最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
世界最大の暑い砂漠、サハラ砂漠の端にある町を想像してみてください。北には何週間も旅を続けても砂が広がっています。南には、少し歩いた先にニジェール川という大きな川が流れています。その町がトンブクトゥ、今ではマリと呼ばれる国にあります。
昔、ラクダの隊商が大きな塩の板を運んで砂漠を渡っていました。川の船は金や穀物、その他の品物を運んできました。トンブクトゥは、砂漠の民と川の民が取引をする出会いの場所でした。それが町を豊かにしたのです。
トンブクトゥの人々は本が大好きでした。遠くから学者たちがやってきて教えたり学んだりし、何百年もの間、家族が手で本を書き写し集めてきました。これらの本の中には宗教や法律についてのものもありますが、星や医学、詩や歴史についてのものもあります。
町の大きなモスクは、主に藁を混ぜた泥でできていて、壁からは木の梁が突き出ています。毎年、人々は壁に新しい泥を塗り直すのを手伝い、雨で壁が流されないようにします。それはまるで、建物に新しい皮膚を着せてあげるようなものです。
2012年、武装集団が町を占拠し、聖人たちの古い墓の一部を壊してしまいました。勇敢な図書館員や家族たちは、何十万冊もの古い本を金属の箱に入れてひそかに安全な場所へ運び出しました。その後、地元の職人たちが墓を再建しました。
いくつかの国では「ここからトンブクトゥまで」という言い回しが「とても、とても遠くまで」という意味で使われます。しかし、そこに実際に暮らす人々にとって、トンブクトゥはおとぎ話の場所ではありません。長く誇り高い歴史を持つ、実在の都市なのです。
ひと目でわかる
- 位置
- マリ北部、サハラ砂漠の南端。ニジェール川本流の北約15~20キロメートル。河港はカバラ
- 起源
- 17世紀の年代記『スーダン史』によれば、西暦1100年ごろマグシャラン族のトゥアレグ人によって築かれた季節的な野営地。12~14世紀に恒久的な町となった(正確な年代は議論がある)
- 黄金時代
- 14~16世紀、マリ帝国(1324年ごろから)およびソンガイ帝国(1468~1591年)の時代
- 大モスク
- ジンガレイバー(マンサ・ムーサに帰される、1325~1327年ごろ)、サンコレ(14~15世紀)、シディ・ヤヒヤ(1400年ごろ着工、1440年ごろ完成)
- 建築様式
- 木の梁の上に泥レンガと泥の漆喰を重ねる、スーダン・サヘル様式の土造建築。定期的な共同での塗り直しによって保たれている
- 写本
- 13世紀末から20世紀初頭にかけての、主にアラビア語、一部はアラビア文字で書かれたアフリカ諸言語(アジャミ)による数十万点の写本
- 世界遺産
- 1988年にユネスコの世界遺産に登録(3つのモスクと16の廟・墓地)。1990~2005年、および2012年以降、危機遺産リストに掲載
- 現在の言語
- 主にコイラ・チーニ語(ソンガイ語派)。ほかにタマシェク語、ハッサニーヤ・アラビア語、バンバラ語。アラビア語は長らく学問の言語だった
やさしい
トンブクトゥとは何か
トンブクトゥは、西アフリカのマリ北部にある都市である。サハラ砂漠がニジェール川の氾濫原と接する場所に位置し、川の本流から約15~20キロメートル離れている。今日ではトンブクトゥ州の州都であり、数万人が暮らしている。その多くはソンガイ語派の言語であるコイラ・チーニ語を話す。
1300年代から1500年代末までの約300年間、トンブクトゥはアフリカで最も重要な都市の一つだった。ラクダの隊商が砂漠を越えてこの町を目指し、船が川をさかのぼって港へやってきて、学者たちが教え、本を書き写し、法や信仰について論じ合うためにこの地を訪れた。三つの歴史的なモスクと、尊敬された学者や聖人たちの数多くの廟からなるこの遺跡は、1988年にユネスコの世界遺産に登録された。
トンブクトゥという言葉には、もう一つの人生がある。英語や他のヨーロッパ言語では、想像もつかないほど遠い場所を表す言葉として使われるようになった。このイメージは、この都市そのものについてよりも、ヨーロッパ人がアフリカについていかに何も知らなかったかについて多くを語っている。西アフリカの人々にとって、この都市はしばしば、ヨーロッパにとってのアテネ、すなわち学問の都にたとえられてきた。
やさしい
砂漠と川の間の町
トンブクトゥが重要な都市となった秘密は、その立地にあった。ニジェール川はサハラ砂漠へ向かって北へ大きく湾曲しており、トンブクトゥはその湾曲部の頂点近くに位置している。そこは、砂漠の動物であるラクダと、川の乗り物であるカヌーが出会う場所だった。品物はそこで持ち主を変える必要があり、品物を扱う人々は利益を得る。
北からは塩がやってきた。人は生きるために塩を必要とするが、西アフリカの森やサバンナでは塩は乏しく、一方サハラには、タガザや後のタウデニのような岩塩の鉱山があった。アザライと呼ばれる大隊商が、塩の板を南へ運んだ。南からは、川に沿って、金、穀物、象牙などの品物がやってきた。奴隷とされた人々も砂漠を越えて取引されており、これは史料が明らかにしている、この交易の痛ましい一面である。
20世紀後半まで、何千頭ものラクダからなる巨大な塩の隊商が、年に2回、北へ約660キロメートル離れたタウデニに向けてトンブクトゥを出発していた。旅は片道約3週間かかった。今日では塩の大半をトラックが運んでいるが、岩塩の板は今でもこの町に届き、そこから船で運ばれていく。
川辺の生活はまた、毎年の増水にも左右された。ニジェール川は遠く南西の雨によって水位を上げ、その増水はゆっくりとトンブクトゥに達し、12月末ごろに水位のピークを迎える。水位が高いときには、船は運河を通ってカバラ港まで直接入ることができる。町の周辺の農民たちは稲を育てており、その中には増水とともに背丈を伸ばすアフリカイネも含まれている。
やさしい
土のモスクの「読み方」
トンブクトゥの三つの大モスク、ジンガレイバー、サンコレ、シディ・ヤヒヤは、歴史家が「スーダン・サヘル様式」と呼ぶ様式で建てられている。この名は、サハラの南に広がる乾燥地帯サヘルと、黒人アフリカの地を指す古いアラビア語の呼び名「ビラード・アッ=スーダーン」に由来する。主な材料は土である。藁やその他の植物繊維を混ぜた泥レンガと泥の漆喰を、木の梁の骨組みの上に重ねていく。
これらの建物を見るときは、三つの点に注目してほしい。第一に、壁は傾斜し、柔らかく丸みを帯びて見える。これは泥が手作業で形作られるためである。第二に、木の棒が列をなして壁から突き出している。これは壁を補強するとともに、修理のために登る人々のための恒久的な足場としての役割も果たしている。第三に、背の高い円錐形の塔がある。サンコレのミナレット(尖塔)は、段状のピラミッドのようにそびえ立っている。
最も古く最大のジンガレイバーには、三つの中庭、二つのミナレット、東西に走る25列の柱があり、約2,000人の礼拝者を収容できる。北側正面のごく一部とミナレットが石灰岩のブロックを使っている以外は、すべて土と有機素材でできている。サンコレは学問と最も結びついたモスクで、その中庭は16世紀末に、メッカのカアバ神殿の寸法に合わせて建て直された。シディ・ヤヒヤは、その最初の導師で、後に聖者として敬われるようになった人物にちなんで名づけられており、その墓はこの建物の中にある。
土の建物には手入れが必要である。雨は漆喰を軟らかくし、風は砂を運んでくる。そのためトンブクトゥの人々は昔から、熟練した左官職人に率いられて、共同でモスクの塗り直しを行ってきた。文化財の専門家たちは、この生きた維持管理の伝統こそが、この遺跡を重要なものにしている要素の一部だと考えている。共同体がその建物を作り続けることによって、建物が生き延びているのである。
中級
起源:野営地から町へ
トンブクトゥの起源についての主な現地の記録は、トンブクトゥの学者で役人でもあったアブド・アッ=ラフマーン・アッ=サアディーが1655年ごろアラビア語で著した年代記『スーダン史(タリーフ・アッ=スーダーン)』に由来する。彼はこの町が季節的な野営地として築かれたのを「ヒジュラ暦5世紀の終わり」、おおよそ西暦1100年と記し、その創始者としてマグシャラン族のトゥアレグ人を挙げている。彼らの夏の野営地は、やがて品物の保管場所となり、次いで旅人たちの出会いの場となったという。彼はまた、この地が野営地を守っていたある女性にちなんで名づけられたという話も伝えている。
現代の研究者は、これを正確な年代というよりも伝承として扱っている。町の中は厚い砂の層に覆われているため発掘が非常に難しく、考古学者は今のところ、現在の町の内部で11世紀や12世紀に確実にさかのぼる遺構を発見できていない。近隣の調査から明らかになっているのは、この地域がそれよりずっと以前から人が住んでいたということである。町の南東約9キロメートルにある鉄器時代の墳丘遺跡群は、2008年から2010年にかけてイェール大学とトンブクトゥ文化使節団によって発掘され、紀元前5世紀ごろから人が住み始め、10世紀末から11世紀初めごろに衰退したことが分かっている。
地名の意味についても議論がある。考えられている由来には、「穴」や「くぼみ」を意味するソンガイ語、「小さな砂丘の場所」を意味するベルベル語の言い回し、アッ=サアディーが伝える「こぶ」を持つ女性の話、「遠い」あるいは「隠れた」を意味するベルベル語の語根などがある。どの説が正しいかは、この町を誰が築いたのかという、それ自体が不確かな問題にも左右される。トンブクトゥは、近隣のガオとは異なり、初期のアラブ人地理学者アル=バクリーやアル=イドリースィーの記述には登場しない。これは、11~12世紀にはまだこの町が小さな場所だったことを示唆している。
中級
マリ帝国とマンサ・ムーサ
トンブクトゥは14世紀初め、マリ帝国の一部となった。現地の年代記によれば、有名な統治者マンサ・ムーサは、1324~1325年のメッカ巡礼からの帰途、平和裏にこの町を併合し、王宮の建設を命じたという。『スーダン史』と『探求者の年代記(タリーフ・アル=ファッターシュ)』はいずれも、彼をジンガレイバー・モスクの建立者としており、伝統的には1325~1327年ごろの建立とされている。
伝承によれば、このモスクは、マンサ・ムーサとともに帰国した、アル=アンダルスのグラナダ出身の詩人アブー・イスハーク・アッ=サーヒリーによって設計されたという。現代の歴史家はこれを疑問視している。アラビア語の史料は、アッ=サーヒリーをマリの首都にある王の謁見の間とのみ確実に結びつけており、西アフリカのモスクの様式は、アンダルスの様式からというよりも、主にサハラの建築伝統と地元アフリカの建築から生まれたものである。今日の研究者は、この建築様式の「発明者」としてのアッ=サーヒリーの役割を、しばしば神話にすぎないと呼んでいる。
トンブクトゥの台頭は、西方、現在のモーリタニアにあった、より古い隊商都市ワラータの衰退とも結びついていた。学者や商人たちはワラータからトンブクトゥへ移り住んだ。モロッコの旅行家イブン・バットゥータは、マリの首都からの帰途である1353年にこの町を通過し、住民の大半がベルベル系サンハージャ族のマスファ族であることを記しているが、彼はこの町を学問の中心地としては描いていない。しかし1375年までには、マヨルカ島で作られたカタルーニャ地図にこの町が登場しており、これはヨーロッパの地図製作者たちがすでにその名を知っていたことを示している。
中級
トゥアレグの支配、ソンガイ帝国、そして黄金時代
15世紀初め、マリが弱体化すると、トゥアレグ人の集団がトンブクトゥの支配権を握り、1433年ごろにはトゥアレグの指導者アキルが、町の統治権を地元の役人たちに委ねた。シディ・ヤヒヤ・モスクはこの時期、1400年ごろに着工し、1440年ごろに完成した。1468年か1469年、ガオを拠点にスンニ・アリが率いる新興のソンガイ帝国がこの町を併合した。スンニ・アリはトンブクトゥの学者たちと深刻な対立関係にあり、多くの学者がワラータへ逃れた。
その後のアスキア朝、とりわけアスキア・ムハンマド1世(在位1493~1528年)の下で、トンブクトゥは黄金時代を迎えた。首都はガオのままだったが、この町は判事(カーディー)や学者一族を通じて、かなりの自治を享受していた。ガダームスやアウジラなど北アフリカの町々から商人がやってきて、サハラの塩、北アフリカの布地、馬と引き換えに、金や奴隷を買い求めた。
首席判事アル=アキーブ・イブン・マフムードは、1570年からジンガレイバー・モスクをより大規模に再建し、1578年から1582年にかけてサンコレを修復した。ヨーロッパで「レオ・アフリカヌス」として知られる、アル=アンダルス生まれの旅行家は1512年ごろにこの町を訪れ、後に、王が多くの学者を自らの費用で養っていたこと、そして北アフリカから運ばれてきた写本が、他のどんな商品よりも高く売れたことを書き記している。1550年にイタリア語で出版された彼の著作は、その後何世紀にもわたってヨーロッパ人のトンブクトゥ観を形作ることになった。
中級
学者たちの都市:学問はどう営まれていたか
人々はしばしば「トンブクトゥ大学」や「サンコレ大学」という言い方をする。この表現は便利だが、誤解を招きかねない。ヨーロッパ的な意味での学長や登録簿、学位を備えた中央機関は存在しなかった。その代わりに、個々の学者(ウラマー)たちが、モスクや自宅で自分の弟子たちを教えていた。学生はしばしば、一種の徒弟のような形で、一人の師のもとに最長10年ほど滞在し、特定のテクストを教える許可(イジャーザ)を受け取った。
学問は一族を単位として組織されていた。多くの首席判事を輩出したアキート家のような家系は、代々にわたって学識を受け継ぎ、時には学生を住まわせることもあった。16世紀までには、基本的な読み書きと朗誦を数千人の子どもたちに教える、150から180のクルアーン学校があったと考えられており、一方でおそらく数百人ほどのはるかに少数の者たちが、アラビア語文法、マーリク派法学、神学、修辞学、論理学、算術、天文学といった高度な学問へと進んだ。これらの数字はあくまで推定であり、史料によって異なる。
本は学問の中心にあった。学者たちは北アフリカやエジプトから写本を買い入れ、それを地元で書き写させた。学生たちは写字生として働いて生計を立てた。中には1,000冊をゆうに超える個人蔵書を築いた学者もいた。地元の著述家たちも自らの著作を書き、その中には広く流通したものもあった。トンブクトゥで最も有名な学者アフマド・ババ(1556~1627年)は、マーリク派法学者の伝記事典『ナイル・アル=イブティハージュ』を著し、これはマグリブ全域で人気を博した。
アフマド・ババの著作は、学問上の議論が当時の困難な問題にいかに取り組んでいたかを示している。1615年の法学的見解の中で、彼は、イスラム教徒の土地に住むムスリムを奴隷にしてはならないと論じ、肌の色が黒いこと自体がその人を奴隷とする印だという考えを退けた。しかし彼は奴隷制そのものに反対したわけではなく、非ムスリムの奴隷化は受け入れていた。歴史家たちは、彼の著作を、人種に基づく奴隷制への異議申し立てであると同時に、宗教に基づく奴隷制の擁護でもあると読んでおり、これはトンブクトゥの学問がその独自の世界観と価値観に属していたことを思い起こさせる。
中級
トンブクトゥの写本
「トンブクトゥ写本」とは、何世紀にもわたってこの町の各家庭や図書館に保管されてきた膨大な数の手書き文書の総称である。ほとんどはアラビア語で書かれているが、フラ語、ソンガイ語、タマシェク語、バンバラ語、ソニンケ語など、アラビア文字を使ってアフリカの言語を表記する「アジャミ」と呼ばれる方式によるものもある。時代はおおよそ13世紀末から20世紀初頭にまでわたる。
その主題は幅広い。クルアーンの写本や、法学・神学・スーフィズムに関する著作、文法書や辞書、歴史書や詩、礼拝の時刻や暦を定めるための天文学、医学や砂漠の植物の薬効についての知識、そして手紙、契約書、法的な判決といった日常の文書もある。ある年代記は、1583年8月に見られた壮観な流星群について記している。他には結婚、金貸し、奴隷制について論じるものや、占星術や占いを扱うものもある。
その数についての推定は大きく幅があり、トンブクトゥとその周辺地域全体で約30万点から70万点とされ、数十の公立・私立の図書館に分散している。最大級のものには、1970年代にユネスコの支援を受けて設立され、かの学者にちなんで名づけられた国立のアフマド・ババ研究所、マンマ・ハイダラ図書館、フォンド・カティ、そのほか多くの家族所蔵のコレクションが含まれる。多くの写本は、家族が箱や地下室、時には壁の中に隠したことで、町の衰退を生き延びた。その大半は、いまだに十分な目録作成や研究がなされていない。
『スーダン史』と、長らく『探求者の年代記(タリーフ・アル=ファッターシュ)』として知られてきた著作という二つの有名な年代記は、ソンガイとトンブクトゥの歴史を知るための最も重要な文献史料である。これらは、植民地時代にその写本がパリに渡った後、20世紀初頭にオクターヴ・ウダスとモーリス・ドラフォスによってフランス語訳として出版された。
中級
征服、衰退、そしてヨーロッパの神話
1591年、モロッコのサアド朝スルタン、アフマド・アル=マンスールが派遣し、ジューダル・パシャが率いる、火器を備えた軍隊がサハラを越え、トンディビの戦いでソンガイ軍を打ち破った。トンブクトゥは1591年5月30日に占領された。1593~1594年、モロッコ当局は町の多くの学者を不忠の疑いで逮捕した。一部は殺され、アフマド・ババを含む他の者たちは、蔵書とともにモロッコへ追放された。アフマド・ババが帰還を許されたのは1608年になってからだった。
モロッコ兵とその子孫、通称「アルマ」は、1612年以降実質的にモロッコから独立した地元の支配層となった。その後数世紀にわたり、トゥアレグ人、バンバラ人、クンタ人などの集団が支配権を争い、1826年からはマシナ国が統治し、1860年代にはトゥクロール帝国がこれに取って代わった。同時に、大西洋岸への海上交易が貿易を沿岸部へと引き寄せた。トンブクトゥの富と政治的な重みは低下したが、学問と書物の文化は続いた。
一方ヨーロッパでは、レオ・アフリカヌスによる金と学問の記述が、トンブクトゥを一つの伝説へと変えていった。1788年にロンドンで設立されたアフリカ協会は、この町を見つけるために探検家を送り出した。パリ地理学会は、非ムスリムとして初めてこの地を訪れ生還した者に賞を出すと発表した。スコットランド人アレクサンダー・ゴードン・レインは1826年8月にこの町に到達したが、出発直後に殺害された。変装して旅をしたフランス人ルネ・カイエは1828年に到着し、無事に帰還すると、「みすぼらしい土造りの家々の集まり」と描写した。彼の失望は、この伝説を「黄金の都市」から「地の果て」へと転換させる一因となった。
1893年12月15日、フランス軍がトンブクトゥを占領し、この町はフランス領スーダン植民地の一部となった。1960年にマリ共和国が独立するまで、この地はフランスの支配下にあった。植民地支配の下でアラビア語教育は衰え、多くの家族が写本を売却したり顧みなくなったりした。
中級
2012~2013年:破壊、救出、そして裁き
2012年4月、マリでの反乱と軍事的危機の最中、トンブクトゥはトゥアレグ人分離主義勢力MNLA(アザワド解放民族運動)とイスラム主義組織アンサール・ディーンによって占領され、まもなくアンサール・ディーンがこの町を支配下に置いた。アンサール・ディーンは聖者の墓を崇めることを偶像崇拝だと見なした。2012年5月、そして6月末から7月にかけて再び、その構成員たちはつるはしや鍬で町の廟を襲撃し、ジンガレイバー・モスクにある二つの墓を含む複数の墓を破壊し、シディ・ヤヒヤ・モスクの一部にも被害を与えた。ユネスコは2012年、トンブクトゥを再び危機遺産リストに掲載した。
2013年1月、フランスとマリの軍が接近すると、武装勢力はアフマド・ババ研究所の新しい建物にあった写本に火を放った。報告によれば、約4,200点の写本が焼かれ、あるいは盗まれたという。しかし、その大多数はすでに移動させられていた。マンマ・ハイダラ図書館のアブデル・カデル・ハイダラと、地元の団体SAVAMA-DCIに率いられ、家族や運搬人たちは写本をひそかに金属製のトランクに詰め込み、約35万点を南のバマコまで運び出した。2022年時点でも約30万点がそこに残されており、湿気が新たな脅威となっていた。
その後、地元の左官職人たちはユネスコの支援を受け、伝統的な工法を用いて破壊された廟を再建した。2016年、国際刑事裁判所(ICC)は、アンサール・ディーンの「風紀取締隊」を率いていたアフマド・アル=ファキ・アル=マハディに対し、トンブクトゥの宗教的・歴史的建造物への攻撃という戦争犯罪で有罪判決を下した。これは、文化遺産の破壊を中心的な犯罪として扱った、ICC初の事件だった。彼は罪を認めて反省の意を示し、9年の刑を言い渡された。裁判所は後に、地域社会に対する賠償も命じている。
治安の悪化は今も続いている。2023年以降、この町はアルカイダ系の武装組織による封鎖を受け、飢餓と避難が生じている。トンブクトゥの住民にとって、文化遺産をめぐる問題は、安全や食料、生活手段の問題と切り離せないものとなっている。
上級
史料とその問題点
トンブクトゥの歴史は、それぞれ独自の視点を持つ、ごくわずかな文献史料に基づいている。イブン・バットゥータ(1353年)やイブン・ハルドゥーンといった外部のアラビア語著述家たちは、断片的な記述を残している。1512年ごろにこの町を訪れたレオ・アフリカヌスは、その数十年後にイタリアの読者のために書いており、その記述の一部は修辞的なものであるため、歴史家は彼の記述を慎重に扱う。最も重要な内部史料は、地元の学者たちによって17世紀にアラビア語で書かれた「トンブクトゥ年代記」群と、18世紀半ばに書かれたモロッコのパシャたちの伝記事典『タズキラト・アン=ニスヤーン』である。
アッ=サアディー(1594年生)の『スーダン史』は、アルマ政権に仕えた人物によって1655年ごろに書かれた。それ以前の時代については、彼は主に口承伝承に頼り、出典を挙げることはほとんどなかった。1610年ごろ以降については、彼は目撃者として記述している。彼の視点はトンブクトゥの学者エリートのものであり、これが統治者たちの描き方を形作っている。学者たちと衝突したスンニ・アリは暴君として描かれ、一方アスキア・ムハンマドは敬虔な改革者として描かれている。
いわゆる『探求者の年代記(タリーフ・アル=ファッターシュ)』は、さらに複雑である。ウダスとドラフォスによる1913年のフランス語版は、二つの異なるテクストを組み合わせたものだった。一つは、学者マフムード・カティの孫であるイブン・アル=ムフタールによる17世紀の年代記である。もう一つ、『タリーフ・アル=ファッターシュ』という表題を持つほうは、19世紀初めにヌーフ・イブン・アッ=ターヒルが、マシナ国の政治的な主張を支持する文章を挿入し、カティを著者として提示した改作である。したがって、このテクストを単純に16世紀の史料として用いるのは危険であり、ノビリやマティーといった研究者たちがこの改変を詳細に研究している。
上級
論争:考古学、「大学」、そして遺産をめぐる政治
考古学は、単純に交易によって発展したという物語に異議を唱えている。1984年のスーザン・マッキントッシュとロデリック・マッキントッシュによる調査、そして後のワディ・エル=アハマル付近での発掘調査は、長く続いた鉄器時代の集落の存在を示しており、J・キャメロン・モンローのような研究者は、トンブクトゥが、サハラの隊商の停留所として突然出現したのではなく、その直接の後背地との都市・農村関係と、ジェンネ=ジェノやディアのような町々を結ぶニジェール川中流域のより古い交易網から発展したと論じている。しかし、この町自体が風で運ばれた砂に何メートルも覆われているため、その最初期の段階についての直接的な証拠は依然として乏しい。
「大学」という言葉には異論がある。百科事典を含む大衆向けの記述の中には、2万5,000人の学生といった数字を挙げるものもある。専門家たちは、トンブクトゥの制度が、中央の管理機構を持たない教師と学びの輪のネットワークであったこと、そして大きな数字は検証されていないことを強調する。サンコレをボローニャやパリの大学になぞらえることは、トンブクトゥの功績をたたえることにもなるが、一方で、家族を単位とし、モスクを中心とする異なる伝統に、ヨーロッパのモデルを押しつけることにもなりかねない。全盛期の町の人口についての数字も、しばしば5万から10万人とされるが、これも同様に推定にすぎない。
写本は、所有権とアクセスをめぐる問題を提起している。多くの家族は、自分たちのコレクションを国の機関に引き渡すよりも、手元に置いておくことを好んでおり、1990年代以降のデジタル化プロジェクト、オスロ大学、ケープタウン大学、ヒル博物館・写本図書館、大英図書館の「危機に瀕するアーカイブ・プログラム」による取り組みなどは、保存と、開かれたアクセスと、個人の所有者の権利との間でバランスを取る必要に迫られてきた。一方、アル=マハディの事件は、国際法が文化遺産への攻撃を、地元共同体に対する犯罪として扱うべきか、人類全体に対する犯罪として扱うべきか、あるいはその両方として扱うべきかをめぐる議論を促した。ICCの賠償命令は、この両方の水準に対応しようとするものだった。
重要なポイント
- 砂漠の港
- トンブクトゥは、サハラのラクダ隊商とニジェール川の船が出会う場所として栄え、北からの塩と南からの金・穀物を交換した。
- スーダン・サヘル様式建築
- 木の骨組みの上に泥レンガと漆喰を重ねた土造建築で、突き出た梁と円錐形の塔を特徴とし、共同での塗り直しによって生き続けている。
- キャンパスなき学問
- 学問は、単一の正式な大学ではなく、個々の教師、学者一族、そしてモスクを中心に組織されていた。
- 書物の文化
- 写本を買い、書き写し、著し、保存することは、この都市の威信の中心にあり、個々の家族が何世紀にもわたってコレクションを守り続けた。
- 生きた遺産
- モスクや聖者の墓は、単なる記念碑ではなく、地域社会によって守られている礼拝と巡礼の場でもある。
- 神話と現実の都市
- 失われた黄金の都市、あるいは世界の果てというヨーロッパの伝説は、実在し、他地域とよくつながっていたアフリカの都市の実像を覆い隠してきた。
- 遺産と正義
- 2012年の破壊と2016年のICCによる有罪判決は、文化遺産への攻撃を犯罪として扱う画期的な事例として、トンブクトゥを歴史に刻んだ。
記録
- 1100年頃 — 『スーダン史』が伝える、トゥアレグ人の季節的な野営地としてのトンブクトゥ創建の伝統的な年代。
- 1325年頃 — マリのマンサ・ムーサがメッカからの帰途トンブクトゥを併合。その後の数年でジンガレイバー・モスクが建てられる。
- 1353年 — イブン・バットゥータが、マリの首都からの帰途トンブクトゥを訪れる。
- 1468年 — スンニ・アリのソンガイ帝国がトンブクトゥを占領する(1468年または1469年)。多くの学者がワラータへ逃れる。
- 1493年 — アスキア・ムハンマド1世がソンガイで権力を握り、トンブクトゥの黄金時代が始まる。
- 1591年 — トンディビの戦いの後、モロッコ軍が5月30日にトンブクトゥを占領する。
- 1594年 — アフマド・ババを含む有力な学者たちがモロッコへ追放される(逮捕は1593年に始まる)。
- 1828年 — ルネ・カイエがトンブクトゥに到達しヨーロッパへ帰還する。ゴードン・レインは1826年の訪問後に殺害されていた。
- 1893年 — フランス軍が12月15日にトンブクトゥを占領。フランス領スーダンの一部となる。
- 1988年 — ユネスコがトンブクトゥのモスクと廟を世界遺産に登録する。
- 2012年 — アンサール・ディーンがこの町を占領し廟を破壊する。トンブクトゥは再び危機遺産リストに載る。
- 2016年 — 国際刑事裁判所がアフマド・アル=ファキ・アル=マハディを、トンブクトゥの遺産への攻撃で有罪とする。
用語集
- サヘル
- サハラ砂漠の南端に沿って、アフリカ大陸を横断する半乾燥地帯。
- アザライ
- トンブクトゥとサハラの岩塩鉱山との間を行き来した、ラクダによる大規模な塩の隊商。
- マドラサ
- イスラムの高等教育の場。トンブクトゥでは、教育はモスクと学者の自宅を中心に行われた。
- ウラマー
- 宗教法、神学、関連諸学の訓練を受けたイスラムの学者たち。
- カーディー
- イスラムの判事。トンブクトゥの首席カーディーたちは有力な市民指導者だった。
- アジャミ
- アラビア文字を用いてアフリカの言語を表記すること。
- 廟(マウソレウム)
- 墓を納めた建物。トンブクトゥの廟は、尊敬された学者や聖者を敬うためのものである。
- アルマ
- 1591年にトンブクトゥを征服したモロッコ兵の子孫で、後にこの地の支配層となった集団。
- タリーフ
- アラビア語で「歴史」または「年代記」を意味する言葉。『タリーフ・アッ=スーダーン』などに見られる。
- スーダン・サヘル様式
- 西アフリカのサヘルとサバンナに見られる土造の建築様式。
よくある質問
トンブクトゥは実在する場所ですか?
はい。マリ北部にある、数万人が暮らす実在の都市です。英語で「どこか果てしなく遠い場所」を意味する言葉として使われるのは、この都市の実際の重要性からではなく、古いヨーロッパの伝説に由来しています。
なぜモスクは泥でできているのですか?
土は地元で手に入る建材であり、砂漠の暑さの中でも室内を涼しく保ってくれ、地域社会の手で修理することができるからです。定期的な塗り直しは、この伝統の一部です。
トンブクトゥには大学があったのですか?
現代的な意味での大学はありませんでした。サンコレのようなモスクや自宅で学生を教える、多くの学者たちがいました。人々はこのネットワークを「トンブクトゥ大学」と呼びますが、中央の機構や学位制度は存在しませんでした。
写本はどれくらいあるのですか?
正確には誰も知りません。トンブクトゥとその周辺地域全体で、約30万点から70万点という推定があり、その多くはいまだに目録が作られていません。
2012~2013年に写本はどうなったのですか?
約4,200点が焼かれるか盗まれましたが、地元の図書館員や家族たちが何十万点もの写本をひそかにバマコへ運び出しました。その長期的な保管と将来の返還は、今も課題として残っています。
ジンガレイバー・モスクを実際に建てたのは誰ですか?
年代記はマンサ・ムーサをその建立者としています。アル=アンダルスの詩人アッ=サーヒリーが設計したという伝承は、現代の歴史家からは疑問視されており、その様式はサハラおよび西アフリカの建築伝統に根ざしていると見られています。このモスクは、特に1570年から、その後も何度か建て直されています。
トンブクトゥ年代記はどれほど信頼できるのですか?
かけがえのない史料ですが、党派的であり、一部は口承伝承に基づいています。1913年に出版された『タリーフ・アル=ファッターシュ』は、17世紀の年代記と19世紀の改作を混ぜ合わせたものであるため、歴史家はこれらの層を切り分けなければなりません。
出典・参考文献
- Timbuktu. Wikipedia
- History of Timbuktu. Wikipedia
- Timbuktu Manuscripts. Wikipedia
- Djinguereber Mosque. Wikipedia
- Sankoré Madrasah. Wikipedia
- Sidi Yahya Mosque. Wikipedia
- Tarikh al-Sudan. Wikipedia
- Tarikh al-fattash. Wikipedia
- Ahmad Baba al-Timbukti. Wikipedia
- Ahmad al-Faqi al-Mahdi. Wikipedia
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
