歴史

大化の改新

大化改新(たいかのかいしん)

645–646年 · 難波、摂津(大和、日本)

  • 法・制度
  • 経済

ひとことで

大化の改新とは、645年の宮廷政変の後に日本で発表された一連の改革であり、有力な氏族の連合であった王国を、唐にならって役人が治める中央集権国家へと変えようとした試みである。

大化の改新
画像: Gukei Sumiyoshi · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

645年、飛鳥にあった日本の王宮で、おどろくようなことが起こりました。天皇の前で大事な儀式が開かれている最中に、中大兄皇子という若い皇子と、その友だちの中臣鎌足が、朝廷でいちばん力を持っていた蘇我入鹿をおそって殺してしまったのです。次の日、入鹿のお父さんは自分の家に火をつけて命を絶ちました。

長い間、蘇我氏は天皇よりも強い力を持っていました。皇子と友だちはこれを変えたいと思っていました。天皇がいちばん上に立ち、お金持ちの一族ではなく役人が国を治める国をつくりたかったのです。

新しい政府は、初めて年に名前をつけました。「大きな変化」という意味の「大化」です。そして646年、大きな計画を発表しました。土地と農民はもう力のある一族のものではなく国のものになる、国はいくつもの地方に分けられる、どの家も台帳に書きとめられる、そしてみんなが同じやり方で税を納める、というものでした。

新しい指導者たちは、こうした考えの多くを、当時強大だった唐が治める中国から取り入れました。助言者の中には、30年以上も中国で暮らし、その政治のしくみを実際に見てきた人もいました。

国全体を変えるのはゆっくりとしたことです。計画の多くは、実現するまでに50年以上かかりました。646年に本当はどれくらい変わったのか、そして後で歴史書を書いた人たちがどれくらいつけ加えたのか、歴史学者たちは今も議論を続けています。

ひと目でわかる

時期
645年6月の政変(乙巳の変)。646年正月元日に改新の詔が出される。改革は650年代まで続く
場所
政変は飛鳥板蓋宮で起こる。新政府は難波(大阪)へ移り、652年に難波長柄豊碕宮が完成
指導者
中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原鎌足)、孝徳天皇
顧問
隋・唐に学んだ高向玄理と僧旻が「国博士」に任じられる
主な目的
土地と人民の私有をやめる、国と郡を設ける、戸籍と班田、統一された税制
最初の元号
大化(「大きな変化」の意)、日本最初の元号
主な史料
『日本書紀』(720年)。木簡や宮跡の発掘によって検証されている
結果
701年の大宝律令で完成する律令国家への第一歩

やさしい

大化の改新とは何か

大化の改新とは、645年の政変から始まった日本の一連の政治改革を、歴史学者が呼ぶ名前である。「大化」(たいか)は「大きな変化」を意味し、その年に定められた新しい元号だった。日本が中国式に元号を用いたのはこれが初めてである。改革の目的は、大きな氏族がそれぞれ土地と人民を抱えていた体制を、天皇という一人の君主が役人・法・台帳を通じて治める体制へと変えることにあった。

私たちが知っていることの大半は、720年に完成した官撰の歴史書『日本書紀』に由来する。『日本書紀』は政変を劇的に描き、646年正月元日に出されたとされる長い改新の詔を引用している。しかし、この書物は70年以上後に、改革を進めた者たちの子孫が編んだものであるため、歴史学者たちは一世紀にわたり、その記述を木簡や宮跡といった他の証拠と照らし合わせて検証してきた。

改新は一夜にして新しい国家を作ったわけではない。天智天皇(在位668〜671年)、天武天皇(在位673〜686年)の治世を経て、701年の大宝律令で完成する長い過程の出発点だった。それでも645年の出来事は、日本の天皇制国家の伝統的な出発点となっている。

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やさしい

645年以前——蘇我氏と氏族たち

6世紀から7世紀初めにかけて、ヤマトの大王は有力な氏族(うじ)とともに国を治めていた。それぞれの氏族は世襲の称号と自分の土地、そして物資や労役を差し出す従属民の集団(部)を抱えていた。7世紀初めに最も強かったのは蘇我氏である。蘇我氏の指導者たちは娘を王家に嫁がせ、仏教を推し進め、飛鳥寺を建て、王位継承をも左右した。

推古天皇(在位593〜628年)の時代には、蘇我馬子が聖徳太子とともに権力を分け合っていた。二人が世を去ると、馬子の子の蝦夷と孫の入鹿はさらに強い力を持つようになった。643年、入鹿は聖徳太子の子で王位継承の候補でもあった山背大兄王を斑鳩で襲い、山背とその一族は命を落とした。『日本書紀』によれば、蘇我氏は王家の特権のように見える立派な墓や邸宅も築いていたという。

同じ頃、聖徳太子の時代に中国へ渡った留学生たちが帰国しつつあった。彼らは隋が滅び唐が興るのを目のあたりにし、能力に応じて位を与えられる役人、戸籍、すべての成人に課される税、国が分け与える土地といった、中国式の国家のしくみを知っていた。野心を抱く若い王族たちにとって、こうした考えは蘇我氏を打ち破る道を示すものだった。

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やさしい

645年の政変

陰謀を主導したのは、皇極天皇の子である中大兄皇子と、宮廷の祭祀を司る氏族の出であった中臣鎌足である。『日本書紀』には二人の出会いを伝える有名な話がある。飛鳥寺で行われた蹴鞠の会で皇子の靴が脱げて飛んでしまい、それを鎌足が拾って差し出したことから、二人の友情が始まったという。

645年6月12日、飛鳥板蓋宮で天皇の御前において儀式が行われた。『日本書紀』によれば、これは朝鮮諸国からの朝貢を受ける儀式だったという。陰謀者たちは刺客に太刀を振るわせる手はずを整えていたが、彼らがためらったため、中大兄皇子自らが入鹿に斬りかかり、衛士たちがとどめを刺した。翌日、蘇我蝦夷は自らの邸宅に火を放って死んだ。この火事で、聖徳太子と馬子が編んだ歴史書を含む王家の記録が失われたと伝えられている。

皇極天皇は退位した。記録に残る日本最初の譲位である。その弟が孝徳天皇となり、中大兄皇子は皇太子となった。新しい大臣たちが任命され、鎌足は内臣(うちつおみ)と呼ばれる最高顧問となり、高向玄理と僧旻は国博士に任じられた。645年の末、朝廷は朝鮮・中国への海路の玄関口である大阪湾の難波へと移った。

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中級

646年の改新の詔

『日本書紀』によれば、改新の詔は646年正月元日に発せられ、四つの主要な条からなっていた。第一条は、王族・大臣・地方豪族による土地と人民の私有を廃止するもので、その代わりに高位の役人には一定数の戸から生じる産物が支給されることとされた。第二条は、都の周辺地域と、国・郡からなる地方制度を設け、役人、関所、駅馬、伝馬を置くことを定めた。第三条は、戸籍と計帳を作成し、田を割り当てる制度を整えるよう命じた。第四条は、これまでの負担を廃止し、田と戸を基準とする新しい統一税を定めて、絹・布などの品で納めさせるとともに、馬・武器・人夫・宮中の使用人も差し出させるものだった。

同じ時期には、身分に応じて墓の大きさを制限したいわゆる薄葬令をはじめ、東国に新しい役人を派遣して人と武器を調べさせる命令、位階制度の改編なども出された。墓の大きさの制限は、氏族の力の象徴だった巨大な前方後円墳が、これ以降築かれなくなった理由の一つを説明してくれる。

詔の背景にある考えは中国から来たものだった。唐の統治は、原則として各戸に土地を与え各成人に税を課す均田制、戸籍、そして任命された役人が治める州・県の階層制度に基づいていた。後の日本における班田収授と、租・庸・調と呼ばれる税は、こうした制度を手本としたものである。

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中級

難波——新しい国家のための新しい宮

難波への遷都は、単なる引っ越し以上の意味を持っていた。難波は使者や僧、物資が行き来する港であり、652年に完成した難波長柄豊碕宮は、改新政府に舞台を与えるものだった。このページの地図の位置は、その宮跡を示している。

1954年に山根徳太郎の指揮で始まった大阪中心部の発掘調査では、上下に重なる二つの時期の宮跡が見つかった。古い方の宮には火災の跡があり、686年に焼けた宮にあたると考えられ、改新の後に孝徳天皇が造営したものとされる。この宮は当時としては非常に大きく、広い朝堂院や八角形の建物を含む諸殿舎が、中国式の設計にならって配置されていた。多くの歴史学者は、この宮の規模そのものが、650年代の政府が大規模な官僚機構によって国を治めようという実際の野心を抱いていたことを示していると考えている。

改新を進めた者たちの結束は長くは続かなかった。653年、中大兄皇子は朝廷の大半を率いて飛鳥へ戻り、難波に残された孝徳は654年に世を去った。皇極が斉明天皇として再び即位し、実権はなおも中大兄皇子が握り続けた。

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中級

同じころ、世界では

645年の政変は、東アジア全体の危機のただ中で起こった。642年、高句麗では淵蓋蘇文(泉蓋蘇文)が血なまぐさい政変によって王と多くの貴族を殺し権力を握った。同じ年、百済は新羅の西方の城々を奪い、新羅の金春秋は助けを求めて高句麗へ赴いたが捕らえられてしまった。そして日本で政変が起きたまさにその645年、唐の太宗は高句麗に攻め込んだが、安市城の攻囲で行く手を阻まれ撤退を余儀なくされた。多くの歴史学者は、日本における権力集中を同じ流れの一部と見ている。高句麗・百済・新羅・ヤマトのいずれにおいても、君主や実力者たちが唐帝国の脅威に対抗するため権力を集中させつつあったのである。

朝鮮半島の外交は日本にも直接及んだ。『日本書紀』によれば、647年に金春秋自身が使者としてヤマトを訪れ、翌年には唐の朝廷に赴いて百済に対抗する同盟を取り付けたという。この同盟は660年に百済を滅ぼした。日本は百済復興のために大軍を送ったが、663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した。この敗北は、ヤマト朝廷に西日本での城の築造を促し、官僚や学者の多かった百済からの亡命者を受け入れさせ、中央集権国家づくりを加速させることになった。

さらに目を広げれば、645年は中国の僧・玄奘が、ナーランダー僧院で学んだインドでの16年間を終えて長安に戻った年でもある。当時の唐の都は中央アジアにまで及ぶ帝国の中心であり、634年に着工された大明宮は、やがてその政庁となる。西方では630年代から640年代にかけてアラブ軍がビザンツ帝国とササン朝ペルシアを打ち破り、最後のササン朝の王は651年に世を去った。日本の改革者たちが自らの国家を築こうとしていたのとちょうど同じ頃、イスラームのカリフ国もまた中央集権的な帝国へと成長しつつあった。

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中級

改新から律令国家へ

白村江の戦いの後、中大兄皇子は667年に琵琶湖畔の近江へ都を移し、668年に正式に天智天皇として即位した。669年、鎌足は死の床で藤原という新しい姓を賜った。その子孫は、その後何世紀にもわたって朝廷を主導していくことになる。670年には全国規模で初めての戸籍である庚午年籍が作られた。改新の詔が約束していた戸口調査への重要な一歩だった。

天智の死後、672年の壬申の乱によってその弟が天武天皇として即位し、中央政府をさらに強化した。数々の法典が編まれ、694年には碁盤目状に区画された大規模な都、藤原京が造営され、701年の大宝律令によって刑法と行政法からなる完全な体系が確立された。646年に発表された、国と郡、戸籍、班田、統一税という構想が、法として完全に定められたのは、このときになってのことだった。

このため多くの歴史学者は、大化の改新を単一の出来事というよりも、内部の権力争いと唐・新羅との戦いによる衝撃の双方に押し進められた、半世紀にわたる国家建設の始まりの段階として説明している。

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上級

改新は記録どおりに起こったのか

『日本書紀』に収められた改新の詔の文言は、701年の大宝律令の用語と非常によく似ている。このことから、720年の編纂者たちが、自分たちの時代の法律の言葉で詔を書き換えたのではないかという疑いが生まれた。最も有名な検証材料となったのが「郡」を表す文字である。『日本書紀』は大宝律令の用語である「郡」の字を用いている。もし646年の政府が本当にこの言葉を使っていたのなら、7世紀後半の文書にもそれが現れているはずだった。

この問題、いわゆる「郡評論争」は、20世紀半ばの歴史学界を二分した。坂本太郎は詔の基本的な信憑性を擁護し、井上光貞はその文言が大きく書き改められたと主張した。答えは考古学からもたらされた。1967年、藤原宮跡から出土した木簡、なかでも699年(己亥年)の年紀を持つものは、「郡」ではなく「評」という別の文字を用いていた。これにより、701年以前には郡は「評」と呼ばれていたこと、そして『日本書紀』に載る詔の文言が少なくとも部分的には後の時代の用語で書き改められていたことが明らかになった。

1960年代から70年代にかけては、645〜646年に大きな改革などなかったとし、「大化の改新」を後世の創作と見る学者も現れた。しかしその後の発見は、条件つきで認める方向へと世論を押し戻した。難波宮跡一帯からは648年(戊申年)の年紀を持つ木簡が、飛鳥の別の遺跡からは665年(乙丑年)の年紀を持つ木簡が見つかっており、後者はすでに行政単位が使われていたことを示している。初期の難波宮の規模の大きさと合わせて、これらは640年代から650年代にかけて実際の改革が進行していたことをうかがわせる。今日の主流の見方は、しばしば「新肯定論」とも呼ばれ、改新政府が中央集権化を推し進めたことは認めつつ、詔の文言そのものは後の編纂者によって手が加えられたと見なしている。

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上級

さまざまな見方

改新に対する日本国内の解釈は、日本自身の政治情勢とともに変化してきた。新政府が天皇による直接統治の復活を掲げた明治時代(1868〜1912年)には、大化の改新はその古代の先例としてしばしば持ち出され、入鹿の殺害は王位をうかがう氏族に対する忠義の行いとして語られた。1945年以降、歴史学者たちはむしろ土地・労働・租税といった社会経済的な問題を重視するようになり、『日本書紀』の英雄的な物語に対してより懐疑的になった。その行き着いた先が、改新が本当に起こったのかどうかをめぐる論争であった。

もう一つの解釈は、国際的な状況を重視する。日本と韓国の歴史学者たちはともに、645年の政変を、高句麗における淵蓋蘇文の政変(642年)、同じ時期の百済の政治的混乱、そして新羅の対唐接近と比較し、唐の勢力拡大に対する並行した対応として読み解いてきた。とりわけ韓国の学界は、日本の統治機構づくりにおいて、百済・高句麗からの移住者や亡命者、そして朝鮮の国家モデルが果たした役割を強調している。とくに663年以降、多くの百済の官人が日本の朝廷に仕えるようになったことがその根拠とされる。

中国史の観点からは、これらの改革は一般に、律令、科挙、戸籍、仏教、漢字といった唐の制度が、新羅・日本、そして後にはベトナムまで含む「漢字文化圏」へと広まっていく過程の一部として理解されている。この見方は大筋では正しいが、日本がどれほど選び取って受け入れたかを見えにくくすることがある。日本は科挙を長く維持することはなく、世襲の宮廷貴族を最上位にとどめ、中国式の法を土着の神々の祭祀と組み合わせたのである。

公平にまとめるなら、大化の改新は氏族間の権力闘争のなかで起きた宮廷政変であると同時に、東アジア全体にわたる変動の一部でもあった。『日本書紀』はこれを建国の物語に仕立て上げたが、考古学はその物語の背後に実体があったことを示している。ただし、その実体は『日本書紀』が語るものよりも小さく、また時期的にも遅かった。

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史料とその読み方

『日本書紀』は、今なお唯一のまとまった物語的史料である。この書物は天武の子孫の後援のもとに編纂され、完成した頃には鎌足の子である藤原不比等が朝廷で最も力を持つ人物の一人となっていた。両家にはいずれも、645年の政変を正義の行いとして、改新を成功として描く十分な理由があったため、その記述はそのことを念頭に置いて読まなければならない。

独立した検証材料は『日本書紀』の外からもたらされる。税として納められた物資の荷札や公文書として用いられた木簡は、年ごとの実際の行政用語をそのまま伝えている。難波と飛鳥の宮跡の発掘は、造営の規模を明らかにしている。唐の歴史書は日本からの使節(例えば653年や654年のもの)を記録し、外部からの視点を提供してくれる。とりわけ『三国史記』のような朝鮮の史料は、金春秋の外交や百済の滅亡といった出来事について、朝鮮半島側の様子を伝えてくれる。

これらを併せて読むことこそが、現代の歴史学が用いる方法である。『日本書紀』を丸ごと信じるのでも、丸ごと退けるのでもなく、編纂者が手を加えることのできなかった資料に照らして、一つひとつの主張を検証していくのである。

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重要なポイント

公地公民
土地と耕作者は氏族ではなく国家に属するという原則で、詔の第一条で宣言された。
国と郡
世襲の地方豪族に代わって、任命された役人が治める地方行政のしくみ。
戸籍
すべての戸と人を記した台帳で、班田・課税・労役の基礎となった。
統一税制
氏族ごとに異なっていた負担を、田と戸を基準に国家へ納める標準的な税へと置き換えたもの。
元号
君主の治世に応じて年に名前をつける中国由来の慣習で、日本は大化から始め今も使い続けている。
唐への対応
改新は、唐帝国が周辺諸国を脅かしていた時期における、東アジア全体の権力集中の動きの一部だった。
書き改められた歴史
木簡が示すように、『日本書紀』に載る詔の文言は、一部が後の時代の法律用語に書き改められていた。

記録

  1. 607年 — 隋への遣使。翌年、後に改革の顧問となる留学生たちが中国へ渡る。
  2. 618年 — 隋に代わって唐が興る。
  3. 642年 — 高句麗で淵蓋蘇文の政変。百済が新羅の城を奪う。日本で皇極天皇が即位。
  4. 643年 — 蘇我入鹿が斑鳩で山背大兄王とその一族を滅ぼす。
  5. 645年 — 乙巳の変——入鹿が殺され、蝦夷が死ぬ。孝徳天皇が即位し、元号は大化、難波へ遷都。唐が高句麗に侵攻。
  6. 646年 — 正月元日に改新の詔が出される。
  7. 647年 — 新羅の金春秋が使者として日本を訪れる。
  8. 652年 — 難波長柄豊碕宮が完成。
  9. 660年 — 唐と新羅が百済を滅ぼす。
  10. 663年 — 日本軍と百済復興軍が白村江の戦いで敗れる。
  11. 670年 — 全国規模で初の戸籍、庚午年籍が作られる。
  12. 701年 — 大宝律令によって律令制度が完成する。

用語集

乙巳の変
645年の政変。その年の干支(乙巳)にちなんで名づけられた。
氏(うじ)
世襲の称号と従属民を抱えた、ヤマト朝廷の有力な氏族。
部(べ)
朝廷や氏族に属し、物資や労役を差し出した集団。
国博士(くにのはかせ)
645年、中国への留学経験者のなかから任じられた政治顧問。
班田収授(はんでんしゅうじゅ)
戸籍に基づき、田を定期的に各戸へ割り当てては収める制度。
租・庸・調
律令制度における、稲による税(租)、労役の代わりに布などで納める税(庸)、地方の産物による税(調)。
木簡(もっかん)
文字を記した木の札で、荷札や文書として使われ、『日本書紀』を検証するうえで重要な史料となっている。
律令(りつりょう)
中国から取り入れた、刑法(律)と行政法(令)からなる法体系。
評(ひょう)と郡(ぐん)
「郡」を表す二つの文字。701年以前には評が、以後には郡が用いられ、文書の年代を見分ける手がかりとなる。

よくある質問

皇子はなぜ蘇我入鹿を殺したのですか。

蘇我氏が王家よりも力を持つようになっていたからです。皇子とその仲間たちは、蘇我氏の支配を終わらせ、天皇を本当の意味でいちばん上に立たせたいと考えていました。

「大化」とはどういう意味ですか。

「大きな変化」という意味です。645年に始まった元号の名前で、日本で初めて使われた元号でもあります。

農民は土地を取り上げられたのですか。

建前としては、土地と人民は国のものとなり、田は台帳に基づいて各家に割り当てられることになりました。しかし実際にこの制度を整えるには何十年もかかりました。

こうした考えはどこから来たのですか。

主に隋や唐の中国から、しばしば朝鮮の国々を経て伝わりました。中国で暮らした経験のある日本人の留学生や僧たちも大きな役割を果たしました。

『日本書紀』に載る改新の詔は本物ですか。

部分的にはそうです。木簡を見ると、「郡」を表す文字のように、その文言の一部は701年より後のものであることがわかり、編纂者が手を加えたことは間違いありません。それでも多くの歴史学者は、実際の改革があったと考えています。

大化の改新は朝鮮の歴史とどうつながっていますか。

高句麗・百済・新羅がいずれも唐の脅威に対抗して権力を集中させようとしていた危機のさなかに起こり、その後663年には日本が百済復興のために戦争を起こすことにつながりました。

中臣鎌足はその後どうなりましたか。

最高顧問となり、669年に亡くなる直前に藤原という姓を賜って、後の平安朝廷を主導する藤原氏の祖となりました。

出典・参考文献

  1. Taika Reform. Wikipedia
  2. 大化の改新. Wikipedia (Japanese)
  3. Isshi incident. Wikipedia
  4. Soga clan. Wikipedia
  5. The Reform Edict of Taika (from D. J. Lu, Japan: A Documentary History). Asia for Educators, Columbia University
  6. 府内の史跡公園等の紹介【難波宮跡(難波宮跡公園)】. Osaka Prefectural Government
  7. Japanese missions to Sui China. Wikipedia
  8. Goguryeo–Tang War. Wikipedia
  9. 태종 무열왕. Wikipedia (Korean)
  10. Battle of Baekgang. Wikipedia
  11. About Asuka-Fujiwara: component properties. Ancient Capitals of Asuka and Fujiwara Council
  12. W. G. Aston (trans.), Nihongi: Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697. Kegan Paul, Trench, Trübner (Japan Society of London), 1896

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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