美術

石窟庵

石窟庵 (석굴암)

742–774年 · 吐含山(新羅)

ひとことで

石窟庵は、約1250年前に花こう岩の石材を組んで造られた韓国の小さな石窟寺院で、内部には日の昇る海の方を向いた穏やかな表情の石仏があります。

石窟庵
画像: by eimoberg · CC BY 2.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

世界の石窟寺院の多くは、崖を掘って造られました。でも石窟庵はちがいます。韓国の新羅の人たちは、石でイグルーを造るように、外から石を積んで洞窟を造りました。何百もの花こう岩の石を切り、丸い部屋とドーム形の屋根に組み立て、土をかぶせました。こうして、山の中の洞窟のように見えるようにしたのです。

中には、大人の背丈をこえる大きな石の仏像が座っています。半分閉じた目と穏やかな顔は、深く考えているように見えます。右手は地面に向けられています。仏教には、ブッダが悟りを開いたとき、大地にふれて証人になってもらったというお話があります。

ブッダの周りの壁には、たくさんの像が彫られています。入口には筋肉たくましく剣を持つ守り神がいます。四方を守るよろい姿の王、やさしい菩薩、そして一人ひとり顔のちがうブッダの弟子10人もいます。ブッダの後ろには、助けを必要とする人を見つけられるよう、11の顔を持つ慈悲の菩薩がいます。

古い本には、金大城という人が、前世の両親のために石窟庵を造ったと書かれています。ドームのてっぺんに置く丸い石が三つに割れたとき、夜に天の神々が降りてきて、石を元どおりにしたというお話もあります。

石窟庵は、古い都・慶州の近くにある吐含山の高い所にあります。仏像は東の海を向いていて、日の出を見るために朝早く山に登る人もいます。

ひと目でわかる

建立
8世紀半ば、統一新羅時代。伝承では751年に着工し、774年以降に完成した。計画は740年代に始まっていた可能性もある
所在地
韓国・慶尚北道慶州市、吐含山の東斜面
発願者
伝承では新羅の高官・金大城(774年没)。王朝が完成させた
旧名
石仏寺(せきぶつじ、「石の仏の寺」)
構造
切り出した花こう岩で造った人工石窟。長方形の前室、通路、直径約6.6~6.8メートルの円形主室があり、石造ドームを土で覆っている
彫刻
現在は38体の仏教彫刻があり、中央には触地印を結ぶ座像の仏がいる
指定・登録
1962年に韓国の国宝に指定。1995年に仏国寺とともにユネスコ世界遺産に登録
意義
東アジア仏教彫刻の頂点の一つであり、新羅の建築技術と幾何学の傑作

やさしい

石窟庵とは?

石窟庵は、新羅の都だった慶州の東にある吐含山の東側に位置する仏教石窟です。その名は「石の洞窟の庵」を意味します。『三国遺事』に記された古い名は「石仏の寺」を意味する石仏寺でした。同じ山の西斜面にある大寺院・仏国寺とは、管理上も歴史上も結びついています。両者は道路で約3キロメートル離れています。

石窟庵の特徴は、人工の石窟であることです。インド、中央アジア、中国の石窟寺院は、通常、比較的軟らかい岩の崖を直接掘って造られました。韓国の山地には非常に硬く、くり抜きにくい花こう岩が多くあります。そのため新羅の職人たちは、加工した花こう岩の石材を組み、石のドームを載せて土を盛り、山の中に洞窟があるような空間を造りました。

内部では、巨大な座像の仏を中心に、守護神、天、菩薩、弟子たちの浮彫が厳格な序列に従って配置されています。建築と彫刻が一体となった石窟庵は、アジアの仏教美術の中でも特に高く評価されています。

石窟庵は1962年に韓国の国宝に指定され、1995年には仏国寺とともにユネスコ世界遺産に登録されました。現在、来訪者は彫刻を保護するガラスの仕切り越しに内部を見学します。

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やさしい

石窟の見方――人間の世界から悟りへ続く道

石窟は東西に延びる一つの軸に沿って、三つの部分で構成されています。最初は長方形の前室で、現在は1960年代に増築された木造建物に覆われています。次に短く狭い通路があり、その先に直径約6.6~6.8メートルの円形主室が半球形のドームの下に広がります。四角い空間から丸い空間への移動は、人間の世界から悟りの世界への歩みと解釈されることがあります。東アジアの思想では、四角は地、円は天と結びつけられます。

彫刻は位階に従って並びます。前室にはインド神話に由来する仏教の守護神、八部衆が左右に4体ずつ立っています。通路の入口では、たくましい2体の金剛力士が腕を上げて邪悪なものを威嚇します。通路には、よろいを着て鬼を踏みつける四天王が置かれ、四方を守っています。

円形主室の壁には、背の高い花こう岩の彫刻板が15枚並びます。入口寄りから、インド由来の梵天と帝釈天、文殊菩薩と普賢菩薩、そして仏陀の弟子10人が続きます。弟子は左右に5人ずつ配され、それぞれ異なる顔つきと姿勢で表されています。本尊の真後ろという最も重要な位置には、11の顔であらゆる生き物を見守り助ける力を象徴する、慈悲の菩薩・十一面観音菩薩が立っています。

壁の彫刻板の上には、ドームを一周する10の小さな龕があります。そのうち8か所には、座像の菩薩や在家信者の維摩居士などが残っています。ドームの頂部には大きな蓮華形の要石があります。浮彫の人物たちはみな中央の仏を向き、部屋全体が見る人の目と心を本尊へ導きます。

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やさしい

本尊の仏像

本尊は巨大な一つの花こう岩から彫り出され、石窟内で唯一、全身を立体的に表した彫刻です。ほかの像はすべて浮彫です。高さは3メートルを超え、高さ約1.6メートルの蓮華座の上に結跏趺坐しています。衣は右肩をあらわにし、右手は膝を越えて地面に向かって伸びています。これは触地印といい、歴史上の仏陀が菩提樹の下で悟りを開き、悪魔マーラに勝った証人として大地を呼んだ瞬間を表します。

この像は、力強さと静けさの調和が評価されています。広い肩と豊かな胸、長く弧を描く眉、伏せた目、かすかな微笑をたたえた柔らかな顔、そして体の形が透けて見えるような薄い衣が特徴です。これらには中国の盛唐期の彫刻様式の影響が見られますが、新羅らしい抑制のある表現に作り変えられています。

巧みな視覚設計も印象を強めます。光背は仏像に取り付けられていません。蓮の花びらを彫った円形の石が、円形主室の奥の壁の高い位置に設けられています。参拝者が入口に立って本尊を見ると、光背が頭をぴったりと囲むように見えます。台座も部屋の中心より少し奥に置かれており、入口からは仏が中央に座っているように見えます。

本尊は東南東、東海の方を向いています。石窟の軸が冬至の日の出に合うと主張する研究者もいます。また、海への眺めを、死後に竜となって新羅を守ったと伝えられる7世紀の文武王の海中墓と結びつける研究者もいます。こうした方角の意味は議論が続いています。

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中級

建築技術――幾何学、花こう岩、石のドーム

石窟庵の建造には高度な数学的計画が必要でした。植民地時代に建築家の米田美代治が始め、韓国の建築史家たちが引き継いだ研究によると、設計には唐尺という約30センチメートルの中国の長さの単位が基準として使われ、特に唐尺12尺は本尊の台座の直径に一致します。前室、円形主室、ドーム、仏像の多くの寸法には、1対√2を含む単純な比率の関係が見られます。この知識を中国の数学書『九章算術』などと結びつける研究者もいます。一方、これらの比率がどこまで正確で意図的なものかを疑問視する研究者もいます。

ドームは、上に行くほど小さくなる輪を描くように、曲面に加工した花こう岩の板を積んで造られています。板の間には「石釘」やほぞを意味するドルモッという長い石が、車輪のスポークのように周囲の盛り土へ突き出しています。土の重みがこの石を押すことでドームが固定されます。ほかに近い例のない技法です。頂部は、数トンの重さがある大きな蓮華形の要石で閉じられています。

『三国遺事』には、この要石についての伝説が残っています。石を彫っている途中で三つに割れ、金大城が絶望して眠りにつくと、夜の間に天の神々が現れて石を元の位置に据えたというものです。現在も要石には実際にひびが見えるため、この建物の特徴から物語が生まれたと考えられます。

当初の石窟が湿気をどう抑えていたかは、大きな謎の一つです。山中の花こう岩の部屋では結露が起こりやすく、彫刻を傷めます。広く論じられている仮説では、床下を流れる湧き水が床を壁より冷たく保ち、水分を彫刻ではなく床に結露させていたとされます。さらに、土の覆いと石組みの隙間が建物の通気を助けたと考えられています。20世紀の修理によって、十分に調査される前にこの仕組みが変わってしまったため、本来の働き方は分かっていません。

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中級

歴史的背景――最盛期の新羅

660年代、新羅は唐と同盟して競争相手の百済と高句麗を倒し、676年までに唐の軍勢を朝鮮半島の大部分から退けました。その後の統一新羅と呼ばれる時代は、慶州を中心として政治が安定し、文化が栄えた時代でした。6世紀に国家の宗教として受け入れられた仏教は、王朝と貴族から手厚い保護を受けました。

石窟庵は、韓国の歴史家が新羅文化の頂点とみなす景徳王の時代(在位742~765年)に造られました。僧の一然が13世紀に編纂した歴史と伝説の集成『三国遺事』によると、金大城は751年に現世の両親のために仏国寺を、前世の両親のために石仏寺を建て始めました。彼が774年に亡くなると、国が工事を完成させました。事業が非常に大規模だったため、単なる個人の孝行ではなく、実質的には王室と国家の事業だったと考える研究者が多くいます。

近年、751年という着工年が再検討されています。仏国寺の釈迦塔の内部で見つかり、1024年と1038年の修理を記録した文書は、近年になって全文が解読されました。それによると、仏国寺の塔の工事は景徳王の即位した742年に始まり、次の恵恭王の時代に完成しました。文書に石窟庵への言及はありませんが、仏国寺と石窟庵の計画が751年より早く始まった可能性を示します。

8世紀半ばには、アジア各地で活発な交流がありました。新羅の僧や使節は唐へ渡り、インドに達した人もいました。韓国の僧・慧超は720年代にインドへの巡礼記を著しました。日本では752年に東大寺の大仏の開眼供養が行われました。中央アジアでは751年にアッバース朝と唐の軍がタラス河畔で戦い、数年後には安史の乱が唐を揺るがしました。石窟庵には、この国際的な仏教世界とのつながりと、新羅独自の表現の両方が見られます。

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中級

宗教的意味――地上の仏国土

新羅の仏教徒は、自分たちの国が仏の存在によって清められた仏国土になり得ると考えました。「仏国寺」という名も「仏の国の寺」を意味します。石窟庵はこの考えを形にしています。円形主室に足を踏み入れることは、周囲に人々を従えた悟りの仏の前に出るような体験です。

石窟庵は、すべての事象が互いにつながっていると説く華厳宗と結びつけられています。『三国遺事』によると、完成後、金大城は華厳宗の高僧・義湘の弟子である表訓を石仏寺に招いて住まわせました。吐含山は新羅の五岳の一つ「東岳」であり、日本からの襲撃者が来る可能性のある海を望む場所でもあります。そのため、仏教への信仰が国を守るという護国仏教の役割もあったと考えられています。

円形主室には、右肩を仏に向けて時計回りにその周囲を歩く、仏教の基本的な礼拝行為である右繞を行う空間があります。入口の勇ましい守護神から中央近くの弟子や菩薩へと続く像の序列は、仏教の世界観を目に見える形で表しています。

石窟庵は現在も、韓国仏教曹渓宗第11教区の本寺である仏国寺に属する信仰の場です。多くの来訪者にとって、美術上の記念物であると同時に祈りの場でもあります。

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中級

その後の歴史――新羅から朝鮮王朝まで

高麗(918~1392年)が都を開京(現在の開城)に移すと、慶州は地方都市となり、石窟庵も比較的小さな庵となりました。『三国遺事』を除けば、高麗時代の記録に石窟庵はほとんど登場せず、朝鮮王朝(1392~1897年)初期の主要な地誌にも記載がありません。

しかし17世紀以降、石窟庵は再び文献に現れます。学者の李埰は1670年ごろに訪れ、鄭時翰は1688年の訪問を紀行『山中日記』に記しました。鄭時翰は、前後の部屋にある像がまっすぐ立ち、完全な姿で残っていることや、入口にアーチ形の門があることを述べています。朝鮮時代の文人の詩からは、仏国寺と石窟庵が全国の僧侶、学者、巡礼者の訪れる名所となっていたことが分かります。

仏国寺の記録には、僧の宗璜が1703年に石段を含む石窟庵の修理を行ったことと、1718年にも修復があったことが記されています。1960年代の工事で見つかった木の札には、地方の武官が資金を出して1891年に修理したと記録されています。儒教を重んじる政治のもとで仏教への国家の支援は減っていましたが、朝鮮時代にも石窟庵は知られ、手入れされていたのです。

しかし20世紀初めには、ドームの一部が崩れて土が内部へ落ちるなど、石窟は傷んでいました。

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中級

植民地時代の「発見」、修理と論争

後年の日本側の記述には、石窟庵が1907~1909年ごろに「発見」されたとあり、日本人の郵便配達員や統監の曾禰荒助を発見者とする説があります。韓国の歴史家は、石窟庵は地元の人々に知られ、韓国の文献にも記録されていたと指摘します。「発見」の物語は、日本を韓国の文化遺産の救済者として描く役割を果たしました。1912年には寺内正毅総督が石窟をソウルへ移すよう命じましたが、反対を受けて計画は中止されました。

朝鮮総督府は1913~1915年、1917年、1920~1923年の3度にわたり大規模な修理を行いました。最初の修理では石窟を完全に解体して組み直し、当時は最も先進的な材料と考えられていた厚いコンクリートでドームを覆いました。コンクリートによって建物の通気が妨げられ、湿気がこもりました。2年以内に雨漏りと結露が現れました。その後の修理では排水設備、石灰モルタル、アスファルトが加えられましたが、コケ、カビ、しみが広がり、一時は彫刻が蒸気で洗浄されました。

解放後の1961~1964年には、韓国政府が湿気の問題を解決しようと大規模な修復を行いました。ドームの周りにさらにコンクリートを加え、正面に瓦屋根の木造前室を建てました。後に温度と湿度を制御する機械換気と空調を設置し、1970年代には来訪者と内部を隔てるガラスの仕切りを設けました。これらの対策で環境は安定しましたが、石窟は機械設備に頼るようになりました。

1960年代の工事は、石窟の元の姿をめぐる長年の議論も引き起こしました。批判者は、木造前室には根拠がなく、眺めと空気の流れを妨げると主張します。また、一直線に並べ直された八部衆は元は折れ曲がった配置だったとする説や、入口の上に採光窓があったとする説もあります。1960年代の修理に関する公式報告書は1967年に刊行されました。変更は事実上どれも元に戻せないため、新たな大規模工事より慎重な監視を支持する専門家が多くいます。

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中級

影響と遺産

石窟庵の本尊は、韓国の仏教彫刻の手本となりました。明らかにこの像を手本とした触地印の座像が、統一新羅時代後期から高麗時代にかけて、石や鉄で数多く造られました。

近代には、石窟庵は韓国の文化的な偉業の象徴になりました。教科書、切手、観光写真に登場し、吐含山から見る日の出も韓国を代表する体験の一つとなっています。同時に、日本人研究者から称賛され、朝鮮総督府に修理されたという植民地時代の歴史を通じて、植民地支配下で文化遺産がどのように位置づけられたかを考える対象にもなっています。

石窟庵と仏国寺は1995年に共同で世界遺産に登録されました。同年には海印寺の高麗大蔵経板殿と宗廟も登録され、これらが韓国初の世界遺産となりました。

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上級

学術上の論争と未解決の問題

本尊はどの仏か。触地印は複数の仏に用いられるため、本尊の正体は議論されてきました。初期の説には、「寿光殿」と記された扁額があったという報告や、浮石寺の阿弥陀如来像との比較を根拠に、西方極楽浄土の阿弥陀如来とするものがあります。華厳の教義に基づき、『華厳経』の宇宙的な仏である毘盧遮那仏とする説もあります。現在の主流は、悟りを開く瞬間の釈迦如来とする見方です。姿勢、向き、寸法の比率が、中国の巡礼僧・玄奘の記したインドのブッダガヤの著名な成道像を再現していると論じる研究者もいます。この説に従えば、石窟庵は仏教の最も聖なる地を新羅の国土に再現したものとなります。

いつ造られたのか。伝統的な751年という着工年は、出来事から約500年後に書かれた『三国遺事』に由来します。釈迦塔の文書によって仏国寺の工事開始は742年にさかのぼり、石窟庵の計画も740年代に始まった可能性があります。金大城が個人の発願者だったのか、王室の事業を管理する官僚だったのかも議論されています。

元の姿はどうだったのか。木造前室、八部衆の配置、採光窓の有無、本来の換気の仕組みに関する議論は、限られた証拠に基づいています。17~18世紀の少数の文章と絵、解体前に撮られた20世紀初めの写真、現存する石材、工学的分析などです。木造の正面建物の証拠としてかつて使われた、鄭敾の1733年の絵「骨窟石窟」は、実際には骨窟庵の石窟を描いたものかもしれません。

幾何学はどれほど正確か。√2や基準寸法に関する仮説は今も影響力があります。しかし近年の研究には、東アジアの伝統的な直角三角形の規則である勾股など、異なる設計方法を提案するものもあります。手作業で造られ、20世紀に組み直された構造物の測定値に、厳密な比率を読み込むことへの注意も促されています。

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上級

証拠と研究方法

文献資料。最も重要な文献は、一然(1206~1289年)が編纂した『三国遺事』、特に金大城の物語です。歴史と仏教の伝説が混ざり、出来事よりずっと後に書かれたため、批判的に読む必要があります。1024年と1038年の釈迦塔の文書は時代がより近く、仏国寺の年代を知る資料として信頼性が高いものです。朝鮮時代の紀行、詩、寺院の記録は、その後の数世紀を伝えます。

物的証拠。最も豊かな資料は建物そのものです。寸法の測量、石材の加工痕と接合部、制作年代の分かる唐と新羅の作品との彫刻様式の比較、修理中に回収された破片などが含まれます。破片の一例は、四天王の一体が持つ小塔の一部で、1960年代に見つかりました。1913~1915年の解体前と解体中に作られた写真や図面は、元の部分と再建された部分を区別するうえで欠かせません。

植民地時代の研究。初期の研究の多くは日本人の学者や官吏が行いました。その成果には貴重な資料が含まれますが、植民地支配の意図も反映されています。たとえば姜熙静による2012年の植民地時代の石窟庵論の研究など、近年の韓国の研究は、日本の統治下でこの遺跡がどう解釈され、紹介されたかを検討しています。

保存科学。現在は、温度、湿度、微生物の増殖、構造の動きの監視や、地震が石窟に与える影響の検討が重要な研究分野です。石窟庵から得られる研究方法上の大切な教訓は、修復の判断そのものが歴史的資料の一部となることです。将来の研究者が、8世紀の特徴と20世紀の変更を見分けられるようにしなければなりません。

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重要なポイント

人工石窟
崖を掘る代わりに、切り出した石を組んで土で覆った石窟寺院。石窟庵はその代表例。
仏国土
自分たちの国が仏によって清められた土地になり得るという新羅の考え。仏国寺と石窟庵に具体化されている。
触地印
仏陀が悟りを開くとき、大地を証人として呼んだことを示す手の形。石窟庵の本尊もこの印を結ぶ。
位階に従った配置
入口の守護神から仏の周囲の菩薩や弟子まで、像が位階に従って置かれている。
基準寸法による幾何学
唐尺に基づく単位と寸法の比率を設計に用いたとされ、高度な数学的計画を示す。
護国仏教
仏教への信仰や仏教建造物が国を守るという考え。東海を望む石窟庵の立地と結びつけて論じられることが多い。
歴史としての修復
20世紀の修理が石窟庵を大きく変えたため、遺跡を理解するには修理の歴史も欠かせない。

記録

  1. 676年 — 新羅が唐の軍勢を退け、朝鮮半島の大部分の統一を完成させる。
  2. 742年 — 景徳王が即位。釈迦塔の文書によると、仏国寺の塔の工事が始まる。
  3. 751年 — 『三国遺事』によると、金大城が仏国寺と石仏寺(石窟庵)の建立を始める。
  4. 774年 — 金大城が死去し、新羅の国家が事業を完成させる。
  5. 1281年頃 — 僧の一然が、石窟庵に言及する最古の文献『三国遺事』を編纂する。
  6. 1688年 — 鄭時翰が訪れ、紀行『山中日記』に石窟の様子を記す。
  7. 1703年 — 僧の宗璜が石窟庵を修理し、石段を造る。
  8. 1891年 — 地方の武官の支援を受けて修理が行われる。
  9. 1913年 — 朝鮮総督府が石窟の解体と再建を開始する。工事は1915年まで続き、ドームはコンクリートで覆われる。
  10. 1961年 — 韓国政府による大規模修復が始まる。1964年まで続く工事で木造前室が設けられ、後に機械による空調管理も加わる。
  11. 1962年 — 石窟庵が韓国の国宝に指定される。
  12. 1995年 — 石窟庵と仏国寺がユネスコ世界遺産に登録される。

用語集

統一新羅
百済と高句麗を倒した新羅が朝鮮半島の大部分を支配した時代(668~935年)。
石窟
自然にできた、または人工的に造られた洞窟。礼拝の場として使われることが多い。
円形主室
通常はドームで覆われる丸い部屋。ここでは石窟の中心となる部屋。
印相
仏教やヒンドゥー教の美術で意味を表す手の形。
菩薩
大乗仏教で、ほかの人々が悟りに達するのを助ける、悟りに向かう存在。
観音菩薩
慈悲を表す菩薩。石窟庵では11の顔を持つ姿で表される。
四天王
仏教の世界の四方を守る、よろい姿の守護神。
浮彫
平らな背景から人物などが浮き上がるように彫った彫刻。
華厳宗
『華厳経』に基づく東アジア仏教の一派。新羅で大きな影響力を持った。
右繞
礼拝として聖なるものの周囲を、通常は時計回りに歩くこと。
唐尺
唐代の中国で使われた約30センチメートルの長さの単位。石窟庵の設計の基準になったと考えられている。

よくある質問

石窟庵は本物の洞窟ですか?

いいえ。花こう岩の石材を組んで土で覆った人工の石窟で、山の中の洞窟のように見えます。

石窟庵は何年前のものですか?

約1250年前のものです。8世紀半ばに造られ、伝承では751年に着工し、774年以降に完成しました。

石窟庵を造ったのは誰ですか?

伝承では、新羅の高官・金大城が前世の両親のために造り始め、774年の死後に王朝が完成させました。

本尊はどの仏ですか?

現在、多くの研究者は悟りを開く瞬間の歴史上の仏陀、釈迦如来とみなしています。阿弥陀如来や毘盧遮那仏とする説もあります。

見学者が中に入れないのはなぜですか?

大勢の見学者の呼吸、体温、湿気は彫刻を傷めます。そのため1970年代以降、空調で環境を管理しながら、ガラス越しに内部を見学するようになりました。

日本の植民地時代の修理には、どんな問題がありましたか?

1913~1915年に石窟を解体し、ドームをコンクリートで覆ったことで湿気がこもり、雨漏り、結露、しみが生じました。

石窟庵と仏国寺には、どんな関係がありますか?

同じ山に一組として造られ、伝承ではどちらも金大城が建立しました。1995年には一緒に世界遺産に登録されました。石窟庵は仏国寺に属します。

本尊は冬至の日の出を向いていますか?

東海から昇る冬至の太陽に石窟の軸が合うとする研究者もいますが、この説やほかの方角に関する説には議論が続いています。

出典・参考文献

  1. Seokguram Grotto and Bulguksa Temple. UNESCO World Heritage Centre
  2. 강희정 (Kang Hee-jung), 경주 석굴암 석굴 (Seokguram Grotto, Gyeongju). Encyclopedia of Korean Culture, Academy of Korean Studies, 2024
  3. 국보 경주 석굴암 석굴. Korea Heritage Service, National Heritage Portal
  4. Seokguram. Wikipedia
  5. Bulguksa. Wikipedia
  6. Samguk yusa. Wikipedia
  7. Kim Daeseong. Wikipedia
  8. 강희정 (Kang Hee-jung), 나라의 정화, 조선의 표상: 일제강점기 석굴암론. 서강대학교 출판부 (Sogang University Press), 2012
  9. 석굴암수리공사보고서 (Report on the Repair of Seokguram). 문화공보부 문화재관리국 (Office of Cultural Properties, Ministry of Culture and Public Information), 1967

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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