文学

戦争と平和

Война и мир (pre-1918 spelling: Война и миръ)

1865–1869年 · ヤースナヤ・ポリャーナ(ロシア帝国)

ひとことで

『戦争と平和』は、ナポレオンとの戦争を生きる複数の家族を描いたレフ・トルストイの長大なロシア小説であり、歴史を動かすのは偉大な指導者なのか、それとも無数の普通の人々なのかを問いかけます。

戦争と平和
画像: Leo Tolstoy · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

『戦争と平和』は、とても長く、世界でよく知られている物語です。ロシアの作家レフ・トルストイが、約160年前にヤースナヤ・ポリャーナという田舎の家で書きました。大人でも、読み終えるまでに何週間もかかることがあります。

物語の舞台は200年以上前です。そのころ、フランスの皇帝ナポレオンはヨーロッパの各地で戦争をしていました。1812年、大きな軍隊を率いてロシアに入り、モスクワまで進みます。その後、モスクワは火事になり、冬が来て、軍隊は雪の中を引き返しました。

でも、この本は戦いだけの話ではありません。やさしいけれど少し不器用なピエール、勇敢なアンドレイ公爵、歌と踊りが大好きなナターシャが出てきます。みんな、大きくなる中で恋をし、失敗し、大切な人を失い、また希望を見つけます。

本には何百人もの人物が登場します。ナポレオンやロシアの将軍クトゥーゾフのように、実在した人もいます。トルストイは、家族のけんかや森での狩りも、有名な戦いと同じくらい大切に描きました。

トルストイは、王や将軍が歴史を思いどおりに動かせるのか、と考えました。彼はそうではないと思いました。川がたくさんの水のしずくからできるように、歴史は大勢の普通の人の行動からできる、と考えたのです。

ひと目でわかる

著者
レフ(レフ・ニコラエヴィチ)・トルストイ(1828~1910年)
執筆時期
1863~1869年ごろ。主にトゥーラ近郊にあるトルストイの領地、ヤースナヤ・ポリャーナで執筆
初刊
前半は「1805年」の題で、1865年から雑誌『ロシア報知』(ルースキー・ヴェストニク)に連載。全編の単行本版は1868~1869年に刊行
舞台
1805~1812年のロシアと中央ヨーロッパ。エピローグは1813~1820年
言語
ロシア語。会話にはフランス語も多く使われている
構成
標準的な本文では全4巻と2部構成のエピローグ。全361章
形式
家族の物語、戦争史、哲学的な論考を組み合わせた長編散文作品。トルストイ自身は、単に小説と呼ぶことを拒んだ
意義
史上最高の小説の一つと評されることが多い。近代歴史小説の手本となり、歴史がどのように動くかをめぐる議論にも影響を与えた

やさしい

『戦争と平和』とは?

『戦争と平和』は、ロシアの作家レフ・トルストイが1860年代に書いた、ナポレオン戦争を舞台とする散文のフィクション作品です。主にロストフ家、ボルコンスキー家、ベズーホフ家などの貴族の一族を、1805年から1812年にかけて描き、エピローグでは1820年までを見渡します。周囲には数百人の人物が登場し、ナポレオン、皇帝アレクサンドル1世、ロシア軍司令官ミハイル・クトゥーゾフなど、実在の歴史上の人物も約160人含まれます。

この本は、その長さで有名です。現代の翻訳の多くは千ページを大きく超えます。それでも、歴史の授業を受けているようには感じない、と読者はよく言います。トルストイは、少女の初めての舞踏会、狩り、子どもの病気、戦闘前の兵士の恐怖といった日常の細部を、作り話ではなく実際に体験したことのように鮮やかに描きます。

題名は、作品が行き来する二つの世界を結びつけています。「戦争」は、将軍の司令部からも一般の兵士がいるぬかるんだ陣地からも描かれる、1805年と1812年の戦役です。「平和」は、求愛、結婚、金銭の心配、宗教、誕生、死といった家庭での暮らしです。トルストイは、この二つの世界は切り離せず、同じ人間の力がどちらも形づくると考えました。

『戦争と平和』が異例なのは、物語の間に、歴史、自由、権力についてトルストイが読者に直接語りかける論考が挟まれていることです。エピローグの第2部は、すべてこのような論考です。そこを読み飛ばす読者もいれば、作品全体を理解する鍵だと考える読者もいます。

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あらすじ

物語は1805年7月、サンクトペテルブルクの社交界の集まりから始まります。客たちはフランス語でナポレオンのうわさをしています。そこで登場するのが、非常に裕福な伯爵の庶子で、ぎこちないピエール・ベズーホフと、社交界や結婚生活に退屈し、戦いに出ようとしている友人のアンドレイ・ボルコンスキー公爵です。モスクワでは、温かくにぎやかなロストフ家に出会います。息子のニコライは軽騎兵となり、娘のナターシャは物語の初めには13歳です。

最初の戦争では、ロシアとオーストリアがナポレオンと戦います。アウステルリッツの戦い(1805年12月)でアンドレイは重傷を負います。戦場に横たわって高く果てしない空を見上げた彼は、栄光を求める自分の夢が小さく、むなしいものに思えてきます。一方、ピエールは父の財産を相続し、美しいが冷淡なエレン・クラーギナとの結婚を周囲に押し進められ、決闘をし、フリーメイソンに生きる意味を求めます。アンドレイが帰宅したとき、妻は出産で亡くなります。

1807年以降の平和な時期に、アンドレイはナターシャと恋に落ち、二人は婚約します。しかし、アンドレイの父は結婚まで1年待つよう求めます。アンドレイが外国にいる間、ナターシャはエレンの弟アナトールに心を奪われ、彼と駆け落ちしかけます。婚約は破談となり、ナターシャは絶望します。ひそかに彼女を愛するピエールは、親切に接する数少ない人の一人です。

1812年、ナポレオンはロシアに侵攻します。アンドレイはボロジノの戦いで致命傷を負い、ピエールは民間人の見物人として戦場を歩き回ります。モスクワは放棄され、炎に包まれます。ロストフ家は負傷兵を運ぶために馬車を提供し、その負傷兵の中にはアンドレイもいました。ナターシャは彼を看病し、二人は和解しますが、アンドレイは亡くなります。モスクワに残ったピエールはフランス軍の捕虜となり、退却する軍隊とともに歩かされます。素朴な農民出身の兵士プラトン・カラターエフから、人生をありのままに受け入れることを学びます。ロシアのパルチザンに解放された後、ピエールはナターシャと結婚します。ニコライ・ロストフはアンドレイの妹マリヤ公女と結婚します。エピローグの第1部は1820年の両家を描き、次に訪れる政治的な嵐をほのめかします。

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やさしい

主な登場人物

ピエール・ベズーホフは、この本を代表する探求者です。大柄で近視、気前のよい彼は、エレンとの結婚からナポレオン暗殺計画まで、愚かな選択を何度もします。それでも、どう生きるべきかを誠実に問い続け、最後には身近な愛と務めの中にある種の平穏を見いだします。

アンドレイ・ボルコンスキー公爵は、誇り高く、聡明で、心の落ち着かない人物です。まず軍人としての栄光に、次に政治改革に、そして愛に、生きる意味を求めます。アウステルリッツの戦場と、ボロジノの戦いの後に迎える死の床での体験は、文学の中でも特に有名な精神的場面です。

ナターシャ・ロストワは、フィクションの中でも特に生き生きとした人物の一人とよく言われます。自然体で喜びに満ちた少女として登場し、悲しみや過ちを経て、家庭に心を注ぐ母親へと成長します。フランス式の教育を受けた伯爵令嬢である彼女が、叔父の家で農民の女性のように自然に踊る有名な「ロシアの踊り」は、国民に共通する精神を表すトルストイの描写です。

周囲にも印象深い人物が大勢います。厳格な老ボルコンスキー公爵と信仰深い娘マリヤ、策を巡らすクラーギン家、大胆な将校ドーロホフ、献身的ないとこのソーニャ、初めての戦闘で戦死する若いペーチャ・ロストフ、そしてピエールにとって素朴な人々の知恵を体現する、穏やかな農民プラトン・カラターエフです。クトゥーゾフとナポレオンも、意図的に対照的な人物として登場します。

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中級

歴史的背景:1812年と1860年代

作品の中心にある戦争は、ナポレオンのロシア侵攻です。1812年6月24日、ヨーロッパ各地から集められた数十万人規模の大陸軍がネマン川を渡りました。ロシア軍は退却し、9月7日には血なまぐさいボロジノの戦いが起こりました。9月14日、フランス軍は住民の大半が去ったモスクワに入り、その後の火災で市街の多くが焼失しました。10月にナポレオンが退却を始めると、飢え、寒さ、パルチザンの攻撃によって壊滅的な事態となりました。ロシアを脱出できた兵士は、軍のごく一部でした。

ロシアでは、1812年の戦争は「祖国戦争」と呼ばれ、国民的な誇りを支える物語となりました。しかし、トルストイが執筆していたのは半世紀後の、まったく異なるロシアでした。トルストイ自身もセヴァストポリで砲兵将校として従軍したクリミア戦争(1853~1856年)に敗れた後、皇帝アレクサンドル2世は大改革を始めます。1861年には農奴が解放され、ロシアは将来について激しく議論しました。西ヨーロッパにならうべきか、それとも自国の農民や正教会の伝統を信じるべきか、という議論です。

トルストイの当初の構想は、1825年に皇帝に反乱を起こした将校の一人であるデカブリストが、1856年の恩赦を受けてシベリアへの流刑から帰るという小説でした。主人公を理解するため、トルストイは1825年から1812年へ、さらに1805年へとさかのぼりました。こうして生まれたのは、過去を描きながら、貴族と農民の関係、ロシアとは何か、政府の権力にはどんな限界があるかという1860年代の問いに絶えず応える本でした。

トルストイは丹念に調査しました。当時のロシア語とフランス語の歴史書や回想録、手紙、文書を読み、1867年にはボロジノの戦場を訪れて地形を調べました。同時に、出来事を自由に創作・改変し、自分が読んだ記述を書いた専門の歴史家たちにも公然と異を唱えました。

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中級

トルストイの歴史観

『戦争と平和』の最も特徴的な考えは、歴史を支配者や将軍の計画や命令によって起こるものとする「偉人史観」への批判です。トルストイは、戦闘や戦争は、兵士、将校、農民、町の人々による数えきれない行動の積み重ねであり、一人の頭で予見したり支配したりできないと論じます。指揮官の命令は届くころには手遅れで、すでに変わった状況を前提としていたり、単に無視されたりします。

そのため、トルストイはナポレオンを虚栄心が強く、思い違いをしている人物として描きます。ナポレオンは自分が出来事を指揮していると思い込んでいますが、実際はその流れに運ばれているのです。対照的に、クトゥーゾフは戦闘を支配できないと理解しているからこそ賢明だと描かれます。彼は作戦会議で居眠りし、待ち、事態を自然な成り行きに任せようとします。歴史家たちは、このクトゥーゾフ像がかなり選択的であり、トルストイのナポレオン像も伝記より風刺画に近いと指摘しています。

エピローグの第2部で、トルストイはこれを哲学上の問題へと発展させます。私たちは行動するとき自分は自由だと感じますが、外から歴史を眺めると、どの行動も先行する条件によって生じたように見えます。トルストイは歴史の理解を微積分になぞらえます。数学が無限に小さな単位を積み重ねて運動を理解するように、歴史も少数の指導者の選択ではなく、普通の人々の無限に小さな行動を理解しようとすべきだというのです。そして、私たちには見えない必然性を受け入れなければならない、と結論づけます。

この歴史観は、作品をきわめて現代的に感じさせる理由の一つです。後の歴史家による社会史や日常生活への関心を先取りし、哲学者が今も論じる自由、因果関係、責任の問いを提起しています。倫理的な側面もあります。指導者が歴史を支配できないなら、征服者の栄光は幻想であり、人生の本当の価値は愛、家族、良心にあるのです。

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中級

どんな本なのか?形式と技法

最終巻が刊行される前の1868年、トルストイは「『戦争と平和』という本についてのいくつかの言葉」という文章を発表し、この作品は小説ではなく、まして叙事詩でも歴史年代記でもないと宣言しました。ロシア文学はもともとヨーロッパの形式には収まらず、自分の本は表現したいこと、表現できたことを形にしたものだ、と論じました。

この本は、家族の年代記、恋愛物語、戦闘の描写、歴史論、精神的な自伝など、さまざまな種類の文章を組み合わせています。語り手はナターシャから猟犬に至るまで、多くの登場人物の心の中へ自由に入り、再び外へ出て歴史について論じます。トルストイは、批評家ヴィクトル・シクロフスキーが「異化」(オストラネーニエ)と呼んだ技法をよく用います。オペラや作戦会議のような見慣れたものを、その慣習を知らない人の目を通して描き、奇妙で、ときにはばかげたものに見せる方法です。

言語も作品の構成に関わっています。序盤の貴族たちは、自国がフランスと戦争しているにもかかわらず、当時のロシアの社交界で使われたフランス語をしばしば話します。物語が1812年へ進み、登場人物たちがロシア人としての意識を取り戻すにつれて、フランス語は減っていきます。版によってはフランス語の箇所をロシア語に翻訳していますが、標準的な本文では原文のまま印刷し、脚注にロシア語訳を付けています。

作品の構成にはまとまりがないと考えた批評家もいます。小説家ヘンリー・ジェイムズは、この作品を、彼が「だぶだぶの怪物」と呼んだほかの19世紀の作品と同じ部類に入れたことで知られます。一方、後の多くの批評家は、その開かれた構成は意図的で、従来の小説の整った筋立てではなく、人生と歴史の予測できなさを模していると論じています。

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中級

執筆と出版の経緯

トルストイが本格的に執筆を始めたのは、1862年9月にソフィア・アンドレーエヴナ・ベルスと結婚して間もない1863年ごろでした。作業の大半は、彼の生まれたトゥーラ近郊の領地ヤースナヤ・ポリャーナで行われました。トルストイは何度も書き直し、ソフィア・アンドレーエヴナは読みにくい彼の原稿を繰り返し清書しました。家族の言い伝えでは全文を何度も書き写したとされ、よく紹介されますが、正確な回数を知るのは困難です。

最初の部分は、ミハイル・カトコフが編集するモスクワの雑誌『ロシア報知』(ルースキー・ヴェストニク)に、「1805年」の題で1865~1866年に掲載されました。トルストイはその後連載を中断し、大幅に改稿しました。『戦争と平和』と題した全編は、1868~1869年に全6巻の単行本として刊行されました。

トルストイは出版後も本文を変え続けました。1873年版ではフランス語の箇所をロシア語に訳し、多くの哲学的な議論を付録へ移しましたが、後の版はおおむね以前の形に戻りました。現代のロシア語版は、1928年以降ソビエト連邦で刊行された膨大な『トルストイ全集』、通称「記念版」を基に研究者が確定した本文に従っています。この全集の複数の巻には、多くの草稿も収められています。

これらの草稿は、作品がどれほど変化したかを示します。研究者は、筋や調子が大きく異なる初期の完成稿を復元してきました。そのうちの一つは2000年にロシアで独立した本として出版され、著者が退けた草稿を別の『戦争と平和』として売るべきか、議論を呼びました。

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中級

評価、翻訳、後世への影響

ロシアの読者は、この本をすぐに重要な作品と認めましたが、反応はさまざまでした。1812年の戦争の退役軍人や軍事著述家の中には、戦争やロシアの指揮官の描き方に異議を唱える人がいました。1860年代の急進派は旧貴族を理想化し、改革を疑う姿勢を嫌い、保守派は愛国心を高く評価しました。それでも、登場人物と場面の力強さについては、ほぼ誰もが認めました。

1880年代以降、翻訳によってこの本は世界各地に広まり、ドストエフスキーやツルゲーネフの作品とともに、ロシア小説の国際的な評価の中心となりました。翻訳者たちは、たとえばフランス語の箇所をそのまま残すかどうかなど、さまざまな選択をしています。それによって、各言語の読者が作品をどう体験するかも変わります。

20世紀には、『戦争と平和』は新たな意味を帯びました。ロシアで大祖国戦争と呼ばれる第二次世界大戦中、ソビエト国家はこの小説を、侵略に抵抗する国民の愛国的叙事詩として推奨しました。セルゲイ・プロコフィエフはオペラにし、セルゲイ・ボンダルチュクは大規模なソビエト映画版(1966~1967年)を監督しました。この映画はアカデミー外国語映画賞を受賞しました。ハリウッドやBBCによる映像化もあり、1972~1973年と2016年にはテレビドラマシリーズが制作されました。

この本は、私的な人生と公の出来事を織り合わせる方法を示し、世界中の歴史小説に影響を与えました。20世紀に戦争や革命を描いた小説家を含め、世界各地の作家が自作をこの作品と比べてきました。戦場の混乱についての考察は、軍事史家や理論家にも読み継がれています。

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研究上の議論:ハリネズミかキツネか、形式と意味

アイザイア・バーリンの論考『ハリネズミとキツネ』(1953年)は、今も特に影響力のある解釈の一つです。バーリンは、ギリシャの詩人アルキロコスの「キツネは多くのことを知っているが、ハリネズミは一つの大きなことを知っている」という言葉を引き、トルストイは生来、人生の果てしない多様さを見抜く才能を持つキツネでありながら、すべてを説明する一つの体系を持つハリネズミになるべきだと信じていた、と論じました。バーリンにとって、小説の豊かな個別性と、必然性を唱える哲学的な主張との緊張こそが、トルストイの精神のドラマです。

ゲイリー・ソール・モーソンの『Hidden in Plain View』(1987年)は異なる見方を示しました。『戦争と平和』は結末による完結や従来の筋立てに抵抗するよう意図的に設計されており、一見まとまりのない形式は、人生と歴史が無数の小さな予見できない瞬間から成るというトルストイの見方を表す、と論じたのです。シクロフスキーやボリス・エイヘンバウムをはじめとするロシア・フォルマリズムの影響を受けた批評家たちは、トルストイの資料の使い方や異化の技法を研究しました。一方、ジェルジ・ルカーチらマルクス主義の批評家たちは、この本を歴史的な力をリアリズムで表現した模範として扱いました。

作品の社会像についても議論があります。とりわけプラトン・カラターエフをはじめとする農民の描写は、地主の視点からの理想化ではないか。女性の扱い、特にエピローグでナターシャが献身的な母親になることは、結婚に対するトルストイ自身の保守的な考えを反映しているのではないか。また、作品の愛国心は、その後ロシアやソビエト連邦で1812年の神話が利用されたこととどう関わるのか。研究者たちはこうした問いを立ててきました。

1918年以前のロシア語の綴りでは、миръ(平和)とміръ(世界、共同体)が区別されていたため、題名の本当の意味は「戦争と世界」または「戦争と社会」だという説が一般に根強くあります。しかし、研究者たちはおおむねこれを否定しています。トルストイの生前に刊行された版では「平和」を意味する綴りが使われており、戦争と平和という対比は作品の構成にも合っています。

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上級

資料、草稿、研究方法

トルストイが用いた歴史資料には、アレクサンドル・ミハイロフスキー=ダニレフスキーによる公式の記述など、1812年のロシア軍事史、アドルフ・ティエールの統領政府と帝政の歴史書のようなフランス語の著作、そして多くの回想録、手紙、文書が含まれます。小説とこれらの資料を比較すると、トルストイが資料に従った箇所、公然と反論した箇所、細部を創作・変更した箇所が分かります。クトゥーゾフやナポレオンの人物像、いくつかの場面の時系列などがその例です。

現存する原稿は非常に多く、主にモスクワの国立トルストイ博物館に保存されています。そこには構想メモ、草稿、手書きの訂正が入った校正刷り、ソフィア・アンドレーエヴナによる清書が含まれます。本文研究者はこれらを用いて、登場人物がどのように作られ、名前を変えられたか、どんな筋が放棄されたか、物語と論考の比重がどのように変わったかをたどってきました。「記念版」は数巻をこの資料に充てています。

記憶の歴史を研究する歴史家にとって、『戦争と平和』自体が史料です。1860年代の教育を受けたロシア人が1812年の世代をどう思い描いたかを示し、後の世代が抱くそのイメージを定着させる助けにもなりました。そのため、作品研究は二つの時代を同時に扱います。研究者は、侵攻した側から同じ出来事を語るフランス語の回想録や歴史書とも比較します。1812年の物語が、ロシア、フランス、そして軍隊が通過した中央ヨーロッパの土地で大きく異なって記憶されていることを思い起こさせるためです。

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重要なポイント

下からの歴史
歴史は支配者や将軍の計画ではなく、普通の人々による無数の行動の結果だとするトルストイの見方。
自由と必然
私たちは行動するとき自由だと感じるが、外から見ると行動は決定されているように見える。エピローグの第2部は、この逆説を考察する。
偉人という幻想
ナポレオンは自分が出来事を支配していると信じるが、トルストイはその信念を虚栄と自己欺瞞として描く。
素朴さの知恵
クトゥーゾフやプラトン・カラターエフのような人物は、人生を謙虚に受け入れる姿勢を示し、トルストイはそれを知的な傲慢さと対比させる。
生きる意味の探求
ピエールとアンドレイは、人生を生きる価値のあるものにするものを求めて、栄光、宗教、政治、愛を経験する。
家族と日常生活
この本は、家族の暮らし、求愛、誕生、死を戦闘と同じくらい重く扱い、それらこそが歴史の実質であると示唆する。
異化
見慣れたものを先入観のない目を通して描き、その奇妙さや虚偽を見えるようにする技法。

記録

  1. 1805年 — 物語は7月に始まる。12月、ナポレオンがアウステルリッツでロシアとオーストリアを破る。
  2. 1812年 — ナポレオンがロシアに侵攻する。ボロジノの戦い(9月7日)とモスクワの大火が起こり、フランス軍が退却する。
  3. 1825年 — デカブリストの反乱。トルストイの最初の構想は、帰還したデカブリストについての小説だった。
  4. 1828年 — レフ・トルストイがヤースナヤ・ポリャーナで生まれる。
  5. 1861年 — ロシア帝国で農奴が解放される。
  6. 1862年 — トルストイがソフィア・アンドレーエヴナ・ベルスと結婚する。
  7. 1863年頃 — トルストイが、後に『戦争と平和』となる作品に本格的に取り組み始める。
  8. 1865年 — 最初の部分が「1805年」の題で『ロシア報知』に掲載される。
  9. 1867年 — トルストイがボロジノの戦場を訪れる。
  10. 1869年 — 全編を収めた最初の単行本版の最終巻が刊行される。
  11. 1873年 — 改訂版でフランス語の箇所が翻訳され、論考が付録へ移される。
  12. 1966年 — セルゲイ・ボンダルチュクによるソビエト映画版の公開が始まる(1967年まで)。

用語集

ナポレオン戦争
1803~1815年に、ナポレオン率いるフランスとヨーロッパ諸国の同盟軍との間で戦われた戦争。
大陸軍
ナポレオンの主力軍。ヨーロッパの多くの国から集めた兵士とともに、1812年にロシアへ侵攻した。
連載
長い作品を単行本にする前に、雑誌などで数回に分けて発表すること。
デカブリスト
立憲改革を望み、1825年12月に皇帝に反乱を起こしたロシアの将校たち。
農奴
法的に地主の領地に縛られていた農民。ロシアでは1861年に農奴制が廃止された。
フリーメイソン
秘密の儀式と道徳的な教えを持つ友愛団体。1800年代初めのロシアの貴族の間で広まった。
パルチザン
侵攻軍の戦線後方から攻撃する非正規の戦闘員。1812年には退却中のフランス軍を悩ませた。
エピローグ
物語の本編の後に置かれる最後の部分。『戦争と平和』には物語を描くエピローグと哲学的なエピローグがある。
異化(オストラネーニエ)
見慣れたものを新鮮な描写によって奇妙に見せることを指す、ロシア・フォルマリズムの批評用語。
歴史小説
実際に存在した過去の時代を舞台に、架空の人物と実在の人物や出来事を組み合わせたフィクション作品。

よくある質問

『戦争と平和』は実話ですか?

一部は事実に基づいています。戦争や戦闘、ナポレオンやクトゥーゾフなど多くの人物は実在しますが、中心となる家族とその物語は創作です。トルストイは歴史的な細部を変えることもありました。

どのくらい長い本ですか?

とても長い本です。約361章あり、翻訳では通常千ページを大きく超えます。一度に数章ずつ、ゆっくり読むのがおすすめです。

登場人物はなぜフランス語を話すのですか?

1800年代初めのロシアの貴族は、仲間同士でフランス語を話すことがよくありました。トルストイは、貴族が普通のロシア人とどれほど隔たっていたかを示すためにこれを使い、フランスとの戦争が激しくなるにつれてフランス語を減らしています。

主人公は誰ですか?

主人公は一人ではありません。一般に、ピエール・ベズーホフ、アンドレイ・ボルコンスキー、ナターシャ・ロストワの3人が中心人物と考えられています。

トルストイはなぜ小説ではないと言ったのですか?

作品がヨーロッパの小説、叙事詩、年代記という分類に当てはまらないと感じ、物語、歴史、哲学を自由に組み合わせたかったからです。

トルストイの歴史観は、現在も真剣に受け止められていますか?

歴史家は完全な理論としては受け入れていません。しかし、偉人を中心とする歴史観への批判や、偶然と大勢の人々の行動を重視する姿勢は、後の社会史を先取りし、今も議論を呼んでいます。

題名の本当の意味は「戦争と世界」なのですか?

よく知られた俗説です。トルストイ自身の版で使われた綴りは「平和」を意味します。

出典・参考文献

  1. War and Peace. Wikipedia
  2. 전쟁과 평화. 위키백과
  3. Leo Tolstoy. Wikipedia
  4. Yasnaya Polyana. Wikipedia
  5. French invasion of Russia. Wikipedia
  6. Isaiah Berlin, The Hedgehog and the Fox: An Essay on Tolstoy’s View of History. Weidenfeld & Nicolson, 1953
  7. Gary Saul Morson, Hidden in Plain View: Narrative and Creative Potentials in “War and Peace”. Stanford University Press, 1987

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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