最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
1200年以上前、カールという強い王がフランク人を治めていました。フランク人は、今のフランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、スイス、イタリア北部などに住んでいました。カールはとても有名になり、後に「カール大帝」と呼ばれました。
800年のクリスマス、カール大帝はローマの大きなサン・ピエトロ教会でお祈りをしました。お祈りから立ち上がると、西ヨーロッパの教会の指導者である教皇レオ3世が、カールの頭に冠を載せました。教会にいた人々は、神から冠を授かった偉大な皇帝カールの長寿と勝利を願い、3回歓声を上げました。
なぜ、これが大きな出来事だったのでしょう。ずっと昔、ローマ帝国は地中海の周りの広い土地を治めていました。西側では、476年に最後のローマ皇帝が王位を失いました。その後もローマ皇帝はいましたが、遠く離れたコンスタンティノープルに住んでいました。この都市は今、イスタンブールと呼ばれています。カールの戴冠で、西ヨーロッパにも再び皇帝が生まれたのです。
教皇にも理由がありました。その前年、ローマで敵に襲われ、目と舌を傷つけられそうになったのです。教皇は逃げて、カール大帝に助けを求めました。カール大帝に冠を授けることで、教皇は強い守り手を得ました。
後にカール大帝の伝記を書いた人は、王は教皇の計画を知らず、知っていたらその日は教会へ行かなかっただろうと書きました。本当だったのか、歴史家たちは今も話し合っています。この戴冠は、その後1000年にわたり、ヨーロッパの君主たちの手本となりました。
ひと目でわかる
- 日付
- 800年12月25日(クリスマス)
- 場所
- ローマの旧サン・ピエトロ大聖堂(4世紀に建てられ、後に現在の大聖堂に建て替えられた教会)
- 主な人物
- カール大帝(カール1世)、フランク王・ランゴバルド王。教皇レオ3世(在位795~816年)。カール大帝の息子、小カール
- 起きたこと
- 教皇がカールに冠を授け、ローマの人々が彼を皇帝とたたえ、教皇は敬意を示す儀礼を行った。教皇は小カールにも塗油して王とした
- 採用した称号
- 801年以降:「神に戴冠された、いとも高貴なるアウグストゥス、偉大で平和をもたらす、ローマ帝国を統治する皇帝カール。神の慈悲によるフランク人とランゴバルド人の王」
- ビザンツ帝国の反応
- 当初は帝位の簒奪とみなしたが、812年にビザンツ帝国の使節がカール大帝を皇帝(バシレウス)と認めた
- 主な史料
- 『フランク王国年代記』、『教皇伝』の「レオ3世伝」、『ロルシュ年代記』、アインハルトの『カール大帝伝』、テオファネスの『年代記』
- 長期的な意義
- 西方のローマ皇帝の称号が復活し、後の神聖ローマ帝国や、教皇と皇帝の権力をめぐる数世紀にわたる議論の先例となった
やさしい
800年のクリスマスに何が起きたのか?
800年12月25日、フランク王カールは、使徒ペトロの墓と伝えられる場所の上に建つ、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でクリスマスのミサに参列した。フランク王国の公式年代記によると、カールが墓の前で祈りを終えて立ち上がると、教皇レオ3世がその頭に冠を載せた。居合わせたローマの人々は、「神に戴冠された、偉大で平和をもたらすローマ人の皇帝、カール・アウグストゥスに、長寿と勝利を!」と叫んだ。年代記によれば、続いて教皇は古代の皇帝に対する作法で敬意を表した。
この出来事が起きた教会は、現在は残っていない。旧サン・ピエトロ大聖堂は、コンスタンティヌス帝の時代の4世紀に建てられた巨大な聖堂だった。16世紀に取り壊され、バチカン市国にある現在のサン・ピエトロ大聖堂に建て替えられた。
この儀式によって、後世に「カール大帝」(ラテン語の「カロルス・マグヌス」、すなわち「偉大なカール」)と呼ばれるカールは、476年にロムルス・アウグストゥルスが退位させられて以来、西ヨーロッパで初めて皇帝の称号を持つ人物となった。この出来事は、ヨーロッパ史の転換点の一つとして記憶されている。
やさしい
カール大帝とは誰か?
カール大帝は748年ごろ、フランク王国で実権を握るようになったカロリング家に生まれた。父ピピンは751年に王となった。768年にピピンが死ぬと、王国はカールと弟カールマンに分けられた。771年にカールマンが死んだ後、カールは単独で統治した。
カールは治世の大半を戦争に費やした。774年にはイタリア北部のランゴバルド王国を征服し、ランゴバルド王の称号を得た。30年以上にわたり(772~804年)、ドイツ北部のザクセン人と戦い、キリスト教を受け入れるよう強制した。スペインやバイエルンにも遠征し、ドナウ川流域ではアヴァール人と戦った。800年までに、その領土はピレネー山脈からエルベ川、北海からイタリア中部に広がっていた。
カール大帝は学問の保護者でもあった。イングランド出身のヨークのアルクィンら学者を宮廷に集め、書物の写本作成、学校の改革、ラテン語の改善を奨励した。この「カロリング・ルネサンス」により、失われていたかもしれない古代ラテン文学の多くが保存された。790年代以降、カール大帝が好んで滞在したのはアーヘンで、そこに宮殿と、現在も残る礼拝堂を建てた。
やさしい
危機に陥った教皇
レオ3世は795年12月に教皇となった。ローマの有力な貴族の家系の出身ではなく、前任の教皇ハドリアヌス1世の親族や支持者は彼に敵対した。799年4月25日、宗教行列の途中で、教皇庁の高官パスカリスとカンプルスが率いる武装集団が路上でレオを襲った。彼らはレオの目をつぶし、舌を切ろうとし、偽証や姦通などの罪で告発した。
レオは逃げ出し、アルプスを越えて北へ向かった。799年の夏、ザクセン遠征中のカール大帝とパーダーボルンで会った。このころ書かれ、しばしば『パーダーボルン叙事詩』と呼ばれるラテン語の詩は、二人の出会いを称賛し、すでにカール大帝を「ヨーロッパの父」と呼んでいる。
799年末、カール大帝はフランク人の貴族と司教の護衛を付けてレオをローマへ送り返した。彼らは告発内容の調査を始めた。1年後にはカール大帝自身が問題を解決するためにローマを訪れた。教皇の安全と権威は、今やフランク王にかかっていた。
中級
背景:フランク王と教皇の同盟
戴冠は、半世紀にわたる協力関係の頂点だった。751年、カール大帝の父ピピンは最後のメロヴィング朝の王を退位させ、教皇ザカリアスの承認を得てフランク王となった。754年、教皇ステファヌス2世はアルプスを越え、ピピンと幼いカールを含む息子たちに塗油し、「ローマ人の保護者」の称号を与えた。こうして彼らはローマの守護者となった。その見返りにピピンは、ローマを脅かしていたランゴバルド人と戦い、イタリア中部の土地を教皇に与えた。この寄進は「ピピンの寄進」(756年)と呼ばれ、伝統的に教皇領の起源とみなされている。
ランゴバルド王デシデリウスが再びローマを脅かすと、カール大帝はイタリアへ侵攻し、774年にランゴバルド王国の首都パヴィアを占領して、自らランゴバルド王となった。同年の復活祭にはローマを訪れ、父が教皇にした約束を確認した。それ以降、フランク人の勢力はイタリア北部と中部を支配し、教皇たちは守りを求めて東方ではなく北方に目を向けた。
同じころ、ローマとコンスタンティノープルの関係は緊張していた。教皇たちは長くビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝の臣下だったが、イタリアでのビザンツ帝国の力は弱まり、両者は宗教画の使用をめぐる聖像破壊運動などの神学上の争いでも対立した。フランク人もこうした問題でビザンツ側と意見が合わなかった。カール大帝の宮廷は、787年のビザンツ帝国側のニカイア公会議を批判する長い論考『カロリーニ書』を作成した。
中級
背景:コンスタンティノープルの女帝
当時の人々にとって、ローマ帝国はまだ存在していた。都はコンスタンティノープルにあり、その皇帝は地上で唯一のキリスト教徒の皇帝を自称していた。歴史家はこの国をビザンツ帝国と呼ぶが、そこに暮らす人々は自らをローマ人と呼んでいた。
797年、女帝エイレーネーは実の息子である皇帝コンスタンティノス6世を退位させて盲目にし、自らの名で単独統治を始めた。これは女性として初めてのことだった。西方の一部の著述家は、女性は皇帝の地位に就けず、したがって帝位は空位だと主張した。事件と同時代に近い『ロルシュ年代記』は、これをカール大帝が皇帝になるべき理由の一つとして挙げる。ギリシア人の間では皇帝の称号が途絶えたのだから、ローマと、イタリア、ガリア、ゲルマニアにあった古い帝国の拠点を支配するカールに称号を与えるのがふさわしい、というのである。
799年6月、アルクィンはカール大帝への有名な手紙で、世界の三つの最高権力について述べた。ローマで辱められている教皇権、コンスタンティノープルで保持者が家族に退位させられた皇帝の尊厳、そして権力と知恵においてほかをしのぐカールの王権である。この手紙は、戴冠前からカール大帝の周囲で彼を皇帝に近い存在として考えていたことを示している。
中級
800年の出来事を順にたどる
カール大帝は800年の秋にイタリアへ向かった。11月末、レオはローマから約20キロのメンターナでカールを迎えた。そこは伝統的にローマが皇帝を迎える場所であり、翌日、王は正式にローマへ入城した。12月1日、フランク人とローマ人の集会がサン・ピエトロ大聖堂で開かれ、教皇に対する告発が審議された。教皇側の記録によれば、司教たちは使徒座を裁くことはできないと宣言した。
12月23日、レオは福音書にかけて、告発された罪を犯していないと厳かに誓った。同じ日、エルサレム総主教の使節が到着し、敬意を示す象徴として、聖墳墓の鍵と旗をカール大帝に贈った。
2日後、クリスマスのミサと戴冠が行われた。出来事の順序について、フランク側と教皇側の史料は異なる。『フランク王国年代記』では、まず戴冠、次に歓呼、続いて教皇による「アドラティオ」、すなわち伝統的に皇帝に捧げられる敬意の儀礼が行われた。『教皇伝』の「レオ3世伝」は、教皇が自らの手でカールに冠を授けたこと、歓呼が神と聖ペトロの意志によって起きたこと、そして教皇がカールの息子である小カールに塗油して王としたことを強調する。
戴冠後には裁判が行われた。レオに対する陰謀者たちはローマ法の下で裁かれ、死刑を宣告されたが、教皇の要請により刑は追放に変更された。カール大帝は801年の復活祭後までローマに滞在し、その後北へ帰った。二度とローマを見ることはなかった。
中級
その後:二人の皇帝
新たな称号は難しい問いを生んだ。ローマ皇帝は二人存在しうるのか。801年、カール大帝は慎重に言葉を選び、「神に戴冠された、いとも高貴なるアウグストゥス、偉大で平和をもたらす、ローマ帝国を統治する皇帝カール。神の慈悲によるフランク人とランゴバルド人の王」という称号を採用した。直接「ローマ人の皇帝」とは名乗らなかった。コンスタンティノープルとの正面衝突を避けるためだったのかもしれず、何よりもまずフランク王であり続けたかったのかもしれない。
コンスタンティノープルは戴冠を帝位の簒奪とみなした。9世紀初頭に書いたビザンツ帝国の年代記作者テオファネスは、カール大帝がエイレーネーとの結婚を申し込み、それによって二つの帝国を統一しようとさえしたと伝える。実際にその計画があったとしても、802年にエイレーネーがニケフォロス1世に退位させられたため実現しなかった。フランク軍とビザンツ軍はヴェネツィアとダルマティア沿岸をめぐって衝突した。812年、皇帝ミカエル1世の使節はアーヘンでカール大帝に会い、ヴェネツィアの返還と引き換えに、彼を皇帝、すなわちバシレウスとたたえた。この合意は、ニケフォロスのもとで始まった交渉にちなみ、しばしば「ニケフォロスの和約」と呼ばれる。
ほかの勢力との関係にも、カール大帝の新たな地位が表れた。アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ=ラシードと使節を交換し、802年にはフランク人の使節がアブル・アッバースという名のゾウを連れ帰った。このゾウは数年間アーヘンで暮らした。こうした交流はフランク側の史料に記録されているが、知られている限り、アラビア語の史料には記録されていない。
813年、カール大帝は教皇を介さず、アーヘンで自ら息子ルートヴィヒ敬虔王に冠を授け、共同皇帝とした。このことは、彼が皇帝の権威に教皇による戴冠を必要と考えていなかった可能性を示す。カール大帝は814年1月28日にアーヘンで死去した。816年、ルートヴィヒは教皇ステファヌス4世から再び冠を授かった。教皇の役割を簡単には退けられなかったことを示している。
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長期的な影響:帝国、教皇、ヨーロッパ
カール大帝の帝国は、単一の国家としては長く続かなかった。843年、孫たちがヴェルダン条約によって帝国を分割し、西方の皇帝の称号は力の多くを失った。しかし、その理念は生き残った。962年、ドイツ王オットー1世はカール大帝の先例を意識し、ローマで教皇ヨハネス12世から帝冠を授かった。この戴冠から発展した帝国は後に神聖ローマ帝国と呼ばれ、1806年まで続いた。
800年の儀式は、中世の政治を形づくる問いを生んだ。誰が帝位を授けるのか。後世の教皇たちは、教皇権が帝国をギリシア人からフランク人へ移した(「帝権の移転」)と主張した。これは教皇が皇帝の権威を与え、審判し、取り消すことさえできるという意味を含んでいた。一方、皇帝たちは自らの権力は神と選挙から直接与えられると主張した。この対立は、11~12世紀の叙任権闘争を含む、中世の多くの争いの背景となった。
この戴冠はまた、ラテン語を用いる西方とギリシア語を用いる東方との隔たりを深めた。言語、教会、政治的伝統の異なる二つの勢力が、どちらもローマ皇帝の称号を主張して並び立つようになった。多くの歴史家は、この戴冠を、カトリックと正教会の分裂に至る長い過程の一段階とみている。
後世の君主たちは繰り返しカール大帝を手本にした。1165年、皇帝フリードリヒ・バルバロッサは、対立教皇パスカリス3世にカール大帝を聖人と宣言させた。1804年に教皇ピウス7世の前で自ら皇帝として戴冠したナポレオンも、意識してカール大帝を引き合いに出した。20世紀には、カール大帝はヨーロッパ統合の象徴となった。1950年以来、アーヘン市はヨーロッパ統合に貢献した人々にカール大帝賞を授与している。
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さまざまな見方と記憶
フランク側の著述家は、戴冠を、すでにキリスト教世界の西方の大部分を治めていた王にふさわしい報いとして描いた。教皇側の著述家は、聖ペトロのために行動する教皇の行為として描いた。ビザンツ側の著述家には、自国の皇帝のものである称号を、正統性のない「蛮族」の王が奪ったように見えた。それぞれの見方が記録の内容を形づくっており、現代の歴史家はそれらを照らし合わせて読む必要がある。
19世紀から20世紀初頭にかけて、フランスとドイツはともにカール大帝を自国の建国者とみなした。フランス人にとっては「シャルルマーニュ」、ドイツ人にとっては「カール・デア・グローセ」だった。著者によって、その戴冠はフランス王政の誕生とも、ドイツ帝国の誕生とも解釈された。第二次世界大戦後には、同じ人物が、国家間の対立を超える「ヨーロッパの父」として捉え直された。
カール大帝の統治が、誰にとっても黄金時代だったわけではない。ザクセン人は数十年にわたる戦争の末に征服され、改宗を強制された。フランク側の年代記は、782年にフェルデンで約4500人のザクセン人が1日で処刑されたと伝える。この数字は誇張か読み違いかもしれないと考える歴史家もいるが、実際に行われた苛烈な行為を映し出している。ザクセンに課された法律は、洗礼を拒む者に死刑を定めていた。現代の記述では、戴冠がたたえた帝国を評価する際、こうした視点もますます取り入れられている。
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史料とそれぞれの立場
『フランク王国年代記』は、741年から829年までの出来事を年ごとに記した史料で、カロリング朝の宮廷またはその近くで編纂された。戴冠について最も詳しいフランク側の記述であり、歓呼の文句や教皇の「アドラティオ」を伝えている。814年以降に作られ、一時はアインハルトの著作とされた改訂版は、ラテン語の文章を整え、細部を加えている。ロザモンド・マッキタリックらの歴史家は、この年代記は中立的な記録ではなく、カロリング朝の成功を描くために慎重に構成された物語だと強調している。
ローマで編纂された教皇たちの伝記集『教皇伝』には、出来事の後まもなく書かれた「レオ3世伝」が収められている。そこでは799年の襲撃が劇的に語られ、レオが奇跡によって治癒したとされ、戴冠での教皇の主導権と小カールへの塗油が強調されている。同時代に近いフランク側の史料『ロルシュ年代記』は、コンスタンティノープルを女性が統治しているため帝位は空位だという論拠を示している。
カール大帝を個人的に知る宮廷人アインハルトは、おそらく820年代に、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』を手本として『カール大帝伝』を書いた。アインハルトによれば、カール大帝は初め皇帝の称号をひどく嫌い、教皇の計画を知っていたなら、たとえ大きな祝日でもその日教会には入らなかっただろうと語ったという。また、ビザンツ皇帝たちの憤りに大きな忍耐をもって耐えたとも記している。810年代にギリシア語で記したビザンツ側の年代記作者、証聖者テオファネスは、教皇がカールの頭から足まで油を塗ったと伝える。これは西方の史料にはない細部である。エイレーネーへの結婚の申し込みについても記している。
どの史料も、中立的な目撃証言ではない。フランク側の年代記、教皇伝、アインハルト、テオファネスには、それぞれ支持する立場や見方があった。戴冠、歓呼、塗油の基本的な順序についてさえ、記述は一致していない。
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論争:誰が計画し、何を意味したのか?
カール大帝は知っていたのか。カールが驚いたというアインハルトの主張は、さまざまに解釈されてきた。一部の歴史家は、本当に不快に思った証拠とみる。その対象は称号そのものではなく、教皇が主導したことだったのかもしれない。教皇が皇帝をつくるという意味になりかねないからである。一方、君主が名誉をしぶしぶ受け入れるという、ローマの作品に由来する謙遜の文学的な型とみる歴史家もいる。現代の研究者の多くは、戴冠は事前に準備されていたと考える。フランク人とローマ人の指導者が集まったこと、クリスマスという日取り、アルクィンが以前に書いた手紙は、いずれも計画をうかがわせる。ロジャー・コリンズは799年のパーダーボルンでの会談までに合意していたと論じ、ヨハネス・フリートは798年までにカール大帝が皇帝の称号を目指していたと論じている。
誰の帝国だったのか。称号が参加者それぞれにとって何を意味したかについて、歴史家の意見は分かれる。教皇にとっては、皇帝をローマ市とその司教に結びつけるローマの称号だったのかもしれない。フランク王国の宮廷にとっては、古代ローマの復活というより、アルクィンの言う「キリスト教徒の帝国」として、カール大帝によるキリスト教徒の統治を表したのかもしれない。「ローマ帝国を統治する」という慎重な称号や、813年に自らルートヴィヒに戴冠した決断は、カール大帝が教皇やローマの関与を抑えようとしたしるしとも解釈されている。
より広い視野では、ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌが『マホメットとシャルルマーニュ』(1937年刊)で、アラブ人の征服が地中海世界の一体性を壊し、西方の中心を北へ押しやったため、カール大帝の帝国は北方の、海への出口を持たない新たな秩序だったと論じた。この説は、特に考古学と経済史の観点から厳しく批判されている。それでも戴冠を世界的な文脈に置き、カロリング朝、ビザンツ帝国、アッバース朝のつながりなど、後世の歴史家が探究し続ける論点を提示した。
ロザモンド・マッキタリック(2008年)やジャネット・L・ネルソン(2019年)による近年の伝記は、戴冠だけをカール大帝の生涯を決定づける唯一の瞬間とするのではなく、その生涯と治世全体の中に位置づける傾向がある。そして、この出来事が799年の危機やコンスタンティノープルの状況に大きく左右されていたことを重視する。
重要なポイント
- 西方帝国の復活
- 476年以来初めて、西ヨーロッパの君主が皇帝の称号を得た。
- フランク王と教皇の同盟
- 教皇たちは保護を求めてフランク王を頼り、フランク人は教皇から宗教的な正統性を得た。
- 二人の皇帝という問題
- コンスタンティノープルもローマ皇帝の称号を主張していたため対立が生じ、812年に妥協が成立した。
- 誰が皇帝を立てるのか?
- 儀式で教皇が果たした役割は、皇帝の権威の源をめぐる教皇と皇帝の数世紀にわたる議論につながった。
- 帝権の移転
- ローマ帝国の帝権がギリシア人からフランク人へ、さらに後にはドイツ人へ移ったという中世の考え方。
- キリスト教徒の帝国
- カール大帝の周囲の人々は、帝国を単なる古代ローマの復活ではなく、キリスト教徒を治める政治の形とみていた。
- 評価の分かれる記憶
- フランス、ドイツ、教皇庁、ビザンツ帝国、現代のヨーロッパは、それぞれ異なる立場からこの出来事を語ってきた。
記録
- 476年 — 西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位させられる。
- 751年 — カール大帝の父ピピンが、教皇の承認を得てフランク王となる。
- 754年 — 教皇ステファヌス2世が、ピピンとカールを含む息子たちに塗油する。
- 768年 — カールと弟カールマンがピピンの後を継ぐ。771年からカールが単独で統治する。
- 774年 — カール大帝がランゴバルド王国を征服し、ランゴバルド王となる。
- 797年 — 女帝エイレーネーが息子コンスタンティノス6世を退位させ、ビザンツ帝国を単独で統治する。
- 799年 — 教皇レオ3世がローマで襲撃され(4月25日)、パーダーボルンのカール大帝のもとへ逃れる。
- 800年 — レオが無実を誓い(12月23日)、サン・ピエトロ大聖堂でカール大帝を皇帝として戴冠させる(12月25日)。
- 812年 — ビザンツ帝国の使節がアーヘンでカール大帝を皇帝とたたえる。
- 813年 — カール大帝がアーヘンで息子ルートヴィヒ敬虔王を共同皇帝として戴冠させる。
- 814年 — カール大帝がアーヘンで死去する(1月28日)。
- 962年 — オットー1世がローマで皇帝として戴冠し、神聖ローマ帝国へと続く皇帝の系譜が始まる。
用語集
- フランク人
- ガリアを拠点とする王国を築き、西ヨーロッパの有力勢力となったゲルマン系の人々。
- カロリング家
- カール大帝の名(カロルス)にちなむ一族。751年からフランク人を統治した。
- 教皇
- ローマの司教で、ラテン教会(西方教会)の長。
- ビザンツ帝国
- コンスタンティノープルから統治された東ローマ帝国の現代の呼び名。住民は自らをローマ人と呼んだ。
- 歓呼
- 集まった人々が正式に賛意を叫んで示すこと。ローマとビザンツ帝国で、皇帝を立てる儀式の一部だった。
- 塗油
- 王や聖職者として聖別するため、その人に聖なる油を塗ること。
- アドラティオ
- ローマ皇帝に対して行われた、お辞儀やひれ伏す動作などの敬意を示す儀礼。
- 教皇領
- 教皇が支配したイタリア中部の土地。伝統的に756年のピピンの寄進に起源を求める。
- 神聖ローマ帝国
- 962年にオットー1世のもとで復活し、1806年まで続いた西方の帝国。「神聖ローマ」という名称が使われるようになったのは後のことである。
- カロリング・ルネサンス
- カール大帝と後継者たちの時代に起きた、学問、書物の写本作成、教育の復興。
よくある質問
カール大帝は自分で戴冠したのですか?
いいえ。教皇レオ3世がカール大帝の頭に冠を載せました。後の813年には、カール大帝が教皇を介さず、自ら息子ルートヴィヒに冠を授けました。
教皇はなぜカール大帝に冠を授けたのですか?
教皇はローマで敵に襲われた後、強い守り手を必要としていました。また、カール大帝はすでにキリスト教世界の西方の大部分を治めていました。戴冠は彼をたたえ、ローマとの結びつきを強めました。
カール大帝は本当に驚いたのですか?
伝記作者アインハルトはそう書いています。しかし歴史家の多くは、儀式は事前に計画されていたと考えています。アインハルトの記述は、王の謙虚さや、教皇が主導したことへの不満を表すものとみられています。
戴冠が行われた教会は今もありますか?
いいえ。旧サン・ピエトロ大聖堂は16世紀に取り壊され、同じ場所に現在のサン・ピエトロ大聖堂が建てられました。
コンスタンティノープルはどう反応しましたか?
当初は帝位の簒奪とみなしました。ビザンツ帝国の君主は、自分こそ唯一のローマ皇帝だと主張していたからです。812年、ビザンツ帝国の使節はカール大帝を皇帝と認めましたが、自国の皇帝と並ぶ西方の皇帝としてでした。
これが神聖ローマ帝国の始まりですか?
後の帝国の手本であり、出発点の一つでした。ただし歴史家は通常、神聖ローマ帝国の始まりを962年のオットー1世の戴冠とします。その名称が使われるようになったのはさらに後です。
戴冠についての記録はどのくらい信頼できますか?
主な史料には、それぞれの立場があります。フランク側の年代記は王を称賛し、教皇伝は教皇の役割を強調し、ビザンツ側の年代記は敵対的でした。出来事の順序についても一致していません。
出典・参考文献
- Coronation of Charlemagne. Wikipedia
- Charlemagne. Wikipedia
- Pope Leo III. Wikipedia
- Irene of Athens. Wikipedia
- Royal Frankish Annals. Wikipedia
- Liber Pontificalis. Wikipedia
- Vita Karoli Magni. Wikipedia
- Old St. Peter’s Basilica. Wikipedia
- Rosamond McKitterick, Charlemagne: The Formation of a European Identity. Cambridge University Press, 2008
- Janet L. Nelson, King and Emperor: A New Life of Charlemagne. Allen Lane, 2019
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
