哲学

アルタシャーストラ

अर्थशास्त्र (Arthaśāstra); Kauṭilīya Arthaśāstra

紀元前300年 – 299年頃 · マガダ地方(マウリヤ朝の伝承)

ひとことで

『アルタシャーストラ』は、王がどのように国を治めるべきか、すなわち税の取り立て方、大臣の選び方、犯罪の裁き方、間者の使い方、同盟の結び方、そして戦争と平和のどちらを選ぶべきかまでを説いた、古代インドのサンスクリット語による統治の手引書である。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

  • やさしい
  • 中級
  • 上級

子ども向け

国を治める方法をすべて書いた大きな説明書があると想像してみよう。正直な家来をどう選ぶか、農民はどれくらい税を払うべきか、丈夫な砦をどう築くか、市場をどう公正に保つか、隣の国の王とどう付き合うか——そんなことがすべて書かれている。それが『アルタシャーストラ』だ。インドの古い言葉であるサンスクリット語で書かれ、いまから約2000年前につくられた。

「アルタ」は財産や成功、暮らしを立てることなどを意味し、「シャーストラ」は規則をまとめた書物や学問を意味する。だから『アルタシャーストラ』は「富と権力の学」というような意味になる。

この本は、王は自分自身を律する賢い師のようであるべきだと説く。法や政府がなければ、人は大きな魚が小さな魚を食べるようにふるまうだろうと警告する。よい政府は弱い者を強い者から守る、というのである。

この本はまた、抜け目なく、時にずる賢い内容でも知られている。僧や商人、料理人に変装させた間者の送り方や、敵国の王をだます方法まで説明されている。そのため世界でもっとも冷酷な書物のひとつと呼ぶ人もいるが、貧しい人々に食べ物を与え、森を守り、老いた使役動物をいたわるべきだという記述もある。

この本は何百年ものあいだ失われたと思われていた。ところが1905年、インドのマイソールで図書館の司書が、ヤシの葉に書かれた古い写本を見つけた。学者たちは驚き、それ以来だれがいつこの本を書いたのかをめぐる論争がいまも続いている。

ひと目でわかる

種類
統治術・法・経済・外交・戦争を扱うサンスクリット語の論書(シャーストラ)
年代
論争がある。伝統的には紀元前300年頃(マウリヤ朝時代)とされるが、近年の研究の多くは、より古い資料をもとに、おおむね1〜3世紀にかけて現在の形に整えられたとみる
著者
本文はカウティリヤ(カウタリヤ)の名を、末尾の詩節はヴィシュヌグプタの名を挙げる。後世の伝承はチャンドラグプタ・マウリヤの宰相チャーナキヤと同一人物とするが、多くの学者はこれを認めていない
言語
サンスクリット語。大部分は散文で、各章の終わりに詩節が付く
分量
全15巻150章、番号を付した180の主題。文の数はおよそ5300
再発見
1905年、マイソールでR・シャーマシャーストリーがヤシの葉写本を確認。1909年にサンスクリット原文、1915年に英訳が刊行された
代表的な概念
国家の七要素、王たちの円(マンダラ)、外交の六策、「魚の法則」

やさしい

『アルタシャーストラ』とはどのような書物か

『アルタシャーストラ』は、統治だけを扱ったインドの論書として現存する最古のものである。サンスクリット語で書かれ、王、あるいは王とその官吏を教育する師たちに向けて書かれている。扱う範囲は驚くほど広く、王子の教育、良き大臣の資質、鉱山・森林・穀倉・工房の運営、度量衡、税、裁判、婚姻と相続、犯罪の取り締まり、諜報、外交、遠征、城砦の攻略にまで及ぶ。

書名は二つの語からなる。「アルタ」は財産・繁栄・生計・物質的な成功を広く指す語で、古典的なヒンドゥー思想では、ダルマ(正しい行いと義務)、カーマ(快楽と愛)、モークシャ(解脱)と並ぶ人生の四つの目標のひとつとされる。「シャーストラ」は体系立った知識、あるいは規範の書を意味する。学者たちはこの書名を「政治学」「政治経済学」、あるいは単に「統治術」と訳してきた。

この書物は自らが最初の同種の書ではないと率直に述べている。冒頭で、先行する複数の『アルタシャーストラ』の教えを集めて編んだと説明し、本文の随所でブリハスパティ、ウシャナス、マヌといった古い権威を引用し、これと論じ合っている。それらの古い書物はすべて失われており、この分野で完全な形で残るのは『アルタシャーストラ』だけである。

権力について実に率直に語るため、この書物の評判は二つに分かれる。ある人々は、間者や毒殺者、策略に満ちた冷徹な操作術の教本と見る。別の人々は、統治者の成功を民の福祉と結びつけた実用的な善政の指南書と見る。どちらの見方にもいくらかの真実がある。

[1][3][5]

やさしい

書物の構成

『アルタシャーストラ』は15巻(アディカラナ)、150章(アディヤーヤ)、180の主題(プラカラナ)に分かれる。第1章は目次にあたり、最終巻は学問的な論書を組み立てる際に用いる推論の方法を短く扱う。各章は主に散文だが、章末には一つ以上の詩節が付く。これはサンスクリット文献において、ある一区切りが終わったことを示す一般的な合図である。

書物は全体として、国の内側から外側へと進む構成になっている。第1巻は王の修練と大臣の選抜・試験を扱う。もっとも長い第2巻は、王室経済を運営する監督官たちの職務を描く。国庫、鉱山、交易、森林、武器庫、農業、酒、船舶、牛、馬、象にまで及ぶ。第3巻と第4巻は司法を扱い、第3巻は民事法、第4巻は犯罪の抑制(文字どおりには「棘を抜くこと」)を扱う。

第5巻は宮廷内の秘密の行いを、第6巻はわずか二章で国家と対外関係の理論を扱う。もっとも影響力が大きいとされる第7巻は、外交の「六策」を説明する。第8巻から第14巻までは、災厄、遠征、戦争、諸侯の連合への対処、劣勢な王のとるべき道、城砦の攻略法、秘密や呪術めいた技法を扱い、第15巻はこの論書自体の方法論で締めくくられる。

15・150・180という数字はおそらく意図されたものである。サンスクリットの著者たちは象徴的な数を好んだ。しかし各章に割り当てられた主題の量は不均等であり、多くの学者はこれを、章の区分が後代の編者によって加えられたことを示す証拠とみなしている。

[1][5][7]

やさしい

王と国家の七要素

『アルタシャーストラ』の中心には王がいる。理想の統治者は、自らの感覚を征服した「王にして聖者」、ラージャルシである。この書は、王が外の敵に先立って克服すべき六つの内なる敵として、欲情・怒り・貪欲・慢心・傲慢・向こう見ずを挙げる。また、報告を聞く時間、請願を受ける時間、大臣と会う時間、軍を閲する時間、休息の時間に分けた規則正しい日課を定めている。

この書は、国家を七つの要素(プラクリティ)からなる身体になぞらえた叙述で名高い。すなわち君主、大臣、民の住む国土、城塞の都市、国庫、軍隊、そして同盟国である。健全な国家にはこの七つすべてが必要であり、国庫が空になったり軍が忠誠を欠いたりといった一つの弱さが、全体を危うくする。この国家の捉え方は、後のインド政治思想の基本形となった。

そもそもなぜ政府が必要なのか。『アルタシャーストラ』は「魚の法則」(マツヤ・ニヤーヤ)という生々しい比喩で答える。刑罰の杖(ダンダ)がなければ、大きな魚が小さな魚を呑み込むように、強者が弱者を食い物にする。厳しすぎず緩すぎもしない刑罰を正しく用いれば、弱者も強者に立ち向かえるようになる。だからこそ統治の学は「ダンダニーティ」、すなわち「杖を治める術」と呼ばれる。

しばしば引用される一節は、王権と民の福祉を結びつける。「臣民の幸福のうちに王の幸福があり、臣民の利益のうちに王自身の利益がある」と訳すことができる。実際の王たちがこの理想どおりに生きたかは別の問題だが、この書は、民の暮らしを顧みない統治者は反乱と滅亡を招くと繰り返し説いている。

[1][3][5]

中級

経済、税、行政

『アルタシャーストラ』が思い描く国家は、経済に深く関与する。第2巻は「監督官」(アディヤクシャ)と呼ばれる数十名の役人を描き、それぞれが生産や交易のある一分野を担う。国庫、鉱山、金、倉庫、商業、林産物、度量衡、関税、織物、農業、酒、屠場、船舶、牛、馬、象の監督官がいる。鉱山は王室の所有だが、民間に貸し出すこともできる。民間の商人や職人も王室の事業と並んで活動し、規制と課税を受ける。

歳入についても具体的な助言がある。税は木を切り倒すのではなく、庭で熟した果実を摘むように取り立てるべきだとされる。新しい灌漑施設や新たに開墾された土地には数年間の免税が与えられ、飢饉や戦争のときには救済が命じられる。その一方で、緊急時に国庫を満たすさまざまな方法も紹介されており、なかには寺院で偽の奇跡を演出して寄進を集めるといった、あからさまに欺瞞的な方法もある。

消費者の保護は繰り返し現れる主題である。不正な秤を使ったり、商品に混ぜ物をしたり、価格の談合を行ったりする商人は罰金を科され、商人や職人が徒党を組んで企てた陰謀は、共同体全体を害するという理由で個人の犯罪よりも重く罰せられる。賃金、負債、預託、共同事業、土地の売買についても規定があり、土地を売る際には親族・隣人・債権者に優先的な買い取りの権利が与えられる。

今日でいう公共財への配慮を示す記述も随所に見える。国家は道路、灌漑施設、穀倉を維持し、森林と象の保護区を守り、孤児、老人、病人、頼る先のない女性を養うべきだとされる。年老いたり傷ついたりして働けなくなった使役動物にも、引き続き餌を与えるべきだとされる。経済思想史の研究者たちがこの書を初期の政治経済学の論書として真剣に扱う理由のひとつはここにある。

[1][5][6]

中級

法、裁判、犯罪の取り締まり

第3巻は、三人の裁判官(ダルマスタ)からなる法廷が、契約、婚姻、相続、財産、負債、賃金、売買、贈与、暴行、名誉毀損に関する争いを審理する様子を描く。手続きは形式を備えており、訴えは記録され、証人が尋問され、証拠が吟味される。「棘を抜く」ことを扱う第4巻は、犯罪と不正な取引を取り締まる任務を、別の治安官(プラデーシュトリ)に委ねる。彼らは被害者の訴えを待たず、国家自らの判断で動くことが多い。

刑罰は罪の重さに見合うべきだという原則が書物全体に貫かれている。罰金は罪の軽重と当事者の身分に応じて段階づけられる。この書はヴァルナ(社会階級)の制度や奴隷制を含む当時の社会の階層を前提としており、身分によって刑罰が異なることも多い。現代の読者は、現代の憲法にあるような法の下の平等をこの書に期待すべきではない。

婚姻に関する規定は、思いのほか多様である。この書は八種類の婚姻形態を認め、女性が自分自身の財産(ストリーダナ)を持つ権利を定め、夫が妻を捨てた場合や長く行方不明である場合など、一定の条件のもとでの再婚を認めている。これらの規則は、女性の生活が厳しく統制された社会を映し出す一方で、そのなかにも一定の法的保護があったことを示している。

第4巻の多くは、公金を横領する役人、人をだます商人、公共の秩序を脅かす者を摘発する方法にも割かれている。『アルタシャーストラ』は、役人はもともと盗みの誘惑にさらされるものだと想定しており、役人が金をくすねているかどうかを見抜くのは、水中の魚が水を飲んでいるかどうかを見抜くのと同じくらい難しい、という有名な言葉を残している。

[1][5][6]

中級

間者、外交、戦争

『アルタシャーストラ』は諜報に多くの注意を払っている。学生、苦行者、家長、商人、聖者、料理人、医者、芸人、遍歴の女性修行者に変装した秘密工作員の網の目を描く。彼らの任務は、大臣の忠誠心を試すこと、民衆を監視すること、隣国の様子を報告すること、噂を広めること、そして場合によっては危険な政敵を排除することである。大臣たち自身も、官職を与えられる前に、富・権力・欲情・恐怖の誘惑によって密かに試される。

外交政策は「王たちの円」、すなわちマンダラの理論のうえに築かれている。勢力を拡大しようとする王(ヴィジギーシュ、「勝利を求める者」)が、幾重にも重なる国々の同心円の中心にいると想定される。すぐ隣の国は生まれながらの敵であり、その向こうの国は生まれながらの友であり、さらにその向こうは敵の友となる。ここに強力な「中間の王」と遠く離れた「中立の王」が加わる。「敵の敵は味方」という発想を幾何学的に表したものといえる。

第7巻は、他国への対応として六つの方策(シャードグニヤ)を示す。すなわち和平(条約)、敵対、静観、進軍、強国への庇護の要請、そして一方の王と和平を結びながら他方と戦う「二重政策」である。どれを選ぶかは、自国が競合国に比べて衰えているか、拮抗しているか、強まっているかによって決まる。この書は、平和と戦争が等しい利益をもたらすなら平和を選ぶべきだと説く。戦争は損失と出費、そして長期の遠征をもたらすからである。

戦争を選ぶ場合には、公然の戦争、隠密の戦争、そして秘密工作員によって遂行される「静かな戦争」が区別される。この書は欺瞞、暗殺、宣伝を含むあらゆる手段を勧める一方で、征服した民をよく扱い、その習俗を尊重し、指導者に敬意を払うよう助言する。そうすることで新しい領土が忠誠を保つからである。

[1][3][5]

中級

カウティリヤ、ヴィシュヌグプタ、チャーナキヤ

本文にはカウティリヤ(あるいはカウタリヤ)という名が何度も現れ、多くの場合、先行する師たちの見解を紹介したあとで「否、カウティリヤは言う」という形で反論する。書物の末尾にある一つの詩節は、著者をヴィシュヌグプタと呼び、彼が本文と注釈の両方を著したと主張する。また別の詩節は、この論書がナンダ朝から国を救った人物によって書かれたと述べる。

この最後の詩節が、書物をチャーナキヤと結びつける。ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の伝承によれば、バラモン出身の参謀チャーナキヤは、紀元前320年頃、チャンドラグプタ・マウリヤがナンダ朝を打倒し、パータリプトラ(現在のパトナ)を都とするマウリヤ帝国を建てるのを助けたとされる。数世紀後にヴィシャーカダッタが書いたサンスクリット劇『ムドラーラークシャサ』は、カウティリヤ、ヴィシュヌグプタ、チャーナキヤという三つの名すべてを同一人物に用いている。

20世紀の大半において、この同一視は広く受け入れられ、『アルタシャーストラ』はマウリヤ朝の統治を記した書物として読まれた。標準的な校訂版と英訳を著したインドの学者R・P・カングレもこれを支持した。この同一視はインドの民族主義者たちにとっても魅力的だった。現実的で中央集権的な統治術の伝統が古代インドに存在したことを示すものだったからである。

しかし、チャーナキヤについての独立した歴史記録は存在しない。彼について私たちが知ることはすべて、彼が生きたとされる時代よりはるかに後に書かれた伝説に由来する。パトリック・オリヴェルは、『アルタシャーストラ』本文そのものにはチャーナキヤという名が一度も現れないと指摘している。今日では多くの学者が、この同一視を後代の伝承とみなしており、自らをマウリヤ朝の後継者として示したがったグプタ朝の時代に強められた可能性を指摘している。

[1][2][6][5]

中級

失われ、そして見出された書物——写本と刊本

『アルタシャーストラ』は古代から中世初期のインドで広く知られていた。後代の著者たちはこれを引用したり言及したりしており、中国領中央アジアのキジル近郊で見つかった紀元200年頃の仏教サンスクリット写本、いわゆる「シュピッツァー写本」にもその名が現れる。カーリダーサをはじめとする古典期の詩人たちもこの書を知っていたようである。しかし12世紀ごろ以降は使われなくなったらしく、より短い後代の統治論に取って代わられたためと考えられている。19世紀のヨーロッパの学者たちはこの書を評判としてしか知らなかった。

1905年、タミル地方タンジャヴール出身のあるバラモンが、グランタ文字で書かれたサンスクリット語のヤシの葉写本をマイソール東洋図書館に持ち込んだ。司書のルドラパトナ・シャーマシャーストリーは、これが失われた『アルタシャーストラ』であると見抜いた。彼は1905年から学術誌に英訳の一部を発表し、1909年にサンスクリット原文を、1915年に完全な英訳を刊行した。この発見はインド史研究者のあいだに大きな反響を呼んだ。

その後、ほかの写本も次々と見つかった。ユリウス・ヨリーとリヒャルト・シュミットは、マラヤーラム文字の写本をもとに1923〜24年に校訂版を出版した。グジャラート州パタンのジャイナ教の文庫では、デーヴァナーガリー文字で書かれた北方系の断片が見つかり、1959年にムニ・ジナ・ヴィジャヤによって刊行された。1960年、R・P・カングレは当時知られていたすべての写本にもとづく校訂版を刊行し、続いて英訳と詳細な研究を発表した。

この書物を翻訳することはいまも難しい。サンスクリット文は圧縮的で専門的であり、一世紀にわたる研究を経てもなお意味がはっきりしない箇所が残る。2013年に翻訳を発表したパトリック・オリヴェルは、これを自分がこれまで手がけたなかでもっとも困難な翻訳作業だったと述べている。カングレやL・N・ランガラジャン(1992年)の訳もよく用いられる。

[1][6][5]

中級

受容史——「インドのマキャヴェリ」から現代の戦略論まで

この書物が刊行されるとまもなく、ヨーロッパの学者たちはその著者をフィレンツェの著述家ニッコロ・マキャヴェリ、すなわち『君主論』(1513年)の著者と比較しはじめた。ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは1919年の有名な講演で、真に徹底した「マキャヴェリズム」は『アルタシャーストラ』において古典的な形で示されており、それに比べればマキャヴェリの『君主論』は無害であると述べた。「インドのマキャヴェリ」という呼び名は、こうして定着した。

後の学者たちは、この比較が有用であると同時に誤解を招くものでもあると考えている。マキャヴェリと同様、『アルタシャーストラ』も政治的な計算を個人の道徳から切り離し、欺瞞を国家の正当な手段として扱う。しかし『君主論』が短い論考であるのに対し、『アルタシャーストラ』は膨大な行政百科事典であり、民の安全と繁栄を王の成功の核心に繰り返し据えている。またこの書は、王が守るべき宗教・社会秩序であるダルマの枠組みのなかで機能している。

現代のインドでは、『アルタシャーストラ』は独自の戦略思想の伝統を象徴する存在となっている。外交官、軍人、国際関係論の研究者たちは、国家が主として権力と生存を確保するために行動するという現実主義の一例として、この書をしばしば引き合いに出す。近代の一部の著述家は、節度ある課税と公共事業への配慮を評価してその経済思想を研究する一方、権威主義的な監視国家としての側面を強調する者もいる。

とりわけインドの大衆文化は、チャーナキヤをテレビドラマや小説、経営書の主人公として、稀代の戦略家として描くことが多い。こうした描写は多くの場合、伝統的な著者説をそのまま前提としており、それだけに歴史上の文献と、それに付随した伝説上の人物とを区別することが重要になる。

[1][3][8]

上級

論争——年代、著者、テクストの層

学界の中心的な論点は、『アルタシャーストラ』がマウリヤ朝時代に一人の著者によって書かれた書物なのか、それとも数世紀をかけて成長した複合的なテクストなのかという点にある。カングレ(1965年)は、P・V・カーネに従い、チャンドラグプタの即位を助けた宰相の著作でないと考える説得力ある理由はないとした。しかし20世紀初頭以降、紀元前4世紀にはそぐわないように見える特徴が次々と指摘され、学界の重心は移っていった。

トーマス・トラウトマンは1971年、語彙の使用を統計的に分析し、書物の各巻で語彙の傾向が異なることから複数の著者がいたと結論づけ、暫定的に紀元250年頃の編纂を提案した。ハルトムート・シャルフェは、より古い韻文の著作が紀元150年頃に散文として拡張されたものだと主張した。ディーター・シュリングロフは、この書の城砦に関する記述を考古学の成果と比較し、パータリプトラで発掘されたマウリヤ朝時代の防壁が木造であったのに対し、『アルタシャーストラ』は火災の危険を理由に木造の城壁を禁じている点に注目した。

パトリック・オリヴェル(2013年)は三つの層を提案した。すなわち、おおむね紀元前150年から紀元後50年ごろにかけての元となった諸論書、おそらく『ダンダニーティ』という題のもとに紀元50〜125年頃に編まれた「カウティリヤ校訂本」、そして紀元175〜300年ごろに、章の区分、先行する師たちとの問答、いっそう強いバラモン的な視点を加えた「シャーストラ的改訂」である。マーク・マクリッシュ(2019年)も同様に、無名の『ダンダニーティ』が、後に自らをカウティリヤと名乗った編者によって拡張・改作され、書名も改められたと論じている。

後代を支持する側は、マウリヤ朝時代としては時代錯誤に見える要素を挙げる。中国産の絹(インドで中国を指す名はふつう紀元前221年に建てられた秦王朝と結びつけられる)、アレクサンドリア産の珊瑚、ギリシア語からの借用語、文書の広範な使用、そして2世紀以前には確認されないサンスクリット語による王の勅令などである。早い年代を支持する側は、個々の語は後から挿入されたものかもしれず、核となる部分はなお古い可能性があると反論する。論争は完全には決着していないが、今日多くの専門家は、現在の形をとったテクストを紀元後の初期数世紀に位置づけている。

[1][7][5][8][6]

上級

規範の書か、歴史の記録か

二つ目の論争は、『アルタシャーストラ』がどのような種類の証拠になるのかという問題である。かつての歴史家たちは、この書をギリシアの使節メガステネスの記録やアショーカ王の勅令と組み合わせ、マウリヤ帝国の統治を直接記した資料として用いることが多かった。もしこの書が実際には数世紀後のものであるなら、こうした方法には疑問符がつく。マクリッシュらの学者は、マウリヤ朝についてこうした資料を持ちたいという願望こそが、テクストの年代に関する結論を左右してきたと警告している。

それ自体として見ても、『アルタシャーストラ』は規範的な書物である。物事が実際にどう行われたかではなく、どう行われるべきかを記している。シャーストラの伝統に訓練された学識あるエリートが、同じエリートのために書いたものである。数多くの一覧や分類は、行政の実態と同じくらい、学者たちの分類の習性を反映している。それゆえ現代の学者たちは、この書だけを単独で読むのではなく、碑文、貨幣、考古学的資料とあわせて読む。

テクスト内部の手がかりは、この書が思い描いた世界を推測させる。複数の学者は、この書の助言が巨大な帝国よりも、競合国に囲まれた比較的小さな王国によく合うと指摘してきた。トーマス・バローは、いくつかの行政用語が西インドを指し示すと述べ、影の長さや昼の長さに関する記述は北回帰線に近い緯度に合致すると指摘した。こうした論拠は示唆的ではあるが、決定的ではない。

最後に、この書物の政治観をどう性格づけるかについても意見が分かれる。ロジャー・ボエシュは、官僚的な福祉国家と行き届いた諜報網が結びついた姿を描き出し、トラウトマンは私有財産と規制された市場を認めている点を強調した。ダルマ文献、とりわけ『マヌ法典』との関係も論争の的である。オリヴェルとマクリッシュは、最終的な編者がこの書を意図的にバラモン的な法思想に近づけたと論じている。

[1][8][5][7]

重要なポイント

アルタ
物質的な豊かさ、富、権力。人生の四つの伝統的目標のひとつであり、この書は国家によるアルタの追求を正当な学として扱う。
ダンダとダンダニーティ
刑罰の「杖」と、それを用いる技術。政府は刑罰を正しく用いることで、弱者を強者から守るために存在する。
魚の法則(マツヤ・ニヤーヤ)
大きな魚が小さな魚を食べる様子にたとえた、政府がないときに生じる混乱を表す比喩。
国家の七要素(サプターンガ)
王、大臣、国土と民、城塞、国庫、軍隊、同盟国。この七つすべてが強くあってはじめて国家は健全になる。
王たちの円(マンダラ)
隣国は生まれながらの敵、隣国の隣国は生まれながらの同盟国であるとする、国家間関係のモデル。
六策(シャードグニヤ)
和平、敵対、静観、進軍、庇護の要請、二重政策。王は自国の勢力が伸びているか衰えているかに応じてこれらを選ぶ。
福祉と権力
王の成功を民の繁栄と満足に結びつける一方で、権力を保つための監視と欺瞞をも勧めている。

記録

  1. 紀元前320年頃 — 伝承によれば、チャンドラグプタ・マウリヤがチャーナキヤの助けを得てナンダ朝を打倒した年。『アルタシャーストラ』の伝統的な成立年代とされる。
  2. 紀元前150年頃 — オリヴェルの再構成による、統治術に関する元となった諸論書の最古層(紀元前150年〜紀元後50年頃)。
  3. 50年頃 — オリヴェルが提案する「カウティリヤ校訂本」が編まれる(紀元50〜125年頃)。
  4. 175年頃 — オリヴェルが提案する「シャーストラ的改訂」が始まる(175〜300年頃)。テクストがおおむね現在の形になる。
  5. 250年頃 — トーマス・トラウトマンが暫定的に提案した編纂年代。
  6. 1150年頃 — 12世紀頃、『アルタシャーストラ』が使われなくなり、後に失われた書とみなされるようになる。
  7. 1905年 — ルドラパトナ・シャーマシャーストリーが、マイソール東洋図書館に寄贈されたヤシの葉写本を『アルタシャーストラ』であると確認する。
  8. 1909年 — シャーマシャーストリーがサンスクリット原文を刊行する。
  9. 1915年 — シャーマシャーストリーによる完全な英訳が刊行される。
  10. 1919年 — マックス・ヴェーバーが講演「職業としての政治」のなかで『アルタシャーストラ』をマキャヴェリの『君主論』と比較する。
  11. 1960年 — R・P・カングレがサンスクリット原文の校訂版を刊行する。
  12. 2013年 — パトリック・オリヴェルが、テクストの層に関する研究を伴う新たな英訳を刊行する。

用語集

シャーストラ
法、文法、政治など、ある分野の規則を体系的にまとめたサンスクリットの論書。
アディカラナ
『アルタシャーストラ』の「巻」にあたる大きな区分。全部で15ある。
アディヤクシャ
監督官。鉱山や交易など、王室経済のある一分野を担当する役人。
アマーティヤ
能力、忠誠、学識を基準に選ばれた大臣、高位の役人。
ヴィジギーシュ
「勝利を望む者」の意。王たちの円の中心にいる、野心を抱く王。
ダルマ
義務、正しい行い、社会・宗教の秩序。王はこれを守ることを求められる。
ヴァルナ
バラモン的理論における四つの社会階級のひとつ。『アルタシャーストラ』はこの階層を前提とする。
マウリヤ帝国
紀元前320年頃にチャンドラグプタ・マウリヤが建国し、後にアショーカが治めた帝国。都はパータリプトラ。
校訂本と改訂
テクストのある版と、それを編集する過程。学者たちは『アルタシャーストラ』が形づくられた段階を説明する際にこの語を用いる。

よくある質問

『アルタシャーストラ』はだれが書いたのですか?

本文はカウティリヤとヴィシュヌグプタの名を挙げています。伝承では、マウリヤ朝最初の皇帝の参謀チャーナキヤと同一視されますが、現代の学者の多くは、この書が数世紀にわたって複数の人々の手で編まれ改められたものであり、カウティリヤはその編纂者・編者の一人にすぎないかもしれないと考えています。

策略についての本なのですか?

一部はそうです。間者や策略について詳しく説明していますが、本の大部分は税、市場、裁判、森林、道路、困窮した人々を助けることなど、日常的な統治について書かれています。

なぜそんなに長いあいだ失われていたのですか?

12世紀頃以降、広く書き写されたり研究されたりしなくなったようです。より短い政治に関する著作に取って代わられたのかもしれません。南インドに一部の写本が残っていて、1905年に確認されました。

『アルタシャーストラ』は『君主論』と同じものですか?

いいえ。どちらも権力について率直ですが、『アルタシャーストラ』は古代インドで書かれた膨大な行政の手引書であり、『君主論』はルネサンス期イタリアの短い論考です。『アルタシャーストラ』は民の福祉をはるかに強く重視しています。

歴史家はこの書をマウリヤ帝国の説明に使えますか?

きわめて慎重に扱う必要があります。多くの学者が考えるように、もし現在の形になったのが紀元後の初期数世紀であるなら、マウリヤ朝の統治を直接記した資料として扱うことはできません。しかもこれは、実際の慣行ではなく理想を描いた規範的な文献です。

後代説を支持する主な根拠は何ですか?

紀元前300年頃としては時代錯誤に見える語や品物、たとえば中国産の絹、アレクサンドリア産の珊瑚、ギリシア語からの借用語、サンスクリット語による王の勅令など、そして複数の著者を示す統計的・文体的な証拠です。

『アルタシャーストラ』は今も読まれていますか?

はい。政治学、国際関係論、経済史の分野で研究されており、インドでは戦略思想の古典としてしばしば引用されます。

出典・参考文献

  1. Arthashastra. Wikipedia
  2. Chanakya. Wikipedia
  3. Joshua J. Mark, Arthashastra. World History Encyclopedia, 2020
  4. Maurya Empire. Wikipedia
  5. Patrick Olivelle, King, Governance, and Law in Ancient India: Kauṭilya’s Arthaśāstra. Oxford University Press, 2013
  6. R. P. Kangle, The Kauṭilīya Arthaśāstra (3 parts: text, translation, study). University of Bombay, 1960–1965
  7. Thomas R. Trautmann, Kauṭilya and the Arthaśāstra: A Statistical Investigation of the Authorship and Evolution of the Text. E. J. Brill, 1971
  8. Mark McClish, The History of the Arthaśāstra: Sovereignty and Sacred Law in Ancient India. Cambridge University Press, 2019

関連記事

上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

← 地図に戻る