の間でタイノ文化の復興運動が広がり、人々がタイノ人としてのアイデンティティ、儀式、言語を取り戻そうとしている。タイノ人が完全に絶滅したという見方は、現在では広く否定されている。

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中級

コロンブス交換

1972年、アメリカの歴史家アルフレッド・W・クロスビーは、1492年に始まったアメリカ大陸と世界のほかの地域との間の植物、動物、微生物、人間の移動を「コロンブス交換」と名づけた。これは人類史上、最も重要な生態学的出来事の一つである。

アメリカ大陸からは、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバ、トマト、豆、カボチャ、落花生、カカオ、バニラ、トウガラシ、タバコ、ゴムが広まった。これらの作物はアフリカ・ユーラシアの食生活と人口を変えた。ジャガイモは増加するヨーロッパの人口を養う助けとなり、トウモロコシとキャッサバはアフリカの多くの地域で主食となった。中国ではサツマイモとトウモロコシによって丘陵地にも農地が広がった。トウガラシはインド、タイ、韓国などの料理に欠かせないものとなった。

旧世界からは小麦、米、大麦、サトウキビ、コーヒー、バナナ、柑橘類が、動物では馬、牛、豚、羊、ヤギ、鶏などが渡った。馬は北アメリカの大平原や南アメリカのパンパに暮らす多くの先住民の生活を変えた。イスパニョーラ島に初めて植えられたサトウキビは、奴隷にされたアフリカ人の労働に支えられたプランテーション経済の基盤となった。その後の数世紀にわたり、約1200万人が大西洋を越えて強制的に移送された。

この交換で最も破壊的だったのは病気である。天然痘、はしか、インフルエンザ、発疹チフスなどがアメリカ大陸に広まり、1世紀のうちに先住民の大きな割合が亡くなった。被害の大きい地域では人口の80〜90%ほどが失われたと推定する研究者も多いが、推定値には幅がある。梅毒は逆方向に伝わった可能性があるものの、その起源は今も議論されている。

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上級

記憶と記念:「発見」か、出会いか、侵略か?

1492年の受け止め方は大きく変化してきた。19世紀のアメリカ合衆国では、コロンブスは「発見」と進歩の象徴である英雄となった。後には、差別に直面していたイタリア系アメリカ人の誇りの象徴にもなった。1892年の400周年は広く祝われ、1937年にはコロンブス・デーが連邦の祝日となった。スペインでは10月12日が国民の祝日「フィエスタ・ナシオナル」であり、スペイン語圏を祝う「イスパニダの日」とも呼ばれる。ラテンアメリカの多くの地域では、長く「ラサの日」と呼ばれていた。

先住民や多くの歴史家は、こうした祝賀に異議を唱えてきた。1992年の500周年には抗議活動が行われ、別の形の記念行事も開かれた。カリフォルニア州バークレーはこの年に「先住民の日」を祝い始め、その後、アメリカ合衆国の多くの都市や州が続いた。2021年には、大統領が初めてコロンブス・デーと並んで先住民の日の宣言を出した。ベネズエラは2002年に10月12日を「先住民抵抗の日」と改称し、ほかのラテンアメリカ諸国も文化の多様性や文化間の対話を強調する名称を採用した。2020年には、アメリカ合衆国などでコロンブス像が倒されたり撤去されたりした。

この議論では言葉の選び方が重要である。「発見」という語はアメリカ大陸がそれまで知られていなかったかのような印象を与え、そこに暮らす人々を無視する。そのため多くの歴史家は「出会い」や「接触」を好み、先住民の活動家はしばしば「侵略」と呼ぶ。コロンブスを擁護する人々は航海上の功績を強調し、当時の基準で評価すべきだと主張する。批判する人々は、ラス・カサスのような同時代人もすでに彼の行為を非難しており、本人の記述からも当初から奴隷化を意図していたことがわかると反論する。こうした見方を並べると、なぜ10月12日が今も論争の的なのかを理解できる。

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上級

史料と学術上の論争

この航海の主な史料はコロンブスの航海日誌『ディアリオ』である。原本は失われ、数十年後にバルトロメ・デ・ラス・カサスが作った抄録が残っている。抄録には要約と引用が混在する。ラス・カサスはコロンブスに理解を示す編者であると同時に批判者でもあり、その抄録が原本をどこまで正確に伝えるかについて研究者の間で議論がある。ほかの史料には、コロンブスの1493年の手紙、息子フェルナンドの著作とされる伝記、王室文書、コロンブスの相続人と王室の訴訟における後年の証言がある。

コロンブスはどこに上陸したのか。グアナハニの候補として、6島以上が挙げられている。かつてワトリング島と呼ばれ、1925年に正式にサン・サルバドル島と改名されたバハマ諸島の島が、最も広く認められている候補である。一方、1986年に『ナショナル ジオグラフィック』が発表した研究はサマナ・ケイ島を候補とした。答えは『ディアリオ』に記された航路と距離をどう復元するかに左右される。

1492年のカリブ海地域には何人が暮らし、なぜ亡くなったのか。イスパニョーラ島の人口推定は数万人から数百万人まで大きく異なる。スペイン側の報告をどう読み、初期の人口減少をどう推計するかによって変わるためである。流行病が人口激減の大きな原因だったことには歴史家の間で合意がある。一方、アンドレス・レセンデスらは、とくに天然痘が1518年に到来する以前のカリブ海地域では、奴隷化と強制労働も少なくとも同じくらい重要だったと論じる。タイノ人の破壊をジェノサイドと呼ぶべきかも議論されている。虐殺、奴隷化、共同体を破壊した政策を根拠にその語を用いる研究者がいる一方、死者の多くは意図的ではない病気によって生じたことを重視する研究者もいる。こうした議論は、証拠と研究者が用いる定義の両方に関わる。

コロンブスの出自についても、カタルーニャ人、ポルトガル人、ガリシア人、ユダヤ系だったといった説が出されてきた。しかし、ジェノヴァの公証人記録や本人の発言を含む文書史料は、1451年ごろジェノヴァの毛織物職人の家に生まれたという学界の通説を裏づけている。

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重要なポイント

発見ではなく出会い
コロンブスが到達した島々には、独自の地名、政治、信仰を持つルカヤン人とタイノ人の社会があった。
誤った地理認識
コロンブスは地球の大きさを過小評価していた。ヨーロッパとアジアの間にはアメリカ大陸があった。
暴力と奴隷化
貢納の強制、強制労働、奴隷を得るための襲撃はコロンブス自身の統治下で始まり、タイノ人の共同体を破壊した。
人口の激減
病気、暴力、強制労働が重なり、カリブ海地域の先住民人口は壊滅的に減少した。
コロンブス交換
作物、動物、病気、人々が東西両半球の間を移動し、世界の食生活、経済、生態系を変えた。
生き残りと復興
タイノ人の祖先、言葉、食べ物、アイデンティティは現在のカリブ海地域にも受け継がれている。
議論のある歴史の記憶
10月12日は国によって祝われたり、別の名で呼ばれたり、抗議の対象になったりする。そこには1492年に対する異なる見方が表れている。

記録

  1. 1492年 — 1月2日:グラナダがイサベルとフェルナンドに降伏。4月17日:コロンブスとサンタ・フェ協約が結ばれる。
  2. 1492年 — 8月3日:船団がパロスを出発。10月12日:バハマ諸島のグアナハニに上陸。
  3. 1492年 — 12月25日:サンタ・マリア号がイスパニョーラ島沖で難破。グアカナガリの人々の助けを借りてラ・ナビダードの砦を築く。
  4. 1493年 — 3月15日:コロンブスがパロスに帰還。彼の手紙が印刷され、ヨーロッパ各地に広まる。9月:第2回航海が出発。
  5. 1494年 — イスパニョーラ島にラ・イサベラが建設される。トルデシリャス条約で新たな土地がカスティーリャとポルトガルに分けられる。
  6. 1495年 — 約1500人のタイノ人が捕らえられ、そのうち約500人が奴隷としてスペインへ送られる。
  7. 1498年 — コロンブスが第3回航海でトリニダード島と南アメリカ大陸に到達する。
  8. 1500年 — フランシスコ・デ・ボバディリャがコロンブスを逮捕し、鎖につないでスペインへ送る。
  9. 1503年 — ハラグアでタイノ人の指導者たちが虐殺され、カシケのアナカオナが処刑される。
  10. 1506年 — コロンブスがスペインのバリャドリードで死去する。
  11. 1512年 — ブルゴス法が先住民の扱いを規制する。アトゥエイがキューバで処刑される。
  12. 1972年 — アルフレッド・W・クロスビーが『The Columbian Exchange』を出版する。

用語集

タイノ人
ヨーロッパ人との接触が始まった時代に大アンティル諸島に暮らしていた、アラワク語系の言語を話す人々。
ルカヤン人
タイノ人に近縁のバハマ諸島の人々。コロンブスが最初に出会った先住民。
カシケ
タイノ人の首長。スペイン語を通じて、一般に地域の指導者を指す言葉にもなった。
セミ
タイノ人の信仰における精霊や祖先、またそれらを表す彫刻品。
カラベル船
探検航海のためにポルトガル人やスペイン人が発達させた、小型で速い帆船。
サンタ・フェ協約
コロンブスへの報酬を定めた、1492年のコロンブスとスペインの君主との合意。
エンコミエンダ
スペイン人入植者に先住民の集団の労働力を与える制度。名目上は、入植者が保護とキリスト教の教えを提供する見返りとされた。
コロンブス交換
1492年以降、アメリカ大陸と世界のほかの地域との間で植物、動物、病気、人々が移動したこと。
発見の法理
教皇勅書や王室文書に由来する、キリスト教徒のヨーロッパ人は非キリスト教徒が暮らす土地を領有できるという法的な考え。
ディアリオ
コロンブスの第1回航海の日誌。ラス・カサスの抄録を通してのみ知られている。

よくある質問

コロンブスはアメリカを発見したのですか?

無人の土地を見つけたという意味では、違います。アメリカ大陸にはすでに何百万人もの先住民が暮らし、北欧の船乗りも1000年ごろにニューファンドランド島へ到達していました。コロンブスの航海をきっかけに、アメリカ大陸とヨーロッパの継続的な接触が始まりました。

1492年の人々は地球が平らだと思っていたのですか?

いいえ。学問を学んだヨーロッパ人は地球が丸いことを知っていました。争点はその大きさで、コロンブスを批判した人々は、西へ航海してアジアに着くには遠すぎると正しく判断していました。

なぜアメリカ大陸の先住民は「インディアン」と呼ばれたのですか?

コロンブスがアジアを意味する「インド諸島」に到達したと思ったからです。彼は、ヨーロッパ人に知られていなかった土地に着いたとは生涯認めませんでした。

タイノ人はどうなったのですか?

病気、強制労働、暴力、奴隷化によって、数十年のうちに人口が激減しました。しかし現在も多くの子孫がカリブ海地域に暮らし、タイノ人としてのアイデンティティを取り戻す動きもあります。

コロンブス自身にも暴力の責任はあったのですか?

はい、重大な責任がありました。イスパニョーラ島の総督として金の貢納を課し、抵抗する共同体に武力を用い、タイノ人を奴隷としてスペインへ送りました。王室が彼を解任した理由の一つも、その統治への苦情でした。

タイノ人に起きたことをジェノサイドと呼ぶのは正しいですか?

研究者の意見は分かれています。虐殺、奴隷化、共同体の意図的な破壊を理由にその語を使う人がいる一方、多くの死者は病気によるものだったと重視する人もいます。この議論には、証拠とジェノサイドの定義の両方が関わります。

コロンブス交換とは何ですか?

1492年以降、アメリカ大陸と世界のほかの地域との間で作物、動物、病気、人々が移動したことです。世界各地の食生活、経済、人口を変えました。

コロンブスが最初に上陸したのは正確にはどこですか?

ルカヤン人がグアナハニと呼んでいた島です。現在のバハマにあるサン・サルバドル島と考える研究者が多いものの、サマナ・ケイ島など別の島を挙げる説もあります。

出典・参考文献

  1. Voyages of Christopher Columbus. Wikipedia
  2. Taíno. Wikipedia
  3. Columbian exchange. Wikipedia
  4. Capitulations of Santa Fe. Wikipedia
  5. Encomienda. Wikipedia
  6. Bartolomé de las Casas. Wikipedia
  7. Indigenous Peoples’ Day. Wikipedia
  8. Nathan Nunn, Nancy Qian, The Columbian Exchange: A History of Disease, Food, and Ideas. Journal of Economic Perspectives 24 (2), 2010
  9. Alfred W. Crosby, The Columbian Exchange: Biological and Cultural Consequences of 1492. Greenwood Press, 1972
  10. Andrés Reséndez, The Other Slavery: The Uncovered Story of Indian Enslavement in America. Houghton Mifflin Harcourt, 2016

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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