最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
およそ1,400年前、朝鮮半島は三つの国に分かれていました。北の高句麗、南西の百済、そして南東の新羅です。この三国は何百年ものあいだ互いに争ってきました。その隣には、東アジアで最も大きく豊かな帝国である唐がありました。
新羅は三国の中で最も小さく、百済に領土を奪われつつありました。そこで新羅の王子、金春秋(キム・チュンチュ)は中国へ渡り、唐の皇帝と取り決めを結びました。「共に敵と戦おう」というものです。
660年、唐の巨大な艦隊が黄海を渡り、新羅の将軍金庾信(キム・ユシン)は東から進軍しました。百済の将軍階伯(ケベク)はわずか5,000人でよく戦いましたが、百済の都はわずか数日で陥落しました。8年後、この二つの同盟国は、何十年も中国の軍を撃退し続けてきた高句麗をも滅ぼしてしまいます。
ところが、その友軍同士がやがて敵となります。唐は新羅も含め、朝鮮半島全体を支配しようとしたのです。670年から676年にかけて、新羅は百済と高句麗からの避難民たちの助けを借りながら唐と戦い、ついに唐の軍は撤退しました。
一般の人々にとって、これは恐ろしい年月でした。兵士たちは雪の中を食糧を運びながら凍え死に、何十万もの人々が中国へ連れ去られ、多くの家族が日本へ逃れました。今日、韓国、中国、日本の人々はこの戦争をそれぞれ異なる形で記憶しており、「統一」という言葉そのものをめぐっても議論があります。
ひと目でわかる
- 期間
- 660年(百済の滅亡)~676年(伎伐浦の戦い)。復興運動は660~663年(百済)、670~673年(高句麗)
- 場所
- 朝鮮半島、南満洲(遼東)、黄海。倭(ヤマト)は百済に艦隊を派遣した
- 交戦勢力
- 新羅、唐、百済とその復興軍、高句麗とその復興軍、倭(ヤマト、661~663年に百済を支援)
- 主な局面
- 百済の征服(660年)、百済復興運動と白村江の戦い(660~663年)、高句麗の滅亡(666~668年)、新羅・唐戦争(670~676年)
- 主な人物
- 武烈王(金春秋)、文武王、金庾信、義慈王、階伯、福信、淵蓋蘇文とその息子たち、剣牟岑、安勝、高宗(唐)、蘇定方、李勣、劉仁軌、薛仁貴、李謹行
- 結果
- 百済・高句麗の滅亡。唐は安東都護府を平壌から移転。新羅は大同江から元山湾に至る線以南を確保
- 呼称
- 韓国: 「新羅の三国統一」「羅唐(新羅・唐)戦争」/ 北朝鮮: 以後の時期を「後期新羅」と呼ぶ / 日本: 白村江の戦い
- 主な史料
- 『三国史記』(1145年)、『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』、『日本書紀』(720年)、中国で出土した百済・高句麗遺民の墓誌銘
日付でたどる戦争
再生を押すと、地図上で戦争の流れを追えます。印は戦闘・出来事、矢印は記録に残る進軍路です。
段階
蘇定方率いる唐の艦隊が黄海を渡り、金庾信の新羅軍は西へ進軍した。階伯の率いる寡兵の百済軍は黄山伐で圧倒され、都の泗沘は陥落し、義慈王は熊津で降伏した。蘇定方は王と数千人の捕虜を連れて帰国し、泗沘には守備隊を残した。
三國史記 卷五 新羅本紀 第五 (Samguk sagi, Silla Annals 5: Muyeol) — Chinese WikisourcePaekche–Tang War (English Wikipedia)의자왕 (Encyclopedia of Korean Culture)DDBC Time Authority Database (Korean calendar data: first-day Julian Day Number of each lunar month); lunar dates converted with its month tables
最近の出来事
再生画面は、その日までに史料で確認できた事実を示すだけで、毎日新しい出来事があったという意味ではありません。月・年までしか分からない日付は期間として示し、点線の矢印は確認された2地点を結んだ概略線です。
やさしい
新羅の統一戦争とは何か
7世紀、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅という三つの王国が半島の支配権をめぐって争い、その一方で高句麗は中国の隋・唐両帝国とも幾度となく戦争を繰り返していた。648年、新羅は唐と軍事同盟を結んだ。両者は共に660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。
この勝利は平和をもたらさなかった。唐は征服した土地に自国の軍政機関を置き、新羅そのものをも唐の一州のように扱った。670年から676年にかけて、新羅は滅んだ両国から流れてきた多くの避難民とともに唐と戦い続け、唐がついに本拠地を平壌から移すに至った。その後、新羅は大同江以南の半島を治めることとなった。
韓国の教科書では、この16年間はしばしば新羅が「三国を統一した」物語として語られる。しかしこの表現そのものが歴史の一部でもある。それは新羅自身が掲げた主張であり、満州にあった高句麗の旧領の大部分を含んでおらず、北朝鮮や中国の歴史家たちは同じ出来事を異なる形で描いている。このページではまず戦争の経過をたどり、その後にこうした異なる見方を説明する。
やさしい
三国と一つの帝国: 戦争はなぜ始まったのか
7世紀半ばまでに、新羅は危機的な状況に陥っていた。642年、百済は今日の陜川(ハプチョン)にあった要衝、大耶城(テヤソン)をはじめとする数十の新羅の城を奪った。新羅は高句麗と倭(ヤマト)に助けを求めたが、いずれからも断られた。そこで新羅の貴族、金春秋は唐の朝廷へ赴き、648年に太宗皇帝との間で合意に達した。
『三国史記』に残る、後に文武王が唐の将軍へ宛てた書簡によれば、太宗は百済と高句麗を打ち破った暁には、百済と平壌以南の地を新羅に与えると約束したという。『韓国民族文化大百科事典』はこの取り決めを、大同江を境界とする分割案として要約している。唐が果たしてその約束を守るつもりであったのかどうかは、この戦争の最終局面における中心的な争点となった。
唐にも独自の思惑があった。高句麗は隋朝による大規模な侵攻を撃退しており、645年の太宗自身による遠征をも退けていた。まず百済を征服すれば、唐は南方に拠点を得て、高句麗を二方向から攻撃することができるのであった。
やさしい
660年: 百済の滅亡
660年の夏、唐は蘇定方(そていほう)の指揮のもと、『三国史記』の記録では13万人にのぼる軍を派遣した。唐の艦隊は徳勿島(トンムルド、今日の徳積島)で新羅の太子金法敏(キム・ボムミン)と合流し、錦江(クムガン)の河口へと向かった。一方、金庾信は約5万の新羅軍を率いて東から山を越えて進んだ。
百済の将軍階伯は、5,000人を率いて今日の論山(ノンサン)付近にある黄山伐(ファンサンボル)で新羅軍を迎え撃った。後世の伝承によれば、彼は戦いに臨む前に、家族が奴隷にされることのないよう自らの手で妻子を殺したという。彼の軍は最初の四度の交戦にことごとく勝利した。『三国史記』はさらに、十代の花郎(ファラン)であった官昌(クァンチャン)が二度にわたって敵陣に単身突撃し、ついに斬首されたこと、そしてその死が新羅軍を奮い立たせ、百済軍の陣を突き崩したことを伝えている。階伯はこの戦場で命を落とした。
同じ日、唐軍は錦江河口の伎伐浦(キボルポ)で百済軍を打ち破った。連合軍は都、泗沘(サビ、今日の扶余)を包囲した。義慈王(ウィジャワン)は熊津(ウンジン、公州)へと逃れたが、わずか数日で降伏した。蘇定方は義慈王とその王族、官僚、およそ1万2千人をともなって中国へ引き上げた。唐は百済の地を新羅に引き渡すことなく、熊津を中心とする五つの軍政機関(都督府)に分割した。
中級
百済の抵抗: 復興運動と白村江の戦い(660~663年)
百済の突然の崩壊にもかかわらず、その地方の城や軍隊の多くはほぼ無傷のまま残されていた。数週間のうちに、黒歯常之(こくしじょうし)は今日の礼山(イェサン)にある任存城(イムジョンソン)に数万の兵を集め、王族の福信(ボクシン)と僧の道琛(ドチム)は周留城(チュリュソン)を拠点とした。『韓国民族文化大百科事典』によれば、彼らはおよそ200の城を奪還し、泗沘に残された唐の駐屯軍を幾度となく包囲したという。
復興勢力は、ヤマトの朝廷に身を寄せていた義慈王の子、扶余豊(ふよほう)王子の帰還を要請した。斉明天皇は661年、この遠征を準備するために朝廷を北九州の朝倉へ移し、その地で崩御した。後を継いだ皇太子(後の天智天皇)は、その事業を引き継いだ。662年、ヤマトの170隻からなる艦隊が扶余豊を王として送り届け、663年にはさらに大規模な軍勢がこれに続いた。
この運動は内部対立によって弱体化した。福信は道琛を殺害し、663年には扶余豊が、自らに対する謀反を疑って福信を処刑した。唐と新羅の連合軍は周留城へと迫った。663年の旧暦八月、白村江(ペクガン、日本では「はくすきのえ」と呼ばれる)の河口において、170隻からなる唐の艦隊が二日間にわたってヤマトの艦隊と交戦した。『日本書紀』によれば、ヤマトの将たちは十分な策もなく攻撃を仕掛け、両側から包囲されて多くの船と兵を失ったという。周留城は降伏し、扶余豊は高句麗へと逃れ、多くの百済の貴族たちが退却するヤマトの艦隊とともに日本へ渡った。
唐は今度は別の方策を試みた。義慈王の子である扶余隆(ふよりゅう)を熊津都督に任じ、664年と665年に新羅に彼との正式な和平の誓いを立てさせた。二度目の誓いは公州の就利山(チュリサン)で行われた。長年にわたって戦いの大半を担い、何年も唐の駐屯軍に食糧を供給し続けてきた新羅にとって、これは苦い結末であった。
中級
661~668年: 高句麗の滅亡
百済の滅亡後、唐による最初の高句麗攻撃は661年に始まった。蘇定方は数か月にわたって平壌を包囲したが、高句麗の実権を握っていた淵蓋蘇文(えんがいそぶん)は、薩水(サス)において別の唐軍を壊滅させた。662年の初め、金庾信はおよそ二千台の食糧を積んだ荷車の隊列を率い、雪と氷の中を北へ進んで平壌を包囲する唐軍に食糧を届けたが、多くの人や家畜が凍死した。その後まもなく、唐軍は包囲を諦めて撤退した。
唐が武力によって成し得なかったことを可能にしたのは、高句麗自身の内部分裂であった。淵蓋蘇文の死後、その息子たちのあいだで争いが起きた。長男の淵男生(えんなんせい)は弟たちによって追われ、唐へと寝返り、叔父の淵浄土(えんじょうど)は十二の城を新羅に明け渡した。667年、淵男生の道案内のもと、李勣(りせき)の率いる唐軍は要衝である新城(今日の撫順)を奪い、鴨緑江以北の諸城を次々と制圧した。
668年、唐軍は平壌に結集し、新羅は南から攻めかかった。一か月を超える包囲の末、宝蔵王(ボジャンワン)は降伏し、僧の信誠(シンソン)が城門を開いたことで、淵男建(えんなんけん)の抵抗も終わりを告げた。『三国史記』によれば、唐は宝蔵王と20万人を超える人々を中国へ連れ去り、平壌に安東都護府を設置して、旧高句麗領を統治させた。
中級
670~676年: 新羅・唐戦争
新羅は669年を通じて、かつての同盟国との戦争に備え、先手を打って行動を起こした。670年の春、薛烏儒(ソル・オユ)率いる新羅軍1万と、高延武(コ・ヨンム)率いる高句麗遺民の軍1万が鴨緑江を渡り、遼東の烏骨城(オゴルソン)付近で唐軍および靺鞨(まっかつ)軍と交戦した。ほぼ同じ頃、高句麗の剣牟岑(コム・モジャム)が蜂起し、高句麗王族の一人である安勝(アンスン)を漢城(ハンソン、今日の載寧)で王として擁立した。新羅は安勝を高句麗王として承認し、後に彼の一団を今日の益山(イクサン)にあたる金馬渚(クムマジョ)に落ち着かせた。
670年の夏からは、新羅もまた唐が保持していた熊津都督府への攻撃を開始し、80を超える百済の町を奪った。671年には石城(ソクソン)で唐の援軍を破り、旧百済の都を自らの州である所夫里州(ソブリジュ)として組織した。唐は北から反撃に出た。高侃(こうかん)と李謹行の軍は高句麗の復興勢力を鎮圧し、672年には平壌を占領して石門(ソクムン)で新羅軍に大きな敗北を与え、673年には臨津江(イムジンガン)の一部である瓠瀘河(ホロハ)において高句麗復興勢力を壊滅させた。新羅は守勢に転じ、城を築き、黄海に水軍を配備した。674年、高宗(唐)は文武王の称号を剥奪し、文武王の弟である金仁問(キム・インムン)を新羅王に立てた。
決定的な年となったのは675年であった。この年の初め、劉仁軌が七重城(チルジュンソン)で新羅軍を破ると、文武王は使者を送って謝罪しつつも戦いを続けた。旧暦九月、薛仁貴の艦隊は漢江河口近くの泉城(チョンソン)で撃退され、29日には『三国史記』が20万と記す買肖城(メソソン)の唐軍が敗走あるいは撤退し、3万380頭の馬を残して去った。『三国史記』はこの年さらに18回にわたる新羅の勝利を記録している。
676年、西の国境でチベット帝国(吐蕃)の攻撃に直面した唐は、戦争を終息させる方向へ動いた。旧暦十一月、施得(シドゥク)率いる新羅の水軍は錦江河口の伎伐浦で薛仁貴との最初の交戦に敗れたものの、その後22回の戦闘に勝利した。唐は安東都護府の所在地を平壌から遼東(今日の遼陽)へ、677年にはさらに新城へと移した。新羅は大同江以南の地を保持し、唐がこの境界を正式に認めたのは736年になってからのことであった。
中級
人々が払った代償: 兵士、捕虜、避難民
史料は主に王や将軍について語るが、この戦争が一般の人々にとって何を意味したかも垣間見せてくれる。671年の文武王の書簡には、年々徴発される新羅の農民たち、北の平壌へも西の熊津の唐軍へも運ばれ続けた食糧、酷使されて死んでいった牛馬、収穫の失われた田畑の様子が描かれており、新羅の民が草の根まで食べる一方で、熊津の唐軍には食糧が余っていたことが記されている。
征服は大規模な強制移住を意味した。蘇定方は660年、百済王とともにおよそ1万2千人を中国へ連れ去った。668年に平壌が陥落した後には20万人を超える人々が唐へ連行され、『三国史記』によれば669年、唐は高句麗の2万8,300戸を長江・淮河以南や西方の人口の少ない地域へと移住させた。
東へ逃れた人々もいた。白村江の戦いの後、多くの百済の貴族や庶民が日本に定住し、『日本書紀』は彼らが位階や土地、俸禄を与えられたことを記録している。ヤマトが侵攻を恐れて築いた山城の設計には、百済の官人たちが携わった。高句麗の避難民は新羅へと押し寄せ、安勝の小さな報徳国(ボドクグク)は684年まで存続した。新羅は後に、高句麗・百済・靺鞨の人々を、王の軍隊の中の独立した部隊として編成した。
中級
朝鮮・中国・日本にもたらされた結果
新羅にとって、この戦争ははるかに大きな国家をもたらした。歴代の王は「三韓を一つに合わせた」(三韓一統、サムハン・イルトン)と語るようになり、旧百済・高句麗の貴族たちに位階を与え、国を九州(クジュ)に、王の軍隊を九誓幢(クソダン)へと再編した。唐との関係は数十年にわたって凍りついたままとなり、修復されたのは8世紀初頭になってからであった。
満州の旧高句麗領では、698年に大祚栄(だいそえい)が高句麗の遺民と靺鞨の人々を率いて渤海(ぼっかい)を建国した。その後およそ二百年にわたり、南の新羅と北の渤海が並び立つこととなり、今日多くの韓国の歴史家はこの時代を「南北国時代」と呼んでいる。
唐にとって、この征服は半ば成功に終わったにすぎなかった。二つの王国を滅ぼしはしたものの、半島を保持することはできず、『韓国民族文化大百科事典』は、この長い東方遠征の負担が兵を供出した唐の諸地方に重くのしかかったことを指摘している。ヤマトの日本にとっては、白村江での敗北が、防人(さきもり)や烽(とぶひ)、水城(みずき)、そして百済の官人の指導のもとに築かれた朝鮮式の山城といった一連の防備事業のきっかけとなった。『三国史記』は670年、倭がその国号を「日本」に改めたと記している。
中級
「統一」という言葉は正しいのか: 国によって異なる語り
韓国では伝統的に「新羅の三国統一」という呼び名が用いられ、金庾信と文武王は広くたたえられる人物である。この見方を支持する人々は、新羅が数百年に及ぶ戦争を終わらせ、高句麗と百済の人々や文化を取り込み、後の高麗・朝鮮という単一の朝鮮国家の基礎を築いたことを強調する。これに対して、韓国国内の学者を含む批判者たちは、新羅が外部の帝国を招き入れて同胞の王国を滅ぼしたこと、そして新羅が手にしたのは大同江以南の土地のみであり、高句麗の領土の大半は唐、続いて渤海へと渡ったことを指摘する。このため、多くの歴史家は今日、「統一新羅」だけでなく、新羅と渤海が並立した「南北国時代」という言い方も併せて用いている。
北朝鮮の歴史家たちは、新羅が民族を統一したという考え方そのものを退けている。彼らの叙述においては、918年に建国され、高句麗の遺産を継承すると称した高麗こそが、朝鮮民族を初めて統一した国家であるとされ、668年以後の新羅の時代は「後期新羅」と呼ばれる。
中国の伝統的な史書は、これらの出来事を唐朝による遠征として記録しており、買肖城の事例が示すように、韓国側の年代記が強調する唐の敗北については記さないこともある。現代中国においては、2002年から2007年にかけて国家的な支援のもとで進められた「東北工程」と呼ばれる研究計画が、高句麗を朝鮮の王国ではなく古代中国の地方政権であったと主張し、韓国をはじめとする諸国の歴史家たちから厳しい批判を受けた。日本においては、この戦争は主に白村江の敗戦と、ヤマトの朝廷から位階や土地を与えられた百済からの避難民の到来を通じて記憶されている。
こうした見解の相違が重要であるのは、現代のそれぞれの国家が、7世紀の出来事の中に自らの起源を読み込んでいるからである。慎重な叙述は、中世新羅が掲げた「三韓一統」という主張、近代国民国家をめぐる論争、そしてこの戦争を実際に生きた人々の経験という三つを、それぞれ別のものとして扱う。
上級
一次史料とその問題点
朝鮮側の基本的な叙述は、出来事からおよそ500年後の1145年に金富軾(キム・ブシク)によって編纂された『三国史記』である。この時代について同書は、現在では失われている新羅の記録を基にしており、新羅自身の遠征については日付単位の詳細な記述を残す一方、『旧唐書』や『新唐書』、『資治通鑑』といった中国側の史書にも依拠している。この時期の百済と高句麗については、中国側の資料に大きく頼っているため、滅ぼされたこの二国の声は主に敵側の記録を通じて伝わっている。同書はまた、671年に新羅を裏切り者だと非難した薛仁貴の書簡と、それに対する文武王の詳細な返信という長文の文書をそのまま収めており、この返信は新羅側の言い分を最も詳しく示す資料となっている。
『日本書紀』(720年)は、ヤマトの介入について知るための重要な史料であり、白村江の戦いを干支による日付で日々記録している。この書は時に朝鮮側の記録と食い違うこともあり、たとえば淵蓋蘇文の死を664年としているのに対し、『三国史記』は666年としている。中国で発掘された百済・高句麗遺民の墓誌銘は、年代記が省いてしまった家系や経歴を伝えるもう一つの声である。
これらの史料に記された日付は、新羅と唐が用いていた中国式の太陰太陽暦に従っており、たとえば675年の「九月二十九日」といった日付は、現代のカレンダーの九月とは一致しない。標準的な暦の対照表を用いて換算すると、黄山伐の戦いはユリウス暦で660年8月20日、白村江の戦いは663年10月4~5日にあたる。兵力の数もまた別の難問である。660年の唐軍13万や、675年の買肖城における20万といった数字は、誇張であるか、あるいは個々の戦闘ではなく戦線全体の兵力の合計であると広く見なされている。
上級
歴史家たちの論争
なぜ新羅と唐は戦争に至ったのか。伝統的な説明は領土問題である。唐は太宗の約束を破り、熊津都督府、平壌の安東都護府、そして新羅を「鶏林大都督府」と位置づける措置を通じて、朝鮮半島全体を支配しようとしたというものである。『韓国民族文化大百科事典』の項目を執筆した李相勲(イ・サンフン)は、より直接的な原因を付け加えている。すなわち、共同遠征の過程で唐が新羅の軍令権にたびたび干渉したことが新羅指導部の反発を招いたこと、また要衝であった比列忽(ピヨルホル)をめぐる対立も作用したというのである。彼はこの新羅・唐戦争を、唐が動き出す前に要衝を先取りしようとした新羅による予防戦争として性格づけている。
買肖城の戦いはどれほど決定的だったのか。『三国史記』はこれを圧倒的な勝利として記録しているが、『資治通鑑』にはこの地での戦闘についての記述が一切見当たらない。キム・ビョンヒは、『三国史記』の当該箇所は、補給が尽きてすでに撤退しつつあった唐軍を新羅が攻撃したものと読むことができ、鹵獲したとされる馬の数はその小さな山城に収まりきらないはずであり、さらに唐の将軍李謹行が処罰を受けることなく他の戦線に配置転換されたことを論拠として挙げている。買肖城を、泉城や七重城などとともに675年のより大きな戦役の一部として捉え、新羅が臨津江の防衛線を守り抜いたことこそが重要であったとする見方もある。
唐はなぜ撤退したのか。学者たちは、新羅の軍事的な抵抗と、唐の過剰な拡張とを併せて検討している。676年のチベット(吐蕃)による攻勢は唐に軍を西方へ移動させることを余儀なくさせ、海を越えた補給路は脆弱であり、兵を供出し続けた東部の諸地方も疲弊していた。場所についても論争がある。『韓国民族文化大百科事典』は買肖城の候補地として、漣川(ヨンチョン)の大田里山城と楊州(ヤンジュ)の大母山城の二つを挙げており、復興軍の拠点であった周留城や白村江の戦場の位置――錦江下流であったのか、それとももっと南、今日の全羅北道にあたる地域であったのか――については18世紀以来議論が続いている。
重要なポイント
- 帝国との同盟
- 648年の新羅・唐同盟は、新羅にライバル諸国を打ち破る力を与えたが、同時に唐を朝鮮半島全体の支配へと誘うことにもなった。
- 二種類の戦争
- 660~668年は新羅・唐連合による征服戦争であり、670~676年は征服した土地を誰が支配するかをめぐる、かつての同盟国同士の戦争であった。
- 復興運動
- 百済と高句麗の遺民は、都が陥落した後も戦い続けた。彼らの抵抗は唐の計画を遅らせ、後には新羅自身の軍の一部にもなった。
- 三韓一統
- 「三韓を一つに合わせた」という新羅の主張で、後代における「統一」という近代的な観念の土台となった。
- 不完全な統一
- 新羅は大同江以南の土地を得たが、高句麗の旧領の大部分は唐、続いて渤海のものとなった。
- せめぎ合う国家の記憶
- 韓国、北朝鮮、中国、日本それぞれの歴史叙述は、同じ出来事を自らの起源の物語に合わせて描いている。
- 後代の、偏りのある史料
- 朝鮮側の基本史書は1145年に書かれたものであり、百済と高句麗の声は主に中国・日本の記録と、遺民たちの墓誌銘を通じて残されている。
記録
- 642年 — 百済が新羅の大耶城を陥落させ、新羅は国外に援軍を求める。
- 648年 — 金春秋が唐の太宗と軍事同盟を結ぶ。
- 660年 — 新羅・唐連合軍による百済侵攻。黄山伐の戦い、泗沘の陥落、義慈王の降伏。
- 661年 — 唐が平壌を包囲する。ヤマトの斉明天皇が百済復興勢力を支援するため朝廷を九州へ移す。
- 662年 — 金庾信の冬季補給部隊が唐軍のもとへ到達する。ヤマトが170隻の船で扶余豊を送り届ける。
- 663年 — 白村江の戦い。周留城が降伏し、百済復興運動が崩壊する。
- 665年 — 新羅と、唐が任命した都督扶余隆とのあいだで就利山の誓いが行われる。
- 668年 — 平壌が陥落し高句麗が滅亡する。唐が安東都護府を設置する。
- 670年 — 新羅と高句麗遺民の軍が鴨緑江を越えて攻撃する。安勝が王として擁立される。新羅が唐支配下の百済領を攻撃する。
- 672年 — 唐軍が平壌を占領し、石門で新羅軍を破る。
- 675年 — 七重城、泉城、買肖城の戦い。
- 676年 — 伎伐浦の戦い。唐が安東都護府を平壌から移す。
用語集
- 新羅
- 朝鮮半島南東部の王国で、都は慶州(キョンジュ)。676年以後、935年まで半島の大部分を支配した。
- 百済
- 朝鮮半島南西部の王国で、最後の都は泗沘(扶余)。660年に滅亡した。
- 高句麗
- 朝鮮半島北部と満州にまたがる王国で、都は平壌。668年に滅亡した。
- 唐
- 618~907年の中国の王朝。皇帝太宗と高宗が朝鮮での戦争を指揮した。
- 倭(ヤマト)
- 初期の日本の国家で、百済の同盟国。670年頃から自らを「日本」と称するようになった。
- 花郎(ファラン)
- 武芸や品行を鍛えられた新羅の若い貴族たちの集団。黄山伐で戦死した官昌もその一人であった。
- 安東都護府
- 668年、旧高句麗領を統治するために唐が平壌に設置した軍政機関。
- 熊津都督府
- 旧百済領を統治するために唐が熊津(公州)に置いた機関で、後に扶余隆がその長となった。
- 復興運動
- 滅ぼされた百済(660~663年)あるいは高句麗(668~673年)を再興しようとした遺民たちの武装闘争。
- 報徳国
- 安勝率いる高句麗遺民が、新羅の保護のもとで金馬渚(益山)に築いた小国。684年まで存続した。
- 太陰太陽暦の日付
- 新月をもって各月の始まりとする中国式の暦における日付。現代の暦と対応させるには換算が必要である。
よくある質問
なぜ新羅は中国を助けて他の朝鮮の国々を滅ぼしたのですか。
7世紀の人々は、三国を一つの民族だとは考えていませんでした。新羅は百済と高句麗から攻撃を受けており、唐との同盟は生き残り、領土を得るための手段でした。共通の朝鮮民族という意識が育っていったのは後のことで、その一因はこの戦争そのものにありました。
階伯とは誰ですか。
660年、5,000人を率いて黄山伐で新羅軍に立ちはだかった百済の将軍です。何度かの戦闘に勝利しましたが、最終的に戦死しました。後代の朝鮮では、忠義の模範としてたたえられました。
新羅は本当に朝鮮を統一したのですか。
新羅は旧百済領と高句麗南部を一つの政府のもとに置き、その支配者たちは三韓を一つに合わせたと主張しました。しかし北部と満州は唐、続いて渤海のものとなったため、多くの歴史家はこれを部分的な統一と呼んでおり、北朝鮮の歴史学はこの語そのものを認めていません。
なぜ日本は朝鮮で戦ったのですか。
ヤマトは長らく百済と結びついており、百済の王族の一部はヤマトの朝廷に暮らしていました。百済が滅びると、ヤマトの朝廷は扶余豊を王として送り返し、復興運動を支援するために艦隊を派遣しましたが、663年の白村江で大敗を喫しました。
唐はなぜ676年にあきらめたのですか。
歴史家たちはいくつかの理由を併せて挙げています。新羅による臨津江沿いおよび海上での効果的な防衛、黄海を越えての補給の困難さ、そして676年のチベットによる攻撃が唐に軍を西の国境へ移動させることを強いたことです。
年代記に出てくる兵力の数字はどれほど信頼できますか。
あまり信頼できません。『三国史記』は660年の唐軍を13万、675年の買肖城の唐軍を20万と記していますが、現代の歴史家たちは通常、こうした数字を誇張であるか、単一の戦闘ではなく戦役全体の合計であると見なしています。
太陰太陽暦の日付はどのように現代の日付に換算するのですか。
この時代の各太陰月は、中国と朝鮮の史料をもとに作成された暦対照表を用いて、ユリウス通日と照合することができます。年代記に時折記されている干支による日付、たとえば670年八月の「辛丑の日」といった記述によって、換算結果を確認することができます。
出典・参考文献
- Silla–Tang War. Wikipedia
- Goguryeo–Tang War. Wikipedia
- Unified Silla. Wikipedia
- Northeast Project. Wikipedia
- 매소성 (Maesoseong). 韓国民族文化大百科事典(韓国学中央研究院)
- 이상훈 (Lee Sang-hoon), 나당전쟁 (Silla–Tang War). 韓国民族文化大百科事典(韓国学中央研究院)
- 백제 부흥운동 (Baekje restoration movement). 韓国民族文化大百科事典(韓国学中央研究院)
- 고구려 부흥운동 (Goguryeo restoration movement). 韓国民族文化大百科事典(韓国学中央研究院)
- Kim Busik et al. (1145), 三國史記 (Samguk sagi): Silla Annals 5–7 (Kings Muyeol and Munmu) and Goguryeo Annals 10 (King Bojang). Wikisource
- 日本書紀 卷第廿七 (Nihon Shoki, book 27: Emperor Tenji). Wikisource
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。