文化遺産

ナン・マドール

Nan Madol (Pohnpeian, “within the intervals”; remembered older name Soun Nan-leng, “Reef of Heaven”)

1180–1628年頃 · ポンペイ島テムウェン島(シャウテレウル朝)

ひとことで

ナン・マドールは、ミクロネシアのポンペイ島沖の礁湖上に玄武岩とサンゴで築かれた100近い人工島からなる遺跡で、12世紀ごろから17世紀初めまで島を統一していたサウデレウル王朝の儀礼・葬送・政治の中心地だった。

ナン・マドール
画像: NOAA · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

太平洋のまん中に、雨がたくさん降る緑の島、ポンペイ島があります。この島の東側の海岸のすぐ沖、サンゴ礁の上の浅い海に、人々は小さな島を何十個も作りました。もともとあった島ではなく、石とくだけたサンゴを一つずつ積み重ねて、自分たちで作ったのです。

小さな島と島の間には、海水が通る水路があります。まるで水でできた道のようです。潮が満ちると水路に水がいっぱいになり、人々はカヌーで島から島へ行き来できました。だからこの場所は「すきまの中」という意味の「ナン・マドール」と呼ばれています。

壁は、細長くて色の濃い石でできています。断面が五角形や六角形で、大きな鉛筆のように見えます。熱い溶岩がゆっくり冷えると、こうした柱の形に割れることがあります。作った人たちはこの石の柱を丸太小屋のように縦横に組み、真ん中にはくだけたサンゴを詰めました。

中には車ぐらい重い石もあり、もっと重い岩もあります。作った人たちには金属の道具も車輪もクレーンもありませんでした。おそらく石をいかだに乗せて礁湖を渡し、木の幹で作ったスロープや植物の繊維で編んだロープ、そして大勢の力を合わせて運んだのでしょう。

昔、ナン・マドールには「サウデレウル」と呼ばれる強い力を持つ支配者や神官たちが住み、身分の高い人々の墓もありました。ポンペイの言い伝えによると、支配者たちがだんだん欲深く残酷になっていったとき、イソケレケルという英雄が現れて、島の治め方を変えたそうです。

今のナン・マドールは世界遺産です。でも泥が少しずつ水路を埋め、植物が壁をおおっているので、大切に守らなければなりません。訪れるときは、ここが今もポンペイ島に暮らす人々の祖先が築いた場所だということを覚えておいてください。

ひと目でわかる

所在地
ミクロネシア連邦ポンペイ州マドレニウム自治体、ポンペイ島東部テムウェン島沖の礁原
規模
約1.5×0.5kmの城壁に囲まれた中心部に人工島92島(水路を含め約80ヘクタール)。周辺を含む考古学地区は18km²以上
材料
縦横交互に積んだ柱状節理の玄武岩、玄武岩の巨石、サンゴの砕石による埋め立て
年代
紀元1〜2世紀ごろから人の活動、紀元900年ごろに人工島の造成、紀元1180〜1200年ごろから巨石建造、サウデレウル統治の終わりは伝統的に1628年ごろとされる
建設者
サウデレウルによる島全体の統治体制のもとにあった、今日のポンペイの人々の祖先
主な区域
マドル・ポウェ(北東、神官の住居やナンダウアスなどの墓所の島々)とマドル・パ(南西、パンケディラなど支配者の居所)
保護
米国国家歴史登録財(1974年)、国定歴史建造物(1985年)。ユネスコ世界遺産「ナン・マドール:東部ミクロネシアの儀礼センター」(2016年)に登録され、同年に危機遺産リストにも加えられた

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ナン・マドールとは何か

ナン・マドールは、西太平洋のカロリン諸島にある火山島ポンペイの東側、テムウェン島に隣接する浅いサンゴ礁の上に築かれた人工島群である。石壁に囲まれた中心部は長さ約1.5キロメートル、幅約0.5キロメートルで、内部には石を積み上げてサンゴの砕石を詰めた台状の人工島92島が、潮の満ち引きで水位が変わる水路を挟んで点在する。周辺の海岸や外れの島々まで含めた考古学地区は、考古学者たちによれば18平方キロメートルを超えるという。

ポンペイ語の「ナン・マドール」は通常「すきまの中」あるいは「間の空間」と訳され、遺跡を縦横に走る水路を指している。古い名として「天の礁」を意味する「ソウン・ナンレン」も伝わっている。「太平洋のヴェネツィア」と呼ばれることもあるが、この比喩は誤解を招きかねない。ナン・マドールは、ふつうの人々が暮らす活気ある交易都市ではなく、支配者や神官、そして死者のための排他的な中心地だったからだ。

ナン・マドールは、ポンペイの口承史によれば島全体を初めて一つの権威のもとにまとめたとされる、サウデレウルという歴代の支配者たちの拠点だった。考古学によると、このサンゴ礁ではすでに紀元後まもない数世紀から人の活動があり、紀元900年ごろには人工島の造成が進められており、ナン・マドールを特徴づける玄武岩の柱を積んだ壁は紀元1180〜1200年ごろから立ち上がり始めた。ポンペイの伝承は、サウデレウルの没落と、今日まで続く首長制の始まりを、英雄イソケレケルの手によるものとして語っている。

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ナン・マドールの「読み方」

ナン・マドールを理解するいちばん簡単な方法は、遺跡を二つに分けて考えることだ。北東半分はマドル・ポウェと呼ばれ、58の人工島があり、その多くに神官の住居が、そして最も壮麗な墓所も置かれている。南西半分はマドル・パと呼ばれ、支配者やこれに仕える人々の区域で、支配者の居所とされるパンケディラ島もここにある。20世紀初めのドイツ人研究者たちは、ポンペイ人の協力者から得た説明をもとに、遺跡を墓所の区域・王の区域・神官の区域という三つに分けたが、その後の考古学調査もおおむねこの区分を裏づけている。

最も有名な島は、王の葬送のための島であるナンダウアスだ。高さおよそ5.5〜7.5メートルの玄武岩の柱の壁が中庭を囲み、その中央に墓の区画がある。伝承では最初のサウデレウルのために築かれたとされる。外壁を抜け、内壁を越えて初めて墓にたどり着くという構造そのものが、日常の世界から最も制限された神聖な空間へと移っていくことを物語っている。

ほかの島にもそれぞれ役割があった。ポンペイの伝承と考古学は、ダパフ島をカヌー造りと、ペイネリング島をココナツ油作りと結びつけている。イデト島では神官たちが供物とする神聖なウミガメを調理し、小さな囲いの中には人と神を結ぶ使いとされる神聖なウナギが飼われていた。支配者に届けられる食料は決まった島で受け取られ、初めはペイニオト島、後にはより近いウセンナムウ島がその役目を担った。

壁をよく見ると、その積み方が分かる。長い玄武岩の柱を、ある層では壁に沿わせ、次の層では壁に対して直角に置くというように交互に重ね、丸太小屋のように組んでいる。この「小口積みと長手積み」を交互に行う方式によって石どうしがかみ合い、頑丈になる。壁の内側にはサンゴや小石が詰められている。

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どうやって築かれたのか

ポンペイは火山島である。厚い溶岩がゆっくり冷えた場所では、細長く多角形の柱状に割れた柱状節理の玄武岩ができる。ナン・マドールのすぐ近くには柱状節理の玄武岩の産地がなく、柱の一本一本を本島から運ばなければならなかった。2016年に発表された建材の地球化学分析によって、ポンペイ島の反対側にある火山性の岩頸から来た玄武岩であることが確認され、少なくとも一部の石が長い距離を運ばれたことが分かった。

柱の多くは1〜5トンあり、ナンダウアスの背後にある護岸の岩の中には50トンに達すると見られるものもある。作った人々には家畜も金属の道具も車輪もなかった。20世紀初めのポンペイ人の協力者たちは、ドイツ人民族学者パウル・ハンブルッフに対し、重い石を木の幹、特にココヤシの幹で作った傾斜路の上へ、てことハイビスカスの繊維で作った縄を使って引き上げたと語った。多くの考古学者は、石はいかだに乗せて、おそらく満潮時に礁湖まで浮かべて運ばれたと考えている。

ポンペイの伝説は別の説明をする。石は魔法によって空を飛んで運ばれたというのだ。多くの民族が自分たちの最も偉大な建造物についてこうした話を伝えており、ポンペイの人々にとってこの伝説は創建者たちの神聖な力を表している。考古学者たちはむしろ、計画・採石・運搬・建設という、何世紀にもわたって島じゅうの人々が関わった膨大な労働組織を重んじる。

建設は一度に行われたわけではない。放射性炭素年代測定によると、紀元900年ごろから礁湖の上に低い基壇が築かれ始め、巨大な玄武岩の壁を積む本格的な巨石建造は紀元1180〜1200年ごろに始まって、その後も段階を経て何世紀にもわたり続いた。今日私たちが目にする姿は、何世代にもわたる建設と修復、増築の積み重ねの結果である。

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中級

サウデレウル──島全体の支配者

ポンペイの人々は自分たちの島の歴史を、人(あるいは建設)の時代、サウデレウルの時代、ナンムワルキの時代、そして外国人の時代に分けて考える。「サウデレウル」は普通「デレウルの主」と説明され、デレウルはポンペイ、あるいはその一部を指す古い呼び名である。サウデレウルの時代は、ただ一人の支配者が初めてポンペイ全体を治めた時期として記憶されており、最盛期の人口はおよそ2万5千人と推定されている。

創建の物語によると、神聖な力を持つ兄弟オリシパとオロソパが「西のカタウ」という土地からカヌーで来て、農業の神のための祭壇を建てる場所を探した。他所での何度かの失敗の後、テムウェン島沖の礁で成功し、オリシパが亡くなるとオロソパが最初のサウデレウルとなった。伝承では彼が土地の女性と結婚し、そこから歴代の支配者の系譜が続いたとされるが、その人数については伝承ごとに違いがあり、歴史家デイヴィッド・ハンロンは8人から17人までの説があると指摘している。

口承史によれば、サウデレウルは土地とその上にあるすべてのものを所有していた。各地区の首長が貢納を取りまとめ、庶民は実りの季節にはパンノキの実を、乏しい季節にはヤムイモ・タロイモ・保存加工したパンノキの実、それに魚などの海産物を差し出した。島は「ウェヒ」と呼ばれる三つの地区──東のマドレニウム、西のキティ、北のソケフス──に分かれていた。この語には「ウミガメ」という意味もある。ナン・マドールでは、首席顧問や食事の用意係、出入り口や住居の見張りなど、役目ごとに定められた称号の体系があった。

宗教はサウデレウルの権力の中心にあった。ナン・マドールの主要な祭祀は、ポンペイ固有の神である雷神ナン・サプウェをまつり、支配者たちはこの神から正統性を得ていた。神官たちが供物や占い、葬儀を執り行い、ウミガメの生贄の儀式と神聖なウナギが人と神々を結んでいた。伝承の中には、サウデレウルが自分たちの神への信仰をポンペイの人々に押し付けようとしたが、あまり成功しなかったと伝えるものもある。

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中級

ナン・マドールでの暮らし──切り離された中心地

ナン・マドールには真水も農地もない。食料の入ったかごも水の入った容器も、すべて本島からカヌーで運ばなければならなかった。これは、この場所の性格を示す最も強い手がかりの一つである。ナン・マドールは意図的に日常の世界から切り離されており、島の残りの部分が支えて初めて機能する場所だった。

考古学者たちは、一度に暮らしていた人はせいぜい1,000人ほど、あるいはその半分にも満たなかったのではないかと見積もっている。首長や神官もいたが、多くは彼らに仕える庶民だった。広く議論されている解釈の一つは、対抗し得る首長たちを自分の地区ではなくナン・マドールに住まわせることで、サウデレウルが潜在的な競争相手を身近で監視できたというもので、後世に世界各地で見られた「宮廷に貴族を住まわせる」やり方にしばしば比較される。

考古学者のジョイス・バスとJ・スティーヴン・アセンズは1990年、「都市」や「町」といった言葉は誤った印象を与えかねないと論じた。彼らの発掘調査では、ナン・マドールが工芸生産の中心地であったり、貢納物の保管・再分配の場であったりした証拠は見つからなかった。彼らはこれを、支配層が被支配層から物理的に切り離された場所──政治・宗教の中心地であり、何より葬送の中心地──と表現した。

各島から出た証拠は口承史の内容と一致する。手斧やすり石といった実用的な道具は神官の区域に集中し、儀式用のサカウ(カバ)を搗くための大きな石は主に墓の島々やパンケディラで見つかっている。イデト島には、ウミガメの骨を含む、焼けたサンゴの調理石の塚が高さ2メートルを超えて積み上がっており、ウミガメの儀式に関する伝承と一致するほか、小さな玄武岩の囲いは神聖なウナギの池に関する伝承と符合する。

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中級

イソケレケルとサウデレウル統治の終わり

ポンペイの口承史は、後期のサウデレウルをますます過酷になっていった支配者として記憶している。人々が飢えるまで税を取り立てた支配者や、強欲さと残虐さで悪名高い支配者の話が伝わり、少なくとも二件の暗殺の記録もある。学者たちはこうした話を、それぞれの支配者の実際の行いをそのまま記録したものというより、なぜ中央集権的な統治が拒まれ、その後の体制の方が優れているのかを説明する道徳的な歴史として読み解く。

王朝の没落はイソケレケルの物語として語られる。多くの伝承では、最後のサウデレウルが雷神ナン・サプウェの怒りを買い、神はしばしばコスラエ島と同一視される東方の地カタウへ逃れる。そこでナン・サプウェの子として生まれたイソケレケルは、自らの運命を知りながら育ち、333人の仲間とともにポンペイへ船出する。戦いの経緯は、公刊された伝承だけでも十数種類に分かれる。子ども同士のけんかが発端になったとする版、抑圧された現地の人々の助けを得たとする版、支配一族の女性の助けがあったとする版などがある。最後にはサウデレウルは内陸へ退き、伝承によれば小川で魚に姿を変えたという。

イソケレケルは「ナンムワルキ」の称号を得て、初めはナン・マドールに住んだ。彼は島をそれぞれ独自のナンムワルキを戴く自治的な首長領に分割し、それと並行するもう一つの首長の系譜「ナンケン」を設けた。それぞれの首長領に二つの序列の称号系統を置くこの二重首長制は、今日でもポンペイ社会の重要な部分であり続けており、現在ポンペイには五つの伝統的な首長領がある。

なぜナン・マドールは最終的に見捨てられたのだろうか。一つの説明は現実的なものである──島全体からの貢納をもはや受け取れなくなったナン・マドールのナンムワルキたちは、自分たちで水をくみ、食料を育てなければならなくなり、自分の地区へ戻っていったというものだ。急激な人口減少を指摘する説もある。あるポンペイの記録は、マドレニウムの五代目ナンムワルキの時代に台風と飢饉が原因で放棄されたと伝えている。19世紀に西洋人が訪れたころには、ナン・マドールはすでに居住の中心地ではなくなっていたが、一部の儀式は1800年代まで続けられていた。

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中級

外部の目──探検家から「失われた大陸」説まで

ヨーロッパ人がポンペイについてある程度詳しく記録したのは、1828年にフョードル・リトケ率いるロシアの探検隊が訪れたときが最初で、隊員のF・H・フォン・キトリッツが沖合の遺跡について記述した。1836年には、イギリスの快速帆船ランブトン号に乗っていた船医キャンベルが、この遺跡の古さをピラミッドになぞらえながらも、ポンペイの人々はその起源について何も知らないと結論づけた。歴史家デイヴィッド・ハンロンが指摘するように、キャンベルが実際に出会ったのは無知ではなく、言葉の壁と、神聖な知識について語ることを禁じる文化的な慣習だった。1874年、ポーランド人博物学者ヤン・スタニスワフ・クバリが初めてナン・マドールを詳しく記述し、1895年にはイギリス人人類学者F・W・クリスチャンが調査を行い、20世紀初めにはドイツ人民族学者パウル・ハンブルッフが遺跡を測量し、ポンペイの協力者たちの証言を記録した。

ハンロンは、19世紀の来訪者たちが遺跡の規模を繰り返し誇張し、当時の人種理論を通してそれを読み解き、太平洋の島民がこれほど大規模なものを築けたはずがないと信じようとしなかったことを明らかにしている。ナン・マドールはA・メリットの冒険小説『月の池』(1918年)の舞台となり、後にはクトゥルフ神話の物語群にも着想を与えた。1926年には作家ジェームズ・チャーチワードが、この遺跡を架空の沈んだ大陸「ムー」の名残だと主張したが、こうした説に科学的根拠はまったくない。

こうした考え方は今も続いている。2022年、あるテレビ番組がナン・マドールの年代について事実に反する主張を放送すると、太平洋考古学・地理学の専門家たちはこれを、遺跡を築いたポンペイの祖先たちへの侮辱であり、19世紀の人種主義的な思考と地続きだと批判した。沖合に沈んだ都市があるという噂も水中調査によって検証された。1988〜89年と2013年の調査では、水中の「柱」とされたものが自然にできたサンゴの塊や崩れ落ちた建材であり、近くのブルーホールも礁のサンゴ岩にできた自然の陥没穴であることが確かめられた。

そこから得られる教訓は明快だ。ナン・マドールは、消え去った異邦人が残した謎などではない。それは今も島に暮らし、ナン・マドールの歴史から生まれた首長の称号を今なお受け継ぎ、その物語を語り継いでいるポンペイの人々の子孫たちの、祖先の成し遂げた業績なのである。

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今日の保護と脅威

ナン・マドールは、ポンペイが米国統治下の太平洋諸島信託統治領の一部だった1974年に米国国家歴史登録財に登録され、1985年には国定歴史建造物に指定された。遺跡から出土した遺物は、2012年に閉館するまでリドルキニ博物館に展示されていた。

2016年、ユネスコは「ナン・マドール:東部ミクロネシアの儀礼センター」を、基準(i)・(iii)・(iv)・(vi)のもとで世界遺産に登録した。これは、人類の創造性の傑作であること、失われた文化的伝統の証であること、卓越した建築様式であること、そして今も生きている伝統や信仰と結びついた場所であることを認めたものだ。同じ年に、危機遺産リストにも加えられた。

危機遺産に指定された理由として挙げられているのは、水路に絶えず堆積する土砂である。この堆積が植物の過剰な繁茂を招き、既存の構造物の基盤を崩している。つまり、かつてナン・マドールを特徴づけていた水路は少しずつ埋まりつつあり、モルタルを使わずに積まれた壁の中に植物が入り込んでいるのだ。したがって保存の作業は、石組みを修復するだけでなく、遺跡全体にわたって水や堆積物、植生を管理することも含んでいる。

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年代測定──放射性炭素、サンゴ、そして「1628年」問題

ナン・マドールの年代を明らかにすることは、1977年にウィリアム・S・エアーズが率いるオレゴン大学のポナペ考古学調査(Ponape Archaeology Survey)が始まって以来、ポンペイ考古学の中心的な課題であり続けてきた。人工島の埋め立て層から得られた放射性炭素試料は、紀元後まもないころから海岸や砂州、あるいは礁の上の高床式家屋に人が暮らしていたことを示しており、人の活動そのものは紀元後80〜200年ごろと測定されている。低い基壇の建設は紀元900年ごろに始まった。エアーズによるパンケディラの発掘では、本格的な巨石建造ではなかった可能性のある紀元900〜1100年ごろと、巨石建造が行われた紀元1300〜1500年ごろという、二つの主要な建設段階が確認された。

バスとアセンズは1990年、巨石建造とイデト島のウミガメの儀式をサウデレウル時代を特徴づける指標とみなすなら、その始まりは紀元1200年ごろだと論じた。1965年のスミソニアンによる発掘調査ではイデトの調理石塚を紀元1200〜1400年ごろと測定していたが、彼ら自身の測定は1200年ごろの始まりを裏づけつつ、終わりの時期は1500〜1600年代へと下げた。決定的な精密化がもたらされたのは2016年で、マーク・マッコイらの研究チームが、ナンダウアスにある最初の島全体の首長の墓から採取したサンゴに高精度のウラン・トリウム(230Th/U)年代測定を適用し、あわせて玄武岩の産地を地球化学的に追跡した。その結果、ナン・マドールにおける記念建造物の建設開始は紀元1180〜1200年と判明した。これは、紀元1300〜1600年にかけて相次いだ太平洋のほかの島々における記念建造物の建設よりも早い時期にあたる。

よく知られる「1628年ごろ」という終焉の年代は、慎重に扱う必要がある。これは直接観察された出来事ではないからだ。アセンズは1984年、完全なものと仮定したマドレニウムのナンムワルキ22代の系譜に、推定された平均在位期間を当てはめてこの年を算出した。口承の記録は概して、サウデレウルの没落をそれより早い1500年代に置く傾向がある。したがって1628年という数字は、根拠のある推定値にすぎず、実際の移行はひとつの征服よりもっと緩やかなものだった可能性がある。

この年代の問題は、東部ミクロネシアのもう一つの巨大な玄武岩壁の遺跡、コスラエ島のレル(レルー)との関係にも関わってくる。ポンペイの伝承はナン・マドールの建設者たちをコスラエと結びつけ、イソケレケルの物語もコスラエをサウデレウルの没落と結びつけている。しかし放射性炭素の証拠によれば、ナン・マドールはレルより古く、影響は少なくとも部分的には、コスラエからポンペイへではなく、ポンペイからコスラエへと流れた可能性が高いことを示している。

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上級

口承と考古学──誰の真実か

ナン・マドールは、考古学が口承伝承をどう扱うべきかをめぐる議論の代表的な事例である。サウデレウルについて知られていることの多くは、ポンペイ人自身による記録に由来する。ポンペイ人ルーレン・ベルナートが長年かけて著し、1977年に英訳が出版された『ルーレンの書』、その孫マサオ・ハドレーによる未刊行の記録、そしてハンブルッフやソール・リーゼンバーグといった民族誌学者たちが残した記録がそれにあたる。バスとアセンズは、ポンペイの慣習が秘伝の知識を部外者に伝えることを控える傾向にあるため、こうした詳細な記録がとりわけ貴重だと指摘した。

バスとアセンズは、口承伝承から導かれる9つの考古学的な予測を検証した。遺跡の位置、神官・首長・葬送の区域分け、イデト島のウミガメ調理の痕跡とウナギの囲い、パラカプウ島のU字形の集会所、そしてキティのサプタカイやマドレニウムの内陸に同じ柱状節理の玄武岩様式で築かれた付属の中心地など、いくつかは裏づけられた。一方、二人の創建の兄弟の生きた時代のうちにナン・マドールが築かれたという伝承は裏づけられなかった。考古学は、サウデレウル時代よりずっと以前から始まる長く緩やかな居住の歴史を示している。

ポンペイのウェネ地区で口承伝承を記録した人類学者スザンヌ・ファルガウトは、問題は単に口承伝承が「真実かどうか」ではないと論じた。ポンペイの人々にとって重要な知識は特定の人物や称号と結びついており、厳しく制限され、伝わっていく過程で慎重に管理・編集される。多少異なる版が存在するのはむしろ当然なのだ。誰がその知識を持ち、なぜそれを分かち合うのかを理解することが、その知識を評価する作業の一部となる。知識のあるポンペイの人々の案内を受けた彼女の現地調査によって、それまで知られていなかった数十の遺跡が新たに記録された。

歴史家デイヴィッド・ハンロンは、19世紀のヨーロッパ・アメリカ人によるナン・マドールへの初期の「まなざし」を扱った1990年の論文で、当時の船医、漂着者、博物学者、人類学者たちが、誇張された測量値、体裁は整っているが不正確な地図、そして「失われた種族」説を生み出したこと、そしてそれがポンペイそのものよりも彼ら自身の時代について多くを物語っていることを明らかにした。彼は、考古学者もまた自分たちが持ち込む概念が何をどう見るかを規定していることを自覚すべきだと論じた。これらの研究は、ナン・マドールを謎めいた対象として扱う見方から離れ、ポンペイの歴史・言語・社会組織を通じてこれを読み解き、ポンペイの人々を自分たち自身の過去についての権威として認めるという、太平洋考古学における広い潮流の変化を映し出している。

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上級

集権化と分権化──ナン・マドールが首長社会について教えてくれること

ポンペイの口承史は、社会理論家にとって珍しい過程を伝えている。島全体を包括していた中央集権的な体制(サウデレウル)が、より大きな国家にではなく、複数の小さな自治的首長領(ナンムワルキ体制)に取って代わられたのである。バスとアセンズはこれを「サウデレウルからナンムワルキへの変容」と呼び、これが社会の複雑さの実際の後退なのか、それとも再編にすぎないのかを問うた。彼らは、小規模な神権政治の力をエリートによる威信財の統制に結びつけたジョナサン・フリードマンのモデルと、社会階層の数を人口や領土に結びつけたロス・コーディのモデルを検討した。

考古学的には、分権化していく社会には、中心地の放棄、エリートの葬送記念物の終焉、工芸生産の組織の変化といった痕跡が見られると予想される。ナン・マドールの最終的な放棄、サプタカイ(おおよそ紀元1325〜1700年に居住)のような内陸中心地の建設、そしてナンムワルキ時代における集会所(ナフス)の発達は、いずれもこの問題に関わっている。バスとアセンズはまた、後世の伝承が語るほどにはサウデレウル体制が実際には強く集権化されていなかった可能性があるとも警告した。たとえば西部のキティ地区は、東部の権威に逆らうことで知られていた。

より広い比較の枠組みの中で、マッコイらの研究チームは、権威のあり方の変化を示す指標としてしばしば扱われる記念建造物の建設が、太平洋の遠隔の島々でいつ最初に現れたのかを、ナン・マドールを手がかりに特定した。その年代の早さゆえに、ナン・マドールはオセアニア全域における首長権力の台頭を研究するうえでの重要な基準点となっている。

学者の間では、なお多くの点で意見が分かれている。サウデレウルが何代続いたのか、その統治が実際にどれほど集権的だったのか、イソケレケルによる征服が島全体に及んだのか、それとも人類学者ピーターセンが1990年に提案したように主にマドレニウムに限られていたのか、そして何がナン・マドールでの居住の終焉をもたらしたのか。こうした未解決の問いこそが、太平洋の社会がいかに政治の世界を築き、そして築き直してきたかを理解するうえで、この遺跡がこれほど重要である理由の一部なのである。

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重要なポイント

人工島
ナン・マドールの92の島々は、浅い礁の上に玄武岩を積み、内部をサンゴの砕石で埋めて築かれ、潮の水路によって隔てられている。
柱状節理の玄武岩
自然にできた多角形の溶岩の柱を、長手と小口を交互に組む方式で積み、高く頑丈な壁を築いた。
切り離された中心地
水も農地もないナン・マドールは島の残り全体に依存しており、支配者と神官を庶民から物理的に隔てていた。
葬送のための記念建造物
最大の労力はナンダウアスのような墓の島々に注がれ、ナン・マドールは何よりもまず尊ばれた死者の場所だった。
サウデレウルからナンムワルキへ
ポンペイの歴史は、島全体を治める一人の支配者から、二重の首長系統を持つ複数の首長領への移行を記憶しており、この制度は今日まで続いている。
証拠としての口承史
慎重に検討すれば、ポンペイの伝承は多くの考古学的発見と一致するが、建設の速さなど一部の点では食い違う。
「謎」神話への反論
失われた大陸や外部の建設者に関する主張には科学的根拠がなく、ポンペイの祖先たちの業績を消し去るものである。

記録

  1. 1年頃 — 人工島の埋め立て層の放射性炭素年代によると、テムウェン島沖の礁での最も早い居住が確認される。
  2. 900年頃 — 礁の上での低い基壇と人工島の造成が進められている。
  3. 1180年頃 — 巨石建造が始まる。ナンダウアスの最初の首長の墓のサンゴは紀元1180〜1200年と測定されている。
  4. 1300年頃 — パンケディラなどで柱状節理の玄武岩による建設の主要な段階(紀元1300〜1500年ごろ)。
  5. 1628年頃 — イソケレケルの征服後、サウデレウル統治が終わりナンムワルキ時代が始まったとされる推定年(口承では1500年代とされる)。
  6. 1828年 — フョードル・リトケ率いるロシアの探検隊がポンペイを訪れ、F・H・フォン・キトリッツが遺跡を記述する。
  7. 1874年 — ヤン・スタニスワフ・クバリが初めてナン・マドールを詳しく記述する。
  8. 1911年 — パウル・ハンブルッフによる遺跡の地図が発表され、墓所・王・神官の区域に分けられる。
  9. 1977年 — オレゴン大学によるポナペ考古学調査が体系的な研究を開始する。
  10. 1985年 — 米国国定歴史建造物に指定される。
  11. 2016年 — ユネスコ世界遺産と危機遺産リストの両方に登録される。

用語集

ポンペイ
東部カロリン諸島にある火山島。現在はミクロネシア連邦の一州。
サウデレウル
口承史によれば、初めてポンペイを統一しナン・マドールから統治した歴代の支配者の称号。
ナンムワルキ
ポンペイの各首長領における最高位の首長の称号。最初に名乗ったのはイソケレケル。
ナンケン
各首長領における第二の、並行する首長の称号系統で、ポンペイの二重首長制を成す。
ウェヒ
ポンペイの地区・首長領。「ウミガメ」という意味もあり、ウミガメの生贄にまつわる起源譚と結びつく。
柱状節理の玄武岩
溶岩がゆっくり冷える過程で、細長い多角形の柱状に割れた火山岩。
ナンダウアス
マドル・ポウェにある王の葬送のための島。ナン・マドールで最も高い壁を持つ。
パンケディラ
マドル・パにあり、伝統的に支配者の居所とされる島。
サカウ
カバのポンペイ語名。コショウ科植物の根を搗いて作る儀式用の飲み物。
ウラン・トリウム年代測定
サンゴなどの物質に含まれるウランがトリウムへと崩壊する度合いを測って年代を求める方法。

よくある質問

ナン・マドールを築いたのは誰ですか?

今日のポンペイの人々の祖先です。ミクロネシアの外から来た人々が築いたという証拠はなく、失われた大陸に関する主張は疑似科学です。

機械もなしに、あれほど重い石をどうやって運んだのですか?

いかだに乗せて礁湖を渡し、木の幹で作った傾斜路の上を、てことロープを使って大勢の人が力を合わせて引き上げた可能性が高いと考えられています。ポンペイの伝説では、石は魔法によって空を飛んで運ばれたとされています。

そこには大勢の人が住んでいたのですか?

いいえ。一度に暮らしていたのはおそらく多くても1,000人ほどで、首長や神官、そしてその従者たちでした。それ以外の人々は本島に住み、カヌーで食料と水を送っていました。

1628年という年代は確かなものですか?

いいえ。これは、後の時代の首長の系譜に基づく平均在位期間から計算された数字です。口承伝承ではサウデレウルの没落をそれより早い時期に置く傾向があり、考古学的な年代測定も、変化がより緩やかだった可能性を示しています。

なぜナン・マドールは危機遺産リストに登録されているのですか?

水路に土砂が絶えず堆積し続けているため、植物が島々を覆い、石造りの構造物の基盤を崩しているからです。

イソケレケルの物語は歴史としてどこまで信頼できますか?

この戦いについては、少なくとも13種類の異なる版が公刊されています。多くの学者はこれらを、歴史的な出来事に基づきながらも、時代とともに道徳的・政治的な意味づけによって形作られてきたものと見ており、征服が主にマドレニウムに限られていたとする説もあります。

コスラエ島のレルとは関係がありますか?

どちらも東部ミクロネシアにある玄武岩壁の遺跡で、伝承もポンペイとコスラエを結びつけています。放射性炭素年代測定によれば、ナン・マドールの方が古く、ポンペイからコスラエへ影響が及んだ可能性が高いことを示しています。

出典・参考文献

  1. Nan Madol. Wikipedia
  2. Saudeleur dynasty. Wikipedia
  3. Isokelekel. Wikipedia
  4. Pohnpei. Wikipedia
  5. List of World Heritage in Danger. Wikipedia
  6. Mark D. McCoy, Helen A. Alderson, Richard Hemi, Hai Cheng, R. Lawrence Edwards, Earliest direct evidence of monument building at the archaeological site of Nan Madol (Pohnpei, Micronesia) identified using 230Th/U coral dating and geochemical sourcing of megalithic architectural stone. Quaternary Research 86(3), 2016
  7. Joyce E. Bath, J. Stephen Athens, Prehistoric Social Complexity on Pohnpei: The Saudeleur to Nahnmwarki Transformation. Micronesica Suppl. 2, 1990
  8. Suzanne Falgout, Getting to the Truth of the Matter: Prospects and Limitations of Oral Traditions for Archaeological Interpretation in Pohnpei, Micronesia. Micronesica Suppl. 2, 1990
  9. David Hanlon, ‘The Pleasure of Speculation and Conjecture’: Early Euro-American Visions of Nan Madol and their Relevance to Post-Modern Archaeological Investigations. Micronesica Suppl. 2, 1990

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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