戦争

閑山島海戦

閑山島大捷 (Korean: Hansando daecheop, “the great victory at Hansan Island”) · 閑山島海戦 (Japanese: Kanzantō kaisen)

1592年

初出 2026年10月11日 · 最終更新 2026年10月11日 · 編集 テラ・スクリプタ

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ひとことで

閑山島海戦は、1592年旧暦7月8日(西暦8月14日)に朝鮮半島南岸の閑山島沖で行われた海戦で、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本の艦隊を狭い海峡から誘い出してその大半を撃滅し、その後日本側は海上での戦いを求めなくなり、朝鮮は西へ続く海域の支配を保った。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

400年以上前の1592年、日本の大軍が海をわたって朝鮮に攻めこみました。そのころの朝鮮は、朝鮮王朝という王国でした。陸の上では日本軍はとても速く進みました。およそ3週間で都の漢城(今のソウル)に着き、王は遠い北のほうへ逃げなければなりませんでした。

でも、海の上ではちがいました。李舜臣(イ・スンシン)という朝鮮の将軍は、水兵たちをよく訓練していて、大砲をたくさん積んだ大きくてじょうぶな軍船を持っていました。1592年の夏、約70隻の日本の船が李舜臣をさがしにやって来ました。日本の船は、見乃梁(キョンネリャン)という、岩がたくさんある細い水路に停まりました。そこは大きな船がほとんど向きを変えられない場所でした。

李舜臣は細い水路には入りませんでした。かわりに、何隻かの船を前に出し、逃げるふりをして引き返させました。日本の船はそれを追いかけて、閑山島(ハンサンド)という小さな島の近くの広い海まで出てきました。そこで李舜臣の船は、ツルが2つのつばさを広げたような形に大きな曲線をえがいて並び、四方から大砲をうちました。夕方までに、日本の船のほとんどが焼かれたり、しずめられたり、うばわれたりしました。

2日後、李舜臣は安骨浦(アンゴルポ)という港で、別の日本の船の部隊も打ち破りました。そのあと日本の指導者・豊臣秀吉は、海で戦いをさがすのをやめて、海岸から守るようにと武将たちに命じました。

なぜこの戦いが大切なのでしょう。軍隊には毎日、食べ物や物資が必要です。日本軍はふるさとから遠くはなれていて、重い荷物を運ぶには船が便利です。李舜臣の水軍が戦いの場所より西の海を守っていたので、日本の船は朝鮮の海岸をまわって北にいる自分たちの軍のほうへ安全に進むことができませんでした。日本はこの道を使いたかったのだ、と考える歴史家もいます。これがどれほど大きなちがいを生んだのか、歴史家は今も話し合っていますが、多くの歴史家がこの戦いを戦争の流れを変えたできごとの一つに数えています。

ひと目でわかる

日付
朝鮮の暦で1592年旧暦7月8日=西暦(グレゴリオ暦)1592年8月14日(韓国天文研究院の換算表による)。ウィキペディアをはじめ多くの参考文献は8月15日とし、日本側の記録は7月7日とする
場所
閑山島(現在は慶尚南道統営市の一部)沖の海。日本艦隊を巨済島と本土の間の見乃梁海峡から誘い出したのちに戦った
戦争
文禄・慶長の役(1592~1598年)の第一次侵攻
指揮官
朝鮮:李舜臣(全羅左水営)、李億祺(全羅右水営)、元均(慶尚右水営)/日本:脇坂安治
兵力
朝鮮:軍船約55~56隻(『韓国民族文化大百科事典』は55隻、ホーリーは56隻)、うち亀甲船2~3隻/日本:李舜臣の報告によれば73隻(大船36、中船24、小船13)
損害
日本:朝鮮側の集計で閑山島において59隻が撃破・拿捕され、約400人が陸へ逃れ、14隻が逃走/朝鮮:船の損失なし。閑山島と安骨浦の合計について、ホーリーは戦死19人、負傷114人とする
続く戦い
安骨浦海戦。旧暦7月10日(西暦1592年8月16日)、九鬼嘉隆・加藤嘉明の艦隊(李舜臣の集計で42隻)を相手に戦った
主な史料
李舜臣の朝廷への報告(『壬辰状草』所収)、『宣祖修正実録』、柳成龍『懲毖録』、脇坂家の家伝の記録

地図の上で

同じころ、世界の別の場所では

このライブラリの記事のうち、ほぼ同じ時期に世界の遠く離れた場所で起きたことです。

やさしい

閑山島で何が起きたのか

閑山島海戦は、1592年に始まった日本の朝鮮侵攻、すなわち文禄・慶長の役(壬辰戦争)の海戦の一つである。朝鮮の暦で1592年旧暦7月8日に戦われた。韓国天文研究院(KASI)の換算表で変換すると、この日は1592年8月14日にあたる。ウィキペディアをはじめ多くの参考文献は8月15日とし、日本独自の暦に従った日本側の記録は7月7日とする。戦闘は、巨済島と現在の慶尚南道統営の海岸との間にある小島、閑山島の沖の開けた海で行われた。

一方は、三つの水軍司令部の艦隊を合わせた約55隻の朝鮮水軍であった。李舜臣の全羅左水営、李億祺の全羅右水営、そして元均が率いる慶尚右水営の残存艦隊である。もう一方は脇坂安治が率いる日本の艦隊で、李舜臣の報告は73隻とする。李舜臣は日本艦隊を狭い見乃梁海峡から広い海へ誘い出し、「鶴翼の陣」と呼ばれる弧形の陣形で包囲して、朝鮮側の記録によれば59隻を撃破または拿捕した。

2日後の同月10日(西暦8月16日)、朝鮮水軍は安骨浦の港にいた九鬼嘉隆・加藤嘉明の率いる第二の日本艦隊を攻撃し、李舜臣の報告によればその大半を破壊した。サミュエル・ホーリーは、二つの戦いを合わせた日本側の損失をおよそ100隻とみる。まもなく、侵攻を始めた日本の支配者・豊臣秀吉は、配下の指揮官たちに海上で戦いを求めるのをやめるよう命じた。

韓国ではこの戦いを、1592年の晋州城の防衛、1593年の幸州山城の戦いとともに、この戦争の「三大捷」に数える。朝鮮が巨済以西の南岸海域の支配を確保した瞬間として広く理解されている。ただし、これが日本の戦争遂行全体にとってどれほど重要だったかは歴史家の間で今も議論されている問題であり、このページの後半の節で根拠と諸見解を示す。

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やさしい

1592年夏:陸での勝利、海での苦戦

侵攻は1592年旧暦4月13日(西暦5月23日)、日本軍の第一陣が釜山に上陸したことで始まった。東北アジア歴史財団の記述によれば、秀吉の陸軍は九つの軍団(番隊)に編成され、名目上の兵力は約15万8700人で、これとは別に約5000人の水軍が編成された。同じ記述は、多くの大名が割り当てられた兵数を十分に満たさなかったため、実際の兵力はこれより少なかったとも指摘している。日本軍は上陸から約3週間後(旧暦5月2~3日、西暦6月11~12日)に都の漢城を、旧暦6月中旬(西暦7月21日ごろ。史料によって数日の差がある)に平壌を占領した。宣祖は明との国境にある義州へ逃れた。

しかし、都市を奪うことは国を支配することと同じではなかった。日本軍は主要な街道と城郭都市を押さえたが、火薬から新たな兵員まで、これほどの大軍に必要なものの多くは、敵意に満ちた土地を通って釜山から長い回廊を運び上げなければならず、食糧は現地でも奪われた。まもなく地方の「義兵」がこうした補給線を攻撃し始めた。

海では、日本軍は初めて本格的な敗北を喫した。麗水を本拠とする全羅左水営の指揮官・李舜臣は東へ出撃し、旧暦5月7日(西暦6月16日)に巨済島の玉浦に停泊していた日本の船を撃破した。2回目の出撃では旧暦5月29日(西暦7月8日)に泗川で勝利した。この戦いで亀甲船が初めて実戦に投入され、李舜臣は銃弾を受けて負傷した。続いて旧暦6月初めに唐浦と唐項浦(西暦7月10日と13日)でも勝利した。これらの襲撃のいくつかは、乗組員の多くが上陸している間に、沿岸に停泊していた日本の船をとらえたものだった。

秀吉はこれに対し、脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明の三大名に朝鮮水軍の撃滅を命じた。三人は釜山に集結したが、脇坂は他の二人に先んじて出航した。日本側の記録は、彼が手柄を独り占めしようとしたと伝える。一方陸上では、日本軍が全羅道の首府・全州に向けて進んでいた。閑山島海戦と同じ日、朝鮮の指揮官・権慄が梨峙(イチ)の峠でこれを食い止めた。日本軍は錦山など全羅道の一部を確かに占領したが、梨峙をはじめとする陸上の抵抗は、全州と全羅道の大部分――朝鮮で最も豊かな米作地帯であり、李舜臣の艦隊の本拠地――を日本軍の手に渡さない助けとなった。

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やさしい

戦闘:見乃梁から艦隊を誘い出す

李舜臣と李億祺は麗水に艦隊を集め、旧暦7月5日(西暦8月11日)に合同で訓練を行い、翌日出航した。露梁で7隻を率いる元均が合流し、『韓国民族文化大百科事典』の集計で計55隻の連合艦隊となった(サミュエル・ホーリーの通史では56隻)。7日(西暦8月13日)の夕方、唐浦で金千孫という地元の牛飼いが、70隻を超える日本の船が見乃梁の海峡に停泊していると知らせた。

見乃梁は巨済島と本土の間の狭い水路で、暗礁が隠れている。李舜臣は報告の中で、ここでは自軍の大型軍船が互いにぶつかって動きがとれず、追い詰められた日本兵はたやすく陸へ逃げてしまうだろうと説明した。これに対し閑山島の前の海は広く開け、本土から離れているので、泳いで岸に上がった者も取り残されることになる。数十年後に編纂された『宣祖修正実録』は、元均がすぐに攻撃しようとしたのを李舜臣が退けたという話を加えているが、二人の指揮官の対立は後世の多くの記述に影響を与えているため、この話は慎重に読む必要がある。

8日の朝、朝鮮の軍船5、6隻が日本艦隊の停泊地に近づき、逃げるかのように引き返した。日本の船はこれを追って海峡を出て、開けた海に出た。そこで李舜臣は艦隊に鶴翼の陣――日本の艦列の先頭を包み込むように閉じていく大きな弧――を組ませ、砲撃を開始させた。最初の2、3隻の日本船が粉砕されると、残りは隊列を乱し、戦闘はその日いっぱい続いた。

『韓国民族文化大百科事典』がまとめた李舜臣の報告の数字によれば、日本の船47隻が焼かれるか破壊され、12隻が拿捕された。約400人の日本兵が船を捨てて閑山島へ逃れ、後方にいた14隻は逃走した。脇坂自身も逃げのびた。朝鮮の軍船は1隻も失われなかったが、死傷者は出た。閑山島と安骨浦の合計について、ホーリーは戦死19人、負傷114人とする。

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中級

軍船、大砲、鶴翼の陣

朝鮮水軍の主力は、上甲板を高く設けた大型軍船・板屋船であった。高く重い船体は敵が乗り移りにくく、多くの大砲を積むことができた。これに対し日本の船の大半はより軽量で、主として兵員や物資の輸送のために集められたものであり、開戦当初は大砲をほとんど、あるいはまったく積んでいなかった。日本の乗組員は火縄銃と、敵船に乗り移って白兵戦を行う戦法に頼った。これは日本国内の戦争で効果を上げてきた方法であった。

朝鮮の軍船は、伝統的な文字の順序にちなんで天字(「天」)・地字(「地」)・玄字(「黒」)と名づけられた、いくつかの大きさの砲を備え、弾丸だけでなく大きな矢も発射できた。このため李舜臣は日本の鉄砲の有効射程の外から戦い、敵の乗組員が乗り移ってくる前に船を破壊することができた。東北アジア歴史財団の記述は、李舜臣が閑山島で鶴翼の陣を採用したのは砲の命中率を高めるためだったとする。艦列を敵を囲むように弧状に曲げれば、前進してくる敵の隊列の先頭に同時に砲撃できる砲の数も増える。

英語版ウィキペディアの記事のような現代の復元では、亀甲船を含む重い船を中央に、軽い船を両翼に置く形で鶴翼の陣が描かれる。李舜臣の報告は陣形の名を記しているが、各船がどこにいたかまでは説明していない。何隻の亀甲船が参加したかも不確かで、2隻とする記述も3隻とする記述もある。正確な構造がいまだ議論されている、甲板を覆った軍船・亀甲船はこの戦いの最も有名な象徴だが、艦隊全体から見ればごく一部であり、艦隊は主として通常の板屋船の砲撃によって勝利したのである。

指揮系統も重要だった。朝鮮の三人の指揮官は李舜臣の指導のもとで一体となって行動したが、日本側には水軍全体の総指揮官がいなかった。脇坂、九鬼、加藤はそれぞれ自らの軍勢と利害を持つ別個の大名であり、脇坂が単独で先行したために、彼は日本側が動員できた戦力の一部だけで、結束した朝鮮艦隊と向き合うことになった。

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中級

安骨浦と日本の方針転換

9日、斥候が、現在の鎮海に近い港・安骨浦に約40隻の日本船がいると報告した。脇坂の後を追ってきた九鬼嘉隆と加藤嘉明の船であった。10日(西暦8月16日)、李舜臣は攻撃した。閑山島での出来事を知っていた日本側は、今回は浅い海の岸近くに船を寄せたまま出てこようとしなかった。李舜臣の船は交代で湾内に入っては砲撃し、李舜臣によれば夕方までに日本船のほとんどすべてが破壊された。生き残った者は陸路で、また夜のうちに海路で逃れた。李舜臣は、陸に上がった日本兵が近くの山に隠れていた朝鮮の避難民に襲いかかるのではなく海路で去るよう、わざと数隻の船を壊さずに残したと記している。

朝廷は勝利に報いた。李舜臣は正二品の正憲大夫に昇り、李億祺と元均も昇進した。

日本側の対応は戦術の転換であった。秀吉は水軍の指揮官たちに、海上で戦いを求めるのをやめ、釜山と巨済周辺の停泊地を陸上の要塞化した陣地から守るよう命じた。日本の歴史研究者・小川隆章(2022)は、日本の暦で7月14日付の、脇坂に宛てた秀吉の朱印状を引いている。それは脇坂に九鬼・加藤とともに巨済島に城を築いて守備させ、朝鮮水軍と個別に戦うことを禁じたものであった。李舜臣が旧暦9月1日(西暦1592年10月5日)に日本軍の主要拠点である釜山を攻撃したとき、停泊中の多くの船を破壊したが、港を奪うことはできなかった。小川は、李舜臣がその後釜山を再び攻撃しなかったこと、また1593年初めに熊川の要塞化された日本軍陣地を5回攻撃したものの、そこの日本軍を壊滅させられなかったことを指摘している。

1593年、李舜臣は全羅道へ向かう見乃梁の航路を見張ることのできる閑山島に本営を移し、三つの道の水軍を統べる初代の三道水軍統制使となった。後に彼が逮捕されたとき、後ろ盾であった柳成龍は、閑山島を失えば全羅道は守れないと警告したと伝えられる。1597年、元均の艦隊が漆川梁で壊滅した後、この本営は放棄された。

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中級

海はなぜ重要だったのか:補給、制海、そして釜山からの長い道

漢城を3週間で、平壌を2か月で落とした軍が、なぜ征服を完遂できなかったのか。答えの一部は補給にある。10万をはるかに超える軍勢は毎日食糧を必要とする。最初の数か月、日本軍は平壌にあったような官府の穀物倉を含め、奪ったものに部分的に頼って暮らしたが、進めば進むほど釜山へ戻る補給線は長くなり、攻撃を受けやすくなっていった。東北アジア歴史財団の記述は、釜山から平壌へ至るこの陸上補給路が、日本軍の後方で義兵に攪乱されたと記している。

朝鮮の著述家は古くから閑山島をこの問題と結びつけてきた。戦時に領議政を務めた柳成龍は回想録『懲毖録』に、平壌を占領した日本の指揮官・小西行長が宣祖に書を送り、「日本の水軍十余万もまた西海より来る」と告げ、王はここからどこへ行くのかと問うたと記している。柳成龍は、日本は陸と海から同時に西へ進むつもりであったが、この一戦が「その片腕を断った」と結論づけた。小西は平壌を保持しながらも孤立し、それ以上進む勇気はなかったというのである。『韓国民族文化大百科事典』や東北アジア歴史財団の通史などの韓国の参考文献は、この想定された戦略を「水陸並進」(陸と海の同時進攻)と呼び、閑山島がそれを挫いたとする。

守り抜いたものも同じく重要だった。柳成龍は、この戦いのおかげで朝鮮は全羅道と忠清道、さらに黄海道と平安道の沿岸を保ち、穀物を運び、命令を伝えることができたと書いた。『懲毖録』は同じ数週間の例を挙げている。忠清道の牙山からの税米1200石が海路で北西端の定州に届き、柳成龍はそれを、中国から到着しつつあった明軍の兵糧を賄う助けに用いた。この輸送は閑山島海戦とほぼ同時期のことなので、勝利の結果というより西の海路の価値を示す例である。海路は、それを支配する側の役に立ったのである。

限界も明らかである。閑山島海戦は、対馬と釜山を結ぶ日本軍の主要な渡海路を断ったわけではなく、この航路は引き続き日本側に使われた。李舜臣自身も安骨浦の戦いの後、金海付近でなお一日に数十隻の日本の船が往来していると聞いている。北方の日本軍は、脆弱な陸上の連絡線と現地で奪えるものによって、不十分ながら補給を受け続けた。この戦いが成し遂げたのは、北へ向かう潜在的に有用な経路である南西沿岸回りの航路を日本側が安全に使えないようにし、全羅道の大部分と西の海を朝鮮の手に残したことである。その意味でこの戦いは、日本軍が進軍できる距離と、実際に掌握できる国土との間の隔たりを広げた。

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中級

船と人の数:記録は何を語るか

朝鮮艦隊の規模からして史料によって異なる。『韓国民族文化大百科事典』は全羅道の二つの水営の48隻に元均の7隻を加えて55隻とし、ホーリーは56隻とし、柳成龍の『懲毖録』は李舜臣が板屋船40隻を率いたと述べる。こうした違いは、おそらくどの水営の、どの種類の船を数えたかによるものだろう。

日本艦隊について、李舜臣の報告は大船36隻、中船24隻、小船13隻の計73隻とする。『宣祖修正実録』は「七十余隻」とする。報告のある英訳は82隻(大船36、中船34、小船12)と記し、この数字は一部の英語文献でも繰り返されているが、報告自身の集計である撃破・拿捕59隻と逃走14隻に合う合計は73隻である。日本語版ウィキペディアが引く脇坂側の日本の記録は、脇坂が60~70隻を率いて出て、そのうち39隻を焼かれたと述べる。安骨浦についても数字は再び食い違う。李舜臣は、見つけた42隻のうち、わざと残した数隻を除いてほぼすべてを破壊したと書き、『宣祖修正実録』は40隻を焼いたとし、英語版ウィキペディアの安骨浦海戦の記事は九鬼の旗艦・日本丸を含む22隻が逃れたとする。これらの記録が示す損害は互いに異なり、両者を突き合わせるには、それぞれの記録が損傷した船、放棄された船、後に回収された船をどう扱ったかを知る必要がある。

人的損害はさらに不確かである。閑山島と安骨浦の合計について、李舜臣は三人の指揮官の兵が250近くの首級を取り、さらに多くの日本兵が溺死したと報告した。『宣祖修正実録』は、日本の陣中で閑山島において日本兵9000人が死んだという噂があったと伝えるが、確かめようがない。日本の動員名簿はこの戦役で脇坂に1500人を割り当てているが、漕ぎ手や水夫はこうした数字に十分反映されていない可能性がある。朝鮮側については、ホーリーが二つの戦いの合計で戦死19人、負傷114人とする。李舜臣の報告は戦死者と負傷者を名前と役目ごとに列挙しており、その中には水夫、砲手、潜水夫などが含まれ、一部は私奴婢や寺奴婢と記されている。艦隊で誰が櫓を漕ぎ、戦ったのかを思い起こさせる記録である。

日付にも同じ注意が要る。朝鮮は太陰太陽暦を用いており、1592年旧暦7月8日をKASIの換算表で変換すると1592年8月14日となる。このサイトはこの日付を用いる。多くの書籍やウィキペディアは8月15日とするが、1日の差が生じた理由は、ここで用いた史料では確認されていない。当時の日本の暦に従う日本側の記録は7月7日とする。

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中級

同じころの世界(1592年)

朝鮮の同盟国である明も、1592年には独自の危機を抱えていた。この年の春、北西辺境の寧夏で守備軍の反乱が起こり、反乱軍は数か月にわたって城を保持した。明は1592年10月までにこれを鎮圧し、朝廷は兵力を朝鮮へ向けられるようになった。同じ年、女真の指導者ヌルハチは日本と戦う朝鮮を助けるため兵を送ると申し出たが、朝鮮政府は断った。そして1592年11月28日、ヌルハチの子ホンタイジが生まれた。のちに清朝を開く人物である。彼の誕生は戦争と何の関係もなく、単に同じ年に起きたことにすぎない。

南京では1592年、僧・玄奘の巡礼の旅と猿の王・孫悟空の物語を描いた長編小説『西遊記』の、現存する最古の版が刊行された。この本は戦争とは無関係だが、帝国が二つの辺境で戦っている間も、明の出版と都市文化が続いていたことを思い起こさせる。

はるか西方では、1592年にガリレオ・ガリレイがパドヴァ大学に移り、その後18年間そこで教えた。フランスの随筆家ミシェル・ド・モンテーニュは1592年9月13日に亡くなった。ロンドンでは、1592年9月20日に登録された、ロバート・グリーンの名で出版された小冊子が「成り上がりのカラス」をあざけった。これは通常、劇作家ウィリアム・シェイクスピアへの現存する最初の言及と読まれている。これらの出来事はいずれも朝鮮とは関係がない。並べてみてわかるのは、閑山島の年が、世界の他の場所では新しい科学、新しい文学、新しい演劇の年でもあったということだけである。

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閑山島の記憶

韓国で閑山島海戦は国の歴史の中でも最もよく知られた戦いの一つであり、国民的英雄・李舜臣の記憶の中心をなしている。閑山島にあった彼の本営の跡、制勝堂(チェスンダン)には今日、記念碑と祠堂の建物が立ち、この戦いは海上の戦局が朝鮮に有利に転じた瞬間として記憶されている。

外国の称賛者たちはこの戦いの名声を広めたが、彼らの誤りの一部も広めた。アメリカの宣教師で歴史家のホーマー・ハルバートは『The Passing of Korea』(1906年)で李舜臣の勝利を「戦争の転換点」と呼んだが、それを「6万の援軍を運んでいた」日本艦隊との遭遇として描き、李舜臣の亀甲船がそれに体当たりしたとした。『韓国民族文化大百科事典』は、ハルバートがギリシアのサラミスの海戦になぞらえたとも伝えている。イギリスの提督ジョージ・バラードは、1921年に海と日本の歴史を論じた著書で、ネルソンでさえこれ以上のことはできなかっただろうと書いたが、やはり西回りの航路を進む何百隻もの輸送船団を、朝鮮の船が体当たりで突き破ったように描いた。李舜臣自身の報告は、海峡から誘い出され、主に砲撃によって撃滅された73隻の艦隊を記している。閑山島を大規模な増援船団の撃滅とする一般的なイメージの一部は、こうした初期の英語の記述にさかのぼる。

日本ではこの戦いはあまり記憶されてこなかったが、無視されてきたわけではない。東北アジア歴史財団が1935年の版から引用する、ジャーナリストで歴史家の徳富蘇峰の著作は、義兵と明軍の到来とともに、朝鮮の海上での優勢を侵攻失敗の三つの主な理由の一つに挙げた。脇坂家には、脇坂が敗戦後に島に隠れ、数日間海藻を食べて生き延びたという言い伝えがあるが、これは家の伝承であって、記録で確認された事実ではない。

この戦いは大衆文化の題材にもなった。キム・ハンミン監督の2022年の韓国映画『ハンサン ―龍の出現―』の題材となり、韓国のテレビドラマでも何度も描かれている。

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閑山島はどれほど決定的だったか:解釈と論争

最も強い解釈は柳成龍にさかのぼる。彼は『懲毖録』で、閑山島海戦は陸と海から同時に西へ進もうとする日本の計画をくじき、小西を平壌で孤立させ、全羅・忠清と西の沿岸を救い、さらに遼東や天津周辺の中国沿岸をも脅威への不安から免れさせ、明軍が陸路で朝鮮へ来られるようにしたと論じた。現代の韓国の参考文献もこの流れに従う。『韓国民族文化大百科事典』は、この戦いが日本の水陸並進計画を挫折させ、戦局を朝鮮に有利に転じたとし、東北アジア歴史財団は韓国の国史叢書を引いて、この戦争の決定的な転換点と呼ぶ。英語圏では、サミュエル・ホーリー(2005)が、日本の戦略には朝鮮南西沿岸を回って平壌に至る海上補給路が必要だったと解釈し、1592年の海戦が南岸沿いの日本の水軍作戦を停止させたとみる。日本の歴史家にも同様の見方がある。小川が引用する笠谷和比古・黒田慶一(2000)は、李舜臣の水軍が補給線を断つことで日本軍に決定的な打撃を与えたと書いている。

別の観点から疑問を呈する歴史家もいる。海軍史家の李敏雄(イ・ミヌン)は日本の初期の水軍計画の一貫性を問い、日本の水軍には当初、朝鮮水軍を撃破して制海権を確保する全体的な計画が欠けていたと論じる。これはホーリーの補給路解釈とは計画の別の側面に関わるもので、それだけでは西回りの海路が意図されていたかどうかを示すものではない。小川隆章の研究ノート(2022)は、西海岸補給計画そのものの証拠に疑問を投げかける。彼によれば、水陸並進の戦略は北島万次や中野等の主要な研究にも、李炯錫の戦争史にも現れず、秀吉の軍令を扱った中野の研究にも、艦隊を西海岸に沿って北上させよという秀吉の命令は見られない。また彼は小西の書状を、明の使節・沈惟敬が40万の明軍で脅したのと同様のはったりと読み、李舜臣をその職に推薦した柳成龍が彼の勝利を過大評価した可能性を示唆する。小川はさらに、秀吉は少なくとも戦争初期には、名護屋と釜山の間の輸送船の護衛程度の役割しか水軍に期待していなかったという徳富蘇峰の見解も引いている。史料そのものにも、こうした疑問と符合する限界がある。閑山島の脇坂艦隊は李舜臣の艦隊を撃滅するために送られた戦闘部隊であって、平壌へ物資を運ぶ船団ではなかったし、日本が編成した専任の水軍も小規模にすぎなかった。

第二の問いは、水軍を他の要因とどう比べて評価するかである。実のところ小西は閑山島の約3週間前、旧暦6月中旬に平壌で停止しており、この戦いで彼の最初の停止を説明することはできない。柳成龍の議論が扱うのは、その後なぜ彼が先へ進まなかったのかである。ここでは他の圧力も効いていた。彼の背後の回廊への攻撃、旧暦7月の明軍による最初の平壌攻撃(東北アジア歴史財団の記述では17日、『懲毖録』では19日)――同財団の記述はこれを日本軍がさらなる北進を断念した理由の一つに数える――、冬の接近、そして秋に明の使節・沈惟敬が彼と始めた休戦交渉である。明側を研究したケネス・スウォープ(2009)は、戦争の流れを変えたのは明の陸上での介入、とりわけ1593年初めの平壌奪回であり、李舜臣と義兵を中心とする記述はこれを過小評価していると論じる。それでも彼は閑山島を、日本に制海権を与えなかった重要な勝利として扱っている。これらすべての中から、一つの戦いの影響だけを切り分けるのは難しい。

したがって歴史家の間では、水軍の相対的な重要性についても、日本の西海岸補給計画が証拠によってどこまで確かに裏づけられるかについても見解が分かれている。ここで引いた史料が一致して認めるのは、より限られたことである。閑山島海戦は、第一次侵攻の残りの期間、巨済以西の海を朝鮮の支配下に置き、全羅道の大部分と西海岸を守る助けとなった。一方、日本と釜山の間の渡海路は開いたままで、北方の日本軍は脆弱な陸上の連絡線と現地調達に依存した。義兵、明の介入、冬と相まって、朝鮮によるこの海域の支配は、1593年に日本軍が北方を放棄することになった条件の一つであった。

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上級

史料とその問題点

最も詳しい史料は、李舜臣自身が戦いから数日のうちに書いて朝廷に送った報告書であり、後に彼の他の報告とともに『壬辰状草』にまとめられた。航路、日付、功を立てた将の名、戦死者の名まで記されている。出来事に近い記録ではあるが、やはり指揮官が自らの勝利について書いたものであり、敵船や首級の数は褒賞を求める根拠ともなった。

朝鮮の朝廷の記録には、別の種類の注意が必要である。『宣祖修正実録』は戦後数十年たってから編纂されたもので、日本兵9000人戦死の噂のような伝聞も含む。李舜臣をその職に推薦した大臣・柳成龍が戦後に書いた『懲毖録』は貴重な解釈だが、時に出来事を混同している。見乃梁付近の戦いの記述の中で、亀甲船と、李舜臣が左肩に銃弾を受けたことを述べているが、この負傷は他の記録では旧暦5月の泗川でのこととされている。

日本側の史料には秀吉の命令や脇坂家の記録があり、たとえば日本語版ウィキペディアが『高麗船戦記』として引く記述は、脇坂の60~70隻のうち39隻が焼かれたとする。その成立年代や伝来はここで用いた史料には示されていないので、その数字は李舜臣の報告と並べることはできても、容易に優劣を比べることはできない。両者は焼かれた船、拿捕された船、逃れた船など、異なるものを数えてもいるので、注意深く比べても確定した総数ではなく推定値しか得られない。

正確な場所さえ不確かである。刊行された地図や復元は互いに異なる。英語版ウィキペディアは戦場を閑山島の東岸沖とし、このサイトの地図上の印もおおよその位置である。2019年の『週刊京郷』の記事は、統営と弥勒島の間の海域に置いた従来のいくつかの説と、李舜臣の陣中日記の翻訳者パク・ジョンピョンの議論を紹介している。パクは、元重挙による18世紀の日本見聞録『和国志』と脇坂家の記録を用いて、主な戦闘を島の北方、見乃梁から約20里の海域に位置づけた。この議論は古い距離の単位をどう換算するかに左右され、問題の決着には至っていない。

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重要なポイント

戦場を選ぶ
李舜臣は、日本側に有利な狭く岩の多い海峡での戦いを拒み、自軍の大型船と砲を生かせる開けた海へ敵を誘い出した。
火力対切り込み
朝鮮の軍船は大砲で距離をとって戦い、日本の乗組員は鉄砲と敵船への乗り移りに頼った。距離を保つことが勝敗を決した。
制海権
閑山島の後、日本側は海上で戦いを求めなくなり、朝鮮は第一次侵攻の残りの期間、巨済以西の海域を支配した。
水陸並進(陸と海の同時進攻)
柳成龍以来の韓国の著述家やホーリーは、日本が陸軍と並行して海路で兵力と物資を西へ送ろうとしていたとみる。小川隆章はそうした西海岸補給計画の証拠に疑問を呈し、李敏雄はそれとは別に、日本の初期の水軍計画の一貫性を問う。
全羅道を守る
水軍による海の支配は、同じ日の梨峙の防衛のような陸上の抵抗とともに、全州と全羅道の大部分――朝鮮の主要な米どころであり水軍の根拠地――を日本軍の手に渡さない助けとなった。ただし錦山など一部は占領された。
適応
日本側は停泊地を陸上の要塞化した陣地から守ることで対応した。その後の李舜臣による釜山・熊川への攻撃は船を破壊したが、日本軍の陣地を崩すことはできなかった。
数は誰が数えたかによる
艦隊の規模、損害、さらには日付までもが韓国・日本・英語の史料の間で異なる。どの数字もその出どころとあわせて読むべきである。

記録

  1. 1591年 — 李舜臣が麗水で全羅左水営の指揮官となり、軍船と砲の整備を始める。
  2. 1592年 — 旧暦4月13日(西暦5月23日):日本軍の第一陣が釜山に上陸。約3週間後に漢城が陥落する。
  3. 1592年 — 旧暦5月7日(西暦6月16日):李舜臣の最初の勝利、玉浦の海戦。
  4. 1592年 — 旧暦5月29日(西暦7月8日):泗川の海戦。亀甲船の出撃が記録された最初の戦い。
  5. 1592年 — 旧暦7月8日(西暦8月14日):閑山島海戦。同じ日、権慄が全州へ向かう道の梨峙の峠を守り抜く。
  6. 1592年 — 旧暦7月10日(西暦8月16日):安骨浦の海戦。その後、秀吉が配下の指揮官に海上での戦いを避けるよう命じる。
  7. 1592年 — 旧暦9月1日(西暦10月5日):李舜臣が釜山の日本軍の主要停泊地を攻撃するが、港を奪うことはできない。
  8. 1593年 — 李舜臣が閑山島に本営を移し、初代の三道水軍統制使となる。
  9. 1597年 — 元均率いる朝鮮艦隊が漆川梁で壊滅し、閑山島の本営が放棄される。
  10. 1598年 — 日本軍の撤退のさなか、李舜臣が露梁海戦で戦死する。
  11. 1921年 — ジョージ・バラード提督が日本史における海の役割を論じた著書で李舜臣を称賛し、脚色された閑山島の物語を英語圏に広める。
  12. 2022年 — 映画『ハンサン ―龍の出現―』が公開される。

用語集

閑山島(ハンサンド)
朝鮮半島南岸、統営沖の小島。近くの海で戦いが行われ、のちに李舜臣が本営を置いた。
見乃梁(キョンネリャン)
巨済島と本土の間の狭い海峡。戦いの前に日本艦隊がここに停泊した。
板屋船(パノクソン)
朝鮮水軍の主力軍船。大型で船べりが高く、多くの大砲を備えた。
亀甲船(コブクソン)
甲板を覆い、四方に大砲を備えた朝鮮の軍船。建造されたのはわずかで、正確な構造には議論がある。
鶴翼の陣(鶴翼陣)
鶴が翼を広げたような弧状の陣形。敵を包囲し、砲火を集中させるために用いた。
銃筒(チョントン)
朝鮮の火砲。天字・地字・玄字などの大きさがあり、大きな矢や弾丸を発射した。
水陸並進
「陸と海の同時進攻」。閑山島が挫いたとされる日本の戦略を指して韓国の歴史家が用いる語。
壬辰状草
1592~1594年に李舜臣が朝廷に送った報告書を集めたもので、彼の海戦に関する主要な史料。
三道水軍統制使
三つの道(全羅・慶尚・忠清)の水軍を統べる職。1593年に李舜臣が初めて任じられた。
太陰太陽暦
朝鮮が用いた暦。月の満ち欠けに従って月を定め、ときどき閏月を加えて太陽の一年と歩調を合わせる。その日付は西暦(グレゴリオ暦)に換算しなければならず、参考文献によって1日ずれることもある。

よくある質問

李舜臣はなぜ海峡の中で戦わなかったのですか。

見乃梁は狭く岩が多いため、大きな船は向きを変えにくく、日本兵が陸へ逃げてしまうおそれもありました。閑山島沖の開けた海なら、すべての船と大砲を使えました。

亀甲船が戦いに勝ったのですか。

役に立ちましたが、参加したのは2、3隻だけでした。戦いの大部分は、大砲を撃つ通常の板屋船が担いました。

日本の船は何隻失われたのですか。

朝鮮側の記録では、閑山島で73隻のうち59隻が撃破または拿捕されました。李舜臣は、2日後に安骨浦にいた40隻あまりの船もほぼすべて破壊したと書いています。ホーリーは二つの戦いの合計をおよそ100隻とみています。日本の家の記録や英語版ウィキペディアの安骨浦海戦の記事など、ほかの記述は日本側の損失をより少なく伝えています。

閑山島海戦で日本軍の補給はすべて断たれたのですか。

いいえ。日本から釜山への主な渡海路は開いたままで、物資は陸路でも運ばれ続けました。閑山島海戦は朝鮮南西沿岸を回る航路をふさぎ、西の海を朝鮮のものとして保ったのです。

日本軍が平壌で止まったのは閑山島のためですか。

あったとしても、理由の一部にすぎません。小西は海戦の約3週間前にすでに平壌で止まっていました。柳成龍は、小西がその後先へ進まなかった主な理由を閑山島とみましたが、ゲリラ的な攻撃、明軍の脅威、冬、休戦交渉も影響しました。また、平壌への海上補給路が確かに計画されていたこと自体を疑う歴史家もいます。

8月15日とする本があるのに、このページはなぜ8月14日なのですか。

この戦いは旧暦7月8日と記録されています。これを韓国の天文研究機関の換算表で変換すると1592年8月14日になります。多くの参考文献は8月15日としていますが、1日の差の理由は、ここで用いた史料からは明らかではありません。日本の記録は日本独自の暦で7日としています。

閑山島に逃げた日本兵はどうなったのですか。

李舜臣の報告によれば約400人(報告の英訳の注に引かれた日本の記録では約200人)が島に取り残されました。元均がその処置を任されましたが、ホーリーの記述によれば、日本艦隊が近づいているという誤報を受けて引き揚げてしまい、日本兵は残骸で作ったいかだで巨済島へ渡りました。

出典・参考文献

  1. 조성도, 한산도대첩 (閑山島大捷). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  2. 이장희, 임진왜란 (壬辰倭亂). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  3. 이순신 (李舜臣). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  4. Revised Annals of King Seonjo (선조수정실록), vol. 26, 1st day of the 7th month of the 25th year of Seonjo (1592), entry 9: “Yi Sun-sin defeats the Japanese at Gyeonnaeryang, Goseong”. Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
  5. Yu Seong-ryong (柳成龍), 懲毖錄 (Jingbirok), vol. 1 (classical Chinese text). Wikisource
  6. Yi Sun-sin, translated by Ha Tae-hung, Imjin Changch’o: Admiral Yi Sun-sin’s Memorials to Court. Yonsei University Press (Internet Archive copy), 1981
  7. 제1차 침략 (The first invasion), in 동아시아의 역사 (History of East Asia), ch. 4. Northeast Asian History Foundation (동북아역사넷)
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  9. 閑山島海戦. Wikipedia (Japanese)
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  11. Imjin War. Wikipedia
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  13. Samuel Hawley, The Imjin War: Japan’s Sixteenth-Century Invasion of Korea and Attempt to Conquer China. Royal Asiatic Society, Korea Branch; Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2005
  14. Kenneth M. Swope, A Dragon’s Head and a Serpent’s Tail: Ming China and the First Great East Asian War, 1592–1598. University of Oklahoma Press, 2009
  15. Ogawa Takaaki (小川隆章), 李舜臣と文禄・慶長の役の海戦に関する考察 (Some Notes on Admiral Yi Sunsin and Naval Battles in Imjin War), research note. Bulletin of International Pacific University 20: 83–88, 2022
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  19. 윤호우, 한산대첩 ‘정확한 위치’ 찾았다. Weekly Kyunghyang (주간경향), 2019
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  22. Nurhaci. Wikipedia
  23. Hong Taiji. Wikipedia
  24. Journey to the West. Wikipedia
  25. Galileo Galilei. Wikipedia
  26. Michel de Montaigne. Wikipedia
  27. Greene’s Groats-Worth of Wit. Wikipedia

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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