文学

ナガラクルタガマ(デーシャワルナナ)

Nāgarakṛtāgama · Deśawarṇana (Old Javanese kakawin)

1365年 · 東ジャワのマジャパヒト宮廷(マジャパヒト王国)

ひとことで

『ナガラクルタガマ』は1365年、仏僧の詩人プラパンチャによって古代ジャワ語で書かれた長編詩で、マジャパヒト王国のハヤム・ウルク王をたたえ、その宮廷や旅、そして王に敬意を払ったとされる数多くの土地について描いている。

ナガラクルタガマ(デーシャワルナナ)
画像: Unknown authorUnknown author · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

  • やさしい
  • 中級
  • 上級

子ども向け

650年以上前、ジャワ島には強大な王国、マジャパヒトがありました。若き王ハヤム・ウルクは、荷車や役人、僧侶たちを引き連れた長い行列とともに国じゅうを旅し、村々や寺院、先祖の墓を訪ねるのを好みました。

宮廷を退いたある詩人が、プラパンチャという名でこの王についての長い詩を書きました。彼は赤いレンガの壁に囲まれた王宮、祭り、王の祖母のための儀式、そして田舎道を行く長い旅の様子を描きました。さらに彼は、スマトラからニューギニアに至るまで、マジャパヒトを敬っていたとされる島々や国々のリストまで作りました。

この詩は「カカウィン」と呼ばれる特別な詩形で書かれています。長い音節と短い音節を厳密に組み合わせる決まりがあり、音楽に少し似ています。一つの詩節は4行から成ります。プラパンチャはこの書物に「諸地方の記述」という題をつけましたが、今日の人々は、後の時代のある写字生が末尾に書き加えた別の名前、『ナガラクルタガマ』という名でこれを呼ぶのが普通です。

何百年ものあいだ、この詩はバリ島やロンボク島でヤシの葉に手で書き写されてきました。1894年、植民地戦争のさなか、あるオランダ人学者が王宮の図書室からこのヤシの葉の本の一冊を救い出しました。後にオランダはこれをインドネシアに返還し、今日ではジャカルタの国立図書館に保管されています。

インドネシアの人々はこの詩を宝物と見なしています。それは自分たちの過去について多くを教えてくれるだけでなく、多くの島々が一つに結びついているというその姿が、インドネシアの独立のために働いた人々を鼓舞したからです。しかし歴史家たちは同時に、賛美の詩は王を実際よりも壮大に描くことがあるということも忘れてはいません。

ひと目でわかる

成立
サカ暦1287年アシュワユジャ月(西暦1365年9~10月)に完成
作者
ムプ・プラパンチャ(筆名)。かつてマジャパヒト宮廷と関わりのあった仏僧
言語と形式
古代ジャワ語(カウィ語)。サンスクリット由来の韻律を用いたカカウィン形式の詩
分量
98編(ププ)、49編ずつの二部構成。各編は4行から成る詩節を1~10個含む
内容
ハヤム・ウルク王(ラージャサナガラ、在位1350~1389年)への賛美。王家、都、王の巡行、先祖の祭祀、宗教施設、領域について
原題
デーシャワルナナ(Deśawarṇana、「諸地方の記述」の意)。「ナガラクルタガマ」という名は1740年のバリの写字生による奥書に由来する
写本
ロンボクとバリのヤシの葉(ロンタル)写本。ロンボクの写本は現在インドネシア国立図書館が所蔵
登録
ユネスコ「世界の記憶」(2008年にアジア太平洋地域リスト、2013年に国際リストへ登録)

やさしい

『ナガラクルタガマ』とはどのような作品か

『ナガラクルタガマ』は、14世紀のジャワで最も強大であった王国マジャパヒトの王ハヤム・ウルクの治世下、西暦1365年(サカ暦1287年)に完成した古代ジャワ語の詩である。作者はプラパンチャという筆名を用いた。この詩は王を讃える頌詩であるが、同時に王の宮廷や都、そして東部ジャワの農村を生き生きと描き出したものでもあり、最盛期のマジャパヒトの歴史を伝える最も重要な文献史料である。

この詩はカカウィンと呼ばれるジャンルに属する。これは、9世紀以来ジャワで栄えてきた文学の伝統であり、サンスクリットの韻律規則にのっとって古代ジャワ語で作られる長編詩である。『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』といったインドの叙事詩を語り直すことが多い他のカカウィンとは異なり、『ナガラクルタガマ』は同時代の出来事や実在の場所を扱っている。これこそが、歴史家たちがこの作品をこれほど高く評価する理由である。

作者自身はこの作品を、詩の終わり近くに登場する題名『デーシャワルナナ』、すなわち「諸地方の記述」と呼んでいた。より広く知られている『ナーガラクリターガマ』という名前は、通常「伝統において完成された国家」あるいは「国家についての完全な教え」と訳されるが、これは1740年にバリで書き写されたある写本の奥書にのみ見られるものである。オランダ人学者J・L・A・ブランデスが1902年の最初の校訂版でこの名を用いたことから、以後これが一般的な呼び名として定着した。

この詩は、マジャパヒトの滅亡後もジャワの宮廷文学が書き写され続けたロンボクとバリの島々に伝わるヤシの葉の写本として現存している。1894年にロンボクで発見された写本は、現在インドネシア国立図書館に所蔵されている。ユネスコは『ナガラクルタガマ』を「世界の記憶」事業において文献遺産として認定した。

[1][4][8]

やさしい

詩には何が書かれているか: 98編の地図

『ナガラクルタガマ』は98編(ププ)から成り、49編ずつの等しい二部に分かれている。各編は4行から成る詩節を1つから10個含んでいる。その構成は緻密であり、研究者たちはその対称性に注目してきた。

前半は王とその一族への賛美から始まり、続いてマジャパヒトの都と王国領、そして有名な海外地域のリストを描写する。この前半で最も長い部分は、王が東部ジャワを横断してルマジャンに至る大規模な巡行に従うもので、村々、聖地、貴族の領地への立ち寄りが描かれる。前半は、シンガサリ王朝の始祖ラージャサ(ケン・アンロク)からクルタナガラに至る系譜、そしてマジャパヒトの始祖クルタラージャサからハヤム・ウルクに至る系譜をもって締めくくられる。

後半は、ナンダワの森での王の狩猟と都への帰還、王による先祖への配慮、とりわけ祖母であるラージャパトニのための盛大な追悼儀礼(シュラッダ)、宰相ガジャ・マダの死、ジャワとバリにおける宗教施設のリスト、そして毎年繰り返される宮廷の会合、行列、祭りの周期について描いている。

最後の数編は詩人自身へと向けられる。他の詩人たちが王に捧げた賛辞、そして宮廷を離れ山間の村に暮らしながら、王が忠実な旧臣を思い出してくれることを願うプラパンチャ自身の境遇である。このような個人的な結び方は珍しく、この詩に人間的な声を与えている。

[1][7]

やさしい

王とともに旅する

この詩の中で最も生き生きとした部分の一つが、王が自らの領国を巡る旅の描写である。マジャパヒトの王たちは巡行を行い、領国の隅々を訪れて地方の領主を引見し、寺院を視察し、先祖の聖地に参拝した。宮廷とともに旅をしたプラパンチャは、荷車と従者たちの長い行列、山や川、水田が広がる風景、そして王が滞在した村々を描写している。

詩人は道中の数十もの地名を挙げており、その多くは今日でも東部ジャワの村や遺跡と照合することができる。このためこの詩は一種の歴史地理書としての性格も持ち、現代の研究者たちは実際にその経路を現地でたどり直してもいる。

この巡行にはまた、宗教的な目的もあった。王は曾祖父クルタナガラを祀るチャンディ・シンガサリや、シンガサリ王統の始祖ラージャサの聖地カグネガンを訪れて参拝した。死後に神格化された先祖を敬うことによって、王国を守ると信じられていた霊的な力を強めたのである。

こうした旅はまた、政治的な演出でもあった。王が地方に自ら姿を現すことで、地方の統治者たちは自らの忠誠を再認識し、王に捧げられる贈り物やもてなしはその服従の表れであった。詩はこれらの場面を、王とその民とのあいだの喜ばしい調和として描いている。

[1][5][8]

中級

詩人プラパンチャ

「プラパンチャ」は筆名である。サンスクリット語ではこの語は「多様性」あるいは「世界の展開」を意味しうるものであり、仏教哲学においては概念が際限なく増殖することを指す「戯論」を意味する。インドネシアの学者たちの中には、これを「当惑」の意と解釈する者もおり、また作者の本名が5音節であったことを暗示しているのではないかと考える者もいる。詩人は自らを、宮廷の仏教官吏の息子であり、かつては自身も宮廷に仕えていたと語っている。

インドネシアの歴史家ハディ・シドムリョは、プラパンチャが1358年の勅許状に仏教関係を統轄する長官(ダルマーディヤクシャ・リン・カソガタン)として名の挙がっているダン・アーチャーリヤ・ナデンドラであったと提唱した。この同定はもっともらしいものではあるが、確実とは言えない。テオドール・ピゲーやP・J・ゾートモルダーといった以前の専門家たちは、詩人自身がその高位の官職にあったかどうかについて疑問を呈していた。

プラパンチャは、宮廷を退いた後、山の斜面にあるカマラサナと自ら呼ぶ村でこの詩を書いた。最後の数編において、彼は自らを自嘲気味に、導きを必要とする滑稽な人物として描いている。この詩はどうやら王の命によって作られたものではなく、王の恩寵を期待する元臣下によって献じられたもののようである。

仏僧としてのプラパンチャの立場は、彼が何に注目したかを規定した。彼はシヴァ教と仏教双方の宗教施設、宮廷の儀礼、そして王家の霊的な地位に大きな関心を払った。また彼は、カカウィンの伝統における韻律や約束事を十分に身につけた、優れた詩人でもあった。

[1][3][7]

中級

歴史的背景: 最盛期のマジャパヒト

マジャパヒトは、元朝が派遣したモンゴル軍によるジャワ遠征の直後、1292年にラデン・ウィジャヤによって建国された。シンガサリ最後の王クルタナガラの娘婿であったウィジャヤは、まずモンゴル軍と手を結んで簒奪者ジャヤカトワンを打倒し、その後モンゴル軍を追い払った。今日の東部ジャワ、トロウランに近い場所に築かれた新しい都は、ブランタス川流域の豊かな水田と交易を基盤とする王国の中心地へと発展した。

この王国は14世紀半ば、トリブワナー女王とその子ハヤム・ウルク、そして宰相ガジャ・マダのもとで最盛期を迎えた。ハヤム・ウルクは1350年、16歳で王位に就いた。後代の伝承によれば、ガジャ・マダは1336年、群島の島々をマジャパヒトのもとに一つにまとめるまでは休まないと誓う「パラパの誓い」を立てたという。軍事遠征と外交によって、マジャパヒトの影響力はジャワをはるかに超えて広がった。

『ナガラクルタガマ』はこの力と自信に満ちた瞬間を描いている。しかしながら、いくつかの痛ましい出来事についてはまったく触れていない。後代の年代記『パララトン』や『キドゥン・スンダ』といった他の史料は、1357年のブバットの事件について伝えている。これは、ハヤム・ウルクとスンダの王女との婚姻の予定のためにマジャパヒトを訪れたスンダの王族一行が、マジャパヒト軍との衝突によって殺害された事件である。この詩がこの件について沈黙していることは、この作品が持つ賛美詩としての性格をあらためて示している。

1389年のハヤム・ウルクの死後、王位継承をめぐる争いと1405~06年のルグレグ戦争が王国を弱体化させた。マジャパヒトは15世紀を通じて衰退していき、ジャワ北岸にイスラム系の港市国家が勃興する中、16世紀初頭にその歴史を終えた。多くの貴族、僧侶、芸術家がバリへと移り住んだが、これがマジャパヒト文学がバリで生き延びた理由の一つである。

[4][5][6]

中級

都と宮廷

この詩は、マジャパヒトの都について詳しく記した唯一の同時代史料である。王宮の区画は、厚く高い赤レンガの壁に囲まれていた。北側の壁にある正門には装飾を施した大きな鉄の扉があり、その外側には、廷臣たちが年に一度集まる長い会堂、市場、そして神聖な四つ辻があった。内側には宗教建築の並ぶ中庭、沐浴用の水路に囲まれた東屋、宮廷に仕える者たちの住居、そして拝謁を待つ人々のための大きな会堂があった。

王自身の住まいには、装飾を施した赤レンガの基壇の上に東屋が設けられ、彫刻を施した木の柱と、素焼きの装飾で飾られた屋根があった。王宮の周囲にはシヴァ教の司祭、仏教徒、貴族たちの居住区が広がり、さらに遠く、野原を隔てた先には、ガジャ・マダの邸宅を含む他の王族の区画があった。

トロウランでの考古学調査は、マジャパヒトがレンガ建築の文明であったことを裏づけている。水路、スガランの池のような貯水池、中央で分かれた門(チャンディ・ブンタル)、そして大量のテラコッタ彫刻や生活用品が発見されている。航空写真や衛星画像は、遺跡周辺に張り巡らされた水路網を明らかにした。この詩と発掘調査は互いを補い合うものであるが、個々の記述を特定の遺構と対応させることはしばしば難しい。

この詩が描く宮廷生活は、毎年繰り返される儀礼の周期を中心に組み立てられていた。各地の代表者たちが敬意を表するために都へやって来て、行列や余興、舞踊、宴が催された。東屋や中庭についてのこの詩の描写は、後代のジャワの王宮(クラトン)やバリの寺院・王宮の配置と比較されてきた。

[1][4]

中級

宗教: シヴァ、仏陀、そして神格化された先祖

マジャパヒトは公式にはヒンドゥー教(シヴァ教、そしてそれより小規模なヴィシュヌ教)と仏教の双方を奉じており、この詩は宮廷が両方の共同体を支援していた様子を伝えている。プラパンチャはそれぞれの宗教施設を列挙し、シヴァ教と仏教それぞれの事務を担当する官吏について描写している。この詩はイスラム教には言及していないが、都の区域内にあるトロロヨで発見された1360~70年代のイスラム式墓石は、すでに宮廷の近くにイスラム教徒が存在していたことを示している。

この詩に見られる印象的な考えの一つが、シヴァと仏陀の合一である。プラパンチャは、亡くなった王クルタナガラが、ジナ(仏陀)やシヴァ・仏陀を含むいくつかの姿で神格化されたと記し、彼を世界の守護者として讃えている。二つの宗教を最高位の次元で融合させるこの考え方は、同時代のムプ・タントゥラルによる詩『スタソマ』にも表れており、インドネシアの国家標語「ビネカ・トゥンガル・イカ」(通常「多様性の中の統一」と訳される)は、まさにこの詩に由来する。

王家の先祖崇拝は、この詩の中心的な主題であった。王の祖母であり、クルタナガラの娘であったラージャパトニ(ガーヤトリー)のためのシュラッダ儀礼についての長い記述は、七日間にわたる荘厳な祭典の中で、司祭たちが獅子の玉座に置かれた花の人形へと彼女の魂を招き降ろす様子を描いている。その後、彼女は新たな聖堂において、仏教の智慧の女神プラジュニャーパーラミターとして祀られた。

プラパンチャにとって、こうした祭祀は単なる信仰の行為であるだけでなく、王国の繁栄の源でもあった。王は神性の顕現として描かれ、儀礼を正しく執り行うことが、国の繁栄と秩序を保証すると考えられていた。

[1][4]

中級

カカウィンという芸術

カカウィンは、サンスクリットの華麗な宮廷詩カーヴィヤのジャワ的形式である。各詩節は同じ韻律の4行から成り、その韻律はサンスクリットの長短音節の体系に基づいている。詩人は、サンスクリットからの借用語を多く含む古代ジャワ語をこの型に当てはめなければならず、そこには高度な技巧が求められた。『ナガラクルタガマ』は編ごとに異なる、実にさまざまな韻律を用いている。

カカウィンは声に出して読まれる、あるいは歌われることを前提としており、娯楽であると同時に信仰の行為としても価値を認められていた。詩を作ることは一種のヨーガとして理解されることがあり、詩句の美しさは神性をこの世に現す方法とも考えられた。プラパンチャがこの詩を王に捧げたことは、詩を捧げ物と見なすこうした考え方に沿うものである。

この伝統における先行する古典、たとえばマタラム時代の古代ジャワ語版『ラーマーヤナ』や11世紀の『アルジュナウィワーハ』は、その物語をインドの叙事詩から取っていた。14世紀のマジャパヒトにおいても、タントゥラルの『スタソマ』や『アルジュナウィジャヤ』といった作品によってこの伝統は続いていった。『ナガラクルタガマ』が際立っているのは、自然、恋愛、戦闘の描写といったこのジャンルの慣習的手法を、実際の同時代の生活へと向け直している点にある。

この詩の言語は極めて文学的で暗示に富んでいるため、その解釈は緻密な文献学に大きく依存している。翻訳者たちは、たとえば地名のリストが実際の支配を示すのか、それとも詩的な賛美にすぎないのか、また、ある語が建物の一種を指すのか、それとも儀礼を指すのかを判断しなければならなかった。翻訳によって、時にかなり異なる印象が与えられることもある。

[1][4][8]

中級

ヤシの葉から国家の宝へ

プラパンチャ自身の時代の写本は一つも現存していない。この詩は、ジャワの宮廷文化が広まっていたバリとロンボクの写字生たちによって、ヤシの葉(ロンタル)に何度も書き写されてきた。写字生の一人、アルタ・パマサは、1740年に東部バリでその写しを完成させ、この作品を『ナーガラクリターガマ』と名づける奥書を書き加えた。

1894年、オランダの植民地軍がロンボクのチャクラヌガラの王宮を攻撃した。この遠征に同行していた文献学者J・L・A・ブランデスは、王宮が焼き払われる前に王室図書室の写本を救い出したとされている。これらの写本は「ロンボクの宝」と呼ばれる戦利品の一部として持ち去られた。『ナガラクルタガマ』の写本はライデン大学図書館(請求記号L Or 5.023)へと渡り、ブランデスはこれが唯一の写本であると信じて1902年に最初の校訂版を出版した。

1970年代、オランダはこの写本をインドネシアに返還した。返還の正確な時期については資料によって1970年から1974年のあいだで異なっている。写本は現在、インドネシア国立図書館にNB 9という番号で保管されている。1978年以降、バリでさらなる写本が発見されており、カランガスムのアムラプラで見つかった『デーシャワルナナ』と題する写本をはじめ、僧侶の家系(ゲリヤ)や王宮の所蔵品からも写本が見つかっている。これらの写本のおかげで、学者たちは本文を改善することができた。

ロンボクをめぐるこの出来事は、この詩の生存が植民地支配の暴力と分かちがたく結びついていることを示している。学者によって炎の中から救い出された文書は、同時に征服の戦利品でもあったのである。後の返還によって、この写本はインドネシアの文化的主権の象徴となった。ユネスコは2008年に『ナガラクルタガマ』をアジア太平洋地域の「世界の記憶」リストに、2013年には国際リストに登録した。

[1][2]

中級

遺産: マジャパヒトとインドネシアという理念

20世紀初頭に翻訳されて以来、『ナガラクルタガマ』は、ヨーロッパによる植民地支配以前に群島の島々を結びつけていた偉大な土着国家の生き生きとした姿を、インドネシアの人々に示すこととなった。民族主義の指導者たちは、統一されたインドネシアの先駆けとしてのマジャパヒトのこのイメージを引き合いに出し、この詩は独立運動を鼓舞するものとなった。

その影響は現代の象徴の中にも生き続けている。ガジャ・マダの「パラパの誓い」は、1976年から打ち上げられたインドネシア最初の通信衛星シリーズにその名を与えた。これは、通信によって群島を一つに結ぼうとするものであった。国家標語「ビネカ・トゥンガル・イカ」は、同じマジャパヒトの文学世界に属する詩『スタソマ』に由来する。

東南アジアの歴史家たちにとって、この詩はまた、国家を固定された国境ではなく、中心と忠誠・朝貢の関係によって規定する「マンダラ」モデルの政治権力を理解するための重要な史料でもある。スマトラ、ボルネオ、マレー半島、スラウェシ、小スンダ列島、マルク諸島、そして西部ニューギニアに関する地域のリストや、シャム、チャンパ、カンボジアとの関係についての言及は、マジャパヒトの権力の性格をめぐる議論の中心に位置している。

この地域の他の国々では、同じリストが異なる形で読まれることもある。この詩に登場する地名は、現在ではマレーシア、シンガポール、ブルネイ、フィリピン、東ティモールに位置しており、それらがマジャパヒトの従属地であったという主張は、インドネシア国外の歴史家たちによって慎重に扱われている。したがってこの詩は、地域で共有された歴史と、それぞれの国家の物語とが出会う地点に位置しているのである。

[1][4][6]

上級

論争: 賛美の詩はどこまで信頼できるか

『ナガラクルタガマ』はプジャシャストラ、すなわち統治者を讃えるための文学作品であり、王の恩寵を期待する宮廷内部の人物によって書かれたものである。そこに記されているすべては、王とその王朝を讃美するように形づくられている。それゆえ学者たちはこれを批判的に読む。ブバットの事件のように宮廷にとって都合の悪い出来事は省かれ、王の資質は神聖な王権という理想化された言葉で描かれている。

最も議論の対象となってきた箇所は、ジャワ島外の数十の土地の名を挙げる第13~15編である。以前の歴史家たちはしばしばこれを、現代のインドネシアの大部分、さらにはそれを超える範囲を覆うマジャパヒト帝国の地図として読んできた。しかし今日では多くの学者が、マジャパヒトの直接統治は東部ジャワとバリをそれほど大きく超えるものではなく、遠方の土地との結びつきは交易、朝貢、時折の軍事遠征、あるいは単に詩人の地理的知識にとどまるものであったと論じている。詩そのものも、シャム、チャンパ、カンボジアのような一部の外国の土地については、服属地としてではなく友好国あるいは「保護下にある」国として区別している。

対極の立場として、オランダ人学者C・C・ベルフは、ジャワの年代記一般が持つ史料としての価値そのものに疑問を呈し、それらを主として王権を強化するための儀礼的・呪術的な文書として読んだ。今日の大半の歴史家は、その中間の立場を取っている。すなわち、この詩は宮廷とその地理、儀礼についての真正な同時代の証言ではあるが、その政治的な主張は、碑文、中国側の記録、考古学、そして『パララトン』のような後代の史料と照らし合わせて検証されなければならない、というものである。

この詩に記された出来事の年代づけは、比較的確かなものである。というのも、プラパンチャは時にクロノグラム(年代を暗号のように表す言葉遊び)まで用いてサカ暦による年代を数多く示しており、また、この詩が作中に登場する人々の存命中に作られたものだからである。そのため歴史家たちは、二つの史料が食い違う場合、たとえば王家の系譜の細部などにおいて、はるかに後代に書かれた『パララトン』よりも、この詩の記述を概して信頼する傾向にある。

[4][1][2][7]

上級

校訂版、翻訳、そして表題をめぐる問題

この詩をめぐる学問の歴史は、ロンボクの単一の写本に基づくブランデスの1902年の校訂版から始まった。H・ケルンによるオランダ語訳は、N・J・クロムによる注釈を付して1919年に出版された。インドネシアの歴史家スラメット・ムルジャナは1953年にインドネシア語版を、後には歴史的注釈書を出版した。テオドール・ピゲーによる全5巻の『14世紀のジャワ』(1960~63年)は、転写、英訳、そして詳細な注釈を収めており、今なお標準的な参考文献であり続けている。スチュアート・ロブソンによる英訳『デーシャワルナナ(ナーガラクリターガマ)』(1995年)は、1978年以降に発見されたバリの写本を活用したものである。

ロブソンをはじめとする研究者たちは、作者自身が用いた表題『デーシャワルナナ』を使うべきだと主張してきた。それが、この詩が実際にどのようなものであるか、すなわち王国とその諸地方についての記述であることを的確に表しているからである。後代の奥書にのみ見られる『ナーガラクリターガマ』という名前は、あるバリの写字生がこの作品をどう理解していたかを反映したものにすぎない。インドネシアの学者プールバチャラカはすでに1914年の時点でこの原題を指摘していたが、一般には後代の名称が今なお優勢である。

追加の写本の発見は、この本文がブランデスの考えたような一本の細い糸によって伝わったのではなく、生きたバリの写本文化の中で伝えられてきたことを示している。写本同士を比較することは、書写上の誤りを正すのに役立ち、またバリの読者たちがこの詩をマジャパヒトから受け継いだ遺産の一部として大切にしてきたことを明らかにしている。

未解決の問題も残されている。詩人の正体、いくつかの王の巡行の正確な年代、多くの地名の比定、そして官職、建物、儀礼を指す専門用語の意味などである。古代ジャワ語の語彙は一部しか解明されていないため、P・J・ゾートモルダーが編纂した大部の古代ジャワ語・英語辞典をはじめとする言語研究は、今もなおこの詩の読み方を変え続けている。

[1][2][7][8]

重要なポイント

プジャシャストラ(賛美詩)
この詩はハヤム・ウルク王を讃美するものであり、その情報は豊かではあるが、選択的かつ理想化されている。
カカウィン
サンスクリットの韻律による古代ジャワ語の宮廷詩。『ナガラクルタガマ』はこの学識ある形式を同時代の生活に応用している。
王の巡行
王が領国を巡る旅は、宗教的な参拝、政治的な誇示、そして視察を兼ね備えたものであった。
神格化された先祖
亡くなった王や王妃たちは聖堂において神として祀られ、その祭祀が王国を支えた。
シヴァと仏陀の合一
宮廷は、ヒンドゥー教と仏教の姿を、一つの至高の実在の異なる側面として敬った。
マンダラ的権力
マジャパヒトの『帝国』は、固定された国境というよりも、忠誠と朝貢の同心円を伴う中心として理解するのが最もふさわしい。
文献と国家
植民地支配のもとで再発見されたこの詩は、インドネシアの植民地以前の統一と文化遺産の象徴となった。

記録

  1. 1292年 — シンガサリの滅亡とモンゴル軍のジャワ遠征の後、ラデン・ウィジャヤがマジャパヒトを建国する。
  2. 1334年 — 『ナガラクルタガマ』によれば、クルド山が噴火した年にハヤム・ウルクが生まれる。
  3. 1336年頃 — ガジャ・マダが宰相となり、後代の伝承によれば「パラパの誓い」を立てる。
  4. 1350年 — ハヤム・ウルクが16歳で、ラージャサナガラという王名のもと即位する。
  5. 1357年 — ブバットの事件。後代の史料には記録されているが、この詩には言及がない。
  6. 1364年頃 — ガジャ・マダが死去する。この詩に描かれている。
  7. 1365年 — プラパンチャがサカ暦1287年アシュワユジャ月にこの詩を完成させる。
  8. 1389年 — ハヤム・ウルクが死去し、王位継承をめぐる争いが続く。
  9. 1740年 — バリの写字生が、作品に『ナーガラクリターガマ』と名づける奥書とともに写本を完成させる。
  10. 1894年 — オランダ軍の攻撃の際、J・L・A・ブランデスがロンボクのチャクラヌガラの王宮図書室から写本を救い出す。
  11. 1902年 — ブランデスが最初の校訂版を出版する。
  12. 1978年 — アムラプラのものを皮切りに、バリでさらなる写本が発見される。
  13. 1995年 — スチュアート・ロブソンによる英訳『デーシャワルナナ』が出版される。
  14. 2013年 — この詩がユネスコ「世界の記憶」国際リストに登録される。

用語集

カカウィン
サンスクリット由来の韻律で作られた古代ジャワ語の長編詩。
古代ジャワ語(カウィ語)
9世紀頃から15世紀にかけてのジャワの文学言語で、サンスクリットからの借用語を多く含む。
ププ
一つの韻律で書かれた詩の一編。
ロンタル
書写材料として加工されたヤシの葉。この詩はロンタル写本として伝わっている。
奥書
写本の末尾に書き添えられる、写字生の名前や日付、題名などの情報。
サカ暦
ジャワとインドで用いられた紀年法。サカ暦1287年は西暦1365年にあたる。
シュラッダ
死者のための追悼儀礼。この詩は王の祖母のための盛大なシュラッダを描いている。
プジャシャストラ
統治者を讃えるために書かれた文学作品。
マンダラ
統治者を中心に、従属国や同盟国が同心円状に取り巻くとする政治権力のモデル。
マジャパヒト
東部ジャワのヒンドゥー・仏教王国(1292年~16世紀初頭)。ハヤム・ウルクの治世に最盛期を迎えた。

よくある質問

『ナガラクルタガマ』は誰が書いたのですか。

マジャパヒトの宮廷に仕えていた仏僧が、プラパンチャという名で書きました。本名は確実にはわかっていません。

なぜ名前が二つあるのですか。

詩人自身はこれを「諸地方の記述」を意味する『デーシャワルナナ』と呼びました。『ナガラクルタガマ』という名前は後代のバリの写字生が書いたもので、最初の印刷版がこの名前を用いたことから広く定着しました。

これは歴史書なのですか。

厳密にはそうではありません。これは賛美の詩ですが、その時代の実在の人物、場所、出来事を描いているため、歴史家たちは非常に重要な史料として扱っています。

マジャパヒトは本当にこの詩に登場するすべての土地を支配していたのですか。

おそらく直接には支配していなかったでしょう。多くの歴史家は、マジャパヒトが東部ジャワとバリを直接統治し、より遠方の土地とは交易、朝貢、あるいは同盟といった緩やかな結びつきを持っていたと考えています。

この詩はどのようにして残ったのですか。

何世紀にもわたり、バリとロンボクでヤシの葉に手で書き写されてきました。1894年にロンボクから持ち去られた写本は後にインドネシアへ返還され、1978年以降にはバリでさらなる写本が発見されました。

なぜ今日のインドネシア人にとって重要なのですか。

植民地支配以前に多くの島々を結びつけていた偉大な王国の姿を示しており、それが独立運動を鼓舞したこと、そしてユネスコに認定されたインドネシアの文献遺産の一部であることが理由です。

なぜこの詩はブバットの事件について語らないのですか。

賛美の詩であるため、王や宮廷にとって都合の悪い出来事は省かれているのです。この事件は『パララトン』や『キドゥン・スンダ』といった後代の史料から知られています。

出典・参考文献

  1. Nagarakretagama. Wikipedia
  2. Kakawin Nagarakretagama. Wikipedia (インドネシア語版)
  3. Empu Prapañca. Wikipedia (インドネシア語版)
  4. Majapahit. Wikipedia
  5. Hayam Wuruk. Wikipedia
  6. Gajah Mada. Wikipedia
  7. Theodore G. Th. Pigeaud, Java in the 14th Century: A Study in Cultural History (5 vols.). Martinus Nijhoff, 1960–1963
  8. Stuart Robson (trans.), Deśawarṇana (Nāgarakṛtāgama) by Mpu Prapañca. KITLV Press, 1995

関連記事

上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

← 地図に戻る