文学

マシャード・ジ・アシス

Joaquim Maria Machado de Assis

1839–1908年 · リオデジャネイロ(ブラジル帝国の首都、1889年からは共和国の首都)

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ひとことで

マシャード・ジ・アシス(1839~1908)は、アフリカ系とポルトガル系の血を引くブラジルの作家で、リオデジャネイロの貧しい家庭に育ち、ほぼ独学で学び、ブラジル文学アカデミーの初代会長となりました。『ブラス・クーバスの死後の回想』や『ドン・カズムッホ』のような皮肉に満ちた遊び心のある小説を書き、それらは今では世界中で読まれています。

マシャード・ジ・アシス
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最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

語り手がもう死んでいて、お墓の中から冗談を言いながら自分の一生を話してくれる本を想像してみてください。これは、ブラジルで最も有名な小説の一つです。マシャード・ジ・アシスという人が書き、1881年に一冊の本として出版されました。

マシャードは1839年、リオデジャネイロという町の丘の上で生まれました。家族は貧しい暮らしをしていました。お父さんの両親は奴隷にされていて、のちに自由になった人たちでした。お母さんは、大西洋に浮かぶポルトガルの島々、アゾレス諸島の出身でした。マシャードが学校に通った期間はとても短かったのですが、本が大好きで、自分の力で勉強しました。

10代のころ、彼は印刷所で働き、ページを印刷するために小さな金属の文字を一列ずつ並べていました。その後、新聞に記事を書き、30年以上も政府の役所で働きました。詩や劇、短い物語、新聞のコラム、そして9つの長編小説を書きました。

彼の小説の一つ『ドン・カズムッホ』では、やきもち焼きの夫が、妻との結婚生活を振り返って話します。夫は、妻のカピトゥが浮気をしたと信じこんでいますが、確かな証拠は一度も示しません。カピトゥは本当に浮気をしたのでしょうか。それとも、語り手は自分自身も、読者のわたしたちもだましているのでしょうか。読者は今でも、この問いについて話し合っています。

マシャードが生きていたのは、ブラジルでまだ奴隷制が認められていた時代でした。奴隷制は1888年になってやっと終わりました。彼にはアフリカ系とヨーロッパ系の祖先がいましたが、後になって、多くの写真や彼についての話では、白人であるかのように伝えられました。今、人々は本当の彼の姿を伝えようと取り組んでいます。

ひと目でわかる

生没
1839年6月21日~1908年9月29日。リオデジャネイロ(当時はブラジル帝国の首都、1889年からは共和国の首都)
出自
リヴラメントの丘(Morro do Livramento)に生まれる。父は家屋塗装工で、父方の祖父母は奴隷身分から解放された人々。母はアゾレス諸島出身の洗濯婦
アイデンティティ
アフリカ系とポルトガル系の混血で、ブラジルの用語ではパルド(pardo)とされる。それにもかかわらず死亡証明書には「白人」と記された
職業
見習い植字工、校正係、ジャーナリスト、批評家。1867年から公職につき、1873年からは農業・商業・公共事業省とその後継官庁に勤めた
代表作
『ブラス・クーバスの死後の回想』(1881)、『キンカス・ボルバ』(1891)、『ドン・カズムッホ』(1899)、『エサウとヤコブ』(1904)。短編「精神科医」「真夜中のミサ」「父対母」
組織
1897年に発足したブラジル文学アカデミーの初代会長を、亡くなるまで務めた
言語
ポルトガル語(ブラジル)
知られている点
信頼できない語り手、皮肉、脱線、そして読者に直接語りかけること

やさしい

マシャード・ジ・アシスとはだれか

ジョアキン・マリア・マシャード・ジ・アシスは、リオデジャネイロ出身の作家で、ブラジル文学の最も偉大な人物と広くみなされています。彼は19世紀の作家が手がけることのできたほとんどあらゆる形式で書きました。詩、戯曲、演劇批評と文学批評、翻訳、何百もの短編小説、クロニカ(crônica)と呼ばれる何百もの新聞コラム、そして9つの長編小説です。

彼の生涯は異例のものです。奴隷制がまだ合法だった時代に、アフリカ系とポルトガル系の貧しい家庭に生まれ、学校教育はほとんど受けられず、少年のころから印刷業で働きはじめました。それが生涯の終わりには、高位の官僚であり、ブラジル文学アカデミーの初代会長になっていたのです。

彼が最もよく知られているのは1880年以降に書いた長編小説です。その語り手たちは読者に直接話しかけ、冗談を言い、自分の話を途中で中断し、その語りはいつも信頼できるとは限りません。そのユーモアの背後には、奴隷制と縁故の上に築かれた社会で快適に暮らすリオデジャネイロの裕福な家族たちの姿が、鋭く描かれています。

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やさしい

リヴラメントの丘の少年

マシャードは1839年6月21日、リオデジャネイロの港に近いリヴラメントの丘にある、裕福な未亡人マリア・ジョゼ・ジ・メンドンサ・バホーゾ・ペレイラの所有地で生まれました。彼女はマシャードの代母(名づけ親)になりました。彼は幼いころをその所有地で過ごしました。

父フランシスコ・ジョゼ・ジ・アシスは家屋の塗装と金箔張りの職人で、その両親は奴隷にされたのちに解放された人々でした。母マリア・レオポルジーナ・マシャード・ダ・カマラは、アゾレス諸島出身の洗濯婦でした。マシャードはまだ子どものうちに妹を、ついで母を亡くしました。父はのちに再婚しました。

彼は正規の学校教育をほとんど受けませんでした。伝記作者たちは彼を、意志の強い、ほぼ独学の読書家として描いています。ラテン語やフランス語を非公式に習ったという話も伝えられていますが、その細部は不確かです。15歳で初めて詩を発表しました。1856年、およそ17歳のとき、政府の印刷所である国立印刷局(Imprensa Nacional)の見習い植字工となり、作家たちのたまり場だったフランシスコ・ジ・パウラ・ブリトの書店兼印刷所にも出入りしました。

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やさしい

読者と遊ぶ物語

マシャードの最も有名な長編小説『ブラス・クーバスの死後の回想』(Memórias Póstumas de Brás Cubas)は、一つの冗談から始まります。その語り手は、死んだ作家ではなく、作家になった死者だというのです。もうだれにもよく思われる必要がないので、彼は自分のわがままで気楽な人生について、真実をすべて語ると言います。

『ドン・カズムッホ』は、ベント・サンチアゴという年配の男性によって語られます。彼は、隣の家の少女カピトゥへの幼いころの恋と、二人の結婚を振り返ります。彼の語るところによれば、彼は二人の息子が親友のエスコバルに似ていると確信するようになりました。しかし、わたしたちの手もとにあるのはベントの言葉だけです。この本が有名なのは、カピトゥが彼を裏切ったのか、それとも彼の嫉妬が裏切りをつくり出したのかを、読者に判断させるからです。

彼の短編小説も同じくらい巧みです。一度目は物語を楽しみ、読み返すときには、権力、お金、真実について作品が投げかける問いを考えることができます。

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中級

植字工、ジャーナリスト、官僚

印刷所から、マシャードはジャーナリズムの世界に移りました。1858年には『コヘイオ・メルカンチル』(Correio Mercantil)の校正係として働いており、1860年には『ジアリオ・ド・リオ・ジ・ジャネイロ』(Diário do Rio de Janeiro)の編集部に加わって、報道記事、演劇批評、コラムを書きました。1860年代には詩集(『さなぎ』〔Crisálidas〕、1864年)や戯曲も発表し、ヴィクトル・ユゴーの『海に働く人びと』を翻訳しました(1866年)。

書くことだけでは生活できる収入は得られず、当時の多くのブラジルの作家と同じように、彼は公職に安定を見いだしました。1867年に官報『ジアリオ・オフィシアル』(Diário Oficial)の局長補佐として最初の職についたあと、1873年に農業・商業・公共事業省の職員として採用されました。帝政期、そして共和政期を通じて、30年以上にわたり省庁で勤務し、高位の行政職にまで昇りました。

1869年11月12日、彼はカロリーナ・アウグスタ・シャヴィエル・ジ・ノヴァイスと結婚しました。彼女はポルトガル生まれで、友人の詩人ファウスティーノ・シャヴィエル・ジ・ノヴァイスの妹でした。子どものいなかったこの結婚は35年続き、同時代の人々は二人の仲がとても親密だったと伝えています。カロリーナは1904年10月20日に亡くなりました。深く打ちのめされたマシャードは、その後4年生きました。

伝記作者や医学関係の著述家たちは、マシャードにてんかんがあり、晩年にそれが悪化したという点で一致しています。また、吃音があり、内気だったとも伝えられています。1870年代の終わりに重い病気にかかって長い療養を余儀なくされ、多くの批評家は、その後に起きた作風の変化をこの危機と結びつけていますが、そうした結びつけはあくまで解釈にとどまります。

1896~97年、ルシオ・ジ・メンドンサが率いる作家たちのグループが、ブラジル文学アカデミー(Academia Brasileira de Letras)を設立しました。マシャードは1897年1月にその会長に選ばれ、1897年7月20日の正式な発足式を主宰しました。彼は亡くなるまでアカデミーを率い、ほとんどすべての会合に出席し、君主制支持者と共和主義者、ロマン主義者と自然主義者を、機転によって一つにまとめました。

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中級

ロマン主義の小説から「円熟期」のマシャードへ

批評家たちはふつう、マシャードの長編小説を二つのグループに分けます。最初の4作、『復活』(Ressurreição、1872)、『手と手袋』(A Mão e a Luva、1874)、『エレナ』(Helena、1876)、『ヤヤ・ガルシア』(Iaiá Garcia、1878)は、しばしばロマン主義期の作品と呼ばれます。恋の筋書き、遺産、結婚をめぐって駆け引きをする若い女性たちが描かれますが、そこにはすでに、社会的野心やパトロンへの依存に対する鋭いまなざしがあります。

1880年に『レヴィスタ・ブラジレイラ』(Revista Brasileira)に連載され、1881年に本として刊行された『ブラス・クーバスの死後の回想』は、はっきりとした断絶を示しています。160の短い章は話題から話題へと飛び移り、ある章は二人の恋人の「対話」を点と句読点だけで書いています。語り手は読者と自分自身をからかいます。本は有名な苦い決算書で締めくくられます。「Não tive filhos, não transmiti a nenhuma criatura o legado da nossa miséria.(わたしには子がなかった。わたしはどんな生き物にも、われわれの悲惨という遺産を伝えなかった)」。

1886年から雑誌『ア・エスタサン』(A Estação)に連載され、1891年に本として刊行された『キンカス・ボルバ』は、風変わりな哲学者キンカス・ボルバの財産を相続し、リオの社交界によって破滅させられる地方の教師ルビアンを追います。キンカス・ボルバのまがいものの哲学「ウマニチズモ」(Humanitismo)は、その残酷な論理を「Ao vencedor, as batatas!(勝者には、じゃがいもを!)」という標語にまとめています。当時流行していた社会ダーウィニズムと実証主義のパロディーです。

『ドン・カズムッホ』(1899)は、ブラジルで最も広く読まれている小説の一つであり、カピトゥをめぐる果てしない議論の源です。『エサウとヤコブ』(1904)は、一人は君主制支持者、もう一人は共和主義者という双子の兄弟が、君主制の崩壊をはさんで争い続ける物語です。それは退職した外交官アイレス顧問官の手帳を通して語られ、アイレスはマシャード最後の長編小説『アイレスの覚え書き』(Memorial de Aires、1908)で日記の書き手として再び登場します。

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中級

短編小説とクロニカ

マシャードは200を超える短編小説を書き、そのほとんどはまず新聞や雑誌に掲載され、のちに『散らばった紙』(Papéis Avulsos、1882)、『日付のない物語』(Histórias sem Data、1884)、『さまざまな物語』(Várias Histórias、1896)、『拾い集めたページ』(Páginas Recolhidas、1899)、『古い家の形見』(Relíquias de Casa Velha、1906)といった短編集にまとめられました。批評家たちはしばしば、彼によってブラジルの短編小説は新たな可能性に到達したと言います。

「精神科医」(O Alienista、1881~82年連載)は、科学の権威を風刺しています。シモン・バカマルテ博士の精神病院「カーザ・ヴェルデ」(緑の家)はイタグアイの町の住民の大半をのみこみ、やがて博士は、本当に異常なのは自分一人だけだと結論します。「真夜中のミサ」(Missa do Galo、1894)には、筋らしい筋がほとんどありません。ある男が、17歳だったクリスマス・イブの夜更けに30歳の女性と交わした会話を思い出しますが、それが何を意味していたのか、今でも言うことができないのです。

『古い家の形見』(1906)に収められた「父対母」(Pai contra Mãe)は、奴隷制を最も直接的に扱った作品の一つです。物語は、奴隷制とともに、それに伴う職業や道具も消えていったと述べるところから始まります。そうした道具の例が、一部の奴隷にかぶせられたブリキの仮面です。続いて、逃亡奴隷を捕まえる貧しい男カンジド・ネヴェスの姿を描きます。生まれたばかりの息子を捨て子院に手放そうとしていた彼は、懸賞金めあてに、身ごもった逃亡奴隷の女性アルミンダを捕らえます。彼女は流産し、彼は自分の子どもを手もとに残します。物語は、ぞっとするような皮肉をこめた一文で終わります。「Nem todas as crianças vingam.(すべての子どもが育つわけではない)」。

マシャードはまた、論評と逸話と虚構を混ぜ合わせた短い新聞コラム、クロニカの名手でもありました。どちらも『ガゼタ・ジ・ノチシアス』(Gazeta de Notícias)に掲載された連載「ボンス・ジアス!」(Bons Dias!、1888~89)と「ア・セマナ」(A Semana、1892~97、毎週日曜日のコラム)は、奴隷制廃止、共和国、金融投機、都市生活を論じました。奴隷制廃止の6日後の1888年5月19日のコラムでは、語り手が、法律より先に自分の奴隷パンクラシオを解放したと自慢し、それからごくわずかな賃金で彼を雇い入れて、身体的な虐待を続けます。元奴隷所有者たちの自画自賛を風刺したものです。

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中級

信頼できない語り手、皮肉、そして読者

マシャードの語り手たちは、信頼できない語りの名高い例です。ブラス・クーバスとベント・サンチアゴは一人称で自分の物語を語りますが、彼らが自分について明かすことは、しばしば彼らの意図とは違っています。読者は、隙間や矛盾や自分に都合のよい言い訳に気づくよう誘われ、読むことは一種の探偵の仕事になります。

重要な仕掛けの一つは、読者への直接の呼びかけです。語り手たちは絶えず「読者」に話しかけ、おだてたり侮辱したりし、反論を先回りし、章を飛ばせとか前に戻れとか言います。『ブラス・クーバス』の冒頭の「読者へ」は、本が気に入らなければ、「com um piparote, e adeus(指でぴんとはじいて、さようなら)」という形で読者にお返しする、という約束で終わります。この遊び心は、まじめな論点を隠しています。読者が魅力的な声をどれほどたやすく受け入れてしまうかを見せつけているのです。

マシャードは自分の手本をはっきり名指ししました。『ブラス・クーバス』の初版は、語り手が「a forma livre de um Sterne, de um Lamb, ou de um de Maistre(スターンやラムやド・メーストルの自由な形式)」を採用したと述べています。これはローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』、チャールズ・ラム、そしてグザヴィエ・ド・メーストルの『部屋をめぐる旅』を指しています。後の版ではスターンとド・メーストルだけが残ります。後に書かれた序文は、ポルトガルの作家アルメイダ・ガレットを加えています。「Toda essa gente viajou: Xavier de Maistre à roda do quarto, Garrett na terra dele, Sterne na terra dos outros.(この人たちはみな旅をした。グザヴィエ・ド・メーストルは自分の部屋をめぐり、ガレットは自分の国を、スターンは他人の国を)」。セルジオ・パウロ・ルアネのような学者たちは、脱線、断ち切られた時間、笑いと憂鬱の混合を特徴とするこの「シャンディ風」の形式を、マシャードの作品全体にたどっています。

ブラス・クーバスは自分の本を「com a pena da galhofa e a tinta da melancolia(あざけりのペンと憂鬱のインクで)」書いたと述べています。表面は軽やかで、その奥には暗さがあるという二重の調子は、円熟期のマシャードの文体を簡潔に説明するうえで、最も的確な表現です。

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中級

奴隷制、人種、そして「白人化」

マシャードは生涯の大半を奴隷制社会で過ごしました。ブラジルの奴隷制は1888年5月13日の黄金法(Lei Áurea)によってようやく終わり、そのとき彼は49歳近くになっていました。1870年代と1880年代、官僚として、彼は農業省のなかで、奴隷の女性から生まれた子どもを自由とした1871年の出生自由法の適用を担当する課を率いていました。歴史家シドニー・シャルフーブは公文書館で、マシャードがこの職務において、自由を求める奴隷の人々に有利な法解釈を探っていたことを発見しました。

彼の小説では、奴隷制は演説としてよりも、日常生活の背景や、ぞっとするほど何気ない瞬間のなかに現れます。『ブラス・クーバス』では、語り手が、子どものころに奴隷の少年プルデンシオに馬のようにまたがって遊んだことを思い出します。その後彼は、ブラスの父によって解放されたプルデンシオが、自分で買った男を鞭打ちながら、かつてブラスが彼に浴びせたのと同じ言葉を叫んでいるのを目にします。ブラスはぞっとするほど冷淡に、これはプルデンシオが、自分の受けた暴力を他人に加えることで、その痛みから逃れようとする彼なりのやり方だったのだと述べます。

マシャードは自分の肌の色について公の場で書くことがほとんどなく、彼がどう描写されるかは、描写する人によって変わりました。友人の批評家ジョゼ・ヴェリッシモは追悼文で彼を「ムラート」と呼びましたが、外交官ジョアキン・ナブコはヴェリッシモに手紙を書き、自分ならその言葉は使わなかった、それは侮蔑的な言葉だとして、削除を求めました。死亡証明書には彼が白人と記録されています。また、最もよく知られた写真の多くについて、後の批評家たちは、照明や複製によって彼の容貌が実際より白人に近く見えるようになったと論じています。

この「白人化」の歴史は、21世紀に公の問題となりました。2011年9月、国営銀行の連邦貯蓄銀行(Caixa Econômica Federal)は、創立150周年のテレビ広告で白人の俳優にマシャードを演じさせたことについて、連邦政府の人種平等促進特別局(SEPPIR)や市民からの苦情を受けて、その広告を取り下げました。銀行は、この作家をアフリカ系ブラジル人として描かなかったことを謝罪しました。2019年には、黒人学生に重点を置くサンパウロの大学、ズンビ・ドス・パルマーレス大学が「本当のマシャード・ジ・アシス」(Machado de Assis Real)キャンペーンを始め、1893年の写真に色をつけ直して彼のアフリカ系の顔立ちを示し、出版社にその画像を使うよう求めました。

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中級

同じころ世界では

最後の大きな奴隷解放。ブラジルは、アメリカ大陸で最後に奴隷制を廃止した国でした。ロシア帝国は1861年に皇帝の勅令によって私有の農奴を解放し、アメリカ合衆国は1863年の奴隷解放宣言ののち、1865年の憲法修正第13条で奴隷制を廃止していました。ブラジルは1871年の出生自由法のような段階的な措置を通じてよりゆっくりと進み、そのあとで二条だけの黄金法が1888年に約70万人を解放しましたが、彼らに土地や仕事や社会での居場所を与える措置は何もありませんでした。1888年5月のマシャードのコラムは、この瞬間への同時代の反応であり、パンクラシオの「気前のよい」主人への風刺は、多くの歴史家が強調する問題を指し示しています。土地も仕事も実効的な保護もない、紙の上だけの自由です。

帝政から共和政へ。18か月後の1889年11月15日、デオドロ・ダ・フォンセカ元帥が率いる陸軍部隊がリオデジャネイロで君主制を打倒し、皇帝ペドロ2世は2日後にヨーロッパへの亡命に旅立ちました。皇帝から勲章を授けられた官僚であったマシャードは、新体制のもとでもその職にとどまりました。彼はこの変化に、宣言文ではなく皮肉によって向き合いました。君主制の崩壊をまたいで展開する『エサウとヤコブ』は、双子の騒々しい政治的対立がより深い類似を覆い隠していることを示唆する作品として、しばしば読まれてきました。

大西洋をまたぐリアリズム。1878年4月16日、マシャードは「エレアザール」という筆名で、リオの新聞『オ・クルゼイロ』(O Cruzeiro)に、ポルトガルの作家エッサ・デ・ケイロスの小説『従兄バジリオ』(O Primo Basílio)を酷評する「リアリズム文学」と題した書評を発表しました。同じ月のうちに二つ目の記事が続きました。彼は、この本の説得力のない筋立てと官能への偏りを攻撃し、そのヒロインのルイザをフローベールのエンマ・ボヴァリーに劣ると評し、こうした本はポルトガル語のリアリズムを「no berço(揺りかごのうちに)」絞め殺しかねないと警告しました。これは記録に残る実際のつながりです。マシャードはフランスとポルトガルから来たリアリズムと自然主義に自分を照らし合わせ、新聞紙上での活発な論争を巻き起こしました。3年後、『ブラス・クーバス』は彼自身の代案を示しました。世界の細かな目録の上にではなく、語り手の精神の上に築かれた小説です。

二つのラテンアメリカ文学の世界。ブラジルで奴隷制が廃止された1888年、ニカラグアの詩人ルベン・ダリオはチリのバルパライソで『青…』を刊行し、スペイン語圏アメリカのモデルニスモの幕開けに貢献しました。二つの文学は大部分、互いに離れて発展しました。1990年、スーザン・ソンタグは、マシャードはスペイン語圏ラテンアメリカではほとんど読まれておらず、ボルヘスも彼を読んだことはなかったようだと指摘しました。もっとも後の読者たちは、二人の虚構をめぐる遊びをしばしば比較しています。

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さまざまな視点

カピトゥはベンチーニョを裏切ったのか。1899年以降およそ60年間、ブラジルと外国の批評家たちは、おおむねベント・サンチアゴの言い分を受け入れていました。カピトゥは有罪だというのです。1960年、1953年に『ドン・カズムッホ』の最初の英訳を刊行したアメリカの研究者・翻訳者ヘレン・コールドウェルは、『マシャード・ジ・アシスのブラジルのオセロ』で、ベントは信頼できない語り手であり、その嫉妬はオセロの嫉妬を映したもので、彼の証拠はもろく、カピトゥは無実だと論じました。エリオ・ジ・セイシャス・ギマランイスが研究した書簡は、コールドウェルと彼女の編集者セシル・ヘムリーが、すでに1952年にこの読み方について議論していたことを示しています。後の批評家たちがみな彼女の無罪の判定を受け入れたわけではありません。なおも有罪を主張する人もいましたし、多くの人は、むしろ決定不可能性を強調するようになりました。この小説は、ベントの証言からはその問いに決着がつけられないように組み立てられており、今では多くの読者が、問いそのものこそが要点だと考えています。

社会問題に背を向けたのか、それとも作品に批判を忍ばせたのか。マシャードの死の直後、エメテリオ・ジョゼ・ドス・サントスは『ガゼタ・ジ・ノチシアス』(1908年11月)で、彼が自分の出自を否定し、奴隷制の問題から距離を置いていたと非難しました。国家の大きな問題から「不在」だった作家というイメージは、長いあいだ残りました。1930年代のマリオ・カササンタや1950年代のR・マガリャンイス・ジュニオールといった批評家は、忘れられていた文章をもとにこうした像を退けました。より最近では、シドニー・シャルフーブ(『歴史家マシャード・ジ・アシス』、2003年)が彼の小説を官僚としての仕事と並べて読み、エドゥアルド・ジ・アシス・ドゥアルテは、アンソロジー『アフリカ系の子孫マシャード・ジ・アシス』(2007年)に短編、詩、コラムを集めて、意図的な「偽装の詩学」、つまり白人の奴隷所有者社会に対する皮肉で遠回しな批判を論じました。ドゥアルテはブラス・クーバスの死さえ政治的に読んでいます。マシャードは「奴隷制廃止の8年前に奴隷所有者を殺している」というのです。ほかの批評家たちは慎重な姿勢を保ち、マシャードが自分の黒人性に触れることはまれであり、「黒人作家」や「ムラート作家」といったラベルは、彼自身の自己理解と同じくらい現代の範疇を反映していると指摘しています。

彼は正典のどこに属するのか。1990年に『ニューヨーカー』に寄稿したスーザン・ソンタグは、マシャードを「ラテンアメリカがこれまでに生んだ最も偉大な作家」と呼び、ボルヘスを2番目に挙げました。ハロルド・ブルームは『ジーニアス』(2002年)で、彼を「これまでで至高の黒人文学芸術家」と呼びました。こうした称賛は新しい読者を引きつけましたが、批判も受けています。批評家イラン・スタヴァンスは、文学は競争ではないとして、ソンタグの順位づけを「大げさ」と呼び、ブルームはマシャードを誤って描いたと述べました。マシャードは作品のなかで、彼自身の黒人としての出自にほとんど言及していない、というのです。ブラジルで特に影響力のある現代の解釈は、ロベルト・シュワルツのものです。『資本主義の周縁の巨匠』(1990年、英訳2001年)で彼は、語り手の気まぐれな「移り気」(volubilidade)は、ヨーロッパの自由主義思想を奴隷制や縁故と結びつけていたブラジルの支配階級のふるまいを、文学の形式として再現していると論じています。この見方によれば、マシャードはたまたまブラジルに住んでいたヨーロッパ風の作家ではなく、その形式がブラジル社会から生まれ出た作家なのです。

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受容、翻訳、そして証拠

ブラジルでは、マシャードは生前から有名で、正典の中心を離れたことは一度もありません。国外では長いあいだ、作家たちが愛読する作家にとどまっていました。ウィリアム・L・グロスマンによる『ブラス・クーバス』の英訳は、1952年に『小さな勝者の墓碑銘』(Epitaph of a Small Winner)という題で出版され、ヘレン・コールドウェルは1953年に『ドン・カズムッホ』を、のちにほかのいくつかの長編小説も訳しました。2018年には、マーガレット・ジュル・コスタとロビン・パターソンが、生前に刊行された7つの短編集すべてを『マシャード・ジ・アシス短編全集』(The Collected Stories of Machado de Assis)として翻訳しました。

2020年には『ブラス・クーバス』の新しい英訳が2種類刊行されました。フローラ・トムソン=デヴォーが翻訳と注釈を手がけ、デイヴ・エガーズが序文を寄せたペンギン・クラシックス版は、2020年6月2日にアメリカで刊行され、ジョージ・フロイド殺害事件に続く抗議行動のさなか、約1日のうちにアマゾンとバーンズ・アンド・ノーブルで紙の本の在庫が売り切れました。ブラジルのメディアはこの出来事を広く報じました。トムソン=デヴォー自身は、理由は不確かだと強調しつつ、エガーズの序文や、有色人種の作家への関心の高まりが後押しした可能性を挙げています。

マシャードの生涯について、わたしたちは実際に何を知っているのでしょうか。証拠は主に、彼が発表した文章、新聞、官庁の公文書、そして限られた数の手紙から得られます。彼は自分の私生活や病気や出自について、ほとんど何も書きませんでした。初期の伝記のなかには彼のアフリカ系の出自を過小に描いたものもあり、記録そのものも食い違っています。「白人」と記した死亡証明書、「ムラート」と記した友人の追悼文、照明や印刷によって見え方が変わる写真。慎重な記述は、これらの史料のどれか一つを単純な真実として選ぶのではなく、並べて示すのです。

年代も史料によって少しずつ異なります。『ドン・カズムッホ』の扉には1899年とありますが、本が読者の手に届いたのは1900年初めでした。『ブラス・クーバス』と『キンカス・ボルバ』は最初に連載として世に出ました。「真夜中のミサ」は、最初に定期刊行物に掲載された1894年ではなく、1893年とされることもあります(短編集に収められたのは1899年)。この記事では、特に断らないかぎり、長編小説の年は最初の単行本の刊行年を、短編小説の年は最初の発表年を指しています。

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重要なポイント

信頼できない語り手
読者がその語りを完全には信じられない語り手。マシャードの一人称の語り手、とくにブラス・クーバスとベント・サンチアゴは、意図した以上のことを明かしてしまうので、読者は語り手の言葉を鵜呑みにせず、その説明を疑いながら読む必要がある。
皮肉と「pena da galhofa(あざけりのペン)」
マシャードはユーモアと憂鬱を組み合わせる。その冗談は、説教することなく、とくにリオの裕福なエリートたちの虚栄心、利己心、残酷さをあばき出す。
読者への呼びかけ
語り手たちは読者に話しかけ、からかい、その反応を先回りする。読むことを遊びに変え、説得がどのように働くのかを見せる。
「forma livre(自由な形式)」
スターン、グザヴィエ・ド・メーストル、ガレットから借りた、短い章、脱線、時系列に沿わない語り。マシャードはそれらをブラジルの舞台に合わせてつくり変えた。
ウマニチズモ(Humanitismo)
哲学者キンカス・ボルバが唱えるまがいものの哲学で、強者が弱者に勝つことを正当化する。社会ダーウィニズムと実証主義のパロディー。
背景としての奴隷制
奴隷制は、演説の形で論じられるよりも、日常の場面や何気ない暴力のなかに現れる。「父対母」や1888年のコラムなど、奴隷制を直接扱う作品もいくつかある。
曖昧さ
カピトゥが本当に不貞を働いたのか、「真夜中のミサ」のあの夜にはどんな意味があったのかといった重要な問いには、意図的に明確な答えが与えられていない。

記録

  1. 1839年 — 6月21日、リオデジャネイロのリヴラメントの丘で生まれる。
  2. 1856年 — 国立印刷局の見習い植字工となる。
  3. 1869年 — 11月12日、カロリーナ・アウグスタ・シャヴィエル・ジ・ノヴァイスと結婚する。
  4. 1873年 — 農業・商業・公共事業省の職員として採用される(公職についたのは1867年)。その後、30年以上にわたり省庁で勤務する。
  5. 1881年 — 1880年の連載を経て、『ブラス・クーバスの死後の回想』が本として刊行される。
  6. 1888年 — 5月13日、黄金法によって奴隷制が廃止される。マシャードのコラム「ボンス・ジアス!」が、さまざまな反応を風刺する。
  7. 1897年 — 1月に会長に選ばれたのち、7月20日、ブラジル文学アカデミーの正式な発足式を主宰する。
  8. 1899年 — 『ドン・カズムッホ』(扉に記載された刊行年)と、「真夜中のミサ」を収めた『拾い集めたページ』が刊行される。
  9. 1904年 — 『エサウとヤコブ』が刊行される。10月20日、カロリーナが亡くなる。
  10. 1908年 — 『アイレスの覚え書き』が刊行される。9月29日、マシャードがコズメ・ヴェーリョの自宅で亡くなる。
  11. 1960年 — ヘレン・コールドウェルの『マシャード・ジ・アシスのブラジルのオセロ』が、カピトゥの罪の問題を再び問い直す。
  12. 2020年 — 『ブラス・クーバス』の新しい英訳が出る。ペンギン・クラシックス版はアメリカで約1日のうちに売り切れる。

用語集

パルド(pardo)
異なる人種的背景の祖先をもつ人を指すブラジルの用語で、国勢調査や記録で使われる。マシャードはふつうこのように表現される。
クロニカ(crônica)
時事について論評、逸話、虚構を混ぜ合わせた、ブラジルに特徴的な短い新聞コラム。
フォリェチン(folhetim、新聞連載小説)
本として出版される前に、新聞や雑誌に分割して掲載される小説。
黄金法(Lei Áurea)
1888年5月13日にブラジルの奴隷制を廃止した「黄金の法」。短い二条からなる。
出生自由法
1871年9月28日の法律で、以後奴隷の女性から生まれる子どもを、条件つきで自由と宣言した。
ブラジル文学アカデミー(Academia Brasileira de Letras)
1896~97年に、アカデミー・フランセーズをモデルとしてリオデジャネイロに設立された。会員は40人。
信頼できない語り手
出来事を偏った見方で伝えたり、誤って伝えたり、意図的に読者を誤解させたりする可能性のある語り手。
白人化(embranquecimento)
アフリカ系の人々が、記録や画像や記憶のなかで、白人として、あるいはより明るい肌の人として示される社会的・視覚的な過程。
シャンディ風の形式
スターンの『トリストラム・シャンディ』にちなんで名づけられた、脱線の多い遊び心のある小説の書き方。

よくある質問

死者が語る本がなぜそんなに有名なのですか。

ブラス・クーバスが自分の死を口実にして、自分の虚栄心やまわりの社会について、驚くほど正直に、しかもおもしろく語るからです。この仕掛けによってマシャードは時間や読者と自由に遊ぶことができ、それは後の作家たちにとってとても現代的に見えました。

カピトゥはベンチーニョを裏切ったのですか。

どちらとも証明はできません。物語はすべて嫉妬深い夫ベントによって語られており、彼の証拠は、息子が友人エスコバルに似ていることや、葬儀でカピトゥがエスコバルの遺体を見つめた様子といった、曖昧な観察ばかりです。1960年のヘレン・コールドウェルの研究以来、多くの読者は、この小説はその問いを決定不可能にするよう設計されていると考えています。

マシャード・ジ・アシスは黒人だったのですか。

彼はアフリカ系とポルトガル系の混血でした。父方の祖父母は奴隷身分から解放された人々で、母はアゾレス諸島の出身でした。ブラジルの用語ではパルドでした。記録や画像は彼を白人のように見せましたが、今日では広くアフリカ系ブラジル人の作家と認められています。ただし、研究者によって使うラベルは異なります。

マシャードは奴隷制に反対したのですか。

彼は公の場で奴隷制廃止を訴える演説をしたことはなく、同時代の人々のなかにはそれを非難する人もいました。しかし、彼のコラムや短編は奴隷所有者を風刺しており、公文書の研究は、彼が官僚として、奴隷の人々が自由を得る助けとなる法解釈を主張していたことを示しています。

彼の文体に影響を与えたのはだれですか。

彼はローレンス・スターン、グザヴィエ・ド・メーストル、アルメイダ・ガレット(そして『ブラス・クーバス』の初版ではチャールズ・ラム)の名を挙げています。批評家たちはまた、古典、ポルトガル、フランス、イギリスの文学にわたる彼の幅広い読書も指摘しています。

なぜ彼は同時代のヨーロッパの小説家ほど国外で知られていないのですか。

彼が書いたのはポルトガル語で、それを知る外国の読者は比較的少なく、よい翻訳が出るのも遅かったからです。スーザン・ソンタグはまた、ブラジルとラテンアメリカに対する見下しも一因だと論じましたが、これには異論もあります。

最初に読むならどの本がよいですか。

多くの読者は『ドン・カズムッホ』か、「真夜中のミサ」や「精神科医」のような短編から読みはじめ、それから『ブラス・クーバス』に進みます。

出典・参考文献

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  2. A liderança de Machado de Assis. Academia Brasileira de Letras
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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