歴史

イブン・ハルドゥーン

ابن خلدون (ʿAbd al-Raḥmān ibn Muḥammad ibn Khaldūn)

1377年 · カラート・イブン・サラーマ(アルジェリア、フレンダ近郊)

ひとことで

イブン・ハルドゥーンは14世紀の北アフリカの学者・政治家で、王朝が興り滅びる背後に隠れた法則を見いだそうとし、その考えを『ムカッディマ』という有名な書物にまとめた。

イブン・ハルドゥーン
画像: Reda Kerbush · CC BY-SA 4.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

イブン・ハルドゥーンは1332年、北アフリカの都市チュニスで生まれました。一族はスペインのセビリア出身で、誇り高く教養のある家柄でした。少年の頃、父や名高い先生たちからクルアーン、詩、法学、数学を学びました。

10代の頃、黒死病という恐ろしい病気が世界中に広がりました。この病で母も父も、そして多くの先生も亡くなりました。イブン・ハルドゥーンは、にぎやかで人であふれた世界がどれほど早く空っぽになりうるかを、生涯忘れませんでした。

大人になると、彼は王や君主たちのために働きました。手紙を書き、使いをし、時にはトラブルに巻き込まれて牢に入れられることもありました。彼の時代には王がとても目まぐるしく入れ替わり、彼はそれをすぐそばで見つめていました。

40代になると、彼は今のアルジェリアの丘にある小さな城にこもり、静かに暮らしました。そこで大きな問いを立てました。なぜある集団は国を築けるほど強くなり、その国はなぜ数世代のうちに弱くなってしまうのか、と。その答えをまとめたのが『ムカッディマ』、つまり「序説」という書物です。

彼は、砂漠で厳しい暮らしを送る人々は丈夫な縄のように固く結びついていると述べました。この結びつきを彼は「アサビーヤ」と呼びました。この結びつきのおかげで彼らは権力を手に入れますが、都市に移り住んで豊かになり、生活が楽になると、縄は少しずつほどけていき、別のもっと屈強な集団が取って代わります。それはまるで、回り続ける車輪のようです。

その後、彼はエジプトのカイロに移り、裁判官であり教師になりました。70歳近くになった頃には、ダマスカスの城外で恐るべき征服者ティムールに直接会うことさえありました。1406年、カイロで世を去りました。

ひと目でわかる

生没年
1332年5月27日~1406年3月17日
生誕地
チュニス(ハフス朝スルタン国、現在のチュニジア)
没地
カイロ(マムルーク朝、現在のエジプト)
家系
バヌー・ハルドゥーン家。長らくセビリア(アル=アンダルス)に住み、13世紀に北アフリカへ移ったアラブ系の家柄
経歴
宮廷書記、外交官、大臣、教師、カイロのマーリク派大法官(カーディー)
主著
世界史『キターブ・アルイバル』とその序説である『ムカッディマ』(初稿は1377年、現在のアルジェリアのカルアト・イブン・サラーマで完成)
言語
アラビア語
中心概念
アサビーヤ(集団的結束)と、およそ三世代にわたる王朝の興亡

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イブン・ハルドゥーンとは誰か

アブド・アッラフマーン・イブン・ムハンマド・イブン・ハルドゥーンは、1332年5月27日にチュニスで生まれ、1406年3月17日にカイロで没した。彼が生きたのはイスラーム世界の西方、すなわちマグリブ(北アフリカ)とアル=アンダルス(イスラーム支配下のイベリア半島)であり、この地域では数多くの小王朝が権力を争っていた。彼は学者であると同時に、公文書を書く書記であり、外交官であり、教師であり、裁判官でもあった。

彼が何よりもよく記憶されているのは『ムカッディマ』(「序説」)による。これは彼が『キターブ・アルイバル』(「教訓の書」)と名づけた、非常に大部な世界史の冒頭部分である。『ムカッディマ』の中で彼は、歴史を戦いと統治者の一覧としてではなく、人間社会の規則性の結果として説明しようとした。人々がいかに共同生活を営み、生計を立て、集団を形成し、国家や都市を築き、そして再び力を失っていくか、という規則性である。

このため、現代の論者たちは彼をしばしば社会学・経済学・歴史哲学の先駆者と呼んできた。こうした呼び方は彼の独創性を示すのに役立つ一方で、誤解を招くこともある。イブン・ハルドゥーンはあくまで14世紀の人であり、当時の学問的伝統の内側で活動したムスリムの法学者であり思想家であった。

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チュニスでの成長と黒死病の衝撃

イブン・ハルドゥーンの一族バヌー・ハルドゥーン家は、南アラビアのハドラマウト出身のアラブ系の血筋を称していた。この一族は何世紀にもわたりセビリアに住み、要職を占めていたが、13世紀にキリスト教国カスティーリャがセビリアを征服すると、北アフリカへ移り、チュニスのハフス朝の君主に仕えた。

少年時代、彼は伝統的な教育を受けた。父から学ぶかたわら、クルアーン、アラビア語と詩、ハディース(預言者の言行の伝承)、そして北アフリカで主流であったマーリク派の法学を修めた。また、学者ムハンマド・イブン・イブラーヒーム・アルアービリーのもとで論理学、数学、哲学を学び、後に彼を当代随一の理性諸学の師と称賛した。

1348~49年、イブン・ハルドゥーンが16歳ほどの頃、黒死病がチュニスに到達した。両親と多くの師がこれで命を落とした。彼は後に『ムカッディマ』の中で、この疫病を都市を空にし、世界の姿をすっかり変えてしまった出来事として書き記している。多くの歴史家は、この経験が、文明はなぜ栄え、なぜ衰えるのかという彼の関心を形づくったと考えている。

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宮廷を渡り歩く人生――出世、投獄、危険

20歳ごろ、イブン・ハルドゥーンはチュニスの書記局で公文書を書く仕事を始めた。その後の20年ほどの間、彼は互いに競い合う統治者たちの宮廷、すなわちフェスのマリーン朝、グラナダのナスル朝、ベジャイアやトレムセンの支配者のもとを転々とした。手紙を書き、大臣や侍従長を務め、アラブやベルベルの諸部族の間を回って兵を募り、税を集めた。

危険な人生であった。フェスでは陰謀を企てたとして告発され、1357年から2年近く投獄された。1364年、グラナダのナスル朝スルタン、ムハンマド5世は、彼を先祖が去った町セビリアへ、カスティーリャ王ペドロのもとへ使節として送った。イブン・ハルドゥーン自身の記述によれば、ペドロは、仕えるならば一族の旧領を返すと申し出たが、彼はこれを断った。

彼は統治者が倒れ、大臣が首をはねられ、部族が寝返る様子を繰り返し目の当たりにした。40代になる頃には政治に疲れていた。1375年、彼は家族とともに、現在のアルジェリア西部の丘にある要塞カルアト・イブン・サラーマへ、アウラード・アリーフ族の庇護のもとに退いた。その静けさの中で、彼は執筆を始めた。

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やさしい

『ムカッディマ』――歴史の背後にある法則についての書

イブン・ハルドゥーンは、アラブ人、ベルベル人、そして同時代の他の諸民族の歴史を書こうと計画していた。その物語を語る前に、彼は歴史の記録をどう判断すべきかを説明したいと考えた。多くの先行する歴史家は、彼の言うところでは、ありえないことであっても、読んだことをそのまま書き写していた。彼が挙げた一例は、モーセに率いられたイスラエルの民が60万の軍勢を擁していたという記録である。彼は、その土地と資源ではそれほどの人数を養うことはできなかったはずだと論じた。

こうした記録を検証するには、歴史家は人間社会の本質、すなわち彼が「ウムラーン」(おおよそ「文明」あるいは「社会組織」の意)と呼んだものを理解しなければならないと彼は言う。彼はこれを扱う新しい学問を打ち立てているのだと信じていた。『ムカッディマ』はその学問を体系立てて示そうとした試みである。

彼は初稿を非常に速く書き上げ、自身の言によれば1377年に約5か月で完成させた。その後もチュニス、そして後にはカイロで、生涯にわたって改訂と加筆を続けた。

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中級

『ムカッディマ』の構成

序文と、歴史の価値および歴史家たちの誤りを論じた序論に続き、『ムカッディマ』は六つの章に分かれている。第1章は人間社会一般とその地理的条件、とりわけ気候が人間に及ぼす影響を扱う。第2章は「バダーワ」、すなわち遊牧民や農村民の生活を扱う。最も長い第3章は、王朝、王権、カリフ制、官職について論じる。

第4章は「ハダーラ」、すなわち定住文明、都市と建築を扱う。第5章は農業・商業・手工業・労働の価値など、人々が生計を立てる方法を論じる。第6章は、クルアーン学、ハディース学、法学から、哲学、数学、医学、錬金術、言語や詩の教育に至るまで、当時の諸学問と教育を概観する。

この順序は意図的なものである。人間の生活の最も単純な形から最も複雑な形へ、すなわち砂漠から王朝へ、王朝から都市へ、都市からその手工業へ、そして最後に、彼が定住文明の最高の産物と見なした諸学問へと進んでいく。

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中級

アサビーヤと王朝の循環

『ムカッディマ』の中心概念はアサビーヤであり、フランツ・ローゼンタールはこれを英語で「集団感情(group feeling)」と訳した。それは、現実の、あるいは想像上の血縁関係にもとづいて集団を一つに結びつける連帯感である。イブン・ハルドゥーンは、これが砂漠や山地で厳しい生活を送る人々の間で最も強いと論じた。生き延びるために互いに頼らざるをえないからである。強いアサビーヤを持つ集団は、とりわけ宗教によって結びついている場合、定住地を征服し、王朝を打ち立てることができる。

しかし、いったん権力を握ると、支配集団は都市に落ち着き、贅沢を享受するようになる。統治者は血縁者ではなく、雇われた兵士や取り巻きに頼るようになり、かつての結束は弱まっていく。イブン・ハルドゥーンは、王朝はふつうおよそ三世代、約120年続くと述べた。第一世代は砂漠の生活の屈強さを保ち、第二世代は権力の実りを享受し、第三世代は古い美徳を忘れてしまう。やがて、周縁からより強いアサビーヤを持つ新たな集団が現れ、取って代わる。

このモデルは、ムラービト朝やムワッヒド朝、さらにその後継王朝といったベルベル系の王朝が次々と交代した北アフリカの現実によく合致していた。これは個々の英雄ではなく社会的な力を中心に据えたモデルであり、宗教を成功の唯一の原因としてではなく、集団の結束を大きく増幅させる力として扱っている。

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中級

都市、労働、税――イブン・ハルドゥーンの経済思想

イブン・ハルドゥーンは経済生活にも綿密な注意を払った。彼は、人間の労働が富と利益の源であり、財の価値はおおむねそこに投じられた労働を反映すると論じた。大きな都市では、人々が分業し協力し合うことができるため、必要とする以上のものを生み出し、それが贅沢品や手工業、諸学問を生み出すと彼は指摘した。

最もよく引用される観察の一つは、課税に関するものである。王朝の初期には税率が低いにもかかわらず税収は多い、と彼は書いている。人々が進んで働き、取引をするからである。後になって統治者が贅沢に慣れると、税率を上げ、新たな税を作り出す。すると人々は働く意欲を失い、税収の総額はかえって減っていく。現代の経済学者たちはこれを「ラッファー曲線」になぞらえてきたが、これは現代的な比喩であって、直接の影響関係ではない。

彼はまた、統治者自身が商売に手を出したり、私有財産を奪ったりすることにも批判的であった。そうした行為は事業への意欲をくじき、最終的には国家が依拠している繁栄そのものを損なうからである。

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中級

カイロの裁判官、そしてティムールとの会見

1378年、イブン・ハルドゥーンはチュニスへ戻り、そこで自らの歴史書のある版を完成させた。しかし宮廷の対立によってすぐに立場が居心地の悪いものとなり、1382年、表向きはメッカ巡礼を名目にエジプトへ旅立った。彼は残りの生涯を、当時イスラーム世界で最も大きく豊かな都市であった、マムルーク朝の下のカイロで過ごした。

1384年、スルタン・バルクークは彼をマーリク派の大法官(カーディー)に任命した。同じ年、チュニスから彼のもとへ向かっていた妻子は、船が難破して命を落とした。彼はマドラサで教え、アズハルでも講義を行い、1387年にはメッカ巡礼を果たした。よそ者らしい厳格な裁判のやり方は敵を作り、彼は何度も解任と再任を繰り返し、通算六度にわたり大法官の職に就いた。

1400~01年、彼は中央アジアの征服者ティムールに対抗するシリア遠征に赴くマムルーク軍に同行した。ダマスカスが包囲されている間、彼は城壁から縄を伝って下ろされ、数週間にわたりティムールの陣営に滞在した。自伝の中で彼は、歴史や統治者についての二人の会話を記しており、ティムールのために北アフリカについての記述を書いたとも述べている。彼はカイロに戻り、六度目の大法官就任からほどない1406年にそこで世を去った。

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中級

著作

イブン・ハルドゥーンの大著は、通常『キターブ・アルイバル』と略される長大な題名の世界史書である。これは三つの部分からなる。『ムカッディマ』、ペルシア人やビザンツ人など近隣諸民族を含むアラブ人の歴史、そしてベルベル人とマグリブ諸王朝についての詳細な歴史である。最後の部分は、今なお中世北アフリカ史研究における最も重要な史料の一つである。

彼はまた、『タァリーフ』として知られる自伝も残しており、死の直前まで書き加え続けた。中世アラビア語文学の中でも最も充実した自伝の一つに数えられる。若い頃には、ファフルッディーン・ラーズィーの神学書の要約を書き、1373年頃には、求道者に師が必要かどうかを論じたスーフィズムの論考『シファー・アッサーイル』を著した。

彼の生前に書き写された『ムカッディマ』の写本も現存しており、その中にはイスタンブールのアーティフ・エフェンディ図書館にある、彼自身の書き込みを含む一本がある。これらは、彼が改訂を重ねるにつれてテキストが次第に膨らんでいったことを示している。

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中級

影響と再発見

マムルーク朝下のエジプトで、イブン・ハルドゥーンには歴史家アル=マクリーズィーをはじめとする弟子がいたが、彼の理論はただちに一つの学派を生み出したわけではなかった。最も強い初期の反応はオスマン帝国から起こった。17世紀以降、キャーティプ・チェレビや歴史家ナイマといったオスマンの著述家たちは、国家の生涯周期についての彼の考えを用いて、自らの帝国の問題を考察した。『ムカッディマ』は18世紀にピーリーザーデ・メフメト・サーヒプによって一部がオスマン・トルコ語に訳され、19世紀にアフメト・ジェヴデト・パシャが翻訳を完成させた。

ヨーロッパの学者たちが彼を知るようになったのは19世紀のことである。フランスの東洋学者ウィリアム・マッグッキン・ド・スラーヌは1862~68年に『ムカッディマ』のフランス語訳を出版し、1958年にはフランツ・ローゼンタールによる英語の完訳が現れた。20世紀の論者たちは彼をマキャヴェッリ、ヴィーコ、モンテスキュー、コント、マルクスと比較し、歴史家アーノルド・J・トインビーは『ムカッディマ』をこの種の著作の中でも最も偉大なものの一つと称賛した。

今日、イブン・ハルドゥーンはチュニジアの国民的象徴であり、チュニス中心部には彼の像が立っている。アラブ世界、トルコ、ヨーロッパをはじめとする各地の社会学、歴史学、経済学、政治学において広く研究されている。

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解釈をめぐる論争――近代の社会科学者か、中世の思想家か

最も基本的な論争は、彼をどう読むかというものである。20世紀に強かった一つの潮流は、イブン・ハルドゥーンを、時代を数世紀先取りした世俗的・経験主義的な「社会学の父」として描き出した。これに対し、ロバート・アーウィンの知的伝記(2018年)をはじめとする他の研究者たちは、彼をマーリク派の法学者であり、スーフィズムに関心を持ち、超自然・魔術・預言を信じたアシュアリー派の神学者として読まなければならないと強調する。彼は自らの新しい学問を宗教的世界観の枠組みの中に位置づけていたのである。この読み方に立てば、彼の独創性は近代の諸学問を先取りした点にあるのではなく、受け継いだ諸観念をいかに組み合わせたかという点にある。

第二の論争は、鍵となる用語をめぐるものである。『ムカッディマ』における「アラブ(ʿarab)」という語は、民族としてのアラブ人よりも、しばしば遊牧のベドウィンを指しており、「アラブ」の破壊性についての厳しい言葉も、ある生活様式についての記述である。初期の翻訳は、こうした箇所を民族的・人種的な意味で訳すことがあった。歴史家アブデルマジド・ハヌームは、ド・スラーヌの翻訳がアラブ人とベルベル人の区別に人種的な解釈を持ち込み、それが北アフリカに対するフランス植民地主義的な見方を形づくったと論じている。

第三の論争は、サハラ以南のアフリカ人をはじめとする諸民族についての彼の記述に関するものである。一部の箇所は、中世の地理学に一般的であった偏見を繰り返しており、批判者たちがそれを指摘するのは正当である。同時に、イブン・ハルドゥーンは、黒い肌がノアの子孫にかけられた呪いによるものだという説を明確に退け、人間の差異を気候と環境によるものとした。もっとも、この環境論自体も、後に問題のある形で用いられることがあった。学者たちは、これらの要素をどう秤にかけるべきかについて議論を続けている。

最後に、アサビーヤのモデルがマグリブを超えてどこまで通用するかという論争がある。多くの社会を理解するのに役立つと見る者もいれば、北アフリカの部族王朝という特定の世界を描写したものであり、普遍的な法則に仕立て上げるべきではないと考える者もいる。ピーター・ターチンのような、歴史的な循環を研究する現代の研究者たちは、この概念を明示的に取り入れている。

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生涯についての史料と『ムカッディマ』本文の問題

イブン・ハルドゥーンの生涯についての主な史料は、彼自身の自伝『タァリーフ』である。詳細で生き生きとしているが、同時に自己弁護的でもある。彼は、忠誠先を変えたことやカイロでの対立を、できる限り好意的に描いている。マムルーク朝時代の伝記事典や、アル=マクリーズィーやイブン・ハジャル・アル=アスカラーニーといった同時代人の著作は、称賛的なものも敵対的なものも含め、別の視点を加えてくれる。

ティムールとの会見についての彼の記述は、その有名な一例である。これは、この地位の学者がこの征服者と交わした会話についての、詳細な唯一の目撃証言であるが、同時に、自らの君主の敵と交渉した理由を説明する必要のあった人物によって書かれたものでもある。歴史家たちはこれを慎重に用いている。

『ムカッディマ』の本文自体も問題をはらんでいる。イブン・ハルドゥーンが30年近くにわたって改訂を続けたため、写本にはそれぞれ異なる段階のものが残されている。19世紀の刊本(エティエンヌ・カトルメール編集によるパリ版と、カイロのブーラーク版)は異なる写本にもとづいており、現代の校訂作業は、自筆本と著者の承認を得た写本を比較して、彼の思想がどのように発展したかを跡づけている。翻訳を読む者は、自分がどの版と、どの翻訳者の選択に依拠しているのかを知っておく必要がある。

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重要なポイント

アサビーヤ(集団感情)
集団を一つに結びつけ、権力を奪い、それを保つ力を与える連帯感。屈強な遊牧・農村の人々の間で最も強い。
王朝の循環
王朝は通常、約三世代(およそ120年)のうちに興り、栄え、衰える。贅沢によって集団感情が弱まるためである。
ウムラーン(文明)
人間の社会組織全体を指す。イブン・ハルドゥーンは、これを研究する新しい学問を打ち立てたと主張した。
バダーワとハダーラ
遊牧・農村的な生活と定住的な都市文明との対比。それぞれに固有の性格と美徳がある。
批判的歴史学
歴史の記録は、単に先行する権威から書き写すのではなく、人間社会において何が可能かに照らして検証されなければならない。
労働と価値
人間の労働が富の源泉であり、都市は分業と協力によって富を増やす。
課税と衰退
王朝初期の低い税率は高い税収をもたらし、後期の税率上昇は労働意欲をくじいて税収を減らす。

記録

  1. 1332年 — 5月27日、チュニスで生まれる。
  2. 1348年 — 黒死病がチュニスに到達し(1348~49年)、両親と多くの師が亡くなる。
  3. 1352年 — チュニスを離れ、フェスのマリーン朝宮廷に仕える。
  4. 1357年 — 陰謀の疑いでフェスにおよそ2年近く投獄される。
  5. 1364年 — グラナダのムハンマド5世の使節として、セビリアでカスティーリャ王ペドロと会う。
  6. 1375年 — 現在のアルジェリアにあるカルアト・イブン・サラーマへ退く。
  7. 1377年 — 『ムカッディマ』の初稿を完成させる。
  8. 1378年 — チュニスへ戻り、『キターブ・アルイバル』の執筆を続ける。
  9. 1382年 — エジプトへ旅立ち、カイロに定住する。
  10. 1384年 — マーリク派の大法官に任命される。家族が難破で命を落とす。
  11. 1401年 — 包囲されたダマスカスの城外でティムールと会見する。
  12. 1406年 — 3月17日、カイロで世を去る。

用語集

マグリブ
アラビア語で「西」の意。エジプトより西の北アフリカ、おおよそ現在のリビア・チュニジア・アルジェリア・モロッコにあたる。
アル=アンダルス
中世にイスラーム勢力が支配したイベリア半島の地域。
ムカッディマ
「序説」の意。イブン・ハルドゥーンの世界史の第一部で、しばしば独立した書物として読まれる。
カーディー
イスラーム法に基づいて裁く裁判官。
マーリク派
スンナ派の四大法学派の一つで、北アフリカと西アフリカで主流をなす。
書記局
統治者の公式な書簡や文書を作成する役所。
マムルーク朝
奴隷出身の軍事エリート集団で、1250年から1517年までエジプトとシリアを支配した。
ハフス朝
13世紀から16世紀までチュニスと北アフリカ東部を支配した王朝。
ベドウィン
砂漠の遊牧・半遊牧民。『ムカッディマ』では農村・遊牧生活全般を指すこともある。
マドラサ
イスラーム法やそれに関連する諸学を教える学院。

よくある質問

「ムカッディマ」とはどういう意味ですか?

「序説」という意味です。もっと長い歴史書の序説として書かれましたが、内容があまりに豊かなため、通常は独立した一冊の書物として読まれます。

イブン・ハルドゥーンは王だったのですか?

いいえ。彼は書記・大臣・使節として王たちに仕え、後にカイロで裁判官になりました。そのおかげで、権力がどのように動くかを間近で見ることができました。

アサビーヤを簡単に言うとどういうことですか?

「自分たちは団結している」という感覚が集団を強くする、ということです。イブン・ハルドゥーンは、この力が厳しい生活環境で最も強く、贅沢の中で最も弱くなると考えました。

本当にティムールに会ったのですか?

はい。1401年、ダマスカス包囲戦の際に数週間ティムールの陣営に滞在し、後にその会話を自伝に書き記しました。

彼を「社会学の父」と呼んでよいのでしょうか?

この呼び名は、社会を体系的に研究した彼の独創性を強調するものですが、彼が近代の社会科学ではなく中世イスラーム学問の枠組みの中で活動していたため、時代錯誤だと考える歴史家も多くいます。

オスマン帝国の人々はなぜ彼を読んだのですか?

17世紀以降、オスマンの知識人たちは、国家の興亡についての彼の理論を用いて、自らの帝国が抱える問題を考察しました。

『ムカッディマ』はどこで書かれたのですか?

初稿は1377年、チュニスではなく、アルジェリア西部の丘にある要塞カルアト・イブン・サラーマで書かれました。後にチュニスとカイロで改訂されました。

出典・参考文献

  1. Ibn Khaldun. Wikipedia
  2. Muqaddimah. Wikipedia
  3. Asabiyyah. Wikipedia
  4. Kitab al-Ibar. Wikipedia
  5. 이븐 할둔. 위키백과 (Korean Wikipedia)
  6. Ibn Khaldun, translated by Franz Rosenthal, The Muqaddimah: An Introduction to History. Princeton University Press (Bollingen Series), 1958
  7. Robert Irwin, Ibn Khaldun: An Intellectual Biography. Princeton University Press, 2018

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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