文学

青…

Azul... (Rubén Darío, 1888)

1888年 · バルパライソ(チリ)

ひとことで

『青…』は、ニカラグア出身の若い詩人ルベン・ダリオが1888年にチリで出版した短編小説と詩の小さな本です。音楽のように響く新しいスペイン語の文体で、モデルニスモと呼ばれる文学運動の始まりに大きな役割を果たしました。

青…
画像: Ruben Dario · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

「アスル」はスペイン語で「青」という意味です。本の題名には空や海の青が使われています。作者にとって、青は夢と芸術の色でもありました。

作者のルベン・ダリオは、中央アメリカのニカラグア出身です。19歳のとき、作家として成功したいと思い、遠く南アメリカのチリへ船で行きました。お金は少なく、新聞社やバルパライソの港で働きながら、時間を見つけては文章を書きました。

1888年、21歳になったダリオは、自分の物語と詩を集めて薄い本にしました。妖精の女王が芸術家たちに夢の魔法のベールをかけるような、おとぎ話があります。港で働く少年など、貧しい人たちを描いた悲しい話もあります。春夏秋冬を題材にした詩も入っています。

この本が特別だったのは、言葉の響きです。ダリオは画家が色を選ぶように言葉を選び、音楽を作るように文を並べました。多くの人にとって、初めて聞くようなスペイン語の文章でした。

初めは、気づく人が少ししかいませんでした。その後、スペインの有名な作家が新聞でほめると、ラテンアメリカやスペインの若い作家たちがダリオの書き方をまねるようになりました。だから、この小さな青い本は、スペイン語の文学に新しい時代を開いたと言われています。

ひと目でわかる

著者
ルベン・ダリオ(本名フェリックス・ルベン・ガルシア・サルミエント、1867~1916年)。ニカラグアの詩人
初版
1888年、チリのバルパライソ(エクセルシオール印刷石版社で印刷。7月末に印刷完了)
第2版
1890年、グアテマラシティ。改訂・増補され、新しい物語、ソネット、フランス語の詩、著者による注が加わった
形式
散文による短編小説、散文スケッチ(「チリにて」)、詩(「抒情の一年」、のちにソネットも追加)を収めた作品集
言語
スペイン語。同時代のフランス文学から強い影響を受けている
文学運動
イスパノアメリカのモデルニスモを代表する草創期の書物と広く見なされている
著名な読者
スペインの小説家・批評家フアン・バレーラ。1888年10月、マドリードの新聞『エル・インパルシアル』に掲載した2通の公開書簡で書評した

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『青…』とは?

『青…』はルベン・ダリオによる短編小説、散文スケッチ、詩の作品集で、1888年にチリのバルパライソで初めて出版されました。厚い本ではなく、当時ほとんど無名だった作家が地方の港町で印刷したものでした。それでも現在では、スペイン語文学史の転機の一つと見なされています。

題名は「青…」を意味し、末尾の三点リーダーは思いが夢へと漂っていくような印象を与えます。ダリオはのちに、自分にとって青は「夢の色、芸術の色、ギリシャ的でホメロス的な色」だと説明しました。この色は、灰色の日常から美の世界へ抜け出すことを予感させます。

この本が最もよく知られる理由は、その文体です。ダリオは、スペイン語の散文と韻文を、当時の優れたフランス文学に劣らず色彩豊かで、音楽的で、洗練されたものにしようとしました。珍しく華やかな語、宝石・花・白鳥・大理石の鮮やかなイメージ、意外性のある形容詞、緻密に整えたリズムを用いました。批評家たちはやがて、この文体を、作品が広める一助となった文学運動の名であるモデルニスモと呼ぶようになりました。

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やさしい

ニカラグア出身の若い詩人

ルベン・ダリオは1867年1月18日、ニカラグアの小さな町メタパ、現在のシウダー・ダリオに、フェリックス・ルベン・ガルシア・サルミエントとして生まれました。幼いころから詩を書く神童で、母国では「少年詩人」として知られました。「ダリオ」という姓は家族内の呼び名に由来し、彼はそれを筆名にしました。

十代のころにはエルサルバドルにしばらく住み、詩人フランシスコ・ガビディアから、特にヴィクトル・ユゴーなどのフランス詩や、フランス詩の形式をスペイン語に取り入れるという発想を教わりました。

1886年6月、19歳のダリオは船でチリへ渡りました。当時のチリは、イスパノアメリカで最も豊かで国際色の強い国の一つでした。サンティアゴでは特に『ラ・エポカ』などの新聞に寄稿し、バルパライソでも新聞の仕事をしました。また、一時期は港の税関検査官として働きました。チリ大統領の息子で、フランス文化への情熱を共有する若い作家ペドロ・バルマセダ・トロとも親しくなりました。こうした友人を通じて、最新のフランスの本や雑誌を読むことができました。ダリオはしばしばお金に困っていましたが、チリで過ごした年月に得た読書経験と自信が、『青…』の執筆につながりました。

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やさしい

本には何が収められている?

初版の冒頭には、裕福なチリの文学支援者フェデリコ・バレーラへの献辞と、チリの詩人エドゥアルド・デ・ラ・バラによる長い序文が置かれました。その後は三部構成です。第1部「散文の物語」には9編の短編小説が収められました。第2部「チリにて」は、バルパライソとサンティアゴを描いた短い散文を「バルパライソ画帖」と「サンティアゴ画帖」に分けたもので、物語と散文詩の中間にあたります。第3部「抒情の一年」は季節に沿って並べた詩群で、「春」「夏」「冬」などが含まれます。

幻想的な物語もあります。「マブ女王のベール」では、彫刻家、画家、音楽家、詩人という4人の貧しい芸術家が自分たちの境遇を嘆きます。すると小さな妖精の女王が夢のベールをかけ、彼らが希望を持ち続けられるようにします。「ルビー」では、パリの化学者が人工のルビーを作ったという知らせを、小人たちが軽蔑します。「太陽の宮殿」では、青白く悲しげな少女が、魔法のような愛の体験によって元気を取り戻します。

鋭い現実描写の物語もあります。「ブルジョワの王」は、飢えた詩人が、ぜいたくを愛しても芸術を愛さない裕福な王の宮殿に連れてこられる話です。詩人は庭でオルゴールのハンドルを回すよう命じられ、雪の中で凍死します。「荷包み」は、バルパライソの老いた港湾労働者を描きます。その息子は、船から荷を降ろす途中、重い荷包みに押しつぶされます。「黄金の歌」は、富豪の邸宅の外で物乞いの詩人が歌う、皮肉に満ちた賛歌です。

現実的な物語も、同じく磨き上げられた音楽的な文体で書かれています。そのため、言葉の美しさが貧困や残酷さ、不正と並び立つ、独特の二重の効果が生まれています。

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中級

歴史的背景――チリ、市場、作家

1880年代のチリは、硝石と銅の輸出によって豊かになりつつありました。特に、太平洋戦争(1879~1884年)でペルーとボリビアに勝利した後、その傾向が強まりました。バルパライソは太平洋岸でも有数の繁忙な港で、船や外国商人、ヨーロッパの商品であふれていました。サンティアゴの上流階級は、流行や家具、本を求めてパリに目を向けていました。富と輸入されたぜいたく品に満ちたこの雰囲気は、『青…』の至るところに現れ、称賛の対象にも批判の対象にもなっています。

また、文章を書くことが職業になりつつある時代でもありました。詩人はもはや貴族の庇護だけに頼れず、多くは新聞記者として生計を立てました。『青…』の作品の多くは、1886年末から1888年半ばにかけて新聞に初出しました。芸術家と、金銭だけを重んじる社会との対立は本書の主要な主題の一つで、特に「ブルジョワの王」によく表れています。この作品には「楽しい物語」という、苦い皮肉を込めた副題が付いています。

イスパノアメリカ各地でも、作家たちは新しい文学言語を探していました。ホセ・マルティの詩集『イスマエリージョ』(1882年)や、マヌエル・グティエレス・ナヘラの『はかない物語』(1883年)は、モデルニスモの先駆けとしてしばしば挙げられます。『青…』が単独でこの運動を生み出したわけではありませんが、その動向をとりわけ鮮やかで影響力のある形にまとめました。

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中級

文体と技法――スペイン語を「フランス語風に」書く

ダリオはのちに『青…』を、高踏派的で、それゆえフランス的な本だったと述べています。そこでは「パリ風の物語」、フランス風の形容詞、フランス語的な言い回しが、初めてスペイン語に現れたというのです。高踏派はルコント・ド・リールやテオドール・ド・バンヴィルらのフランス詩人で、完成された形式、彫刻のようなイメージ、芸術のための芸術を重んじました。ダリオはカチュール・マンデス、テオフィル・ゴーティエ、ゴンクール兄弟の散文も敬愛していました。

彼の散文は絵画と音楽の技法を取り入れました。描写は象牙、磁器、真珠、大理石、ユリなどの色彩、質感、貴重な素材から組み立てられます。文には繰り返しや慎重に置かれた間によるリズムがあり、散文でありながら詩のように感じられることがよくあります。『青…』刊行直前の1888年4月に発表した記事で、ダリオは「退廃的」と非難されたフランスの作家たちを擁護しました。そして、作家は言語のあらゆる響きを使うべきであり、「音の色」を描くことさえ試みるべきだと論じました。

神話的な物語には、古代ギリシャ、おとぎ話、シェイクスピアからの影響があります。マブ女王は『ロミオとジュリエット』に登場します。一方で、現代の都市や港、新聞、科学のニュースも本書には登場します。古代と現代、異国的なものと身近なもの、夢の世界と社会的な現実を混ぜ合わせるのは、イスパノアメリカのモデルニスモに典型的な特徴です。

詩では、ダリオはスペイン語であまり使われてこなかった韻律を試しました。第2版では、スペイン語で伝統的な11音節の詩行に代えて、フランス詩を手本とする14音節のアレクサンドランで書かれたソネットを導入しました。この革新は、スペイン語の詩に長く影響を与えました。

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中級

主なテーマ

敵対的な世界の中の芸術家。詩人や芸術家は繰り返し、金に取りつかれた社会の中で貧しく、理解されず、あるいは破滅します。ブルジョワの王は芸術を飾りとして買います。「青い鳥」に登場するパリの若者は、頭の中に青い鳥がいると言い、最後にはその鳥かごをきわめて悲劇的な方法で開きます。世界が美を大切にしないからこそ、美はいっそう貴重なのです。

逃れ場としての美と夢。青い空、妖精の贈り物、ニンフやサテュロスは、ありふれた日常からの脱出を与えます。しかし、この本は単なる現実逃避ではありません。夢にはしばしば皮肉や喪失、死の影が差します。マブ女王のベールは希望を与える贈り物ですが、幻想でもあり得ます。

愛と身体。「白い鳩と褐色のサギ」に描かれる若者の初恋のように、いくつかの物語や詩は、官能的な愛と身体の美しさを率直で異教的な精神のもとにたたえます。ダリオは自伝で、このころ自分の中の禁欲主義者は姿を消し、「異教徒」が残ったと書いています。

社会的不正。「荷包み」と「黄金の歌」は、貧しい人々、労働者、飢えた人々を描きます。これらの物語は、しばしば象牙の塔にこもっていると非難されるモデルニスモが、周囲の社会を厳しく見つめることもできたと示しています。

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中級

反響――フアン・バレーラの書簡

『青…』のチリでの売れ行きは控えめでした。運命が変わったのは、一冊がマドリードのフアン・バレーラのもとに届いてからです。彼はスペインで最も尊敬される小説家・批評家の一人で、王立スペイン語アカデミーの会員でもありました。ダリオが送った本は、当時バルパライソの外交官だったバレーラの親族アントニオ・アルカラ・ガリアーノを通じて渡されました。

バレーラはこの本を、1888年10月22日と29日付のマドリードの新聞『エル・インパルシアル』の月曜文芸付録に掲載した、2通の「アメリカ書簡」で論じました。彼は、題名を見たときには、ヴィクトル・ユゴーの「芸術は紺碧である」という言葉を思い出し、ダリオもユゴーの模倣者ではないかと心配して、読む気をそがれたと認めています。しかし読み終えると、その才能、国際的な舞台設定、巧みな文体を称賛しました。

バレーラは同時に、ダリオの「精神的なフランス語かぶれ」と呼ぶもの、つまりフランス人のように考え書く癖にも警鐘を鳴らしました。スペインの文学界の中心人物による、この称賛と批判が入り交じった評価によって、ダリオは有名になりました。ダリオは第2版の序文としてバレーラの書簡を再録し、それ以来、多くの版に収められています。

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中級

本の成立と改訂――1888年、1890年、1905年

初版はバルパライソのエクセルシオール印刷石版社で印刷され、1888年7月末に完成しました。現在、チリ国立図書館の「メモリア・チレーナ」でデジタル版を閲覧できます。作品の大半は、それ以前にチリの新聞に掲載されており、1886年12月の「青い鳥」から1888年6月の「白い鳩と褐色のサギ」に及びます。初版の収録作の数え方は資料によって少し異なりますが、9編の物語、「チリにて」の散文スケッチ、少数の詩が収められていました。

ダリオは1889年初めにチリを離れました。エルサルバドルで過ごした後、1890年に政治的暴力から逃れてグアテマラに落ち着き、同年、改訂・増補した第2版を出版しました。「中国の皇后の死」「耳の聞こえないサテュロス」「星に」の3編の物語、チリの叙事詩の伝統に登場するマプチェ人の指導者を題材にした「カウポリカン」や「ヴィーナス」を含む「黄金のソネット」、ルコント・ド・リール、カチュール・マンデス、ウォルト・ホイットマンら詩人の肖像をソネットで描く6編の「メダリオン」、フランス語の詩3編、著者による注34件が加わりました。バレーラの書簡が序文となり、デ・ラ・バラの序文は後書きに移されました。

後の版でも本はさらに変わりました。ブエノスアイレスの新聞『ラ・ナシオン』が1905年に刊行した版では、献辞、デ・ラ・バラの序文、フランス語の詩、注が削除されました。そのため現代の校訂版は、どの版を採用するか選ばなければなりません。多くは1890年の増補版かそれ以降の本文に従っています。つまり、今日の多くの読者が知る本は、バルパライソで最初に印刷された本と少し異なります。

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中級

影響と遺産

『青…』によって、ダリオは新しい文学世代を代表する存在になりました。後の著作『俗なる詩』(1896年、ブエノスアイレス)と『生と希望の歌』(1905年、マドリード)はモデルニスモを確立しました。また、彼は『ラ・ナシオン』の特派員として南北アメリカとヨーロッパを広く旅し、自らの活動を通じて影響を広めました。

モデルニスモは、ラテンアメリカに生まれ、スペイン本国の文学をも変えた、最初期の文学運動の一つです。ダリオは1892年と1898年以降にスペインを訪れ、ラモン・デル・バリェ=インクラン、マヌエルとアントニオのマチャード兄弟、フアン・ラモン・ヒメネスらの詩人・作家に刺激を与えました。批評家はこれを、文学上の革新がアメリカ大陸からスペインへと渡る、植民地時代の流れの逆転として捉えることがあります。

イスパノアメリカのモデルニスモは、T・S・エリオットやヴァージニア・ウルフらによる、後の英語圏の「モダニズム」や、建築におけるカタルーニャのムダルニズマと混同すべきではありません。およそ1880年から1915年にかけて、スペイン語文学の言葉、リズム、イメージを刷新しようとした運動です。

ニカラグアではダリオは国民的英雄で、生まれた町には彼の名が付いています。「ブルジョワの王」や「マブ女王のベール」などの物語は、今もスペイン語圏の学校で広く読まれています。

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研究上の論争

『青…』はモデルニスモの始まりだったのか。オクタビオ・パスやアンヘル・ラマを含む多くの批評家、そしてダリオ自身は、この本を運動の出発点と見なしました。一方、ホセ・マルティ、マヌエル・グティエレス・ナヘラ、フリアン・デル・カサル、ホセ・アスンシオン・シルバらの先行作品を重視し、一冊の本や一人の天才の功績ではなく、作家たちのつながりとしてモデルニスモを捉える研究者もいます。1888年は象徴的な年となりましたが、現在の歴史研究の多くは、運動が1880年代に徐々に現れたと説明しています。

模倣か、創造的な取り込みか。バレーラが「精神的なフランス語かぶれ」と評したことから、モデルニスモはフランス文学に依存した模倣なのかという長い議論が始まりました。後の批評家たちは、ダリオは模倣したのではなく、ヨーロッパの形式を取り込み、フランス、スペイン、古典、アメリカ大陸の素材を組み合わせて、イスパノアメリカの立場から新しいものを生み出したと論じました。この議論は、ラテンアメリカにおける文化的依存と独創性という、より広い問題にもつながります。

象牙の塔か、社会批判か。かつてはモデルニスモを、現実から離れた「芸術のための芸術」という現実逃避的な文学と見る見方がありました。これに対し、アンヘル・ラマは影響力のある研究書『ルベン・ダリオとモデルニスモ』(1970年)で、ラテンアメリカ経済の近代化への応答として読みました。その過程で作家は、市場で作品を売る職業人になったというのです。この視点からは、「ブルジョワの王」や「荷包み」は本書の周辺ではなく中心に位置します。

どの本文を読むべきか。ダリオは1890年とその後に本を改訂・再編し、多くの作品は新聞に先に掲載されました。そのため本文研究者は、新聞掲載版、1888年版、1890年版、その後の再版を調べ、各時点のダリオの意図をどの版が最もよく表すかを問い続けています。ラウル・シルバ・カストロによる『青…』成立史の研究(1958年)は、この分野の先駆的な仕事でした。

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資料と研究方法

主な一次資料は初版と第2版の本そのもの、『ラ・エポカ』や『エル・エラルド』などチリの新聞に掲載された各作品の初出本文、そしてダリオの書簡です。チリ国立図書館が公開する1888年版のデジタル画像により、綿密な比較が可能になっています。

ダリオ自身が後年に書いた記述、特に『自伝』と随筆「私の本の歴史」は重要ですが、批判的に読む必要があります。有名になってから数十年後に書かれたもので、スペイン語を刷新した孤独な天才という伝説に沿うよう、若いころの物語が形づくられているためです。

バレーラの「アメリカ書簡」は、当時のスペイン文学界がイスパノアメリカの作品をどう見ていたかを示す重要な受容資料です。現代の研究ではチリの新聞資料も用い、サンティアゴとバルパライソでダリオを支えた友人や後援者のつながりを再構成しています。その中にはペドロ・バルマセダ・トロ、エドゥアルド・デ・ラ・バラ、エドゥアルド・ポワリエがいます。

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重要なポイント

モデルニスモ
およそ1880~1915年のスペイン語文学運動。音楽的なリズム、豊かなイメージ、国際的な題材を通じて詩と散文を刷新した。
青(アスル)
ダリオにとって夢、芸術、古典世界を表す色。題名は、美と想像力への転換を告げている。
芸術家とブルジョワ社会の対立
本書の中心的な対立。美に身を捧げる詩人と、金銭や実用性だけを重んじる社会との衝突。
国際性
古代ギリシャ、パリ、中国、チリの舞台や題材を混ぜ合わせ、イスパノアメリカ文学をより広い世界につなげること。
高踏派の影響
完成された彫刻的な形式と「芸術のための芸術」を重んじるフランスの理想を、ダリオはスペイン語の文学に取り入れた。
散文詩
詩のようなリズム、イメージ、強さを持つ散文。『青…』が普及に貢献した技法。
韻律の刷新
1890年版で導入されたアレクサンドランによるソネットなど、スペイン語で新しい、または再び使われるようになった詩形の活用。

記録

  1. 1867年 — 1月18日、フェリックス・ルベン・ガルシア・サルミエント(ルベン・ダリオ)がニカラグアのメタパに生まれる。
  2. 1882年 — ホセ・マルティが『イスマエリージョ』を出版。モデルニスモの初期の兆しと見なされることが多い。
  3. 1886年 — ダリオが6月にチリのバルパライソに到着し、チリの新聞に寄稿し始める。
  4. 1887年 — ダリオがサンティアゴで『アブロホス』を出版し、フェデリコ・バレーラが後援するチリの詩のコンクールで賞を分け合う。
  5. 1888年 — 『青…』がバルパライソで印刷される(7月)。フアン・バレーラがマドリードの『エル・インパルシアル』で書評する(10月)。
  6. 1889年 — ダリオがチリを離れ、ブエノスアイレスの新聞『ラ・ナシオン』への寄稿を始める。
  7. 1890年 — 『青…』の増補第2版がグアテマラで出版され、バレーラの書簡が序文となる。
  8. 1896年 — 『俗なる詩』がブエノスアイレスで刊行され、モデルニスモの頂点を示す。
  9. 1905年 — 『生と希望の歌』がマドリードで出版される。『ラ・ナシオン』が『青…』の改訂版を刊行する。
  10. 1916年 — ダリオが2月6日、ニカラグアのレオンで死去する。

用語集

モデルニスモ
およそ1880~1915年のイスパノアメリカの文学運動。英語圏のモダニズムとは異なる。
高踏派
19世紀後半のフランスの詩の運動。完成された形式、客観性、芸術のための芸術を重んじた。
象徴主義
イメージと言葉の音楽性によって、気分や隠れた意味を暗示しようとしたフランスの運動。
アレクサンドラン
長い詩行。二つの半分に分かれ、フランス語では12音節、スペイン語では通常14音節と数える。
ソネット
決まった押韻形式を持つ14行の詩。
序文
本の冒頭に置かれる紹介文。別の作家が書くことも多い。
ガリシスム
フランス語から借りた語、表現、または考え方。
クロニカ(時評)
取材記事、随筆、文学的散文を組み合わせた新聞のジャンル。モデルニスモの作家たちの活動で重要な役割を果たした。

よくある質問

「アスル」とはどういう意味ですか?

スペイン語で「青」という意味です。ダリオは、自分にとって青は夢、芸術、古代ギリシャの色だと述べました。

ニカラグア出身の作家の本が、なぜチリで出版されたのですか?

ダリオは仕事と作家としての道を求めて、1886年に19歳でチリへ移りました。そこで本を書き、1888年にバルパライソで出版しました。

『青…』は詩ですか、それとも散文ですか?

両方です。短編小説、散文スケッチ、詩が収められています。散文にも詩のようなリズムとイメージがあります。

本の中で最も有名な物語は何ですか?

広く読まれている作品の一つが「ブルジョワの王」です。芸術に関心のない王の庭で、詩人が凍死する物語です。

モデルニスモとモダニズムは同じですか?

いいえ。イスパノアメリカのモデルニスモ(およそ1880~1915年)は、スペイン語文学の言葉と音楽性の刷新を目指しました。英語圏のモダニズムは、それより後の別の運動です。

なぜこの本には異なる版があるのですか?

ダリオは1890年にグアテマラで出した第2版を改訂し、物語、ソネット、フランス語の詩、注を加えました。後の版ではさらに削除も行われたため、研究者は各版を注意深く比較しています。

『青…』は本当にモデルニスモを始めたのですか?

草創期を代表する本とよく呼ばれますが、批評家たちはホセ・マルティやマヌエル・グティエレス・ナヘラなど、先行する作家も挙げています。多くは、運動が1880年代に徐々に現れ、『青…』がその重要な節目になったと考えています。

出典・参考文献

  1. Azul…. Wikipedia (Spanish)
  2. Azul.... Wikipedia
  3. Rubén Darío. Wikipedia
  4. Modernismo. Wikipedia
  5. Azul de Rubén Darío. Memoria Chilena, Biblioteca Nacional de Chile
  6. Azul... (Valparaíso: Imprenta y Litografía Excelsior, 1888), digital copy. Memoria Chilena, Biblioteca Nacional de Chile
  7. Rubén Darío; ed. Arturo Ramoneda, Azul... Edición de Arturo Ramoneda (introduction, sample chapter). Alianza Editorial, 2022
  8. Ángel Rama, Rubén Darío y el modernismo, 1970

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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