美術

ケルズの書

Codex Cenannensis (Latin); Leabhar Cheanannais (Irish); Trinity College Dublin, MS A. I. [58]

750–850年頃 · ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館(アイオナ島とケルズのコルンバ派修道共同体が制作)

ひとことで

『ケルズの書』は、西暦800年ごろにアイルランドまたはスコットランドでコルンバ会の修道士たちによって作られた、豊かな彩色を施したラテン語の四福音書写本であり、しばしばブリテンとアイルランドの初期中世における最高傑作の書物芸術と称される。

ケルズの書
画像: Unknown authorUnknown author · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

印刷機ができるずっと前、すべての本は手で書かれていました。今からおよそ1200年前、ブリテンとアイルランドの島々の修道士たちは、羽根ペンを使って子牛の皮でできたページに聖なる書物を書き写すのに、何年もかけていました。

『ケルズの書』は、こうした本の中で最も有名なものです。これにはイエスの物語を伝えるキリスト教聖書の一部、四つの福音書が収められています。当時の教会の言語だったラテン語で書かれています。

この本を特別なものにしているのは、その芸術です。ほぼすべてのページに、彩色された文字や、小さな動物、絡み合う結び目、渦を巻く螺旋模様が、赤、黄、緑、紫の色で描かれています。ページによっては装飾があまりに密で、文字を見つけるのがやっとなほどです。

よく見ると、隠された驚きを見つけることができます。猫やネズミ、孔雀、ライオン、蛇、天使などです。あまりに小さく精密な模様なので、かつて人々は、これは人間ではなく天使の仕事のようだと言いました。

この本は、それが何百年も保管されていたアイルランドのケルズ修道院にちなんで名づけられました。スコットランドのアイオナ島で作り始められた可能性もあり、そこではヴァイキングの襲撃者たちが修道士たちを襲いました。今からおよそ千年前のあるとき、盗賊たちが金の表紙を狙ってこの本を盗み、そのあと捨ててしまいました。本は土の下から見つかりました。

今日、『ケルズの書』はアイルランドの首都ダブリンにあるトリニティ・カレッジの図書館にあります。今では四つの巻に分けて製本されており、訪問者はガラス越しに一度に二ページを見ることができます。

ひと目でわかる

内容
ラテン語で書かれた彩飾福音書――序文、要約、対観表を伴う四つの福音書
年代
西暦800年ごろ(様式と書体によって年代が推定されている。もう少し早い時期とする研究者もいる)
製作者
聖コルンバ(コルムキレ)の共同体の修道士たち。おそらくアイオナで始められ、ケルズで続けられた。正確な制作地は議論がある
大きさ
羊皮紙340葉(680ページ)、裁断後は約330×250mm。1953年以来四巻に分けて製本されている
書体
インシュラー体大文字。少なくとも3人の書写者による
美術
有名なカイ・ロー・ページを含む10点の全ページ挿絵、聖母子像、キリストと福音書記者たちの肖像
所蔵
1661年以来トリニティ・カレッジ・ダブリンの図書館(オールド・ライブラリー)に所蔵
顕彰
2011年、ユネスコ「世界の記憶」に登録

やさしい

『ケルズの書』とは何か

『ケルズの書』は、新約聖書の四つの福音書――マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ――をラテン語で手書き・手彩色で写した書物である。このような本は「福音書」と呼ばれ、彩色で装飾されたものは「彩飾写本」と呼ばれる。色彩がページを輝かせているように見えることに由来する。

この本は西暦800年ごろ、アイルランドの聖人コルンバ、別名コルムキレによって創設された修道院網に属する修道士たちによって作られた。この本の名は、それが何世紀にもわたって保管されていたアイルランド、ミース州のケルズ修道院に由来する。1661年以降はトリニティ・カレッジ・ダブリンの所蔵となり、オールド・ライブラリーで展示されている。

『ケルズの書』は、初期中世におけるブリテンとアイルランドの様式である「インシュラー美術」の頂点であり、西洋の書芸の傑作のひとつとみなされている。同時代の現存する福音書の中で、これほど徹底して、大胆に装飾されたものは他にない。

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やさしい

本の中には何があるのか

現在、この写本は340葉からなり、両面を数えると680ページになる。マタイ、マルコ、ルカの全文と、ヨハネによる福音書の第17章13節までを収めており、ヨハネの残りの部分やその他の一部のページは失われている。福音書本文の前には、ヘブライ語の名前の一覧、エウセビオスの対観表、各福音書の短い要約(ブレヴェス・カウサエ)、福音書記者たちの短い伝記(アルグメンタ)といった、序文にあたる文章が置かれている。

福音書の本文は、おおむね4世紀末ごろにヒエロニムスが作ったラテン語訳『ウルガタ』に従っているが、「古ラテン語訳(ウェトゥス・ラティーナ)」と呼ばれるそれ以前のラテン語訳からの読みも混ざっている。書写者たちは、時に記憶に頼って書いていたようである。有名な書き間違いもいくつかある。マタイによる福音書10章34節では、本来「剣」を意味するグラディウム(gladium)の代わりに、「喜び」を意味するガウディウム(gaudium)と書かれており、その結果イエスが、平和だけでなく喜びをもたらすために来たと述べているかのように読める。

この本は結局完成しなかった。一部のページでは、予定されていた装飾が輪郭だけの状態にとどまっており、学者たちは、もとの本は約370葉からなっていたと考えている。失われた葉の多くは、おそらく11世紀初頭に盗人たちが貴重な表紙を引きはがした際に失われたものと見られる。

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やさしい

装飾されたページの読み方

33ページは、装飾がページ全体を覆うほど密に施されている。そのうち10ページは全面挿絵で、聖母マリアと幼子キリスト、四福音書記者の象徴を描いたページ、マタイとヨハネの肖像、玉座のキリスト、模様だけで全面を覆った一枚の「カーペット・ページ」、そしてイエスの逮捕と誘惑の場面が含まれる。

最も有名なページは、カイ・ロー・ページ(34表葉)である。中世の書写者たちは、ギリシャ語で「キリスト」の最初の二文字、カイ(X)とロー(P)を書くことで、この名前を短縮していた。イエスの生涯の物語が始まるマタイによる福音書1章18節の箇所で、『ケルズの書』の製作者たちは、この二文字をページ全面を覆う巨大な意匠に作り変えた。Xの文字は長く湾曲する腕を大きく広げ、その周りの空間は螺旋や結び目、隠された生き物でびっしりと埋め尽くされている。Xの腕の一つからは三人の天使が立ち現れ、猫やネズミ、その他の小さな動物や昆虫が装飾の中に紛れ込んでいる。

それぞれの福音書の冒頭にも、同じような扱いが施されている。マタイによる福音書は「Liber generationis(系図の書)」というわずか二語で始まるが、その最初の文字が巨大な組み文字へと成長している。ヨハネによる福音書は「In principio erat verbum verum(初めに真の言葉があった)」で始まり、通常の本文にはない「真の(verum)」という語が加えられている。

ごく普通の本文ページでさえ、小さく彩色された頭文字や、文字の形にねじれた動物や人の姿で満ちあふれている。本全体の中で、まったく彩色装飾のないページはわずか二ページしかない。

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中級

コルンバ、アイオナ、そしてヴァイキング

563年、アイルランドの修道士コルンバは12人の仲間とともに、スコットランド西岸沖の小さな島アイオナへ渡り、そこに修道院を築いた。アイオナは、アイルランドとスコットランドにまたがるコルンバ会修道院群の本山となり、学問と書物制作の重要な中心地となった。アイオナから来た修道士たちは、インシュラー美術のもうひとつの重要な中心地となる、ノーサンブリアのリンディスファーンも創設している。

8世紀後半から、ヴァイキングの襲撃者たちが沿岸の修道院を襲い始めた。アイオナは795年に、続いて802年、806年、825年にも襲撃された。806年の襲撃では、68人の修道士が殺害された。これを受けて、共同体は807年から814年の教会奉献までの間に、アイルランドのケルズに新しい修道院を築いた。それでもアイオナは、その後数十年にわたってコルンバ会の主要な拠点であり続け、コルンバの遺骨がアイルランドへ移されたのは878年になってからのことだった。

こうした出来事は、この本の起源について最も広く受け入れられている説の背景となっている。すなわち、この本はおそらくコルンバをたたえるためにアイオナで書き始められ、その後共同体の移動とともにケルズへ運ばれ、そこで続けられたという説である。一部のアイルランドの学者は、これを597年のコルンバの死から200年の節目と結びつけ、また別の学者はその遺骨を聖遺物箱に納めた出来事と結びつけているが、いずれの関連づけも証明はされていない。

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中級

インシュラー美術――その様式はどこから来たのか

『ケルズの書』は、6世紀後半から9世紀初頭にかけて、アイルランドとブリテンの修道院、およびアイルランド人やアングロ・サクソン人の宣教師たちが大陸に築いた修道院で作られた一群の写本に属する。この系列の先行例には、『聖コルンバのカサック』や『ダロウの書』(7世紀後半)、『リンディスファーンの福音書』、『リッチフィールドの福音書』(8世紀初頭)がある。『ケルズの書』は、その装飾が最も発達した、この系列の後期の作品である。

インシュラー美術は、いくつもの伝統を組み合わせたものである。螺旋や三脚巴(トリスケル)、曲線的な形は、鉄器時代後期のケルト美術に由来し、絡み合う動物文様は、サットン・フーで見つかったような種類のゲルマン系金工品に多くを負っている。そして本の形式や、アーチで囲まれた対観表、福音書記者の肖像は、地中海世界のキリスト教文化に由来する。インシュラーの美術家たちは、奥行きや遠近法を表現しようとはしなかった。その代わりに、平らな表面を密で活力に満ちた文様で覆い尽くしたのである。

スウェーデンの美術史家カール・ノルデンファルクは、インシュラーの頭文字を、脈打つリズムで伸び縮みする弾力的な形態であり、そのエネルギーが螺旋へと逃れ出て新たな曲線を生み出していると表現した。『ケルズの書』において、この傾向は最も極端な形にまで達している。

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中級

本はどのように作られたのか

ページは羊皮紙、すなわち洗浄され、伸ばされ、削られた上質の子牛の皮でできている。シートは二つ折りにして一対の葉とし、それを重ねて「折丁(クワイア)」と呼ばれる束に綴じた。現存する葉は38の折丁を成している。本文のために罫線が引かれており、その罫のための小さな刺し跡が今も一部のページに見て取れる。羊皮紙の質は、厚く革のようなものから、非常に薄いものまでさまざまである。

本文は、鉄没食子インクを用いて、大きく丸みを帯びたインシュラー体大文字で書かれている。美術史家フランソワーズ・アンリは、少なくとも三人の書写者を特定し、それぞれを「手A」「手B」「手C」と呼んだ。第四の書写者の存在も指摘されている。彼女はまた、三人の主要な画家も区別している。金属を模した色彩でカイ・ロー・ページを描いた「金細工師」、誘惑と逮捕の場面を描いた「挿絵画家」、そしてキリストと福音書記者たちを描いた「肖像画家」である。この本の制作には、最大で12人が関わっていたと考えられている。

使われた色には、赤や黄の顔料であるオーカー、銅を含む緑色の顔料、雌黄(オーピメント、黄色いヒ素鉱物)、そしてウォード(大青)やオルセインといった植物や地衣類から作られた青や紫が含まれる。インシュラー写本では通例のことだが、金箔や銀箔はまったく使われていない。かつては、アフガニスタン産の高価なラピスラズリや地中海産の貝紫が使われていたと信じられていたが、現代の分析によって、それらは使われていないことが分かっている。

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中級

千年の生き残り

この本についての最初の確からしい言及は、『アルスター年代記』の、通常1007年(1006年とする記録もある)の項目に見られる。それによれば、「コルムキレの大福音書、西の世界の第一の聖遺物」が、その装飾された聖遺物箱ゆえに、ケルズの大きな石造教会から夜のうちに盗まれたという。この本は数か月後、宝石をちりばめた表紙を失った状態で、「芝土の下」から見つかった。この乱暴な持ち去りが、本の初めと終わりの葉が失われている理由を説明しているのかもしれない。

12世紀には、修道院への土地寄進を記録した特許状が、この本の空白ページに書き写されており、これによって当時すでにこの本がケルズにあったことが分かる。修道院が解散され、その教会が教区教会になった後も、この本はケルズにとどまり続けた。1654年、オリバー・クロムウェルの騎兵隊がこの教会に駐屯した際、町の総督は安全のためにこれをダブリンへ送った。1661年、クロッハー主教でダブリン大学副総長でもあったヘンリー・ジョーンズが、これをトリニティ・カレッジに寄贈した。

その後の所有者や読者たちも、それぞれ痕跡を残している。1568年、ジェラルド・プランケットが章番号と注釈を書き加えた。1621年、学者ジェームズ・アッシャーは葉の数を344枚と数えた。19世紀の再製本の際には余白が裁ち落とされ、一部の挿絵の端が失われた。1953年、製本家ロジャー・パウエルがこの写本を四巻に再製本した。今日、常に一巻がオールド・ライブラリーで展示されており、光による損傷を防ぐため、開かれた二ページは年に何度か入れ替えられている。

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中級

名声と影響

この本の世界的な名声は19世紀に始まった。それはアイルランド初期キリスト教文化と民族的誇りの象徴となった。1849年にはヴィクトリア女王とアルバート公がこれに署名を残している。その意匠は「ケルト・リバイバル」の流れを育て、そのページから写された結び目や螺旋、動物文様は、金工品、刺繍、家具、陶器などに現れるようになり、今日でもアイルランドのデザインに親しまれている。

複製の刊行によって、その図像はダブリンをはるかに超えて広まった。最初のファクシミリ版は1951年にベルンで出版され、1974年にはフランソワーズ・アンリによる解説付きのカラー版が、1990年には各ページに触れることなく撮影する手法を用いたフルカラーのファクシミリ版が刊行された。写本全体は、今ではトリニティ・カレッジのデジタル・コレクションを通じてオンラインでも見ることができる。2011年、ユネスコはこれを「世界の記憶」に登録した。

トム・ムーア監督による2009年のアニメーション映画『ブレンダンとケルズの秘密』は、ヴァイキングが修道院を脅かす中、若い修道士がこの本の完成を手伝う姿を描いている。この作品はアカデミー賞にノミネートされた。

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どこで、いつ作られたのか――起源をめぐる論争

コルンバ自身がこの本を書いたとする中世の伝承は、古文書学的、様式的な根拠に基づいて、はるか昔に退けられている。この本には制作年代や制作者を示す奥付や銘文が存在しないため、学者たちは主にその書体や装飾を他の写本と比較することによって、インシュラー系写本の系列の中でも後期、すなわち8世紀後半から9世紀初頭のものと位置づけている。

その制作地については、少なくとも四つの説がある。アイオナで始められケルズで完成したという説、すべてアイオナで作られたという説、すべてケルズで作られたという説、そしてダンケルドのようなスコットランド東部のピクト人の修道院で作られたという説である。最初の説が最も広く受け入れられている。ピクト説を直接裏づける証拠はほとんどなく、その一因はピクト王国から現存する写本が一つもないことにあるが、イザベル・ヘンダーソンらはピクト美術とこの本との関連を探ってきたし、植物由来の青や紫の使用をスコットランド起源の証拠と見る研究者もいる。ポール・メイヴァートの1989年の論文「『ケルズの書』とアイオナ」は、この論争における重要な貢献のひとつである。

疑いの余地がないのは、この本がアイオナと密接に結びついたコルンバ会の修道士たちによって作られたということである。この本が未完成であることは、しばしばヴァイキングの襲撃による混乱によって説明されるが、これはあくまで推測であり、文書によって裏づけられた事実ではない。

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上級

書庫のためではなく、祭壇のための書物

いくつもの特徴が、『ケルズの書』が研究のためではなく、見られ、崇敬されるために作られたものであることを示している。読者が異なる福音書の中で同じ物語を見つけられるようにするはずの対観表は、実際には使い物にならない。12ページ分の内容が10ページに詰め込まれ、対応する節番号が福音書本文に一度も加えられなかったからである。多くの書き写しの誤りも、そのまま訂正されずに残されている。また、行の終わりに収まりきらなかった単語は、レイアウトを崩さないように、上の行の隙間に押し込まれることもあった。

『アルスター年代記』は、この本がミサに使う聖具の保管場所である「聖具室」から盗まれたと記しており、書庫からではない。したがって学者たちは、この本は祭壇の上に置かれ、行列で運ばれ、ミサでの福音朗読の際に開かれていたと考えている。読み手はおそらく大部分を記憶によって唱えていたのだろう。その意味でこの本は、単なるテキストであると同時に、コルンバゆかりの聖遺物ともいえる、神聖な対象物だったのである。キャロル・ファーの著書『ケルズの書――その機能と読み手』(1997年)は、この本の図像が修道士である見る人々にとってどのように働いていたかを探っている。

このことは、この本の贅を尽くした装飾の理由も説明している。この本の図像や装飾には神学的な意味が込められている。四福音書記者の象徴が本のいたるところに繰り返し現れるのは、四つの福音書がひとつのメッセージを伝えていることを強調するためであり、古代の著述家アウグスティヌスらがその肉は腐らないと信じていた孔雀は、キリストと復活の象徴とされている。

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上級

つながった世界の中の辺境の島

『ケルズの書』は、初期中世のアイルランドとスコットランドが孤立していなかったことを示している。アイルランドは一度もローマ帝国の一部になったことがなかったにもかかわらず、その修道士たちはラテン語を読み書きし、地中海世界から伝わった文書を書き写し、コプト教会やギリシャ教会の書物にも類例がある、カーペット・ページやアーチで囲まれた対観表のような意匠を知っていた。写本史家クリストファー・ド・ハメルは、この本の顔料の中に、おそらくイタリアから運ばれた鉱物である雌黄が含まれていることを強調している。これは、他には知られていない交易路の存在を示唆している。

西洋の写本に現存する最古の聖母マリア像である「聖母子」の細密画(7裏葉)は、ビザンティンやアルメニア、コプトの図像を手本にしているように見え、698年にダラムで作られた聖カスバートの棺のふたに彫られた像と比較されてきた。この本は、こうしてアイルランド、ピクト、アングロ・サクソン、そして地中海世界の美術が交わる交差点に位置している。

現代の議論は、この本がどの国に帰属するのかという問題にも及んでいる。19世紀以来、この本はアイルランドのアイデンティティの象徴として用いられてきたが、その制作がおそらくアイオナで始まったという事実は、これをスコットランドの歴史の一部でもあるものにしている。今日多くの学者は、この本を、今日の国境を越えて広がっていたゲール語系キリスト教ネットワークの産物として捉えることを好んでいる。

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重要なポイント

彩飾(イルミネーション)
写本を色彩や絵、装飾で飾ること。インシュラーの書物では、装飾はしばしば文字そのものから育つように生み出される。
目に見える形にされた御言葉
修道士たちにとって福音書の本文は聖なるものだった。その冒頭の言葉を巨大で壮麗なものにすることは、神の御言葉を敬う一つの方法だった。
四福音書の一致
四福音書記者の象徴(人、獅子、牛、鷲)が本のいたるところに繰り返し現れ、四つの福音書がひとつのメッセージを伝えていることを示す。
奥行きより文様
インシュラー美術は三次元的な空間を模倣しない。平らな面を、動きに満ちた組紐文様や螺旋、動物文様で覆い尽くす。
聖遺物としての書物
コルンバと結びつけられ、宝石をちりばめた聖遺物箱に納められていたこの本は、研究のための書物というより、祭壇のための神聖な対象物として扱われた。
隠された細部
装飾に紛れ込んだ小さな動物や人物は、じっくり見る人に報いるものであり、孔雀が復活を表すように、象徴的な意味を帯びていることがある。
修道院のネットワーク
この本は、人、書物、芸術的な発想を共有しながらアイルランドとスコットランドに広がっていた共同体によって作られた。

記録

  1. 563年 — コルンバと12人の仲間がアイオナに修道院を築く。
  2. 597年 — コルンバがアイオナで亡くなる。
  3. 675年頃 — それ以前のインシュラー福音書である『ダロウの書』が作られる(7世紀後半)。
  4. 795年 — ヴァイキングが初めてアイオナを襲撃する。
  5. 800年頃 — 『ケルズの書』が作られる。おそらくアイオナで書き始められた。
  6. 806年 — ヴァイキングによるアイオナ襲撃で68人の修道士が殺害される。
  7. 807年 — ケルズに新しいコルンバ会修道院の建設が始まる(教会の奉献は814年)。
  8. 1007年 — 『アルスター年代記』が、ケルズから「コルムキレの大福音書」が盗まれたことを記録する。後に表紙のない状態で発見される。
  9. 1654年 — クロムウェル軍がケルズに駐屯する中、本は安全のためダブリンへ送られる。
  10. 1661年 — ヘンリー・ジョーンズがこの本をトリニティ・カレッジ・ダブリンに寄贈する。
  11. 1953年 — ロジャー・パウエルがこの写本を四巻に再製本する。
  12. 2011年 — ユネスコが『ケルズの書』を「世界の記憶」に登録する。

用語集

彩飾写本
色彩や絵、装飾で飾られた手書きの本。金が使われることもあるが、『ケルズの書』では使われていない。
福音書
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を収め、キリスト教の礼拝で使われる書物。
羊皮紙(ヴェラム)
子牛の皮から作られた上質の羊皮紙で、中世写本の書写面として使われた。
葉(フォリオ)
写本の一枚の葉。その表側は「表葉(レクト)」、裏側は「裏葉(ヴェルソ)」と呼ばれ、「34表葉」は34葉目の表側を意味する。
インシュラー美術
およそ600年から900年にかけてのアイルランドとブリテンの美術で、組紐文様や螺旋、動物文様で知られる。
インシュラー体大文字
アイルランドとブリテンで重要な書物のために用いられた、大きく丸みを帯びた書体。
カイ・ロー
ギリシャ語で「キリスト」を表す最初の二文字(XとP)を組み合わせた組み文字。カイ・ロー・ページは、この本の中で最も有名なページである。
対観表
カエサレアのエウセビオスが考案した、どの箇所がどの福音書に現れるかを示す一覧表。
カーペット・ページ
カーペットのように文様だけで全面を覆ったページ。インシュラー写本に典型的に見られる。
写字室(スクリプトリウム)
修道院の中で書物が書き写され、装飾された部屋、あるいは工房。

よくある質問

『ケルズの書』には金が使われていますか。

いいえ。他のインシュラー写本と同じく、金箔も銀箔も使われていません。その輝くような効果は、雌黄などの鮮やかな顔料を巧みに並べることによって生み出されています。

誰が作ったのですか。

その名前は分かっていません。何人もの書写者や画家がこれに携わっており、おそらくアイオナとケルズのコルンバ会の修道士たちでした。コルンバ自身がこれを書いたという古い説は、彼がその約200年前に亡くなっていることから、事実ではあり得ません。

実物を見ることはできますか。

はい。トリニティ・カレッジ・ダブリンのオールド・ライブラリーで展示されており、ページは年に何度か入れ替えられます。写本全体をオンラインで見ることもできます。

なぜ一部の装飾は未完成なのですか。

一部のページは輪郭だけの状態にとどまっています。多くの学者はこれを、ヴァイキングの襲撃やアイオナからケルズへの移転によって生じた混乱と結びつけていますが、それを説明する文書記録は残っていません。

年代が書かれていない写本を、学者たちはどうやって年代づけるのですか。

その筆跡や装飾、本文を、年代がよりよく分かっている他の写本と比較することによってです。この方法によって、『ケルズの書』はインシュラー系写本の系列の中でも後期、およそ800年ごろのものと位置づけられています。

ジェラルドゥス・カンブレンシスは『ケルズの書』を見たのですか。

12世紀、彼はキルデアで見た、結び目や連環があまりに繊細で天使の仕事のように見える、驚くべき福音書について記しています。それは『ケルズの書』だったのかもしれませんし、同じくらいの質を持つ、今は失われた別の本だったのかもしれません。

なぜ盗人たちは本を捨てたのですか。

彼らが欲しかったのは金と宝石で飾られた表紙であり、それは二度と見つかりませんでした。表紙を失った本そのものは残され、後に土の下から見つかりました。

出典・参考文献

  1. Book of Kells. Wikipedia
  2. 켈스의 서. Wikipedia (Korean)
  3. The Book of Kells Experience. Trinity College Dublin
  4. Insular art. Wikipedia
  5. Iona Abbey. Wikipedia
  6. Kells Abbey. Wikipedia
  7. Lindisfarne Gospels. Wikipedia
  8. Bernard Meehan, The Book of Kells. Thames & Hudson, 2012
  9. Carol Farr, The Book of Kells: Its Function and Audience. The British Library, 1997

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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