歴史

フィレンツェ絵文書

Historia general (universal) de las cosas de Nueva España — “General History of the Things of New Spain”; Nahuatl and Spanish manuscript, Biblioteca Medicea Laurenziana, Florence, Med. Palat. 218–220

1545–1577年頃 · メキシコシティのトラテロルコ(ヌエバ・エスパーニャ)

ひとことで

フィレンツェ絵文書は、フランシスコ会修道士ベルナルディーノ・デ・サアグンとともに働いたナワ族の学者・長老・画家たちが、ナワトル語とスペイン語を並べて書き、2,500点近い挿絵を描き入れて1575〜1577年にメキシコのトラテロルコで完成させた、16世紀のナワ(アステカ)の生活を伝える百科事典である。

フィレンツェ絵文書
画像: Sailko · CC BY 3.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

大きな辞書を三冊合わせたほど分厚い絵本を想像してみてください。その本は、ある民族のすべてを描こうとしています。神々、祭り、物語、王、商人、医者、まわりの動物や植物、そして自分たちの都市が征服された恐ろしい戦争まで。それが「フィレンツェ絵文書」です。

この本は今からおよそ450年前、メキシコで作られました。1521年にスペインの兵士たちがアステカの大都市テノチティトランを征服してから、数十年後のことです。ベルナルディーノ・デ・サアグンというスペイン人修道士は、ナワトル語を話すナワの人々を理解したいと考えました。そうすれば彼らにキリスト教を教えられると思ったからです。

けれどもサアグン一人ではできませんでした。彼はスペイン人が来る前の時代を覚えているナワの長老たちに、知っていることを話してくれるよう頼みました。ナワトル語・スペイン語・ラテン語をすべて書けた若いナワの学者たちが、その言葉を書き取りました。ナワの画家たちは二千点を超える色あざやかな絵を描きました。

本のそれぞれのページには二つの段があります。右がナワトル語、左がスペイン語です。スペイン語はいつも一字一句そのまま訳したものではないので、両方が少し違うことを語ることもあります。絵もまた、もう一つの物語を語っています。

この本はスペインへ送られ、のちにイタリアのフィレンツェにある図書館にたどり着きました。そのため「フィレンツェ絵文書」と呼ばれています。「コデックス」とは、手で書かれた本を指す古い言葉です。

今日では誰もがインターネットですべてのページを見ることができます。今もナワトル語を話すメキシコのナワの人々もこの本を読んでおり、その一部は現代のナワトル語に要約されてもいます。

ひと目でわかる

制作
1545/1558年ごろから調査を開始し、最終的な写本は1575〜1577年、トラテロルコ(現在のメキシコシティ)のサンタクルス学院で清書された
制作者
フランシスコ会修道士ベルナルディーノ・デ・サアグン(1499年ごろ〜1590年)と、ナワの長老たち、三言語に通じたナワの学者たち(アントニオ・バレリアーノ、アロンソ・ベヘラーノ、マルティン・ハコビータ、ペドロ・デ・サンブエナベントゥーラなど)、書記や画家たち
言語
ナワトル語(右段)とスペイン語(左段)。スペイン語は翻訳というより要約や注釈であることが多い
分量
全12巻、約2,400〜2,500ページ。現在は3冊に製本されている
挿絵
絵と装飾要素を合わせて2,500点近く(ある集計では絵1,844点、装飾628点)。その半分ほどが自然史を扱う第11巻に集中する
所蔵
イタリア、フィレンツェのメディチ・ラウレンツィアーナ図書館
公開
世界デジタル図書館によるデジタル化(2012年)、ゲティ研究所による「デジタル・フィレンツェ絵文書」(2023年)
意義
征服以前のナワ文化、そしてナワの側から語られた征服について、最も豊かな単一の史料

やさしい

フィレンツェ絵文書とは何か

フィレンツェ絵文書は、1540年代から1577年にかけて植民地時代のメキシコで作られた手書きの書物、すなわちコデックス(絵文書)である。正式な題名は『ヌエバ・エスパーニャの事物に関する一般史(Historia general de las cosas de Nueva España)』という。フランシスコ会修道士ベルナルディーノ・デ・サアグンが率い、ナワの長老・学者・画家たちとともに進めた大規模な調査事業の、最も完全な成果物である。

その主題は、メキシコ中央部でナワトル語を話す人々、すなわちいわゆる「アステカ」帝国を治めたメシカを含むナワの人々の文化である。彼らの神々と儀礼、暦、未来についての信仰、演説と道徳の教え、統治者と貴族、商人と職人、身体と病、動物・植物・鉱物、そして最後にはスペインによる征服までが記されている。

本文は二つの段に並べて書かれており、右段がナワトル語、左段がスペイン語で、その間に絵が描き込まれている。先住民の証言・先住民の文字・先住民の絵画をヨーロッパ式の書物という形式の中に収めていることから、多くの研究者はこれを真の意味での共同著作とみなし、「メスティーソの書物」と呼ぶ者さえいる。

この写本は16世紀以来、フィレンツェのメディチ家の図書館、すなわちメディチ・ラウレンツィアーナ図書館に保管されてきたため、「フィレンツェ絵文書」と呼ばれている。

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一つの世界を描いた十二巻

この絵文書は十二巻からなる。第1巻は神々について、第2巻は暦と大きな祭りについて、第3巻は神々の起源について、第4巻と第5巻は占いや前兆について、第6巻は修辞学・道徳哲学・神学を扱い、「長老たちの言葉」を意味する格式ある演説ウェウェトラトリも収められている。第7巻は太陽・月・星と時間の測り方についてである。

第8巻から第10巻は社会に目を向ける。王や貴族、商人、そして家族・職人・治療師をはじめとするあらゆる人々、さらには身体とその病についてまで扱う。デジタル版で「森・庭・果樹園」と名づけられた第11巻は、動物・鳥・昆虫・魚・樹木・薬草・石・色についての自然誌であり、絵文書全体の絵のおよそ半分がここに集中している。

第12巻は性格が異なる。テノチティトラン、とりわけトラテロルコのナワの人々の視点から語られたメキシコ征服の歴史である。災いを予告したとされる前兆から始まり、スペイン人の到来、統治者モテクソマとの対面、1520年のトシュカトルの祭りでの虐殺、天然痘の流行、そして1521年に終わる長い包囲戦までをたどる。

十二巻全体は、ローマの著述家プリニウスの『博物誌』のような百科事典にたとえられることもあるが、その大部分が描かれている当の人々自身の知識に基づいている点が異なる。

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やさしい

誰が作ったのか

ベルナルディーノ・デ・サアグンは1499年ごろ、スペインのレオン地方サアグンの町に生まれ、サラマンカ大学で学んだのちフランシスコ会に入り、1529年にヌエバ・エスパーニャへ渡った。ナワトル語を修得し、1536年にはトラテロルコに新設された先住民貴族の子弟のための学院、インペリアル・サンタクルス学院のラテン語教師となった。彼は60年以上をメキシコで過ごし、1590年に没した。

この学院は決定的な役割を果たした。学生たちはナワトル語・スペイン語・ラテン語に通じた優れた学者となった。アスカポツァルコ出身のアントニオ・バレリアーノ、クアウティトラン出身のアロンソ・ベヘラーノ、トラテロルコ出身のマルティン・ハコビータ、ペドロ・デ・サンブエナベントゥーラら数名は、何年にもわたりサアグンとともに情報を集め、ナワトル語の本文を書き、草稿を手直しした。ゲティ研究所のある論考が述べるように、修道士たちは教師でありながら、学生たちからも学んでいたのである。

情報そのものは、主にナワの長老たちからもたらされた。征服以前、あるいは征服の直後に育ち、古いしきたりに詳しいとして敬われていた、年配で地位のある男性たちである。彼らはサアグンの問いに答え、しばしば伝統的な絵文書を参照しながら、答えを何人かで話し合って決めた。

挿絵は、書記であり画家でもあるトラクイロの伝統を受け継いだナワの画家たちによって描かれた。研究者たちはおよそ22人の異なる画家の筆跡を識別している。歴史家バルタサル・ブリト・グアダラマが記すように、こうしたナワの著者たちがいなければ、サアグンの著作は日の目を見ることはなかっただろう。

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中級

どのように作られたか――聞き取りから完成した書物まで

この事業には数十年を要した。1558年から1561年ごろにかけて、テペポルコ(現在のイダルゴ州)でサアグンとその助手たちは長老の一団に聞き取りを行い、その答えをしばしば絵とともに記録した。この初期の草稿は今も残っており、メキシコの歴史家フランシスコ・デル・パソ・イ・トロンコソが付けた名にちなんで『プリメロス・メモリアレス(最初の記録)』と呼ばれている。

1561年ごろからサアグンはトラテロルコで新たな長老たちの集団とともに作業を続け、資料を確認し補い、のちにメキシコシティでそれを十二巻にまとめた。現在マドリードに保管されている複数の中間草稿は、本文がどのように改訂されていったかを示している。サアグンは異なる土地や情報提供者からの証言を比較して信頼性を判断しており、これが彼が民族誌学の先駆者と呼ばれる理由の一つである。

最終的な清書本――フィレンツェ絵文書――は、1575年から1577年にかけて、一種の工房のような場で作られた。書記たちはまずナワトル語の段を書き、続いてスペイン語の段を書きながら絵のための空白を残し、そこを画家たちが埋めていった。第12巻の最後のページには、ついに絵が描かれなかった空白が残っている。画家たちの時間が足りなくなったものと見られる。

この作業は、まさに大きな災厄のさなかに行われた。1576年、ナワトル語で「ココリストリ」と呼ばれる大疫病が襲った。サアグンは第10巻に、その年の疫病のせいで学院にはほとんど誰も残らなかった、ほぼ全員が死ぬか病に倒れて去ってしまった、と記している。したがって完成した絵文書は、生き延びた人々によって作られた記録でもある。

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中級

一ページに宿る三つの物語――ナワトル語、スペイン語、絵

ナワトル語とスペイン語の二つの段は、異なる読者のために書かれた。スペイン語はスペイン宮廷やフランシスコ会の役職者に向けたものだった。ナワトル語は、サアグン自身が序文で説明しているように、先住民の間でキリスト教を教え広めるのに役立つことをメキシコの言語で記録せよという上長の命令によるものであり、またナワトル語の力を伸ばす必要のあった修道士たちのためのものでもあった。

そのため、二つの段は正確には一致しない。スペイン語はナワトル語を要約したり短くしたり注釈を加えたりすることが多く、時にはサアグン自身の判断を書き加えることもある。たとえば第12巻では、1520年のトシュカトルの虐殺を描いたスペイン語本文は非常に簡略で、その空いた場所を絵が埋めているのに対し、ナワトル語の段は詳細で凄惨な様子を伝えている。

絵は第三の物語を形づくっている。発話を表す渦巻き模様や地名を示す記号、色の象徴的な使い方といったメソアメリカの慣習と、風景表現や陰影、遠近法といったヨーロッパの技法とが組み合わされている。ナワの画家たちにとって色は単なる装飾ではなく、描かれたものを真に現前させる力を持つものだった。ある絵はキリスト教的な文脈を加え、また別の絵は本文が省いた細部を伝えている。

ゲティ研究所の研究者たちは、時に一致し時に食い違うナワトル語・スペイン語・絵という三つの物語をあわせて読んで初めて、この絵文書を作った人々の意図と、16世紀末のメキシコという変容した世界を理解できると論じている。

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中級

第12巻――ナワの側から見た征服

第12巻は『一般史』の中で唯一、厳密な意味で歴史書と呼べる巻であり、スペインによる征服についての最も重要な先住民側の記録の一つである。1521年8月の最終的な敗北まで戦士たちが持ちこたえた、テノチティトランの双子都市トラテロルコの人々の記憶に基づいている。

その語り口は、エルナン・コルテスの書簡やベルナル・ディアス・デル・カスティーリョの年代記とはまったく異なる。前兆がもたらした恐怖、スペイン人やその馬や犬の奇妙な姿、トシュカトルの祭りで踊っていた人々の虐殺、統治者を含む多くの命を奪った天然痘の流行、そして長い包囲戦における飢えと病と戦いが描かれている。

第12巻には現地の政治も映し出されている。トラテロルコの情報提供者とともに書かれたため、トラテロルコの戦士たちの勇敢さを称える一方、テノチティトランの指導者たちにはやや批判的な傾向がある。臆病で優柔不断な人物として描かれるモテクソマの像は、中立的な描写というより、征服後の数十年間にわたる非難と苦い感情を反映しているのかもしれない。

20世紀に入り、第12巻はミゲル・レオン=ポルティーリャの『敗者の視点(Visión de los vencidos)』(1959年)やジェームズ・ロックハートの『われらここにいる人々(We People Here)』(1993年)といった書物を通じて広く知られるようになり、「敗者の視点」という見方を世に広めて、征服の教え方そのものを変えた。

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中級

なぜ作られたのか――布教、知識、記憶

サアグン自身が掲げた目的は宗教的なものだった。医者が病を治すにはまずその病を知らねばならないのと同じように、宣教師も彼が偶像崇拝と呼んだものを見抜き根絶やしにするためには、古い宗教を詳しく知る必要があると彼は論じた。多くの改宗が表面的なものにすぎないのではないかと彼は懸念し、カトリック信仰がヌエバ・エスパーニャで長続きしないかもしれないと警告している。

しかし、その成果は宣教師のための手引きをはるかに超えるものとなった。この絵文書は祈りの言葉、詩的な演説、医学の知識、農業の用語、何百種類もの動植物の名前、羽根細工のような工芸の語彙を伝えている。疫病が人口の大きな部分を奪っていった時代に、一つの言語と世界の見方が、彼ら自身の言葉で記録されたのである。

参加したナワの学者や長老たちにとって、それは別の意味を持っていたかもしれない。一部の研究者は、彼らがこの事業を通じて祖先の記憶や貴族としての誇り、そして自分たちのアルテペトル(都市国家)の歴史を残そうとしたのではないかと考えている。動機は、関わった人々の数だけ多様だったのだろう。

植民地における布教の道具であると同時に先住民の記憶の器でもあるという、この二重の性格こそが、今日この絵文書を理解するうえでの核心である。

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中級

メキシコからフィレンツェへ――絵文書の旅

1570年代、スペイン当局は先住民の言語で先住民の宗教を扱った文書に対して疑いの目を向けるようになった。国王フェリペ2世は、サアグンの著作をスペインへ送るよう命じた。1578年3月26日付の国王宛の書簡でサアグンは、清書本――全十二巻を四冊にまとめたもの――を完成させ、フランシスコ会総代理ロドリゴ・デ・セケーラに託して船団とともに送らせたと記している。彼は、もし届かなかったら知らせてほしいと頼んでおり、そうすれば作業が失われ忘れ去られることはないだろうと述べている。

写本は1578年ごろにはスペイン宮廷に届いたようである。その後、正確にどのような経緯でフィレンツェに渡ったのかは、今も歴史家の間で議論が続いている。おそらく16世紀が終わる前にメディチ大公家の収集品となり、のちにメディチ・ラウレンツィアーナ図書館の所蔵品となった。現在は三冊に製本されている。

この絵文書は二百年ほどの間、ほとんど知られていなかった。図書館員アンジェロ・マリア・バンディーニが1793年にこれを紹介し、19世紀から20世紀にかけてメキシコ・ヨーロッパ・アメリカの研究者たちが研究を行った。メキシコの歴史家フランシスコ・デル・パソ・イ・トロンコソは20世紀初めにサアグンの写本の複製本を刊行し(『プリメロス・メモリアレス』は1906年に刊行)、1979年にはメキシコ政府の支援のもと、フィレンツェ絵文書全体のカラー複製本が出版された。

ナワトル語本文の初の完全な英訳は、アーサー・J・O・アンダーソンとチャールズ・E・ディブルによって1950年から1982年にかけて全十二分冊で刊行された。30年にわたる一大事業だった。スペイン語訳には、アンヘル・マリア・ガリバイによるものや、アルフレド・ロペス・アウスティンとホセフィナ・ガルシア・キンタナによるものなどがある。

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中級

今日の絵文書

2012年、世界デジタル図書館が写本全体の高解像度画像を公開した。2023年にはゲティ研究所が、2017年から進めてきた「デジタル・フィレンツェ絵文書」を公開し、本文と2,500点近い挿絵を、スペイン語・英語の翻字と翻訳とともに検索できるようにした。

デジタル版には新しい試みも含まれている。ナワの学者エドゥアルド・デ・ラ・クルス・クルスが、今も話されているナワトル語の一方言である東部ワステカ・ナワトル語で作成した各章の要約と音声である。ある意味で、この絵文書は、その多くが最初に書かれた言語を今も話す人々のもとへと戻りつつあるといえる。

ナワの共同体にとって、そしてメキシコ全体にとって、この絵文書は今も生きている文化遺産の一部である。神々や祭りの絵、タマルやトルティーヤといった食べ物、アホロテのような動物の姿は、学校や博物館、大衆文化のなかに今も登場する。

人類学・歴史学・言語学・美術史・植物学・医学の研究者にとって、この絵文書は今も欠かせない史料であり続けている。ただし、誰が語り、誰が書き、誰のために書かれたのかに注意を払いながら、批判的に読まなければならない。

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上級

学術上の論争――著者性、語り手の声、「民族誌学の父」

サアグンは、体系的な質問票、複数の情報提供者の活用、記録同士の突き合わせによって、しばしば「人類学の父」あるいはアメリカ民族誌学の父と呼ばれる。批判的な立場の研究者は、この呼び名が彼の布教という目的や、ナワの協力者たちの仕事を覆い隠しかねないと指摘する。彼の質問はヨーロッパ的な枠組みによって形づくられており、たとえば神々・人間・自然という巻の配列は中世の百科事典にならったものであり、こうした枠組みが長老たちの語り得ることを規定していた。

著者性は中心的な論点である。「デジタル・フィレンツェ絵文書」をはじめとする近年の研究は、この絵文書をサアグンとともに、アントニオ・バレリアーノ、アロンソ・ベヘラーノ、マルティン・ハコビータ、ペドロ・デ・サンブエナベントゥーラ、ディエゴ・デ・グラード、ボニファシオ・マクシミリアーノ、マテオ・セベリーノらの共同著作として位置づけている。ナワトル語本文のどこまでが長老たち自身の言葉で、どこまでが学生たちの編集で、どこまでがサアグンの指示によるものかは議論が続いており、おそらく章ごとに異なっている。

征服以前の宗教についての記述の信頼性も論争の的である。情報提供者たちは、征服から数十年後、彼らの古い宗教を根絶やしにしようとする修道士に向けて、その宗教を実践すれば処罰されかねない植民地社会のなかで語っていた。描写の中には理想化されたものもあれば、キリスト教的な観念に影響を受けたものもあるだろう。研究者たちは、考古学の成果や征服以前の絵文書、その他の植民地時代の史料と比較して、その主張を検証している。

第12巻はそれ自体、独自の問いを投げかける。トラテロルコの視点、モテクソマの描かれ方、前兆をめぐる語りは、征服後の解釈を反映しているのかもしれない。サアグン自身が1585年に征服の物語の改訂版を作っていることは、彼が以前の本文の一部に不安を抱いていたことを示唆している。今日の歴史家たちは、第12巻を透明な目撃証言としてではなく、出来事から一世代後に構成された先住民による歴史解釈として読んでいる。

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上級

証拠と方法――植民地時代の写本を読み解く

現在のこの絵文書の研究は、文献学・美術史・材料分析を組み合わせて行われている。文献学者は、フィレンツェ絵文書のナワトル語を、マドリードに残る以前の草稿と比較して、本文がどのように改訂されていったかをたどる。言語学者にとって、この絵文書は古典期ナワトル語の語彙と文法の主要な資料である。

美術史家は絵の様式を分析して個々の画家を識別し、顔料についても研究してきた。ディアナ・マガローニ・ケルペルが率いた研究は、画家たちがメソアメリカの色材とヨーロッパの材料の両方を用い、色が象徴的な意味を担っていたことを明らかにした。ベレニス・ガイユマンがまとめた絵の点数――絵1,844点と装飾要素628点、合計2,472点――は、絵がこの事業にとってどれほど中心的な存在だったかを示している。

写本の未完成のページ、消された跡、筆跡の変化は、1576年の疫病を含む制作当時の状況を物語っている。その時代の骨に関する科学的研究は、ココリストリ流行の一つが、ある種のサルモネラ菌によって引き起こされた可能性を指摘しており、この絵文書に記された病の描写が現代の研究と結びつく様子を示している。

最後に、高解像度撮影、検索可能な翻字、複数言語による画像タグ付け、IIIFマニフェストといったデジタル技術によって、印刷版では不可能だった規模で本文と絵をあわせて研究できるようになり、ナワトル語話者を解釈の作業に参加させることも可能になっている。

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重要なポイント

共同著作
この絵文書はフランシスコ会修道士とナワの長老、三言語に通じたナワの学者、画家たちがともに作り上げたものであり、次第にその全員による著作として認められつつある。
三つの物語
ナワトル語本文、スペイン語本文、絵は重なり合いながらも異なる物語を語っており、あわせて読まなければならない。
民族誌学と布教
この事業は宣教師が古い宗教を根絶やしにするのを助けることを目的としていたが、まさにその宗教と文化についての驚くべき記録を残す結果となった。
敗者の視点
第12巻はスペイン側の語りに異議を唱えるナワの征服の物語を伝えるが、それ自体も地域固有の、征服後の視点を帯びている。
百科事典的な知
この絵文書は宗教・社会・言語・医学・自然史にわたり、多くの学問分野にとっての基礎的な史料となっている。
生存と記憶
1576年の疫病のさなかに完成したこの絵文書は、災厄のなかで生き延びたナワの知の記念碑でもある。
共同体への回帰
現代のナワトル語による要約を含むデジタル版は、この絵文書をその言語を話す人々のもとへ返している。

記録

  1. 1521年 — テノチティトランとトラテロルコがスペイン軍と同盟した先住民勢力によって陥落する。
  2. 1529年 — ベルナルディーノ・デ・サアグンがヌエバ・エスパーニャに到着する。
  3. 1536年 — トラテロルコにインペリアル・サンタクルス学院が設立され、サアグンがそこでラテン語を教える。
  4. 1558年 — テペポルコでの調査が始まる(1561年まで)。この成果が『プリメロス・メモリアレス』となる。
  5. 1561年 — サアグンがトラテロルコで新たな長老たちとかつての教え子たちとともに作業を続ける。
  6. 1575年 — 挿絵入りの二言語による最終写本の清書が始まる(1577年まで)。
  7. 1576年 — 作業の最中、大疫病(ココリストリ)によって学院がほぼ無人になる。
  8. 1578年 — サアグンがフェリペ2世に、十二巻をスペインへ送るために引き渡したと報告する。
  9. 1590年 — サアグンがメキシコシティで没する。
  10. 1793年 — アンジェロ・マリア・バンディーニがフィレンツェでこの写本について記述する。
  11. 1950年 — アンダーソンとディブルがナワトル語本文の英訳の刊行を始める(1982年に完結)。
  12. 2023年 — ゲティ研究所が「デジタル・フィレンツェ絵文書」を公開する。

用語集

コデックス(絵文書)
巻物ではなく、ページを綴じた形式の手書きの書物。征服以前と植民地時代の両方のメソアメリカの文書を指す。
ナワトル語
メシカを含む、メキシコ中央部のナワの人々の言語。今日でも100万人以上によって話されている。
メシカ
テノチティトランとトラテロルコの人々。いわゆる「アステカ」帝国を治めた支配者たち。
トラテロルコ
テノチティトランの双子都市。大きな市場があり、のちにこの絵文書が完成したサンタクルス学院が置かれた。
トラクイロ
絵文書を作る訓練を受けたナワの書記兼画家。
ウェウェトラトリ
「長老たちの言葉」を意味し、訓戒や儀礼のための格式ある演説を指す。第6巻に収められている。
プリメロス・メモリアレス
1558〜1561年ごろ、テペポルコで作成されたサアグンの調査の初期草稿。
ココリストリ
ナワトル語で「疫病」を意味する語。1576年のものを含む、16世紀のメキシコを襲った壊滅的な大流行を指す。
アルテペトル
独自の土地・統治者・守護神を持つナワの都市国家、または共同体。
サンタクルス学院
先住民貴族の子弟にラテン語とヨーロッパの学問を教えるため、1536年にトラテロルコに設立された学院。

よくある質問

メキシコで作られた本なのに、なぜ「フィレンツェ」の絵文書と呼ばれるのですか。

この写本が何世紀にもわたり、メディチ家の収集品を起源とするイタリア・フィレンツェの図書館に保管されてきたからです。

書いたのは修道士ですか、それともナワの人々ですか。

両方です。事業を主導したのはサアグンですが、知識を提供したのはナワの長老たちであり、本文の多くを書いたのは三言語に通じたナワの学者たちで、絵を描いたのはナワの画家たちでした。今日の研究者たちはこれを共同の作品として扱っています。

スペイン語の段とナワトル語の段は同じ内容ですか。

いいえ。スペイン語はしばしば要約や注釈であり、内容を省いたり修道士の意見を加えたりすることもあります。通常、ナワトル語の方がより詳しく書かれています。

絵はいくつあるのですか。

絵と装飾要素を合わせて2,500点近くあります。そのおよそ半分は、動物・植物・鉱物を扱う第11巻に集中しています。

実際に見ることはできますか。

はい。世界デジタル図書館の画像と、ゲティ研究所の「デジタル・フィレンツェ絵文書」によって、写本全体をインターネット上で見ることができます。

征服についての史料として、第12巻はどれほど信頼できますか。

ナワの視点を伝える史料として非常に貴重ですが、1521年から数十年後にトラテロルコの情報提供者たちによって構成されたものであり、彼らの記憶や地元への忠誠、征服後の解釈を反映しています。歴史家たちはこれを、スペイン側やほかの先住民の史料とあわせて読んでいます。

サアグンはナワの文化に対して好意的だったのですか。

その態度は一様ではありませんでした。彼はナワの言語や修辞、知識には感嘆していましたが、その宗教は根絶すべき偶像崇拝とみなしていました。この絵文書には、感嘆の念と布教という目的の両方が映し出されています。

出典・参考文献

  1. Florentine Codex. Wikipedia
  2. Bernardino de Sahagún. Wikipedia
  3. Primeros Memoriales. Wikipedia
  4. Kim N. Richter and Alicia Maria Houtrouw (eds.), Digital Florentine Codex. Getty Research Institute, 2023
  5. Kim N. Richter and Alicia Maria Houtrouw, Introducing the Florentine Codex (1575–77) and Its Three Narratives. Getty Research Institute, Digital Florentine Codex, 2023
  6. Baltazar Brito Guadarrama, Nahua Informants, Students, Scribes, and Artists: The Other Authors of the Florentine Codex. Getty Research Institute, Digital Florentine Codex, 2023
  7. Manuel Aguilar-Moreno, The Itinerant Life of the Florentine Codex. Getty Research Institute, Digital Florentine Codex, 2023
  8. Bernardino de Sahagún; trans. Arthur J. O. Anderson and Charles E. Dibble, Florentine Codex: General History of the Things of New Spain. School of American Research / University of Utah Press, 1950–1982
  9. James Lockhart, We People Here: Nahuatl Accounts of the Conquest of Mexico. University of California Press, 1993
  10. Miguel León-Portilla, Visión de los vencidos: Relaciones indígenas de la conquista. Universidad Nacional Autónoma de México, 1959

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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