戦争

ペルシア戦争

τὰ Μηδικά (“the Median affairs”)

紀元前499–449年 ·

ひとことで

ペルシア戦争(紀元前499~449年)は、広大なアケメネス朝ペルシア帝国とギリシアの小さな都市国家群が約半世紀にわたって争った戦争である。マラトン、テルモピュライ、サラミスの戦いで知られ、ギリシア側はペルシアによる本土への二度の侵攻を阻止した。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

約2500年前、ペルシア帝国は、それまでの世界で最も大きな帝国でした。今のエジプトやトルコにあたる地域から、インドまで広がっていました。支配者は「大王」と呼ばれました。大王は、道路や地方を治める役人、大きな軍隊を使って、言葉や宗教のちがう多くの人々を治めていました。

帝国の西のはし、今のトルコの海岸には、ミレトスなどの町にギリシア人が住んでいました。彼らはペルシアに支配されていました。紀元前499年、その一部が反乱を起こし、海の向こうのアテナイが船を送って助けました。反乱を起こした人々は、ペルシア側の都市サルディスの一部を焼きました。ペルシアは反乱をおさえ、ダレイオス王はアテナイも罰しようと決めました。

紀元前490年、ペルシア軍がアテナイ近くのマラトンに上陸しました。驚いたことに、アテナイ軍と、味方のプラタイア軍が勝ちました。10年後、ダレイオスの息子クセルクセスが、もっと大きな陸軍と海軍を率いて戻ってきました。テルモピュライというせまい道では、スパルタ兵300人を中心とする少数のギリシア軍が、数日間ペルシア軍を食い止めましたが、回りこまれました。その後、ペルシア軍はアテナイを焼きました。住民は近くの島々へ逃げていました。

しかし海では、サラミス島の近くのせまい海で、ギリシアの船団がペルシアの船団に勝ちました。次の年、ギリシア軍はプラタイアの大きな陸の戦いにも勝ちました。ペルシアは、その後ギリシア本土へ攻めこみませんでした。

私たちが知っていることのほとんどは、ギリシア人の書いたものから来ています。中でもヘロドトスは、ときに「歴史の父」と呼ばれます。ペルシア側が書いたこの戦争の歴史は残っていません。そのため、今の歴史家は、ペルシア側には戦争がどう見えていたかも考えようとしています。

ひと目でわかる

年代
最も広くとらえると紀元前499~449年。ギリシア本土への主な侵攻は紀元前490年と紀元前480~479年
場所
アナトリア西部(イオニア)、エーゲ海、ギリシア本土、トラキア、キプロス、エジプト
交戦勢力
アケメネス朝ペルシア帝国とその支配下の諸民族(多くのギリシア人を含む)、およびスパルタとアテナイが率いるギリシアの都市国家連合
ペルシアの王
ダレイオス1世(在位:紀元前522~486年)、クセルクセス1世(在位:紀元前486~465年)、アルタクセルクセス1世(在位:紀元前465~424年)
主な戦い
ラデ沖(紀元前494年)、マラトン(紀元前490年)、テルモピュライとアルテミシオン(紀元前480年)、サラミス(紀元前480年)、プラタイアとミュカレ(紀元前479年)、エウリュメドン川(紀元前466年ごろ)
結果
ペルシアはギリシア本土の征服に失敗し、エーゲ海の支配を失った。アテナイは海上帝国を築いた。ペルシアは帝国を維持し、のちに外交と資金によって影響力を取り戻した
主な史料
ヘロドトスの『歴史』、アイスキュロスの戯曲『ペルシア人』(紀元前472年)、トゥキュディデス、プルタルコス、ディオドロス。ペルシア側の叙述史料は残っていない

やさしい

ペルシア戦争とは何か

ペルシア戦争は、紀元前5世紀前半にアケメネス朝ペルシア帝国とギリシア人の共同体との間で起きた一連の争いにつけられた現代の名称である。ギリシア人自身は、ペルシア人をまとめてメディア人と呼ぶ傾向があったため、この戦争を「メディアに関する出来事」を意味する「タ・メディカ」と呼ぶことが多かった。

この戦争には、ペルシアの支配に対するイオニアのギリシア人の反乱(紀元前499~493年)、マラトンで終わったギリシア本土への最初のペルシア遠征(紀元前490年)、クセルクセスによる大規模な侵攻(紀元前480~479年)、そしてエーゲ海、キプロス、エジプトで約30年間続いたギリシア側の反撃が含まれる。終結の時期については歴史家の間で意見が分かれる。ヘロドトスの記述は紀元前479~478年で終わるが、最も広い定義では、紀元前449年ごろに結ばれた可能性のある和平条約までを含める。

ギリシア人の記憶の中で、この戦争は自由が専制に立ち向かい、少数が多数に勝った物語となった。ペルシア側から見れば、インダス川まで広がる帝国の西端で起きた辺境の戦争だった。何が起きたかを理解するには、両方の見方が必要である。

[2][1]

やさしい

背景:ペルシア帝国とイオニアのギリシア人

紀元前6世紀半ば、キュロス大王はアケメネス朝を建てた。紀元前547~546年ごろ、キュロスはアナトリア西部のリュディアを征服した。リュディア王クロイソスの支配下にあった沿岸のギリシア都市も、ペルシアの支配に入った。ダレイオス1世のもとで、帝国はサトラップ領と呼ばれる州に分けられ、王の道で結ばれ、貢納によって統治された。ダレイオスのベヒストゥン碑文は、帝国の諸民族の一つとして、イオニア人を指す「ヤウナ」を挙げている。

ペルシアは、主に王に忠実な現地の僭主を通じて、支配下のギリシア人を治めた。多くのギリシア都市はこの仕組みを受け入れられたが、反発も生んだ。とくに、より多くの市民が政治に参加するという考えがギリシア世界に広がるにつれ、反発は強まった。

ギリシア本土には、互いに戦うことも多い独立した都市国家が点在していた。ヘロドトスによると、紀元前507年ごろ、ペルシアの援助を求めたアテナイの使節は、サルディスのサトラップに、服従のしるしである「土と水」を差し出した。ただし、使節の帰国後、アテナイはその行為を認めなかった。一部の歴史家は、この出来事が、ペルシアがのちにアテナイを外国の敵ではなく、反乱を起こした臣民として扱った理由を説明すると考えている。

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中級

イオニアの反乱(紀元前499~493年)

紀元前499年、ミレトスの僭主アリスタゴラスは、ペルシアと共同で行ったナクソス島への遠征に失敗した後、イオニアの都市を率いて反乱を起こした。イオニア各地で僭主が追放された。スパルタは援助を断ったが、アテナイは20隻、エレトリアは5隻の船を送った。紀元前498年、反乱軍と同盟軍は内陸へ進み、サトラップの拠点サルディスを焼いた。女神キュベベの神殿も焼けた。ヘロドトスによると、ダレイオスは召使いに、夕食のたびに「ご主人さま、アテナイ人をお忘れなく」と3回言わせたという。ただし、これは事実そのままというより、物語として作られた話かもしれない。

反乱はカリア、ヘレスポントス、キプロスにも広がったが、ペルシアは少しずつ支配を回復した。紀元前494年、イオニア艦隊はラデ島沖で敗れた。サモスとレスボスの部隊が離脱したことも敗因の一つだった。ミレトスは陥落した。ヘロドトスによると、男性の大半は殺され、女性と子どもは奴隷にされ、生き残った人々はティグリス川河口近くのアンペへ移された。アテナイでは劇作家プリュニコスが『ミレトスの陥落』を上演した。観客は涙を流し、彼は人々に自分たちの災難を思い出させたとして、1000ドラクマの罰金を科された。

反乱後、ペルシアの将軍マルドニオスは、イオニアのいくつかの僭主政を民主政に替えた。この意外な措置は、ペルシアの政策が実利を重んじていたことを示す。紀元前492年、マルドニオスはトラキアとマケドニアにおけるペルシアの支配を立て直したが、艦隊はアトス山沖の嵐で難破した。

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中級

最初の侵攻とマラトンの戦い(紀元前490年)

紀元前490年、ダティスとアルタプレネスが率いるペルシアの海上遠征軍はエーゲ海を渡り、ナクソスなどの島々を服従させ、エウボイア島のエレトリアを包囲した。6日後、内通によって都市は陥落した。ヘロドトスによると、神殿は焼かれ、住民はスサ近くのアルデリッカへ移された。彼の時代にも住民はそこに暮らしていたという。

続いてペルシア軍は、アテナイの元僭主で亡命中のヒッピアスに案内され、アッティカのマラトン湾に上陸した。アテナイの重装歩兵約9000~1万人は、プラタイアから来た約1000人とともに攻撃し、ペルシア軍を破った。スパルタ軍は宗教祭礼のため、戦いが終わってから到着した。ヘロドトスは、ペルシア側の戦死者を6400人、アテナイ側を192人と記す。アテナイ側の死者は戦場の塚に埋葬され、名簿も作られたため、その数字はおそらく正確だが、ペルシア側の数字は確かめにくい。

ペルシアにとってマラトンは、懲罰遠征における限定的な失敗だった。アテナイにとっては、民主政と重装歩兵層をめぐる建国の伝説となった。(「マラトンの戦い」の項目も参照。)

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中級

クセルクセスの侵攻:テルモピュライ、アルテミシオン、サラミス(紀元前480年)

ダレイオスは新たな遠征を始める前の紀元前486年に死去し、息子クセルクセスは、まずエジプトとバビロニアの反乱を鎮圧しなければならなかった。その後、はるかに大規模な侵攻を準備した。ヘレスポントス海峡には船を並べて橋を架け、危険な岬を避けるためアトス半島に運河を掘り、進路に沿って補給拠点を設けた。ヘロドトスは戦闘員が260万人を超え、随行者を含めると500万人以上だったとする。現代の歴史家は、こうした数字はありえないとして退けている。陸軍の推計は通常10万~30万人程度で、艦隊は数百隻から1000隻以上とされる。

抵抗したギリシア諸国は少数派だった。紀元前481年にスパルタを中心とする同盟が結ばれた(のちにデルフォイに建てられた戦勝記念碑には、31の共同体が記されている)。テッサリア、テバイ、アルゴスなど、多くの国はペルシアに従うか中立を保った。紀元前480年の8月か9月、スパルタ王レオニダスが率いる数千人のギリシア軍は、テルモピュライの峠を約3日間守った。その間、近くのアルテミシオンではギリシア艦隊が戦った。ペルシア軍が峠を迂回する山道を見つけると、レオニダスは軍の大半を退かせ、300人のスパルタ兵、テスピアイ人、テバイ人とともに残った。スパルタ兵とテスピアイ人は戦死した。

その後、ペルシア軍はアッティカを占領した。アテナイ人は「木の壁」に関する神託についてのテミストクレスの解釈に従い、家族をトロイゼン、アイギナ、サラミスへ避難させていた。ペルシア軍はアクロポリスを焼いた。のちにアテナイ人がそこに埋めた、損傷した彫刻を考古学者が発掘している。紀元前480年9月、サラミス島と本土の間のせまい海峡で、約370~380隻の三段櫂船からなるギリシア艦隊が、より大きなペルシア艦隊を破った。ペルシア艦隊はせまい海域で数の優位を生かせなかった。クセルクセスは岸から戦いを見守り、マルドニオスをギリシアに残して、軍の大部分とともにアジアへ戻った。

[1][2][8]

中級

プラタイア、ミュカレとギリシア側の反撃(紀元前479~449年)

紀元前479年、マルドニオスはアテナイを再占領し、アテナイ人に有利な条件を提示したが、彼らは拒んだ。スパルタの摂政パウサニアスが率いる、かつてない規模のギリシア軍が、ボイオティアのプラタイア近くでマルドニオスの軍と対峙した。数日間の駆け引きの後、スパルタ軍とテゲア軍がペルシア軍の中央を破り、マルドニオスは戦死した。ギリシアの伝承によると、同じ日にギリシア艦隊がアナトリア沿岸のミュカレに上陸して残るペルシア軍を壊滅させ、新たなイオニアの反乱を引き起こした。

その後、ギリシア側はペルシアの領域へ戦いを広げた。紀元前478年、パウサニアスの傲慢な振る舞いが同盟諸国の反発を招くと、アテナイは戦争を続け、アジアのギリシア人を解放するためにデロス同盟を組織した。キモンのもと、同盟はアナトリア南部のエウリュメドン川で陸海両方の勝利を収めた(紀元前466年ごろ)。エジプトの反乱を支援するためにアテナイが率いた遠征(紀元前460~454年ごろ)は大失敗に終わったが、キプロスでの軍事行動は紀元前450年ごろまで続いた。

後世のギリシア人著述家によると、紀元前449年ごろ、アテナイとペルシアは「カリアスの和約」を結んだ。ペルシアは艦隊をエーゲ海に入れず、アテナイは王の領域への攻撃をやめることに同意したとされる。トゥキュディデスはこの条約に触れておらず、その存在は古代から疑われてきた。紀元前4世紀の歴史家テオポンポスは、碑文に刻まれた条約文は偽造だと主張した。正式な条約があったかどうかにかかわらず、大規模な敵対行為はこのころに止まった。

[2][6][7][1]

中級

戦争の影響

短期的には、この戦争によってギリシア本土の諸国は独立を守り、エーゲ海とイオニアの多くの都市はペルシアの支配から解放された。勝利はアテナイに大きな名声をもたらした。貧しい市民が漕ぎ手となった三段櫂船の艦隊が、勝利に決定的な役割を果たした。多くの歴史家は、これをアテナイの民主政における貧しい市民の政治的影響力の拡大と結びつけている。

ペルシアと戦うために設立されたデロス同盟は、アテナイ帝国へと変わった。同盟諸国の貢納は艦隊の費用をまかない、紀元前440年代以降はアクロポリスの建設事業にも使われた。そこには、ペルシア軍が焼いた神殿に代わるパルテノン神殿も含まれた。この帝国が生んだスパルタとの対立は、ペロポネソス戦争につながった。

ペルシアにとって敗北は現実の損失だったが、帝国の存続を脅かすものではなかった。エーゲ海とアナトリア沿岸の一部を失ったものの、その後も約150年間、近東の有力国であり続けた。ペロポネソス戦争ではペルシアの資金がスパルタによるアテナイ撃破を助け、紀元前387~386年の「大王の和約」によって、ペルシアはアジアのギリシア都市に対する支配を取り戻した。紀元前330年にアケメネス朝を滅ぼしたのはマケドニアのアレクサンドロスであり、彼は遠征をクセルクセスの侵攻への報復としても位置づけた。

敵対関係が文化交流を止めたわけではない。天幕、織物、金属製品など、ペルシアから得た戦利品はギリシアの聖域に飾られた。後世の著述家は、アテナイのペリクレスの音楽堂がクセルクセスの天幕を模したと主張した。マーガレット・ミラーの研究書『Athens and Persia in the Fifth Century BC』(1997年)は、アテナイ人が公の場ではペルシアの「軟弱さ」を非難しながら、日傘や特定の酒器など、ペルシアのぜいたく品や流行を取り入れていたことを示した。

人的被害は、戦闘に参加していない人々にも重くのしかかった。奴隷にされ、移住を強いられたミレトスとエレトリアの住民、家や収穫物を失ったアテナイ人などの人々、海で命を落とした帝国支配下の諸民族の多数の兵士や漕ぎ手、そしてどちらかの側についたために被害を受けたギリシア人の共同体がいた。

[2][6][9]

中級

戦争の記憶:ギリシア、ヨーロッパ、イランの視点

ギリシア人は、この戦争を盛んに記念した。マラトンで戦ったアイスキュロスは、紀元前472年に、現存する最古のギリシア悲劇『ペルシア人』を上演した。サラミスでの敗報がペルシア宮廷に届く様子を描いた作品である。シモニデスの作とされる短詩は、テルモピュライの戦死者をたたえた。ペルシアの敗北は、自由についてのギリシア人の考えの中心的な題材となった。一方で、アジア人をぜいたくで隷属的な「異邦人」と見る固定観念も強めた。古典学者イーディス・ホールは『Inventing the Barbarian』(1989年)で、この固定観念を分析した。

近代ヨーロッパでは、この戦争は「西洋」が「東洋」から救われた瞬間として語られることが多かった。哲学者ジョン・スチュアート・ミルは1846年、イングランド史にとってさえ、マラトンはヘースティングズの戦いより重要だったと書いた。テルモピュライは、ギリシア独立戦争からスターリングラード後のナチスの宣伝まで、まったく異なる目的のために引き合いに出されてきた。大衆文化でも、漫画や映画『300〈スリーハンドレッド〉』(2007年)に取り上げられた。

イランでは、キュロス、ダレイオス、ペルセポリスを中心とするアケメネス朝の過去が国民の誇りの源となっており、対ギリシア戦争は一般に小規模な辺境での出来事と見られている。映画『300〈スリーハンドレッド〉』のペルシア人の描写には、イランで公式な抗議が起きた。今日、イランをはじめ各地の多くの歴史家は、「西洋対東洋」という構図を時代錯誤だと批判する。多くのギリシア人がペルシア側で戦い、ギリシア諸国は互いへの対抗のためにペルシアの援助を求めることが多く、帝国の多様な人々には王に仕えるそれぞれの理由があった。

[4][2][9]

上級

史料:ヘロドトスとペルシア側の記録の欠如

紀元前484年ごろ、ペルシア帝国領内のハリカルナッソスに生まれたギリシア人ヘロドトスは、『歴史』を書いた。冒頭で述べるように、ギリシア人と異邦人の偉大な行いが栄光を失わないようにし、両者がなぜ戦ったかを説明するためである。この作品には、口承、旅行で得た情報、民族や軍勢の一覧、クセルクセスの会議のような劇的に描かれた場面が組み合わされている。キケロは彼を「歴史の父」と呼んだ。一方、プルタルコスの『ヘロドトスの悪意について』以来、その信頼性や公平さを疑う人々もいた。現代の研究者は一般に、批判者が主張したよりも彼は慎重だったと考える一方、文学的な構成、愛国的な偏り、ありえない数字も認めている。

ほかのギリシア側の史料には、紀元前479年以後の50年間についてのトゥキュディデスの短い概説、クテシアスの『ペルシア誌』、シケリアのディオドロス、プルタルコスによるテミストクレス、アリステイデス、キモンの伝記がある。『ペルシア誌』はペルシア宮廷にいたギリシア人医師が書いたが、断片でしか伝わらず、信頼性が低いと見なされている。碑文史料の一つである「蛇の柱」は、デルフォイに奉納され、のちにコンスタンティノープルへ移された戦勝記念碑で、戦ったギリシア諸国の名を記している。

この戦争を語るペルシア側の叙述史料は残っていない。アケメネス朝の王の碑文は、普遍的な秩序という理想を示し、敗北には決して触れない。ペルセポリスの城塞文書と宝庫文書は、エラム語で書かれた行政記録である。帝国が労働、食糧配給、移動をどう管理したかを示し、軍隊への補給方法を考える手がかりになるが、ギリシアへの遠征そのものは記していない。

[3][1][9][2]

上級

歴史研究上の論争

1980年代以降、ヘレーン・サンシシ=ウェールデンブルフとアメリー・クールトが始めた「アケメネス朝史」研究会や、ピエール・ブリアンの総合的研究『From Cyrus to Alexander』(フランス語版1996年、英語版2002年)は、ギリシア中心の歴史像に異議を唱えてきた。これらの研究はペルシア側の史料と考古学を重視し、衰退しつつある退廃的な専制帝国という古いイメージを退ける。そして、ペルシアの実際の目的はギリシアの恒久的な征服だったのか、不安定な辺境への懲罰と統制だったのかを問う。

ほかにも、兵力、補給、年代をめぐる議論がある。水と食糧の量から見てクセルクセスの軍勢はどれほど大きかったのか、テルモピュライとサラミスの正確な日付はいつか、1959年にトロイゼンで見つかった「テミストクレスの決議」の碑文はアテナイからの避難を命じた本物の決議を伝えるのか、それとも後世の再構成なのか、といった問題である。また、ギリシア人がペルシアに焼かれた神殿を再建しないと誓ったとされる「プラタイアの誓い」が本物かどうかも論じられている。

さらに、歴史家は戦争の意味を議論している。これは政治体制の衝突だったのか、それともギリシア人の共同体がそれぞれの地域の利害に応じて分かれた出来事だったのか。単一の「ギリシア側」という考え自体が、戦争と後世の記憶によって部分的に作られたものである。アイスキュロスとヘロドトスの研究は、この戦争がペルシアという「他者」との対比を通じてギリシア人の共通意識を形づくる助けとなったことを示している。

[9][8][7][4]

主な戦い(5)

  1. ナクソス包囲戦紀元前499年
  2. エレトリア包囲戦紀元前490年
  3. リンドス包囲戦紀元前490年
  4. ビュザンティオン包囲戦紀元前478年
  5. キティオン包囲戦紀元前450年

重要なポイント

帝国と辺境
ペルシアにとってエーゲ海は巨大な帝国の辺境の一つだったが、ギリシア人にとっては故郷だった。どちら側から見るかで戦争の姿は大きく変わる。
土と水
ペルシア王への服従のしるし。多くのギリシア諸国が差し出したが、それぞれの側がどう受け止めたかは今も議論されている。
海軍力
サラミスとその後の軍事行動は三段櫂船の艦隊の価値を示し、それがアテナイの力の基礎となった。
ギリシアの同盟と親ペルシア行為
抵抗したギリシア諸国は一部だけだった。ペルシア側についた国々は「メディア化」したと非難された。統一されたギリシアは存在しなかったことが分かる。
自由と隷属
自由な市民と王の臣民を対比する、ギリシア側の中心的な語り方。後世のヨーロッパ思想にも影響を与えた。
異邦人の固定観念
戦争は、ペルシア人やアジア人をぜいたくで隷属的とするギリシア人のイメージを強めた。現代の研究者はこれを批判的に分析している。
勝者側の史料
戦争を物語る史料はすべてギリシア側のものなので、歴史家は碑文、考古学、行政文書からペルシア側の姿を再構成しなければならない。

記録

  1. 紀元前547年頃 — キュロス大王がリュディアを征服し、イオニアのギリシア都市はペルシアの支配下に入る。
  2. 紀元前499年 — イオニアの反乱が始まる(紀元前499年)。翌年、反乱軍とアテナイ軍がサルディスを焼く。
  3. 紀元前494年 — イオニア艦隊がラデ沖で敗れ、ミレトスが略奪される(紀元前494年)。
  4. 紀元前492年 — マルドニオスがトラキアとマケドニアへ遠征し、艦隊がアトス山沖で難破する(紀元前492年)。
  5. 紀元前490年 — エレトリアが破壊され、アテナイ軍とプラタイア軍がマラトンでペルシア軍を破る(紀元前490年)。
  6. 紀元前486年 — ダレイオス1世が死去し、クセルクセス1世が王となる(紀元前486年)。
  7. 紀元前480年 — クセルクセスがギリシアに侵攻。テルモピュライ、アルテミシオン、アテナイの焼き討ち、サラミスの海戦が起こる(紀元前480年)。
  8. 紀元前479年 — ギリシア側がプラタイアとミュカレで勝利する(紀元前479年)。
  9. 紀元前478年 — アテナイが戦争を続けるためデロス同盟を結成する(紀元前478年)。
  10. 紀元前472年 — アイスキュロスがアテナイで『ペルシア人』を上演する(紀元前472年)。
  11. 紀元前466年頃 — キモンがエウリュメドン川で勝利する(紀元前466年ごろ)。
  12. 紀元前449年頃 — アテナイとペルシアの間で、存在が議論されている「カリアスの和約」が結ばれたとされる(紀元前449年ごろ)。

用語集

アケメネス朝
キュロス大王が建てたペルシア帝国。祖先アケメネスにちなんで名づけられ、紀元前550年ごろから紀元前330年まで続いた。
大王
自らを「諸王の王」と称したペルシア王に対する、ギリシア人の呼び名。
サトラップ
ペルシア帝国の州(サトラップ領)を治める総督。
イオニア
アナトリア中西部の海岸と近くの島々。ミレトスなどのギリシア都市があった。
僭主
ギリシア語の用法では、通常の政治制度によらず権力を得た支配者。必ずしも残酷な支配者とは限らない。
メディア化
ペルシア人(「メディア人」)の側につくこと。服従したギリシア諸国への非難として使われた。
三段櫂船
約170人の漕ぎ手が三層に分かれて櫂を漕ぐ、速い軍船。
重装歩兵
ファランクスと呼ばれる密集隊形で戦うギリシアの歩兵。
デロス同盟
ペルシアとの戦争を続けるため、紀元前478年からアテナイが率いたギリシア諸国の同盟。
蛇の柱
ペルシアと戦ったギリシア諸国の名が刻まれた、デルフォイの青銅製戦勝記念碑。遺構はイスタンブールにある。

よくある質問

ペルシアはなぜギリシアを攻撃したのですか。

ギリシア側の史料によると、ペルシア王たちは、アテナイがイオニアの反乱軍を助けたことへの報復を望んでいた。現代の歴史家は、ペルシアが西の辺境を安定させようとし、約束を破った臣民としてアテナイを見ていた可能性も指摘する。

テルモピュライには本当にスパルタ兵が300人しかいなかったのですか。

スパルタ市民の兵士は300人だったが、ギリシア軍全体は当初、数千人いた。最後の日には、スパルタ兵のほかにテスピアイ人とテバイ人が残り、語られることの少ないヘイロータイもいた。

クセルクセスの軍隊はどれほど大きかったのですか。

ヘロドトスは数百万人とするが、それはありえない。現代の推計の多くは兵士約10万~30万人だが、正確な数は分かっていない。

すべてのギリシア人がペルシアと戦ったのですか。

いいえ。多くのギリシア諸国はペルシアに従うか中立を保ち、多くのイオニアのギリシア人はクセルクセスの艦隊で戦った。

なぜペルシア側から見た戦争の記録がないのですか。

ペルシア人はこの種の叙述による歴史を書かず、王の碑文にも敗北は記されていない。歴史家は考古学や行政用の粘土板から帝国を理解しようとしているが、戦争を物語る史料はギリシア側のものである。

戦争は和平条約で終わったのですか。

後世のギリシア人著述家は、紀元前449年ごろの「カリアスの和約」を記している。しかし、トゥキュディデスはこれに触れず、古代と現代の研究者はその存在を疑ってきた。

これは「東洋」と「西洋」の戦争だったのですか。

それは後世に生まれた語り方である。当時はギリシア人が両方の側におり、ペルシア帝国には多くの民族が含まれていた。「西洋」という考えもまだ存在しなかった。

出典・参考文献

  1. Herodotus, The Histories (trans. A. D. Godley), Book 7. Perseus Digital Library, Tufts University
  2. Greco-Persian Wars. Wikipedia
  3. Herodotus. Wikipedia
  4. The Persians (Aeschylus). Wikipedia
  5. Achaemenid Empire. Wikipedia
  6. Delian League. Wikipedia
  7. Peace of Callias. Wikipedia
  8. Peter Green, The Greco-Persian Wars. University of California Press, 1996
  9. Pierre Briant (trans. Peter T. Daniels), From Cyrus to Alexander: A History of the Persian Empire. Eisenbrauns, 2002

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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