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子ども向け
550年以上前、今のパキスタンとインドにまたがる「五つの川の地」パンジャーブのある村で、ナーナクという男の子が生まれました。シク教徒の間で語り継がれる話では、彼は神について大きな問いを抱く思慮深い子どもで、うわべだけに見える儀式を好みませんでした。
大人になったナーナクは、倉庫番として働きました。シク教徒たちは、ある朝彼が川へ体を洗いに行き、三日間姿を消したと伝えています。戻ってきた彼が最初に口にした言葉は、「ヒンドゥーもいない、ムスリムもいない」でした。神は人を集団に分けたりしない、誰もが平等なのだという意味でした。
その後ナーナクは遠くまで旅をしました。しばしば一緒だったのは、ラバーブという弦楽器を弾くムスリムの音楽家である友人マルダーナーでした。ナーナクが自ら作った神についての歌を歌うと、さまざまな出自の人々が集まって耳を傾けました。この旅にまつわる多くの物語は、何世紀にもわたって語り継がれてきました。
後に彼は川のほとりのカルタールプルという村に落ち着き、家族や従う人々とともにそこで暮らしました。誰もが一緒に働き、祈り、歌い、身分にかかわりなく共同の台所に並んで座って食事をしました。この無料の共同炊事場「ランガル」は、今日でもすべてのシク教寺院(グルドワーラー)に受け継がれています。
亡くなる前、ナーナクは忠実な一人の弟子を次のグルに選びました。彼の歌は書き留められ、後にシク教の聖典『グル・グラント・サーヒブ』の一部となりました。今日、世界中でおよそ2500万から3000万人のシク教徒が毎年彼の誕生日を祝っています。
ひと目でわかる
- 生没年
- 1469年4月15日(伝統的な日付。11月の日付を祝う伝承もある)~1539年9月22日
- 出生地
- ライ・ボーイ・ディー・タルワンディー、現在のパキスタン、パンジャーブ州ナンカーナー・サーヒブ(当時はデリー・スルタン朝の支配下)
- 没地
- ラーヴィー川沿いのカルタールプル、現在のパキスタン、パンジャーブ州ナローワール県
- 呼び名
- シク教十代のグルの最初の一人。シク教徒からはシク教の創始者とみなされる
- 著作
- 『グル・グラント・サーヒブ』に収められた讃歌974篇。『ジャプジー』『アーサー・ディー・ヴァル』『シッド・ゴーシュト』を含む
- 言語
- 初期パンジャーブ語と、しばしば「サント・バーシャー」と呼ばれる混成の信仰言語。ペルシア語・サンスクリット語の語彙を含む
- 中心的な教え
- 唯一なる神(イク・オーンカール)、聖なる御名の憶念、正直な労働、分かち合い、カースト・宗教・性別によらない平等
- 後継者
- バーイー・レーハナー。改名してグル・アンガドとなる(1539年に指名)
やさしい
グル・ナーナクとは誰か?
グル・ナーナクは、15世紀末から16世紀初頭にかけて、インド亜大陸北西部の「五つの川の地」パンジャーブに生きた霊的な師、神秘家、そして詩人である。シク教徒は彼を十代のシク教グルの最初の一人、そして自分たちの宗教の創始者として敬っている。彼はまた「父なるナーナク」を意味するバーバー・ナーナクとしても広く知られ、この地域の多くのヒンドゥー教徒やムスリムからも尊敬されている。
シク教の信仰において、グルとは啓発者・導き手を意味する言葉であり、ナーナクの内に輝いていた神聖な光は、後に続く九人のグルへと次々に受け継がれ、最終的には聖典『グル・グラント・サーヒブ』へと受け継がれたと信じられている。したがってシク教徒にとって、ナーナクは単なる歴史上の人物ではなく、今も続く霊的な現存の源泉である。一方、歴史家たちは彼を南アジアの宗教史においてきわめて重要な人物として研究している。
ナーナクの教えは、あらゆる被造物のうちに現存する永遠の真理としての唯一の神と、神の前におけるすべての人間の平等を中心に据えていた。彼は空虚な儀式、カースト制度、宗教的な偽善を批判し、信仰を日常の労働や家族の責任と結びつけた生き方を説いた。
彼の言葉は『グル・グラント・サーヒブ』に974篇の讃歌として残っている。最も有名なのは、敬虔なシク教徒が毎朝唱える『ジャプジー』である。彼の誕生日「グル・ナーナク・グルプラブ」は、世界中のシク教共同体によって毎年祝われている。
やさしい
シク教の伝承が語る生涯
ナーナクは1469年、現在のパキスタンにあるナンカーナー・サーヒブの町、当時のライ・ボーイ・ディー・タルワンディー村に生まれた。両親カールー(カルヤーン・チャンド)とトリプターはカトリー・カーストのヒンドゥー教徒で、父は地元のムスリム地主ライ・ブラールに仕える村の会計係だった。姉ナーナキーは、彼の霊的な資質を最初に見抜いた人物として記憶されている。伝承によれば、彼は算術・帳簿・文字を、後にはペルシア語を学び、少年時代には高位カーストのヒンドゥー教徒が身につける聖紐を受けることを拒んだという。
青年になったナーナクはスラカニーと結婚し、二人の息子スリー・チャンドとラクミー・ダースをもうけた。彼はスルターンプル・ローディーに移り、義兄の助けで地方総督ダウラト・ハーン・ローディーのもとで倉庫番の職を得た。そこで彼は幼なじみのムスリムの音楽家マルダーナーと再会し、朝晩に信仰の歌を歌って過ごした。
伝承によれば、ある朝ナーナクはバイン川へ体を洗いに行き、姿を消した。三日後に戻った彼は「ヒンドゥーもいない、ムスリムもいない」と言った。シク教徒はこの瞬間を、彼が神の現存へと導かれ、神の御名を説くという使命を授かった召命の時と理解している。伝統的な生涯物語である「ジャナムサーキー」は、この出来事を『ジャプジー』の冒頭の言葉と結びつけている。
その後まもなく、ナーナクは職を離れ、旅と教えの生活を始めた。シク教の伝承の記述はこの体験を、ナーナクが三十代前半だった1500年ごろに置くが、学者カプール・シンは彼が27歳だった1496年ごろとしている。
やさしい
旅と物語
ジャナムサーキーは「ウダースィー」と呼ばれる長い旅について語る。最もよく知られた版では、四つの大きな旅が語られる。東はワーラーナシー、ベンガル、アッサム、プリーへ、南はタミル・ナードゥとスリランカへ、北はヒマラヤへ、そして西はメッカ、メディナ、バグダードへの旅である。これらの旅の多くにマルダーナーが同行し、ナーナクが歌うときにラバーブを弾いた。
こうした物語は、生き生きとした場面を通じて教えを伝える。ハリドワールで、巡礼者たちが祖先のために昇る太陽に向かって水をまいたとき、ナーナクは西に向かって水をまき、パンジャーブにある自分の畑に水をやっているのだと言った。彼らの水が死者に届くなら、自分の水も畑に届くはずだというのである。メッカでは、彼がカアバ神殿の方に足を向けて眠っているのを見た男が咎めて彼の足の向きを変えると、カアバの方がその足に合わせて動いたように見えたという。神はどこにでもいることを示すためである。また別の話では、彼は他人を搾取して富を築いたマリク・バーゴーの豪華な食事ではなく、貧しい大工ラーローの質素なパンを選んで食べた。
ナーナクはヒンドゥー教の寺院やモスク、スーフィーの聖廟、ヨーギーたちの修行場を訪ね、さまざまな聖者たちと語り合った。彼の作品の一つ『シッド・ゴーシュト』は、世を捨てて解脱を求めるヨーギーであるシッダたちとの対話という形をとり、社会の中で霊的に生きることを説いている。
歴史家たちは、ナーナクが旅をしたこと自体には同意しているが、どこまで足を延ばしたかについては議論があり、旅の多くの細部は物語の後代の版にしか現れない。シク教徒にとっては、正確な経路よりも物語の教えの方が重要であり、彼が訪れたとされる多くの場所にはグルドワーラーが建てられている。
中級
カルタールプル:最初のシク共同体
生涯の最後の時期、おそらく1520年ごろから、ナーナクはある弟子から与えられた土地、ラーヴィー川右岸のカルタールプル(「創造主の町」)に定住した。資料によっては、これをもっと早く1504年とするものもある。彼はそこで家族とともに家長として暮らし、彼のもとに従う人々が集まって住むようになった。彼らは「ナーナクの道」を意味するナーナク・パンスと呼ばれ、外部の人々は彼らをカルタールプルの人々という意味でカルタリーと呼ぶこともあった。
カルタールプルでの生活には一日の決まったリズムがあった。共同体は夜明け前に起き、体を清め、共に讃歌を歌う「キールタン」を行い、『ジャプジー』などの作品を唱えた後、畑仕事やその他の仕事に出かけ、夕方に再び集まった。ナーナク自身も土地を耕した。理想とされたのは、苦行者の実践する世俗放棄ではなく、世の中における活動的な生であった。
カルタールプルに結びつく二つの制度は、シク教の生活の中心となった。誰もが同じ食事をとる共同炊事場「ランガル」と、カーストや身分にかかわりなく列をなして共に座る「パンガト」である。ランガルにはスーフィーやナート派の慣行にも類似のものがあったが、シク共同体においては、共同の献金と自発的な奉仕(セーワー)によって支えられる、意図的かつ日常的な平等の表現となった。
ナーナクの作品はカルタールプルで一冊の書(ポーティー)にまとめられ、彼はそれを後継者に手渡した。カルタールプルは現在パキスタン領で、インドとの国境から数キロメートルの場所にある。グルドワーラー・ダルバール・サーヒブ・カルタールプルは、彼が没したと信じられている場所を示しており、2019年11月には、インドの巡礼者がビザなしで訪れられる回廊が開かれた。
中級
教え:唯一の神、聖なる御名、そして平等な生
『グル・グラント・サーヒブ』は「根本の定式」を意味するムール・マントラで始まる。その本質的な要素はナーナクの作品の中に見出される。「唯一の創造主。真理こそがその名。作られた方、恐れなく、敵意なく、時を超えた姿で、生まれることなく、自存する方。グルの恩寵によって知られる。」数字の1で書かれる最初の表現「イク・オーンカール」は、「神は一つである」あるいは「一つの実在がある」と訳されてきた。学者たちは、これを一神教として理解すべきか、一元論として理解すべきか、それとも多を通して現れる一への神秘的な自覚として理解すべきかを議論している。
ナーナクにとって、人間の問題とは自己中心性(ハウマイ)であり、これが人を生死の輪廻に閉じ込める。その治療法は、聖なる御名を愛をもって憶念し唱える「ナーム・シムラン」である。これによって人は、自分自身の衝動に従う「マンムク」ではなく、グルと神へと向かう「グルムク」となる。解脱(ムクティ)は、出生や儀式や司祭の仲介によってではなく、神の恩寵と個人の行いによってもたらされる。
民間の伝承は、ナーナクの道を三つの原則にまとめている。神の御名を憶念せよ(ナーム・ジャポー)、正直に働いて生計を立てよ(キラト・カロー)、持っているものを他者と分かち合え(ヴァンド・チャコー)。彼は社会をカースト(ヴァルナ)に分けることを拒み、女性が不浄でも劣っているものでもないと説き、貪欲で残酷な統治者たちを批判した。
ナーナクは、ヒンドゥー教とイスラム教を融合させようとしたのでも、単にそれらを改革しようとしたのでもなかった。シク教の理解では、彼は独自の道を啓示したのである。彼はあらゆる背景を持つ人々に、それぞれの言葉で語りかけた。彼の詩句の一つは、真のムスリムとは何かを、信仰を心に刻み、高慢を捨て、神の意志を受け入れ、あらゆる生き物に慈悲深くある人だと述べている。同様の詩句はヒンドゥーの儀式にも異議を唱えている。強調されているのは、外面の帰属よりも内面の真実である。
中級
詩人ナーナク:讃歌、ラーガ、言語
ナーナクは自らを詩人と呼んでおり、彼の讃歌(シャバド)はパンジャーブ文学の伝統において最も初期の主要な作品群に数えられる。彼は初期パンジャーブ語と、北インドで広く通じたしばしば「サント・バーシャー」と呼ばれる信仰の言語を混ぜて用い、主題に応じてペルシア語、アラビア語、サンスクリット語の語彙を取り入れた。この日常語を選んだことにより、彼の教えは古典語の教育を受けた者だけでなく、普通の人々にも届くものとなった。
彼の作品は、サローク(対句)、パド(叙情的な讃歌)、ヴァル(節に分かれたバラード)といった形式を用いる。『グル・グラント・サーヒブ』の中で讃歌は、インド音楽の旋法であるラーガごとに配列されている。これは歌われることを前提として作られたためである。音楽、すなわちキールタンは、今もシク教礼拝の中心であり続けている。
『グル・グラント・サーヒブ』の冒頭に置かれる『ジャプジー』は、ムール・マントラに続く38の詩節(パウリー)と最後のサロークから成る。それは神の本性、創造の広大さ、人間の知識の限界、そして霊的上昇の諸段階を省察している。『アーサー・ディー・ヴァル』はグルドワーラーで早朝に歌われ、『シッド・ゴーシュト』はヨーギーたちとの対話の形をとる。
「バーブル・ヴァーニー」として知られる四篇の讃歌群は、1520年代にムガル王朝の創始者バーブルが行った侵攻に応えたものである。ナーナクは、サイードプルなどで人々、とりわけ女性が受けた苦しみを描写し、なぜ神がこのような残虐さを許したのかと問いかけている。これらの讃歌は、当時のこうした出来事について語る数少ない同時代のインド人の声の一つである。
中級
ナーナクの世界:スルタン、聖者たち、変わりゆくパンジャーブ
ナーナクは、デリーのローディー朝のスルタンたちの支配下に生き、その総督たちがパンジャーブを治めていた。そして1526年にバーブルがパーニーパットの戦いでイブラーヒーム・ローディーを破り、ムガル帝国が始まるのを目にした。パンジャーブは、多様なヒンドゥー教の諸共同体、スンナ派とシーア派のムスリム、スーフィー教団、ナート派のヨーギー、ジャイナ教徒などが行き交う、民族・言語・宗教の交差点だった。
宗教的には、ナーナクの時代は北インドのサント伝統、すなわち像やカーストを超えた形なき神(ニルグン)を崇拝した詩人聖者たちの流れに形づくられていた。最も有名なのはカビールであり、彼の詩句の一部は、ラヴィダース、ナームデーヴ、シェイフ・ファリードといった他のヒンドゥー教徒やムスリムの信仰者たちの詩句とともに、後にシク教の聖典に収められた。パンジャーブ語によるスーフィー詩もまた、ナーナクが活動した雰囲気の一部を成していた。
以前の研究は、ナーナクの運動をしばしばヒンドゥー教とイスラム教の融合として説明してきた。より新しい研究はこうした見方から離れ、彼を中世インドのサントおよびバクティ運動の中に位置づけつつ、イスラムからの影響もいくらか認めている。一方でシク教の学者たちは、彼の啓示の独創性を強調する。「習合的」というレッテルは、曖昧で恣意的に用いられていると批判されてきた。
ナーナクに従った人々は、当初は彼の親族や友人、そして彼自身と同じカトリー出身の商人たちであり、次第にパンジャーブ中部のジャート農民が増えていった。この社会的基盤は、後のシク共同体の発展を形づくることになる。
中級
継承と伝統の形成
ナーナクは二人の息子のどちらも後継者に指名しなかった。長男スリー・チャンドは、ナーナクが批判していた苦行的な生き方を歩み、後にシク教史において影響力を持ち続けた苦行教団ウダースィー派を創設した。その代わりに、ナーナクは献身的な弟子であったバーイー・レーハナーを選び、「自分自身の体の一部」を意味するアンガドという名を与えた。ある儀式で、ナーナクは彼の前にココナツ一個と五枚の硬貨を置き、彼にひざまずいた。
シク教徒はこの継承を、同じ光が別の身体へと移ったものとして理解している。『グル・グラント・サーヒブ』に保存されている宮廷詩人バルワンドとサッターの讃歌はこの考えを表現している。光も道も同じであり、変わったのは身体だけだというのである。血統ではなく献身を基準に後継者を選んだことによって、1539年9月22日にナーナクが没した後も、共同体は独自の運動として存続することができた。
グル・アンガドは共同体の中心をカドゥールに移した。シク教の伝統では、彼は聖典が記されているグルムキー文字を整備し、讃歌の収集を続けたとされる。歴代のグルたちは聖典の集成を拡張し、1604年には五代目のグル・アルジャンが『アーディ・グラント』を完成させ、アムリトサルのハルマンディル・サーヒブ(黄金寺院)に安置した。
1708年、十代目のグル・ゴービンド・シンは、自分の後は聖典そのものがグルとなると宣言した。それ以来、ナーナクの『ジャプジー』で始まる『グル・グラント・サーヒブ』は、シク教徒によって生けるグルとして扱われている。
中級
遺産と記憶の場所
今日、シク教にはおよそ2500万から3000万人の信者がいる。その十人に九人以上がインド、とりわけパンジャーブに住んでおり、イギリス、カナダ、アメリカ合衆国などにも大きな共同体がある。すべてのグルドワーラー(シク教の礼拝所)は、聖典とキールタン、そして宗教や身分にかかわらず誰でも食べられるランガルを通じて、ナーナクの教えを今に伝えている。
彼の誕生日である「グル・ナーナク・グルプラブ」は、シク教徒にとって最も重要な祭りの一つであり、行列や聖典の連続朗誦、共同の食事が行われる。これはカッタク月(10~11月)の満月に祝われるが、初期の史料の多くは彼の誕生をヴァイサーク月(4月)としている。
彼が生まれたナンカーナー・サーヒブと、彼が没したカルタールプルは、1947年の分離独立以来パキスタン領内にある。この分離はパンジャーブを二つに分け、大多数のシク教徒を西側から去らせることになった。国境を越えてこれらの聖地へ巡礼することには深い感情的な意味があり、彼の誕生550周年を目前に控えた2019年のカルタールプル回廊の開通は、広く歓迎された。
シク共同体の外でも、ナーナクはパンジャーブ語の詩人として、諸宗教間の敬意と社会的平等の教師として、そしてパキスタン側とインド側の両方のパンジャーブの人々に共有される人物として尊敬されている。彼の伝統的な生涯物語によれば、彼が没したとき、ヒンドゥー教徒とムスリムの弟子たちは彼を火葬すべきか土葬すべきかで争ったという。この話は、両方の共同体が彼を自分たちの者だと主張したことを表している。
上級
史料と歴史上のナーナク
ナーナクの生涯について知られていることのほとんどすべては、彼の死後に書かれた史料に由来する。最も重要なのは、まず口承として広まり、16世紀後半以降に書き留められた散文物語「ジャナムサーキー」(「誕生の物語」)である。バーラー、ミハルバーン、アーディー、プラータンという四つの主要な系統が現存している。2014年に刊行され、1570~74年ごろのものとされる散文テキスト『サーキー・マハル・ペヘレー・キー』は、一部の学者によって現存最古のものであり、他の系統の源になったと見なされている。その他の史料としては、ナーナクの死後数十年で書かれたバーイー・グルダースのバラード(ヴァル)や、ナーナク自身の作品がある。
ジャナムサーキーは批判的な伝記として書かれたものではない。それらは記憶と教えと伝説を組み合わせ、物語を通じて讃歌を解説する。学者たちは、スーフィー聖者の奇跡譚や、ヒンドゥー教・仏教の説話の伝統との類似性を指摘してきた。バグダードへの旅のように、多くのエピソードは後代の版にしか現れない。彼の訪問の証拠としてしばしば引用されるバグダードの石碑も、多くの西洋の学者は19世紀のものと考えている。
W・H・マクラウドは『グル・ナーナクとシク教』(1968年)の中で、ジャナムサーキーの124のエピソードを「確立された」「蓋然的」「可能」「非蓋然的」「不可能」に分類し、確認できる伝記的事実はごく小さな中核部分に限られると結論づけた。彼の方法論は激しい論争を呼んだ。多くのシク教徒や一部のシク教研究者は、それがキリスト教福音書の史料批評に由来する手法を適用したものであり、グルの生涯からその意味を剥ぎ取っていると反発した。後の学者たちは、ジャナムサーキーをそれ自体の論理で、すなわち初期のシク教徒が自分たちのグルをどのように理解していたかを示す教訓的なテキストとして読もうと努めてきた。
基本的な年代でさえ議論の的である。初期のジャナムサーキーの大半は、1469年ヴァイサーク月(4月)の誕生を伝えているが、バーラー系統や一部の後代の文献はカッタク月(秋)を挙げている。共同体は1815年になってもナンカーナー・サーヒブで4月に誕生を祝っており、カッタク月の祝賀は19世紀以降に記録が残る。さまざまな説明が提示されてきたが、この問題は共同体の内部でも、歴史家の間でも、今なお議論の対象となっている。
上級
ナーナクをどう解釈するか:創始者か、改革者か、啓示者か
ナーナクの役割をどう描写するかということ自体が、視点の問題である。シク教の理解では、彼自身の讃歌が述べるとおり、その教えは神から啓示されたものであり、後に続いたグルたちは十の身体に宿った一つの光であった。シク教の伝統の内部にも、さらに微妙な違いがある。グルは預言者や化身ではなく悟りを開いた魂であることを強調する者もいれば、バーイー・グルダースや聖典の詩句を引用して、グルと神は一つであると語る者もいる。
宗教史家たちは異なる問いを立てる。ナーナクの思想がサントやスーフィーの思想とどのように関係していたのか、その中で何が新しかったのか、そして独自のアイデンティティを持つ独立したシク共同体はいつ現れたのか、というものである。ある者は、シク教の始まりを1520年ごろのカルタールプル共同体に置き、また別の者は、シク・ヒンドゥー・ムスリムという明確なアイデンティティの境界線が、その後の数世紀を通じて、とりわけ1699年のカールサーの創設や植民地時代の改革運動を経て、徐々に形成されていったことを強調する。
アルヴィンド゠パール・シン・マンダイルのような近年の学者たちは、ナーナクの思想をアブラハムの宗教の意味での「一神教」として枠づけることが、かえってそれを歪めかねないと論じている。彼らは、人間の心を変革すること、自己と他者という二元性を終わらせること、そして誰もが日常生活の中で神性を直接体験しうるという彼の主張を強調する。他の学者たちは、カーストや政治的抑圧への批判といった、彼の教えの社会的な側面に注目している。
こうした解釈は互いを排除する必要はないが、それぞれ信仰、神学、歴史分析という異なる出発点から生まれている。敬意ある記述は、共同体がナーナクについて信じていることと、歴史家が史料から再構成できることとを区別しつつ、どちらか一方が他方に取って代わるとは考えない。
重要なポイント
- イク・オーンカール
- 「唯一の創造主」あるいは「唯一の実在」。ムール・マントラの冒頭の言葉であり、ナーナクの教えの中心的な宣言。
- ナーム・シムラン
- 聖なる御名を愛をもって憶念すること。ナーナクの教えにおける霊的実践の核心。
- ハウマイ
- 自己中心性、すなわち自我。人を神から引き離すものであり、克服されるべきもの。
- キラト・カロー、ヴァンド・チャコー
- 正直に働いて生計を立て、他者と分かち合うこと。日常の労働と家庭生活の中で生きられる霊性。
- 平等
- カースト階層と女性を劣位とする考えの拒絶。ランガルとパンガトに体現される。
- グルの位
- ナーナクから九人の後継者を経て、聖典『グル・グラント・サーヒブ』へと受け継がれた神聖な光。
- 歴史上のナーナクと伝説のナーナク
- 学者たちは、史料によって確認できることと、ジャナムサーキーの物語を通じて表現された教えとを区別する。
記録
- 1469年 — ナーナクがライ・ボーイ・ディー・タルワンディー(ナンカーナー・サーヒブ)で生まれる。伝統では4月15日とされる。
- 1487年 — 伝承によれば、ナーナクがバターラーでスラカニーと結婚する。
- 1499年頃 — スルターンプル・ローディーのバイン川での体験。ナーナクが公の教えを始める(1496年ごろから1502年ごろまでの諸説がある)。
- 1500年頃 — 長い旅(ウダースィー)の時期が始まり、1520年ごろまで続く。
- 1520年頃 — ナーナクがラーヴィー川沿いのカルタールプルに定住し、従う人々の共同体を形成する(1504年とする資料もある)。
- 1526年 — バーブルがパーニーパットでローディー朝のスルタンを破る。ナーナクの『バーブル・ヴァーニー』はこの時期の侵攻に応えたものである。
- 1539年 — ナーナクがバーイー・レーハナーをグル・アンガドに任命し、9月22日にカルタールプルで没する。
- 1570年頃 — 最古のジャナムサーキーと考えられる『サーキー・マハル・ペヘレー・キー』の推定年代。
- 1604年 — グル・アルジャンがナーナクの『ジャプジー』で始まる『アーディー・グラント』を完成させ、アムリトサルに安置する。
- 1708年 — グル・ゴービンド・シンが聖典を永遠のグル(グル・グラント・サーヒブ)と宣言する。
- 1968年 — W・H・マクラウドが『グル・ナーナクとシク教』を出版し、史料をめぐる長い論争が始まる。
- 2019年 — ナーナク生誕550周年を前に、巡礼者のためのカルタールプル回廊が開通する。
用語集
- グル
- シク教において、啓発者・導き手を意味する。十人の人間のグルと聖典に与えられる称号。
- シク
- 「学ぶ者」すなわち弟子。グルたちの教えに従う者。
- グル・グラント・サーヒブ
- シク教の聖典。1604年に『アーディー・グラント』として編纂され、1708年に永遠のグルと宣言された。
- ジャプジー
- 聖典の冒頭に置かれるナーナクの作品。シク教徒が毎朝唱える。
- ムール・マントラ
- 『グル・グラント・サーヒブ』の冒頭にある「根本の定式」で、神についてのシク教の信仰を要約する。
- シャバド
- シク教聖典の讃歌。神の言葉という意味も持つ。
- ジャナムサーキー
- 記憶・教え・伝説を組み合わせた、グル・ナーナクの伝統的な生涯物語。
- ウダースィー
- ナーナクの布教の旅。彼の息子スリー・チャンドが創設した苦行教団の名でもある。
- ランガル
- グルドワーラーの共同炊事場で、すべての人が平等に共に食事をする場所。
- グルドワーラー
- シク教の礼拝所。文字どおりには「グルの門」を意味する。
- サント伝統
- カビールやラヴィダースのように、形なき神を崇拝した中世北インドの詩人聖者たち。
- グルムキー文字
- シク教の聖典やインドのパンジャーブ語表記に用いられる文字。
よくある質問
グル・ナーナクは何を教えたのですか?
あらゆる被造物のうちに現存する唯一の神がいること、すべての人は平等であること、そして良き生とは神を憶念し、正直に働き、他者と分かち合うことだと教えました。
なぜ「ヒンドゥーもいない、ムスリムもいない」と言ったのですか?
シク教徒は、神の前では人は宗教という肩書きによって分けられておらず、大切なのは誠実な生き方と信仰であるという意味だと理解しています。
マルダーナーとは誰ですか?
ナーナクの幼なじみであるムスリムの音楽家です。ナーナクとともに旅をし、ナーナクが讃歌を歌う際にラバーブを演奏しました。
ランガルとは何ですか?
誰もが一緒に座って同じ食事をとる無料の共同炊事場です。初期のシク共同体で始まり、今日ではすべてのグルドワーラーに設けられています。
彼の旅の物語は歴史的に真実なのですか?
歴史家たちは彼が広く旅をしたことには同意していますが、多くの細部は物語の後代の版にしか現れず、どこまで足を延ばしたかについては議論があります。シク教徒は何よりも、物語に込められた教えを大切にしています。
4月に生まれたのに、なぜ誕生日は11月ごろに祝われるのですか?
初期の史料の多くは4月としていますが、19世紀までにはカッタク月(10~11月)の満月に祝われるようになりました。いくつかの説明が提案されていますが、この問題は今も議論されています。
ナーナクをシク教の『創始者』と呼ぶのは正しいのですか?
シク教徒は彼を最初のグルであり自分たちの信仰の創始者として敬っています。歴史家たちはまた、独自のシク教アイデンティティが後代のグルたちの時代とその後にかけて徐々に形成されていった過程についても論じています。
出典・参考文献
- Guru Nanak. Wikipedia
- Sikhism. Wikipedia
- Janamsakhis. Wikipedia
- Guru Granth Sahib. Wikipedia
- Mul Mantar. Wikipedia
- Japji Sahib. Wikipedia
- Guru Angad. Wikipedia
- Kartarpur, Pakistan. Wikipedia
- W. H. McLeod, Guru Nanak and the Sikh Religion. Clarendon Press (Oxford), 1968
- J. S. Grewal, The Sikhs of the Punjab (The New Cambridge History of India II.3). Cambridge University Press, 1990
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
