哲学

バールーフ・デ・スピノザ

Baruch (Bento, Benedictus) de Spinoza

1656–1677年 · ハーグ(ネーデルラント連邦共和国)

ひとことで

バールーフ・デ・スピノザは17世紀オランダの哲学者で、神と自然は同一のものであり、あらゆることは必然によって起こり、人は世界を理解することによって自由で幸福になれると説き、それが危険であった時代に思想の自由を擁護した人物である。

バールーフ・デ・スピノザ
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最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

バールーフ・デ・スピノザは1632年、アムステルダムに生まれた。彼の一族はユダヤ人で、その祖先はポルトガルから逃れてきていた。ポルトガルではユダヤ人はキリスト教徒になるか罰を受けるかを迫られていたのである。アムステルダムでは自分たちの宗教を公然と実践することができ、幼いバールーフは共同体の学校に通い、たいへん優秀な生徒だった。

成長するにつれ、スピノザは先生や近所の人々を心配させるような問いを発するようになった。聖書は本当に神が一言一句書いたものなのか。神は天にいて怒る王のような存在なのか。23歳のとき、彼が属するユダヤ人共同体の指導者たちは彼を破門した。それは、共同体のだれも彼と話したり、彼の書いたものを読んだりしてはならないということを意味した。

スピノザはあきらめなかった。彼はオランダの小さな町々に移り住み、顕微鏡や望遠鏡に使うガラスレンズを磨いて生計を立てた。彼は借間で質素に暮らし、時間を思索と執筆に費やした。ヨーロッパ中の科学者や思想家たちが彼に手紙を書いた。

彼の大きな考えとは、神は世界の外にいる人格ではなく、自然そのもの、存在するすべてのものそのものだ、というものだった。あらゆることは、長く連なったドミノのように、理由があって起こる。彼は、私たちが自由になるのは、好き勝手にふるまうことによってではなく、物事がなぜ起こるのかを理解することによってだと考えた。そうすれば、怒りや恐れ、嫉妬に振り回されずに済むからである。

彼のもっとも有名な著作『エチカ』は、定義、規則、証明を備えた幾何学の教科書のように書かれている。あまりに物議をかもす内容だったため、1677年、44歳で彼が亡くなったあとになってようやく出版された。今日では多くの人が、彼を歴史上もっとも勇敢で独創的な思想家の一人とみなしている。

ひと目でわかる

生没年
1632年11月24日〜1677年2月21日
活動地
アムステルダム、ライデン近郊のレインスブルフ、フォールブルフ、ハーグ(オランダ共和国)
出自
アムステルダムのポルトガル系ユダヤ人(セファルディム)の商家。1656年に共同体から破門された
職業
哲学者。生計の一部を光学レンズ磨きで立てた
主要著作
『エチカ』(1677年、没後刊行)、『神学・政治論』(1670年、匿名)、『政治論』(未完)、『知性改善論』
主要な思想
神即自然(Deus sive Natura)、一元的実体、必然性、コナトゥス、三種類の認識、理解を通じた自由、思想の自由
使用言語
ラテン語(ほかにオランダ語、ポルトガル語、スペイン語、ヘブライ語)
影響
急進的啓蒙、ドイツ観念論とロマン主義、聖書批評、自由主義的政治思想、現代の心の哲学

やさしい

スピノザとはだれか

バールーフ・デ・スピノザ(ポルトガル語でベント、ラテン語でベネディクトゥス。三つの名はいずれも「祝福された者」を意味する)は、ルネ・デカルトやゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツと並ぶ、17世紀を代表する哲学者の一人である。理性が実在の真の構造をとらえうると考えたことから、彼らとともにしばしば「合理主義者」に分類される。

スピノザはいくつもの大胆な主張で知られている。実体はただ一つしかなく、それは神とも自然とも呼びうる。起こることはすべて、この実体の本性から必然的に生じるのであって、真に偶然的なものは何もなく、原因を持たない選択という意味での自由意志も存在しない。心と身体は二つの別々のものではなく、二つの仕方で見られた一つのものである。そして人間にとって最高の善は、これを理解することであり、それは彼が「神への知的愛」と呼んだ穏やかな喜びをもたらす。

彼はまた、1670年の『神学・政治論』において、国家は市民に自由に考え、思うところを自由に語ることを許すべきだと論じた政治思想家でもあった。神と聖書についての彼の見解はきわめて危険視されたため、彼は没後一世紀以上にわたって無神論者として非難された。しかし後の世代は、彼を近代の世俗的思想、聖書学、民主主義理論の先駆者として評価するようになった。

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やさしい

アムステルダムでの幼少期

スピノザは1632年11月24日、アムステルダムに生まれた。父ミハエルは、ポルトガルやスペインから干し果物などの品を輸入する商人だった。一家は、スペインとポルトガルでキリスト教への改宗を強いられ(いわゆるコンベルソ)、より寛容なオランダ共和国でユダヤ教に立ち戻った人々からなる、この町のポルトガル系ユダヤ人共同体に属していた。母ハンナ・デボラは彼が6歳のときに亡くなった。

スピノザは共同体のタルムード・トーラー学校で学び、ヘブライ語、聖書、ユダヤ教の注釈を身につけた。しかし上級のラビ養成課程は修了しなかった。兄が亡くなったあと、彼は家業に携わるようになり、1654年に父が亡くなってからは弟ガブリエルとともにこれを営んだ。

1650年代初め、彼はフランシスクス・ファン・デン・エンデンのもとでラテン語を学び始めた。エンデンは元イエズス会士で急進的な政治思想を持ち、アムステルダムで学校を営んでいた人物である。ラテン語を通じてスピノザは、デカルトの哲学、古典文学、そして新しい科学に触れることができた。彼はまた、教会の権威を拒み自由に宗教を論じ合っていたメンノー派やコレギアント派といったキリスト教の一派とも接触を持つようになった。

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やさしい

ヘレム——共同体からの追放

1656年7月27日、アムステルダムのポルトガル系ユダヤ人共同体の指導者たちは、当時23歳だったスピノザに対してヘレム(追放宣告)を下した。現存するこの文書は異例なまでに厳しい。彼の「忌まわしい異端」や「怪物のような行い」について具体的な内容を語ることなく言及し、彼を呪い、共同体の成員が彼と言葉を交わすこと、同じ屋根の下にとどまること、彼に近づくこと、彼の書いたものを読むことを禁じている。

歴史家たちは、この異端とはおそらく、彼の後の著作にも見られる考え方、すなわち魂は伝統的な意味で不滅ではないこと、神は戒律を啓示する立法者ではないこと、モーセの律法はもはや拘束力を持たないことなどであったと考えている。共同体には実際的な理由もあった。その成員はオランダ当局の寛容に依存しており、彼らのあいだに公然たる宗教的急進主義があれば、その寛容を脅かしかねなかったのである。

スピノザは和解を求めなかったようである。彼はユダヤ人共同体を離れ、いかなるキリスト教の教会にも加わらなかった。彼は自分の名のラテン語形であるベネディクトゥスを名乗り、哲学に捧げる静かな生活を始めた。ヘレムが解かれることは一度もなく、21世紀に入って再考する提案がなされたこともあったが、採用されるには至っていない。

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中級

哲学者の生涯——レインスブルフ、フォールブルフ、ハーグ

1661年ごろ、スピノザはコレギアント派の中心地であった、ライデン近郊の村レインスブルフに移った。そこで彼は『神、人間及び人間の幸福に関する短論文』を書き、『知性改善論』に取り組み、『エチカ』の執筆を始めた。1663年にはハーグ近郊のフォールブルフに移り、生前に自分の名前で出版した唯一の著作、すなわちデカルトの『哲学原理』の解説に『形而上学的思想』を付した書物を刊行した。

スピノザは、新しい光学の科学と結びついた熟練の技であるレンズ磨きによって生計を立てていた。クリスティアーン・ホイヘンスのような科学者たちからも、その腕を尊敬されていた。彼はまた、シモン・ヨーステン・デ・フリースやヤーリフ・イェレスといった友人たちの支援も受けた。彼を敬愛する人々の輪は『エチカ』の草稿を検討し、彼はロンドン王立協会の書記官ヘンリー・オルデンバーグとも、科学、宗教、哲学について文通した。

1670年、彼はハーグに移り、以後生涯そこで下宿人として暮らした。1672年、いわゆる「災厄の年」には、フランスがオランダ共和国に侵攻し、ハーグでは暴徒が政治家ヨハン・デ・ウィットとその弟コルネリスを殺害した。のちにライプニッツが伝えた話によれば、スピノザはその現場近くに「ultimi barbarorum(最も卑劣な野蛮人ども)」と書いた張り紙を出そうとして下宿の主人に止められたという。1673年、彼はハイデルベルク大学の哲学教授職の申し出を断った。それが自らの哲学する自由を制約することを恐れたためである。

1676年、ライプニッツがハーグの彼のもとを訪れ、二人は数日間語り合った。スピノザは1677年2月21日、44歳で世を去った。死因はおそらく結核のような肺の病であり、レンズ磨きで生じるガラス粉によって悪化した可能性がある。友人たちは同年のうちに、彼の未発表の著作を、ラテン語版(『遺稿集(Opera Posthuma)』)とオランダ語訳(『De Nagelate Schriften』)の両方で急いで出版した。扉には彼のイニシャル「B.D.S.」だけが記されていた。

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中級

歴史的背景——オランダ黄金時代

スピノザはオランダ黄金時代を生きた。スペインからの独立を勝ち取ったオランダ共和国は、ヨーロッパ随一の商業大国となり、世界規模の交易帝国と活気ある印刷業、そして比較的高い宗教的寛容を持っていた。アムステルダムはセファルディムのユダヤ人、プロテスタントの異端者、さまざまな種類の亡命者たちを受け入れた。それはレンブラントやフェルメール、ホイヘンスの世界でもあった。

しかし寛容には限界があった。公認のレフォルメルト教会(改革派教会)は力を持っており、その説教者の多くは宗教的見解を厳しく統制することを望んだ。政治は、寛容と商人エリートの支配を重んじるヨハン・デ・ウィットの共和派政権と、正統派カルヴァン派聖職者と結びついたオラニエ家の支持者たちのあいだで分裂していた。オランダ語で急進的な宗教見解を発表したスピノザの友人アドリアーン・クールバッハは1668年に投獄され、1669年に獄中で亡くなった。これは公然たる自由思想家がどのような目に遭いうるかを示す警告であった。

知的な面では、スピノザの世代は新しい科学と、長年オランダに暮らしたデカルトによって形づくられていた。デカルト哲学は明晰判明な観念にもとづいて知識を再構築することを約束し、オランダの諸大学で激しい論争を引き起こした。スピノザはデカルトの方法と語彙を受け継ぎながら、まったく異なる結論を導き出した。

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中級

『エチカ』I——神即自然

『エチカ』は「幾何学的秩序に従って論証された(ordine geometrico demonstrata)」書物である。ユークリッドの『原論』のように、全五部のそれぞれが定義と公理から始まり、そこから定理が証明され、系(コロラリー)と説明のための注解(スコリウム)が付けられる。スピノザは、この形式によって、読者が修辞ではなく理由に従わざるをえなくなることを期待した。五部はそれぞれ、神について、精神の本性と起源について、感情(アフェクトゥス)の起源と本性について、人間の隷属すなわち感情の力について、そして知性の力すなわち人間の自由について論じる。

第一部は、実体はただ一つしかありえないと論じる。それは、それ自身によって存在し、それ自身によって考えられるものであり、この実体こそが神、すなわち絶対に無限な存在であるという。それ以外のすべては「様態(モドゥス)」、すなわちこの実体が存在する一つの仕方である。星も、岩も、人も、思考も、神の外に立つ別個のものではなく、唯一の神の変様なのである。スピノザは時に「神、すなわち自然(Deus, sive Natura)」と書いており、そのため彼の見解はしばしば汎神論と呼ばれるが、この呼び名が適切かどうかは学者のあいだで議論がある。

スピノザにとって神は無限に多くの属性を持ち、人間はそのうち延長(物体であること)と思惟の二つを知る。神は目的のために行動せず、可能性のなかから選択せず、報いも罰も与えない。すべては、三角形の性質がその定義から必然的に導かれるのと同じように、神の本性から必然的に導かれる。第一部の付録でスピノザは、自然が人間の目的のために存在し、神が嵐や病を罰として送るという信仰は、人間の無知と自己中心的な想像から生じるのだと論じている。

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中級

『エチカ』II——心、感情、そして自由

心と身体。思惟と延長は一つの実体の二つの属性であるから、人間の心と人間の身体は「あるときは思惟という属性のもとで、あるときは延長という属性のもとで考えられる、一つにして同じもの」である。心とは身体の観念である。これはしばしば並行論と呼ばれる。あらゆる物理的な出来事にはそれに対応する心的な出来事があるが、どちらもどちらかの原因になるわけではない。こうしてスピノザは、非物質的な魂がどのようにして物質的な身体を動かしうるのかというデカルトの難問を回避した。

感情。あらゆるものは自らの存在に固執しようと努める。スピノザはこの努力をコナトゥスと呼び、人間においてこれは欲望の本質である。喜びとは行動する力がより大きくなる推移であり、悲しみとはより小さくなる推移である。愛、憎しみ、希望、恐れ、妬み、憐れみといったその他すべての感情は、欲望・喜び・悲しみと、それらの原因についての観念とから組み立てられる。スピノザは、人間の行為と欲求を「あたかも線や面、物体の問題であるかのように」扱うことを約束している。

隷属と自由。私たちが理解していない外的な原因によって動かされているとき、私たちの感情は「受動(パッシオ)」であり、私たちは隷属状態にある。物事の原因についての妥当な観念、すなわち真の理解を形成するにつれ、私たちはより自由になる。スピノザは三種類の認識を区別する。想像(意見、伝聞、漠然とした経験)、理性(共通の性質や法則についての知識)、そして直観知(個々の事物が神の本性からどのように導かれるかを見て取ること)である。理解が深まるほど、受動の感情に支配されることは少なくなる。

至福。『エチカ』の最終部は「神への知的愛」、すなわちすべてを神から導かれるものとして理解することに伴う喜びと、精神が永遠であるとされる一つの意味を描く。至福は徳への報酬ではなく、徳そのものである。この書は次の言葉で終わる。「およそ優れたものはすべて、稀であると同時に困難である」。

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中級

宗教と政治——『神学・政治論』

『神学・政治論(Tractatus Theologico-Politicus)』は1670年、匿名で、しかも偽の出版地を付して刊行された。その副題が告げるとおり、この書の目的は、哲学する自由が信仰心や公共の平和を損なうことなく認められうること、いやむしろ、それを廃止すればこの両方を破壊してしまうことを示すことにある。

スピノザは、聖書はほかの古代の文献と同じように、その言語、歴史、著者を研究することによって、聖書自身から解釈されなければならないと論じる。この立場に立って彼は、モーセが『モーセ五書』全体を書いたわけではないこと、預言者たちは優れた知性の持ち主というよりも生き生きした想像力の持ち主であったこと、そして自然法則の侵犯として理解される奇跡はありえないことを結論づけた。彼は、聖書の核心的なメッセージは、正義と慈愛を通じて神と隣人を愛することにすぎず、哲学的な真理を教えるものではないと考えた。

政治については、彼はトマス・ホッブズにならって国家を自然権と力にもとづくものとしたが、そこからより自由主義的な結論を導いた。だれも自らの判断を明け渡すことはできないのだから、思想を統制しようとする政府は偽善と反乱を生むだけである。「国家の目的は実のところ自由である」。彼は民主政をもっとも自然な統治形態とみなした。未完の『政治論』は君主政、貴族政、民主政を分析しているが、民主政の章の途中で筆が途切れている。

この書は大きな騒動を引き起こした。改革派の教会会議によって断罪され、1674年にはホラント州当局によって発禁とされ、ヨーロッパ各地で無神論の宣言書として攻撃された。それでも広く流布し、聖書に対する近代的な歴史批評と、表現の自由を求める議論の基礎を築いた。

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中級

影響——「無神論者」から「神に酔いしれた人」へ

彼の死後およそ一世紀にわたって、「スピノザ主義者」という語は無神論者や唯物論者を意味する侮蔑語であった。ピエール・ベールの影響力ある『歴史批評辞典』は、スピノザの人格的な徳を称えつつも、その体系を不合理だと攻撃した。同時に彼の思想は自由思想家たちのあいだで地下に流布しており、歴史家ジョナサン・イスラエルは、スピノザが民主主義、平等、世俗的理性を掲げた「急進的啓蒙」の中心にいたと論じている。

1785年、ドイツで「汎神論論争」として知られる公開論争が勃発した。フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービが、敬愛された作家ゴットホルト・エフライム・レッシングが自らスピノザ主義者であると告白したと報じたことがきっかけだった。この論争によって、スピノザはドイツの哲学と文学の中心的存在となった。ゲーテ、ヘルダー、シェリング、ヘーゲルはいずれも彼と深く向き合い、ヘーゲルは哲学するにはまずスピノザ主義者でなければならないと述べ、詩人ノヴァーリスは彼を「神に酔いしれた人」と呼んだ。

後代の思想家たちは、それぞれにまったく異なるスピノザを見出した。19世紀の科学者たちは彼の自然主義を称賛した。アルベルト・アインシュタインは、人間の運命や行いに関心を持つ神ではなく、存在するものの秩序ある調和のなかに自らを現す「スピノザの神」を信じると述べた。ニーチェは彼のうちに先駆者を見出し、マルクス主義の哲学者たちは彼を唯物論者として読み、ジル・ドゥルーズは彼を喜びと力の哲学者に仕立て上げた。現代の心の哲学では、彼の心身観は二側面説や中立一元論と比較され、アントニオ・ダマシオのような神経科学者は彼の感情論を参照してきた。

ユダヤ教の側の反応もまた変化してきた。一部のユダヤ思想家は彼を裏切り者とみなしたが、とりわけ19世紀以降、彼を世俗的なユダヤの英雄、近代ユダヤ思想の創始者として取り戻そうとする者たちもいた。彼とユダヤ教との関係をめぐる議論は、今も続いている。

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上級

解釈をめぐる論争

実体と様態。有限な事物はどのようにして神に「内属」するのか。ピエール・ベールは、スピノザの考えでは事物は神の性質にあたるとし、そこから不合理が生じるとした(神は幸福であると同時に悲しく、トルコ人であると同時にドイツ人であることになってしまう)。エドウィン・カーリーはこれに対し、様態は主語の性質としてではなく、原因として神に依存すると考えるべきだと提案し、これによってベールの反論は解消されるが、スピノザ自身の言葉遣いから離れすぎているとの批判もある。イツハク・メラメドのような別の学者たちは、様態は実体に内属するという読み方を擁護し、そこから生じる見解も一貫したものになりうると論じている。

属性。属性は実体の客観的に実在する特徴なのか、それとも知性がそれをとらえる仕方にすぎないのか。ハリー・オーストリン・ウォルフソンに結びつけられる「主観主義的」読みは、属性を「知性が実体について知覚するもの」とするスピノザの定義を重視する。近年の解釈者の多くは「客観主義的」読みを支持している。この問いは、唯一の実体がどのようにして実際に区別される複数の属性を持ちうるのかという点にかかわっている。

汎神論か、宇宙消滅論か、自然主義か。スピノザを、自然を神格化した(汎神論)と読む者もいれば、神を自然のなかに解消した(無神論あるいは自然主義)と読む者もいる。ヘーゲルは彼を、有限な世界を神のなかに消し去る「宇宙消滅論(アコスミズム)」だと批判した。スピノザにおける「神」が戦略的に用いられた宗教的用語なのか、それとも真摯な形而上学的主張なのかは今も論争が続いており、彼がどこまで迫害を避けるために慎重に書いたのかという問題も同様である。これは「行間を読む」というレオ・シュトラウスの主題にもかかわる問いである。

精神の永遠性。「精神のうちに永遠であるものが何か残る」と主張する『エチカ』末尾の諸命題は、読者を悩ませてきた。個人的な不死の教説だと見る者もいれば、精神の真の観念の非人格的な永遠性だと見る者が多く、この一節は体系のほかの部分と緊張関係にあると見る者もいる。同様の論争は、彼の決定論と道徳的責任の可能性、そして彼の政治学が根本的に民主主義的なのか、それとも権力についての現実主義的理論なのかをめぐっても続いている。

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伝記史料とテクスト

スピノザの生涯についての私たちの知識は、限られた一群の史料に依っている。ヘレムをはじめとするアムステルダム共同体や市の記録、彼の書簡(彼とのやり取りとして残るおよそ88通の手紙。その多くは哲学的な問題を扱い、友人たちによって出版用に編集されたものが多い)、ヤーリフ・イェレスらによる『遺稿集』の序文、崇拝者によって書かれたとされる初期のフランス語伝記(ジャン=マクシミリアン・ルーカス作とされる)、そしてハーグの同じ家に下宿し、スピノザを知る人々に取材した、ルター派牧師ヨハネス・コレルスによる1705年の伝記である。「ultimi barbarorum」の逸話やシナゴーグの外での刺傷未遂事件のような逸話は、後代の報告に由来するものであり、慎重に扱うべきである。

テクストにもいくつもの問題がある。『エチカ』の成立年代は部分的にしか分かっていない。書簡から、1660年代初めにはすでにある版が存在し、1675年には出版計画をとりやめたことが分かる。『短論文』は、19世紀に発見されたオランダ語写本でのみ現存する。2010年、研究者のリーン・スプリュイトとピナ・トタロは、バチカン図書館で『エチカ』の写本、すなわちこの著作の唯一知られる写本を発見した。これは1670年代にカトリック当局へ渡されていたものであり、印刷版とは細部が異なっており、この著作がどのように改訂されていったかを示す手がかりとなっている。

現代の研究は、批判校訂版(カール・ゲプハルトによる1925年版、および新しいフランス大学出版局版)と、エドウィン・カーリーの『著作集』のような翻訳に依拠している。スティーヴン・ナドラーの伝記『スピノザの生涯』(1999年)は、アムステルダム共同体についての文書館研究を集大成したものである。今日の歴史家たちは、スピノザを歴史の外に孤立した天才としてではなく、オランダ・ユダヤ・デカルト的な文脈のなかで読むことを重視している。

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重要なポイント

神即自然(Deus sive Natura)
無限な実在はただ一つであり、それを神と呼ぶか自然と呼ぶかは、同じものに別の名を与えているにすぎない。
実体一元論
実体はただ一つしか存在しない。個々の事物はすべて、その実体の様態、すなわちあり方の一つにすぎない。
必然性
あらゆることは神の本性から必然的に生じる。偶然というものはなく、原因を持たない自由意志も存在しない。
心身の同一性
心と身体は、思惟と延長という二つの属性のもとで見られた一つのものである。
コナトゥス
あらゆるものが自らの存在に固執しようとする努力。人間においてこれは欲望であり、あらゆる感情の根である。
理解を通じた自由
私たちは、自分の感情の原因についての妥当な観念を形成することによって自由になり、受動を能動へと変えていく。
哲学する自由
国家は思想と言論の自由を認めるべきであり、これを抑圧することは信仰心と平和の両方を損なう。
聖書の歴史的読解
聖書はほかのあらゆる文献と同じように、その言語、歴史、著者から解釈されるべきである。

記録

  1. 1632年 — 11月24日、スピノザがアムステルダムに生まれる。
  2. 1654年 — 父ミハエルが亡くなり、スピノザは弟ガブリエルとともに家業を営む。
  3. 1656年 — 7月27日、アムステルダムのポルトガル系ユダヤ人共同体が彼にヘレムを宣告する。
  4. 1661年頃 — レインスブルフに移り、『短論文』と『エチカ』初期草稿に取り組む。
  5. 1663年 — フォールブルフに移り、デカルト『哲学原理』の解説書を出版する。
  6. 1670年 — 『神学・政治論』が匿名で出版される。スピノザはハーグに移る。
  7. 1672年 — 「災厄の年」。ヨハンとコルネリスのデ・ウィット兄弟がハーグで暴徒に殺害される。
  8. 1673年 — ハイデルベルク大学の教授職を辞退する。
  9. 1674年 — ホラント州当局が『神学・政治論』を発禁とする。
  10. 1676年 — ライプニッツがハーグにスピノザを訪ねる。
  11. 1677年 — 2月21日、スピノザが死去する。『エチカ』を含む『遺稿集』が同年中に刊行される。
  12. 1785年 — ドイツでの汎神論論争が、スピノザを哲学論争の中心に押し上げる。

用語集

ヘレム
ユダヤ人共同体からの正式な追放・破門。
セファルディム
祖先がスペインとポルトガルに住んでいたユダヤ人。
実体
スピノザにおいて、それ自身によって存在し、それ自身によって考えられるもの。神のみがこれに当てはまる。
属性
知性が実体の本質として知覚するもの。人間は思惟と延長の二つを知る。
様態
実体の変様、あるいはあり方の一つ。個々の身体や観念など。
感情(アフェクトゥス)
身体の行動力の変化と、その変化についての観念とが合わさったもの。
コナトゥス
あらゆるものが自らの存在に固執しようとする努力。
妥当な観念
その原因を通じて対象を完全にとらえている観念。真の知識と自由の基礎となる。
幾何学的方法
ユークリッドのように、定義・公理・証明された命題として哲学を展開する方法。
汎神論
神と宇宙とは同一であるとする見解。
合理主義
感覚経験だけではなく理性こそが知識の主要な源であるとする見解。

よくある質問

スピノザはなぜ共同体から追放されたのですか?

文書には、彼が「忌まわしい異端」を抱いていたとあるだけで、具体的な内容は記されていません。歴史家たちは、それが魂の不滅の否定、神が律法を与えたことの否定、ユダヤ法の権威の拒否などを含んでいたと考えています。

スピノザは神を信じていたのですか?

はい。ただし、選択を行い、祈りに応え、人を裁く人格的な神ではありません。彼にとって神とは唯一の無限な実在であり、彼はそれを自然とも呼びました。批判者たちはこれを無神論と呼び、支持者たちはこれを深く宗教的な見解と呼びました。

なぜ『エチカ』は数学書のように書かれているのですか?

スピノザは、あらゆる主張が明晰な出発点から一段階ずつ証明されることを望みました。それによって読者が、雄弁さや権威ではなく理由によって納得するようにするためです。

スピノザは本当にレンズを磨いていたのですか?

はい。それは新しい光学の科学と結びついた熟練の技であり、科学者たちも彼の仕事を尊敬していました。それはいくらかの収入をもたらしましたが、彼は友人たちの支援にも頼っていました。

すべてが必然であるなら、私たちは自由になれるのですか?

スピノザは、私たちには別のようにふるまう自由はないと言いますが、別の意味での自由はありうるとします。すなわち、理解していない受動の感情に押し流されるのではなく、自分自身の理解にもとづいて行動することです。

ベールとカーリーの論争とは何についてのものですか?

有限な事物が神とどう関係するかについてです。ベールは様態を神の性質として読み、そこに不合理を見出しました。カーリーはそれを原因として依存する結果として読み、ほかの学者たちはより精緻な内属の読み方を擁護しています。

スピノザは民主主義者だったのですか?

彼は民主政をもっとも自然な統治形態と呼び、思想の自由を擁護しましたが、彼の政治理論は権利を力に根拠づける現実主義的な側面も持っています。彼の思想がどれほど民主的であるかは、学者のあいだで議論が続いています。

出典・参考文献

  1. Steven Nadler, Baruch Spinoza. Stanford Encyclopedia of Philosophy
  2. Justin Steinberg, Spinoza’s Political Philosophy. Stanford Encyclopedia of Philosophy
  3. Spinoza, Benedict De. Internet Encyclopedia of Philosophy
  4. Baruch Spinoza. Wikipedia
  5. Ethics (Spinoza book). Wikipedia
  6. Theologico-Political Treatise. Wikipedia
  7. Pantheism controversy. Wikipedia
  8. Steven Nadler, Spinoza: A Life. Cambridge University Press, 1999
  9. Jonathan I. Israel, Radical Enlightenment: Philosophy and the Making of Modernity, 1650–1750. Oxford University Press, 2001
  10. Edwin Curley (ed. and trans.), The Collected Works of Spinoza, Volume I. Princeton University Press, 1985

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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