歴史

ベネロング

Woollarawarre Bennelong (also recorded as Wollarrebarre, Bannellon, Wogultrowe, Boinba, Bundebunda)

1788–1813年 · シドニー湾ベネロング・ポイント(ワンガルの土地/ニューサウスウェールズ植民地)

ひとことで

ウーララワレ・ベネロング(1764年頃〜1813年)はシドニー湾一帯のワンガル族の男性で、最初のイギリス植民者に拉致された後、植民地時代初期のニューサウスウェールズでもっとも著名なアボリジニの仲介者となり、イギリスへ渡って帰国し、晩年はパラマッタ川で自分の民の共同体を率いた。

ベネロング
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最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

シドニーという都市ができるずっと前、そこにある大きな湾は、自分たちの土地――カントリーと呼ばれる場所――で漁をし、狩りをし、歌い、儀式を行うアボリジニの家族たちの故郷でした。その一人が、1764年頃にワンガル族に生まれた男の子です。彼にはいくつもの名前がありましたが、今日ではベネロングという名でよく知られています。

1788年、ベネロングが青年だったころ、イギリスから兵士と囚人を乗せた船がやってきて、植民地を作り始めました。よそから来た人々は許可を求めませんでした。木を切り倒し、魚や土地を奪い、病気を持ち込みました。1789年には天然痘という恐ろしい病気が、湾の周りのアボリジニの人々を数多く死なせました。

イギリスの総督アーサー・フィリップは、地元の人々の言語や習慣を説明してくれる人物を求めていました。そこで1789年、彼の部下たちはベネロングともう一人の男性コリビーを捕まえ、力ずくで植民地へ連れて行きました。コリビーはすぐに逃げ出しました。ベネロングは約6か月とどまり、その間に驚くほど早く英語を覚え、自分の民についてイギリス人に教え、そしてこっそりと立ち去りました。

その後、ベネロングは自ら戻ってきて、総督と話をすることを選びました。彼とフィリップは名前まで交換しましたが、これはベネロングの文化では敬意と友情を示すやり方でした。湾の小さな岬に、彼のためにれんが造りの小屋が建てられました。今日その場所はベネロング・ポイントと呼ばれ、シドニー・オペラハウスが建っています。

1792年、ベネロングは年下の親戚イェメラワニーとともに、はるばるイギリスへ航海しました。二人はロンドンを見物し、劇場に行き、有名な建物を訪れました。しかしベネロングは故郷を恋しがり、悲しいことにイェメラワニーは病気になってそこで亡くなりました。ベネロングは1795年にシドニーへ帰ってきました。

故郷に戻ったベネロングは、自分の民とともに暮らし、自分たちの掟に従う生活に戻りました。これに腹を立てた植民者もいましたが、ベネロングは自分の道を選んだのです。彼はパラマッタ川沿いに暮らす集団の尊敬される指導者となり、1813年に亡くなったときには、約200人のアボリジニの人々が彼を悼むために集まりました。

ひと目でわかる

生没年
1764年頃〜1813年1月3日
民族とカントリー
ワンガル族。シドニー湾(ポート・ジャクソン)の南西岸を拠点とし、近隣の氏族と結びつきが深かった。シドニー沿岸の諸民族は「エオラ(人々)」と総称されることが多い
言語
シドニー(ダルック/エオラ)語。英語もすぐに習得した
業績
アボリジニの諸氏族とイギリス植民地の間の仲介者・外交官。イギリスへ渡って帰国した最初のアボリジニ男性として知られる
文章
1796年、彼が口述してイギリスのフィリップス家に送った手紙は、アボリジニの著者による現存最古の英語文とされる
地名として残る
ベネロング・ポイント(シドニー・オペラハウスの所在地)、連邦選挙区ベネロング(1949年)、ベネロング・パークとベネロング・ブリッジ
死去と埋葬
パラマッタ川沿いのキッシング・ポイント。友人ジェイムズ・スクワイアの果樹園に埋葬(現在のパトニーで墓の場所が特定されている)

やさしい

ベネロングとは何者だったのか

ベネロングは、シドニー湾南西岸とパラマッタ川沿いにカントリーを持つワンガル族のアボリジニ男性であった。1764年頃に生まれたので、1788年1月にイギリスの最初の艦隊が到着したとき、彼はおよそ24歳だった。彼はニューサウスウェールズ植民地の最初の25年間を生き抜き、1813年1月3日に死去した。

彼が記憶されているのは、二つの世界が出会う地点に立っていたからである。イギリス人は1789年、彼を通訳として使うために拉致した。その後、彼は自分なりの条件のもとで、総督アーサー・フィリップとの長く時に荒れた関係を築き、地元氏族と植民地との定期的な接触を開くのを助け、イギリスへ渡り、そして帰国して自分の民の共同体を率いた。オーストラリア人名辞典が述べるように、彼はアボリジニの調停者・外交官であった。

ベネロングの生前に書かれたものは、ほとんどすべてイギリス人士官によるものである。彼らは目にしたことを記録したが、彼が何をなぜ行っているのかをしばしば誤解した。今日の歴史家たちは、アボリジニの掟や親族関係、文化についての知識と合わせてこれらの記録を注意深く読み、ベネロングを植民者の物語の中の一登場人物としてではなく、自分自身の目的を持つ一人の人間として理解しようとしている。

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やさしい

カントリー、家族、そして多くの名前

1788年以前、シドニー湾の周りの陸地と水域には多くの氏族が暮らし、それぞれが特定のカントリーと結びついていた。ベネロングの氏族ワンガルは、パラマッタ川の南側の土地の守り手であった。父の名はグーラ・グーラ、母の名はガガルまたはガゴルと記録されている。彼には何人もの姉妹がおり、その結婚は近隣氏族との間に政治的なつながりを兄弟にもたらした。また彼は、父から受け継いだ湾内の小さな島メメルを所有していたとも記録されている。

ベネロングには5つの名前があり、イギリス人はウォララーバレ(ウーララワレ)、ウォグルトロウェ、バネロン(ベネロング)、ボインバ、バンデバンダと記録した。いくつかは彼の儀礼的な人生の異なる段階で与えられたもので、最後のものはタカを意味するトーテム名だったのかもしれない。士官ワトキン・テンチは、彼はウーララワレと呼ばれることを好んだと書いている。名前を交換することは、彼の民の間で敬意と友情を示す一般的な方法であった。

ベネロングは、南はボタニー湾(カメイ)、湾を越えて北はピットウォーター、西はパラマッタまで、近しい親族・言語のつながりを持っていた。シドニー沿岸の諸氏族は、今日ふつうダルックあるいはシドニー語と呼ばれる言語のさまざまな変種を話していた。「エオラ」という言葉は、これらの民族を指す名称としてよく使われるが、もとは最初の艦隊の士官たちが作った語彙集の中で「人々」を意味していた。19世紀末以降は部外者によって、20世紀末以降は多くのアボリジニの人々自身によって、集団名として用いられるようになった。

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やさしい

1788年:見知らぬ者たちの到来、そして病

1788年1月、アーサー・フィリップの指揮する11隻のイギリス船団が、まずボタニー湾に、続いてポート・ジャクソン南岸の、地元の人々がワランと呼んでいた入江に到着した。イギリス人はそこをシドニー・コーヴと名づけ、約1,300人の囚人、兵士、役人からなる流刑植民地を築いた。その土地はすでにアボリジニの氏族のものだったが、イギリス人は自分たちのものとして扱った。

関係は最初から緊張していた。アボリジニの人々は、自分たちの土地と漁場を守りながら、おおむね入植地を避けていたが、多くの衝突が起こった。フィリップは友好関係を築くよう指示を受けていたが、地元の人々が距離を置き続けると、拉致に頼るようになった。1788年末、彼の部下はアラバヌーという男性を通訳に育てるために捕らえた。

そして1789年4月、天然痘が湾の周りの諸氏族を襲った。浜辺や入江で遺体が見つかり、カヌーは水面から姿を消した。ベネロングは後に植民者たちに、湾の周りの自分の民の約半数が亡くなったと語った。彼の最初の妻とアラバヌーもその犠牲者の中にいた。この病がどのように持ち込まれたかは今も歴史家の間で議論があるが、その影響は破滅的であった。植民地がまさに拡大しつつあるさなかに、家族と氏族を引き裂いたのである。

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中級

拉致:植民地での6か月

1789年11月、イギリスのボートが湾の北側にあるマンリーへ向かった。そこではベネロングと年上の親戚コリビーが、大勢とともにクジラの祝宴のために集まっていた。ボートから魚を差し出されて二人が水の中を進み出ると、乱暴に捕らえられた。岸にいた人々は槍を投げ、イギリス側は撃ち返しながらボートを漕いで捕虜を連れ去った。これに加わったウィリアム・ブラッドリー中尉は、これほど不愉快な任務を命じられたことはないと述べた。

二人は見張りの下、足かせをはめられて拘束された。コリビーは約1か月で逃げ出した。ベネロングは約6か月とどまった。この間、彼は驚くほど早く英語を習得した一方、イギリス人は彼の言語に苦労した。また彼は、イギリスの食べ物、作法、武器、階級について多くを学んだ――一部の歴史家によれば、イギリス人が彼から学んだこと以上に。彼が留まったのは引き止められていたからなのか、それとも好奇心や戦略的な理由から自ら選んだのかは、今も議論されている。

1790年5月、ベネロングはこっそりと立ち去った。その後の数か月で、彼は湾の北側出身の尊敬されるガマラガル(キャメレイガル)族の女性バランガルーとの関係を始めた。二人の娘ディルブーンは幼くして亡くなった。バランガルーは1791年に亡くなり、ベネロングは彼女の民の慣習に従って、総督の庭で遺体を火葬した。

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中級

マンリーでの槍、そして新しい関係のかたち

1790年9月、総督フィリップはベネロングがマンリーで目撃されたと聞き、急いでそこへ向かった。ベネロングは彼を温かく迎えたが、別の男ウィレメリングが槍を投げ、総督の肩に命中させた。フィリップは一命を取り留め、報復をしないよう命じた。数日後、ベネロングが彼を訪ね、二人の関係は再開した。

マンリーで何が起きたのかは、さまざまに解釈されてきた。単なる誤解だったと見る者もいる。あるいは、アラバヌー、コリビー、ベネロングの拉致に対する、アボリジニの掟のもとでの意図的で命に関わらない報復行為――関係を修復する前に清算すべき負債――だったと見る者もいる。歴史家たちはまた、ベネロング自身の役割についても意見が分かれている。彼は外交の試みが乗っ取られてしまった傍観者だったのか、それともこの出来事全体を仕組んだのか。ウィレメリング自身についても史料は一致せず、ブロークン・ベイ出身の「賢者」(カラジ)だったとも、バルゴウラ地区出身の男だったとも記されている。

マンリーの一件の後、ベネロングは入植地と総督府への定期的な訪問を始め、彼の氏族の者たちも同行するようになった。オーストラリア人名辞典は、これはベネロングに率いられた地元の先住民集団による方針転換と見ることができると示唆している。彼とフィリップは名前を交換した。ベネロングは自分の名前の一つウーララワレを総督に与え、時には自分自身を「総督」と呼んだ。彼の求めに応じて、シドニー・コーヴの東の岬――ガディガル族の所有者にとってのトゥボウグレ――に小さなれんが造りの小屋が建てられた。それが現在のベネロング・ポイントである。

この関係は決して単純なものではなかった。1790年12月、兵士たちがベネロングの友人バンガイを、ジャガイモを盗んだとされる疑いで射殺し、ベネロングは報復の襲撃で応え、その兵士の名前を明かすよう要求した。それでも1791年2月までに、二人は再び和解した。こうした危機のたびに、彼らは復讐の連鎖を繰り返し抑え込み、双方を不安定ながらも寛容な関係へと導く助けとなった。

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中級

イギリスへの旅、1792〜1795年

1792年12月にフィリップが帰国する際、ベネロングと年下の親戚イェメラワニー(17歳ほど)は、船アトランティック号で彼とともに旅立った。二人は、イギリスを訪れたことが知られている最初のアボリジニの人々であった。アメリカ大陸や太平洋からの以前の訪問者たちとは異なり、正式な使節としては扱われなかった。多くの著述家は二人が国王ジョージ3世に謁見したと述べているが、それを裏づける直接の証拠はない。

政府に提出された経費の申請書からは、ロンドンでの彼らの様子がうかがえる。新しい服、セント・ポール大聖堂やロンドン塔への訪問、劇場行き、海水浴のために借りたボート。二人はしばらくヘンリー・ウォーターハウスのもとで暮らし、後にはエルサムで、フィリップス夫妻の世話を受け、シドニー卿とも会った。二人の肖像画も描かれた。

イェメラワニーは胸の感染症で重い病にかかり、1794年に亡くなった。ベネロングは彼を看病し、最後の儀礼を行い、その後一人で帰国の時を待った。彼は寒さ、望郷の念、そして長い遅延に苦しみ、HMSリライアンス号が1795年初めにようやく出航するまで、数か月を船上で過ごした。航海中、外科医ジョージ・バスが彼の看病を手伝い、ベネロングは自分の言語のいくつかをバスに教えた。約3年間の不在のうち、およそ18か月は海上あるいは港に係留された船の中で過ごされた。

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中級

帰郷:手紙、掟、そしてキッシング・ポイント

ベネロングは1795年9月にシドニーへ到着し、妻クルバラブラがすでに彼のもとを去っていたこと、そして植民地がパラマッタ川やホークスベリー沿いに広がる土地の払い下げとともに急速に大きくなっていたことを知った。1年後、彼はイギリスのフィリップス氏宛に手紙を口述した。彼は妻の消息を伝え、二度とイギリスへは渡らないと述べ、フィリップス夫人とシドニー卿に挨拶を送り、靴下や靴、ハンカチを求めた――オーストラリア人名辞典が示唆するように、おそらくは故郷で人間関係を築き直す助けとなる贈り物としてであった。この手紙は、アボリジニの著者による現存最古の英語の文章として認められている。

ベネロングはしだいに自分の民の掟のもとで暮らすようになった。彼は儀式に参加し、また司式し、その中には1797年にポート・ジャクソンで最後に記録された成人儀礼も含まれていた。また、儀礼的な報復によって争いが解決される集まりにも加わり、時には自ら罰を受け、時にはそれが確実に実行されるようにした。1797年12月、兵士たちが仲間コリビーへの合法的な処罰に干渉すると、ベネロングは兵士の一人を槍で突き、殴打されて一晩投獄された。植民地の著述家たちは、彼を無礼で厄介な人物と呼び始めた。この時期の記録には、大量の飲酒についての言及もいくつか見られる。

その一方で、1790年代半ば、ワンガル族はパラマッタ川の同じ守り手であるブラマッタガル族やワルメダガル族と合流し、ワルメダガル族のカントリーであるキッシング・ポイントに新しい集落を築いた。ベネロングはこの集団に嫁入りする形で結びつき、上級の指導者となった。彼の4番目の妻ブーロングは、ブラマッタガル族の指導者ビジー・ビジーの妹で、二人の息子ディギディギ(植民地の記録ではディッキーと呼ばれる)は1803年に生まれた。1800年代初めまでに、ベネロングは約100人の集団を率い、生き残ったボタニー湾の諸民族からも長老として尊敬されていた。

彼はその後も折にふれ、総督ハンター、キング、ブライ、マッコーリーを訪ね、自分の民のために安全な場所を確保しようと地元の入植者たちとの関係を保ち続けた。この時期、アボリジニの集団と植民者との暴力的な衝突は、ビジガル族の男ペムルワイが率いた抵抗運動を含め、カンバーランド平原一帯に広がっていったが、ベネロングがそれに加わったという記録はない――おそらくは自分の共同体を守るための意図的な選択だったのだろう。

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中級

死、埋葬、そして記憶の場所

ベネロングは1813年1月3日、48歳か49歳ごろにキッシング・ポイントで亡くなり、彼と彼の氏族の友人であった醸造業者ジェイムズ・スクワイアの果樹園に埋葬された。『シドニー・ガゼット』紙の死亡記事は軽蔑的で、彼を「生まれ持った性質を変えられなかった、根っからの野蛮人」と呼んだ。この一文は、ベネロングについてというよりも、農地のためにますます多くの土地が囲い込まれていた当時の植民地の態度について、多くを物語っている。

彼自身の民は、まったく違う形で彼を悼んだ。死の約3か月後、多くの女性や子どもたちに励まされながら、約200人のアボリジニの男性が、追悼のための大きな儀礼的な戦いのために集まった。1813年に同じく亡くなった妻ブーロングは彼のそばに埋葬され、1821年には、彼とともに眠りたいと望んだガディガル族のナンバリーもそこに葬られた。ビジー・ビジーは1820年代までその墓を訪れ、長年キッシング・ポイントの共同体を率いた。

2011年、マッコーリー大学の考古学者ピーター・ミッチェルは、現在のパトニーにある一軒の家の下にその墓がある可能性が高いことを突き止めたと発表し、地元のアボリジニの機関と協議すると述べた。2018年、ニューサウスウェールズ州政府はその物件を購入し、ベネロングのための記念碑と、シドニー地域のアボリジニの人々に対する植民地化の影響を記念する場所を作ることにした。

ベネロングの名前はシドニーの各所に残っている。オペラハウスの敷地であるベネロング・ポイント、キッシング・ポイント近くのベネロング・パーク、ホームブッシュ湾にかかるベネロング・ブリッジ(2016年開通)、そして1949年に創設された連邦選挙区ベネロング――先住民オーストラリア人にちなんで名づけられた最初の連邦選挙区である。

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上級

植民地の記録を読み解く:史料に分かることと分からないこと

ベネロングの生涯についての主な史料は、最初の艦隊の士官たちの日記や刊行された記録である。ワトキン・テンチの記述(1789年と1793年刊行)、デイヴィッド・コリンズの『ニューサウスウェールズ・イギリス植民地誌』(1798年)、ウィリアム・ブラッドリーの日記、総督の公文書、これらに加えて、イギリスからの政府経費記録、1803年以降の『シドニー・ガゼット』紙の記事、そして1796年の手紙である。歴史家エマ・ドーティンズがオーストラリア人名辞典で書いているように、数多くの言及のうち、ベネロング自身の視点や自分の民の中での彼の立場について多くを伝えるものはほとんどない。

植民地の観察者たちは、彼の食欲、気分、けんか、結婚について詳しく記録したが、アボリジニの掟や親族の義務、外交については、ほとんど説明していない。マンリーでの槍の一件、総督の庭でのバランガルーの火葬、報復の儀式といった出来事は、友情、裏切り、野蛮さといったイギリス側の枠組みを通して描かれた。「記録に逆らって」読むということは、ある出来事の背後にどのようなアボリジニの作法、儀礼、戦略があったのかを問うことを意味する――同時に、現存する証拠からは答えられない問いもあることを認めながら。

基本的な細部でさえ、史料によって異なる。両親や姉妹の名前、妻たちの人数と順序、彼のために建てられた小屋が簡素な小屋だったのか小さなれんが造りの家だったのか、ウィレメリングの正体、そして1796年の手紙が本人によって書かれたのか口述されたのか。こうした食い違いは、単に整理すべき誤りというより、記録がどのように作られたか――異なる士官によって、異なる時期に、言語への理解が限られたなかで――を示すしるしである。

近年の研究は、士官たちの手帳から復元されたシドニー語の再構成といった言語学的な仕事や、今日シドニーで暮らすアボリジニの共同体の知識にも依拠している。自分の民の中でのベネロングに焦点を当てたキース・ヴィンセント・スミスや、2023年の著書でベネロングとフィリップの両者を扱ったケイト・フラガーをはじめとする研究者たちが、新たな視点を加えてきた。

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上級

悲劇の人物か、それとも戦略家か:語り直されるベネロング像

19世紀から20世紀にかけての多くの間、ベネロングの生涯は、期待と没落の悲劇として語られてきた。植民者に取り立てられ、イギリスで見世物にされ、その後「酒」と「野蛮」に「逆戻り」した「高貴な野蛮人」という物語である。歴史家マニング・クラークは、ベネロングは自分を文明化した人々にうんざりし、自分の民から追放された存在になったと書いた。『シドニー・ガゼット』紙の死亡記事が、その型を作った。ドーティンズは、こうした理解が後の多くの伝記を「彩り、そして損なってきた」と論じている。

20世紀後半以降、歴史家やアボリジニの論者たちはこの語りに異議を唱えてきた。ベネロングは、イギリス社会の最良の面と最悪の面の両方を見て、自らの生き方を意図的に選んだ人物として、また調停者としての植民者の欲求を自分と自分の民の利益のために利用した戦士外交官として、そして親族のネットワークを生かし続け、キッシング・ポイントに自分の共同体のための場所を確保することを最大の功績とした指導者として、とらえ直すことができる。彼の死後、約200人が集まった大きな集いは、彼がその目標を成し遂げていたことを示唆している。彼が自分の民から追放された存在になったという主張は、キッシング・ポイントでの彼の指導ぶりと矛盾する。

エマ・ドーティンズの著書『物語の生涯』(2018年)は、ベネロングの物語を、その語り直しが国民的記憶、和解、文化的再生を形作ってきた三つのアボリジニと入植者の友情の一つとして扱っている。彼女は、それぞれの世代がそれぞれの目的のために物語を語り直すこと、そして歴史家自身も語り手であることを強調する。ベネロングとフィリップの物語は、友情の建国神話として役立ってきたが、拉致、疫病、収奪の物語として読み直されてもきた。

大衆的な歴史はしばしば、「調停者」ベネロングと、1790年から1802年に殺されるまで植民地への抵抗を率いた「戦士」ビジガル族のペムルワイとを対比させる。オーストラリア人名辞典は、二人が対極にあったわけではないと注意を促す。二人はベネロング・ポイントでともに時間を過ごし、イギリスの存在に適応することと抵抗することの両方の戦略について話し合っていた可能性があり、どちらも調停と力の両方を組み合わせて用いていた。アボリジニの侵略への対応を、協力か抵抗かという二者択一ではなく、さまざまな戦略の幅として見ることは、近年の研究における重要な転換の一つである。

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上級

言語、文字、そしてアボリジニの著作者性という問い

ベネロングは優れた言語の才を持っていた。英語を素早く習得したことで、彼は植民地初期のもっとも重要な通訳となり、士官たちやジョージ・バスに自分の言語の単語を教えた。シドニー語そのものは、疫病と収奪によって二世代ほどの間に断絶したが、植民地時代の手帳、とくに仲間のパティエガラングから学んだウィリアム・ドーズの手帳から部分的に再構成されている。ディンゴ、ウーメラ、ワラビー、ウォンバット、ワラターといった言葉は、シドニー地域から英語へと入っていった。

1796年の手紙は、アボリジニの著者による現存最古の英語の文章として、オーストラリア文学史の中で特別な位置を占めており、『オーストラリア先住民文学選集』(2008年)にも再録されている。書記に口述されたものであるため、研究者たちはここでの「著作者性」の意味について議論している。その内容――家族の消息、二度とイギリスへは行かないという明確な意思表示、そしてアボリジニの交換に役立つ品々の要求――は、ベネロングがイギリスの書記法を自分自身の社会的な目的のために用いていたことを示している。

ベネロングの生涯はまた、帝国の時代にヨーロッパへ渡り、その体験がおもにヨーロッパ人によって記録された、世界各地の先住民の人々のより広い歴史の中にも位置づけられる。こうした事例を比較することは、帝国が先住民の訪問者をどのように見せ物にし、利用し、誤解したか、そして訪問者たちがどのように自分自身の目的を追求したかを、歴史家が問う助けとなる。

今日、ベネロングはシドニーの地名の中に、歴史や芸術における語り直しの中に、そしてシドニー地域の歴史をアボリジニの視点から語ろうとするアボリジニの共同体と歴史家たちの継続的な取り組みの中に記憶されている。彼の墓の場所に計画されている、植民地化の影響についての博物館を伴う記念碑は、1813年の冷淡な死亡記事から、ベネロングについての公共の記憶がどれほど遠くまで移り変わったかを映し出している。

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重要なポイント

仲介者
ベネロングは、アボリジニの諸氏族とイギリス植民地との間の通訳・外交官として振る舞い、しだいに自分自身が主導する条件でそれを行うようになった。
政策としての拉致
初期の植民地は、意思疎通を強いるためにアボリジニの男性たち――まずアラバヌー、続いてベネロングとコリビー――を拉致した。歴史家が今日強調する出発点である。
報復と掟
マンリーでの槍の一件のような出来事は、植民者が理解していなかったアボリジニの儀礼的報復という法慣行を反映している可能性がある。
名前の交換
フィリップと名前を交換したことは、ベネロングの文化において敬意と親族関係を示すものだった。
カントリーへの帰還
イギリスから戻った後、ベネロングは自分自身の掟と親族を選び、キッシング・ポイントで共同体を率いた――単純な「没落」ではない。
記録を読み解く
現存する記録はほぼすべてイギリス側のものであり、歴史家はベネロング自身の目的を取り戻すために、それらを批判的に読む。
調停者と戦士
ベネロングとペムルワイは対極の存在ではなく、二人とも侵略への対応として外交と力の両方を組み合わせていた。

記録

  1. 1764年頃 — ベネロングがパラマッタ川南岸のワンガル族に生まれる。
  2. 1788年 — イギリスの最初の艦隊が到着し、ワラン(シドニー・コーヴ)に植民地を築く。
  3. 1789年 — 4月、天然痘が湾の諸氏族を襲う。11月、ベネロングとコリビーがマンリーで拉致される。
  4. 1790年 — 5月、ベネロングが入植地を去る。9月、フィリップがマンリーで槍で刺される。以後、定期的な訪問とベネロング・ポイントの小屋が続く。
  5. 1791年 — バランガルーが亡くなる。バンガイの射殺事件の後、ベネロングとフィリップが和解する。
  6. 1792年 — 12月、ベネロングとイェメラワニーがフィリップとともにイギリスへ出航する。
  7. 1794年 — イェメラワニーがイギリスで亡くなる。
  8. 1795年 — 9月、ベネロングがHMSリライアンス号でシドニーへ帰還する。
  9. 1796年 — フィリップス家に手紙を口述する。アボリジニの著者による現存最古の英語文とされる。
  10. 1797年 — ポート・ジャクソンで最後に記録された成人儀礼に参加する。12月、コリビーへの処罰に干渉した兵士を槍で突く。
  11. 1813年 — 1月3日、ベネロングがキッシング・ポイントで亡くなる。約200人が追悼の儀礼的な戦いのために集まる。
  12. 2018年 — ニューサウスウェールズ州政府が、記念碑を作るため彼の墓の上にある家屋を購入する。

用語集

カントリー
アボリジニ英語で、ある民族が帰属し世話をする土地・水域・場所を指し、精神的・法的な意味を持つ言葉。
ワンガル族
ベネロングの氏族。パラマッタ川南岸の土地の守り手。
エオラ
「人々」を意味するシドニー語の言葉で、今日ではシドニー沿岸のアボリジニ諸民族を指す名称としてしばしば使われる。
ワラン
イギリス人がシドニー・コーヴと呼んだ入江の、地元での呼び名。
トゥボウグレ
後にベネロング・ポイントと呼ばれるようになった、潮の満ち引きのある島と岬のガディガル族による呼び名。
ペイバック(報復)
不正行為に対し、しばしば槍による、釣り合いの取れた儀礼的な罰で応じる伝統的な正義のかたち。
カラジ
霊的・儀礼的な権威を持つ、賢者あるいは治療者。
最初の艦隊
1788年に到着し、ニューサウスウェールズの流刑植民地を築いた11隻のイギリス船団。
キッシング・ポイント
ベネロングが晩年に共同体を率いた、パラマッタ川沿いの場所。

よくある質問

なぜシドニー・オペラハウスは「ベネロング・ポイント」にあるのですか?

1790年代初め、そこにベネロングのための小さなれんが造りの小屋が建てられたためです。ガディガル族はこの場所をトゥボウグレと呼んでいます。

ベネロングは植民地に行きたかったのですか?

最初はそうではありません――彼は拉致されたのです。後に彼は自ら選んでイギリス人を訪ね、交渉するようになりましたが、それはあくまで自分自身の条件のもとでのことでした。

ベネロングはイギリス国王に会ったのですか?

多くの本にそう書かれていますが、彼がジョージ3世に謁見したことを裏づける直接の証拠はありません。

なぜベネロングはイギリスから戻った後、植民地の生活を離れたのですか?

彼は自分自身の掟と自分の親族とともに生きることを選びました。植民者たちはこれを「逆戻り」と呼びましたが、今日の多くの歴史家は、これを意図的な選択であり、一種の指導のかたちだったと見ています。

総督フィリップが槍で刺されたのはベネロングのせいですか?

歴史家の意見は分かれています。単なる誤解だったという見方から、外交の試みが裏目に出た傍観者だったという見方、拉致に対する計画的で命に関わらない報復だったという見方まで、さまざまな解釈があります。

彼の生涯についての史料はどれほど信頼できますか?

そのほとんどすべてが、アボリジニの文化を十分に理解していなかったイギリスの植民者によって書かれたものです。家族の名前や結婚の順序といった細部は、史料によって異なります。

ベネロングとペムルワイはどのように比較されますか?

しばしば「調停者」と「戦士」として描かれますが、二人は互いを知っており、どちらも調停と力を組み合わせて用いていました。

出典・参考文献

  1. Emma Dortins, Bennelong (c. 1764–1813). Australian Dictionary of Biography / Indigenous Australian Dictionary of Biography, National Centre of Biography, ANU, 2026
  2. Bennelong. Wikipedia
  3. Eora. Wikipedia
  4. Wangal. Wikipedia
  5. Bennelong Point. Wikipedia
  6. Pemulwuy. Wikipedia
  7. Emma Dortins, The Lives of Stories: Three Aboriginal–Settler Friendships. ANU Press and Aboriginal History (Aboriginal History Monographs), 2018
  8. Kate Fullagar, Bennelong & Phillip: A History Unravelled. Scribner, 2023
  9. Watkin Tench, A Complete Account of the Settlement at Port Jackson, 1793

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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