文化遺産

慶州歴史遺跡地区

慶州歷史遺蹟地區 (경주역사유적지구)

350–935年頃 · 慶州(新羅)

ひとことで

慶州歴史遺跡地区は、約千年にわたり新羅の都であった韓国慶尚北道慶州にある宮殿跡・王陵・寺院跡・山城群を五つの地区にまとめた世界遺産である。

慶州歴史遺跡地区
画像: Sung Soo KIM · CC BY-SA 3.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

むかしむかし、朝鮮半島の南東部に新羅という国がありました。新羅はのちに朝鮮半島の大部分を治めるようになります。新羅の都が、いまの慶州という町です。新羅はほぼ千年も続きました。歴史上の国の中でも、とても長く続いたほうです。

いま慶州の町を歩くと、草におおわれた大きな丘があちこちに見えます。ただの丘ではありません。新羅の王や王妃、貴族たちのお墓なのです。考古学者がいくつかの墓を調べたところ、きらきら光る金の冠や金の帯、遠い国から来たガラスの杯、空を飛ぶ白い馬の絵などが見つかりました。

お墓の近くには、びんのような形をした石の塔が立っています。瞻星台(チョムソンデ)と呼ばれ、多くの人は新羅の人々がここで星を観察したと考えています。むかし王子の宮殿があった美しい池もあり、韓国でいちばん大きなお寺があった広い野原には、いまも大きな礎石だけが残っています。そのお寺には、25階建てのビルほどの高さの木の塔があったそうです。

町のすぐ南には南山という山があります。森の中には古いお寺の跡が百か所以上もあり、岩に刻まれた仏さまもたくさんあるので、人々は南山を「屋根のない博物館」と呼んでいます。

2000年、ユネスコはこれらの場所を世界遺産に決めました。世界中の人々でいっしょに守っていこうという意味です。

ひと目でわかる

概要
新羅の王都とその聖なる山の遺跡を五つの地区にまとめた連続資産(シリアル・プロパティ)
場所
大韓民国 慶尚北道 慶州市
時代
新羅(伝統的には紀元前57年~935年)。現存する遺跡の多くは4~10世紀のもの
五つの地区
南山地区、月城地区、大陵苑地区、皇龍寺地区、山城地区
規模
登録面積は約2,880ha、緩衝地帯は約350ha。韓国国家遺産庁によれば指定遺産52件
世界遺産
2000年12月、第24回世界遺産委員会(オーストラリア・ケアンズ)で登録。登録基準(ii)・(iii)、登録番号976
代表的な遺跡
瞻星台、月城、東宮と月池、天馬塚・皇南大塚、皇龍寺址、芬皇寺模塼石塔、南山磨崖仏、鮑石亭址、明活山城
含まれないもの
同じ慶州にある石窟庵と仏国寺は、1995年に別個に登録された世界遺産である

やさしい

慶州歴史遺跡地区とは何か

慶州は朝鮮半島南東部にある中規模の都市である。ここはほぼ千年のあいだ、三国時代の一国であった新羅の都であり、新羅は7世紀に朝鮮半島の大部分を支配するに至った。伝統的には新羅の建国は紀元前57年、滅亡は最後の王が新王朝の高麗に国を譲った935年とされる。当時この都市は徐羅伐(ソラボル)または金城(クムソン)と呼ばれ、「慶州」という名は新羅滅亡後につけられた。

多くの古代都市と異なり、新羅の王都はその上に後代の巨大都市が築かれることがなかった。そのため今日でも王陵は家々や道路のあいだにそびえ、宮殿跡は公園のように開かれ、寺院の礎石は田畑のあいだに残っている。慶州歴史遺跡地区は、これらの遺跡の一部を五つの地区に分け、2000年にまとめてユネスコ世界遺産リストに登録したものである。

ユネスコの説明は二つの点を強調している。第一に、慶州には彫刻・浮き彫り・塔、寺院や宮殿の跡といった韓国仏教美術が、特に7世紀から10世紀にかけてのものを中心に、類をみないほど密集している。第二に、これらの地区は全体として、都市の構造や社会構造、生活様式など新羅文化のすべての側面を証言している。

何が含まれていないかを知っておくのも大切である。都市の東、吐含山にある石窟庵と仏国寺は1995年に別個に登録された。歴史遺跡地区は王都とその周辺、すなわち宮殿、古墳群、都心の大寺院、南の聖なる山、都を囲む山城から成る。

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やさしい

地図の読み方:五つの地区、五つの場所の性格

五つの地区は無作為に分けられたものではない。それぞれが王都における生活の一側面を表している。韓国国家遺産庁は次のようにまとめている。南山地区は仏教美術の宝庫、月城地区は千年王朝の宮殿跡、大陵苑地区は新羅の王をはじめとする古墳群の集まる場所、皇龍寺地区は新羅仏教の中心、山城地区は王都防衛の要である。

むかしの都をひとつの円と考えてみよう。真ん中、南川のほとりの三日月形の丘に王宮・月城があった。その北と西には巨大な古墳群が広がっていた。北東には都市最大級の寺院がそびえていた。それらすべての南には、寺院と磨崖仏に満ちた南山があった。そして東の山々には、明活山城のような城壁が都への入口を守っていた。

慶州を訪れるときは、これらの地区を行き来しながら新羅の歴史を読み取ることができる。古墳群は主に仏教が国教になる以前の時期のものであり、寺院跡は6世紀以降、仏教がどのように都市を変えたかを示している。宮殿の池とその出土品は統一後の洗練された宮廷文化を、南山は信仰が山や岩のすみずみにまで広がっていった様子を示している。

公式のリストは五つの地区にわたって52件の指定遺産を数えるが、資料によって数え方は異なる。南山のように一つの山に数百点もの遺跡があっても、それらをいくつかの指定単位にまとめているためである。

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やさしい

黄金に満ちた丘:王陵と古墳

慶州の中心部でもっとも目を引くのは古墳群である。草でおおわれた大きな墳丘の中には、高さが10メートルを超えるものもある。大陵苑地区には皇南里・路東里・路西里古墳群、伝味鄒王陵、そして新羅初期の王たちに関わる五陵など、いくつもの古墳群がある。

大きな墳丘の多くは積石木槨墳(せきせきもっかくふん)と呼ばれる形式で築かれた。地中に木の槨(かく)を組んで棺と副葬品を納め、その上に川原石を厚く積み、さらに土をかぶせる。木が朽ちると石が内側に崩れ落ち、槨をふさいでしまう。そのため盗掘が非常に困難で、おかげで多くの宝物が現代まで残ることになった。この種の墓は、おおよそ5世紀から6世紀前半にかけて慶州の平地に大規模に築かれた。

とりわけ有名なのが1970年代の二つの発掘である。天馬塚(皇南洞第155号墳)は1973年に発掘された。直径約47メートル、高さ12.7メートルで、金冠とともに、白い天馬が描かれた樺(かば)の樹皮製の馬具(障泥)など1万1千点を超える遺物が出土し、この絵にちなんで墓の名がつけられた。近くの皇南大塚(皇南洞第98号墳)は1973年から1975年にかけて発掘された、現在確認されている中で最大の新羅古墳である。円形の墳丘二つが南北につながったひょうたん形をしており、全長は約120メートルに及ぶ。

皇南大塚の南墳には男性が、北墳には女性が葬られていた。北墳からは「夫人帯(ふじんたい)」という文字が刻まれた銀製の帯飾りが出土した。金冠や帯、装身具、武器、土器、そして遠方から運ばれたガラス器などが見つかっている。ユーラシア大陸の東の果てにあった新羅が、中国やその先まで続く交易網とつながっていたことを示している。

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中級

月城地区:宮殿、聖なる森、瞻星台、宴の池

月城(げっじょう、「月の城」の意)は新羅の正宮があった場所である。東西約890メートル、南北約260メートル、周囲約2,340メートルの細長い三日月形の土城である。1145年に編纂された官撰史書『三国史記』は、101年に金城の東南に城を築き月城と名づけたと記す。しかし考古学の成果はやや異なる。発掘調査では、4世紀半ばに基礎部分がつくられ、5世紀初めに城壁が完成したと報告されている。宮殿の建物は地上にほとんど残っておらず、現在建っている唯一の石造建築である石氷庫(せきひょうこ)は、朝鮮後期の1741年に造られたものである。

月城のそばには、古い木々の茂る小さな森・鶏林(けいりん)がある。新羅の伝説によれば、慶州金氏の始祖はここで金の箱に入った赤子として見つかったという。その近くに瞻星台がある。高さ約9メートル(資料によって9.17~9.51メートル)の花崗岩の建造物で、四角い基壇、27段に積まれたびん形の胴体、井の字形の四角い頂部からなり、胴体の中ほどに小さな窓が開いている。13世紀の『三国遺事』は、善徳女王(在位632~647)の時代に建てられたと伝える。1962年に国宝に指定された。

月城の北東には、今日「月池(ウォルジ)」(旧称は雁鴨池)と呼ばれる池と、東宮の跡がある。東宮は王太子が住み、王室の宴が催された場所である。『三国史記』によれば、文武王14年(674年)に宮中に新しい池が掘られ、後代の王たちもここで宴を開いたという。池には小さな島が三つあり、岸は入り組んでいて、池のほとりのどこから見ても全体を一度に見渡すことはできないとよくいわれる。

1975年から続く月池の発掘では、池の底の泥の中から数万点(英語版ウィキペディアは約33,000点とする)の遺物が出土した。瓦や土器、金銅仏、宮廷生活の日用品などである。かつての建物の礎石の上には楼閣が三棟復元され、夜に照明をともした月池は、いまでは慶州でもっとも多くの人が訪れる場所のひとつとなっている。

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中級

皇龍寺地区:黄色い龍の寺

皇龍寺(こうりゅうじ)は新羅最大の寺院であり、東アジアでも屈指の規模を誇った。伝承によれば、553年に真興王が月城の東に新しい宮殿を建てさせようとしたところ、その地で黄色い龍が現れたとの報告を受け、寺院に建て替えたという。569年には塀がめぐらされて境内が整えられ、574年には高さ5メートルを超える巨大な仏像(丈六尊像)が鋳造され、それを安置する金堂は584年に完成した。

この寺院でもっとも有名な建物は九重の木塔である。善徳女王12年(643年)に着工され、645年に完成した。僧・慈蔵(ジャジャン)が建議し、ライバル国・百済から招かれた匠アビジの技術によって建てられたと伝えられる。全体の高さは225尺と記録されており、研究者はこれを約80メートルに換算する。各層が新羅が打ち勝つべき近隣の民族をひとつずつ象徴するという言い伝えもあり、仏教と国家守護の思想がいかに固く結びついていたかがうかがえる。丈六尊像と九重木塔は「新羅三宝」のうち二つに数えられた。

この木塔は落雷や地震のたびに損傷し、たびたび修理された。しかし1238年、モンゴル軍の侵攻によって寺全体が焼失し、二度と再建されることはなかった。1976年から1983年にかけての発掘によって、塔ひとつの後ろに金堂三つを配し、それらを回廊で囲む「一塔三金堂」の伽藍配置が明らかになり、巨大な鴟尾(しび)をはじめ約4万点の遺物が出土した。境内の面積は約8万平方メートルと推定されるが、資料によって数値は異なる。

道を挟んだ向かいには、善徳女王3年(634年)に建立された芬皇寺(ふんこうじ)がある。この寺の塔は黒い石をレンガのように切り出して積んだ模塼石塔(もせんせきとう)で、中国の塼塔(せんとう)を模したものである。記録にはより高い塔であったと伝えられるが、現在は3層のみが残り、基壇の四隅を石造りの獅子が守っている。1962年に国宝に指定された。

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中級

南山地区:仏の地となった山

南山は旧都のすぐ南にある。山頂の高さは466~495メートルほどでそれほど高くはなく、南北約8キロメートル、東西約4キロメートルの広がりを持つ。それでも五つの地区の中で最も広く、遺跡がもっとも豊富である。調査によれば、寺院跡が百か所以上、石仏がおよそ80体、石塔がおよそ60基、石灯籠が20基以上確認されている。谷筋では新たな遺跡が今も見つかっており、調査ごとに数字は多少異なる。

彫刻は小さく素朴なものから巨大な浮き彫りまで多岐にわたる。七仏庵(チルブラム、「七仏の庵」の意)では、高さ約4.26メートルの岩壁にほとんど丸彫りに近い高浮き彫りで三尊仏が刻まれ、その前の石柱の四面にも仏が一体ずつ、あわせて七体が刻まれている。2009年に国宝に指定された。このほか、拝里(ペリ)の石造如来三尊立像、三陵渓谷の大きな磨崖仏、神仙庵の磨崖菩薩半跏像などが知られている。

南山は仏教が伝わる以前から聖なる山であった。新羅には山や岩を敬う信仰が根強くあり、韓国の研究者は南山の仏教彫刻を、この古い信仰と新しい宗教が出会った結果とみることが多い。仏が岩の前に置かれたというより、生きた岩の中から現れ出たように見えるのもそのためである。南山を、仏教宇宙の中心である須弥山(しゅみせん)を都のかたわらに移し置いたものとみる見方もある。

南山には王室にゆかりのある遺跡もある。山のふもとにある蘿井(ラジョン)は、始祖・朴赫居世(パク・ヒョッコセ)が卵から生まれたという伝説の地である。山の斜面にはいくつもの王陵がある。鮑石亭址(ポソクチョンジ)は長さ約22メートルの曲がりくねった石の水路が残る場所で、離宮において盃を水に浮かべて流し、詩を詠み合う曲水の宴が催された跡である。『三国史記』によれば、927年、景哀王がここで宴を催していたところ、後百済の甄萱(キョンフォン)が都を襲撃し、王は命を落とした。新羅はついにこの打撃から立ち直ることができなかった。

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中級

山城地区と南山新城:王都を守る

新羅の王都には、中国の都城のように都市全体を囲む城壁はなかった。その代わりに、周囲の山々に築いた山城に頼っていた。世界遺産の山城地区は、主に都市東方の山上にある明活山城(みょんかつさんじょう)から成る。記録には405年にこの城が攻撃されたという記事や、5~6世紀に何度も改修されたという記事があり、475年には慈悲王がしばらくここに居を移したとも伝えられる。647年、貴族・毗曇(ピダム)の反乱と関わって以降は重要性を失ったとみられる。

南山にも石で築かれた南山新城(なんざんしんじょう)がある。『三国史記』は真平王13年(591年)にこの城が築かれたと記す。この城はきわめて特異な証拠を今に伝えている。工事を担った作業団が建てた碑石である。1930年代から1994年にかけて計9基が発見され、いずれも国立慶州博物館に所蔵されている。

碑石にはそれぞれ591年2月26日という日付、工事を統括した官吏や村人たちの官職・出身地・氏名・官等、そして担当した城壁の長さが刻まれている。とりわけ目を引くのは、築いた区間が3年以内に崩れた場合には罰を受けると誓った文言である。6世紀後半、新羅が地方からどのように労働力を動員したかを示すこれらの碑文は、新羅の地方統治を研究するうえでもっとも重要な文字史料のひとつである。

これらの山城をあわせて見ると、慶州が地形によって守られた都であったことがわかる。山に囲まれた盆地の中央に王宮があり、一方は南川が、四方は城を築いた山々が守っていた。

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中級

この遺跡を築いた社会:小国から統一王国へ

新羅は朝鮮半島南東部にあった多くの小国のひとつ、斯盧国(サログク)として出発した。4世紀から6世紀にかけて中央集権国家へと成長したが、黄金に満ちた巨大古墳はまさにこの時期、支配層が墓によって権力を誇示していた時代のものである。新羅社会は骨品制(こっぴんせい)によって編成されていた。骨品制とは、血統によって就ける官職はもちろん、家の大きさ、衣服、乗り物までも定めた世襲の身分制度である。

仏教は他の二国よりも遅れて新羅に公認された。527年ないし528年ごろのことで、伝統的には貴族・異次頓(イチャドン)の殉教と結びつけられる。以後、皇龍寺や芬皇寺といった大寺院が建てられて都の姿が変わり、巨大な墳丘を築く葬送の風習も次第に小型の墓へ、後には一部支配層の火葬へと移っていった。

660年代、新羅は唐と手を組んで百済(660年)と高句麗(668年)を滅ぼし、その後676年まで唐と戦って朝鮮半島の大部分を手中に収めた。しばしば統一新羅と呼ばれるこの時代は、東宮と月池、石窟庵と仏国寺、そして南山の数多くの彫刻が造られた時代である。『三国遺事』は最盛期の王都が17万8,936戸であったと伝えるが、この数字をどこまで信頼でき、どう解釈すべきかについては学者のあいだで論争がある。

8世紀後半から、真骨貴族たちの王位争いによって王権が弱まった。地方勢力が離反して後三国時代が始まり、甄萱が後百済を、弓裔(クンイェ)が泰封を建てた。泰封は918年に王建が実権を握って高麗となった。927年に甄萱が王都を蹂躙したのち、最後の王である敬順王は935年、高麗の王建に国を譲った。

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新羅滅亡後:衰退、再発見、そして世界遺産

935年以降、慶州は地方都市となった。高麗の時代にはしばらく「東京(トンギョン)」と呼ばれるなど象徴的な地位は保ったが、政治の中心は北へ移った。13世紀のモンゴル侵攻により、1238年に皇龍寺が焼失した。朱子学を掲げて仏教を抑えた朝鮮王朝の時代には、南山の多くの寺院が廃墟となり、彫刻の一部も損なわれた。

慶州における近代考古学は、日本統治下(1910~1945年)に始まった。1921年、民家の工事中に発見された金冠塚から初めて新羅の金冠が出土し、古墳への関心を大きく高めた。統治下の発掘は華やかな遺物を回収したが、今日の基準からすれば急いで行われ、記録も不十分なことが多く、朝鮮史を自らの体制に都合よく語ろうとする支配のもとで行われた。今日の韓国の学界は、この時期の発掘を批判的に検証している。

解放後、とりわけ1970年代以降、韓国は慶州を国家的な文化遺産と観光の中心地とした。天馬塚と皇南大塚の発掘(1973~1975年)、月池の発掘(1975年~)、皇龍寺址の発掘(1976~1983年)は、韓国考古学の画期をなす出来事であった。多くの遺跡が文化遺産関連の法律と慶州国立公園によって保護されるようになった。月城の発掘は1990年以降、国立慶州文化財研究所によって続けられている。

2000年12月、オーストラリアのケアンズで開かれた第24回世界遺産委員会は、慶州歴史遺跡地区を登録基準(ii)・(iii)に基づいて世界遺産に登録した。韓国国家遺産庁は、すでに登録されている日本の京都・奈良の遺跡よりも遺跡の密度と多様性において優れているとの評価を受けたと紹介している。ただしこれは韓国の文化遺産当局による評価であり、中立的な順位づけというより、自国の視点からの記述として読むのがよい。

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学界の論争:誰が葬られているのか、瞻星台は何のためのものか

新羅の大型古墳には葬られた人物を明記する文字がほとんどなく、特定の王に比定することは難しい。その代表例が皇南大塚である。年代を4~5世紀とみるか5~6世紀とみるかによって、南墳の主が新羅で確実な世襲王権を開いた奈勿王(ネムルワン)なのか、訥祗王(ヌルジワン)なのか、あるいは別の王なのか、意見が分かれる。これは新羅の土器や金属工芸品を中国・高句麗の資料と比較してどう編年するか、そして『三国史記』の在位年代をどこまで信頼するかにかかっている。天馬塚はしばしば智証王(チジュンワン)の墓であろうと控えめに推定され、金冠塚からは歴史記録に見えない「爾斯智王(イサジワン)」という文字が刻まれた刀剣の鞘飾りが出土した。考古学と文献記録がうまく一致しない、印象的な事例である。

積石木槨墳の起源も長く続く論争の的である。一部の学者は、墓の構造や、木の枝や鹿の角のような立飾りを持つ金冠などを根拠に、北方の騎馬民族の影響を主張してきた。一方で、高句麗や朝鮮半島の他地域の墓制が変化したものとみる見方や、慶州地域の中で独自に発展したとみる見方もある。『韓国民族文化大百科事典』は、どちらか一方に結論づけることなく、これらの見解を並べて紹介している。

瞻星台の機能をめぐっても、少なくとも1960~70年代から論争が続いている。「星を眺める台」という名称と後代の記録に基づく伝統的な見方では、これを天文観測台とし、頂上の台に観測器具を置くか、あるいは人が上って観測したのだろうとする。これに対する批判は、頂上部が狭く昇り降りしにくいという点を指摘する。そこから、祭壇、記念碑、あるいは須弥山を象徴する仏教的な建造物とする見方や、季節を測るための日時計(ノーモン)であったとする見方が出されている。約365個の石、27段、窓の上下12段といった数の象徴性もしばしば取り上げられるが、どの石を数えるかによって数字は変わるため、慎重に扱うべきである。

近年では、月城における人身供犠が新たな論点となっている。2017年、発掘団は西側の城壁の下から並んで横たわる人骨2体を、2021年にはその近くから若い女性の人骨1体をさらに発見したと発表した。発掘団はこれを城壁の造成に際して捧げられた生贄と解釈し、城や堤を頑丈にするために人を埋めたという言い伝えを裏づける韓国最初の考古学的証拠とみている。この解釈には慎重であるべきだという声もあり、研究は今も続いている。

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復元と真正性、そして生きた都市

慶州は、文化遺産保存における根本的な問いをひとつ投げかけている。失われた建物を再建すべきか、という問いである。新羅の木造建築はそのほとんどが失われ、礎石や版築の土台、発掘された断片だけが残っている。復元は観光客を引きつけ、過去を思い描く助けとなるが、証拠よりも現代の推測に頼った建物を生み出す危険もある。遺産が歴史的な形や材料を信頼できる形で伝えるべきだとする世界遺産制度の「真正性(オーセンティシティ)」の要求は、失われた宮殿や塔を蘇らせようとする構想と緊張関係にある。

この論争は、2019年12月に制定され2020年12月から施行された「新羅王京核心遺跡の復元・整備に関する特別法」(法律第16779号)によって具体化した。この法は月城、皇龍寺、東宮と月池、瞻星台などを核心遺跡として定め、その復元と整備を規定している。支持する側はこれを千年の王都の中心を蘇らせる道と捉えているが、考古学者や遺産の専門家の中には、皇龍寺の九重木塔のような建物を実物大で復元するには十分な証拠がないと懸念する者もいる。デジタル復元や、普門観光団地に木塔を模して新たに建てられた皇龍苑のように、元の場所から離れた場所に建てる方法は、ひとつの妥協案となりうる。

歴史遺跡地区は、いまも人々が暮らす都市でもある。人々は古墳のあいだで暮らし、農作業をし、車を走らせている。現代の都市は保護区域を囲むように発展してきた。住民の権利、観光、新たなインフラ整備、そして遺跡の保護との間でバランスを取ることは、絶えることのない課題である。地震も懸念材料のひとつである。瞻星台は2007年から傾きや構造の変化が観測されており、2016年には慶州で強い地震が起きた。

研究者にとって、続けられる発掘は機会であると同時に方法論上の問題でもある。調査のたびに新羅についての理解は塗り替えられるが、あらゆる発掘は、研究対象そのものである証拠の一部を破壊してもいる。そのため多くの考古学者は、より緩やかで選択的な発掘、日本統治期のものを含む過去の発掘資料の十分な報告書化、そして地中レーダー(GPR)のような非破壊調査手法の積極的な活用を訴えている。

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重要なポイント

後代の大都市に覆われなかった王都
935年以降、慶州が地方都市となったため、新羅の古墳・宮殿跡・寺院跡は今も都市の内外にそのまま残されている。
連続資産
宮殿、古墳、都心の寺院、聖なる山、防衛施設という王都のさまざまな側面を、五つの離れた地区にまとめてひとつの世界遺産として登録している。
古墳から寺院へ
黄金に満ちた墳丘から巨大な仏教寺院への移り変わりは、6世紀初めの仏教公認以降に新羅がたどった変化を映し出している。
護国仏教
皇龍寺の九重木塔のような建造物は、国を敵から守ってくれると信じられていた。
聖なる景観
南山では古くからの山岳・岩石信仰と仏教が溶け合い、山全体が野外の信仰空間となった。
文献と考古学
『三国史記』『三国遺事』の年代や人名は発掘の成果と食い違うことが多く、どちらも批判的に検討する必要がある。
真正性と復元
失われた新羅の建築を再建しようとする構想は、証拠、真正性、そして遺産の目的をめぐる問いを呼び起こす。

記録

  1. 紀元前57年頃 — 『三国史記』による朴赫居世の新羅(斯盧国)建国の伝統的な年代(紀元前57年)。
  2. 101年頃 — 『三国史記』に月城の築造が記される。考古学的には4~5世紀に城壁が築かれたとみられる。
  3. 528年頃 — 新羅が仏教を公認(527年または528年)。伝統的には異次頓の殉教と結びつけられる。
  4. 553年 — 真興王が新しい宮殿を建てようとしていた場所に皇龍寺の建立が始まる。
  5. 591年 — 南山新城が築かれ、工事の担当者たちが誓いを刻んだ碑石を建てる。
  6. 645年 — 高さ約80メートルの皇龍寺九重木塔が完成する。
  7. 674年 — 文武王が宮中に新しい池(今日の月池)を掘る。
  8. 927年 — 後百済の甄萱が王都を襲撃し、景哀王が鮑石亭で命を落とす。
  9. 935年 — 敬順王が高麗に降伏し、新羅が滅亡する。
  10. 1238年 — モンゴル軍の侵攻により皇龍寺とその木塔が焼失する。
  11. 1973年 — 天馬塚と皇南大塚の発掘が始まる(~1975年)。
  12. 2000年 — 慶州歴史遺跡地区がユネスコ世界遺産に登録される。

用語集

新羅
慶州を都とした朝鮮古代の王国(伝統的には紀元前57年~935年)。7世紀に朝鮮半島の大部分を統一した。
古墳
土や石を高く盛り上げてつくった昔の墓。
積石木槨墳
木の槨の上に石を積み、さらに土をかぶせた新羅特有の墓の形式。
連続資産
離れた場所にある複数の遺跡が全体としてひとつの顕著な価値を示す、世界遺産の登録形式。
塔
仏舎利などを納める仏教建築物。木・レンガ・石などで造られる。
骨品制
血統によって官職・衣服・住居などを制限した新羅の世襲身分制度。
磨崖仏
崖や大きな岩に直接彫られた仏像。
『三国史記』
1145年に金富軾(キム・ブシク)らが編纂した官撰の歴史書。
『三国遺事』
13世紀に僧・一然(イリョン)が歴史・伝説・仏教説話をまとめた書物。
登録基準(ii)・(iii)
世界遺産の登録基準のうち、人類の価値観の重要な交流を示すもの(ii)と、ある文化的伝統や文明の傑出した証拠となるもの(iii)。

よくある質問

なぜ慶州の町の中に大きな丘があるのですか。

新羅の王や王妃、貴族たちのお墓です。ほとんどは4~6世紀に造られました。

瞻星台は本当に天文台だったのですか。

伝統的にはそう考えられており、東アジア最古の現存する天文台とよく呼ばれます。ただし祭壇や記念碑、象徴的な建造物だったとする見方もあり、いまも議論が続いています。

皇龍寺の九重木塔は今も見られますか。

いいえ。1238年に焼失しました。今は礎石と寺院全体の配置だけが残っています。

石窟庵と仏国寺も慶州歴史遺跡地区に含まれますか。

含まれません。同じ慶州にありますが、1995年に別個に登録された世界遺産です。

新羅建国の年とされる紀元前57年はどれくらい信頼できますか。

12世紀に編纂された『三国史記』の記述にもとづきます。多くの歴史家は初期の年代を伝承として扱っており、考古学的には新羅が強力な王国として姿を現すのは4世紀ごろからとみられます。

新羅の古墳の主がわかりにくいのはなぜですか。

墓の中に主の名前を記した文字がほとんどなく、土器や金属器による年代づけも正確な年ではなく幅のある範囲でしか示せないためです。そのため特定の王との結びつきは仮説にとどまります。

昔の宮殿や塔は再建されるのですか。

2019年の特別法によって核心遺跡の復元が定められていますが、証拠が限られていることや世界遺産の真正性の問題から、実物大の復元には論争があります。

出典・参考文献

  1. Gyeongju Historic Areas. UNESCO World Heritage Centre
  2. 경주역사유적지구 (Gyeongju Historic Areas). Korea Heritage Service, National Heritage Portal
  3. 윤성호 (Yun Seong-ho), 경주 월성 (Wolseong, Gyeongju). Encyclopedia of Korean Culture, Academy of Korean Studies, 2022
  4. 경주 황룡사지 (Hwangnyongsa Temple Site, Gyeongju). Encyclopedia of Korean Culture, Academy of Korean Studies
  5. 유경로 (Yu Gyeong-ro), 경주 첨성대 (Cheomseongdae, Gyeongju). Encyclopedia of Korean Culture, Academy of Korean Studies, 1995
  6. 황남대총 (Hwangnam Daechong). Encyclopedia of Korean Culture, Academy of Korean Studies
  7. 돌무지덧널무덤 (Stone-mound wooden-chamber tombs). Encyclopedia of Korean Culture, Academy of Korean Studies
  8. 경주 남산 일원 (Namsan Area, Gyeongju). Encyclopedia of Korean Culture, Academy of Korean Studies
  9. 진홍섭 (Chin Hong-sup), 경주 남산 신성비 (Namsan Sinseong Steles, Gyeongju). Encyclopedia of Korean Culture, Academy of Korean Studies, 1995
  10. 신라왕경 핵심유적 복원·정비에 관한 특별법 (Special Act on the Restoration and Maintenance of Key Historic Sites of the Silla Royal Capital), Act No. 16779. Wikisource (Korean), 2019

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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