美術

モナ・リザ

La Gioconda / La Joconde

1503–1519年 · フィレンツェ(フィレンツェ共和国)

ひとことで

『モナ・リザ』は、レオナルド・ダ・ヴィンチが1503年ごろに描き始め、その後も長年手を加えた、フィレンツェの女性リザ・ゲラルディーニの小さな肖像画で、世界で最も有名な絵画となった。

モナ・リザ
画像: Leonardo da Vinci · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

500年以上前、イタリアのフィレンツェという町で、絹を売る商人フランチェスコ・デル・ジョコンドが、画家レオナルド・ダ・ヴィンチに妻のリザを描いてほしいと頼みました。レオナルドは絵を描き始めましたが、家族には渡しませんでした。一生持ち歩き、少しずつ筆を加えました。

絵はあまり大きくありません。学校にある大きなポスターを半分に折ったくらいです。キャンバスではなく、ポプラの木の薄い板に油絵の具で描かれています。

リザの顔をよく見てみましょう。口や目のまわりに、はっきりした線がありません。レオナルドは、煙がただようように色をやわらかく重ねました。そのため、絵のどこを見るかによって、ほほえみが変わるように見えます。この描き方を「スフマート」といいます。

リザの後ろには、曲がりくねった道や橋、岩山や水のある、夢のような景色が広がっています。遠くのものは色がうすく、青っぽく見えます。レオナルドはそのように描いて、景色に奥行きを出しました。

今、『モナ・リザ』はパリのルーヴル美術館で、厚い保護ガラスの向こうに飾られています。1911年に盗まれ、2年以上たってからフィレンツェで見つかりました。毎年何百万人もの人が見に来ます。この絵をまねた絵や、冗談に使った作品、絵を印刷した品物もたくさんあります。

ひと目でわかる

画家
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)
制作年代
1503年ごろにフィレンツェで着手。その後長年描き続け、1517年ごろ、あるいはそれ以降まで手を加えた可能性がある。完成年は不明
描かれた人物
一般に、フィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・ゲラルディーニ(1479~1542年)とされる
画材・支持体
ポプラ材の板に油彩
大きさ
約77 × 53 cm(ルーヴル美術館の目録では79.4 × 53.4 cm)
所蔵先
パリ、ルーヴル美術館(所蔵番号779)。16世紀からフランス王室のコレクションに入る
別名
ラ・ジョコンダ(イタリア語)、ラ・ジョコンド(フランス語)。「モナ」は「奥方」を意味する「マドンナ」の短縮形
主な特徴
スフマートによる立体表現、謎めいたほほえみ、空気感のある風景、現代における比類ない知名度

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『モナ・リザ』とは?

『モナ・リザ』は、イタリアの画家レオナルド・ダ・ヴィンチが木の板に油彩で描いた、座る女性の半身像である。女性は腰から上が描かれ、体をこちらへ少し向け、片方の手をもう片方の手の上に重ねている。暗い色の服を着て、髪にはごく薄い透明なベールをかけ、かすかにほほえみながら鑑賞者をまっすぐ見ている。

作品名は、16世紀にイタリアの芸術家たちの伝記を書いた画家・著述家ジョルジョ・ヴァザーリの記述に由来する。彼はこの絵を、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻「モナ・リザ」の肖像と呼んだ。「モナ」は「奥方」を意味する「マドンナ」の短縮形である。イタリア語の「ラ・ジョコンダ」とフランス語の「ラ・ジョコンド」は、ともにジョコンドという姓にちなみ、その語には「陽気な」「楽しい」という意味もある。

現在、この絵はフランス国家が所有し、パリのルーヴル美術館に展示されている。非常に有名で傷みやすいため、温湿度を管理したケースの防弾ガラスの向こうに置かれており、混雑の中で鑑賞できる時間は短いことが多い。

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絵の見方

まず顔を見てみよう。レオナルドは唇や目尻を鋭い輪郭線で囲まなかった。その代わり、ごく薄く、ほとんど透明な絵の具を何層も重ねて陰影を作り、光から影への移り変わりをなめらかにした。口元や目元がぼかされ、形がはっきりしないため、表情が変わるように見える。口を直接見ると笑みが薄れ、目を見ると再びほほえんでいるように感じられることがある。

次に姿勢を見よう。女性は椅子に座り、そのひじ掛けが左下に見える。体を斜めに向け、顔をさらにこちらへ向けている。両手をすべて見せた、体にひねりのある自然な姿勢は、当時のフィレンツェの肖像画では新しく、若いラファエロをはじめとする画家たちがほどなく取り入れた。手を底辺、頭を頂点として、人物は安定したピラミッド形を作っている。

その後ろにも目を向けよう。女性は屋根付きの開放的な回廊、ロッジアに座っており、左右の端には2本の柱の基部が見える。手すりの向こうには、曲がりくねった道、右側にあるアーチがいくつも連なる橋、険しい岩山や湖など、荒々しい風景が広がる。左側の地平線は右側より低く見え、それが落ち着かない夢のような印象を強めている。遠くの丘は青緑色のかすみの中に溶け込む。これは空気遠近法と呼ばれる効果で、レオナルドは手稿の中でも詳しく研究した。

最後に、描かれていないものに注目しよう。女性は宝飾品を身につけておらず、身元を示す紋章や銘文もない。眉毛やまつ毛が見えないように思われることも研究者は指摘している。非常に繊細に描かれていたものが、後年の洗浄で失われた可能性を示す技術調査もあるが、確かではない。

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レオナルド・ダ・ヴィンチとは?

レオナルドは1452年4月15日、トスカーナ地方の小さな町ヴィンチ、またはその近郊に生まれた。10代のころ、フィレンツェの彫刻家・画家アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房で修業した。その後、ミラノ公に仕えた時期(およそ1482~1499年)に『最後の晩餐』を描き、フィレンツェへ戻って『モナ・リザ』の制作を始めた。

レオナルドは、ほとんどあらゆることに好奇心を抱いた。数千ページに及ぶ手稿には、解剖学、水、飛行、植物、機械、光と影についての研究が残されている。筋肉や骨を理解するため人体を解剖し、丸い物体に光がどう当たるかも調べた。その成果は、顔のやわらかな立体表現、手の形、背景の地形や水など、『モナ・リザ』の各所に表れている。

作品を完成させずに残すことでも知られ、完成した絵画は少ない。作品を何年も手元に置くこともよくあった。『モナ・リザ』もその一例で、ジョコンド家に渡さず、ミラノ、ローマ、そしてフランスへと持っていった。レオナルドは国王フランソワ1世の客人として、1519年5月2日にアンボワーズ近郊のクロ・リュセで亡くなった。

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中級

モデルとなったリザ・ゲラルディーニとその家族

リザ・ゲラルディーニは1479年6月15日、フィレンツェで、かつての富と影響力の多くを失った由緒ある家に生まれた。1495年、15歳ごろに、彼女よりかなり年上で結婚歴のある、絹や織物を扱う裕福な商人フランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚した。二人には数人の子どもが生まれ、リザは義理の息子の養育にも携わった。イタリアの研究者ジュゼッペ・パッランティらは、税の記録、契約書、教会の文書を調べ、彼女の生涯の多くの事実を明らかにした。

フランチェスコはなぜ1503年ごろに肖像画を注文したのだろうか。歴史家は、1502年12月の息子アンドレアの誕生と、ほぼ同じ時期の新居の購入という二つの契機を挙げている。妻の肖像画は、裕福な商家が社会的信用や幸運を示す手段だった。薄いベールと暗い色の服は、きちんとした身なりのフィレンツェの既婚女性にふさわしい。一部の著述家は喪や妊娠のしるしと解釈したが、一般には認められていない。

リザは1538年または1539年に亡くなった夫より長生きし、晩年は、娘二人が修道女になったフィレンツェのサントルソラ修道院と関わりを持って過ごした。1542年7月15日に亡くなったとされるが、14日とする資料もある。家族が肖像画を受け取ることはなく、ジョコンド家の誰かが完成した絵を見たという記録もない。

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中級

いつ、どのように描かれたのか

制作の開始時期は、ルネサンス期の絵画としては珍しく、文書でよく裏づけられている。2005年、ハイデルベルク大学図書館の司書アルミン・シュレヒターが、キケロの印刷本の余白にある手書きのメモを発見した。1503年10月にフィレンツェの書記局の補佐官アゴスティーノ・ヴェスプッチが記したもので、レオナルドを古代の画家アペレスになぞらえ、リザ・デル・ジョコンドの頭部を描いていることに触れている。これにより、レオナルドがフィレンツェ政府のために大壁画『アンギアーリの戦い』にも取り組んでいた1503年に、この肖像画の制作が進んでいたと確認された。

一方、いつ描き終えたかは、はるかに不確かである。ヴァザーリは、レオナルドが4年間取り組み、未完成のまま残したと記した。1517年、アントニオ・デ・ベアティスはフランスでレオナルドを訪ね、ジュリアーノ・デ・メディチの依頼で「あるフィレンツェの女性を実物から描いた」肖像画を見たと記録した。多くの研究者はこれを『モナ・リザ』と考え、レオナルドがローマやフランスでも手を加え続けたことを示すとみている。そのためルーヴル美術館は、制作年代を広く1503~1519年としている。

レオナルドは、フィレンツェで一般的だったポプラ材の一枚板に白い下地を施して描いた。数マイクロメートルしかないものも含む、ごく薄い油絵の具の透明な層を幾重にも重ね、奥行きとなめらかな色の移り変わりを作った。赤外線やX線による調査では、指やベールの位置などに、制作中の変更を示す跡(ペンティメント)が見つかっている。古いワニスは時とともに黄変したため、現在の絵はレオナルドが意図したよりも暖色が強く、暗く見える。洗浄には危険が伴うため、ルーヴル美術館はこれまで洗浄しないことを選んできた。

柱が取り除かれるように板の両側が切り落とされた、という説は長く信じられてきた。しかし縁を詳しく調べると、板は大きく切り詰められておらず、両端の柱の基部はもともと一部だけ見えるように描かれたと考えられる。ただし、この問題は長く議論されてきた。

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中級

フィレンツェと盛期ルネサンス

1500年ごろのフィレンツェは共和国だった。15世紀の大半を通じて町を支配したメディチ家は1494年に追放され、説教師ジロラモ・サヴォナローラは1498年に処刑されていた。このころニッコロ・マキャヴェッリは市の書記局で働き、ミケランジェロは『ダヴィデ像』(1501~1504年)を制作していた。レオナルドとミケランジェロは、同じ議会堂の壁に、それぞれ競い合う戦闘場面を描くよう依頼されてもいた。

肖像画も変化しつつあった。それ以前のフィレンツェの女性肖像画は、硬貨の人物像のように真横から描かれることが多く、宝飾品や上等な服で地位を示していた。フランドルの画家たちが導入した斜め向きの人物像や風景の背景は、イタリアの画家にも高く評価された。レオナルドはこうした発想に、自身の光と解剖学の研究を組み合わせ、考えながらこちらを見返す、生きた人間のような肖像画を生み出した。

『モナ・リザ』はすぐにほかの画家たちに影響を与えた。1504~1508年ごろフィレンツェにいたラファエロは、これをもとに素描を描き、マッダレーナ・ドーニの肖像画などにもその姿勢を取り入れた。レオナルドの周辺でも模写が作られた。マドリードのプラド美術館にある作品は、2012年に洗浄され、原作と同時期にレオナルドの工房で、おそらく弟子の一人によって描かれたと考えられている。そこから、ワニスが暗くなる前の色彩をうかがうことができる。

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中級

レオナルドの工房からルーヴル美術館へ

レオナルドの死後、この絵はフランス王フランソワ1世のコレクションに入った。正確な経緯については議論がある。レオナルドの長年の助手サライは、ある時点でこの絵、またはその別版を所有していたらしい。1525年に作られた彼の遺産目録には、「ラ・ジョコンダ」と呼ばれる絵が記載されている。レオナルドの存命中にフランソワ1世がサライから原作を買ったと考える歴史家もいる。ルーヴル美術館の目録では、王は1518年に取得したとされる。

その後ほぼ3世紀にわたり、絵はフランス王室が所有し、フォンテーヌブロー宮殿、のちにはヴェルサイユ宮殿に保管された。フランス革命後、王室のコレクションは国有となり、この絵はルーヴルに新設された公共の美術館に収められた。ナポレオン・ボナパルトは1800年ごろ、数年間にわたりチュイルリー宮殿の自分の寝室に飾らせたが、その後、絵は美術館へ戻った。

戦争の際には安全のため移された。1870~1871年と二度の世界大戦中にはパリから運び出され、第二次世界大戦中には、爆撃や略奪から守るため、シャンボール城を含むフランスの地方の複数の城に隠された。

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中級

1911年の盗難と名画としての地位

19世紀まで、『モナ・リザ』は画家や美術愛好家に高く評価されていたものの、ほかの多くのルネサンス絵画より有名というわけではなかった。ロマン主義の作家たちは女性を謎めいた魅惑的な人物として描写し、1869年に発表されたイギリスの批評家ウォルター・ペイターの有名な文章は、そのほほえみを謎の象徴にする一助となった。

1911年8月21日、絵はルーヴル美術館から姿を消した。犯人は、同館で保護ガラスの取り付けを手伝ったことのあるイタリア人作業員ヴィンチェンツォ・ペルージャだった。休館日に絵を壁から外し、額縁を取り去って、作業着の下に隠して持ち出した。絵は2年以上行方不明となった。詩人ギヨーム・アポリネールは一時逮捕され、パブロ・ピカソも事情を聴かれた。1913年12月、ペルージャはフィレンツェの美術商アルフレード・ジェリに絵を売ろうとし、ジェリが当局に通報した。ペルージャはイタリアへ返したかったと主張した。絵はフィレンツェ、ローマ、ミラノで展示された後、1914年1月にパリへ戻った。

世界中の新聞が盗難と発見を報じ、絵の名は広く知られるようになった。20世紀には、問い直したり風刺したりする対象として、高尚な美術の象徴にもなった。1919年、マルセル・デュシャンは複製の絵葉書に口ひげとあごひげを描き足し、『L.H.O.O.Q.』と題した。1963年、アンディ・ウォーホルはシルクスクリーン作品『一枚より三十枚のほうがよい』でこの絵を繰り返し印刷した。絵は1962~1963年にアメリカ合衆国を巡回して100万人をはるかに超える人々が鑑賞し、1974年には東京とモスクワにも運ばれた。

絵は攻撃されたこともある。1956年には来館者が投げた石で、左ひじ付近の絵の具が小さく傷ついた。それ以来、保護ガラスの向こうに展示されている。2022年にケーキをガラスに塗りつけられた事件や、2024年にスープを投げつけられた事件では、絵そのものに被害はなかった。

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上級

研究上の議論:人物の特定、注文、完成時期

人物の特定。描かれた女性をリザ・デル・ジョコンドとするヴァザーリの記述は、出来事から数十年後の1550年に発表された。しかもヴァザーリ自身はこの絵を見ていなかったため、長く慎重に扱われてきた。イザベラ・デステ、コスタンツァ・ダヴァロス、ジュリアーノ・デ・メディチの愛人、理想化された女性、さらにはレオナルドの変装した自画像など、別の説も唱えられた。現在、1503年のヴェスプッチのメモは、その時点でレオナルドがリザ・デル・ジョコンドを描いていたことを強く裏づけるものと広く考えられている。なお、ルーヴルの絵がまさにその肖像画なのか、その後どの程度描き変えられたのかは議論が続く。

デ・ベアティスの記録をめぐる問題。1517年のデ・ベアティスの記述では、フィレンツェの女性の肖像画がフランチェスコ・デル・ジョコンドではなく、ジュリアーノ・デ・メディチと結びつけられている。研究者はさまざまに説明してきた。レオナルドがジュリアーノの保護を受けてローマで活動していたころ、彼が制作の継続を勧めた可能性、デ・ベアティスか情報提供者が取り違えた可能性、フランスで見た絵が別作品だった可能性などである。ジョコンド家のための肖像画と後年の別版という2枚の存在も提案されているが、専門家の多くはルーヴルの絵を1503年に着手された唯一の原作とみなしている。

アイルワースの『モナ・リザ』とその他の作品。両端に柱があり、より若く見える女性を描いた「アイルワースのモナ・リザ」と呼ばれる絵は、20世紀初めから、レオナルドによる初期の別版として紹介されてきた。しかし、レオナルドの専門家の大半はこの帰属を認めていない。一方、プラド美術館の模写は、原作と並行して制作された工房作の複製と広く認められ、ルーヴルの絵のワニスが変色する前の姿を知る貴重な手がかりとなっている。

意味。どこまで象徴的な意味を読み取るべきか、美術史家の意見は分かれる。レオナルドが地球の体と人間の体を比較した手稿に沿って、背景を生きた大地や時間の流れの表現とみる人もいれば、フィレンツェの婚姻肖像画や家族肖像画に共通する要素を重視する人もいる。有名なほほえみについては、視線の周辺でコントラストの弱い影をどう知覚するかによって見え方が変わるという、光学や神経科学からの説明もある。こうした説明は錯覚の仕組みを示せても、レオナルドの意図までは明らかにできない。

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上級

史料、科学調査、保存

文書。主な史料には、1503年のヴェスプッチの欄外メモ、1517年のデ・ベアティスの旅行日記、ヴァザーリの『美術家列伝』(1550年、1568年改訂)、1525年のサライの遺産目録、後年のフランス王室の目録がある。パッランティらが調べたジョコンド家に関するフィレンツェの公文書は背景事情を示すが、絵そのものには直接言及していない。

科学調査。20世紀以降、X線撮影、赤外線反射撮影、マルチスペクトル画像などの方法で絵が調べられてきた。調査では、レオナルドのスフマートを形作る薄い絵の具の層が測定され、下描きや変更箇所も明らかになった。2004~2005年には、ルーヴル美術館がフランスの国立美術館研究・修復センター(C2RMF)と大規模な技術調査を行った。技師パスカル・コットが、見えている肖像画の下に別の肖像画があると提案したような、新しい画像解析に基づく主張はメディアの注目を集めた。しかし、多くの専門家は受け入れておらず、絵の具を重ねた作品のマルチスペクトル画像は過剰に解釈しやすいと警告している。

保存。ポプラの板の上部には亀裂があり、ずっと以前に安定化された。木材は湿度の影響を受ける。絵は温湿度を管理した密閉ケースに収められ、通常は海外に貸し出されない。変色したワニスの洗浄は大きな論争を呼ぶ。賛成派はレオナルド本来の色彩が現れると主張し、反対派は数マイクロメートルしかない薄い絵の具の層を傷つけることを恐れている。

展示。絵は2005年からルーヴル美術館のサル・デゼタに展示されている。年間約1000万人に達することもある来館者の多さから、鑑賞しにくいことで知られる。2025年、フランス政府はルーヴル美術館の大規模改修の一環として、『モナ・リザ』専用の新たな展示空間を設ける計画を発表した。このような計画の詳細や日程は変更される可能性がある。

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重要なポイント

スフマート
輪郭線や境界を示さず、色の濃淡をきわめてやわらかくなじませ、形が煙のように影から浮かび上がるように見せるレオナルドの技法。
空気遠近法
リザの背後の風景のように、遠くのものを淡く、青みがかった、ぼんやりした姿で描いて距離を表す方法。
謎めいたほほえみ
口元と目元の境界がやわらかく曖昧なため、鑑賞者がどこを見るかによって表情が変わるように見える。
新しい肖像画
斜め向きの半身像に両手と風景の背景を描く構図は、ルネサンス期の肖像画の手本となった。
未完成の傑作
レオナルドは絵を依頼主に渡さず、何年も手元に置いて描き直した。そのため、注文作品と自分のための制作との境目が曖昧になった。
名声の歴史
世界で最も有名な美術作品という地位には、19世紀の著述、1911年の盗難、現代のマスメディアが大きく関わっている。
保存をめぐる難題
傷みやすい板と黄変したワニスを前に、現状を保つか、もとの姿を取り戻そうとするかが問われている。

記録

  1. 1452年 — レオナルド・ダ・ヴィンチがトスカーナ地方のヴィンチ、またはその近郊に生まれる(4月15日)。
  2. 1479年 — リザ・ゲラルディーニがフィレンツェに生まれる(6月15日)。
  3. 1495年 — リザが商人フランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚する。
  4. 1503年 — 10月、アゴスティーノ・ヴェスプッチが、レオナルドはリザ・デル・ジョコンドの頭部を描いていると記す。
  5. 1517年 — アントニオ・デ・ベアティスが、フランスにあるレオナルドの工房でフィレンツェの女性の肖像画を見る。
  6. 1519年 — レオナルドがアンボワーズ近郊のクロ・リュセで亡くなる(5月2日)。絵はフランス王室のコレクションに入る。
  7. 1550年 — ジョルジョ・ヴァザーリが『美術家列伝』を刊行し、描かれた女性をフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻モナ・リザと記す。
  8. 1797年頃 — 革命後、絵がルーヴルに新設された公共の美術館に収められる。
  9. 1911年 — ヴィンチェンツォ・ペルージャがルーヴル美術館から絵を盗む(8月21日)。
  10. 1913年 — 12月にフィレンツェで絵が発見され、1914年1月にパリへ戻る。
  11. 1963年 — アメリカ合衆国への巡回(1962~1963年)で、ワシントンとニューヨークに展示される。
  12. 2005年 — ハイデルベルクでヴェスプッチのメモが確認される。絵は改修されたサル・デゼタへ移される。

用語集

板絵
キャンバスや壁ではなく、平らな木の板に描かれた絵。
油彩のグレーズ
色や奥行きを変えるため、すでにある絵の具の層の上に重ねる、ごく薄く透明な油絵の具の層。
スフマート
イタリア語で「煙」を意味するフーモに由来し、光と影の境目をやわらかく描く方法。
ロッジア
屋根があり、一つ以上の側面が外に開いた、柱に支えられた回廊やバルコニー。
ペンティメント
完成した絵の具の層の下に見えたり、調査で検出されたりする、画家が制作中に考えを変えた跡。複数形はペンティメンティ。
ワニス
絵の表面を覆う透明な保護膜。古くなると黄色や茶色に変色することが多い。
赤外線反射撮影
絵の具の層の下に隠れた下描きや変更を明らかにできる画像調査の方法。
工房による模写
画家の工房で、多くは助手が、ときには原作と並行して制作した、同じ絵の別作品。
盛期ルネサンス
レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロらと結びつけられる、1490~1520年ごろの時期。

よくある質問

なぜほほえんでいるのですか?

リザが何を考えていたかは誰にも分からない。ヴァザーリは、レオナルドが彼女を明るい気持ちにさせるため音楽家や道化師を雇ったと述べたが、作り話かもしれない。ほほえみの効果は、主に口元と目元をやわらかく陰影で描いたことから生まれる。

なぜ絵はこんなに小さいのですか?

教会や宮殿の壁のためではなく、家庭に飾る個人の肖像画として作られたためである。約77 × 53 cmという大きさは、このような肖像画として普通だった。

『モナ・リザ』に描かれているのは本当にリザ・ゲラルディーニですか?

研究者の大半はそう考えている。ヴァザーリは1550年にそう記し、2005年に見つかったアゴスティーノ・ヴェスプッチによる1503年10月のメモも、当時レオナルドがリザ・デル・ジョコンドを描いていたことを裏づけている。

レオナルドはなぜ絵をリザの夫に渡さなかったのですか?

確かな理由は分からない。レオナルドは仕上げるために作品を手元に置くことが多く、1506年にはフィレンツェを離れてミラノへ向かった。また、注文品としてよりも、自分自身の芸術作品としてこの絵を大切にするようになったのかもしれない。

なぜ黄色っぽく、暗く見えるのですか?

古いワニスの層が500年の間に黄変したためである。レオナルドが重ねた絵の具の層は非常に薄く、洗浄で傷むおそれがあるため、ルーヴル美術館はワニスを除去しないと判断している。

1911年の盗難で、なぜさらに有名になったのですか?

事件は2年以上にわたって世界中の新聞をにぎわせ、ルーヴル美術館で絵があった壁の空白にも人々が集まった。発見されたころには、この絵は世界的に知られる存在になっていた。

なぜ制作年代を1503~1519年と幅広く示すのですか?

1503年に描き始めたことは文書で分かるが、1517年にも訪問者がレオナルドの工房で絵を見ており、技術調査からはその後も手を加えたと考えられる。そのため、完成した年を一つに特定できない。

出典・参考文献

  1. Portrait de Lisa Gherardini, épouse de Francesco del Giocondo, dite La Joconde ou Monna Lisa (INV 779). Musée du Louvre, Collections
  2. Mona Lisa. Wikipedia
  3. Lisa del Giocondo. Wikipedia
  4. Leonardo da Vinci. Wikipedia
  5. Sfumato. Wikipedia
  6. Martin Kemp and Giuseppe Pallanti, Mona Lisa: The People and the Painting. Oxford University Press, 2017
  7. Donald Sassoon, Mona Lisa: The History of the World’s Most Famous Painting. HarperCollins, 2001

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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