最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
- やさしい
- 中級
- 上級
子ども向け
いまからおよそ1400年前、朝鮮半島の北部と現在の中国東北部の広い範囲は、高句麗という国の領土でした。高句麗の人々は山の上に頑丈な石の城を築き、馬術と弓術に優れていることで知られていました。
すぐ西側の中国は、300年近くいくつもの国に分かれていました。589年、隋という新しい王朝がこの地を再び一つにまとめました。隋の皇帝は、周りの国がみな自分に頭を下げることを望みましたが、高句麗はそうしませんでした。
そこで隋は高句麗を征服しようと、途方もなく大きな軍隊を送りました。598年に一度、そして612年・613年・614年と三年続けてです。612年に皇帝が集めた兵は、歴史書によれば100万を超えたといいます。行進する列があまりに長く、全員が陣を出るのに40日もかかったといわれています。
高句麗はこの巨大な軍と広い野原で戦おうとはしませんでした。兵士たちは登るのが難しく食料もたっぷりある城の中にこもり、敵が疲れて飢えるのを待ちました。隋は遼東城という一つの城を何か月も攻めながら、ついに奪うことができませんでした。
そこで皇帝は30万5000人を選び出し、まっすぐ高句麗の都・平壌へ向かわせました。高句麗の将軍・乙支文徳は、戦うたびにわざと負けたふりをして逃げ、敵をどんどん奥深くへ引き込みました。疲れ切った隋の軍が引き上げようと薩水という川を渡っているとき、乙支文徳は背後から襲いかかりました。生きて帰れたのはわずか数千人だけでした。
戦争にあまりに多くの人と金をつぎ込んだ隋では各地で反乱が起こり、618年に皇帝が殺されると、新たに唐という王朝が興りました。韓国の人々は今も乙支文徳を英雄として記憶しています。ソウルの大通り「乙支路(ウルチロ)」も、彼の名にちなんで付けられました。
ひと目でわかる
- 時期
- 598年、続いて612年・613年・614年(合わせて四度の遠征)。主な戦闘はいずれも春から秋にかけて行われた
- 場所
- 遼西・遼東(現在の中国遼寧省)と、平壌に至る朝鮮半島北西部。渤海・黄海を渡る水軍による攻撃もあった
- 交戦勢力
- 高句麗(嬰陽王、将軍乙支文徳・高建武)対 隋(598年は文帝、612〜614年は煬帝)
- 規模
- 隋側の記録では598年に30万、612年の戦闘員は113万3800人、輸送要員はその倍とされる。現代の歴史家は誇張の可能性が高いとみる
- 主な戦闘
- 遼河渡河戦と遼東城の攻防(612・613年)、平壌での水軍の撃退(612年)、薩水の戦い(612年)
- 結果
- すべての侵攻が失敗した。614年、高句麗が形式的に降伏し亡命者・斛斯政を送り返すと、隋は撤兵した
- 影響
- 613年の楊玄感の乱を皮切りに中国各地で反乱が広がり、隋は618年に滅亡した。唐は645年から再び高句麗に侵攻した
- 主な史料
- 『隋書』(唐初に編纂)、『資治通鑑』(11世紀)、『三国史記』高句麗本紀(1145年)。『三国史記』のこの部分は大筋で中国側の史書に依拠している
日付でたどる戦争
再生を押すと、地図上で戦争の流れを追えます。印は戦闘・出来事、矢印は記録に残る進軍路です。
段階
高句麗と靺鞨(まっかつ)による遼西侵攻の後、文帝は皇子の楊諒に命じて水陸あわせて約30万の軍を率いさせた。陸軍は臨渝関を出て夏の洪水に見舞われ、食糧が尽きて疫病にも襲われた。東莱を発した周羅睺の艦隊は嵐に遭って四散した。軍が9月に帰還したときには、史料の伝えるところでは十人に八、九人が死んでいたという。嬰陽王が謝罪の使者を送ると、隋は遠征を取りやめた。
隋書 卷2 高祖紀下 (Book of Sui, Annals of Emperor Wen, part 2), Wikisource隋書 卷65 (biographies of Zhou Luohou, Li Jing and Xue Shixiong), Wikisource三國史記 卷20 高句麗本紀 嬰陽王 (Samguk sagi, Annals of Goguryeo: King Yeongyang), Wikisource여수전쟁 (Encyclopedia of Korean Culture)Goguryeo–Sui War (English Wikipedia)sxtwl (Shouxing calendar library) used for lunar/sexagenary → Julian conversion
最近の出来事
再生画面は、その日までに史料で確認できた事実を示すだけで、毎日新しい出来事があったという意味ではありません。月・年までしか分からない日付は期間として示し、点線の矢印は確認された2地点を結んだ概略線です。
やさしい
高句麗・隋戦争とは何か
高句麗・隋戦争とは、598年から614年にかけて、中国の隋が朝鮮三国のうち最大の国であった高句麗に対して繰り返し行った侵攻を指す。朝鮮の歴史家は両国の名の頭文字をとって「麗隋戦争」とも呼び、中国の史書はふつう「遼東への遠征」と表現する。
遠征は四度あった。598年、隋の建国者である文帝が送った軍と艦隊は、主に洪水・疫病・嵐によって崩れた。612年には息子の煬帝が、前近代の歴史でも屈指の大軍を自ら率いて出陣した。遼東城で数か月を空費した煬帝は、30万5000人の別動隊を平壌へ向かわせたが、この軍はほとんどが薩水で全滅した。煬帝は613年に再び攻めたが、後方で反乱が起きたために包囲を解かねばならず、614年の四度目の遠征は、高句麗の形式的な降伏によって面目を保つかたちで終わった。
この戦争の意味は戦場の外でいっそう大きかった。隋は国力を消耗しすぎたために全土で反乱が起こり、建国からわずか37年後の618年に滅亡した。一方の高句麗はこの勝利によって半世紀近く独立を保ち、将軍・乙支文徳は朝鮮人の歴史的記憶のなかでもっとも名高い英雄の一人となった。
やさしい
二つの大国の出会い——高句麗と隋
600年頃、高句麗はすでに数百年の歴史を持つ国だった。鴨緑江中流域一帯に興り、遼東と満州の大部分、朝鮮半島北部を治め、427年からは平壌を都としていた。高句麗は山城の国であった。山の上に石で築いた城には多くの場合内部に水源があり、兵士と農民は穀物を持ち込んでそこに立てこもることができた。高句麗は靺鞨や契丹といった周辺の諸民族にも影響力を及ぼしていた。
対する中国は、4世紀初め以来、南北の複数の王朝に分かれていた。581年、北方で楊堅が権力を握り隋を建て、589年には南方の陳を滅ぼして中国を再統一した。この人物が文帝である。文帝は強力な中央集権国家を築き、その子・楊広、すなわち煬帝は、豊かな南と北を結ぶ大運河を完成させた。
『韓国民族文化大百科事典』は当時の状況をこう説明する。5世紀半ば以来、東アジアは中国の南北朝、モンゴル高原の柔然、続いて突厥、西方の吐谷渾、そして東北アジアの高句麗という、それぞれが独自の勢力圏を持つ多元的な世界であった。中国全土を治める単一の帝国の出現は、この均衡を揺るがした。隋は高句麗が臣下の国として服属することを求め、高句麗は独自の勢力圏を守ろうとした。
中級
戦争はなぜ始まったか
高句麗は、それ以前の中国王朝に対してそうしてきたように、隋にも使者と貢物を送っていたが、両国の関係は張りつめていた。『隋書』によれば、陳が滅んだという知らせを聞いた平原王は「大いに恐れ、兵を訓練し穀物を蓄えた」という。597年、文帝は平原王に厳しい国書を送った。藩臣を名乗りながら誠意に欠け、靺鞨を圧迫し契丹が隋に来るのを妨げ、密かに財物で隋の工人や弩の技術者を引き抜いた、という非難だった。
直接のきっかけは598年に訪れた。新たに即位した嬰陽王は、靺鞨兵1万余りを率いて遼河の西側にある遼西を攻めたが、営州(現在の朝陽)総管の韋沖に撃退された。韓国の学界では、これを隋の前進拠点に対する先制攻撃とみる見方が多い。激怒した文帝は嬰陽王の官爵を剥奪し、侵攻を命じた。
その後の戦争には、さらに別の原因があった。607年、煬帝が突厥の啓民可汗の幕営を訪れた際、そこに高句麗の使者がいるのを見つけた。高句麗と突厥が結びつく可能性は、隋の朝廷を警戒させた。臣下の裴矩は、高句麗の地はもともと漢の郡県であり、「異域」のままにしておくべきではないと主張した。煬帝は使者に対し、王が自ら入朝しなければ、啓民可汗を率いて「その地を巡行する」と伝えさせた。嬰陽王は来ず、611年に戦争の準備が始まった。
中級
第一次戦争(598年)
598年の陰暦2月、文帝は末子の漢王・楊諒と王世積を将として、水陸あわせて30万の軍を委ねた。陸軍は初夏、現在の山海関付近の臨渝関を出発した。ところが長雨が早くから降り、道はぬかるみ、糧食の輸送が滞って食料が尽き、疫病までもが陣中に広がった。
周羅睺が率いる水軍は山東半島の東莱から平壌を目指して出発したが、嵐に遭って多くの船が沈んだ。朝鮮側の一部の記述は、高句麗軍が隋の艦隊と補給線を襲ったと付け加えているが、初期の史料は天候と疫病を主な原因として挙げている。9月に軍が戻ったとき、『隋書』は「死者は十のうち八、九」であったと伝える。
その後、嬰陽王は使者を送って詫び、自らを「遼東の糞土の臣」とへりくだって名乗り、文帝は戦を打ち切った。百済が道案内を買って出て再度の遠征を求めたが、文帝は高句麗をすでに許したとしてこれを退けた。この申し出を知った高句麗は百済の国境を襲った。両国とも長期の戦争は避けたが、根本の問題は解決されないままだった。
中級
612年——当代最大の遠征軍
煬帝の準備は途方もないものだった。兵と船、武器と穀物は、現在の北京に治所を置く涿郡に集められ、新たに開通した大運河が物資を北へ運ぶのに使われた。『隋書』によれば、612年の正月に集結した軍は戦闘員だけで113万3800人、「二百万と称し」、糧食を運ぶ人員はその倍にのぼった。軍は皇帝の親衛軍を合わせて全24軍に分けられ、一日に一軍ずつ40里の間隔で出発し、すべてが陣を離れるのに40日を要し、旗指物は960里にわたって連なったという。
高句麗はこの大軍と野戦で相まみえることはしなかった。『韓国民族文化大百科事典』は高句麗の戦略をこうまとめている。まず川での渡河を阻み、それがかなわなければ城に入って野の物資を焼き払い、主要な城を守りながら小部隊で敵を攪乱し、長い補給線を断つというものである。陰暦3月、隋軍は遼河に到達した。最初に架けた三つの浮橋は長さが足りず東岸まで一丈(約3メートル)ほど届かなかったため、水に飛び込んだ隋兵は高所の高句麗軍に阻まれて多く討たれ、将軍の麦鉄杖も戦死した。二日後、橋をつなぎ足して渡った隋軍は、対岸で高句麗軍を破り遼東城を包囲した。
漢代の襄平城であった遼東城(現在の遼陽付近)は落ちなかった。煬帝はあらゆる動きを自分に報告し、降伏の申し出があれば必ず受け入れるよう将軍たちに命じていた。城が落ちそうになるたびに城内から降伏の申し出があり、隋の将軍たちが皇帝のもとへ使者を送って返答を待つあいだに、城壁は修復されてしまった。6月には煬帝自ら遼東城に赴いて将軍たちを叱責したが、ほかの高句麗の城もまた持ちこたえた。
その間、隋の将軍・来護児は江淮地方の水軍を率いて海を渡り、浿水、すなわち大同江をさかのぼった。平壌の60里手前で最初の戦いに勝った彼は、副将の諫めを退けて精鋭4万余りを率い、まっすぐ外城に攻め入った。兵士たちが略奪に浮かれているあいだに、嬰陽王の弟・高建武が率いる高句麗軍が空の寺院に潜んでいて奇襲をかけた。中国側の史料はこのとき決死隊500人が集められたと伝える。船に戻れた隋兵はわずか数千人にすぎず、艦隊は海岸まで退いてとどまった。
中級
乙支文徳と薩水の戦い
城を奪えなかった煬帝は、速戦即決の策をとった。于仲文と宇文述が率いる九軍30万5000人が遼東城を通り過ぎて平壌へ進み、水軍と合流するという計画だった。動きの遅い補給部隊を要らなくするため、兵士一人ひとりに100日分の食糧と甲冑・武器・天幕までを負わせ、その重さは3石を超えた。とても背負いきれない重さだった。食糧を捨てれば斬るという命令のもと、兵士たちは天幕の下に穀物をこっそり埋め、行程の半ばにはすでに食料が底をつきかけていた。
九軍が鴨緑江の西に集まると、高句麗の乙支文徳は偽って降伏すると称して敵陣に入り、自らの目で敵の様子を確かめた。于仲文は彼を捕らえよという密命を受けていたが、慰撫使の劉士龍に説得されて送り返した。まもなく後悔した于仲文は再び来るよう使いを送ったが、乙支文徳は鴨緑江を渡って引き上げてしまった。
乙支文徳は隋軍の飢えを逆手にとった。戦うたびに退くことを繰り返し、宇文述が「一日に七度戦って七度とも勝った」というほどだったが、結局隋軍は薩水を渡り、平壌城の30里手前の丘に陣を敷いた。しかし兵は疲れ果て、平壌城は険しく堅固で、水軍もやって来なかった。乙支文徳は于仲文に、いまも名高い詩を送った。「神策は天文を究め、妙算は地理を極む。戦って勝つ功すでに高し、願わくは足るを知りて止まらんことを。」そして退けば王を伴って皇帝の朝廷に入朝すると、再び偽りの申し出をした。
隋軍はこれを機に方陣を組んで退却し、高句麗軍は四方から攻めかけた。陰暦7月24日(グレゴリオ暦では612年8月末)、隋軍が薩水を半ば渡り終えたとき、高句麗軍がその後軍を襲った。将軍・辛世雄が戦死すると、九軍はいっせいに崩れた。生き残った者たちは、昼夜を分かたぬ一日で450里を駆け、鴨緑江にたどり着いた。遼河を渡った30万5000人のうち、遼東城まで戻れたのはわずか2700人だった。薩水は今日の北朝鮮・清川江に比定されることが多い。煬帝は翌日全軍の撤退を命じ、この遠征全体の収穫は、遼河西方にあった高句麗の小さな拠点・武厲邏を奪ったことだけだった。
中級
613年・614年——再び遼東城へ、反乱、そして和議
煬帝は敗北を認めなかった。613年、彼は再び軍を集め、「驍果」と呼ばれる志願兵を募って陰暦4月に遼河を渡り、遼東城を再攻撃した。今度は将軍たちが自らの判断で行動することを許した。隋軍は20日あまりにわたり、雲梯・衝車・撞車・地道を用いて昼夜を分かたず攻め立てた。隋軍は土を詰めた布袋100万余りを積んで城壁と同じ高さの土山を築き、八輪の楼車から城内へ矢を射かけようとした。
総攻撃を前にして、亡くなった宰相・楊素の子で黎陽での糧食輸送を任されていた楊玄感が反乱を起こし、東都・洛陽へ進軍しているという知らせが届いた。高官の子弟の多くが彼に加わった。楊玄感と親しかった兵部侍郎の斛斯政は高句麗へ逃げ込んだ。煬帝は山のような装備と陣営をそのままに、夜のうちにひそかに撤退した。高句麗の守備隊は策略を疑って一日城内にとどまったのち、後を追って遼河付近で後軍を襲い、数千人を討ち取った。楊玄感は二か月後に敗れて死んだ。
614年、煬帝は三度目の遠征を命じたが、このころにはすでに中国各地に反乱が広がっており、徴発された兵の多くが集結地にたどり着けなかった。煬帝は7月に遼河西方の懐遠鎮に至り、来護児の水軍は遼東半島の卑沙城で高句麗軍を破り、平壌へ進もうとした。高句麗もまた疲弊していた。嬰陽王は使者を送って降伏を申し出、亡命者の斛斯政を送り返した。煬帝は「大いに喜び」これを受け入れて撤兵した。都に戻った煬帝は嬰陽王に入朝を求めたが、王はついに来なかった。さらなる遠征が命じられたが、実行されることはなかった。
中級
結果——隋の滅亡と高句麗・唐戦争
隋にとってこの戦争は災厄だった。数多くの人々が兵や人夫として徴発され、『隋書』は612年の旱魃と疫病が、遠征の物資を賄っていた「山東でとりわけ激しかった」と記す。613年以降、盗賊や反乱勢力が手に負えないほど増えていった。615年には突厥が雁門で煬帝を包囲した。煬帝は南方の江都(揚州)へ移ったが、618年、宇文述の子・宇文化及が率いる親衛軍によって殺された。同じ年、唐国公・李淵が唐を建てた。学者たちは、高句麗遠征の失敗を隋滅亡の唯一の原因ではないにせよ、もっとも重要な原因の一つとみなしている。
高句麗はこの勝利によって独立と遼東を守ったが、長い戦争で疲弊していた。新たに即位した栄留王・高建武、すなわち平壌で来護児を打ち破ったあの王子は、成立まもない唐との良好な関係を求めた。622年、両国は捕虜を交換し、高句麗は中国人捕虜1万人余りを送り返した。631年、唐は役人を派遣して隋の兵士の遺骨を埋葬させ、高句麗が戦死者の遺体を積んで築いた京観(戦勝記念の塚)を取り壊した。
平和は長くは続かなかった。唐の太宗もまた高句麗の服属を求め、642年に淵蓋蘇文が栄留王を殺すと関係は崩れた。太宗は645年に高句麗へ侵攻したが安市城で阻まれ、その後の戦いを経て668年、唐と新羅が高句麗を滅ぼした。隋との戦争は、東北アジアをめぐる70年に及ぶ争いの最初の局面であったといえる。
中級
記憶——民族の英雄、帝国の破局
朝鮮では千年以上にわたってこの勝利が称えられてきた。金富軾の『三国史記』(1145年)は、高句麗の人物についてわずかしかない列伝の一つを乙支文徳に割き、勝利の功を彼に帰している。高麗時代には平壌近郊に彼を祀る祠が建てられ、朝鮮時代の1680年には粛宗が新たな祠の造営を命じた。于仲文に送った短い詩は、漢文で書かれてはいるものの、朝鮮人による現存最古の詩の一つに数えられることが多い。
国が日本に主権を奪われつつあった1908年、歴史家の申采浩は『乙支文徳伝』を著し、彼を民族精神の手本として描いた。以来、乙支文徳は朝鮮の民族史における中心的な人物であり続けている。韓国では、ソウルの乙支路、乙支武功勲章、海軍の駆逐艦・乙支文徳艦が、彼の名にちなんで名づけられている。
中国の伝統は、この戦争を異なる形で記憶している。煬帝の傲慢と失政を示す象徴としてである。唐代に編纂された『隋書』は、煬帝が「三たび車駕を遼東に馳せる」あいだ、民は「その生を安んずるあたわず」と評し、「兵は火の如し、収めざれば将に自ら焚かんとす」という古い言葉を引いている。近年では、高句麗の歴史が朝鮮史に属するのか中国史に属するのかをめぐり、韓中両国の学者のあいだで論争も起きている。国際的な学界の多くは、高句麗を朝鮮三国の一つとして扱いつつ、その領域が現在は大部分中国領となっている多民族的な空間であったことも同時に認めている。
上級
史料とその限界
この戦争についての情報は、そのほとんどすべてが中国王朝の史書に由来する。『隋書』は630年代、唐の魏徴らによって編纂された。本紀は遠征を年月日ごとに記し、来護児・周羅睺・宇文述・薛世雄といった将軍たちの列伝が細部を補う。「東夷伝」には高句麗に関する記述がある。1084年に司馬光が完成させた『資治通鑑』は、これらの資料を一つの物語に織り上げつつ、時に記録どうしの矛盾を指摘している。
高句麗が残した物語は伝わっていない。1145年に高麗で編纂された『三国史記』高句麗本紀は、この時期については中国の史書、とりわけ『資治通鑑』をほぼそのまま写し、視点だけを「我が軍」に変えている箇所が多い。598年の遼西攻撃を姜以式という将軍が率いたという話のように、朝鮮の伝承にのみ見える内容は、はるかに後代の文献に現れるものであり、初期の史料で確認することはできない。
中国側の本紀の日付は陰暦の月と干支の日で記されており、歴史暦の対照表によって換算できる。たとえば「7月壬寅」と記された薩水の戦いは、ユリウス暦では612年8月26日、遡及計算したグレゴリオ暦では8月29日にあたる。本文が誤って伝わっている箇所もある。『隋書』は遼河渡河の日をその月にはあり得ない干支で記しており、司馬光はすでに『資治通鑑考異』でこれを指摘し、現代の校訂者は4月の別の日を推測している。年さえも食い違うことがある。『隋書』高句麗伝は最初の大遠征を命令が下された大業7年(611年)に置いているが、本紀は実際の戦闘を大業8年(612年)に記している。
もっとも大きな問題は数字である。612年の戦闘員113万3800人という数字は隋側の記録に由来するが、それほどの規模の軍を記録どおりに集め、養い、動かせたのか疑問視する現代の歴史家もいる。30万5000人のうち2700人だけが生還したという有名な数字も、誇張であるか、特定の部隊のみを指している可能性があるという。それでもこれらの数字は、当時の人々がこの遠征の規模をどう認識していたかを示す証拠として、なお意味を持っている。
上級
歴史学の論点
隋はなぜ失敗したのか。史料と現代の研究が挙げる要因はいくつもある。すべての決定を皇帝に伺わせた煬帝の命令(史料自体が遼東城での失敗の原因として挙げている)、春の雪解けと秋の長雨のあいだの短い遠征期間に遠方まで大軍を養わねばならなかった補給の問題、高句麗の城砦網の堅固さ、そして于仲文と宇文述の対立に見られる指揮系統の分裂である。デイヴィッド・グラフのような軍事史家は、この遠征を中世中国における大規模戦争の発展のなかに位置づけ、指揮能力と同じくらい兵站を重視する。
この戦争の本質は何だったのか。『韓国民族文化大百科事典』の項目を執筆した盧泰敦をはじめとする韓国の歴史家たちは、これを高句麗が守ろうとした多元的な東アジア秩序と、隋が打ち立てようとした中国中心の一元的秩序との衝突として解釈する。中国の史書は、これを不遜な藩臣を君主が罰するという言葉で語る。二つの見方は単純な正反対ではない。どちらも、高句麗が隋の優位を受け入れるかどうかが核心の問題だったという点では一致している。
薩水はどこにあり、どのようにして勝利したのか。ほとんどの学者は、史料に記された距離と合致する清川江を薩水に比定するが、別の川を挙げる説もある。乙支文徳が川をせき止め、隋軍が渡るときに堰を切って流したという話が広く知られているが、これは申采浩と近代の大衆メディアによって広められたもので、初期の史料には堰や水攻めについての記述はまったくない。初期の文献は、川を半ば渡り終えた軍の後方を攻めたとだけ記している。
乙支文徳とは何者だったのか。『三国史記』も彼の家系は分からないとしている。朝鮮後期の『海東名将伝』は彼を平壌の石多山出身とするが、信頼性は低い。「乙支」が姓なのか官等のような称号なのかをめぐって議論があり、鮮卑族の姓・尉遅と同じであるとして帰化人の子孫とみる説もある。優れた漢文の力を根拠に、旧楽浪・帯方地域で新たに台頭した貴族層の出身とみる説もある。結論はまだ出ていない。
重要なポイント
- 城砦による防御
- 高句麗は大軍との野戦を避け、人と穀物を遼東城のような山城・城砦に移して持ちこたえ、小部隊で敵の補給線を攪乱して侵攻軍を疲弊させた。
- 兵站
- 故郷から遠く離れた数十万の兵を養うことが隋軍最大の弱点だった。30万5000人の別動隊は平壌にたどり着く前に食料が尽きた。
- 偽りの退却
- 乙支文徳は繰り返し負けたふりをして退き、疲れ切った隋軍を高句麗の奥深くへ引き込んだうえで、引き上げる途中に決定打を与えた。
- 中央集権的な指揮
- すべての決定を皇帝に伺うよう命じた煬帝のやり方のせいで、隋の将軍たちが返答を待つあいだに、遼東城の守備隊は城壁を修復できた。
- 朝貢秩序
- 隋は近隣の統治者が皇帝を宗主と認めることを求めた。臣下の地位を拒んだ高句麗の姿勢が、この争いの核心だった。
- 過剰な拡張と崩壊
- 巨大な土木事業に度重なる遠征の費用が重なって反乱が起こり、隋は最後の侵攻からわずか4年で崩壊した。
- 分かれる記憶
- 同じ出来事が、朝鮮では民族の英雄的な勝利として、中国の伝統では皇帝の傲慢がもたらした教訓として記憶されている。
記録
- 589年 — 隋が陳を滅ぼし中国を統一する。
- 597年 — 文帝が高句麗の平原王に不忠をとがめる国書を送る。
- 598年 — 高句麗が遼西を攻める。隋の水陸30万の軍が侵攻するが、洪水・疫病・嵐によって失敗する。
- 607年 — 煬帝が突厥の啓民可汗の幕営で高句麗の使者を見つけ、嬰陽王の入朝を求める。
- 611年 — 煬帝が遠征を命じ、涿郡に兵を集める。
- 612年 — 大侵攻。遼河渡河戦、遼東城の攻防、平壌での水軍の撃退、薩水の戦い。
- 613年 — 遼東城への二度目の攻撃。楊玄感の乱によって煬帝が撤退を余儀なくされる。
- 614年 — 三度目の遠征。高句麗が形式的に降伏し斛斯政を送り返すと、隋は撤兵する。
- 618年 — 煬帝が江都で殺され、唐王朝が建てられる。
- 631年 — 唐の官吏が高句麗の地にある隋兵の遺骨を埋葬し、京観を取り壊す。
- 645年 — 唐の太宗が高句麗に侵攻するが、安市城で阻まれる。
- 668年 — 唐と新羅が高句麗を滅ぼす。
用語集
- 高句麗
- 伝統的には紀元前37年から668年まで朝鮮半島北部と満州の広い範囲を治めた王国。朝鮮三国の一つ。
- 隋
- 589年に中国を再統一した王朝(581〜618年)。文帝と煬帝が治めた。
- 遼東
- 現在の中国遼寧省、遼河の東側の地域。またそこにあった高句麗の要衝・遼東城(現在の遼陽付近)を指すこともある。
- 薩水
- 612年に隋の別動隊が壊滅した川。今日の北朝鮮の清川江に比定されることが多い。
- 靺鞨
- 満州の諸部族(中国語で「モーホー」)。一部は高句麗とともに戦った。
- 里
- 中国の距離の単位。隋代にはおよそ0.5キロメートルにあたる。
- 干支の日
- 60日周期で繰り返される日の名。中国の史書は陰暦の月内の日をこの干支で記した。
- 京観
- 敵の遺体を積み上げて築いた戦勝記念の塚。高句麗は隋との戦争の後にこれを築き、631年に唐が取り壊した。
- 驍果
- 煬帝が613年の遠征のために募った「勇猛な」志願兵。
よくある質問
隋には本当に100万を超える兵がいたのですか?
『隋書』はそう記しています。戦闘員113万3800人、糧食を運ぶ人員はその倍だとされます。実際の数はもっと少なかったと考える歴史家も多いですが、当時としては桁外れの大軍だったという点では意見が一致しています。
乙支文徳とはどのような人物ですか?
612年に隋の別動隊を打ち破った高句麗の将軍です。戦いの前後の生涯についてはほとんど知られておらず、『三国史記』を編んだ人物さえ、彼の家系が分からないと記しています。
乙支文徳は堰を切って隋軍を水に沈めたのですか?
よく知られた近代の物語ですが、初期の史料には堰についての記述はありません。初期の文献は、川を半ば渡り終えたところで高句麗軍が隋軍の後方を襲ったとだけ記しています。
なぜ隋は遼東城を奪えなかったのですか?
城が堅固で物資も十分だったうえ、612年には隋の将軍たちが皇帝の許しなしに降伏を受け入れることを許されず、そのあいだに守備隊が城壁を修復したためです。613年には中国での反乱により、総攻撃の直前に皇帝が撤退を余儀なくされました。
高句麗は戦争に勝ったのですか?
高句麗はすべての侵攻を退け、独立を保ちました。614年には形式的に降伏し亡命者を送り返して隋が面目を保って撤兵できるようにしましたが、嬰陽王は求められた入朝をついに行いませんでした。
日付はどのくらい信頼できますか?
中国の本紀は陰暦の月と干支の日で日付を記しており、暦の対照表によって西暦に換算できます。いくつかの記録には誤りがあり、月や季節までしか分からない出来事もあります。
『三国史記』はこの戦争について中国の史書とどのような関係にありますか?
この時期について、『三国史記』高句麗本紀は『資治通鑑』や『隋書』の記述を大筋でそのまま写し、視点だけを高句麗側に書き換えています。そのため、ほとんどの出来事について独立した朝鮮側の証言とは言いがたいものです。
出典・参考文献
- Goguryeo–Sui War. Wikipedia
- Battle of Salsu. Wikipedia
- Ŭlchi Mundŏk. Wikipedia
- Noh Tae-don, 여수전쟁 (Goguryeo–Sui War). Encyclopedia of Korean Culture
- 살수대첩 (Battle of the Salsu). Encyclopedia of Korean Culture
- 을지문덕 (Eulji Mundeok). Encyclopedia of Korean Culture
- Kim Busik, 三國史記 卷20 高句麗本紀 (Samguk sagi, Goguryeo annals: Kings Yeongyang and Yeongnyu). Wikisource
- Wei Zheng et al., 隋書 卷4 煬帝紀下 (Book of Sui, Annals of Emperor Yang). Wikisource
- Wei Zheng et al., 隋書 卷81 東夷傳 (Book of Sui, Accounts of the Eastern Peoples: Goguryeo, Baekje, Silla, Malgal). Wikisource
- David A. Graff, Medieval Chinese Warfare, 300–900. Routledge, 2002
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。