哲学

アヴィセンナ(イブン・シーナー)

ابن سينا (Abū ʿAlī al-Ḥusayn ibn ʿAbd Allāh ibn Sīnā)

1000–1037年 · ハマダーン(イラン)

ひとことで

アヴィセンナは、本名をイブン・シーナーという約1000年前の中央アジアの優れた医師・思想家で、その医学と哲学の著作はペルシアからヨーロッパまで、何百年にもわたって学ばれました。

アヴィセンナ(イブン・シーナー)
画像: Adam Jones from Kelowna, BC, Canada · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

約1000年前、中央アジアのブハラという町の近く(今のウズベキスタン)に、読書が大好きなイブン・シーナーという少年がいました。10歳までにクルアーンをすべて暗記し、その後も数学や科学、医学を学び続けました。10代のころには、すでに病気の人を治療していました。

17歳くらいのとき、ブハラの王が病気になり、医師たちにも治せませんでした。呼ばれた若いイブン・シーナーは、王がよくなるのを助けました。お礼に、めずらしい本でいっぱいの大きな王の図書館に入ることを許されました。そこでは、それまで見たことも、その後二度と見ることもなかった本を読んだそうです。

イブン・シーナーの暮らしは、いつもおだやかだったわけではありません。戦争や王の交代のため、町から町へ移らなければなりませんでした。王の大切な相談相手になったこともあれば、身をかくしたこともあり、城に閉じこめられたこともあります。それでも行く先々で本を書き続け、夜おそくに弟子へ文章を言って書き取らせることもありました。

彼は『医学典範』という、とても大きな医学の本を書きました。体のしくみや病気のようす、何百種類もの薬を説明した本です。中東やヨーロッパ、インドの医師たちは何世紀もこの本を使いました。500年もの間、広く読まれた医学の教科書のようなものです。

彼は「存在するとはどういうことか」「心とは何か」という大きな問いも考えました。そして、空中に浮かび、何も見たり触ったりできない人を想像して、「その人は、それでも自分が存在するとわかるだろうか」と問いかけました。哲学者たちは今も彼の考えを話し合っています。ヨーロッパでは、ラテン語の名前であるアヴィセンナとして知られました。

ひと目でわかる

本名
アブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥッラー・イブン・シーナー。ラテン語名はアヴィセンナ。「長老の長」を意味するアル=シャイフ・アル=ライースとも呼ばれた
生涯
980年ごろ(970年ごろとする研究者もいる)、ブハラ近郊のアフシャナに生まれ、1037年にハマダーンで死去
活動地域
イスラーム世界東部の中央アジアとイラン(ブハラ、グルガンジュ、ゴルガーン、レイ、ハマダーン、イスファハーン)
使用言語
主に当時のイスラーム世界の学問の言語であるアラビア語で執筆し、ペルシア語でも書いた
分野
哲学(論理学、形而上学、心理学、自然学)、医学、数学、天文学、音楽理論
主な著作
『医学典範』(al-Qānūn fī al-ṭibb)、『治癒の書』(Kitāb al-Shifāʾ)、『救済の書』(al-Najāt)、『指示と勧告』(al-Ishārāt wa-l-tanbīhāt)、『アラーイーの知識の書』(Dāneshnāme-ye ʿAlāʾī、ペルシア語)
重要性
イスラーム世界で最も影響力の大きい哲学者。『医学典範』は近世初期まで中東とヨーロッパの標準的な医学教科書だった

やさしい

アヴィセンナとは誰か

ヨーロッパでラテン語名のアヴィセンナとして知られるイブン・シーナーは、西暦1000年ごろに中央アジアとイランで活躍した医師・哲学者です。当時のほぼあらゆる学問分野について執筆しました。とりわけ、医学を体系的にまとめた大百科事典『医学典範』と、論理学、自然学、数学、形而上学を扱う哲学百科事典『治癒の書』(Kitāb al-Shifāʾ)は、後世の学問の道しるべとなりました。

彼は、ギリシア語の「フィロソフィア」に由来するアラビア語で「哲学」を意味する、ファルサファの伝統に属していました。これは特にアリストテレスに代表されるギリシア流の哲学で、8~9世紀以降、アラビア語に翻訳され、イスラーム世界で発展してきました。イブン・シーナーはキンディーやファーラービーら先人の仕事を土台に、包括的な思想体系を築きました。その影響は大きく、後の思想家たちは賛成するときも反対するときも、主に彼の提示した枠組みの中で議論しました。このため歴史家は、彼以後のイスラーム世界の哲学を「ポスト・アヴィセンナ哲学」と呼ぶことがあります。

彼はペルシア語を話す家庭に生まれ、主にアラビア語で著作を書きました。現代ではイラン、ウズベキスタン、タジキスタンなど複数の国で国民的偉人とされています。当時の多言語・多民族からなるイスラーム世界東部で活躍し、その遺産が多くの人々に受け継がれた人物と見るのが最も適切でしょう。

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生涯:各地を渡り歩いた学者

アヴィセンナの生涯について知られていることの多くは、彼が弟子であり同行者でもあったアブー・ウバイド・アル=ジュズジャーニーに口述した短い自伝と、出会って以降の出来事についてジュズジャーニーが書き継いだ伝記に基づきます。それによれば、彼はブハラ近郊の村アフシャナに生まれ、父親はサーマーン朝に仕えていました。伝統的な生年はイスラーム暦370年に当たる980年ですが、哲学史家ディミトリ・グタスは970年ごろという、より早い年代を主張しています。

自伝によると、彼は10歳までにクルアーンと文学を修めた神童で、その後、算術、イスラーム法、論理学、幾何学、天文学を学び、自然学、形而上学、医学を独学しました。アリストテレスの『形而上学』を40回読んでもその目的を理解できず、書店の市場でファーラービーの短い注釈書を偶然手にして初めてわかった、という有名な記述があります。17歳ごろにはサーマーン朝の君主ヌーフ・イブン・マンスールを治療し、王室図書館に入ることを許されました。

999年にサーマーン朝が滅ぶと、アヴィセンナは残りの生涯を、政治的に分裂した地域で庇護者を求めて過ごしました。グルガンジュ(ホラズム)で働き、ホラーサーン各地を巡った後、ゴルガーンに至り、そこでジュズジャーニーが弟子になりました。その後はレイとハマダーンでブワイフ朝の支配者に仕え、ハマダーンでは君主シャムス・アル=ダウラの宰相になりました。宮廷内の争いによって身を隠した時期があり、要塞に投獄されたこともあります。1024年ごろに脱出してイスファハーンへ向かい、カークワイフ朝の君主アラー・アル=ダウラのもとで、比較的安定し、著作に取り組める約13年間を過ごしました。

ジュズジャーニーによると、アヴィセンナは昼は政務に携わり、夜は弟子たちと学問を論じ、著作を口述しました。そうした集まりには音楽や酒が伴うこともありました。1037年、アラー・アル=ダウラに従った軍事遠征の途中、自ら治療を試みていた腸の病気で亡くなりました。ハマダーンに埋葬され、現在はその墓を示す廟が建っています。

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中級

歴史的背景:西暦1000年ごろのイスラーム世界東部

アヴィセンナの時代、バグダードのアッバース朝カリフは宗教的権威を保っていましたが、イランと中央アジアの実権は地方王朝に移っていました。ペルシア系のブハラのサーマーン朝は、アラビア語による学問を支える一方で、ペルシア文学の復興を後援しました。フィルドゥスィーが『シャー・ナーメ』を書き始めたのも、その統治下でした。999年以降、その領土はテュルク系のカラハン朝とガズナのマフムードが率いるガズナ朝に分割されました。イラン西部はブワイフ朝の分家やカークワイフ朝のような小王朝が治めていました。

こうした分裂は学者にとって危険を伴いましたが、才能ある人材を求めて競い合う宮廷も数多く生みました。同時代には博学者ビールーニーがおり、アヴィセンナとはアリストテレスの物理学や宇宙論をめぐって、議論を交わす有名な書簡のやり取りをしました。カイロで活動した科学者イブン・アル=ハイサムも同時代人です。ガズナのマフムードが学者を自分の宮廷に集めようとしたことも、アヴィセンナが各地を移り続けた事情の一部です。

学問の面では、アヴィセンナはアッバース朝のバグダードを中心としたギリシア語文献のアラビア語翻訳運動の成果を受け継ぎました。この運動は一般に「知恵の館」と結びつけて語られ、アリストテレス、ガレノス、プトレマイオス、新プラトン主義の著者たちの作品がアラビア語に訳されました。彼はイスラームの理性的な神学であるカラームや、イスラームの聖典が提起する問いにも向き合いました。同じころ、世界のほかの地域では、中国の宋が印刷と学問を広め、南インドではチョーラ朝が栄え、日本では紫式部が『源氏物語』を書いていました。

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中級

『医学典範』

アヴィセンナの『医学典範』(al-Qānūn fī al-ṭibb、「医学の規範」の意。ラテン語では「カノン」として知られる)は、1025年ごろに完成した全5巻の著作です。第1巻では、元素と体液、解剖学と生理学、病気の原因と症状、一般的な治療法と衛生など、医学の基本原理を扱います。第2巻には、薬草や鉱物といった単一の物質からなる約800種類の薬とその性質が並びます。第3巻は頭から足まで各器官の病気、第4巻は発熱、中毒、けがなど全身に関わる状態を扱い、第5巻は複数の材料を組み合わせた薬の処方集です。

『医学典範』の大きな強みは、その構成にありました。ヒポクラテスとガレノスに代表されるギリシア医学の伝統に、アリストテレスの自然哲学やラーズィーなどイスラーム世界の医師たちの臨床経験を、体系的に組み合わせています。この本は、健康は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁という四つの体液の均衡によって保たれるという体液説に基づいています。この説は現代医学では採用されていません。一方、病気の中には人から人へうつるものがあるという観察や、薬の試験について、ほかの問題が重なっていない単純な症状に使い、効果が一貫しているか確かめるといった規則も記されています。

『医学典範』は12世紀、トレドでクレモナのジェラルドゥス(1187年没)によってラテン語に翻訳され、モンペリエ、ボローニャ、パドヴァなどヨーロッパの大学の医学部で中心的な教科書になりました。1470年代以降、ラテン語版は何度も印刷され、1593年にはローマでアラビア語版が印刷されました。イスラーム世界でも何世紀にもわたり注釈、要約、教育が行われ、イラン、オスマン帝国、南アジアの医学に影響を与えました。南アジアのユナニ医学は、現在もアヴィセンナの著作をよりどころの一つとしています。「ユナニ」はアラビア語の「ギリシア」に由来する言葉です。

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中級

哲学:存在、神、魂

本質と存在。アヴィセンナは、あるものが「何であるか」(たとえば「三角形であること」や「馬であること」という本質)と、それが実際に存在するという事実を明確に区別しました。私たちは、あるものが存在するかどうかを知らなくても、それが何であるかを理解できます。したがって、多くのものにとって存在はその本質に含まれず、外から与えられなければなりません。この区別は、イスラーム哲学とラテン語圏の哲学の双方で、最も盛んに論じられた考えの一つとなりました。

必然存在者。アヴィセンナはこの区別から、有名な議論を組み立てました。存在するものはすべて、それ自体では存在してもしなくてもよく、原因を必要とする「可能存在者」か、自らの本性によって存在する「必然存在者」のどちらかです。互いに依存する可能存在者だけでできた世界では、そもそもなぜ何かが存在するのかを説明できません。ゆえに、唯一で、単純で、原因を持たない必然存在者がなければならず、哲学者たちはこれを神と同一視しました。そこから天の知性を経て私たちの世界に至るまで、現実は秩序だった流出の連なりとして生じると考えました。

魂と「空中人間」。人間の魂が身体とは異なることを示すために、アヴィセンナは思考実験を提示しました。完全な姿で生まれながら、目を覆われ、手足を広げて何にも触れず、感覚をまったく持たないまま空中に浮かぶ人を想像します。彼によれば、この人は身体のどの部分の存在も認められなくても、自分自身の存在は認めるはずです。したがって、自分を意識する自己は身体と同一ではありません。アヴィセンナはまた、想像力や記憶などの「内的感覚」について詳しい理論を築き、人間の知性は宇宙的な知性である能動知性と結びつくことで知識を得ると考えました。

論理学と方法。アヴィセンナはアリストテレスの論理学を組み直し、必然性や可能性について推論する様相論理学の有力な理論を発展させ、条件を伴う議論も新たな方法で扱いました。目指したのは、哲学と科学が一つに結びつき、宇宙の理性的な秩序がその第一原因の知性を映し出すような、論証に基づく包括的な知の体系でした。

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中級

自然学:運動、光、鉱物、魂の働き

『治癒の書』の自然学に関する部分は、物理学、天体、元素、気象、鉱物、植物、動物、魂を扱います。物理学では、投げられた石が手を離れた後も動き続ける理由を論じました。周囲の空気が石を押すというアリストテレスの見解を退け、投げ手が物体に傾向(マイル)を与え、それが抵抗によって弱まらない限り持続すると主張しました。歴史家はこれを、後の慣性の考えに先立つ中世のインペトゥス理論の一つと見ていますが、現代の慣性の概念と同じではありません。

視覚については、目から物体へ光線が出るという古代の理論を退け、物体から何かが目に受け取られるという見方を支持しました。鉱物と気象について論じた箇所では、地面の隆起や、きわめて長い時間をかけた水と風による侵食で山ができる過程を説明し、石や化石のでき方も論じました。この部分から独立した論考としてラテン語圏に広まった一節では、錬金術師は金属の見かけをまねることしかできず、ある種類の金属を別の種類へ本当に変えることはできないと述べています。

これらの議論は、アヴィセンナにとって哲学と科学が分かれたものではなかったことを示しています。魂を研究する彼の心理学は、脳と感覚の生理学を扱う医学と、知性の本質を扱う形而上学を結びつけました。また、彼の自然哲学は医師の実践的な知識と、第一原因を探る哲学者の探究をつなぐ役割を果たしました。

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中級

主な著作とその執筆

アヴィセンナの著作は100点を大きく超えるとされますが、正確な数や、一部の著作が本当に彼のものかどうかについては議論があります。哲学上の主著『治癒の書』(al-Shifāʾ)は、アリストテレス以来の学問を集成した百科事典です。現代のカイロ版では大型の本で全22巻になります。その多くをハマダーンとイスファハーンで過ごした時期に執筆し、手元に本がないこともありながら、非常な速さで書いたと伝えられています。

『救済の書』(al-Najāt)は、先に書いた著作をもとにした短い要約です。晩年の著作の一つ『指示と勧告』(al-Ishārāt wa-l-tanbīhāt)では、自らの哲学を簡潔で示唆に富む文体で示し、最後に「知る者たちの境位」について論じています。この部分はしばしばスーフィズム(イスラーム神秘主義)との関係で読まれてきました。『アラーイーの知識の書』(Dāneshnāme-ye ʿAlāʾī、「アラー・アル=ダウラのための知識の書」)は、近世ペルシア語で書かれた最初期の哲学書の一つです。

ほかにも、一部だけが現存する『東方哲学』(al-Ḥikma al-mashriqiyya)、『ハイイ・イブン・ヤクザーン』のような象徴的な物語、長い医学詩(al-Urjuza fi al-tibb)を含む詩、音楽、天文学、魂についての論考を書きました。多くの著作はイスタンブール、テヘラン、カイロ、オックスフォードなど各地の図書館に多数の写本として残り、どれほど広く書き写されたかを物語っています。

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中級

影響と遺産

イスラーム世界では、アヴィセンナの哲学が後世の思想家たちの議論の枠組みになりました。神学者ガザーリー(1111年没)は『哲学者の自己矛盾』で、世界は永遠であるという見解や、神は個々の事柄を「普遍的な仕方で」しか知らないという主張などは、イスラームと両立しないとして批判しました。しかしガザーリー自身もアヴィセンナの論理学と心理学を取り入れています。ファフル・アッディーン・ラーズィーは『指示と勧告』の批判的注釈を書き、ナスィール・アッディーン・トゥースィーはそれへの返答でアヴィセンナを擁護しました。この応酬は後の教育で重要な位置を占めました。スフラワルディーや、はるか後のモッラー・サドラーらを通じて、アヴィセンナの思想は近代に至るまでイラン哲学の中で生き続けました。

ラテン語圏のヨーロッパでは、12世紀のトレドで『治癒の書』の一部が翻訳されました。特にアヴェンダウト(イブン・ダウード)とドミニクス・グンディサリヌスの共同作業が知られています。魂、内的感覚、本質と存在、知性についてのアヴィセンナの説明は、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスらに深い影響を与えました。トマス・アクィナスは初期の著作『存在者と本質について』で、彼を繰り返し引用しています。ダンテは『神曲』の辺獄で、アヴィセンナをアヴェロエスとともに、キリスト教徒ではない偉大な賢人たちの中に置きました。

今日、アヴィセンナは世界各地でたたえられています。イランでは国を代表する人物とされ、ハマダーンの廟は名所になっています。ウズベキスタンとタジキスタンでも中央アジア出身の偉人として記念されています。病院、大学、賞には彼の名が付けられ、医学史と哲学史の研究者たちは今も彼の著作の校訂版や翻訳を刊行しています。

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上級

研究上の論争と未解決の問い

生年と自伝。伝統的な生年であるイスラーム暦370年(西暦980年)はジュズジャーニーの伝記に基づきますが、ディミトリ・グタスは自伝の年代記述から、970年ごろ、あるいはさらに早い生年を主張しています。自伝がどこまで文字どおりの記録で、どこから慎重に構成された自画像なのかも論点です。グタスは、教師から学ぶことよりも、学習と直観(ハドス、三段論法の中項をすばやく見いだす能力)によって哲学的知識を得る方法の模範として、アヴィセンナを描いたものと読みます。

「東方哲学」と神秘主義。アヴィセンナは自らの「東方」哲学という言葉で何を意味し、『指示と勧告』の末尾にある神秘的にも聞こえる文章や象徴的な物語をどう読むべきでしょうか。アンリ・コルバンは、秘教的な照明主義の知として読む解釈で大きな影響を与えました。一方、グタスらは「東方」とはアヴィセンナ自身の出身地域と、バグダードのアリストテレス主義者たちに対抗した彼独自のアリストテレス哲学の改訂を指し、「神秘的」な言葉も理性的な知識を表していると主張します。この問題は今も議論されています。

本質と存在。アヴェロエスや一部のラテン語圏の読者が主張したように、アヴィセンナは存在を本質に付け加わる「偶有性」と考えたのでしょうか。近年の多くの解釈者は、これは誤解だと論じています。彼の意図は、存在が本質に含まれず、原因によって与えられなければならないということであり、存在が色のような性質だということではない、という解釈です。彼の様相的な形而上学とカラームとの関係は、現在も活発な研究分野です。

医学における独創性。『医学典範』は非常に独創的な著作とされることもあれば、ガレノスや先行するアラビア語の著者たちの仕事をまとめただけとされることもあります。医学史家は近年、その独創性が体系的な構成、哲学と医学の統合、教育上の成功にあると強調する一方、臨床に関する内容は先行する著者たちに多くを負っていると指摘します。アヴィセンナが隔離や現代的な臨床試験を「発見した」という一般向けの主張は、慎重に扱う必要があります。

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上級

一次史料と研究方法上の注意点

重要な一次史料には、自伝とジュズジャーニーによる続編(ウィリアム・E・ゴールマンが『The Life of Ibn Sina』として1974年に校訂・翻訳)、アヴィセンナの著作のアラビア語原典(その多くは1952~1983年刊行の『治癒の書』カイロ版やほかの現代版で読める)、ビールーニーとの往復書簡や弟子たちとの『討論』(al-Mubāḥathāt)を含む書簡、現代の叢書『Avicenna Latinus』で刊行された中世のラテン語訳があります。

研究方法上、いくつかの問題があります。第一に、アヴィセンナの著作とされる多くの作品は真偽が確かでないため、著作目録は批判的に利用する必要があります。第二に、彼はしばしば考えを改め、庇護者向けの短い要約から専門的な論考まで、異なる読者に向けて書きました。研究者は、どの文章が彼の十分に検討した立場を示すのか、注意して判断しなければなりません。第三に、ラテン語で読まれたアヴィセンナはアラビア語原典のアヴィセンナとは異なります。翻訳者が用語を誤解したり、訳し方を変えたりしたことがあり、ヨーロッパの読者が接したのも著作の一部だけでした。そのため、ヨーロッパにおける「アヴィセンナの影響」には、翻訳を通して選択的に伝えられた思想の影響も含まれます。

最後に、現代の国家や宗教によるアヴィセンナへの帰属の主張は、歴史的な分析と区別すべきです。彼はアラビア語とペルシア語で執筆したムスリムの哲学者であり、近隣にテュルク系の支配者がいるペルシア文化圏に暮らし、ギリシア語由来の文献から学びました。正確に描くには、これらの事実を一つに合わせて捉える必要があります。

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重要なポイント

本質と存在の区別
あるものが何であるかということと、それが存在するという事実は異なる。造られたものの存在には原因が必要である。
必然存在者
自らの本性によって存在し、存在する可能性があるだけのものがなぜ実際に存在するかを説明する存在。神と同一視される。
空中人間
自己意識は身体の意識に依存しないため、魂は身体とは異なると論じる思考実験。
流出
現実が第一原因から、知性と天球の階層を経て必然的に生じるという考え。
能動知性
人間の心が普遍的な概念を理解する際に結びつく、宇宙的な知性。
体系的な医学
『医学典範』は医学の知識を、原理、薬、特定の部位の病気、全身に関わる病気、複数の材料を組み合わせた薬に整理した。
直観(ハドス)
議論の重要な一歩をすばやく理解する能力。アヴィセンナは、この能力には個人差があり、預言者のような高みに達することもあると考えた。

記録

  1. 980年頃 — ブハラ近郊のアフシャナに生まれる(伝統的な年代。970年ごろとする研究者もいる)。
  2. 997年頃 — サーマーン朝の君主ヌーフ・イブン・マンスールを治療し、王室図書館に入ることを許される。
  3. 999年 — サーマーン朝が滅び、アヴィセンナが各地を渡り歩く時期が始まる。
  4. 1012年頃 — ゴルガーンで、生涯の弟子となり伝記も書いたジュズジャーニーに出会う。
  5. 1015年頃 — ハマダーンでブワイフ朝の君主シャムス・アル=ダウラに仕え、宰相になる。
  6. 1024年頃 — カークワイフ朝の君主アラー・アル=ダウラのもと、イスファハーンへ移る。
  7. 1025年頃 — 『医学典範』を完成させる。
  8. 1037年 — 軍事遠征中に亡くなり、ハマダーンに埋葬される。
  9. 1150年頃 — 『治癒の書』の一部がトレドでラテン語に翻訳される。
  10. 1187年 — トレドで『医学典範』をラテン語に翻訳したクレモナのジェラルドゥスが亡くなる。
  11. 1593年 — 『医学典範』のアラビア語原典がローマで印刷される。

用語集

ファルサファ
イスラーム世界で行われた、ギリシア、とりわけアリストテレスの伝統に基づく哲学。
カラーム
議論を用いて宗教的な信仰を擁護し、説明するイスラームの理性的な神学。
体液説
健康は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁という四つの体液の均衡によって保たれるとする古代の医学説。
宰相
多くのイスラーム国家で君主に仕えた最高位の大臣。
サーマーン朝
9~10世紀にブハラを中心として中央アジアとイラン東部を治めたペルシア系の王朝。
本質(何性)
あるものが何であるかを定める性質。実際に存在するかどうかとは区別される。
様相論理学
必然性、可能性、不可能性を扱う論理学。
ユナニ医学
ギリシア医学とイスラーム医学に由来し、アヴィセンナの『医学典範』も受け継ぐ医学の伝統。特に南アジアで現在も実践されている。
アヴィセンナ主義
アヴィセンナの哲学を受け入れ、作り替え、あるいはそれに異議を唱えた思想家たちの伝統。

よくある質問

なぜイブン・シーナーはアヴィセンナと呼ばれるのですか。

アヴィセンナは彼の名前をラテン語にした形です。「イブン・シーナー」という名前が、おそらくヘブライ語やスペイン語での発音を経て、中世ヨーロッパに伝わりました。

アヴィセンナはアラブ人ですか、それともペルシア人ですか。

ブハラ近郊のペルシア語を話す家庭の出身で、著作の多くは当時のイスラーム世界で国際的な学問の言語だったアラビア語で書きました。イラン、ウズベキスタン、タジキスタンはいずれも彼をたたえています。

『医学典範』とは何ですか。

解剖学、病気、薬、治療法を扱う全5巻の医学百科事典で、1025年ごろに完成しました。イスラーム世界とヨーロッパの大学で、何世紀にもわたり標準的な教科書でした。

「空中人間」の議論とは何ですか。

感覚をまったく持たずに空中に浮かぶ人でも、自分が存在することはわかる、という思考実験です。アヴィセンナはこれを、魂が身体とは異なることを示すものと考えました。

アヴィセンナは本当にアリストテレスの『形而上学』を40回読んだのですか。

自伝にはそう書かれています。文学的な表現が一部含まれるかもしれませんが、彼がこの著作をいかに重視し、ファーラービーの注釈からどれほど助けを得たかが伝わります。

アヴィセンナの医学は今も使われていますか。

その理論は現代医学に取って代わられましたが、『医学典範』は医学史上の重要な著作です。南アジアのユナニ医学も、今なおこの本をよりどころの一つとしています。

アヴィセンナはヨーロッパの哲学にどのような影響を与えましたか。

12~13世紀に著作がラテン語へ翻訳され、特に魂、本質、存在についての考えが、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスらスコラ哲学者に影響を与えました。

出典・参考文献

  1. Dimitri Gutas, Ibn Sina [Avicenna]. Stanford Encyclopedia of Philosophy
  2. Ibn Sina's Metaphysics. Stanford Encyclopedia of Philosophy
  3. Ibn Sina's Natural Philosophy. Stanford Encyclopedia of Philosophy
  4. Ibn Sina's Logic. Stanford Encyclopedia of Philosophy
  5. Avicenna (Ibn Sina). Internet Encyclopedia of Philosophy
  6. Avicenna. Wikipedia
  7. The Canon of Medicine. Wikipedia
  8. The Book of Healing. Wikipedia
  9. Floating man. Wikipedia
  10. Dimitri Gutas, Avicenna and the Aristotelian Tradition: Introduction to Reading Avicenna's Philosophical Works. Brill, 1988 (2nd ed. 2014)

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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