歴史

マンサ・ムーサ

Mansa Musa (Kankan Musa); Arabic منسا موسى

1312–1337年頃 · トンブクトゥ(マリ帝国)

ひとことで

マンサ・ムーサは14世紀の西アフリカに栄えたマリ帝国の王で、1324~25年に大量の金を携えてメッカへ巡礼したことで、イスラム世界とヨーロッパにその国の名を広めた。

マンサ・ムーサ
画像: Cresques Abraham · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

  • やさしい
  • 中級
  • 上級

子ども向け

約700年前、西アフリカにはマリという大きな国がありました。大きなニジェール川にそって広がり、大西洋の近くまで続いていました。王は「マンサ」と呼ばれました。いちばん有名なマンサがムーサです。

マリは金がとれる土地をおさえていたので、豊かな国でした。商人たちはラクダに乗ってサハラ砂漠をわたり、塩や布、本、馬を運んできました。そして金を北へ持ち帰りました。当時、ヨーロッパや北アフリカの金貨に使われた金の多くは、西アフリカから来ていました。

ムーサはイスラム教を信じていました。イスラム教徒は、できれば一生に一度、聖なる町メッカへ巡礼します。これをハッジといいます。1324年、ムーサは何千人もの人々と、金を積んだ多くのラクダを連れて出発しました。旅は何千キロメートルにもおよび、何か月もかかりました。

エジプトのカイロを通ったとき、ムーサはたくさんの金を人々に与え、買い物にも使いました。そのことは長い間語りつがれました。金が急に増えたため、カイロでは金の値うちが下がったと書いた人もいます。約50年後にスペインで作られた有名な地図には、大きな金のかたまりを持って玉座に座るムーサが描かれています。

ムーサは学問や信仰も大切にしました。学者や、詩人でもある建築家をマリに連れ帰り、トンブクトゥには大きな土のれんが造りのモスクが建てられました。ムーサを「歴史上いちばんのお金持ち」と呼ぶ人もいますが、歴史家はその財産を正しくはかることはできないと言っています。

ひと目でわかる

在位期間
1312年ごろ~1337年ごろ(日付は概算。没年は1337年、またはイブン・ハルドゥーンの記述の一解釈では1332年ごろ)
称号
マリのマンサ(統治者、王)。伝承ではカンカン(カンク)・ムーサとも呼ばれる
統治した国
西アフリカのマリ帝国。ニジェール川の上流・中流域を中心とし、首都の位置は不明
宗教
スンナ派イスラム教(マーリク学派)。イスラム教徒と非イスラム教徒の双方を統治した
ハッジ
1324~25年のメッカ巡礼。1324年7月にカイロを通過
建築
トンブクトゥのジンガレイベル・モスクと関係づけられる(伝承上の建立年は1327年)
主な史料
アル=ウマリー、イブン・ハルドゥーン、イブン・バットゥータ。トンブクトゥの年代記『タリーフ・アッ=スーダーン』と『タリーフ・アル=ファッターシュ』。『カタルーニャ地図』
後継者
息子のマガン(マガ)1世。その後をムーサの弟スライマーンが継いだ

やさしい

マンサ・ムーサとはどんな人物か

マンサ・ムーサは、14世紀前半に約25年間マリ帝国を統治した人物である。マンサは「統治者」や「王」を意味するマンディング(マンディンカ)の称号である。ムーサはモーセのアラビア語形で、マリの王家がイスラム教を信仰していたことを示す。西アフリカの伝承では、カンカン・ムーサまたはカンク・ムーサとも呼ばれる。これは母親を指して「カンクの子ムーサ」を意味するという解釈がある。

ムーサは何よりも、1324~25年のメッカ巡礼で知られる。大勢の従者と大量の金を伴ってエジプトを通り、カイロの人々を驚かせ、地中海世界にマリの存在を強く印象づけた。アラブの歴史家たちは彼について詳しく記し、ヨーロッパの地図製作者たちはアフリカの中心部にマリの黄金の王を描き始めた。

ムーサは建築を進め、イスラムの学問を支援した人物でもある。その治世中とその後、トンブクトゥやガオなどニジェール川が大きく曲がる地域の都市は、マリや広いイスラム世界との結びつきを強めた。トンブクトゥは学問の中心地として長く発展する歩みを始めた。

一方で、ムーサには不明な点も多い。正確な在位期間、王家内での詳しい血縁関係、財産について語られる有名な数字などである。彼を理解するには、物語を味わうとともに、それがどの史料に基づくのかを確かめる必要がある。

[1][2]

やさしい

マリ帝国――金、塩、ニジェール川

マリはニジェール川上流域の小さなマンディング諸王国から生まれた。世襲の語り部であるグリオが伝えてきた『スンジャタ叙事詩』によると、英雄スンジャタ・ケイタが1235年ごろ、しばしばキリナの戦いと結びつけられる戦いでソソの王スマングルを破り、帝国を築いた。その後の約100年間にマリは拡大し、セネガルとガンビアの大西洋岸からニジェール川の大湾曲部とその先まで広がる、当時の世界でも有数の大国となった。

マリの富は交易から生まれた。バンブクやブレなどの金産地は、領内かその近くにあった。金はサハラ砂漠を越えて北へ運ばれ、塩や銅、布、馬、本などと交換された。塩は砂漠のタガザなどで採れ、暑いサバンナでの生活に欠かせなかった。ラクダの隊商は西アフリカをモロッコ、アルジェリア、チュニジア、エジプトと結んだ。西アフリカ産の金は、ヨーロッパの貨幣を含め、地中海世界で使われた金の大きな部分を供給した。

ニジェール川はマリの交通路だった。船は町々の間で穀物、魚、交易品を運んだ。サバンナと砂漠が接する川の大湾曲部にある都市は、砂漠の隊商と河川交通が出会う場所となった。なかでもトンブクトゥ、ジェンネ、ガオは重要だった。

マリの首都がどこにあったかは、今も議論がある。かつての歴史家は現在のギニアにあるニアニを首都と考えたが、考古学的な裏づけは得られていない。王宮が移動していた、あるいはマリには単一の恒久的な首都がなかったと考える研究者もいる。この地図で示されたトンブクトゥはムーサと深い関係を持つ都市であり、彼の首都を示すものではない。

[2][9]

やさしい

1324~25年の有名な巡礼

メッカ巡礼であるハッジは、イスラム教の五行の一つである。マリの以前の統治者も巡礼していたが、ムーサの旅は並外れた規模だった。彼は大隊商とともにサハラ砂漠を越え、1324年の夏にエジプトに到着した。アラブの記録によれば、7月にカイロへ入る前、ギザのピラミッドの近くに野営した。

カイロでムーサはマムルーク朝のスルタン、ナースィル・ムハンマドに会った。ムーサと会った人々から情報を集めた歴史家アル=ウマリーによると、ムーサは当初スルタンの前で地面に口づけするのを拒んだが、最後には神にのみひれ伏すのだと述べて応じた。ムーサは豪華な贈り物をし、多額の金を使い、従者たちも市場で品物を買った。

後世の著述家は、従者が数万人、ラクダが数百頭で、金も大量に運んだといった大きな数字を挙げている。これらの数字は出来事の何年も後に記され、ときには互いに書き写された。歴史家は正確な統計というより、巡礼がいかに強い印象を与えたかを示すものと見ている。

約12~15年後に記したアル=ウマリーは、カイロで使われた大量の金によってその価値が下がり、金のミスカールを銀貨ディルハムに換算した価格は自分の時代にも元に戻っていないと報告した。また、旅の終わりにはムーサの資金が不足し、カイロの商人から借金しなければならなかったとも伝えた。ムーサは1325年、学者や書物、アンダルス出身の詩人アブー・イスハーク・アッ=サーヒリーを伴ってマリに帰った。

[1][8]

中級

生涯と治世

ムーサの出自は、主にイブン・ハルドゥーンが記したマリ王の系譜、アル=ウマリーの記述、後世の口承によって知られるが、細部は一致しない。彼は前王の息子ではなかった。スンジャタの兄弟の孫とする伝承もあれば、歴史家フランソワ=グザヴィエ・フォーヴェルは、スンジャタの娘を通じて王位継承権を主張した可能性を指摘している。いずれにせよ、ムーサは王家の傍系から権力を得た。

アル=ウマリーによると、ムーサはカイロの総督に、前任者が大西洋に果てがあるか調べるため船団を送り、その後さらに大きな船団を率いて自ら出航し、帰らなかったため、自分が統治を任されたと語った。いわゆる「アブー・バクル2世」の大西洋航海についての史料は、この話だけである。実際の探検を反映するのか、あるいはクーデターの可能性もある異例の王位継承を説明するための話なのか、現代の歴史家の間で議論がある。

ムーサの在位期間は慣例的に1312年ごろから1337年までとされる。イブン・ハルドゥーンは在位25年と記しており、その年代記の一解釈では没年は1332年ごろになる。しかし、1330年代にマリからモロッコへ使節が送られたことなどから、ネヘミア・レヴツィオンらは1337年を有力とする。ムーサの後は息子マガンが継ぎ、その短い治世の後、ムーサの弟スライマーンが王となった。イブン・バットゥータは1352~53年にスライマーンに会っている。

ムーサのもとでマリは最盛期の一つを迎えた。ニジェール川沿いにあるソンガイ人の中心都市ガオは、マリの支配下に入った。トンブクトゥの年代記『タリーフ・アッ=スーダーン』は、ムーサがメッカから帰った際にガオとトンブクトゥが服属したと記すが、ガオを征服したのは将軍サグマンジャだとする史料もある。ムーサはモロッコのマリーン朝とも外交関係を保ち、スルタンのアブー・アル=ハサンと使節を交換した。

[1][2][9]

中級

イスラム教、学問、建築

イスラム教は何世紀も前にサハラ交易を通じて西アフリカへ伝わり、まず商人や統治者の間に広まった。マリの王宮はイスラム教を信仰していたが、農村部の人々の多くは地域の伝統的な信仰を守り、マンサは双方を統治した。王宮の儀礼には金曜礼拝や祭礼などイスラム教の要素と、グリオや神聖な王権に関わる古いマンディングの慣習が共存していた。後にイブン・バットゥータはこの組み合わせを、やや批判的に記している。

ムーサはイスラム教を熱心に支援した人物として記憶されている。支配下の都市にモスクを建て、学者やマーリク学派の法学書を持ち帰り、学生をモロッコのフェズへ留学させたと伝えられる。グラナダ出身の詩人・学者アブー・イスハーク・アッ=サーヒリーは彼とともにマリへ戻り、亡くなるまで滞在した。イブン・ハルドゥーンによれば、アッ=サーヒリーはマンサのために、漆喰を塗ったドーム付きの優美な謁見の間を建て、報酬として金1万2000ミスカールを受け取った。

伝承はまた、1327年に建てられたとされるトンブクトゥのジンガレイベル(大)モスクの設計をアッ=サーヒリーの功績としている。土、わら、木材で造られたこのモスクは、1570年代にトンブクトゥの裁判官アル=アーキブが行ったものをはじめ、何度も改築された。ラベル・プルシンなどの建築史家は、一人のアンダルス人建築家がサヘルの土造建築様式をもたらしたという見方に疑問を示し、西アフリカとサハラの伝統から何世紀もかけて発展したと論じている。このモスクは、1988年に登録された世界遺産「トンブクトゥ」の一部である。

学者の都市としてのトンブクトゥの最盛期はさらに後、ソンガイ支配下の15~16世紀に訪れた。そのころサンコーレ・モスクやシディ・ヤヒヤ・モスク、多くの私設図書館が栄えた。ムーサの時代は、この都市をイスラム学問のネットワークに結びつけ、重要な土台を築いた。

[3][4][5][1]

中級

地図に描かれた黄金の王

ムーサの巡礼はマリから遠く離れた地域にも長く印象を残した。エジプトやシリアの著述家たちは、カイロで金を惜しみなく配った王の話を語り直し、その話は何世紀にもわたって伝えられた。地中海の商人たちにとって、この巡礼は、自分たちが取引する金の産地がサハラ以南にあることを裏づけた。

最も有名な肖像は、1375年ごろマヨルカ島で作られ、ユダヤ人の地図製作者アブラハム・クレスケスの作とされる『カタルーニャ地図』にある。現在はパリのフランス国立図書館が所蔵する。地図のアフリカ部分の中央には、王冠をかぶった黒人の統治者が玉座に座り、笏と大きな金塊または金の球を持つ姿が描かれている。添え書きは彼を「ムッセ・メリー」と呼び、黒人たちの君主であり、領内の金によってその地域で最も裕福で高貴な統治者だと記している。

この地図はマリに関する知識がヨーロッパの地理認識に入っていたことを示すと同時に、その知識が限られていたことも示す。マリは独自の都市、学者、政治を持つ複雑な国家というより、金の産地として描かれている。非常に裕福なアフリカの王というイメージは、15世紀に西アフリカの金へ直接近づこうとしてアフリカの大西洋岸を南下したポルトガルの航海を含め、後のヨーロッパ人の関心にも影響した。

[6][1]

中級

記憶と遺産

ムーサの死後も、マリは数十年間強大であり続けた。1360年ごろまで統治した弟スライマーンの宮廷は、イブン・バットゥータを感心させるほど華やかだった。しかし14世紀後半から15世紀にかけて、王位継承争い、北方のトゥアレグ諸集団からの圧力、ガオを中心とするソンガイ国家の台頭によって、ニジェール川大湾曲部に対するマリの支配は弱まった。ソンガイの統治者スンニ・アリーは1468年にトンブクトゥを占領し、マリの領土は南西部の中心地域へ縮小した。ただしマリの国家は17世紀まで存続した。

アラビア語の歴史記述では、ムーサは信仰心が厚く寛大なアフリカのイスラム教徒の王の模範となった。17世紀に書かれたトンブクトゥの年代記、アッ=サアディーの『タリーフ・アッ=スーダーン』と『タリーフ・アル=ファッターシュ』では、公正な統治者でモスクの建設者として描かれ、その巡礼は地域史の基準となる出来事になった。

興味深いことに、マンディングの口承叙事詩では、ムーサの役割はスンジャタやほかの初期の人物より小さい。彼の旅を、国から富を持ち出した費用のかかる事業として批判的に記憶する伝承さえある。イスラム教信仰と金に関心を寄せたアラビア語の文献史料と、建国や王家の系譜に重点を置く西アフリカの口承との違いは、ムーサの評判がどう形づくられたかを理解するうえで重要である。

現代のムーサはアフリカの富と成果の象徴となり、教科書や博物館の展示、一般向けの歴史書、彼を史上最も裕福な人物とするインターネット上の一覧に登場する。アフリカ系の多くの人々にとって、その物語は、ヨーロッパによる植民地化以前のアフリカには偉大な国家も歴史もなかったという固定観念を覆す。歴史家は関心の高まりを歓迎する一方、現代のドルに換算した財産額は推測にすぎず、マリの重要性は金だけでなく、制度、交易網、学問にもあると注意を促している。

[1][7][2]

上級

史料とその問題点

ムーサと同時代に書かれた記述のほとんどは、マリの外で生まれた。中心となる記録を書いたのは、ダマスカス生まれでカイロに住んだマムルーク朝の官僚、イブン・ファドル・アッラー・アル=ウマリー(1301~1349年)である。1330年代後半から1340年代に執筆した百科全書『マサーリク・アル=アブサール・フィー・ママーリク・アル=アムサール』(「諸地域の諸王国を見渡す道」)に、ムーサと会ったカイロの役人や商人の証言を記録した。その中には、ムーサが滞在した地区の総督だったアミールのイブン・アミール・ハージブもいた。したがって、その情報は伝聞だが、出来事からあまり時間がたっていない。

イブン・ハルドゥーン(1332~1406年)は、世界史書『キターブ・アル=イバル』でマリの歴代王の一覧と、マリからの訪問者や北アフリカの学者を含む情報提供者から集めた話を示した。彼の年代記述はマリの統治者の年代を定める主な基礎だが、内部に矛盾があり、ムーサの没年が1332年か1337年かという議論につながっている。ムーサの弟スライマーンの治世にあたる1352~53年にマリを訪れたイブン・バットゥータは、ムーサ自身についての逸話も含め、その死から間もない時期の宮廷を目撃者として描いている。

トンブクトゥの二つの年代記はムーサの治世から約300年後に書かれ、ソンガイ支配期とその後のモロッコ支配期における都市の学者層の視点を反映している。特に『タリーフ・アル=ファッターシュ』の本文の成立事情は複雑で、20世紀初頭に刊行された版の一部には、19世紀に加えられた記述が含まれることが後に明らかになった。グリオが守ってきた口承はマンディングの政治文化を知るうえで貴重だが、成立年代を定めにくい。主要なアラビア語史料は、レヴツィオンとホプキンスの『Corpus of Early Arabic Sources for West African History』で英訳を読むことができる。

アドリアン・コレらの歴史家は巡礼に関する有名な数字がどう伝わったかを分析し、印象的な数字がしばしば一つの情報伝達の系列にさかのぼり、語り直される中で大きくなったことを示した。2010年代からインターネット上で広まった、ムーサが史上最も裕福な人物だったという主張は、中世の記述を現代の通貨に換算するもので、歴史家はその方法を妥当ではないと考えている。

[8][1][7]

上級

未解決の問題

年代。ムーサの在位期間は1312~1337年だったのか、それとも1332年ごろに亡くなったのか。答えはイブン・ハルドゥーンの記す在位年数をどう組み合わせるか、またマリからモロッコへの使節派遣をどう年代づけるかに左右される。多くの歴史家はレヴツィオンに従って1337年を有力とするが、決着はついていない。

王位継承と大西洋航海。ムーサの前任者は海で行方不明になった探検家だったのか。それとも、この話は争いのあった即位を後から正当化するものなのか。マリの船がアメリカ大陸に到達したと主張する人もいるが、その考古学的・文献的証拠はなく、歴史家は裏づけのない説とみなしている。

経済への影響。ムーサが使った金は、本当にカイロでの金の価値を何年も下げたのか。アル=ウマリーの記述が中心となる証拠であり、金の急増が地域市場での金と銀の交換比率に影響した可能性はある。しかし、その影響の大きさと期間を正確には測れず、現代の語り直しには地域的な経済危機にまで誇張するものもある。

帝国のあり方。近年の考古学・歴史学研究は、固定した首都を持つ中央集権的な帝国という従来のマリ像に疑問を投げかけている。マンサの宮廷、交易、儀礼上の権威によって結ばれた属州と同盟領主のネットワークと捉える研究者もいる。ムーサがトンブクトゥやガオのような遠方の地域を実際にどの程度支配したかは、この大きな議論の一部である。

[1][2][9]

重要なポイント

マンサ
マリの統治者を指すマンディングの称号で、政治的・軍事的・宗教的権威を併せ持つ。
サハラ縦断交易
ラクダの隊商が西アフリカの金と北アフリカの塩、商品、思想を結び、マリの富の基礎となった。
外交としてのハッジ
ムーサの巡礼は信仰の実践であるとともに、マリの存在をイスラム世界に示す力の誇示でもあった。
学問への支援
ムーサは学者を招き、書物を集め、モスクの建設を支援して、マリの都市におけるイスラム学問を強めた。
外部の史料
ムーサについての同時代の知識の大半は、独自の関心と限界を持つエジプトや北アフリカのアラブの著述家による。
富の伝説
ムーサの金をめぐる話は何世紀もかけて大きくなった。財産を現代のドルで示す主張は検証できない。
口承と文献に残る記憶
アラビア語の文献はムーサの信仰心と金を強調する一方、マンディングの口承ではスンジャタほど大きな位置を占めない。

記録

  1. 1235年頃 — 口承によると、スンジャタ・ケイタがソソを破り、マリ帝国を築く。
  2. 1312年頃 — 前任者が大西洋航海で行方不明になったと伝えられた後、ムーサがマリのマンサとなる。
  3. 1324年 — 巡礼中のムーサが7月にカイロへ到着し、マムルーク朝のスルタン、ナースィル・ムハンマドに会う。
  4. 1325年 — ムーサが学者と詩人アブー・イスハーク・アッ=サーヒリーを伴ってメッカから帰還。ガオとトンブクトゥがマリの支配下に入る。
  5. 1327年頃 — トンブクトゥのジンガレイベル・モスクが建てられたと伝えられる年。
  6. 1337年頃 — ムーサが死去し(一部の計算では1332年ごろ)、息子マガンが継ぐ。アル=ウマリーもこのころムーサについて記す。
  7. 1352年 — イブン・バットゥータが、ムーサの弟スライマーンの治世にマリを訪れる(1353年まで)。
  8. 1375年頃 — 『カタルーニャ地図』に、金塊を持つ「ムッセ・メリー」が描かれる。
  9. 1655年頃 — アッ=サアディーが、ムーサの治世を伝えるトンブクトゥの年代記『タリーフ・アッ=スーダーン』を完成させる。
  10. 1988年 — ジンガレイベル・モスクを含むトンブクトゥが、ユネスコの世界遺産に登録される。

用語集

マンサ
マリの統治者の称号。「王」または「統治者」を意味する。
ハッジ
メッカへの巡礼。行うことができるイスラム教徒には、一生に一度の義務とされる。
グリオ
西アフリカで代々受け継がれる語り部、音楽家、口承の歴史の担い手。
ミスカール
金を量るのに使われた重さの単位(約4.25グラム)。また、その重さの金貨。
ディルハム
イスラム世界で使われた銀貨。
マムルーク朝
1250年から1517年までエジプトとシリアを支配し、カイロを都とした国家。
マーリク学派
スンナ派イスラム法学の四大学派の一つ。北アフリカと西アフリカで有力。
サヘル
サハラ砂漠と、その南のサバンナの間に広がる半乾燥地帯。
タリーフ
アラビア語で歴史や年代記を意味する語。『タリーフ・アッ=スーダーン』などの題名に使われる。

よくある質問

マンサ・ムーサは本当に史上最も裕福な人物だったのですか。

分かっていません。彼は金の豊かな土地を治め、巡礼で莫大な金を使いましたが、中世の王の富を現代の財産と正確に比較する方法はありません。

なぜメッカへ行ったのですか。

ハッジは、行うことができるイスラム教徒にとって宗教上の義務です。ムーサにとっては、マリの力と信仰心を示し、イスラム世界との関係を築く機会でもありました。

ムーサの金で本当にカイロの金の価値は下がったのですか。

マムルーク朝の著述家アル=ウマリーは、カイロで金の価値が下がり、何年後も戻っていないと記しました。歴史家は地域市場では起こり得たと考えていますが、影響の規模は分かっていません。

トンブクトゥはムーサの首都でしたか。

いいえ。トンブクトゥはマリの支配下にある重要な交易と学問の都市でしたが、首都の位置については議論があり、おそらくさらに南西にありました。

コロンブスより前にマリの船がアメリカ大陸に到達しましたか。

ムーサが語った前任者の大西洋船団の話はアル=ウマリーによって記録されていますが、その船がアメリカ大陸に到達した証拠はありません。

ムーサの治世についての主な史料は何で、どの程度信頼できますか。

アル=ウマリーとイブン・ハルドゥーンは情報提供者に基づき、出来事から数十年以内に記しました。イブン・バットゥータは後にマリを訪れ、トンブクトゥの年代記は17世紀に書かれました。どれも貴重ですが部分的な記録であり、数字には誇張を含むことがよくあります。

没年として1332年より1337年が多く挙げられるのはなぜですか。

イブン・ハルドゥーンの記す在位年数からは1332年ごろとも計算できます。しかし、1330年代後半のマリの外交活動を示す証拠から、レヴツィオンに従って1337年を有力とする歴史家が多くいます。

出典・参考文献

  1. Mansa Musa. Wikipedia
  2. Mali Empire. Wikipedia
  3. Djinguereber Mosque. Wikipedia
  4. Timbuktu. Wikipedia
  5. Timbuktu. UNESCO World Heritage Centre
  6. Catalan Atlas. Wikipedia
  7. Tarikh al-Sudan. Wikipedia
  8. N. Levtzion and J. F. P. Hopkins (eds. and trans.), Corpus of Early Arabic Sources for West African History. Cambridge University Press, 1981
  9. Nehemia Levtzion, Ancient Ghana and Mali. Methuen, 1973

関連記事

上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

← 地図に戻る