哲学

自省録

Τὰ εἰς ἑαυτόν (Ta eis heauton, 「自分自身へ」)

170–180年頃 · ドナウ川国境のカルヌントゥム(ローマのパンノニア属州)

AI作成 · AI事実確認

Claudeが執筆し、Codex(gpt-6.1-sol)が公開資料と照合して事実・年代・引用と英語版・韓国語版を独立に確認しました。人間の専門家による査読は受けていません。最終AI確認:2026-10-03。見つかって修正した問題 8 件。

ひとことで

『自省録』は、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが西暦170年代、戦争と死をもたらす疫病のさなかにギリシア語で書いた私的なノートであり、善い人間はどう考え、どう行動すべきかを自分自身に言い聞かせたものである。

自省録
画像: Marcus Aurelius · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

ブリテンからエジプトまで広がる大きな帝国を治めた、とても力のある人を思いうかべてみてください。その人は戦争やいそがしい政治の毎日のなかで、ノートに自分あての短いメッセージを書きました。「がまん強くあれ」「自分の仕事をしっかりやれ」「いやなことをする人にも腹を立てるな」といった、大切なことを忘れないように自分に言い聞かせる言葉です。その人こそローマ皇帝マルクス・アウレリウスで、そのノートが、わたしたちが『自省録』とよんでいる本です。

マルクスは、わたしたちに読ませるためにこれを書いたのではありません。自分のために書いたのです。アドバイスを書きこんだ、ひみつの日記のようなものです。書いたことばはギリシア語でした。ローマの教養ある人たちが哲学を学ぶときに主に使ったことばだったからです。今ではこのノートは「巻」とよばれる12の部分に分けられていますが、だれがそのように分けたのかはわかっていません。

マルクスがこれを書いたころは、大変な時代でした。ドナウ川の向こうから来た軍勢が帝国をおそい、おそろしい病気が町や軍の陣地に広がっていました。マルクスは何年ものあいだ、ローマから遠くはなれた兵士たちの陣地でくらしました。ノートのなかには、書いた場所が記されているところもあります。たとえば「カルヌントゥムにて」。カルヌントゥムはドナウ川のほとりにあった、ローマのとりでの町です。

マルクスは「ストア派」という考え方にしたがっていました。ストア派の人たちはこう言いました。自分で決められることがある。たとえば、何を選ぶかや、ほかの人にどう接するか。でも、自分では決められないこともたくさんある。たとえば天気や、ほかの人がすること。だから、変えられないことでくよくよして力をむだにしてはいけない。正直で、公平で、勇気があり、やさしい人であることに力を使いなさい、と。

マルクスが死んでから何百年ものあいだ、このノートのことを書いた文章で今に残っているものは、ほとんどありません。手で書き写した写本もわずかしか知られておらず、とくに大切な二つのうち一つは、今ではなくなってしまいました。けれども今では、世界中で読まれています。ある出版社だけで、1年に10万部以上も売れたことがあるほどです。

ひと目でわかる

どんな作品か
出版を意図せずに書かれた、哲学的な覚え書きと自分への戒めの私的な集成
著者
マルクス・アウレリウス(ローマ皇帝、在位161〜180年)
執筆時期
西暦170年代(正確な時期については議論がある。170〜180年ごろとされることが多く、171〜175年ごろとする研究者もいる)
執筆場所
少なくとも一部はドナウ川国境地帯の軍の陣営で書かれた。本文中の注記に「グラヌア川沿いのクァディ族の地で」「カルヌントゥムで」とある
言語
ギリシア語(コイネー)。先行するギリシアの著作家からの引用が多い
形式
一行の標語から一ページに及ぶ省察まで、短い記述を集めた全12巻
思想
ローマ時代のストア派。エピクテトスから強い影響を受けている
伝来
主な伝承は二つ。バチカン・ギリシア語写本1950(14世紀)と、最初の印刷版(チューリヒ、1558/59年)の底本となり、のちに失われたパラティナ写本

やさしい

『自省録』とは何か

『自省録』は、西暦161年から180年までローマ皇帝だったマルクス・アウレリウスが、自分自身に向けて書いた覚え書きの集まりである。計画的な議論を組み立てた論文でも、演説でも、法令集でもない。むしろ作業用のノートに近い。マルクスは同じ考えを言葉を変えて何度も繰り返し、自分と議論し、助けになった詩人や哲学者の言葉を書き写している。ほとんどすべての記述は「君」に語りかけており、その「君」とはマルクス自身である。

彼が書いたのはラテン語ではなく、ギリシア語だった。2世紀の教養あるローマ人にとって、これは自然なことだった。キケロやセネカがラテン語で哲学を書いてはいたものの、哲学の教育で主に使われる言語はなおギリシア語であり、マルクスも少年時代からギリシア語を話す教師たちに学んでいた。テキストは12の「巻」に分かれて伝わっているが、その区分をマルクス自身が行ったのかどうかはわからない。12巻であることに触れた最初の著作として知られるのは、10世紀後半のビザンツの辞典『スーダ』である。

マルクスがこの覚え書きをほかの人に読ませるつもりだったことを示す証拠はない。研究者の多くは、彼が自分の心を鍛えるために書いたと考えており、そのためにこの本は際立って個人的な印象を与える。題名さえ確かではない。「Meditations(瞑想録)」は近代の英語の題名であり、ギリシア語の表題「タ・エイス・ヘアウトン」(「自分自身へ」あるいは「自分自身に向けた事柄」)は、900年ごろに初めて記録されたもので、マルクスにまでさかのぼるとは限らない。

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やさしい

中身――12巻の自分への戒め

第1巻はほかの巻と性格が異なる。これは感謝の一覧である。マルクスは家族、教師、友人を順に挙げ、それぞれから学んだ美点を書き留めている。ある人からは慎み深さを、別の人からは自制を、というように。教師ユニウス・ルスティクスからは、自分の性格には矯正が必要だと悟ったといい、彼を通じてストア派の教師エピクテトスの講義録を読むようになった。この巻は神々への感謝で終わる。

第2巻から第12巻は、何百もの記述からなる。短い命令(「表象を消し去れ!」)もあれば、小さな随筆のようなものもある。有名な一節が第2巻の冒頭にある。明け方、今日はおせっかいで、恩知らずで、傲慢で、不正直な人々に出会うだろうと覚悟しておけ、そして彼らが自分の同族であり、人間は手や足やまぶたのように協力し合うために生まれたのだということを思い出せ、と彼は自分に言い聞かせる。第5巻の冒頭の記述はこう始まる。「明け方、起きる気になれないときには、次の考えを手元に用意しておけ。私は人間としての仕事をするために起きるのだ、と」。

読者はしばしば、同じいくつかの考えが何度も戻ってくることに気づく。死はだれにでもすぐに訪れる。名声はむなしい。他人の過ちは自分の人格を損なうことができない。目の前の仕事をよく果たせ。これらの巻に隠れた秩序があるかどうかについて研究者は議論してきたが、目的が人に見せることではなく訓練にあったのなら、繰り返しは理にかなっている。マルクスは第4巻で、自分の魂の内に退くときほど深い静けさを得られる場所はほかにないと書いている。そしてこのノートこそ、彼がその退避を行う方法の一つだった。

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中級

戦時下で書かれた本――ドナウ川国境とアントニヌスの疫病

マルクスは161年、義兄弟のルキウス・ウェルスとともに帝位に就いた。ほぼ直後に、ローマは東方でパルティアとの戦争(161〜166年)に入った。古代の著作家によれば、この遠征から帰還した兵士たちが疫病を持ち帰った。現在アントニヌスの疫病と呼ばれるこの病は、165年ごろから帝国中に広がった。医師ガレノスは発熱、下痢、皮膚の発疹を記録している。天然痘が長く有力な診断とされてきたが、近年の遺伝学的研究によって研究者はより慎重になっており、麻疹(はしか)も候補の一つである。死者数の推計には大きな幅がある。マルクス自身も180年に亡くなっており、同じ病気が死因だった可能性がある。

同じころ、ドナウ川の国境地帯への圧力が高まっていた。歴史家がマルコマンニ戦争(166〜180年)と呼ぶ一連の戦争で、マルコマンニ族やクァディ族といったゲルマン系の諸集団や、サルマタイ系のヤジゲス族がローマ領内に侵入した。170年ごろには、侵入者が北イタリアのアクイレイアを包囲するまでに至った。マルクスは170年代の大半を軍とともに過ごした。170年代初めからは、現在のウィーンの東にあるドナウ川沿いの軍団要塞兼都市カルヌントゥムを本営とし、のちには川を越えてクァディ族に対する遠征を行った。

写本に残る二つの短い注記が、テキストとこれらの遠征を結びつけている。第1巻の後には「クァディ族の地にて、グラヌア川のほとりで」(グラヌア川は、おそらくドナウ川の支流フロン川)、第2巻の後には「カルヌントゥムにて」とある。それぞれの注記が前の巻を締めくくるものか、次の巻の見出しなのかについては編者によって見解が分かれるが、いずれにしても、作品の少なくとも一部が軍の陣営の中かその近くで書かれたことを示している。このノートは戦闘をまったく描かない。それでも、人生は短いこと、持ち場は最後まで守らなければならないことを繰り返し説くその姿勢には、戦争と病の影がいたるところに差している。

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中級

マルクス自身の声で語られるストア派の思想

ロゴスと自然。ストア派は、宇宙はあらゆるものに行き渡る神的な理性、すなわちロゴスによって秩序づけられており、人生の目的は自然と一致して生きることだと考えた。マルクスは絶えずこの考えに立ち返るが、しばしば印象的な形をとる。「摂理か、原子か」。世界は知性によって治められているのか、それともエピクロス派が説いたように、粒子がでたらめに渦を巻いているだけなのか。彼が前者を好んでいることは明らかだが、どちらの場合でも正しい応じ方は同じだと論じる。正義にかなって行動し、不平を言わないことである。

自分次第のもの。マルクスはエピクテトスから、自分次第であるもの――判断、選択、行動――と、そうでないもの――身体、財産、評判、出来事――とをはっきり分ける線を受け継いだ。物事が私たちを乱すのではなく、物事についての私たちの考えが乱すのだ、と彼は繰り返し言う。だから考えを改めよ、と。ピエール・アドは、エピクテトスにさかのぼる三つの修練を軸にマルクスの思想を整理した。判断(同意)の修練、欲求の修練(起こることを受け入れること)、行動の修練(他者のために正しく行動すること)である。

移ろいやすさ。マルクスは、あらゆるものを非常な高みから、長い時間の広がりの中で見るよう自分を訓練する。「アジアもヨーロッパも宇宙の片隅であり、海はすべて宇宙の一滴である」と、彼は第6巻に書いている。過去の皇帝も哲学者も今ではみな塵であり、今日の宮廷のへつらう者も批判する者も、やがてそうなる。この「高みからの眺め」は人生を無意味にするためのものではなく、大切なものへ注意を向け直すためのものである。その大切なものとは徳であり、ストア派はそれを唯一の真の善と考えた。

義務と宇宙の都市。マルクスにとって、理性を持つすべての存在は一つの世界都市、コスモポリスの同胞市民であり、互いに公正に接し、助け合う義務を負っている。彼は自分の二重の立場をはっきりと述べる。「アントニヌスとしての私にとって、都市であり祖国であるのはローマである。人間としての私にとっては、宇宙である」。また、「カエサルにならないように、紫に染まらないように気をつけよ」と自分を戒めてもいる。皇帝の役割は果たすべき義務であって、自分がそれになりきるべきものではない、という戒めである。

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中級

失われたノートから印刷された本へ

マルクスの私的な覚え書きが、彼の死後どのようにして残ったのかはわかっていない。何世紀ものあいだ、記録はほとんど沈黙している。3世紀のヘロディアノスはマルクスの著作を一般的な言葉で称賛した。364年ごろ、弁論家テミスティオスはマルクスの「教え」に触れたが、それがこの本を指すかどうかはわからない。おそらく4世紀に書かれた皇帝伝記集『ヒストリア・アウグスタ』は、その「アウィディウス・カッシウス伝」の中で、マルクスがマルコマンニ戦争に出発する前に、3日間にわたって自分の「勧告」の書物について論じたと記している。いずれも『自省録』をはっきりと指してはいない。

最初の確かな言及は、ビザンツのカイサレイアの司教で、写本の大収集家でもあったアレタスによる。907年より前に、彼は皇帝の「最も有益な書物」の古い写本を持っていると書いた。それはばらばらになりかけるほど古く、彼はそれを書き写させたという。ほかの著作家の写本に書き込んだ欄外注では、この作品を「タ・エイス・ヘアウトン・エーティカ」(「自分自身に向けた倫理的な書き物」)と呼んでいる。少し後には『スーダ』が約30の箇所を引用し、この作品を12巻からなる「自らの人生の導き」と呼んでいる。アレタスの写本は失われたが、現存するすべての写本の祖先である可能性がある。

現代のテキストは、何よりも二つの伝承に依拠している。一つはバチカン図書館にある14世紀の写本「バチカン・ギリシア語写本1950」で、『自省録』はクセノフォンの著作やエピクテトスの『提要』と並んで収められている。その筆写者は多くの誤りを犯し、40数行を書き落としている。もう一つはハイデルベルクのパラティナ文庫に由来する写本である。詩人ミヒャエル・トクシテスがこれをチューリヒのコンラート・ゲスナーに渡し、同地でウィルヘルム・クシランダーがラテン語の対訳を付けて校訂し、アンドレアス・ゲスナーが印刷した。扉には1558年の日付があり、この版は一般に1558年または1559年刊とされる。1568年にクシランダーが改訂を行ったときには、もはやその写本を参照できず、以後それを見た者はいない。

そのため題名は謎である。ギリシア語の「タ・エイス・ヘアウトン」は、この写本伝承とアレタスに由来するもので、マルクスに近い古代の史料から来たものではない。1634年のメリック・カソーボンの英訳が、英語で「Meditations」という題名を定着させる一因となった。ほかの訳では「Thoughts(思索)」「Communings with Himself(自分との語らい)」、あるいは単に「To Himself(自分自身へ)」という題名が用いられてきた。

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中級

同じころの世界――ローマ、インド洋、漢

マルクスのノートは、自分を世界全体の市民と考えるよう彼に促している。そして彼の時代には、長距離の交易網が地中海、インド洋、漢の中国を結んでいた。後漢の正史『後漢書』は、桓帝の延熹9年、すなわち西暦166年に、「大秦王安敦」の使者が、ベトナム中部の沿岸にあった郡である日南の境外からやって来て、象牙、犀角、玳瑁(たいまい)を献上したと記している。大秦はローマ世界を指す中国での呼び名であり、安敦は一般に「アントニヌス」のことと考えられている。この名は、アントニヌス・ピウス(161年没)とマルクス・アウレリウスの両方が名乗っていたものである。

中国の史家自身も疑いを抱いていた。献上品は貴重でも珍しくもないと記し、伝えられた話が誇張されていたのではないかと考えたのである。現代の歴史家の多くは、この来訪者たちはマルクスが派遣した使節団ではなく、使者を名乗ったローマ帝国東部の商人たちだったと考えている。この記録が確かに示しているのは、「ローマ人」の来訪の知らせが、南方の海から日南を経て漢の宮廷に届いたということである。大洋のローマ側での交易は、別の史料によって裏づけられている。ローマ領エジプトの商人たちはモンスーンの風に乗ってインドへ航海していた。現在ウィーンにある2世紀半ばのパピルス、いわゆる「ムジリス・パピルス」は、インドの港ムジリスからヘルマポロン号で運ばれた積荷に関するものである。積荷は象牙167本、通常はコショウと読まれる産物の膨大な量(約139トン)、そのほかの品々だった。パピルスの裏面にある積荷の計算書(表面には貸借契約が残る)は、おそらく関税の計算を記した私的な記録で、関税分を差し引いた後に残る品物の価値を700万ドラクマ近くと見積もっている。こうした品物は、ローマと中国を一度で行き来する旅によってではなく、港と仲介者の連鎖を通じて運ばれた。

166年は中国の内部でも転換点だった。漢の宮廷では、宦官の派閥が桓帝を説き伏せ、自分たちを批判した儒学者の官僚や学生の一団を追放させた。これが「党錮の禁」の始まりである。168〜169年には、さらに苛烈な弾圧が続いた。中国の史料には160年代から180年代にかけて疫病が繰り返し流行したことが記されており、184年には、病気治しを行う宗教指導者の張角が華北一帯で黄巾の乱を起こした。反乱はその年のうちに鎮圧されたが、反乱に対抗して編成された軍隊、189年の霊帝の死後に再燃した宮廷の危機、そしてそれに続く群雄の争いが重なって王朝は分裂し、三国時代へとつながった。

同じ病気が二つの帝国を襲ったのだろうか。歴史家ウィリアム・マクニールは1976年、疫病が漢とローマの双方を弱体化させる一因になったと論じた。中国の疫病の流行がアントニヌスの疫病と同じ数十年に集中していると指摘する研究者もいる。しかし中国の病気が何だったのかはわかっておらず、両者の結びつきは仮説にとどまる。確実に言えるのは、ユーラシアの両端にある二つの大帝国が、同じ時期に疫病、国境地帯への圧力、政治的な緊張に直面していたということである。そしてその支配者の一人は、自分のノートに、アジアもヨーロッパも宇宙の片隅にすぎないと書いていた。

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中級

受容――ルネサンスの学者から現代の自己啓発まで

ビザンツではこの本は学者たちに読まれ、抜粋され、14世紀から16世紀のギリシア語の詞華集にも引用が見られる。西欧での歩みは、クシランダーによるギリシア語・ラテン語対訳版から始まり、これによってヨーロッパの人文主義者が読めるようになった。各国語への翻訳がそれに続いた。英語では、1634年のメリック・カソーボンの訳の後に多くの訳が出たが、その中には1862年のジョージ・ロングによる影響力の大きい翻訳もある。

19世紀のヨーロッパ人にとって、マルクスは、キリスト教徒でない人が道徳の手本になりうるかを問う試金石となった。ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』(1859年)で、マルクスを、おそらく同時代で最も善良かつ賢明な統治者であり、その著作はキリスト教の倫理に近いと述べた。そのマルクスが、にもかかわらず義務感からキリスト教を迫害したのである。ミルはこれを歴史上最も悲劇的な事実の一つと呼び、どれほど賢明な権威であっても意見を抑圧すべきではないという主張の根拠とした。マシュー・アーノルドは1863年、マルクスを論じた自らの評論でこれに応え、この論争がヴィクトリア朝における哲人皇帝のイメージを形づくった。

20世紀には、この本は心理学にも届いた。認知療法の創始者たちは1979年、自分たちのアプローチの起源はストア派の哲学者たちにさかのぼることができると書き、その中にマルクス・アウレリウスの名を挙げた。私たちの判断が感情を形づくるというストア派の考えは、認知行動療法の中心となった。

21世紀に入ると、『自省録』はベストセラーになった。ペンギン社によれば、同社の版の売り上げは2010年代に数倍に伸び、2019年には10万部を超えた。ライアン・ホリデイらの著述家はオンラインで「現代ストア主義」の大きな読者層を築き、ビル・クリントンから中国の元首相温家宝に至るまで、政治家もこの本を称賛してきた。批判者たちは――この再評価を歓迎する哲学者も含めて――文脈から切り取られた標語が、マルクスを生産性向上や感情の抑圧の導師に変えてしまいかねないと警告する。それは、書き手に他者に尽くすことを求め続けるこのテキストとは大きくかけ離れている。

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上級

さまざまな見方

哲学か、精神的訓練か。読者は長いあいだ、『自省録』をストア派の教説の要約として、あるいはマルクスの人柄や気分をのぞく窓として扱ってきた。これに対してピエール・アドは『内なる城塞』(La Citadelle intérieure、1992年。英訳The Inner Citadel、1998年)で、このテキストは一連の「精神的訓練」だと論じた。マルクスは、ストア派の中心的な原則を毎日書き記せというエピクテトスの助言に従い、それらを生き生きと心に保ち、それに従って生きられるようにしていたというのである。この見方では、繰り返しも、修辞的な迫力も、陰鬱なイメージも告白ではなく道具であり、アドはそれらを皇帝の心理を探る手がかりとして読むことを戒めた。書評者たちはアドの読解を称賛しつつ、その一部に疑問を呈してきた。たとえばラチャナ・カムテカーは、説得のための文学的技巧が必要だという考えは正統的なストア派の心理学となじみにくいこと、また「無差別なもの」に関するストア派の教説についてのアドの説明は、ストア派を実際以上に混乱しているように見せてしまうことを指摘した。

正統的なストア派か、折衷主義者か。マルクスはヘラクレイトス、プラトン、デモクリトスを引用し、苦痛についてはエピクロスにさえ賛同している。彼は「摂理か原子か」という二者択一を9回も持ち出す。ジョン・リストやジュリア・アナスなどの研究者は、これを彼がストア派の自然学をしっかり把握していなかったしるしと受け取った。一方、アドを含むほかの研究者は、どちらの自然学が正しくてもストア派の生き方は成り立つという論証として読む。『スタンフォード哲学百科事典』はさらに方法上の注意を加えている。マルクスは自分の中に一定の態度を育てるために書いているので、矛盾して見える言明は意図的な誇張かもしれず、それを教説として読むと、彼を実際以上に折衷的で不正確に見せてしまうというのである。

理想と治世。この本の正義と忍耐への賛美は、厳しい記録と並んでいる。マルクスの治世にはキリスト教徒が処刑された。護教家ユスティノスは165年ごろ、ローマで都市長官ユニウス・ルスティクス――マルクスが第1巻で感謝を捧げている、まさにそのストア派の教師――の命令によって斬首された。177年には、リヨンとヴィエンヌのキリスト教徒が、総督が皇帝に伺いを立てた後、リヨンで拷問され殺された。エウセビオスが伝える生存者たちの書簡によれば、皇帝は、信仰を告白した者は処刑し、否認した者は釈放するよう命じたという。マルクス個人の役割については歴史家の見解が分かれる。迫害は地域的なもので、群衆や総督によって引き起こされた。同時代のキリスト教徒の著作家は彼を直接非難しておらず、テルトゥリアヌスに至っては、現在では偽作とされる書簡を根拠に、彼をキリスト教徒の保護者として描いた。『自省録』自体がキリスト教徒に触れるのは一度だけ(11.3)で、「単なる頑固さから」死ぬことについての見下した付言である。多くの編者は、この言葉は後世の読者の欄外注が本文に紛れ込んだものだと考えている。

コンモドゥスの選択。マルクス以前の「賢帝」たちは、多くの場合、後継者を養子として迎えていた。マルクスは実子コンモドゥスを177年に共同皇帝とし、コンモドゥスは180年から192年に暗殺されるまで単独で統治した。その時代を生きた元老院議員カッシウス・ディオは、マルクスの死とともに歴史は「黄金の王国から鉄とさびの王国へ」転落したと書いた。歴史家マイケル・グラントのようなマルクスの擁護者は、成人した息子を差し置いてほかの人物を選べば、ほぼ確実に内戦を招いただろうと論じる。古代の著作家たちもすでに、この選択を彼の人生最大の不運として扱っていた。『ヒストリア・アウグスタ』は、マルクスが本当に幸運だったなら息子を残さなかっただろうと述べている。マルクスをプラトンの「哲人王」とする見方さえ、部分的には作られたものである。『ヒストリア・アウグスタ』によれば、彼は哲学者が統治すれば国家は栄えるというプラトンの言葉をよく引用したといい、キリスト教の護教家たちも彼を哲学者としてほめそやした。しかし彼自身はノートの中で、プラトンの理想の国家を望むな、ほんのわずかなことでも前進すれば満足せよ、と自分に言い聞かせている。

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証拠と方法――損なわれた私的テキストを読む

現代の版はどれも再構成である。パラティナ写本が失われた今、その読みはクシランダーの印刷版を通じてしか残っておらず、編者たちはそれをバチカン写本と突き合わせている。ビザンツの読者が作った詞華集も、わずかながら情報を加える。ダルムシュタットの写本(2773番)は最初の9巻から100を超える抜粋を、パリの写本(gr. 319)は最初の4巻から数十の抜粋を伝えている。多くの箇所は今も損なわれたままで、版によって記述の区切り方や番号の付け方が異なることもあるため、同じ文でも参照番号がわずかに違う場合がある。

執筆時期の推定は、乏しい証拠に基づいている。二つの地名の注記、老いや死への言及、そしてマルクスの移動について知られていることから170年代と考えられるが、研究者が示す範囲はさまざまで、およそ170〜180年から、より狭く171〜175年ごろまでの幅がある。また、記述が現在並んでいる順に書かれたのかどうかについても議論がある。

方法上の最大の問題は、ジャンルである。『自省録』が私的な訓練であるなら、その言明をそのままマルクスの自伝や政策の記録として読むことはできない。ノートと治世のあいだの隔たりこそ、このノートが埋めようとしていたものなのかもしれない。そのため歴史家は、ほかの史料と組み合わせてこれを読む。カッシウス・ディオの歴史書(ビザンツ時代の抜粋で伝わる)、信頼性の低い『ヒストリア・アウグスタ』、碑文、貨幣、ローマのマルクス・アウレリウス記念柱、ガレノスの医学書、教師フロントの書簡などである。一方、哲学者はエピクテトスと並べてこれを読む。それぞれの分野が異なるマルクスの姿を見ており、ノートがその見解の相違に決着をつけることはめったにない。

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重要なポイント

ロゴス
ストア派にとって、宇宙全体を秩序づける神的な理性。人間の理性はその一部を分かち持つものであり、理性的に生きることは自然と一致して生きることを意味する。
自分次第のもの
エピクテトスから受け継いだ区別。自分の力の内にある判断や選択と、健康、富、評判など、自分の力の外にある外的なものとを分ける。
摂理か原子か
マルクスが繰り返し持ち出す二者択一。世界は知性によって治められているのか、それとも原子のでたらめな衝突なのか。彼は、どちらの場合でも正しく、落ち着いて行動すべきだと論じる。
移ろいと高みからの眺め
歴史全体と地上全体を一度に思い描き、名声、苦痛、争いがいかに短いものかを見て、注意を徳へと向け直すこと。
コスモポリス
理性を持つすべての存在は一つの世界都市の市民であり、互いに正義の義務を負うというストア派の考え。
義務と持ち場
マルクスは皇帝としての役割を、自然から割り当てられた持ち場と考え、虚栄心を持たずに――「紫に染まらずに」――よく果たすべきものとした。
書くことによる訓練
このノートは読者のための本ではなく、中心的な原則を書き直すことで心を鍛える道具だったとする、ピエール・アドの見方。

記録

  1. 121年 — マルクス・アウレリウスがローマに生まれる(4月26日)。
  2. 161年 — マルクスがルキウス・ウェルスとともに皇帝となる。パルティアとの戦争が始まる。
  3. 165年頃 — アントニヌスの疫病がローマ帝国内に広がり始める。
  4. 165年頃 — キリスト教の教師ユスティノスが、マルクスのストア派の教師である都市長官ユニウス・ルスティクスのもと、ローマで処刑される。
  5. 166年 — 『後漢書』が、「大秦王安敦」の使者が海路で漢に到着したと記す。漢の宮廷で最初の党錮の禁が始まる。
  6. 170年頃 — 北方の諸集団がイタリアに侵入し、アクイレイアを包囲する。マルクスは170年代初めにカルヌントゥムから戦争を指揮する。『自省録』の少なくとも一部はこれらの遠征中に書かれるが、いつ書き始めたのかはわかっていない。
  7. 177年 — コンモドゥスが共同皇帝となる。リヨンとヴィエンヌのキリスト教徒がリヨンで殉教する。
  8. 180年 — マルクスが遠征中に死去する(3月17日)。コンモドゥスが単独で統治し、ドナウ川方面で講和する。
  9. 184年 — 漢で黄巾の乱が起こる。
  10. 907年頃 — この年より前に、カイサレイアのアレタスがこの本の古い写本を書き写させる。作品についての最初の確かな言及。
  11. 1558年 — ウィルヘルム・クシランダーによる、ラテン語訳付きの最初の印刷版がチューリヒで出る(1558年の日付。1558/59年とされることが多い)。
  12. 1634年 — メリック・カソーボンが最初の英訳を出版する。
  13. 1859年 — ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』が、マルクスによるキリスト教徒迫害を、権威への警告の例として用いる。
  14. 1992年 — ピエール・アドの『内なる城塞』が、『自省録』を精神的訓練として読み解く。

用語集

ストア派
紀元前300年ごろにキティオンのゼノンが始めたギリシア哲学の一派。徳だけが善であり、自然と一致して生きるべきだと説く。
エピクテトス
奴隷として生まれたストア派の教師(西暦50年ごろ〜135年ごろ)。弟子アリアノスが記録したその講義は、マルクスにとって哲学上の主な手本だった。
コイネー・ギリシア語
ローマ時代に地中海東部で広く使われた共通ギリシア語。教養あるローマ人も哲学に用いた。
マルコマンニ戦争
西暦166〜180年に、ローマとマルコマンニ族、クァディ族、ヤジゲス族などドナウ川の北の諸集団とのあいだで戦われた戦争。
アントニヌスの疫病
西暦165年ごろからローマ帝国中に広がった疫病。正確にどの病気だったかはわかっていない。
カルヌントゥム
パンノニア属州のドナウ川沿い、現在のウィーンの東にあったローマの軍団要塞兼都市。マルクスが本営として用いた。
コデックス(冊子本)
ページを綴じた手書きの本。中世の写本の一般的な形態。
初刊本(エディティオ・プリンケプス)
古代の文献が初めて印刷された版。『自省録』の場合は、1558/59年のクシランダーによるチューリヒ版。
大秦
漢代の中国の史料でローマ世界を指して用いられた名。中国側には主に伝聞を通じて知られていた。
精神的訓練
人の生き方を変えることを目指した、思考、書くこと、想像の古代の実践を指すピエール・アドの用語。

よくある質問

マルクス・アウレリウスは、自分のノートを人に読んでほしかったのですか?

おそらくそうではありません。テキストには自分以外の読者に語りかける箇所がなく、研究者の多くは私的な自己鍛錬とみています。どのようにして残り、世に知られるようになったのかはわかっていません。

なぜローマ皇帝がギリシア語で書いたのですか?

ローマ世界では、ギリシア語が哲学教育の主な言語だったからです。ただし、キケロやセネカのようにラテン語で哲学を書いたローマ人もいました。マルクスは子どものころからギリシア語を学び、ギリシア語を話す教師たちに師事したので、ギリシア語で哲学を考えるのは自然なことでした。

「自省録」は本当の題名ですか?

マルクスが付けた題名は残っていません。ギリシア語の表題「タ・エイス・ヘアウトン」(「自分自身へ」)が初めて確認されるのは900年ごろで、英語の「Meditations」は近代の題名です。

どこで書かれたのですか?

少なくとも一部はドナウ川国境地帯での遠征中に書かれました。本文中の注記には「クァディ族の地にて、グラヌア川のほとりで」、そして現在のウィーンの東にあったローマの要塞都市「カルヌントゥムにて」とあります。

マルクス・アウレリウスはキリスト教徒を迫害したのですか?

彼の治世にはキリスト教徒が処刑されました。とくにローマでのユスティノス(165年ごろ)と、リヨンの殉教者たち(177年)が知られています。リヨンでは、皇帝の裁定が信仰を告白した者の処刑を命じたと伝えられています。彼自身がどこまで迫害を指示したのかについては議論があります。

彼の治世に、ローマは中国へ使節を送ったのですか?

中国の記録は、166年に「大秦王安敦」の使者が来たと記しています。多くの歴史家は、彼らはマルクスの公式な使節ではなく、ローマの代表を名乗った商人だったと考えています。

今日読まれているテキストは、どれくらい信頼できますか?

全体としてはかなり信頼できます。ただし、ごく少数の写本に依拠しており、そのうち一つは失われているため、個々の箇所には不確かなものが多く、編者のあいだで今も読みが分かれています。

『自省録』は優れた哲学書ですか、それとも単なる自己啓発書ですか?

どちらの読み方もあります。ストア派倫理の記録として評価する人もいれば、アドにならって実践的な訓練として評価する人もいます。批判者たちは、現代の自己啓発がしばしば、他者に尽くせというこの本の要求をそぎ落としてしまうと警告しています。

出典・参考文献

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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