文学

千夜一夜物語

ألف ليلة وليلة (Alf layla wa-layla)

800–1400年頃 · バグダード(アッバース朝の文化圏)

ひとことで

『千夜一夜物語』は、賢い若い女性シェヘラザードが、毎晩、王にわくわくする物語を語り、いちばん気になるところで話を止めて命を守る、たくさんの物語を集めた作品です。

千夜一夜物語
画像: Al-Mubashshir ibn Fatik · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

昔々、シャフリヤールという王がいました。王は深く傷つき、怒りのあまり、毎日新しい妻を迎えては、次の朝に殺すと決めました。国中の人がこわがりました。

そこで、王の大臣の娘シェヘラザードが勇気ある計画を立てました。彼女はたくさんの本を読み、数えきれないほどの物語を知っていました。王と結婚した夜、彼女は物語を語り始め、朝になると、いちばん続きが気になるところで止めました。

続きが知りたい王は、彼女をもう一日生かしました。次の夜、彼女は前の話を終えて新しい話を始め、またいいところで止めました。それが千と一の夜、続いたのです。

物語には、びんの中の魔人、空を飛ぶ馬、魔法のランプ、話す動物、大きな鳥に出会う船乗り、賢いどろぼう、親切な漁師などが出てきます。箱の中にまた箱があるように、物語の中で別の物語が始まることもあります。

最後には、王は変わります。物語を聞いて、人を思いやり、信じることを学び、ひどい計画をやめるのです。この物語集は世界中に広まりました。アラジン、アリババ、船乗りシンドバッドなど、知っている話もあるかもしれません。

ひと目でわかる

成立時期
約8~16世紀以降にかけて長い時間をかけて成立。現存する最古のアラビア語断片は9世紀
舞台・成立の地
ペルシア語圏とアラビア語圏の物語世界。成立の重要な段階はアッバース朝時代のバグダード、その後のシリアとエジプト(カイロ)
言語
アラビア語(古典語と口語の特徴が混じる「中期アラビア語」が多い)。中世ペルシア語の物語集に起源をもつ
形式
枠物語形式の物語集。物語の中に物語を重ね、散文、韻文、寓話、恋愛、冒険、ユーモアを織り交ぜる
作者
単独の作者はいない。無名の語り手、写字生、編纂者、後世の翻訳者が関わった
有名な物語
シェヘラザードの枠物語、「漁師と魔人」「せむし男」、シンドバッドの物語。アラジンとアリババの物語は、ガランのフランス語版で初めて知られるようになった
重要性
世界文学の中でも、特に広く読まれ、翻案されてきた物語集の一つ

やさしい

『千夜一夜物語』とは?

『千夜一夜物語』(アラビア語でアルフ・ライラ・ワ・ライラ)は、英語では「アラビアン・ナイト」とも呼ばれる大きな物語集です。シェヘラザード(シェエラザードとも表記)とシャフリヤール王の話が、数々の物語をつなぐ枠物語になっています。一人の作者が書いた作品ではありません。語り手や写字生が、ペルシア、インド、アラブ、ギリシャ、ユダヤなどの伝統から取り入れた話を加えたり、除いたり、作り変えたりしながら、何世紀もかけて育ててきました。

『千夜一夜物語』に、ただ一つの「原典」はありません。写本によって収録される話も順序も異なり、有名な話の中には、18世紀に翻訳を通じて初めて物語集に加わったものもあります。固定された一冊の本というより、新しい話が次々に加わり得る枠組みをもった、生きた伝統と考えるのが適切です。

話の種類は、言葉を話す動物の寓話、恋愛物語、犯罪をめぐる話、不思議な島への航海、きわどい喜劇、道徳的な教訓、賢い支配者や愚かな支配者の話など、多岐にわたります。多くはアッバース朝のカリフ、ハールーン・アッラシードが治めるバグダードや、カイロ、ダマスカスが舞台ですが、インドや中国にまで旅する話もあります。

[1]

やさしい

枠物語――シェヘラザードと王

枠物語は、シャフリヤールとシャー・ザマーンという二人の王族の兄弟が、それぞれ妻の不貞を知るところから始まります。女性は誰も信じられないと考えたシャフリヤールは、毎晩新しい花嫁を迎え、夜明けに処刑することにします。国から若い女性がいなくなり、花嫁を探す役目を負った宰相も途方に暮れます。

宰相の長女シェヘラザードは、歴史、詩、医学、哲学を広く学んでおり、王との結婚を強く望みます。そして妹ドゥニヤザードに、夜中に物語を聞かせてほしいと頼ませます。シェヘラザードは話を始め、夜明けに続きが気になるところで語るのをやめます。結末を聞きたい王は処刑を延期します。その後も毎晩同じことが繰り返され、本文では「朝がシェヘラザードに追いつき、彼女は口をつぐんだ」という決まり文句が夜の終わりを告げます。

結末は版によって異なります。後期のエジプト系の版では、千と一の夜が過ぎた後、シェヘラザードは王との間に生まれた子どもたちを連れてきて、命を助けてほしいと願います。物語によって心を変えた王は彼女を許し、妃とします。現存する最古のまとまった写本は、そのずっと前で途切れているため、初期のアラビア語版がどう終わったかは分かりません。この枠物語では、語ることが生死に関わる行為となり、物語には暴力を鎮め、知恵を教える力があると示されています。

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やさしい

どんな物語が入っている?

物語集の初めのほうには、前の話よりも不思議な話を語ることで命を救う、一連の話があります。「商人と魔人」では、三人の老人がそれぞれ話を語り、復讐を望む魔人から商人の命を少しずつ取り戻そうとします。魔人(ジン)は、イスラム教の伝承では煙のない火から造られた存在です。「漁師と魔人」では、貧しい漁師が封じられた壺から巨大な魔人を出してしまい、知恵を使って魔人に立ち向かいます。そこから、魔法をかけられた王子や、王と医師の話へと続きます。

「バグダードの荷担ぎ人と三人の女」には、荷担ぎ人、三人の姉妹、片目の放浪の修行者三人、変装したカリフが集まり、それぞれが自分の話を語ります。「せむし男」の一連の話は、道化師が食べ物をのどに詰まらせて死に、自分が殺してしまったと思った人々が次々に事情を語るところから始まります。カリフが宰相ジャアファルに殺人事件の解決を命じる「三つの林檎」は、初期の探偵小説と呼ばれることもあります。

ほかにも、カマル・アッザマーンとブドゥール姫の恋物語、機械仕掛けの空飛ぶ馬が登場する「黒檀の馬」、「真鍮の都」、学者たちを論争で負かす教養ある女奴隷タワッドゥドの話、船乗りシンドバッドの七つの航海などが有名です。シンドバッドの話は、後の版に収められる前には独立して伝わっていました。現在、特に有名な「アラジン」と「アリババと四十人の盗賊」は、後で説明するように、18世紀初めにフランス語で初めて印刷されました。

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中級

歴史的背景――サーサーン朝ペルシアからアッバース朝のバグダード、マムルーク朝のカイロへ

枠物語は、おそらく中世ペルシア語(パフラヴィー語)の物語集『ハザール・アフサーン』(「千の物語」)からアラビア語に伝わりました。この物語集はサーサーン朝(224~651年)、またはその文化が残る時代に流布していました。10世紀のアラビア語の著述家たちは、それがアラビア語に翻訳されたと記し、語り手のシーラーザードと妹のディーナーザードの名を挙げています。物語の中に物語を入れる手法には、インドの影響を見る研究者もいます。この手法は、サンスクリット語の物語集『パンチャタントラ』などにも見られます。『パンチャタントラ』自体も、8世紀にペルシア語を経て『カリーラとディムナ』としてアラビア語に伝わりました。

アッバース朝のカリフが762年にバグダードを都とした後、この都市は世界有数の大都市となり、地中海、イラン、インド、中国を結ぶ翻訳、学問、商業の中心地になりました。8世紀にイスラム世界へ製紙法が伝わると本が安くなり、書店や民衆の語り物の文化が栄えました。ハールーン・アッラシードの治世(786~809年)は後に伝説上の黄金時代となり、『千夜一夜物語』では、宰相ジャアファルや処刑人マスルールとともに変装して夜の街を歩く姿が描かれます。

今日知られる物語集の多くは、もっと後の時代に、アイユーブ朝、とりわけマムルーク朝(1250~1517年)の支配下にあったシリアとエジプトで形づくられました。当時アラブ世界最大の都市だったカイロは、商人、市場、警察の長官、スーフィーの神秘家などが登場する多くの話の舞台です。オスマン帝国の支配下でも話が加えられ、最も内容の多い刊本の基になったエジプト系写本は18世紀にまとめられました。

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中級

主なテーマと表現技法

『千夜一夜物語』で最も有名な技法は、物語の中に別の物語を入れる「入れ子構造」です。箱の中に箱があるように、何層にも重なることがあります。ある話の登場人物が話を語り、その話の登場人物がまた別の話を語ります。この構造は、一つの話が別の話を中断することで緊張感を生み、内側の話が語り手や聞き手の状況を映し出すことで、話同士を主題の面でも結びつけます。生き延びるために語るシェヘラザードの姿は、命を救うために話を語る登場人物たちにも重なります。

多くの話では、運命と神の摂理が重要です。登場人物の境遇は驚くほど大きく変わり、神が定めたことは実現すると繰り返し語られます。同時に、知恵、寛大さ、勇気も報われます。正義とよい統治も繰り返し現れるテーマです。王は失敗から学び、変装したカリフは普通の人々の暮らしを知ります。また、男女の間の欲望、信頼、欺きも描かれ、枠物語と響き合うことが少なくありません。

『千夜一夜物語』は散文と詩を交えます。登場人物は感情が高まると詩を口にし、本文には古典アラビア詩の引用や模倣もあります。言語は通常、古典アラビア語の文法と口語的な特徴が混じる書き言葉「中期アラビア語」です。このため、中世の文学エリートは民衆向けの娯楽として見下すこともありました。作品世界には、都市の商売や日常生活の現実的な場面とともに、ジン、魔法、不思議な土地といった驚異(アジャーイブ)が広がっています。

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中級

ガラン、ハンナ・ディヤーブと「孤児の物語」

『千夜一夜物語』は、フランスの学者アントワーヌ・ガランを通じてヨーロッパに伝わりました。ガランは1704年から1717年にかけて、『千夜一夜物語』(Les Mille et une nuits)を全12巻で刊行しました。主な資料は、現在フランス国立図書館にある全3巻のシリア系アラビア語写本で、第282夜の途中で途切れています。ガランは官能的な箇所を穏やかにし、説明を加えるなど、フランスの読者の好みに合わせて話を作り変えました。その版はすぐに成功を収め、英語などにも翻訳されました。

手元の写本に続きがなくなると、ガランはシンドバッドの航海など、別の資料にある話を加えました。1709年には、パリを訪れていたアレッポ出身の若いマロン派キリスト教徒ハンナ・ディヤーブと出会い、ディヤーブが口頭で語った話の要約を書き留めました。ガランはそれを基に、「アラジンと魔法のランプ」や「アリババと四十人の盗賊」などを書きました。ガランの刊行以前のアラビア語写本が知られていないため、これらは「孤児の物語」と呼ばれます。後に見つかった「アラジン」のアラビア語写本は、ガランのフランス語版の後に、おそらくその影響を受けて作られたことが示されています。

ディヤーブの役割は長い間見過ごされていましたが、今日では彼自身が重要な語り手として認められています。バチカン図書館に保存されていた彼の旅行記も刊行されました。「孤児の物語」は、『千夜一夜物語』が共同で作られた、文化をまたぐ作品であり、中世のバグダードやカイロだけでなく、18世紀のパリでも形づくられたことを示しています。

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中級

写本、刊本、翻訳

ガランの版の人気によって、ヨーロッパでは「完全な」アラビア語本文が求められ、収集家や写字生がそれに応えました。研究者は、ガランの写本が属する、比較的短く古いシリア系写本と、ずっと長く千一夜に達するエジプト系写本を区別します。フランスの学者ヘルマン・ゾーテンベルクが1880年代に特定した後期エジプト系の異本は、しばしば「ゾーテンベルクのエジプト系異本」(ZER)と呼ばれます。これはおそらく18世紀に、夜の数を千一まで満たすことも目的として編纂されました。

19世紀に刊行された四つのアラビア語版が標準的な本文になりました。カルカッタ第一版(1814~1818年、未完)、ブレスラウ版(1825~1843年、マクシミリアン・ハビヒトとハインリヒ・フライシャーによる混成本文)、カイロのブーラーク版(1835年)、W・H・マクナーテン編のカルカッタ第二版(1839~1842年)です。ブーラーク版とカルカッタ第二版はエジプト系の異本に従い、多くの完訳の底本になりました。

主な翻訳には、注釈付きのエドワード・ウィリアム・レインによる英訳(1838~1841年)、ジョン・ペインによる英訳(1882~1884年)、詳細でしばしば扇情的な注を付けたリチャード・フランシス・バートンの全10巻の英訳(1885年、補巻は1888年まで)、ジョゼフ=シャルル・マルドリュスによる自由な仏訳(1898~1904年)があります。1984年にはムフシン・マフディーがガランの写本系統に基づく校訂版を刊行し、フサイン・ハッダウィーが英訳しました(1990年)。マルコム・C・ライオンズはアーシュラ・ライオンズとともに、バートン以来初となるカルカッタ第二版本文の英語による完訳を刊行しました(2008年)。

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中級

世界各地への影響と後世への広がり

『千夜一夜物語』ほど広く翻案された本は多くありません。18~19世紀のヨーロッパでは「東洋物語」の流行を生み、ヴォルテール、ゲーテ、コールリッジ、ディケンズ、スティーヴンソンなどの作家に影響を与えました。ニコライ・リムスキー=コルサコフの交響組曲『シェヘラザード』(1888年)やラヴェルの歌曲集『シェエラザード』(1903年)は、この物語を音楽にしました。映画化作品も無声映画から、ピエル・パオロ・パゾリーニの『アラビアンナイト』(1974年)、ディズニーの『アラジン』(1992年)まであります。

アラブ世界では、文学エリートから長い間、真面目な文学ではなく大衆の娯楽と見なされていましたが、現代のアラブの作家たちは作品を改めて取り上げています。タウフィーク・アル=ハキームは戯曲『シェヘラザード』(1934年)を書き、1988年のノーベル文学賞受賞者ナギーブ・マフフーズは、物語の世界を舞台にした続編『千夜一夜物語の夜々』(1979年)を書きました。ほかにも、有名な評論「千夜一夜の翻訳者たち」(1935年)を書いたホルヘ・ルイス・ボルヘス、イタロ・カルヴィーノ、サルマン・ラシュディなど、さまざまな文学の作家がこの物語集から着想を得ています。

『千夜一夜物語』は、ヨーロッパの人々が中東を思い描く際にも影響を与え、魔法、ぜいたく、残酷さの地として見せることもありました。批評家エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978年)をきっかけに、バートンなどの翻訳が西洋の幻想をアラブ・イスラム社会にどう投影したかが研究されるようになりました。今日の研究者や芸術家は、この話をアラビア語文学の文化から生まれた作品として、また、伝わった先々で作り変えられてきた世界的な作品として読もうとしています。

[1]

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学術上の論争――起源、「原典」、何を『千夜一夜物語』と呼ぶか

枠物語がペルシアの『ハザール・アフサーン』に由来し、物語集が9~10世紀までにイラクでアラビア語の形をとったという点では、研究者の見解はおおむね一致しています。しかし、それ以外には不明な点が多くあります。ペルシア語の本のどれほどがアラビア語に残ったのか、初期のアラビア語版にどの話が入っていたのか、その版は知識人向けの書物だったのか、それとも口頭の語りに近かったのかが論じられています。10世紀の書誌学者イブン・アンナディームは、全巻を何度も見たが、出来が悪く粗野だと評し、題名に反して話は約200編しかなかったとも記しています。

重要な論争の一つは、『千夜一夜物語』に「原典」や「真正な本文」があるのかという問題です。ムフシン・マフディーは、ガランの写本が物語集の中核について復元できる最古の形を示し、後代のエジプト系本文には、夜の数を文字どおり千一にするための話を含め、無関係な材料が付け加えられたと主張しました。そのため、彼の校訂版に収められた話は、よく知られる刊本よりずっと少なくなっています。一方、物語集は初めから内容を増やせる形であり、後代の長い版もその歴史の正当な一段階で、実際に多くのアラブの読者が知ってきた版だと考える研究者もいます。

ガランの写本自体の年代も見直されました。マフディーは14世紀のものとしましたが、紙、筆跡、本文中の言及を調べた後の研究は、15世紀かそれ以降を示しています。「孤児の物語」の位置づけ、つまりアラジンやアリババをそもそも『千夜一夜物語』に含めるべきか、インド、ペルシア、アラブそれぞれの寄与の大きさ、そして枠物語を女性蔑視、男性の暴政への批判、あるいは女性の知性と弁舌の称賛のどれとして読むかについても、議論が続いています。

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上級

一次資料と根拠

現存する最古の物的証拠は、パピルス学者ナビア・アボットが1949年に発表した紙の断片です。「千夜物語の書」という題名と、ディーナーザードがシーラーザードに話をねだる枠物語の冒頭が残っています。アボットはこれを9世紀のものと判断しました。また、後から紙に書き込まれたメモには西暦879年(イスラム暦266年)に当たる日付があるようで、アッバース朝初期にはアラビア語の本が存在していたことがうかがえます。

文学資料の言及も手がかりになります。歴史家マスウーディー(956年没)は『黄金の牧場』(947年ごろ)で、ペルシア語から翻訳された本として『ハザール・アフサーン』に触れ、アラビア語版は『アルフ・フラーファ』(「千の物語」)と呼ばれたが、一般には『アルフ・ライラ』(「千夜」)として知られたと記しています。バグダードで知られていた書物の目録、イブン・アンナディームの『フィフリスト』(987~988年ごろ)は、枠物語を詳しく説明しています。「千夜一夜物語」という完全な題名が初めて確認できるのは、12世紀のカイロです。廃棄された文書を保管するカイロ・ゲニザに残された、ユダヤ人の書籍商または貸本業者の記録に記されています。

その後の証拠には、シリア系のガラン写本(研究者によって14~16世紀と年代づけられる)、16~19世紀のほかのシリア系・エジプト系写本、19世紀の刊本があります。個々の話も独立した写本や別の物語集に残っており、研究者は話が『千夜一夜物語』に出入りした過程をたどることができます。

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研究方法上の注意――決まった形のない本文を読む

『千夜一夜物語』には決まった本文がないため、読者はどの版を読んでいるのかを確かめる必要があります。マフディーの校訂版とハッダウィーの翻訳はシリア系の中核を示します。ライオンズ、バートン、レインはエジプト系のカルカッタ第二版やブーラーク版を翻訳し、ガランとマルドリュスの版は創作的な翻案です。子ども向けの選集には、これらの版の話と再話が混在しています。『千夜一夜物語』全体について、何編あるか、どう終わるか、アラジンが入るかを述べる場合、答えは選んだ版によって変わります。

研究者は写本研究や社会史に加えて、繰り返し現れる筋を分類する話型索引など、民話研究の手法をますます活用しています。ウルリヒ・マルツォルフとリチャード・ファン・リューウェンの『アラビアン・ナイト百科事典』(2004年)のような参考書は、話、その出典、後世への影響を整理しています。書籍商、貸本屋、コーヒーハウスの語り手などを調べる書物文化の研究は、実際に誰が話を読み、聞いたのかを理解する助けになります。

『千夜一夜物語』の歴史は、文化交流と権力についても教えてくれます。ヨーロッパの翻訳者たちは話を保存する一方で作り変え、その翻訳を通じてアラブ世界についての「東洋」的な固定観念も広まりました。物語集を、アラビア語文学の重要な作品、ペルシア、インド、地中海の語りが交わる場所、そして今も世界中で書き直され続ける作品として捉えることができます。

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重要なポイント

枠物語
ほかの物語を包み込み、つなぐ物語。シェヘラザードが王に話を語る筋が、物語集全体をまとめています。
入れ子構造
物語の中に物語を置き、ときには何層にも重ねる技法。それぞれの話が、その外側の話について何かを示すことがあります。
生き延びるための語り
シェヘラザードやほかの登場人物は、命を救うために話を語ります。物語は暴力を鎮め、人の心を変える力になります。
運命と神の摂理
突然の運命の逆転は、定めに導かれる世界を示します。その中でも機知、寛大さ、信仰は報われます。
驚異(アジャーイブ)
ジン、魔法の道具、見知らぬ土地など、驚きを呼ぶ不思議なもの。現実的な都市の場面と並んで描かれます。
内容が変わり続ける物語集
『千夜一夜物語』の内容は固定されておらず、編纂者や翻訳者が何世紀にもわたり話を加えたり除いたりしました。
孤児の物語
アラジンやアリババのように、ガランのフランス語版を通じて『千夜一夜物語』に入り、それ以前のアラビア語写本が知られていない話。

記録

  1. 500年頃 — ペルシアの物語集『ハザール・アフサーン』(「千の物語」)がサーサーン朝の文化圏に広まる(年代は不明)。
  2. 762年 — アッバース朝のカリフ、マンスールがバグダードを建設する。後に多くの話の伝説的な舞台となる。
  3. 879年頃 — 「千夜物語の書」と題する現存最古のアラビア語断片に記された日付(9世紀)。
  4. 947年頃 — マスウーディーが『黄金の牧場』で、ペルシア語から翻訳された『ハザール・アフサーン』に言及する。
  5. 987年頃 — イブン・アンナディームの『フィフリスト』が、枠物語と本のペルシア起源を説明する。
  6. 1150年頃 — カイロ・ゲニザの文書に「千夜一夜物語」という題名が記される(12世紀)。
  7. 1450年頃 — 後にガランが使用するシリア系写本が書き写される(15世紀以降。年代には議論がある)。
  8. 1704年 — アントワーヌ・ガランがフランス語版『千夜一夜物語』の刊行を始める(1717年までに全12巻)。
  9. 1709年 — ハンナ・ディヤーブがパリでガランに、アラジンやアリババを含む物語を語る。
  10. 1835年 — エジプト系異本の標準的なアラビア語本文となるブーラーク版が、カイロで印刷される。
  11. 1885年 — リチャード・フランシス・バートンによる英訳の刊行が始まる。
  12. 1984年 — ムフシン・マフディーがガランの写本に基づく校訂版を刊行する。

用語集

ジン(単数形:ジンニー)
イスラム教の伝承で、煙のない火から造られた存在。善にも悪にもなり得る。英語の「genie」の語源。
宰相
カリフ、スルタン、王に仕える最高位の大臣。シェヘラザードは宰相の娘です。
カリフ
預言者ムハンマドの後継者としてイスラム共同体を率いると主張した支配者の称号。ハールーン・アッラシードなどがいます。
ハザール・アフサーン
「千の物語」を意味する、失われた中世ペルシア語の物語集。枠物語の出典と考えられています。
中期アラビア語
古典アラビア語の文法と口語方言の特徴が混じった書き言葉。大衆向けの文章によく見られます。
異本
シリア系やエジプト系の『千夜一夜物語』のように、一群の写本に共通する、本文の異なる版。
ZER
「ゾーテンベルクのエジプト系異本」の略称。ブーラーク版とカルカッタ第二版の基になった、後期の長いエジプト系本文。
カイロ・ゲニザ
中世の文書数十万点が保存されていた、カイロのシナゴーグにある保管室。
オリエンタリズム
西洋が「東洋」を想像し、表現する一つの様式。エドワード・サイードが1978年に批判的に分析しました。

よくある質問

『千夜一夜物語』を書いたのは誰ですか?

一人の作者はいません。ペルシア、インド、アラブの話を基に何世紀もかけて育った物語集で、無名の語り手、写字生、編纂者、後にはアントワーヌ・ガランなどの翻訳者が形づくりました。

本当に1,001編の物語があるのですか?

いいえ。題名はシェヘラザードが話を語る夜の数を指し、「千一」には「数えきれないほど」という意味合いもあります。最も長いアラビア語版には数百編の話が千一夜に分けて収められていますが、最古の写本は話がずっと少なく、第282夜で途切れています。

アラジンは本当に『千夜一夜物語』の一部ですか?

アラジンの話は、1709年にアレッポ出身の語り手ハンナ・ディヤーブから聞いた話を基に、アントワーヌ・ガランがフランス語版に加えました。それ以前のアラビア語写本は知られていないため、研究者は「孤児の物語」と呼びます。『千夜一夜物語』の歴史の一部ですが、中世のアラビア語の物語集には含まれていません。

シェヘラザードの話はどう終わりますか?

広く刊行されたエジプト系の版では、千一夜の後、シェヘラザードは王に二人の子どもたちを見せて慈悲を願います。彼女の物語で変わった王は命を助け、二人は王と妃として暮らします。古い写本は結末の前で途切れています。

物語はどこから来たのですか?

枠物語は、失われたペルシアの『ハザール・アフサーン』に由来すると考えられます。一部の技法や話にはインドに類例があり、多くの話はバグダード、ダマスカス、カイロで作られました。18世紀のフランスで加わった話も少数あります。

『千夜一夜物語』の最古の証拠は何ですか?

ナビア・アボットが1949年に発表した9世紀の紙の断片です。「千夜物語の書」という題名と枠物語の冒頭が残っています。さらに、10世紀のマスウーディーとイブン・アンナディームによる言及があります。

どの翻訳がおすすめですか?

目的によります。フサイン・ハッダウィーによるマフディー校訂版の翻訳では古い中核部分を読めます。マルコムとアーシュラ・ライオンズによるペンギン版の完訳(2008年)ではエジプト系本文の全体を読めます。バートン訳は歴史的に重要ですが、言葉遣いが古く、ヴィクトリア朝時代の見方が強く反映されています。

出典・参考文献

  1. One Thousand and One Nights. Wikipedia
  2. Scheherazade. Wikipedia
  3. Hazar Afsan. Wikipedia
  4. List of stories within One Thousand and One Nights. Wikipedia
  5. Antoine Galland. Wikipedia
  6. Hanna Diyab. Wikipedia
  7. Muhsin Mahdi. Wikipedia
  8. Sinbad the Sailor. Wikipedia
  9. Robert Irwin, The Arabian Nights: A Companion. Allen Lane, 1994
  10. Ulrich Marzolph and Richard van Leeuwen, The Arabian Nights Encyclopedia. ABC-CLIO, 2004

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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