最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
何百年もかけて書かれた、きまりでいっぱいの古い本が何千冊もある図書館を思い浮かべてみてください。しかも、そのきまりの多くは互いに食いちがっています。裁判官は混乱し、人々はどのきまりが正しいのかで言い争います。今からおよそ1,500年前、コンスタンティノープル(今のイスタンブール)から国を治めていたローマ皇帝ユスティニアヌスは、これを何とかしようと決めました。
彼は、トリボニアヌスという賢い法律家と専門家の一団に、すべてを読み、古くて矛盾する部分は捨て、いちばんよいところだけを残すよう命じました。彼らはわずか数年で、一そろいの法律の本を作り上げました。歴代皇帝の法律をまとめた本、賢い法律家たちの意見を集めた巨大な本、そして法律を学ぶ学生のための短い教科書です。
その教科書は、有名な考えから始まります。正義とは、すべての人にその人の受けるべきものを与えることだ、というものです。また、法の基本的なきまりとして、正直に生きること、誰も傷つけないこと、そしてそれぞれの人にふさわしいものを与えることが挙げられています。
その後、西ヨーロッパの人々は何百年もの間、これらの本を忘れていました。ところが1070年頃、イタリアの学者たちがそれをふたたび見つけ出しました。ヨーロッパ中から学生たちがボローニャという町に集まってこれを学び、これが最初の大学が生まれるきっかけの一つになりました。
今日、フランスやドイツから日本、韓国、ブラジルにいたるまで、多くの国の法律が、この古いローマの本から育ったものです。だから今日、裁判官が契約や財産、相続について語るとき、その考え方のいくつかは、ユスティニアヌスの編纂チームにまでさかのぼるのです。
ひと目でわかる
- 編纂
- 529〜534年(新しい法令である「新勅法」は、565年のユスティニアヌスの死まで発布され続けた)
- 場所
- 東ローマ(ビザンツ)帝国の都、コンスタンティノープル
- 命じた人物
- 皇帝ユスティニアヌス1世(在位527〜565年)
- 編纂の中心人物
- 宮内長官(クァエストル)トリボニアヌス。官僚・法学教授・弁護士からなる委員会とともに作業した
- 構成
- 勅法彙纂(皇帝の法令、全12巻)、学説彙纂(法学者の著作、全50巻)、法学提要(教科書、全4巻)、新勅法(新しい法令)
- 言語
- 主にラテン語。新勅法の大半はギリシア語
- 名称
- 「Corpus Iuris Civilis(市民法大全)」という呼び名は、1583年のディオニュシウス・ゴトフレドゥスによる校訂版以降に定着した
- 後世への影響
- 大陸ヨーロッパ、ラテンアメリカ、東アジアなどの大陸法(シビル・ロー)の伝統の基礎となり、教会法や国際法にも影響を与えた
やさしい
ローマ法大全とは何か
ローマ法大全(コルプス・ユーリス・キウィーリス、「市民法の集大成」の意)は、コンスタンティノープルで皇帝ユスティニアヌス1世のもとに作られた法律文書の集成に、後の時代の学者たちが与えた名称である。これは一冊の書物として書かれたのではなく、それぞれ異なる目的のために作られた四つの部分からなる。皇帝の法令を集めた勅法彙纂、古典期のローマ法学者たちの著作を集めた学説彙纂、法学部一年生のための教科書である法学提要、そして勅法彙纂の完成後にユスティニアヌスが発布した新しい法令である新勅法である。
ユスティニアヌス自身は「ローマ法大全」という呼び名を用いていなかった。この名称が定着したのは1583年以降のことで、フランスの法学者ディオニュシウス・ゴトフレドゥス(ドニ・ゴドフロワ)が、この四つの部分を一つにまとめてこの名で出版してからのことである。ここでいう「市民法」とは、教会法(カノン法)と区別される、ローマ市民共同体の法(ユス・キウィレ)を意味する。
この事業の目的は、膨大で混乱したローマ法の体系を整理することにあった。ローマ法はおよそ千年にわたって積み重なってきたものだった。皇帝たちの裁定は互いに矛盾し合い、偉大な法学者たちの著作は何百冊にも及び、その全部を読み通せる者はほとんどいなかった。ユスティニアヌスは専門家たちに、この材料を収集し、削り、調和させ、現代化するよう命じ、その上で、これから先は新しく編まれた書物だけが法的な効力を持つと宣言したのである。
やさしい
四つの部分をひとつずつ見る
勅法彙纂(コデックス・ユスティニアヌス)は、2世紀のハドリアヌス帝の時代以降の歴代皇帝の法令を集めたものである。ユスティニアヌスは528年2月、十人からなる委員会を設けた。この委員会は、私的に編まれたグレゴリウス法典とヘルモゲニアヌス法典、そして438年の公式なテオドシウス法典という三つの先行する集成、およびそれ以降の法令をもとに作業を進めた。最初の勅法彙纂は529年4月に発布された。これは534年、改訂された第二版に置き換えられ、全十二巻に編成された。第一巻は教会法、法の淵源、高官の職務について、第二巻から第八巻は私法について、第九巻は犯罪について、第十巻から第十二巻は行政について定めている。現存するのはこの第二版のみで、初版についてはエジプトのパピルスに残る目次の断片以外、ほとんど何も伝わっていない。
学説彙纂は、パンデクテン(「すべてを含むもの」を意味するギリシア語に由来する)とも呼ばれ、規模の上でも、法律家にとっての価値の上でも、最大の部分である。530年12月、ユスティニアヌスはトリボニアヌスに、主に1世紀から3世紀にかけて活動した古典期の法学者たちの著作から抜粋を編むよう命じた。トリボニアヌスは、官僚一人、教授四人、弁護士十一人からなる十六人の委員会を組織した。彼らは三年でこの作業を終えた。学説彙纂は五十巻に編成され、それぞれの巻はさらに特定の主題ごとの「titulus(題)」に分かれ、それぞれの抜粋には著者名と原典の書名が付されている。全体のおよそ五分の二がウルピアヌスから、およそ六分の一がパウルスからの引用である。
法学提要は、学生のための短い入門書で、人・物・訴権についての四巻からなる(相続と債務は「物」の部に含まれる)。これは、2世紀の法学者ガイウスの『法学提要』を色濃く手本としたものだった。異例なことに、この教科書もまた完全な法的効力を与えられていた。冒頭には、何世紀にもわたって繰り返されてきた定義が置かれている。正義とは、各人にその人自身のものを与えようとする、揺るぎない永続的な意志である、というものである。
新勅法(ノウェッラエ・コンスティトゥティオネス、「新しい法令」)は、534年以降にユスティニアヌスが発布した法令である。これらは皇帝自身によって公式に一つにまとめられることはなく、いくつかの私的な写本集を通じて今日に伝わっている。その多くは、東方帝国の日常語であったギリシア語で書かれており、この編纂事業が完成する頃には、すでに法律の世界が変化しつつあったことを物語っている。
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ユスティニアヌスとトリボニアヌス——誰が作ったのか
ユスティニアヌスは482年頃、バルカン半島の、ラテン語を話すつつましい家に生まれ、叔父である皇帝ユスティヌス1世を通じて権力の座についた。527年から565年まで統治し、ローマ帝国のかつての栄光を取り戻そうという野心を抱いていた。彼の将軍たちは北アフリカとイタリアを再征服し、彼自身はコンスタンティノープルのハギア・ソフィア聖堂を再建した。妻の皇后テオドラは、548年に世を去るまで、政治において影響力を持つ協力者であった。
この法律事業を指揮したのは、法令の起草を担当する大臣である宮内長官の職にあった、深い学識を持つ法律家トリボニアヌスである。同時代の著述家たちは彼の知識をたたえる一方、その強欲さを非難した。彼は、官僚たちの一団、コンスタンティノープルとベリュトス(ベイルート)の法学校の教授たち、そして実務にあたる弁護士たちとともに働いた。テオフィルスとドロテウスという二人の教授は、法学提要の執筆を助けている。
皇帝はこの事業を自らのものとして提示し、各部分を公布する序文の法令は皇帝自身の言葉で語られている。しかし、実際に何千もの文献を読み、削り、編集するという作業を成し遂げたのは、これらの専門家集団であり、彼らはそれまでの皇帝たちがまったく成し得なかったことを、わずか数年で成し遂げたのである。
中級
編纂者たちはどのように作業したか
編纂者たちは、単に書き写していたわけではない。彼らは、古い文献を短くし、組み合わせ、書き換えることを許されており、その結果として一貫性を持ち、自分たちの時代の法にふさわしいものを作り上げることが求められていた。時代遅れの制度は取り除かれ、矛盾は解消され、いくつかの規則は改められた。ユスティニアヌスはまた、学説彙纂の完成前に、法学者たちの間で長く続いていた論争に決着をつけるため、「五十の裁定」として知られる一連の判断(529〜531年)を出している。編纂者たちが原典に加えた変更は「インテルポラティオ(挿入・改変)」と呼ばれる。
学説彙纂の公布を告げる法令の中でユスティニアヌス自身が語るところによれば、委員たちはおよそ三百万行に及ぶ約二千冊の書物を読み、それを約十五万行にまで圧縮したという。正確な数字がどうであれ、その圧縮の規模は途方もなく大きく、古典期の法律文献の多くは、今日、学説彙纂のために選ばれた抜粋という形でしか残っていない。
これらの書物が完成すると、ユスティニアヌスは裁判官や法律家が古い著作を直接引用することを禁じ、学説彙纂への注釈も禁止した。認められたのは、逐語的なギリシア語訳と短い要約だけだった。彼の狙いは、閉じられた、唯一絶対の法体系を作ることにあった。しかし実際には、東方の法律家の多くがラテン語を容易には読めなかったため、まもなくギリシア語による要約や注釈が現れることになった。
中級
ローマ法の引用をどう読むか
法律家や歴史学者は、この法大全を簡潔な番号のしくみで参照する。「D. 1.1.10」という引用は、学説彙纂の第1巻・第1題・第10断片を意味し、さらに長い引用では段落番号が加わることもある。「C.」は勅法彙纂を、「Inst.」(または「I.」)は法学提要を、「Nov.」は新勅法を表す。中世の法律家たちは番号ではなく、題や断片の冒頭の言葉を挙げて引用する別のしくみを用いていたため、古い書物は現代の読者にはわかりにくく見えることがある。
学説彙纂の各断片は、冒頭にその法学者の名前と、そこから引用された著作名——たとえば「ウルピアヌスの、法務官告示に関する注釈の一書」——を記す一文で始まる。この表示があるからこそ、研究者たちは、ある一つの著作のすべての断片を集めて、失われた古典期の法学者の著作を復元することができるのであり、これはまた、委員会の作業方法についての理論の根拠ともなっている。
したがって、この法大全を読むということは、いくらか、丹念に編集されたアンソロジーを読むことに似ている。2世紀の法学者の声と、6世紀の編集者の声とが、同じ一文の中に同居していることがあり、ローマ法史を学ぶうえでの技量の一部は、その両方の声を聞き分けることにある。
中級
法は何を定めているか——人・財産・契約・犯罪
この法大全の多くは私法を扱っている。人の身分(自由人と奴隷、市民、父の権力のもとにある子ら)、婚姻と持参財産、財産と占有、相続と遺言、そして契約や不法行為から生じる債務などである。ローマの法学者たちは、所有と占有の違い、合意によって成立する契約の種類、損害を生じさせた場合の過失という考え方など、ここで精密な概念を発展させていた。こうした概念こそ、後のヨーロッパの法律家たちが最も役立つと考えたものである。
この法大全は、それ自身の社会の姿も映し出している。奴隷制は法秩序に完全に組み込まれていたが、ユスティニアヌスの法令は奴隷解放をより容易にした。勅法彙纂の第1巻は、三位一体とカトリック信仰に関する法から始まり、異端者、異教徒、ユダヤ人、サマリア人を制限する法を含んでいる。しばしばテオドラの影響と結びつけられるいくつかの新勅法は、持参財産や相続といった事柄における女性の法的地位を改善し、女優や、売春を強いられた女性たちを保護した。
公法や刑事法が占める割合は私法よりも小さいが、学説彙纂と勅法彙纂には、犯罪や刑罰、官吏の職務、租税に関する規則も含まれている。「すべての者にかかわることは、すべての者によって承認されなければならない」という原則や、「皇帝は法に拘束されない」という考え方は、いずれもこの法大全から取り出され、後の政治思想家たちによって、まったく異なる目的のために用いられることになった。
中級
同じころ、世界では
この編纂事業は、危機と野心が交錯する年月の中で進められた。学説彙纂の委員会が作業を続けていた532年1月、コンスタンティノープルでニカの乱が勃発した。暴徒たちは、トリボニアヌスを含む不人気な大臣たちの罷免を要求し、都の中心部の多くが焼け落ちた。ユスティニアヌスの軍はこの反乱を血なまぐさく鎮圧し、それから数週間のうちに、537年に完成することになるハギア・ソフィア聖堂の再建に着手した。同じ532年、ユスティニアヌスは新しいペルシア王ホスロー1世との間に「永遠平和」を結び、軍を西方に振り向けられるよう黄金を支払った。この講和は540年、ホスローがアンティオキアを略奪したことで破られた。
ユーラシアの反対側でも、諸国家は法と宗教の秩序を築こうとしていた。朝鮮では、『三国史記』が、新羅の法興王が520年に律令を発布し、527年頃、異次頓の殉教の後に新羅の朝廷が仏教を公認したと伝えている。523年から554年まで在位した百済の聖王は、538年に都を泗沘へ移し、南朝の梁と密接な関係を保った。梁の武帝は仏教の大いなる後援者だった。百済は、まさにこの数十年の間に、日本へも仏教を伝えている。その年は史料によって538年とも552年とも伝えられる。
その一世紀後には、中国の唐王朝が自らの包括的な法典を作り、新羅と日本はこれを学び自国に取り入れた。日本の645年の大化の改新はその一例である。ローマ法と中国法は互いに影響を与え合うことなく発展したが、ユスティニアヌスの法大全と唐の律令を比べてみると、広大な帝国に散らばった規則を、一つの権威ある法文にまとめるという同じ課題に対する、まったく異なる二つの答えが見えてくる。
中級
失われ、そして見いだされる——コンスタンティノープルからボローニャへ
東方では、ユスティニアヌスの法は効力を保ち続けたが、次第にギリシア語の要約を通じて用いられるようになっていった。900年頃、皇帝レオ6世のもとで、これは「バシリカ」として知られる大部のギリシア語法律集成へと再編され、帝国が終わるまでビザンツの裁判所で用いられ続けた。
西方の事情は異なっていた。ユスティニアヌスの再征服の後、彼の法はイタリアに導入されたが、まもなくランゴバルド族の侵入によって半島の大部分がコンスタンティノープルから切り離されてしまった。勅法彙纂と法学提要は断片的に知られていたが、学説彙纂は、およそ五世紀の間、実務からほぼ姿を消していた。原文についての後世の知識は、そのほぼすべてが、533年から間もない6世紀に書き写された一冊の写本、「フィレンツェ写本(リッテラ・フロレンティナ)」に依存している。この写本はおそらく6世紀末には南イタリアにあり、12世紀にはピサに保管されていたが、1406年に戦利品としてフィレンツェへ持ち去られた。現在はビブリオテーカ・メディチェア・ラウレンツィアーナに所蔵されている。
1070年頃、学説彙纂は北イタリアで再び姿を現した。ボローニャでは、イルネリウスという教師がユスティニアヌスの法文についての講義を始め、行間や欄外に短い注釈(グロッサ)を書き加えて説明した。彼の学派、いわゆる注釈学派(グロッサトーレス)は、ヨーロッパ中から学生を集め、ボローニャ大学の興隆に寄与した。13世紀には、アックルシウスがこれらの注釈を一つにまとめ、標準的な注釈書『グロッサ・オルディナリア』を作り上げ、これはその後何世紀にもわたって本文とともに印刷され続けた。
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長い残響——大陸法の伝統
ボローニャから、ローマ法の研究はフランス、スペイン、ドイツなどの大学へと広がっていった。教会法や各地の慣習法と結びついて、これは中世および近世初期のヨーロッパに共通する学識法「ユス・コムーネ」を形作った。ここで学んだ法律家たちは、国王や都市、教会に仕え、その概念はあらゆる場所での法的な議論の形を定めていった。
16世紀の人文主義的な学者たちは、ユスティニアヌスによる編集の背後にある本来のローマ法を復元しようと、この法大全を歴史的に研究し始めた。19世紀には、ドイツのパンデクテン法学が、学説彙纂の上に高度に体系的な法学を築き上げた。とりわけ1804年のフランス民法典と1900年のドイツ民法典という二つの大きな国家法典は、この伝統から多くを取り入れている。これらを通じて、ローマ法の概念はラテンアメリカ、日本、韓国、トルコなど、実に多くの国々へと到達した。
ローマ法を体系として採用することのなかった英国のようなコモン・ロー諸国においてさえ、この法大全は法思想や教会裁判所、海事法、そして法学の語彙に影響を与えた。国際法もまた、「万民法(ユス・ゲンティウム)」のようなローマの概念を借用している。今日、学術的な標準テクストとされているのは、19世紀にテオドール・モムゼン、パウル・クリューガーらによって作られた校訂版である。
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学術上の論争——インテルポラティオと編纂の方法
編纂者たちが文献を改変することを許されていたため、古典期ローマ法の研究者は、学説彙纂の一節ごとに、それがどこまで元の法学者の言葉を反映し、どこからが6世紀の編集者の手によるものかを問わなければならない。19世紀末から20世紀初めにかけて、多くの学者が大きな熱意をもってインテルポラティオ(後代の改変)を探し求め、疑わしい語句を後からの挿入として印づけていった。疑わしいインテルポラティオの一覧表まで作られた。しかし20世紀半ば以降、この手法は行き過ぎだったとして広く批判されるようになった。今日では、想定されていたインテルポラティオの多くは、すでに古代末期の法学者著作の写本において加えられていた変更を反映しているにすぎない、あるいは単に純正な古典期の表現にすぎないと考えられている。今日の多くの研究者は、一つひとつの事例をより慎重に判断するようになっている。
第二の論争は、学説彙纂の委員会がいかにしてわずか三年でこの作業を実際にやり遂げたのかという点にかかわる。1820年、ドイツの学者フリードリヒ・ブルーメは、ほとんどの題の中で、引用される著作が繰り返し現れる一定の順序に並んでいることに気づいた。彼は、委員たちが素材をいくつかの「集団(マッセ)」に分け、それぞれを小委員会が担当した上で、最後にその結果を統合したのではないかと考えた。ブルーメのこの「マッセ理論」は、今日でも細部の見直しを受けながら、おおむね受け入れられている。
学者たちはまた、この事業全体をどう理解すべきかについても意見を異にしている。ある者はその保守的で古典回帰的な性格を強調する。ユスティニアヌスは法学者たちの黄金時代を振り返り、それを保存しようとしたのだという見方である。別の者は、その革新性を強調する。編纂者たちは法そのものを変更し、単一の権威ある法文を課すことで、それ以前のどんなものよりも現代の法典に近いものを作り出したのだという見方である。
上級
さまざまな見方
ローマか、ビザンツか。ユスティニアヌスとその臣民たちは、自分たちを「ローマ人」と呼び、自らの国家を「ローマ帝国」と呼んでいた。「ビザンツ」という言葉は、後の時代につけられた呼び名にすぎない。連続性を強調する歴史学者たちは、この法大全をローマ法の集大成として描く。一方、別の歴史学者たちは、これがキリスト教的でギリシア語を話す東方世界に固有の優先事項を反映したものであり、それは新勅法や勅法彙纂の宗教関係の法令にはっきりと見て取れると強調する。この法大全をどう位置づけるかによって、それが一つの時代の終わりと見えるか、新しい時代の始まりと見えるかが変わってくる。
ヨーロッパの遺産なのか。伝統的な説明では、この法大全は「西洋」法の基礎とされてきた。しかし近年の研究は、それがヨーロッパとアジアの間に位置する都市で編まれ、地中海各地の法学者たち——たとえばウルピアヌスは現在のレバノンにあたるテュロスの出身である——の著作をもとに作られ、その後、ビザンツ、西ヨーロッパ、スラヴ世界、そして近代の諸法典を通じて東アジアやラテンアメリカにおいてすら、それぞれ異なった形で受け継がれてきたことを指摘している。たとえば日本や韓国の民法典は、ローマ法の概念を直接ではなく、ドイツやフランスの法典というモデルを介して受け取ったのである。
誰のための正義か。この法大全はその論理の緻密さゆえに賞賛されているが、同時に奴隷制を法として認め、家庭における父の権力を強化し、宗教的少数派の権利を制限するものでもあった。異教の教師たちに対するユスティニアヌスの法令は、しばしば529年頃のアテナイの新プラトン主義学派の終焉と結びつけて語られるが、その結びつきがどれほど直接的なものだったかについては、研究者の間でも意見が分かれている。女性を保護する法令におけるテオドラの役割を称える歴史学者もいれば、こうした像は一部、敵意に満ちた、あるいは理想化された史料に依存していると警告する歴史学者もいる。バランスのとれた読み方とは、この法の知的な達成と、その社会的な限界の両方を視野に入れ続けることである。
重要なポイント
- 法典編纂
- 散らばった規則を一つの権威ある成文集成へとまとめること。ユスティニアヌスの事業は、古代世界における最も野心的な試みだった。
- 法学者の法
- ローマ法の多くは、その意見が権威を持つ専門の法学者たちによって発展させられた。学説彙纂は彼らの論理を今に伝えている。
- インテルポラティオ(改変)
- 編纂者たちが古い文献に加えた変更のこと。これを見分けることは、ローマ法史研究の中心的な課題である。
- 各人にふさわしいものを与えることとしての正義
- 法学提要の冒頭に置かれた定義で、後に法哲学の古典的な定式となった。
- 継受
- 中世・近代ヨーロッパにおけるローマ法の受容のことで、ボローニャの注釈学派から始まった。
- 大陸法の伝統
- 判例に基づくコモン・ローとは対照的に、包括的な法典とローマ法上の概念に基づく法体系。
記録
- 438年 — テオドシウス法典が発布される。皇帝の法令をまとめた先行する公式集成。
- 527年 — ユスティニアヌスが皇帝となる。
- 528年 — 新しい勅法彙纂を編むための十人委員会が任命される(2月)。
- 529年 — 最初のユスティニアヌス勅法彙纂が発布される(4月)。
- 530年 — ユスティニアヌスがトリボニアヌスに学説彙纂の編纂を命じる(12月)。
- 532年 — コンスタンティノープルでニカの乱。ペルシアのホスロー1世との間に「永遠平和」が結ばれる。
- 533年 — 法学提要と学説彙纂が公布され、12月末に施行される。
- 534年 — 改訂された勅法彙纂の第二版が発布される(11月)。
- 565年 — ユスティニアヌスが没する。それまで新勅法は発布され続けていた。
- 900年頃 — レオ6世のもとで、ユスティニアヌス法をギリシア語に再編した『バシリカ』が編まれる。
- 1070年頃 — 学説彙纂が北イタリアで再び姿を現す。まもなくイルネリウスがボローニャで教え始める。
- 1406年 — 学説彙纂の写本『フィレンツェ写本』がピサからフィレンツェへ運ばれる。
- 1583年 — ディオニュシウス・ゴトフレドゥスがこの集成を『Corpus Iuris Civilis』として出版する。
- 1804年 — ローマ法の伝統に強く影響されたフランス民法典が制定される。
用語集
- 勅法彙纂(コデックス)
- 法大全のうち、皇帝の法令を収めた部分。「コデックス」はもともと綴じられた書物を意味するラテン語でもある。
- 学説彙纂/パンデクテン
- 古典期のローマ法学者たちの著作からの抜粋を集めた全五十巻の集成。
- 法学提要
- 全四巻からなる法律の入門教科書で、法としての効力を与えられていた。
- 新勅法
- 534年以降にユスティニアヌスが発布した新しい法令で、その大半はギリシア語で書かれている。
- 法学者(ユリスト)
- その書いた見解が法の形成に影響を与えた、ローマの法律の専門家。
- クァエストル(宮内長官)
- ユスティニアヌスの時代、法令の起草を担当した大臣の職名。
- グロッサ(注釈)
- 文章の行間や欄外に書き加えられた短い説明の注記。
- ユス・コムーネ
- ローマ法と教会法を基盤とする、中世・近世初期のヨーロッパに共通する学識法。
- インテルポラティオ
- 後の編集者が、より古い文献に加えた改変のこと。
- 市民法
- ここでは、法典に基づくローマ法由来の法の伝統を指す。私人間の関係を扱う法という意味でも用いられる。
よくある質問
この法律はユスティニアヌス自身が書いたのですか。
いいえ。彼はこの事業を命じ、承認しただけで、法令は彼の名において語られていますが、実際の編纂作業は、大臣トリボニアヌスが率いる専門家集団によって行われました。
なぜ「市民」法と呼ばれるのですか。
「市民(キウィリス)」は、市民を意味するラテン語キウィスに由来します。ユス・キウィレとは、教会法とは区別される、ローマ市民共同体の法という意味でした。「Corpus Juris Civilis」という呼び名自体は、はるか後の1583年になって与えられたものです。
この中で最も有名な一文は何ですか。
法学提要の冒頭にある一文です。正義とは、すべての人にその人自身のものを与えようとする、揺るぎない永続的な意志である、というものです。またそこには、正直に生きること、誰も傷つけないこと、各人にふさわしいものを与えることという、三つの基本原則も挙げられています。
どのようにして今日まで伝わったのですか。
東方では実際に使われ続け、ギリシア語で書き直されていきました。西方では学説彙纂はほとんど姿を消し、6世紀に書かれた一冊の写本『フィレンツェ写本』を通じてかろうじて命脈を保った後、1070年頃にイタリアで再発見されました。
今でも意味を持っているのですか。
はい。フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ラテンアメリカ諸国、日本、韓国など多くの国の民法典は、そこから取られた概念の上に築かれており、法学生は今もローマ法を学び続けています。
編纂者たちは古い文献をどれほど変えたのですか。
彼らには自由に手を加える権限が与えられていました。20世紀初めの学者たちは、そうした改変(インテルポラティオ)があらゆる箇所にあると考えましたが、今日の多くの研究者はより慎重で、一節ごとに個別に判断しています。
この法大全は宗教について何を語っているのですか。
勅法彙纂は、キリスト教信仰についての法から始まり、異端者、異教徒、ユダヤ人、サマリア人に対する規制を含んでいます。これは、キリスト教帝国というユスティニアヌスの理想を映し出しています。
出典・参考文献
- Corpus Juris Civilis. Wikipedia
- Code of Justinian. Wikipedia
- Digest (Roman law). Wikipedia
- The Institutes of Justinian (excerpts, English translation). Internet History Sourcebooks, Fordham University
- Yves Lassard and Alexandr Koptev, The Roman Law Library (Latin texts of the Codex, Digest, Institutes and Novels). Université Grenoble Alpes
- Littera Florentina. Wikipedia
- Irnerius. Wikipedia
- Justinian I. Wikipedia
- Eternal Peace (532). Wikipedia
- Damascius. Wikipedia
関連記事
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- ホスロー1世サーサーン朝ペルシアの王(在位531~579年)。「アヌーシルワーン」と呼ばれ、税制と軍制を改革してユスティニアヌスと覇を競い、後に正義の王の模範として記憶された。
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
