文化遺産

ハノイ文廟

Văn Miếu – Quốc Tử Giám (文廟 – 國子監)

1070–1076年 · 昇龍(大越)

ひとことで

ハノイの文廟は1070年に孔子を祀るために建てられた塀に囲まれた廟の庭園で、ベトナム最初の王立学問所である国子監が数百年にわたり学者を育てた場所であり、今も石の亀たちが国内最難関の科挙合格者の名前を背負って立っている。

ハノイ文廟
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最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

ほとんど千年も前からある学校を想像してみてください。ベトナムの首都ハノイのまん中に、古いレンガの塀に囲まれた細長い庭園があります。中には池や大きな木陰、赤い門、静かな建物があります。ここは文廟(ぶんびょう)、ベトナム語でヴァンミエウと呼ばれる場所です。

この廟は、昔の中国の先生である孔子をたたえるために建てられました。孔子は、一生懸命勉強し、家族を大切にし、思いやりを持って国を治めるべきだと説きました。廟が建てられてから数年後、王様はその隣に学校を開きました。最初は王子や身分の高い家の子どもだけが学べましたが、後には普通の家の賢い子どもたちも通えるようになりました。

文廟の中を歩くと、箱の中の箱を開けていくように、五つの中庭を順番に通り抜けます。真ん中には星のように輝く丸い窓のある小さな赤い楼閣が立ち、その前には「天光井(てんこうせい)」と呼ばれる四角い池があって、空が水面に映ります。

池のそばには82頭もの大きな石の亀が並んでいます。亀はそれぞれ背中に高い石の碑を背負っています。碑には、王様自らが問題を出した国で最も難しい試験に合格した人たちの名前が刻まれています。亀はとても長生きすると信じられていたので、その名前がいつまでも記憶されるようにと亀が選ばれました。

今でもベトナムの学生たちは大事な試験の前にここを訪れて合格を祈り、旧正月には書家たちが門の前に座り、訪れる人のために美しい文字を書いてくれます。

ひと目でわかる

創建
1070年、李朝(Lý)の李聖宗(Lý Thánh Tông)の時代。1076年、李仁宗(Lý Nhân Tông)の時代に王立学問所・国子監(Quốc Tử Giám)を設置
所在地
ベトナム、ハノイのクオックトゥザム通り58番地 ― 旧タンロン城の南側
祀る対象
孔子とその主要な弟子たち、後世の儒学者たち。ベトナムの師、チュー・ヴァン・アン(Chu Văn An)も祀られる
構成
ヴァン湖とザム公園を含む約54,000平方メートル。南北の軸に沿って五つの中庭が連なる
進士碑
亀の台座に載る現存82基の石碑(1484~1780年建立)。1442~1779年の科挙殿試合格者を記録
象徴
奎文閣(Khuê Văn Các)。1805年建立、ハノイ市の公式シンボル
指定
ベトナムの特別国家遺跡(2012年)。進士碑はユネスコ世界の記憶(アジア太平洋地域リスト2010年、国際リスト2011年)

やさしい

文廟とはどのような場所か

ハノイ文廟は、ベトナム語でヴァンミエウ(文廟、文字どおりには「文化の廟」あるいは「文字の廟」)といい、ハノイ中心部にある孔子を祀る廟である。1070年、ハノイがタンロンと呼ばれ、大越(ダイヴィエット)李朝の都であった時代に初めて建てられた。同じくヴァンミエウと呼ばれる同様の孔子廟はベトナムの他の省や中国、韓国、日本にも建てられたが、ハノイの文廟はベトナムで最も古く、最も有名なものである。

この場所は、通常のベトナム語名「ヴァンミエウ・クオックトゥザム(文廟・国子監)」に表れているとおり、二つの性格を併せ持つ。文廟は孔子や他の聖賢を儀礼によって讃える廟であり、国子監(「国家の子弟を監督する役所」の意)は1076年にその隣に設立された王立学問所である。ベトナムの資料ではしばしばこの学問所を国の最初の大学と呼び、中断を挟みながらも約七世紀にわたって官僚や学者を育成した。

現在、この一帯は前面のヴァン湖と隣接するザム公園を含めて54,000平方メートル余りに及ぶ。廟の内側の区域は古いレンガの塀に囲まれ、五つの中庭に分かれている。訪れる人はハノイの雑踏の中から門や庭園、池を抜けて奥にある祭祀の広間へと進み、その道のりは心を落ち着かせ学問へと導くように設計されている。

文廟はハノイで最も愛される名所の一つである。10万ドン紙幣の裏面に描かれ、奎文閣はハノイ市の公式な象徴となっている。そして今も生きた場所であり続けており、学生たちは試験前に合格を祈りに訪れ、学校はここで表彰式を行い、旧正月には詩人や書家たちが集う。

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やさしい

配置を読む: 学問への道にある五つの中庭

正門の前には四本のレンガの柱と、馬から下りるよう命じる小さな下馬碑が二基立っている。どれほど身分の高い者でも、文廟の前は歩いて通らねばならなかった。正門であるヴァンミエウ門には三つの出入り口があり、伝統的に中央の道は君主のため、両脇の道は官吏のために使われた。全体の配置は南北にまっすぐ延びており、孔子の生まれ故郷である中国・曲阜の孔子廟としばしば比較されるが、ハノイの文廟はより小規模で簡素であり、木組みや装飾はベトナムの伝統に従っている。

最初の二つの中庭は、古木や芝生、長方形の池のある庭園で、外の世界と聖域とを隔てている。第一の中庭は大中門で終わり、その両脇には「才能に達する」「徳を成す」という意味の名を持つ二つの脇門がある。第二の中庭は1805年に建てられた奎文閣、すなわち「文の星座の楼閣」で終わる。奎文閣は四本の白いレンガの柱の上に立ち、上層は小さな木造の部屋で、各面に丸窓があり、その木の桟は文学に関わる星座「奎星」の光の筋を表している。学者たちはここに集まり、優れた文章を読んで評価したと伝えられる。

楼閣の背後には第三の中庭があり、中央には天光井(てんこうせい)と呼ばれる四角い池がある。伝統的な解釈では、四角い池は大地を、楼閣の丸窓は天を表すとされ、この中庭は天と地の最も優れた気を学問の場に集めるものとされる。池の両側には長い碑亭の列があり、そこに進士碑が並ぶ。石の亀に載った82基の石碑が、それぞれ41基ずつ両側に並び、いずれも水に向かって立っている。

大成門をくぐると、訪れる人は文廟の祭祀の中心である第四の中庭に入る。レンガ敷きの中庭の向こうには前後が開いた大拝堂が立ち、その奥には暗く閉ざされた聖域(上殿)があって、孔子と最も近い四人の弟子(顔回、曾子、子思、孟子)、さらに十人の哲人を祀る祭壇がある。両脇の長い建物にはかつて他の聖賢や学者の位牌が納められていた。

五番目にして最後の中庭は「太学」と呼ばれ、かつての王立学問所の跡地に建っている。現在の建物は1999~2000年に建てられたものである。後方の建物の上階には、この地に最も縁の深い三人の君主 ― 李聖宗、李仁宗、黎聖宗(Lê Thánh Tông) ― が祀られ、一階では師チュー・ヴァン・アンを讃え、ベトナムにおける儒学教育の歴史を展示している。

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やさしい

進士碑: 石に刻まれた名前

天光井のそばに並ぶ石碑は、この廟が誇る最大の宝である。碑一基ごとに、国家試験の最高段階である殿試(ティン)を一回分記録しており、合格者には「進士(ティエンシー)」の称号が与えられた。碑には試験の年、それを取り仕切った官吏、そして合格者の氏名・順位・出身村が刻まれ、あわせて学問と、それを奨励した君主を讃える文章が添えられている。

最初の碑は1484年、黎聖宗(Lê Thánh Tông)王の命により、1442年以降に行われた試験のために建てられた。その後も数世紀にわたって碑が追加され、とりわけ1653年と1717年には大規模な建立が行われ、以後は試験のたびに定期的に建てられるようになった。現存する最後の碑は1780年、1779年の試験のために建てられたものである。現存する82基は三世紀余りにわたり、およそ1,300人の合格者を記録しているが、正確な人数は資料によって多少異なり、1,304人や1,307人といった数字がよく用いられる。

最もよく引用される一節は、1442年の試験の碑にあり、1484年に文官・学者のタン・ニャン・チュン(Thân Nhân Trung)が著したものである。「賢才者国家之元気」― 「賢い人材こそ国家の元気である」。文章はさらに、この元気が盛んなときに国は栄え、衰えるときに国は傾くと続く。この一節は今日のベトナムでも広く引用されている。

なぜ亀なのか。ベトナムの伝統では、亀は龍・麒麟に似た「麟(リン)」・鳳凰とともに四つの神聖な生き物の一つとされ、長寿と知恵を象徴する。石碑を亀の背に載せたのは、学者たちの名前が永く残るようにという願いを表すものであった。亀の形や石板の装飾は時代とともに変化しており、進士碑は15世紀から18世紀にかけてのベトナムの石彫刻の変遷を伝える、またとない記録ともなっている。

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中級

建立と再建: 今見える建物はどれほど古いのか

『大越史記全書(だいえつしきぜんしょ)』によれば、1070年に李聖宗は文廟を建て、孔子・周公・孔子の四人の高弟の彫像を作り、七十二賢人の絵を描かせて四季ごとに供物を捧げさせ、皇太子はそこで学んだという。1888年の大規模な修理の際に大成門に掲げられた扁額にも、廟が神武二年(1070年)に創建されたと記されている。ただし創建の月については、旧暦八月とも十月とも資料によって異なる。

11世紀当時の文廟の姿は今日ほとんど確認できない。年代記は李朝・陳(チャン)朝時代の建物を詳しく描写しておらず、その規模や正確な配置はわかっていない。文廟は1156年に修理され、1483年、黎聖宗の時代に大規模に再建された。この時の年代記には、孔子を祀る本殿、後世の賢人を祀る脇殿、太学の講堂、講義室、版木を保管する倉庫、一列25室からなる学生寮などが挙げられている。1770年代に学者レー・クイ・ドン(Lê Quý Đôn)が残した記述にも、瓦葺きの建物や碑亭、講学の建物が記されている。

現存する建物の大半は、後期黎朝から阮(グエン)朝初期(17~19世紀)にかけてのもので、その後も修理が重ねられてきた。周囲のレンガ塀は概ね黎朝時代のものとされる。奎文閣は1805年、新たに成立した阮朝のもとで北部地方(バクタイン)の総鎮であったグエン・ヴァン・タイン(Nguyễn Văn Thành)によって建てられた。碑亭は1863年に再建され、その後も度々修理されており、太学の中庭は1999~2000年の再建によるものである。

建物はベトナム北部の伝統的な建築材料で造られている。石の礎石の上に鉄木(リム材)の柱と屋根組みを立て、反りのある瓦屋根を葺き、ハノイ近郊の陶芸の村バッチャンのレンガを用い、漢字の銘文を刻んで漆を塗った扁額や柱聯を掲げている。石碑は青灰色の石から彫られている。ベトナムの建築史家たちは、建物の名称は曲阜のものと重なるものの、木組みや斗栱(ときょう)、比例は紛れもなくベトナム的であると強調している。

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中級

文廟を築いた社会: 李朝から黎朝まで

大越(ダイヴィエット)は10世紀に中国の支配から独立した。李朝(1009~1225年)は1010年に都をタンロンに移し、安定した国家を築いた。当時の宮廷では仏教が主要な宗教であったが、李朝の王たちは文書を作成し、税を管理し、中国との外交を担う文字の読める官吏を必要としていた。1075年、李仁宗は初めて科挙の試験を行い、1076年には文廟の隣に国子監を設立し、学識ある文官を配置した。当初、この学問所は主に王族や高官の子弟のためのものであった。

陳(チャン)朝(1225~1400年)の時代には試験がより定期的に行われるようになり、1253年、陳太宗(Trần Thái Tông)は国子監を国学院と改め、全国から儒学者を招いて儒教経典の講義を行わせた。最も有名な師はチュー・ヴァン・アン(1292年頃~1370年頃)で、陳明宗(Trần Minh Tông)の時代に国子監で教えた。伝承によれば、彼は腐敗した七人の官吏を処刑するよう求める上奏(「七斬疏」)を王に退けられた後、官職を辞したとされる。死後は文廟に祀られ、ベトナムの人々は今も彼を理想の師として記憶している。

国子監の全盛期は、約20年に及ぶ明の占領から国が回復した後の後期黎朝(1428~1789年)においてであった。黎聖宗(在位1460~1497年)は三年ごとに殿試を行い、国子監を再建し、進士碑の建立を始めた。監生(かんせい)たちは通常、郷試に合格した後に入学し、四書五経や歴史、作文を学び、月次・季節ごとの試験を受けながら、会試(ホイ)と殿試の準備をした。殿試では君主自らが策問を出し、合格者の順位を定めた。

1527年に王位を簒奪した莫(マク)朝も試験を続けたが、ハノイに現存する莫朝の碑は一基のみである。黎朝復興後、北部の実権は鄭(チン)氏一族が握り、黎の皇帝は名目上の存在となったが、試験と碑の建立は両者の権威のもとで1779年まで続いた。1762年には、この機関の名称が改めて公式に国子監と定められた。

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中級

宗教的・文化的な意味: ベトナムにおける儒学

儒教(ベトナム語でニョーザオ)は、孔子とその弟子たちの教えに基づく倫理と統治の伝統であり、学問による自己修養、親や師への敬意、正しい礼、道徳的に教育された官吏による統治を重んじる。文廟において孔子は奇跡を起こす神としてではなく、「至聖先師(しせいせんし)」、すなわち最も優れた聖人にして第一の師として祀られ、その位牌は中央の祭壇に置かれる。春と秋の祭祀では供物が捧げられ、学者たちは感謝と誓いのしるしとして祭壇の前で礼をした。

文廟はまた、政治的な意思表示でもあった。孔子を讃え、国子監と科挙を孔子に結びつけることで、ベトナムの支配者たちは独立した王国を治めながらも、中国と同じ古典文明にのっとって統治していると主張した。進士碑はこの考えをはっきりと表している。碑文は人材を求めた君主を讃え、合格者を学問によって国家に尽くす人物として描く。家族や村にとって、碑に名前が刻まれることは末長く続く名誉であり、今日でも多くのベトナム人が合格者の中に先祖の名を探しに訪れる。

儒教は他の信仰に取って代わったわけではない。李朝・陳朝の時代には仏教や道教と共存しており、初期の試験の一つには「三教」についての知識を問うものさえあった。宋の学者・朱熹によって体系化された性理学(新儒学)が国家の支配的な思想となったのは、15世紀に入ってからのことである。朱熹自身も、聖域に祀られる十人の哲人の一人に数えられている。

多くのベトナム人にとって、文廟は学問を愛する国民性(ヒエウホック)と師を敬う心(トンストロンダオ)の象徴でもある。今日この場所で行われる習わしには、追悼と願いが入り混じっている。学生たちは試験を前に供物を捧げたり祈ったりし、旧正月には人々が書家に「徳」や「忍」といった文字を書いてもらう。こうした習わしは生きた伝統の一部であり、古くからの祭祀と同じように尊重されるべきものである。

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中級

その後の歴史: フエ遷都、フランス植民地時代、戦争

18世紀後半、西山(タイソン)の蜂起が黎朝と鄭氏の両方を打ち倒し、その戦乱の中で文廟も被害を受けた。1802年に国を統一した阮朝はフエを都と定め、1803年にはそこに新たな学問所を設立した。これが後にフエの国子監と呼ばれるようになる。ハノイの文廟は地方の文廟となり、その学問所は地方の学校へと姿を変えた。旧国子監の跡地には、孔子の両親を祀る啓聖祠(けいせいし)が建てられた。新たな進士碑は1820年代以降、フエの文廟に建てられるようになった。

とはいえ、阮朝がハノイの文廟をないがしろにしたわけではない。1805年には奎文閣が増築され、1863年には地方の官吏たちが碑亭を再建し、倒れた石碑を立て直し、摩耗した銘文を彫り直した。この工事を記録した碑は今も残っている。そして1888年には、同慶帝(Đồng Khánh)の治世下で大規模な修理が行われた。

フランスがトンキンを保護領とした後、文廟は1906年に史跡として登録された。フランス極東学院(EFEO)が調査と修理を担い、1951年にはベトナムの学者チャン・ハム・タン(Trần Hàm Tấn)が同学院の紀要に文廟に関する詳細な研究を発表した。当時の写真には、礼装をまとった官吏たちが文廟に立つ姿が残っている。

第一次インドシナ戦争は深刻な被害をもたらした。1946~47年、フランス軍の砲撃により旧国子監跡の啓聖祠の建物が破壊され、基壇と礎石、石の硯だけが残った。境内の一部は近隣のサン・ポール病院の拡張のために接収された。1954年以降、ハノイの新政府が修復を開始し、1962年に文廟は国家史跡に指定された。荒れ果てていた碑の庭園も少しずつ復元されていった。

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中級

修復と評価、そして亀を撫でる問題

1988年に遺跡の管理・修復を担う組織が設立され、1990年代には大規模な事業が続いた。大成殿と排水設備が修理され、池が浚渫され、1994年には碑亭が再建されて石碑が列を成すよう並べ直され、最も古い二基(1442年・1448年のもの)が中央の亭に置かれた。1999年から2000年にかけては、タンロン・ハノイ990周年を記念して旧国子監の跡地に太学の中庭が再建され、2000年10月に竣工式が行われた。

国内外からの評価も相次いだ。82基の進士碑は2010年3月9日、マカオでの会議において、まずユネスコの世界の記憶(アジア太平洋地域リスト)に登録され、続いて2011年に国際登録簿に登録された。参考資料に両方の年が併記されるのはこのためである。これは阮朝の版木に続く、ベトアムにとって二番目の世界の記憶登録であった。2012年には文廟全体が特別国家遺跡に指定され、奎文閣がハノイの象徴として選ばれた。

人気は問題も引き起こした。長年にわたり、訪問者、とりわけ試験の合格を願う学生たちが石の亀の頭を撫で続けたため、石の表面がすり減ってしまった。これを防ぐため、現在は石碑の周囲に柵が設けられ、訪問者には触ったり登ったりしないよう求められている。この事例は小さいながらも明確に、脆い遺産を保護しつつ、それに意味を与えてきた生きた習わしから切り離さないようにするという、より広い保存のジレンマを示している。

真正性をめぐる議論もある。太学の中庭のように、古い基壇の上に伝統様式で新たに設計された建物を、11世紀の遺跡の一部としてどこまで示してよいのかという問いが繰り返し提起される。大衆観光や催事、周辺都市の開発による圧力も懸念材料である。これに対しては、ベトナムの廟は常に修理され、再建されてきたのであり、用途と意味の継続性は、それぞれの木材の古さと同じくらい重要だという答えがよく返される。

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学術的な論点: 年代、数、そして「最初の大学」という表現

1070年という創建年は、15世紀に以前の年代記をもとに編纂された『大越史記全書』と、1888年の大成門の扁額のような後代の銘文に基づいている。李朝時代のタンロンに文廟が存在したことに疑いはないが、11世紀の文廟が現在とまったく同じ場所に建っていたか、その配置が現在のものとどう関係するかは、文献史料だけからは証明できない。国子監の建物の年代を1076年とするか1077年とするかについても二次資料によって異なり、現代の要約でさえ年代記を一様には踏襲していないことをうかがわせる。

国子監を「ベトナム最初の大学」と呼ぶ表現は、ベトナムの文献や観光案内でよく見られる。歴史家たちは、これがあくまで比喩であると指摘する。国子監は経典によって官吏を育成する宮廷の機関であり、中世ヨーロッパの大学よりも中国の国子監に近く、入学者や教育課程、その継続性も李朝・陳朝・黎朝の間で大きく変化した。またその役割は、チュー・ヴァン・アンが故郷の村で開いた私塾のような私的な教育とも並存していた。

試験と碑の数もまた未解決の問題である。1442年から黎朝最後の試験である1787年までのすべての殿試を数えると約124回、正規の進士科のみを数えると約117回となる。進士碑に関するベトナム語版ウィキペディアの記事は、公表された研究をもとに、碑が建てられたことが確認できる試験は91回で、そのうち82基が現存し、年代記には碑が建てられたと記録されながら(1469年や1472年を含む)今では失われた試験が九回あると述べている。1976年4月、境内の池の底から碑を伴わない石亀の台座が発見されたことから、ハノイの歴史家グエン・ヴィン・フック(Nguyễn Vinh Phúc)らはこれを「83基目の碑」として言及することもあるが、その石板は見つかっていない。このため合格者の数え方によって、およそ1,303人から1,323人まで幅がある。

最後に、石碑を史料としてどう読むべきかについても歴史家の間で議論がある。碑文は人材を重んじる理想化された君主像を描き出している。それらは宮廷の官吏によって作られ、時には記録対象の試験から数十年後に書かれたものもあり、1863年の修理のように後世に彫り直されたり配置し直されたりした碑板もある。したがって進士碑は一次史料であると同時に後代の再構成でもあり、それぞれの銘文の年代と信頼性は個別に評価されなければならない。

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史料と方法: 年代記、金石文、建築

文献史料。中心となる叙述史料は官撰の年代記であり、とりわけ『大越史記全書』と、19世紀の官撰史書『欽定越史通鑑綱目』が、廟と国子監の創建、試験、修理を記録している。レー・クイ・ドンの『見聞小録』(1770年代)は18世紀の建物を描写している。合格者名簿である登科録などの試験記録によって、石碑の内容を照合することができる。

金石学。境内に残る進士碑やその他の銘文 ― 1863年の修理を記念する碑、門や堂に掲げられた扁額や柱聯、1998年にヴァン湖を浚渫した際に発見された1942年のヴァン湖に関する碑 ― は、それ自体が史料である。20世紀初頭以来、フランス極東学院、後にはベトナムの漢喃研究院の学者たちがこれらを判読し翻訳してきた。たとえばチャン・ハム・タンの1951年の研究は、二基の石碑の全訳を発表し、この地の管理上の変遷をたどった。

美術史。亀の形や石板の装飾は、前期黎朝、莫朝、復興した黎朝の各時代によって見分けられるほどに変化しているため、様式は年代の記されていない、あるいは彫り直された碑の年代を推定する助けとなる。ただし石碑は移動され、別の亀の上に据え直され、修理も受けているため、見かけ上の様式の違いは銘文や修理の記録と照らし合わせて確認する必要がある。

建築と景観。曲阜や他のベトナムの文廟との比較は、借用された名称や観念を現地の建築慣行から区別する助けとなる。木組みと修理銘文の分析からは、現存する建物の大半が17世紀から19世紀より古くないことが分かる。ハノイ文廟が示す方法論上の教訓は、遺跡が主張する年代(1070年)と目に見える建物の年代とは別物であり、その両方がその遺跡の歴史に属しているということである。

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重要なポイント

廟と学問所
儒教の祭祀を行う文廟と、官吏を育てる国子監が一つの場所に共存し、祭祀と学問が結びついていた。
人材こそ国家の元気
1442年の石碑に刻まれた考え方で、国家の力は教育を受けた徳のある人々にかかっているというもの。今日のベトナム人がこの地を記憶する中心的な概念である。
科挙国家
1075年から1919年まで、ベトナムの歴代王朝は儒教経典の試験によって官吏を登用しており、進士碑はその制度の最高段階を讃えている。
天と地
四角い天光井と奎文閣の丸窓は、伝統的に、学問の場で地と天が出会うことを表すと解釈されている。
石に刻まれた顕彰
合格者の名前を亀の背の石碑に刻むことで、個人の成功が家族・村・国家にとって末長く続く公的な名誉へと変えられた。
生きた遺産
文廟は保護された史跡であると同時に、今も習わしが続く場所であり、そこから保存と利用のあいだに緊張が生まれる。
積み重なる再建の層
この地の創建年は1070年だが、目に見える建物の大半はずっと後代のものであり、修理の歴史を理解することがこの遺跡を理解することにつながる。

記録

  1. 1070年 — 李聖宗がタンロンに文廟を建て、孔子とその弟子たちの像を祀る。
  2. 1076年 — 李仁宗が文廟の隣に王立学問所・国子監を設立する。
  3. 1253年 — 陳太宗が国子監を国学院と改称し、儒学者を招いて経典を講義させる。
  4. 1370年頃 — 師チュー・ヴァン・アンが没し、後に文廟に祀られる。
  5. 1484年 — 黎聖宗が1442年以降の試験のための最初の進士碑を建てさせる。
  6. 1653年 — 1554年以降の試験を記録する、最大規模の石碑建立が行われる。
  7. 1780年 — 1779年の試験を記録した、現存する最後の石碑が建てられる。
  8. 1803年 — フエを都とした阮朝がそこに新たな学問所を設立し、ハノイの文廟は地方の文廟となる。
  9. 1805年 — 北部地方の総鎮グエン・ヴァン・タインが奎文閣を建てる。
  10. 1906年 — フランス植民地当局が文廟を史跡として登録する。
  11. 1947年頃 — 第一次インドシナ戦争中のフランス軍の砲撃により、旧国子監跡の建物が破壊される(1946~47年)。
  12. 2010年 — 進士碑82基がユネスコ世界の記憶アジア太平洋地域リストに登録される(国際リストへの登録は2011年)。

用語集

文廟(ヴァンミエウ)
孔子を祀る廟。前近代のベトナムの多くの町にあった。
国子監(クオックトゥザム)
学者や官吏を育てる王立学問所。中国の国子監に由来する名称で、ハノイでは1076年に設立された。
進士(ティエンシー)
最高段階の試験に合格した者に与えられた称号。しばしば「博士」と訳される。
殿試(ティンディン)
科挙の最終段階である宮廷試験。君主が問題を出し、合格者の順位を定めた。
石碑(せきひ)
銘文を刻んで立てた石の板。ハノイ文廟の進士碑は亀の形の台座の上に立っている。
奎文閣
1805年に建てられた楼閣で、文廟とハノイ市の象徴である。
天光井
第三の中庭にある四角い池。両側に進士碑が並ぶ。
儒教(ニョーザオ)
孔子と経典に基づく倫理・政治の伝統。学問と礼、道徳的な統治を重んじる。
性理学(新儒学)
朱熹と結びついた儒学の再解釈。15世紀のベトナムで国家の正統思想となった。
特別国家遺跡
ベトナムの史跡保護における最高位の区分。文廟は2012年に指定された。

よくある質問

ハノイ文廟は本当に大学だったのですか。

儒教の経典によって官吏を育てる王立の学問所でした。ベトナムでは国最初の大学と呼ばれていますが、歴史家は現代やヨーロッパの大学とはかなり異なっていたと指摘しています。

石碑はなぜ亀の上に載っているのですか。

ベトナムの伝統では亀は長寿と知恵を表す神聖な生き物とされ、学者たちの名前が永遠に記憶されるようにという願いを込めて、石碑が亀の背に載せられました。

幸運を願って亀に触ってもよいですか。

以前はよく触られていましたが、撫でることで石がすり減ってしまったため、現在は柵が設けられ、触らないよう案内されています。

1070年当時のものは何か残っていますか。

確実に当時のものと言えるものはほとんどありません。創建は1070年ですが、大半の建物は17世紀から19世紀にかけて建て直され、五番目の中庭は2000年に建てられたものです。

石碑には何回分の試験が記録されていますか。

現存する82基の石碑は、それぞれ1442年から1779年までの間に行われた殿試を一回ずつ記録しています。もともとはさらに多くの碑があり、一部は失われたと考えられています。

進士碑はいつユネスコ世界の記憶に登録されたのですか。

2010年3月9日、マカオでの会議でアジア太平洋地域リストにまず登録され、2011年に国際リストに登録されました。そのため両方の年が併記されているのです。

19世紀に国子監の重要性が失われたのはなぜですか。

阮朝が都をフエに移し、1803年にそこへ新たな学問所を設立したため、ハノイの文廟は地方の儒教廟となりました。

出典・参考文献

  1. Temple of Literature, Hanoi. Wikipedia
  2. Văn Miếu – Quốc Tử Giám. Wikipedia (ベトナム語版)
  3. Stone stele records of imperial examinations of the Lê and Mạc dynasties. Wikipedia
  4. Bia tiến sĩ Văn Miếu Thăng Long. Wikipedia (ベトナム語版)
  5. Confucian court examination system in Vietnam. Wikipedia
  6. Chu Văn An. Wikipedia
  7. Imperial Academy, Huế. Wikipedia
  8. 문묘 (하노이). Wikipedia (韓国語版)
  9. Trần Hàm Tấn, Étude sur le Văn-miếu de Hanoi (Temple de la Littérature). Bulletin de l’École française d’Extrême-Orient 45 (1), 1951
  10. Văn Miếu – Quốc Tử Giám (公式サイト). Trung tâm Hoạt động Văn hóa Khoa học Văn Miếu – Quốc Tử Giám
  11. Stone Stele Records of Royal Examinations of the Le and Mac Dynasties (1442–1779). UNESCO Memory of the World Committee for Asia and the Pacific (MOWCAP)

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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