文化遺産

ボロブドゥール

Candi Borobudur

780–833年頃 · ボロブドゥール(中部ジャワ)

ひとことで

ボロブドゥールは、インドネシアのジャワ島に約1200年前に築かれた巨大な仏教遺跡で、巡礼者は何千もの物語を刻んだ浮彫を見ながら、階段状の石の山を登る。

ボロブドゥール
画像: Gunawan Kartapranata · CC BY-SA 3.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

ボロブドゥールはインドネシアのジャワ島にあります。約1200年前、火山からできた石を約200万個使って建てられました。中に部屋はありません。階段や広い通路が上へ上へと続く、とても大きな石の山のような建物です。

見学するときは、一つの階をぐるりと歩いてから、次の階に登ります。下の階の壁には、石に彫られた絵が2600枚以上あります。王子として生まれたブッダが、初めて教えを説くまでを描いた絵もあります。ブッダが昔、動物や人として生まれ、親切で勇敢な行いをした話もあります。また、善財という若者が知恵を求め、多くの先生を訪ねる旅も描かれています。

高く登ると、物語の絵はなくなります。丸くて空の見える頂上には、鐘の形をした石のストゥーパが72基あります。それぞれに格子のような穴があり、中には石の仏像が座っています。中央には大きなストゥーパがあります。頂上まで登ることは、にぎやかな日常の世界から、静けさと知恵へ向かう旅を表しています。

ボロブドゥールは何百年もの間、火山灰と森に覆われ、近くの人々も使わなくなりました。1814年に木や土が取り除かれ、広く知られるようになりました。その後、技術者たちは多くの石を一つずつ外し、きれいにしてから、大きなパズルのように組み直しました。

現在、ボロブドゥールは世界遺産で、インドネシアでも特に多くの人が訪れる場所です。毎年のウェーサーカ祭には、仏教徒たちが近くの二つの小さな寺院からボロブドゥールまで行列で歩き、ブッダの誕生、悟り、入滅を祝います。

ひと目でわかる

建造年代
西暦780年ごろから830年代ごろまで、数段階に分けて建造。830年代ごろに完成したと考えられる
場所
インドネシア、ジャワ島中部、マゲラン近郊のケドゥ平野。ジョグジャカルタの北西約40km
建造者
大乗仏教を信仰したマタラム王国(メダン王国)のシャイレーンドラ朝
形態
階段状の山をなすストゥーパ。六つの方形基壇の上に三つの円形基壇と中央のストゥーパがあり、内部空間はない
規模
基底部は約123×123m、現在の高さは約35m。安山岩の使用量は約5万5000m³
装飾
浮彫は2672面(物語を描いたもの1460面、装飾的なもの1212面)。仏像は当初504体、透かし彫りのストゥーパは72基
再発見と修復
1814年から樹木や土砂を除去。1907~1911年にテオドール・ファン・エルプ、1975~1982年にインドネシアとユネスコが修復
登録状況
ムンドゥット寺院、パウォン寺院とともに「ボロブドゥール寺院遺跡群」として1991年にユネスコ世界遺産に登録

やさしい

ボロブドゥールとは?

ボロブドゥールは世界最大の仏教遺跡である。ジャワ島中部の肥沃なケドゥ平野にある低い丘の上に立ち、周囲には火山がそびえ、プロゴ川とエロ川に挟まれている。8世紀末から9世紀初めにかけて、シャイレーンドラ朝の統治下で建てられた。

寺院と呼ばれることが多いが、内部に人々が集まる広間や部屋はない。自然の丘を土台にした、石造りの密実な建造物である。全体が、ブッダとその悟りを表す仏教の記念建造物「ストゥーパ」の一種であり、参拝者が登る聖なる山としても設計されている。

ボロブドゥールは、回廊の壁や欄干を覆う石彫の浮彫で知られる。それらは、仏教の浮彫群として世界でも最大級かつ特に充実したものの一つである。同時に、家屋、船、衣服、楽器、植物、動物など、9世紀のジャワの暮らしを豊かに伝えている。

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やさしい

ボロブドゥールの「読み方」――上へ向かう道

ボロブドゥールは、歩いて体験するように造られている。巡礼者は東側から入り、建物を右手に置いて各階を時計回りに巡る。これは「プラダクシナ」と呼ばれる敬意を表す行為である。一つの階を一周してから、階段で次の階へ登る。四つの方形回廊の壁と欄干には、全長約3kmにわたり、11の系列に分けられた物語の浮彫が並ぶ。

上へ向かう道は、仏教の宇宙観における三つの世界を用いて説明されることが多い。最下部は欲界(カーマダートゥ)で、カルマに関する浮彫のある、覆われた基壇がこれを表す。その上の物語に満ちた方形回廊は色界(ルーパダートゥ)に当たる。最上部の円形基壇は空に開け、物語を描く彫刻がなく、無色界(アルーパダートゥ)を表す。この説明は広く知られ、理解の助けになるが、造営者がまさにこの考えに従っていたかを疑問視する研究者もいる。

登るにつれて仏像も変わる。方形の階には坐像を納めた龕があり、仏像の手の形である印相は方角によって異なる。東側では地に触れ、南側では施しを示し、西側では瞑想し、北側では恐れを取り除くことを示す。最上段の方形の階では説法を示す。三つの円形基壇には、各段に32基、24基、16基、計72基のストゥーパがあり、その中の仏像は法輪を転ずる印相を結ぶ。中央の大ストゥーパが建物の頂点に立つ。

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石に刻まれた物語

浮彫には、複数の仏教経典に基づく物語が描かれている。第1回廊の主壁上段にある120面は『ラリタヴィスタラ』に沿って、ブッダの最後の生涯をたどる。天界から降り、シッダールタ王子として生まれ、宮殿で暮らし、出家して道を求め、悟りを開き、サールナートの鹿野苑で初めて説法するまでを描く。

第1・第2回廊のほかの浮彫には、ジャータカやアヴァダーナの説話が描かれる。ブッダの前世や、ほかの聖者たちの物語である。よく知られたジャータカの一つでは、ウサギとして生まれた未来のブッダが、空腹の旅人に自分の体を食べ物として差し出す。こうした物語は、寛大さ、忍耐、慈悲を教える。

上層の回廊では、『華厳経』の最後の部分である「入法界品」を題材とする浮彫が中心となる。若い巡礼者の善財童子は、完全な知恵を求め、僧侶や王、夜の女神など数多くの師を訪ね歩き、最後に普賢菩薩の境地に入る。回廊を歩く巡礼者は、善財童子の旅を追体験する。

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中級

建造の方法

ボロブドゥールは、形を整え、土を盛った自然の丘の上に建てられた。この中心部の周囲と上に、建造者たちは近くの川から採った灰色の火山岩、安山岩を約5万5000m³積み上げた。石材はモルタルを使わず、突起、くぼみ、蟻継ぎで組み合わされ、その後、現場で彫刻された。排水路と、怪物の頭の形をした約100の吐水口が、熱帯の激しい雨を流した。

考古学者、特にジャック・デュマルセは、建造に複数の段階があったことを明らかにした。工事は780年ごろに始まり、計画は一度ならず変更されたらしい。例えば基底部が拡張され、最下段の浮彫が覆われた。頂上も当初は別の形が計画されていた可能性がある。工事は830年代ごろに終わったと考えられる。

設計には綿密な比率が用いられたようだ。研究者は、建物の脚部、胴部、頂部に4対6対9の比率を見いだし、関連するムンドゥット寺院やパウォン寺院にも同じ比率があると指摘している。伝承では建築家をグナダルマというが、この名は碑文ではなく地元の伝説に由来し、歴史上の人物としては何も分かっていない。

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中級

9世紀のジャワを映す窓

浮彫はインドの仏教経典を題材とする一方、彫刻家たちは自分たちの知る世界をそこに盛り込んだ。急勾配の鞍形屋根を持つ高床の家が立ち、市場、台所、農場が背景に現れ、人々はジャワの衣服や装身具を身に着けている。太鼓、リュート、笛、鈴を奏でる音楽家、踊り手、狩人、兵士、品物の重さを量る商人、子どもの世話をする親も描かれる。

自然界も細かく表現されている。ゾウ、サル、クジャク、魚、カメ、そして鳥や天人に囲まれた願いをかなえる木「カルパタル」を含むさまざまな木々が見られる。船の浮彫には、アウトリガー、複数の帆、舵櫂を備えた大型船が描かれ、ジャワをインド洋世界と結んだ航海技術を示している。

覆われた基壇の「カルマヴィバンガ」の浮彫は、日常の善悪の行いを描くため、特に貴重である。漁や食肉処理、うわさ話や争い、施しや病人の世話、そしてそれぞれの行いに続く報いや罰が表されている。そのため東南アジアの歴史家にとって、ボロブドゥールは宗教遺跡であると同時に、古代ジャワの社会、技術、物質文化を伝える最も重要な図像資料の一つでもある。

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中級

シャイレーンドラ朝と9世紀のジャワ

ボロブドゥールを造営したシャイレーンドラ朝は、その名が「山の王」を意味し、8世紀半ばからジャワ島中部の広い地域を治めた。大乗仏教を保護し、数多くの建造物を築いた。その一つであるカラサン寺院の778年の碑文は、この王朝を明確に示す最古の史料である。王朝の起源には議論があり、かつてはインドやカンボジアの扶南と結び付ける説もあったが、現在はジャワに起源を持つと考える研究者が多い。

シャイレーンドラ朝は、ヒンドゥー教を重んじたサンジャヤ朝と呼ばれることの多い別の王統と、ジャワ島中部で権力を分かち合った。ボロブドゥールの完成時には、サマラトゥンガがシャイレーンドラ朝の王だったと考えられている。その娘プラモダワルダニは、ヒンドゥー教系の王統に属するラカイ・ピカタンと結婚した。ほど近い場所には、その後まもなく大規模なヒンドゥー教寺院群プランバナンが建てられた。二つの宗教は共存し、ボロブドゥールも両王統が結び付いた宮廷の下で完成した可能性がある。

この時代には海を越えた交流が盛んだった。ジャワはインド、中国、東南アジア各地と交易し、シャイレーンドラ朝は仏教研究の一大中心地だったスマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国とも密接な関係を持った。大型のアウトリガー船を描く浮彫は、この海洋世界を映している。2003~04年には、浮彫の船を再現した「サムドラ・ラクサ号」がインドネシアからアフリカまで航海した。

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中級

宗教的意味――山、ストゥーパ、曼荼羅

ボロブドゥールには、仏教の複数の考え方が重なっている。ストゥーパとしてはブッダの身体と悟りを開いた心を象徴する。階段状の山としては、インドの宇宙観で世界の中心にある須弥山を思わせる。また、祖先を敬うため丘に築かれた、ジャワの古い段状聖地の伝統とも関係しているかもしれない。

上から見ると、方形と円形を組み合わせた平面は曼荼羅を形づくる。曼荼羅は、密教(金剛乗仏教)の瞑想や儀礼に用いる聖なる図である。中央を囲んで四方を向く仏像の配置も、このような構成に合う。ただし、この建造物が特定の密教経典にどの程度従っているかについては、研究者の間で議論がある。

ボロブドゥールは、儀礼に使われた景観の一部でもあった。東へ約3kmにわたり、小さなパウォン寺院、ムンドゥット寺院と一直線に並ぶ。ムンドゥット寺院には、座るブッダを二体の菩薩が挟む、三体の大きな石像が今も残る。現在、ウェーサーカ祭では、インドネシアや国外の仏教徒がムンドゥットからパウォンを経てボロブドゥールへ行列で進み、このつながりをよみがえらせている。

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中級

放棄と再発見

10世紀初め、ムプ・シンドク王の下で928~929年ごろ、ジャワの権力の中心はジャワ島中部から東部へ移った。メラピ山の噴火も一因だったかもしれない。ボロブドゥールは次第に王室の保護を失った。ただし、完全に忘れられたわけではない。14世紀の古ジャワ語の詩『ナガラクルターガマ』は「ブドゥル」の仏教聖地に言及し、後世のジャワの年代記にもこの丘にまつわる災難の話が残る。しかし建造物は灰と植物に覆われ、15世紀からジャワに広まったイスラム教が多数派の宗教となった。

1814年、イギリスが一時的にジャワを占領していたころ、副総督トーマス・スタンフォード・ラッフルズはこの地域の巨大な遺跡について聞き、オランダ人技師H・C・コルネリウスを調査に派遣した。約200人の作業員が2か月をかけて木を切り、草木を焼き、土を取り除いた。オランダ統治下でも作業は続き、1835年までに建造物の大部分が姿を現した。

遺跡が姿を現すと、新たな危険も生じた。訪問者は仏像の頭部や浮彫の一部を持ち去った。1896年には、オランダ植民地政府が訪問中のシャム国王チュラーロンコーンに、浮彫、仏像、獅子像、守護像を含む多数の彫刻を贈った。それらは現在、バンコクの国立博物館にある。また、露出した建造物に雨水が染み込み、沈下が始まった。

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中級

修復と脅威

1885年、技師J・W・アイゼルマンは、建造物の基底部に、以前の脚部が隠されていることを発見した。そこには、カルマ、つまり現世と来世における善悪の行いとその結果を説く『カルマヴィバンガ』を描いた160面の浮彫があった。浮彫は1890~91年に撮影され、再び覆われた。現在、南東の角で数面だけを見ることができる。

1907年から1911年にかけて、オランダ軍の技師テオドール・ファン・エルプが最初の大規模修復を行った。円形基壇とストゥーパを再建し、中央の大ストゥーパの頂上にはチャトラと呼ばれる傘形の飾りを復元したが、元の形を証明できなかったため取り外した。しかし排水の問題は続き、1960年代には回廊が傾き、石材も傷んでいた。

1975年から1982年にかけて、インドネシア政府とユネスコは多くの国の支援を受け、考古学者R・スエクモノの指揮で大規模な修復を行った。約100万個の石を取り外し、洗浄・記録した後、現代的な排水設備を備えた新しいコンクリートの基礎の上に積み直した。ボロブドゥールは1991年に世界遺産に登録された。その後も脅威は続いた。1985年の爆弾事件では九つのストゥーパが損傷し、2010年のメラピ山と2014年のケルート山の噴火では火山灰が遺跡を覆った。多数の観光客によって階段がすり減り、木製の覆いの設置や頂上へ登れる人数の制限が行われた。

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中級

今日のボロブドゥール――巡礼、国家、観光

現在のインドネシアではイスラム教徒が多数を占めるが、ボロブドゥールは国の長い歴史と芸術的成果の象徴として広く大切にされている。同時に、インドネシアの少数派である仏教徒や国外からの仏教徒にとって、瞑想し、巡り歩き、ウェーサーカ祭を祝う、今も生きた宗教の場である。参拝者、観光客、保存のそれぞれの必要に応えることが、継続する課題となっている。

1970年代以降、観光は大きく伸びた。何百万人もの訪問者が地域に収入をもたらす一方、石材の摩耗、ごみ、混雑も生んだ。調査で階段の深刻な摩耗が分かると、当局は一部の階段を木材で覆った。近年は、毎日建造物に登れる人数を制限し、ガイドの同行と専用の履物の使用を求めている。

周辺の景観も遺産の一部である。村々や水田、メラピ山、メルバブ山、スンビン山、シンドロ山の眺めが建造物を取り囲み、計画担当者は区域分けや公園の整備によってこの環境を守ろうとしてきた。観光に生活を頼る人も多い地元の住民は、遺跡に関する意思決定から取り残されていると感じることがある。これは多くの世界遺産で見られる議論でもある。

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上級

研究上の議論――名称、年代、設計

名称。「ボロブドゥール」という語は初期の碑文には現れない。ラッフルズは「偉大なブッダ」を意味すると考えた。「ブドゥル」をジャワ語の「古い」に結び付ける説や、サンスクリット語で「山」を意味する「ブーダラ」に由来するとする説もある。碑文学者J・G・デ・カスパリスは、824年のカランテンガ碑文と842年のトリ・テプサン碑文から、元の名は「菩薩の十地にわたる功徳を積み重ねた山」を意味する「ブーミサンバーラ・ブーダラ」だったと提案した。この解釈は大きな影響を与えたが、広く一致した見解ではない。

覆われた基壇。なぜカルマヴィバンガを描いた基壇は覆われたのか。実用上の説明では、建造物が外側へ滑り出すことを恐れた建造者が、脚部の周囲に石の補強を加えたとされる。宗教的な説明では、欲望や地獄を描いた図を隠すため、あるいは覆うこと自体が聖別の一部だったとされる。構造上の説明を支持する研究者が多いが、結論は出ていない。

当初の計画。建造が別のものとして始まったのか、例えばヒンドゥー教や在来信仰の段状建造物が後に仏教のストゥーパへ改造されたのかについて、研究者の意見は分かれる。頂上が元々どのような姿だったかにも議論がある。20世紀初めにW・F・ストゥッターハイムが提唱した、欲界・色界・無色界の三界による解釈も、遺跡で見つかった文献に根拠がないとして批判されている。

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証拠、仮説、保存科学

1931年、オランダ人の画家・研究者W・O・J・ニューヴェンカンプは、ケドゥ平野はかつて湖であり、ボロブドゥールはその水面に浮かぶ蓮の花を表したと提唱した。しかし後の花粉分析では、湖があれば残るはずの水生植物の痕跡は見つからなかった。1980年代の現地調査でも、建造当時に遺跡を囲む湖はなかったと結論づけられ、この説は一般に退けられている。

ボロブドゥールの歴史を調べる主な手がかりには、建造物そのものの構造、石積みの印、浮彫の様式、文字の形から年代を推定できる覆われた基壇の短い銘文がある。ほかに、ジャワ島中部の少数の石碑や銅板碑文、ほかの寺院との比較、19~20世紀の土砂除去や修復の記録がある。イシドール・ファン・キンスベルゲンが1870年代に撮った写真や、覆われた基壇を撮影したカッシアン・セファスの写真も、かつての状態を知る貴重な証拠である。

保存は独立した研究分野にもなっている。科学者は石材の塩類の結晶化、地衣類やコケの発生を監視し、火山灰や酸性雨が安山岩に与える影響を調べ、訪問者数の影響を測定している。ほかの大遺跡と同様、1907~11年と1975~82年の修復で下された判断も、今では研究の手がかりである。研究者は、当初の部分と復元された部分を見分けなければならない。

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重要なポイント

山の形をしたストゥーパ
ボロブドゥールは、ブッダを象徴するストゥーパであると同時に、巡礼者が登る聖なる山でもある。
登ることによる教え
回廊を登る道は、カルマや前世の物語から、静かで開けた頂上へと続き、悟りへ向かう道を表す。
曼荼羅
上から見ると、中央の大ストゥーパを中心に方形と円形を配した聖なる図をなす。
物語を描く浮彫
1400面を超える物語の浮彫が仏教経典を伝えるとともに、9世紀のジャワの日常生活の姿を残している。
宗教の共存
仏教のボロブドゥールとヒンドゥー教のプランバナンは、関係の深い王家によって、数十年の間に建てられた。
儀礼の景観
ボロブドゥール、パウォン、ムンドゥットは一直線に並び、おそらく儀礼でともに使われた。
修復も歴史の一部
植民地時代の土砂除去、ファン・エルプによる修復、ユネスコとの共同事業が、現在見られる建造物の姿を形づくった。

記録

  1. 778年 — カラサン碑文に、シャイレーンドラ朝を明確に示す最古の記録が残される。
  2. 780年頃 — ボロブドゥールの建造が始まる。
  3. 824年 — カランテンガ碑文に、サマラトゥンガの王統の下で創建された仏教聖地が記される。
  4. 833年頃 — 建造が完成したと考えられる。
  5. 842年 — トリ・テプサン碑文に、ブーミサンバーラと呼ばれる聖地への免税地の寄進が記される。
  6. 929年頃 — ムプ・シンドクの下で、ジャワの宮廷がジャワ島東部へ移る。
  7. 1365年 — 『ナガラクルターガマ』に、ブドゥルの仏教聖地が記される。
  8. 1814年 — ラッフルズがH・C・コルネリウスを派遣し、遺跡を覆う樹木や土砂を取り除かせる。
  9. 1885年 — J・W・アイゼルマンが、カルマヴィバンガの浮彫のある、覆われた基壇を発見する。
  10. 1907年 — テオドール・ファン・エルプが最初の大規模修復を始める(1911年まで)。
  11. 1975年 — インドネシアとユネスコによる修復が始まる(1982年まで)。
  12. 1991年 — ボロブドゥール寺院遺跡群がユネスコ世界遺産一覧表に登録される。

用語集

ストゥーパ
もとは遺物を納めた、ドーム形の仏教建造物。ブッダと悟りを象徴する。
チャンディ
古代の寺院や祠を指すインドネシア語。
浮彫
平らな背景から像が浮き出るように彫った彫刻。
印相
仏教やヒンドゥー教の美術で用いられる、意味を持つ手の形。
曼荼羅
宇宙を表し、儀礼や瞑想に用いられる聖なる図。
プラダクシナ
信仰を表すため、聖なるものの周りを時計回りに歩くこと。
ジャータカ
道徳的な徳を教える、ブッダの前世の物語。
大乗仏教
「大きな乗り物」を意味し、菩薩やすべての生き物への慈悲を重んじる、仏教の主要な一派。
安山岩
ボロブドゥールやジャワの多くの寺院の建材になった、灰色の火山岩。
アナスティローシス
必要な箇所にだけ新しい材料を補い、元の部材を組み直して建造物を修復する方法。
シャイレーンドラ朝
ボロブドゥールを建てた、ジャワ島中部の仏教を信仰する王朝。

よくある質問

ボロブドゥールは中に入れる寺院ですか?

いいえ。内部に部屋はありません。丘の上に築かれた石造りの建造物で、訪問者は屋外の回廊や基壇を巡りながら登ります。

仏像は何体ありますか?

もとは504体ありました。遺跡が再発見されてから、頭部を失ったり、傷つけられたり、持ち去られたりした像も多くあります。

なぜボロブドゥールは使われなくなったのですか?

10世紀初めに王宮がジャワ島東部へ移り、遺跡は次第に保護者を失いました。火山の噴火も移転の一因だった可能性があります。その後、ジャワではイスラム教徒が多数を占めるようになりました。

ボロブドゥールを発見したのは誰ですか?

地元の人々は、この丘をずっと知っていました。1814年にラッフルズが技師H・C・コルネリウスを派遣して樹木や土砂を取り除かせたことで、国際的に知られるようになりました。

ボロブドゥールは今も礼拝に使われていますか?

はい。重要な巡礼地です。特にウェーサーカ祭では、仏教徒たちがムンドゥットとパウォンからボロブドゥールまで行列で歩きます。

カルマの浮彫がある基壇は、なぜ隠されているのですか?

建造物を補強し、滑り出すのを防ぐためだった可能性が高いですが、宗教的な理由を挙げる研究者もいます。隠された浮彫の写真はカルマウィバンガ博物館で展示されています。

ボロブドゥールは湖の中に建てられたのですか?

1931年にその説が提唱されましたが、その後の研究では、建造当時に遺跡の周囲に湖があった証拠は見つかっていません。

頭のない仏像が多いのはなぜですか?

19世紀に遺跡を覆う樹木や土砂が取り除かれた後、多くの頭部が折り取られたり盗まれたりし、収集家に売られ、土産として持ち去られました。今はインドネシア国外の博物館にあるものもあり、行方が分からないものもあります。

出典・参考文献

  1. Borobudur Temple Compounds. UNESCO World Heritage Centre
  2. Borobudur. Wikipedia
  3. 보로부두르. 위키백과
  4. Borobudur Temple Compounds. Wikipedia
  5. Shailendra dynasty. Wikipedia
  6. Karmawibhangga Museum. Wikipedia
  7. Mendut. Wikipedia
  8. Gandavyuha Sutra. Wikipedia
  9. Jataka tales. Wikipedia
  10. John Miksic, Borobudur: Golden Tales of the Buddhas. Periplus Editions, 1990

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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