歴史

李舜臣(イ・スンシン)

李舜臣 (이순신)

1592–1598年 · 麗水、全羅左水営(朝鮮王朝)

ひとことで

李舜臣は朝鮮王朝の水軍指揮官であり、1592~1598年の文禄・慶長の役(朝鮮側の呼称では壬辰倭乱)において日本の艦隊を幾度となく打ち破り、卓越した戦争日記を残し、戦争最後の大海戦で戦死した。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

400年以上前、日本を統一した強大な支配者、豊臣秀吉が海を越えて巨大な軍勢を朝鮮に送り込みました。陸上の朝鮮軍はあっという間に押し戻され、侵略軍は都まで進軍しました。

ところが、海の上ではまったく事情が違っていました。李舜臣という朝鮮の指揮官が、南の海岸沿いで小さな水軍を率いていたのです。彼は潮の満ち引きや島々の間の狭い水路、敵のくせまで注意深く調べ上げ、頑丈な木造船に積んだ大きな大砲で遠くから攻撃することで、敵の兵士が船に飛び乗れないようにしました。

李舜臣といえば亀甲船(きっこうせん)が有名です。覆いのついた屋根には無数のとげが並び、船首には竜の頭が取り付けられた軍船です。覆いのある「亀」のような船という発想自体はそれ以前からありましたが、李舜臣は改良版を建造させ、それを使って敵の陣形の真っただ中に突撃させました。

彼の人生は平坦なものではありませんでした。彼をねたむ役人たちに命令違反だと訴えられ、捕らえられて罰を受けたのです。しかし彼を欠いた水軍がほとんど壊滅すると、王は彼を呼び戻しました。彼はわずか13隻の船で、潮の流れの激しい狭い海峡において、はるかに大きな艦隊を打ち破りました。

李舜臣は戦争のあいだ、ほとんど毎日のように日記をつけていました。そこには戦闘のこと、天候のこと、母や兵士たちへの心配、そして息子が殺されたときの悲しみまでが記されています。彼は1598年、最後の戦いで銃弾に撃たれて命を落としました。今日、韓国の人々は彼を最も偉大な英雄の一人として記憶しており、彼の日記はユネスコ「世界の記憶」に登録されています。

ひと目でわかる

生没年
1545年4月28日~1598年12月16日(旧暦では1545年3月8日~1598年11月19日)
出生地
漢城(ハンソン)乾川洞(現在のソウル特別市中区)。忠清道の牙山(アサン)で育つ
官職
全羅左道水軍節度使(1591年、麗水〈ヨス〉)、三道水軍統制使(1593~1597年、1597年に再任)
主な海戦
玉浦(オクポ)、泗川(サチョン)、閑山島(ハンサンド)の各海戦(1592年)、鳴梁(ミョンニャン)海戦(1597年)、露梁(ノリャン)海戦(1598年、戦死)
著作
『乱中日記』(戦争日記)、『壬辰状草』(朝廷への報告書)、若干の詩
諡号
忠武公(チュンムゴン)、「忠義と武勇の君」の意
文化財指定
日記と報告書は韓国の国宝。『乱中日記』は2013年にユネスコ「世界の記憶」に登録

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李舜臣とはどのような人物か

李舜臣(1545~1598年)は、朝鮮で壬辰倭乱として知られる1592~1598年の日本による侵攻(文禄・慶長の役)において水軍を率いた、朝鮮王朝の武官である。彼は日本の艦隊を相手に一連の海戦で勝利を収め、南岸と西岸沿いに延びていた侵略軍の補給線を断つ上で大きな役割を果たした。

李舜臣はソウルの両班(ヤンバン、教養ある支配階層)の家に生まれたが、父と祖父は高い官職に就いておらず、彼自身は文官の道ではなく武官の道を選んだ。彼が武科の試験に合格したのは31歳(朝鮮式の数え方では32歳)であった1576年のことで、戦争によって名を上げるまでは、北方の辺境や地方の目立たない役職で長い年月を過ごした。

今日、李舜臣は韓国と北朝鮮の双方で敬われている。ソウルの中心部には彼の銅像が立ち、その諡号「忠武」は都市の名前や軍の勲章の名称にもなっており、彼の戦争日記は近代以前の東アジアの戦争を伝える、最も生き生きとした一次資料の一つとして大切にされている。

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若き日々と経歴

李舜臣は幼少期の一部をソウルで過ごし、そこでの隣人の一人が、後に領議政(最高位の大臣)となり、朝廷において彼の最も重要な後ろ盾となる柳成龍(リュ・ソンリョン)であった。少年時代の李舜臣は家族とともにソウル南方の牙山へ移り住んだが、そこは後に妻となる女性の実家があった土地である。

彼の最初の武科試験への挑戦は、騎射の試験中に馬から落ちて脚を骨折し、失敗に終わった。その4年後、1576年に彼は合格を果たした。彼は北方の辺境で、女真族の襲撃から入植地を守る朝鮮軍として勤務し、その後は地方の郡の長官も務めた。1587年、女真族の襲撃を受けた後、彼はその責任を問われて官職を剥奪され、一兵卒として従軍させられた。これは、彼がその後直面することになる政治的な危険を予告する出来事であった。

1591年、柳成龍の推薦により、李舜臣は異例の速さで昇進し、南岸の麗水に本営を置く全羅左道水軍節度使となった。多くの官僚は日本が攻めてくるとは考えていなかったが、李舜臣は戦争が始まるまでの数か月を使って基地を視察し、乗組員を訓練し、物資を蓄え、亀甲船を含む軍船を建造した。

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戦争の始まり: 1592年の海上での勝利

1592年の春、日本を統一した豊臣秀吉は、明国を征服する計画の第一段階として、大軍を朝鮮に侵攻させた。日本軍は釜山に上陸し、およそ三週間で漢城(ソウル)に到達した。国王宣祖(ソンジョ)は北方の中国国境に向けて逃れた。

李舜臣の艦隊は旧暦五月の初めに東へ進み、慶尚右水使の元均(ウォン・ギュン)とともに玉浦で日本の船を撃破した。これが李舜臣にとって最初の海戦であった。続く数週間で彼は泗川で勝利を収め、この戦いで亀甲船が初めて実戦に投入されたが、李舜臣自身は肩に銃弾を受けて負傷した。その後、唐浦(タンポ)と唐項浦(タンハンポ)でも勝利を重ねた。

1592年における彼の最も名高い勝利は、夏に閑山島沖で得られたものである。李舜臣は数隻の船を使って日本艦隊を狭い見乃梁(キョンネリャン)の水路から広い海へとおびき出し、鶴翼と呼ばれる弧を描いた陣形で自軍の船で取り囲み、大砲を浴びせかけた。日本の船の大半は撃破されるか、拿捕された。この敗北の後、日本軍の指揮部は概して海上での正面対決を避けるようになり、西岸沿いに船で陸軍への補給を行うという計画も頓挫した。

1593年、李舜臣は全羅・慶尚・忠清の三道の水軍を統括する三道水軍統制使に任じられ、閑山島に本営を置いた。

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軍船、大砲、そして亀甲船

朝鮮水軍の主力は板屋船(パノクソン)であった。これは底が平らで大型の頑丈な木造軍船で、高く設けられた甲板に重い大砲を積み、その下にいる漕ぎ手を保護していた。日本の軍船は概してより軽量で、接近して銃と刀を持った兵士が乗り込むという戦法に頼っていた。李舜臣の戦術は、敵を距離を置いたところにとどめ、朝鮮の砲撃にものを言わせることを狙いとしていた。

亀甲船(コブクソン)は板屋船を基にした船で、覆われた屋根にとげを植え付けて敵兵の乗り込みを防ぎ、四方に砲門を備え、船首には竜の頭を取り付けていた。この発想自体は新しいものではなく、『朝鮮王朝実録』には1413年と1415年にすでに「亀船」への言及がある。李舜臣の功績は、改良版を建造させ、それを敵の陣形に突入する衝撃部隊として用いたことにあった。

多くの一般向けの書物では、亀甲船を世界初の鉄甲船として紹介しているが、歴史家の見解は分かれている。李舜臣の時代の朝鮮側の史料には、鉄板で覆われていたという記述はない。屋根に鉄のとげがあったことはよく裏づけられているが、鉄板が張られていたかどうかは依然として議論が続いている。亀甲船はごく少数しか存在せず、戦闘の大半は板屋船によって担われた。

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投獄、失脚、そして漆川梁の惨敗

1593年以降、戦争は明国と日本のあいだの交渉が長く続く局面に入り、日本軍は南岸の城砦にとどまった。交渉が決裂すると、秀吉は1597年に第二次侵攻(慶長の役)を開始した。その少し前、日本側の間者が、指揮官である加藤清正がある特定の日に海を渡るという情報を朝鮮側に流した。朝廷は李舜臣にこれを迎え撃つよう命じた。しかし李舜臣は罠を疑い、また危険な海域であることを承知していたため、命令どおりには行動しなかった。

李舜臣には朝廷に敵がいた。柳成龍の派閥に連なると見なされていたこともあり、また彼と対立していた元均も公然と彼を批判していた。命令違反と見なして激怒した国王宣祖は、1597年の旧暦二月に李舜臣を逮捕させ、漢城に連行して取り調べさせた。処刑を求める官僚もいたが、大臣の鄭琢(チョン・タク)が彼のために弁護し、李舜臣は釈放されて、総司令官である権慄(クォン・ユル)のもとで無位無官のまま従軍するよう命じられた。南へ向かう道中、彼は母の訃報を聞き、その悲しみを日記に記した。

水軍は元均が引き継いだ。1597年の旧暦七月、彼の艦隊は巨済島(コジェド)沖の漆川梁(チルチョルリャン)付近で奇襲を受けた。朝鮮水軍はほぼ完全に壊滅し、元均も戦死した。将校の裵楔(ペ・ソル)に率いられたわずか十数隻のみが逃げ延びた。

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鳴梁: 13隻の船

朝廷は急いで李舜臣を水軍統制使に再任した。彼が引き継いだのは、わずか12隻ほどの船と少数の兵にすぎなかった。朝廷が水軍を放棄して陸軍に合流するよう提案すると、李舜臣は自分にはまだ12隻の軍船があり、自分が生きているかぎり敵は西の海を軽んじることはできないだろうと答えたと記録されている。後に13隻目が加わった。

1597年の旧暦九月(西暦1597年10月)、日本の大艦隊が陸軍の進撃を支援するため西へ移動した。李舜臣は、珍島(チンド)と本土のあいだにある鳴梁海峡での戦いを選んだ。この海峡では激しい潮流が数時間ごとに向きを変え、水路も狭く、大艦隊が展開するには不向きであった。戦いの前夜、彼は部下の将たちに向かって、日記に記されている言葉によれば「死を求める者は生き、生を求める者は死ぬ」と告げた。

李舜臣の日記によれば、133隻の日本軍船が攻撃を仕掛け、そのうち31隻が撃破された。日本の艦隊全体は、後方に控えていた支援船を含めればはるかに大規模であった可能性がある。朝鮮の艦隊は海峡を守り抜き、日本軍は撤退した。日本側の記録はこの戦いを異なる形で伝えており、歴史家たちは正確な数字について今も議論を続けている。李舜臣が海峡に鉄の鎖を張り渡したという広く知られた話は、彼の日記には登場せず、後代の伝承と見なされている。

鳴梁の戦いは戦争そのものを終わらせたわけではなかったが、朝鮮が海上で戦う力を取り戻すきっかけとなり、李舜臣の生涯の中でも最も有名な逸話となった。その直後、彼は末子の李葂(イ・ミョン)が牙山で日本兵に殺されたという知らせを受け、その苦悩が日記に記されている。

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中級

最後の戦い、露梁

1598年の旧暦八月に秀吉が死去すると、日本側の指導部は朝鮮からの撤退を決定した。李舜臣は、提督陳璘(ちんりん)率いる明国の艦隊とともに、日本軍が無傷で退却するのを阻もうとした。二人の指揮官の関係は時に緊張をはらんだが、両者は共に戦った。

旧暦十一月十九日(西暦1598年12月16日)の未明、朝明連合艦隊は南海島(ナムヘド)付近の露梁海峡で、島津義弘率いる日本艦隊を攻撃した。追撃の最中、李舜臣は銃弾に倒れた。伝えられるところによれば、彼はそばにいた者たちに、戦いが終わるまで自分の死を告げないようにと言い残した。兵士たちの士気が揺らがないようにするためであった。彼の甥である李莞(イ・ワン)が太鼓を打ち鳴らし続けた。この戦いは、戦争における最後の大きな交戦であった。

李舜臣の遺体は牙山へ運ばれ、そこに葬られた。彼の死後、朝廷は数々の栄誉を彼に与えた。1604年には一等功臣に列せられ、忠武公の諡号を贈られ、後には最高位の贈官である領議政にまで追贈された。

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中級

戦争日記とその他の著作

李舜臣の『乱中日記』は、1592年の正月から1598年の戦死直前まで、ところどころ空白はあるものの、書き続けられた直筆の日記である。そこには戦闘、命令、物資、天候や潮の動き、将校たちの振る舞い、避難民や庶民の苦しみ、そして李舜臣自身の心情――年老いた母への心配、自らの病、不眠、朝廷への苛立ち、息子を失った悲しみ――が記録されている。

『乱中日記』という表題は後になって付けられたもので、1795年に正祖(チョンジョ)王の命により李舜臣の著作が『李忠武公全書』として刊行された際に付けられた。直筆の原本は子孫たちによって守り伝えられ、現在は牙山の顕忠祠(ヒョンチュンサ)に所蔵されている。朝廷への報告書の写しである『壬辰状草』とともに国宝に指定されており、『乱中日記』は2013年にユネスコ「世界の記憶」に登録された。

李舜臣はまた、わずかながら詩も残している。「閑山島の月明かりの夜、一人望楼に座して」で始まる時調(シジョ)は伝統的に彼の作とされ、指揮官の孤独な責任感を表す作品として韓国の学校で広く教えられている。

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より広い戦争: ともに苦しんだ惨禍

李舜臣の勝利は、はるかに大きな戦争の一部分にすぎなかった。陸上では、地方の義勇兵や仏教僧兵からなる朝鮮の「義兵」が侵略軍に抵抗し、権慄の指揮による幸州山城の防衛戦のように正規軍が勝利を収めることもあり、また明国は大軍を派遣して1593年に平壌を奪還した。この戦争が終結した主な理由は、いずれか一つの戦闘によるものではなく、秀吉の死であった。

この侵攻は朝鮮の人々にとって大きな惨禍であった。何千人もの民間人が命を落とし、田畑や町は荒廃し、飢饉と疫病が後に続いた。そして数万人が捕虜として日本へ連れ去られ、その中には日本の陶磁器の発展に大きな影響を与えることになる陶工たちも含まれていた。京都の耳塚(みみづか)には、戦果の証として切り取られた朝鮮人および中国人の鼻が埋葬されている。日本と明の兵士たちも、多数が命を落とした。

したがって、李舜臣の勝利を記憶することは、この苦しみを記憶することと切り離せない。柳成龍の『懲毖録』をはじめとする朝鮮側の記録は、この戦争を備えを怠ることと党派争いの危険についての教訓として描き、日本の記録は長らくこれを秀吉の野心にまつわる一挿話として扱い、中国の記録は明が朝貢国である同盟者を救った戦争として強調してきた。

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国民的英雄が生まれるまで

李舜臣の名声には、それ自体の歴史がある。朝鮮時代、彼は忠臣として敬われ、1707年に牙山の祠堂が王室から「顕忠」の名を賜るなど、彼を祀る祠堂が各地に築かれた。1795年に正祖が刊行した全集は、彼の著作を広く世に知らしめた。

植民地時代(1910~1945年)、李舜臣は日本に対する朝鮮の抵抗の象徴となった。1930年代初め、新聞『東亜日報』は顕忠祠の修復と一族の土地を守るための全国的な募金運動を主導し、作家の李光洙(イ・グァンス)は彼を題材にした小説を新聞に連載した。皮肉なことに、明治時代以降の日本海軍の将校たちの中にも、李舜臣を優れた戦術家として称賛する者がいた。ただし、日本の提督が彼を称賛したと伝えられる引用の一部は、信頼できる典拠をたどることが難しいものもある。

1945年の解放後、とりわけ1960年代から70年代の朴正熙(パク・チョンヒ)政権下において、李舜臣は愛国的で規律ある指導者の模範として大いに顕彰された。顕忠祠は大幅に拡張され、1968年にはソウルの光化門(クァンファムン)に銅像が建てられ、彼の肖像は硬貨や紙幣にも用いられるようになった。歴史家たちは、こうした国家主導の顕彰が、軍人出身の指導者に正統性を与えるといった政治的な目的にも資してきたことを分析している。

北朝鮮でも李舜臣は愛国者として尊敬されているが、公式の解釈は彼を封建的な朝鮮の階級構造の枠内に位置づけている。大衆文化においても彼は絶えず存在感を放ち続けており、鳴梁の戦いを描いた2014年の映画『鳴梁 -海戦-』は韓国映画史上最多の観客動員数を記録した。

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論争と史料の信頼性

李舜臣の生涯を伝える主要な史料は、彼自身の日記と報告書、『宣祖実録』、柳成龍の『懲毖録』、甥の李芬(イ・ブン)による伝記『行録』、そして日本や明国の記録である。李舜臣自身の著作は他に代え難い貴重な資料であるが、当然ながら彼自身の視点を反映しており、後代の伝記も彼を敬愛する人々によって書かれたものである。海戦の実像を再構成するには、朝鮮側の記録と並んで日本と明の史料を用いることが不可欠である。

数字はしばしば議論の的となる。李舜臣が何度戦ったか(しばしば23回という数字が引用されるが、何を含めるかによって数え方は変わる)、彼が文字どおり「一度も負けなかった」のかどうか、そして閑山島や鳴梁における両艦隊の規模や損害がどれほどであったかについては、朝鮮側と日本側の史料で食い違いがある。亀甲船の構造や鉄板の有無、そしてその開発における李舜臣個人の役割の大きさについても議論が続いている。

元均との関係も議論の的である。李舜臣の日記や彼を支持する人々によって形づくられてきた伝統的な語りは、元均を嫉妬深く無能な人物として描いている。一部の現代の研究者は、元均もまた1604年に一等功臣に列せられていること、そして漆川梁の惨敗が朝廷からの圧力の末に起きたことを指摘し、より均衡の取れた見方を主張している。それでも大半の歴史家は、1597年における元均の指揮を失敗と見なしているが、単純な英雄と悪役という図式には警戒を促している。

最後に、一部の論者は、李舜臣が戦後に再び迫害されることを避けるため、露梁においてあえて自らの身をさらして死を選んだのではないか、あるいはひそかに生き延びたのではないかという説を提示することがある。こうした説は証拠ではなく推測に基づくものであり、主流の歴史学は彼の死を戦場での死として扱っている。キム・フン(金薫)の小説『刀の詩(うた)』(2001年)のような作品は、こうした問いを歴史としてではなく文学として探求している。

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重要なポイント

制海権
日本の艦隊を打ち破ることで、李舜臣は朝鮮西岸沿いに海路で軍を補給しようとした侵略軍の計画を混乱させた。
地形の活用
李舜臣は鳴梁のように、狭い水路と激しい潮流のある戦場を選ぶことで、敵の数的優位を無力化した。
遠距離砲撃
朝鮮の軍船は重い大砲を搭載しており、日本兵が得意とした接近戦・乗り込み戦を避けることを狙いとしていた。
不当な仕打ちの中での忠義
自国の朝廷によって投獄・降格されながらも、再び呼び戻されると指揮に復帰した姿は、忠義の英雄という彼のイメージの中核となった。
一次証言
彼の戦争日記は戦闘だけでなく、日常生活や恐れ、病、悲しみまでも記録しており、戦争についての希少な個人的資料となっている。
英雄づくり
李舜臣のイメージは、朝鮮の歴代国王から植民地時代の民族主義者、そして現代の政府に至るまで、後の世代によって形づくられてきた側面もある。

記録

  1. 1545年 — 漢城(ソウル)に生まれる。
  2. 1576年 — 武科の試験に合格する。
  3. 1591年 — 麗水の全羅左道水軍節度使に任命され、亀甲船を含む軍船を準備する。
  4. 1592年 — 日本軍の侵攻(文禄の役)。李舜臣は玉浦、泗川(亀甲船が初めて使用される)、閑山島などで勝利を収める。
  5. 1593年 — 三道水軍統制使に任命され、閑山島に本営を置く。
  6. 1597年 — 逮捕・降格される。元均の艦隊が漆川梁で壊滅する。李舜臣は再任され、13隻の船で鳴梁の戦いに勝利する。
  7. 1598年 — 秀吉の死後に撤退する日本軍との露梁海戦で戦死する。
  8. 1604年 — 死後、一等功臣に列せられる。
  9. 1795年 — 正祖の命により、日記を含む全集が刊行される。
  10. 1968年 — ソウルの光化門に李舜臣の銅像が建てられる。
  11. 2013年 — 『乱中日記』がユネスコ「世界の記憶」に登録される。

用語集

文禄・慶長の役(壬辰倭乱)
1592~1598年の日本による朝鮮侵攻。朝鮮では、干支で壬辰にあたる1592年にちなんで壬辰倭乱と呼ばれる。
板屋船(パノクソン)
朝鮮水軍の主力軍船。大型で頑丈であり、高く設けられた甲板に大砲と弓兵を配置した。
亀甲船(コブクソン)
覆いを設けてとげを打ち付け、四方に大砲を備えた軍船。李舜臣の艦隊で衝撃部隊として用いられた。
三道水軍統制使
南方三道の水軍の指揮を一元化するために、1593年に李舜臣のために新設された官職。
乱中日記
李舜臣が1592年から1598年にかけてつけていた戦争日記。
義兵
地方の指導者や僧侶によって組織され、侵略軍に抵抗した義勇兵。
忠武公
李舜臣の諡号。「忠義と武勇に優れた君」を意味する。
両班(ヤンバン)
朝鮮の世襲的な教養ある支配階層で、文官・武官はここから輩出された。

よくある質問

亀甲船は李舜臣が発明したのですか。

正確にはそうではありません。「亀船」への言及は、李舜臣よりもずっと前の1413年の朝鮮の記録にすでに見られます。彼は改良された亀甲船を建造させ、戦闘において非常に効果的に活用しました。

亀甲船は鉄でできていたのですか。

屋根には鉄のとげが打ち付けられていましたが、李舜臣の時代の史料には鉄の装甲板があったという記述はありません。鉄板が張られていたかどうかは、歴史家のあいだで今なお議論が続いています。

なぜ13隻ではるかに大きな艦隊に勝てたのですか。

李舜臣は、潮流が非常に速く向きも変わる狭い海峡を選び、敵が数の優位を活かせないようにしたうえで、大砲と統率のとれた乗組員に頼りました。日本艦隊の正確な規模については、今も議論が続いています。

なぜ自国の王によって逮捕されたのですか。

彼は罠を疑って、日本の指揮官を迎え撃てという命令に従わず、さらに朝廷には政敵もいました。国王宣祖は彼のこの行動を命令違反と見なしました。

彼の日記は他の史料にはない何を教えてくれますか。

潮の動きや天候、物資の問題、軍紀、民衆の苦しみ、そして指揮官自身の感情まで、戦争を日々見つめていた一人の指揮官の視点を伝えてくれます。

本当に一度も負けなかったのですか。

彼が指揮したすべての戦いに勝利したと一般には評価されていますが、交戦の回数やその数え方は史料によって異なり、勝敗がはっきりしない戦いもありました。

日本では李舜臣はどのように見られていますか。

19世紀末以降、一部の日本海軍の将校が彼の戦術を称賛しましたが、日本における大衆的な記憶は、秀吉とその配下の武将たちにより強く向けられています。見方は分かれており、日本の提督による称賛とされる引用の中には、裏づけを取ることが難しいものもあります。

出典・参考文献

  1. 이순신 (李舜臣). 韓国民族文化大百科事典(韓国学中央研究院)
  2. 난중일기 (亂中日記). 韓国民族文化大百科事典(韓国学中央研究院)
  3. Nanjung Ilgi: War Diary of Admiral Yi Sun-sin. ユネスコ「世界の記憶」, 2013
  4. Yi Sun-sin. Wikipedia
  5. 이순신. Wikipedia (韓国語版)
  6. Turtle ship. Wikipedia
  7. Battle of Myeongnyang. Wikipedia
  8. Japanese invasions of Korea (1592–1598). Wikipedia
  9. Samuel Hawley, The Imjin War: Japan's Sixteenth-Century Invasion of Korea and Attempt to Conquer China. Royal Asiatic Society, Korea Branch; Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2005

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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