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子ども向け
エジプトの大ピラミッドとほぼ同じころ、今から約4,500年前に建てられた都市を想像してみてください。長くまっすぐな街路、焼いたレンガでできた家、浴室、そして汚れた水を運び去るための道の下の排水路がありました。それが、今のパキスタンにあるモヘンジョダロという都市です。
そこには数万人が暮らしていたかもしれません。彼らは農民、商人、陶工、ビーズ職人、金属加工職人でした。子どもたちは粘土のおもちゃで遊びました。中には小さな荷車や、うなずくように頭が動く動物のおもちゃもありました。
都市の高台の中央には「大浴場」と呼ばれる大きなプールがあります。天然のタールの層で水が漏れないように作られていました。何のために使われたのか、はっきりしたことは誰にもわかりませんが、多くの考古学者は、人々が特別な、おそらく宗教的な意味を持つ方法で体を清めるために使ったと考えています。
モヘンジョダロの人々は、小さな絵や記号を用いて文字を書き、それを「印章」と呼ばれる小さな石の判子に彫りました。しかし今日、誰もその文字を読むことができないため、彼らが自分たちの都市を何と呼んでいたのか、誰が治めていたのか、どんな言葉を話していたのか、いまだにわかっていません。
約700年後、この都市はゆっくりと人が去り、砂と土に埋もれました。現在の名前は「死者の丘」という意味です。考古学者たちは約100年前からここを発掘し始め、今では世界遺産として、人々が懸命にこれを守ろうとしています。
ひと目でわかる
- 年代
- 紀元前2500年頃に建設(成熟期ハラッパー文化、紀元前2600~1900年頃)。紀元前1700年頃までにほぼ放棄
- 場所
- パキスタン、シンド州ラルカーナ県、インダス川西岸
- 文明
- インダス文明(ハラッパー文明)、南アジアの青銅器時代の文化
- 規模
- 占有面積は約250~300ヘクタールと推定。人口はしばしばおよそ4万人(あくまで概算)とされる
- 構成
- 西側の高い盛土(「城塞」)と、格子状の街路を持つより広い下町から成る
- 有名な出土品
- 大浴場、「神官王」像、青銅の「踊る少女」像、銘文入りの印章、標準化された分銅
- 発掘
- 1920年代からインド考古局によって発掘。1965年まで大規模な発掘が続いた
- 指定
- 「モエンジョダロの考古遺跡」としてユネスコ世界遺産(1980年)
やさしい
モヘンジョダロとは何か
モヘンジョダロは、パキスタンのシンド州、インダス川近くにある考古遺跡である。約4,500年前、これは世界最大級の都市のひとつだった。この都市は、最初に研究された都市であるハラッパーにちなんでハラッパー文明とも呼ばれる、インダス文明に属していた。
インダス文明は最古の文明のひとつで、古代エジプトやメソポタミアと同時代に栄えた。最盛期には、そのどちらよりも広い範囲を占め、現在のパキスタンと北西インドの大部分に広がっていた。モヘンジョダロとハラッパーはその最大の都市であり、ほかにドーラビーラ、ガネリワラ、ラーキーガリーなどの都市もあった。
この都市の古代の名前はわかっていない。「モヘンジョダロ」は現代のシンド語による名称で、通常「死者の丘」と訳される。インダス文字が解読されていないため、この都市について私たちが知ることはすべて、その建物や遺物から得られたものであり、都市自身の文字記録からではない。
この都市は、インダス川下流の平坦で肥沃な氾濫原にある小高い場所に立地し、現在のラルカーナの町から約28キロメートルのところにあった。川は農業のための水と豊かな沈泥をもたらし、また船で物資を谷の上下やアラビア海方面へ運ぶための水路でもあった。同じ川は危険にもなりえた。その洪水は強力で、何千年ものあいだに川筋は何度も変わっている。モヘンジョダロでの暮らしは、常にインダス川を利用することと、その川から都市を守ることとのバランスの上に成り立っていた。
やさしい
計画都市を歩く
都市には二つの主要な部分があった。西には高さ約12メートルの人工の高い盛土があり、考古学者たちはこれを「城塞」と呼ぶ。東にははるかに広い区域、「下町」が広がり、ほとんどの人々がそこで暮らし働いていた。どちらも泥レンガと土でできた巨大な基壇の上に立ち、インダス川の洪水より高い位置にあった。
主要な街路はおおむね南北および東西に走り、下町を大きな区画に分けていた。そこから小さな路地が延びていた。ほとんどの家は中央に中庭があり、その周りに部屋が配置され、扉は人通りの多い大通りではなく脇の路地に面していた。階段で上がる二階を持つ家もあった。
水はいたるところにあった。考古学者たちはくさび形のレンガで内張りされた700以上の井戸を発見しており、多くの世帯の近くに井戸があったことがわかる。多くの家には傾斜した床を持つ浴室があり、トイレを備えた家もあった。排水は粘土製の配管を通って街路沿いのレンガ造りの排水路へ流れ込み、この排水路はレンガや石板で覆われ、掃除用の開口部も備えていた。これほどの排水システムを持つ都市は、その後何千年ものあいだほとんど存在しなかった。
下町にはさまざまな種類の建物が入り混じっていた。多くの部屋を持つ大きな家が小さな家のそばに立ち、ビーズや貝殻、陶器のための工房が住居のあいだに見られた。両側にレンガの排水路が走る広い街路を持つ区画もあれば、家々のあいだを縫うように狭い路地が延びる区画もあった。この都市はチェス盤のように完全に均一というわけではなく、時とともに変化してもいたが、明らかにある計画に従っており、それが何世代にもわたって維持されていた。
やさしい
大浴場とその他の大建築
最も有名な建物は、城塞にある「大浴場」である。長さ約12メートル、幅約7メートル、深さ2.4メートルの長方形のプールで、両端に階段がある。丁寧に組まれたレンガが石膏モルタルで固められ、水を保つために天然のタールであるビチューメンの層が裏打ちされていた。周囲には列柱と小部屋があり、大きな排水路で水を抜くことができた。
後代の南アジアの諸宗教が沐浴と清浄をとても重んじることから、多くの考古学者はこの大浴場が儀礼的な沐浴に使われたと考えている。しかしこれはあくまで解釈であり、それを説明する銘文は見つかっていない。
その隣には、モーティマー・ウィーラーが荷車が穀物を運び込む様子を想像して「大穀倉」と呼んだ、格子状のレンガ基礎を持つ巨大な建物がある。ジョナサン・マーク・ケノイアーら後の考古学者たちは、穀物が見つかっていないことを指摘し、これを「大広間」と呼ぶことを提案した。ほかにも、集会場だったとみられる「柱廊のある広間」や、多くの部屋からなる複合施設「カレッジ」と呼ばれる建物がある。これらの名前はすべて発掘者たちが与えたもので、実際の使われ方とは一致していない可能性がある。
中級
どのように建てられたか
モヘンジョダロは主に焼成レンガで建てられており、これは天日干しの泥レンガよりも強く、耐水性が高い。数百キロメートルにわたるインダスのレンガは、厚さ・幅・長さの比率がおよそ1:2:4と似通っており、共通の建築規格があったことを示している。建築者たちはレンガを頑丈な壁になるように積み、基壇や埋め立てには泥レンガを用いた。
この都市は初期段階から意図的に設計されたようである。井戸と排水路は街路とともに計画され、のちの再建も概ね古い区画線に従った。何世紀にもわたり、洪水が沈泥を堆積させ家々が建て直されるにつれ、都市は自らのがれきの上に高くなっていった。ウィーラーは、何度も洪水に遭い再建されたと考えていた。
都市の多くは現在の地下水面より下にある。最も古い層にはまだ完全には到達しておらず、考古学者たちはこの集落がどのように、また正確にいつ始まったのかを知らない。2015年のボーリング調査は、古代都市が発掘済みの範囲を超えて広がっていたことを示唆した。
何百万個ものレンガを焼き、排水を計画し、労働力を組織するために必要だった技術は、強い共同体組織を物語る。しかし、明確に王宮や王墓、壮大な神殿と特定できるものは見つかっておらず、これはモヘンジョダロを同時代のエジプトやメソポタミアの都市とは大きく異なるものにしている。
中級
仕事、交易、日常生活
モヘンジョダロの人々は小麦と大麦を育て、こぶを持つゼブ牛を含む牛を飼い、綿花を織っていた。これは布地としてこの植物が使われた最も早い例のひとつである。職人たちは精巧な陶器、貝の腕輪、石や金属の道具、そして驚くほど精密に穴を開けたカーネリアン(紅玉髄)の長いビーズを作った。都市の一部の地域は、貝細工など特定の工芸に特化していたようである。
彼らはチャート製の標準的な立方体の分銅を使っており、小さな単位では倍数式、大きな単位では十進法になる仕組みだった。都市で見つかった貝の物差しの破片には、間隔の正確に揃った目盛りが刻まれている。こうした規格化によって、広大な地域にわたる公正な取引が可能になった。
交易はインダスをはるかに超えて広がっていた。インダスの印章、ビーズ、分銅がメソポタミア、ペルシア湾、中央アジアで見つかっている。メソポタミアの楔形文字文書には、カーネリアンや木材などの品を供給した「メルッハ」という土地が言及されており、多くの学者はメルッハをインダス地域と同定しているが、これは推論にすぎない。
家の大きさはさまざまで、裕福な人々と貧しい人々がいたことがわかる。しかし井戸や浴室、排水路への広範なアクセスは、多くの考古学者にとって異例なほど均等なものと映ってきた。子どものおもちゃやサイコロ、動物や人の像は、日常生活と遊びの様子をかいま見せてくれる。
中級
印章、彫刻、信仰
インダスの遺跡からは、主に凍石(ステアタイト)から彫られた数千点もの小さな正方形の印章が見つかっている。そのほとんどには動物、最も多いのは考古学者たちが「一角獣」と呼ぶ一本角の雄牛のような生き物が描かれ、その上に短い記号の列がある。これらはおそらく粘土製の荷札に印を押すのに使われ、所有者や役人、集団を示していたと考えられる。
「神官王」は高さ約17.5センチメートルの凍石製の胸像で、1927年に発見された。ひげをたくわえ、ヘッドバンドをつけ、かつて赤い顔料が詰められていた三つ葉文様で飾られたローブを着た男性の姿を示している。この名前は根拠のない現代の推測であり、この人物像は共同体の重要な人物か祖先を表しているのかもしれない。現在はカラチのパキスタン国立博物館にある。
「踊る少女」は高さ約10.5センチメートルの青銅像で、1926年に発見され、ロストワックス鋳造で作られた。片腕に多くの腕輪をつけ、自信に満ちて立つ若い女性を表している。彼女が実際に踊り手だったかどうかはわかっていない。現在はニューデリーの国立博物館にある。
いわゆる「パシュパティ印章」は、あぐらをかいて座り動物たちに囲まれた人物を示している。ジョン・マーシャルはこれをヒンドゥー教の神シヴァの初期の姿だと提案し、ヨガの座法だと見る者もいるが、多くの学者はこうした後代の宗教とのつながりが証明できないことに注意を促している。女性のテラコッタ像は母神信仰のしるしと読まれてきたが、その意味もまた議論の的である。
中級
衰退と放棄
紀元前1900年頃以降、インダスの大都市群は衰退していった。モヘンジョダロでは、後代の層になるほど建築が粗雑になり、家々が街路の上に建てられ、維持管理も行き届かなくなっている様子が見られる。紀元前1700年頃までに都市はほぼ放棄されたが、人々はその後もこの地域のより小さな集落で暮らし続けた。
単一の大災害があったわけではない。今日の学者の多くは、いくつもの原因が組み合わさったと考えている。モンスーンの変化と乾燥化、川筋の変化、洪水と土砂堆積、農地への負荷、そしてメソポタミアとの長距離交易の崩壊である。たとえばグレゴリー・ポッセールは、一度の大洪水というより、繰り返された小規模な洪水や土地の過剰利用といった緩やかな過程を強調した。
はるかのちの紀元後数世紀、城塞の丘の上に仏教の仏塔(ストゥーパ)が建てられた。その遺構こそが、20世紀に考古学者たちの関心をこの遺跡に初めて向けさせたものだった。
大都市群の終わりは、人々の終わりを意味しなかった。後期ハラッパー期には、多くの共同体が東や南のガンジス平原やグジャラートへと移り、より小さな村で暮らした。印章や標準化された分銅の使用はおおむね姿を消し、長距離交易も縮小したが、農業や工芸、いくつかの伝統は続いた。そのため考古学者たちは、この変化を人口の突然の消失というより、社会の変容として説明している。
中級
再発見と発掘
1919~1920年、そして再び1922年、インド考古局のR・D・バネルジーが仏教の仏塔を調べるためこの丘を訪れ、その下にはるかに古い遺構を発見した。1924年、考古局長官ジョン・マーシャルは、ハラッパーとモヘンジョダロがそれまで知られていなかった古代文明に属することを世界に発表した。学者たちはまもなく、似た印章がメソポタミアでも見つかっていることに気づき、これが両都市を紀元前3千年紀のものと年代づけるのに役立った。
1920~30年代には、K・N・ディクシット、マーシャル、アーネスト・マッケイのもとで大規模な発掘が行われた。1950年にはモーティマー・ウィーラーが城塞を発掘し、1964~1965年にはジョージ・デールズが最後の大規模な発掘を主導した。その後は、露出した壁が劣化していたため大規模な発掘はおおむね止められ、調査や記録、保存へと重点が移った。これには1980年代にミヒャエル・ヤンセンとマウリツィオ・トシが率いたドイツ・イタリアの共同プロジェクトも含まれる。
1947年のインド分離独立は出土品を二分した。モヘンジョダロはパキスタン領となったが、多くの遺物はデリーにあった。コレクションは両国のあいだで、時には文字どおりビーズ一粒単位で分けられた。パキスタンは「神官王」を受け取り、インドは「踊る少女」を保持したが、「神官王」がいつどのようにカラチに渡ったかについては記録が一致していない。
初期の解釈はメソポタミアとの比較に強く影響されていた。マーシャルは最初の報告書のなかで、インダスの諸都市が独自の文化であると認識する前は「インド・シュメール」文明とさえ呼んでいた。この発見は、当時一般的だった、南アジア文明の歴史はヴェーダ時代に始まるという前提を覆し、この地域の都市の歴史を1,000年以上さかのぼらせることになった。
中級
レンガでできた都市を救う
モヘンジョダロは1980年、南アジアで最初にユネスコ世界遺産リストに登録され、同年これを保護する国際的なキャンペーンが始まった。最大の脅威は塩である。地下水がレンガの中に上がり、暑い気候の中で蒸発する際に塩の結晶がレンガの内部で育ち、レンガをぼろぼろに崩してしまう。
洪水や浸食もさらなる危険であり、以前の一部の修復では不適切な素材が使われ、元の壁を傷めてしまった。この遺跡の管理責任は2011年にシンド州政府に移され、パキスタンの考古学者たちは、より良い管理がなければこの遺跡が深刻な損失を被りかねないと警告している。2014年には、この遺跡で祭りの開会式を開く計画が持ち上がり、考古学者たちのあいだで大きな抗議の声が上がった。
保存は難しい選択を伴う。露出した区域を再び埋め戻して保護すべきか、どこまで再建すべきか、観光と保存のバランスをどう取るべきか、といった問題である。大規模発掘を中止するという決定自体が、考古学という営みそのものが脆弱な遺跡を危険にさらしうることを示している。
この都市からの出土品は現在、いくつもの博物館に分散している。カラチのパキスタン国立博物館、モヘンジョダロ現地のサイト・ミュージアム、ニューデリーの国立博物館、そして大英博物館を含む海外の小規模なコレクションである。遺跡の入り口には「神官王」の大きな複製が立っており、この都市がパキスタンの古代の遺産を象徴する存在になったことを示している。
上級
論争:支配者、侵略、そして未解読の文字
モヘンジョダロを統治していたのは誰か。明確な王宮、王墓、戦争を描いた図像が見当たらないことから、単一のインダス国家、複数の都市国家、商人あるいは祭司階級による支配、あるいはより緩やかな評議会制など、競合する諸モデルが提示されてきた。標準化されたレンガや分銅は調整の存在を示唆するが、必ずしも中央集権的な王を意味するわけではない。この議論はまた、大規模な都市化には強力な支配階級が必要かという、考古学におけるより広い問いにも触れている。
初期の発掘者たちは、この都市が侵入してきたインド・アーリア系の人々によって滅ぼされたと提案した。ウィーラーは、上層で見つかった骨格群を最後の大虐殺の犠牲者と見なし、「城塞を破壊する者」と呼ばれたヴェーダの神インドラと結びつけた。しかしジョージ・デールズは1964年、これらの骨格が異なる時代のものであり単一の虐殺を表すものではないと論じ、その後の研究でも暴力的な攻撃を示す証拠はほとんど見つかっていない。今日ほとんどの考古学者は、この都市の終焉を説明するものとして侵略モデルを退けているが、南アジアへのインド・アーリア諸語の到来をめぐる問いは、これとは別の、政治的にも敏感な研究分野として残っている。
インダス文字は数百の記号からなり、そのほとんどは平均してわずか数記号という非常に短い銘文である。二言語併記の文書が見つかっていないため、これを初期ドラヴィダ語やインド・アーリア語、その他の言語に結びつける多くの解読案が出されてきたが、なかにはこの文字が言語を完全に表記しているのかどうかを疑う学者もいる。いずれの説も広く受け入れられるには至っていない。
名称もまた議論の的である。一部のインド人研究者は、乾いたガッガル・ハクラ川をリグヴェーダのサラスヴァティー川と同定して「インダス・サラスヴァティー文明」という呼称を用いている。地質学的な研究は、ガッガル・ハクラがハラッパー時代においては氷河を水源とする大河ではなく、モンスーンによって水を得ていた水系だったことを示唆しており、多くの考古学者は「インダス」あるいは「ハラッパー」という中立的な呼称を好んでいる。
上級
証拠と方法
私たちが知っていることの多くは、1920~30年代の発掘に由来する。この発掘では大量の土が急速に取り除かれ、出土品は自然の層ではなく深さによって記録された。そのため、建築段階を区別したり個々の遺物の年代を正確に定めたりするのが難しい。のちの研究者たちは、古い記録を再分析し、なお立っている壁を再調査し、限られた新規発掘や地表踏査、建築測量と組み合わせてきた。
インダス地域からの放射性炭素年代測定と、インダスの遺物を含むメソポタミアの文脈は、成熟期ハラッパー段階の年代の裏づけとなっている。動物の骨、植物の残存物、歯の同位体の研究は、食生活や農業、地域間の人々の移動を明らかにし始めている。
解釈こそが中心的な課題であり続けている。「城塞」「穀倉」「カレッジ」「神官王」といった呼称は、インダスをメソポタミアやのちのインドの伝統と比較した初期の発掘者たちの前提を反映している。近年の研究は、まず建物をその形態と関連する出土品によって記述し、解釈を証拠全体のパターンに照らして検証しようとしている。標準的な総合研究には、ジョナサン・マーク・ケノイアーの『インダス文明の古代都市』とグレゴリー・ポッセールの『インダス文明:現代的視座』がある。
重要なポイント
- 都市計画
- 格子状の街路、規格化されたレンガ、計画的な排水は、全体として設計され維持された都市の姿を示している。
- 水の管理
- 何百もの井戸、各戸の浴室、覆いのある排水路は、水を日常生活の中心に、そしておそらく儀礼の中心に据えていた。
- 規格化
- 広大な地域にわたって共有されたレンガの比率、分銅、印章の様式は、共通の規則と調整があったことを示唆する。
- 王宮なき権力
- 明確な王宮や王墓は見つかっておらず、この都市がどのように統治されていたのかという問いを投げかけている。
- 長距離交易
- インダスの品々はメソポタミアや湾岸地域にまで達し、メソポタミアの文書はこの地域をおそらく「メルッハ」と呼んでいる。
- 緩やかな衰退
- 単一の侵略ではなく、気候変動、川筋の変化、経済の変化が、この都市の放棄を最もよく説明する。
- 沈黙する文字
- 未解読のインダス文字のため、この都市の言語、名前、信仰は今も謎のままである。
記録
- 紀元前3300年頃 — インダス地域で初期ハラッパー文化が発展する。
- 紀元前2600年頃 — 成熟期ハラッパー段階が始まり、大規模な都市が現れる。
- 紀元前2500年頃 — モヘンジョダロが壮大な計画のもとに建設される。
- 紀元前1900年頃 — インダスの大都市群の衰退が始まる。
- 紀元前1700年頃 — モヘンジョダロがほぼ放棄される。
- 200年頃 — 城塞の丘の上に仏教の仏塔が建てられる(年代は議論あり)。
- 1922年 — R・D・バネルジーがこの丘を調査し、仏塔の下にはるかに古い遺構を発見する。
- 1924年 — ジョン・マーシャルがインダス文明の発見を発表する。
- 1947年 — 分離独立により、発掘された出土品がインドとパキスタンのあいだで分けられる。
- 1950年 — モーティマー・ウィーラーが城塞を発掘する。
- 1965年 — ジョージ・デールズの発掘が終わる。以後、遺跡を守るため大規模な発掘は中止される。
- 1980年 — モヘンジョダロがユネスコ世界遺産となる。
用語集
- ハラッパー
- 遺跡ハラッパーにちなむ、インダス文明のもうひとつの呼び名。
- 成熟期ハラッパー
- インダス文明の都市化段階で、紀元前2600~1900年頃にあたる。
- 城塞
- モヘンジョダロ西側の盛り上がった丘。この名前は発掘者たちが与えたもので、実際に要塞であったことを証明するものではない。
- 焼成レンガ
- 窯で焼いたレンガで、天日干しレンガより強く耐水性が高い。
- ビチューメン
- 大浴場を防水するのに使われた天然のタール。
- 印章
- 文様や記号を粘土に押しつけるために使われた小さな彫刻入りの石の判子。
- 凍石(ステアタイト)
- 滑石とも呼ばれる柔らかい石で、彫刻したのち加熱して硬化させることができる。
- ロストワックス鋳造
- 蝋の模型を作り、それを粘土で覆い、蝋を溶かして流し出したあとに金属を流し込んで金属製品を作る方法。
- メルッハ
- メソポタミアの文書に記された遠方の土地の名で、通常インダス地域と同定される。
- 仏塔(ストゥーパ)
- 仏教のドーム型の記念建造物で、しばしば遺物を納める。
- 地下水面
- それより下では地面が水で満たされている境界のレベル。
よくある質問
4,500年前に本当に浴室があったのですか?
はい。多くの家に浴室があり、一部にはトイレもあって、街路の排水路へと続く配管でつながっていました。
モヘンジョダロの王は誰だったのですか?
王がいたかどうかもわかっていません。王宮や王墓は見つかっておらず、「神官王」像の名前も推測にすぎません。
なぜインダスの文字を読むことができないのですか?
銘文が非常に短く、長い文章がなく、ロゼッタストーンのような二言語併記の銘文も見つかっていないからです。
モヘンジョダロは侵略者によって滅ぼされたのですか?
もはやほとんどの考古学者はそう考えていません。いわゆる虐殺の骨格は異なる時代のものであり、環境と経済の変化が組み合わさったことのほうが、その衰退をよく説明します。
モヘンジョダロはのちのインド文化とどう関係していますか?
沐浴の重要性や一部の装身具、工芸など、続いた慣習もあるかもしれませんが、ヒンドゥー教のような後代の宗教との直接的なつながりは議論があり、証明するのが難しいものです。
なぜ考古学者は大規模な発掘をやめたのですか?
露出すると、焼成レンガが塩や気候によって急速に劣化し始めたため、1965年以降は保存と非破壊的な研究に重点が移りました。
約4万人という人口推定はどれくらい信頼できますか?
これは都市の面積と住宅密度についての仮定に基づく大まかな推定です。学者たちはこれを正確な数え上げではなく、桁数の目安として扱っています。
出典・参考文献
- Mohenjo-daro. Wikipedia
- Indus Valley Civilisation. Wikipedia
- Priest-King (sculpture). Wikipedia
- Dancing Girl (prehistoric sculpture). Wikipedia
- Indus script. Wikipedia
- Archaeological Ruins at Moenjodaro. UNESCO World Heritage Centre
- Jonathan Mark Kenoyer, Ancient Cities of the Indus Valley Civilization. Oxford University Press / American Institute of Pakistan Studies, 1998
- Gregory L. Possehl, The Indus Civilization: A Contemporary Perspective. AltaMira Press, 2002
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。