戦争

第二次晋州城の戦い(1593年)

제2차 진주성 전투 第二次晉州城戰鬪 (also the siege of the gyesa year, 1593); Japanese 第二次晋州城攻防戦

1593年

初出 2026年10月12日 · 最終更新 2026年10月12日 · 編集 テラ・スクリプタ

AI作成 · AI事実確認

Claudeが執筆し、Codex(gpt-6.1-sol)が公開資料と照合して事実・年代・引用と英語版・韓国語版を独立に確認しました。人間の専門家による査読は受けていません。最終AI確認:2026-10-12。見つかって修正した問題 15 件。

ひとことで

1593年7月(旧暦6月)、明と日本の使節が和平交渉を進めているさなか、1592年の敗北の報復のために送られた日本軍が晋州を9日間包囲し、雨で城壁の一部が崩れた後の7月27日に城を落として、守備兵と住民を区別なく虐殺した。しかしその後も、日本軍は全羅道を占領しなかった。

第二次晋州城の戦い(1593年)
画像: 月岡芳年画 · Public domain · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

  • やさしい
  • 中級
  • 上級

子ども向け

1592年、石のかべに囲まれた晋州(チンジュ)という町で、朝鮮の小さな軍が、ずっと大きな日本軍を打ち負かしました。日本のリーダーの豊臣秀吉(とよとみひでよし)はかんかんにおこりました。次の年、家来たちが中国と仲直りの話し合いをしている最中だったのに、秀吉は将軍たちに、もう一度晋州を取ってこいと命じました。

今度の日本軍はとてつもなく大きな軍でした。朝鮮や中国の大将の多くは、町は守りきれないから人々は逃げたほうがいいと言いました。でも、金千鎰(キム・チョニル)、黄進(ファン・ジン)、崔慶会(チェ・ギョンフェ)という何人かのリーダーは、残ることにしました。晋州は、西にある米どころの全羅道(チョルラド)への入口だし、町を取ったら引きあげるという日本の約束も信じられない、と考えたのです。

真夏の9日間、守る人たちは城のかべの上から戦いました。日本軍は土を盛って小山を作り、上から町の中をうてるようにしました。屋根のついた車を城のかべまでおしてきて、石をほりくずそうともしました。町の人たちも、男の人も女の人も、土や石を運んで手伝いました。そのうち大雨がふって、城のかべは水をたっぷりすいこみました。いちばん勇かんな大将だった黄進が戦いで命を落とし、9日目に城のかべの一部がくずれおちました。

日本軍はどっと町に入ってきました。金千鎰と崔慶会は、つかまるよりはと、南江(ナムガン)という川に身を投げました。それから兵士たちは、町にいたとてもたくさんの人を、兵士も普通の人も区別なく殺しました。朝鮮の記録によれば、町がとりかこまれていたあいだと、町が落ちたときとその後に、川でおぼれた多くの人もふくめて、ぜんぶでおよそ6万人がなくなりました。戦争全体の中でも、いちばん悲しい日の一つでした。

晋州の人たちは今も、論介(ノンゲ)という若い女の人のことを覚えています。お話では、論介は日本の武将をしっかりとだきかかえ、いっしょに川へとびこんだといいます。この話が初めて書きとめられたのはおよそ30年後なので、細かいところまで全部本当かはわかりません。それでも、この戦争について語りつがれる、いちばん有名な話の一つになりました。

ひと目でわかる

何が
文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の戦闘が小康状態にあった時期に、1592年に晋州で喫した敗北の報復として命じられた、日本軍による晋州城の包囲と攻略
いつ
朝鮮の暦で1593年旧暦6月21日~29日、西暦(グレゴリオ暦)では1593年7月19日~27日(本格的な戦闘は7月20日から。英語版ウィキペディアは7月20日~27日とする)
どこで
南江のほとりの晋州城。慶尚右道の筆頭の町で、現在の慶尚南道晋州
守備側
金千鎰(倡義使、義兵を統率する役職)、崔慶会(慶尚右兵使)、黄進(忠清兵使)、高従厚、張潤、李宗仁、金俊民、晋州牧使の徐礼元
攻撃側
日本側の記述や現代の記述に名が挙がる日本の指揮官は、包囲部隊の宇喜多秀家、加藤清正、黒田長政、島津義弘など。毛利秀元、小早川隆景、小西行長の軍勢は支援の役割を担った
兵力
日本:作戦のために約9万~10万が動員された。ある復元によれば、実際に城を囲んだのは約4万(『韓国民族文化大百科事典』)または4万2491人(日本語版ウィキペディアが引く島津家の名簿)だが、全軍が晋州にいたとする記述もある。守備側:戦闘員は「数千」。避難民を含めると城内には6万~7万人がいた
結果
晋州は7月27日に陥落し、指揮官のほぼ全員が死に、町は略奪された。朝鮮の記録は死者を約6万あるいはそれ以上とし、日本の記録は首の数を数えている。日本軍は求礼方面へ襲撃をかけたが、全羅道を占領しなかった
記憶
彰烈祠(1607年に王が扁額を下賜)。論介をしのぶ義巌と義妓祠。1593年の死者は、晋州城で1592年の勝利と並んで記念されている

地図の上で

同じころ、世界の別の場所では

このライブラリの記事のうち、ほぼ同じ時期に世界の遠く離れた場所で起きたことです。

やさしい

第二次晋州城の戦いとは何か

第二次晋州城の戦いは、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の2年目にあたる1593年の夏、前年の秋に守備側が日本軍を退けたのと同じ、南江のほとりの城郭都市で戦われた。そのころには戦争の様相は変わっていた。明と朝鮮の軍は2月に平壌を奪回し、日本軍は5月に漢城(ソウル)を去って南岸沿いの城塞化された陣地へ退いており、明と日本の使節は和平交渉を進めていた。ところがその交渉のさなかに、日本軍は朝鮮にいた軍の大部分を集めて晋州へ進軍したのである。

旧暦6月21日から29日(1593年7月19日~27日)まで、守備兵の何倍もの日本軍が町を包囲した。城内には、金千鎰、崔慶会、黄進らの指揮官のもとに数千の兵と義勇兵がおり、さらに数万の住民と避難民がいた。戦闘は9日間に及び、終盤には大雨が防戦を妨げた。日本軍は29日(7月27日)に城内へ突入した。

陥落の後には、この戦争で最悪の部類の虐殺が続いた。朝鮮の記録は、兵士と民間人を合わせ、溺死した者を含めて、死者の総数を約6万あるいはそれ以上としている。指揮官の大半が死に、そのうち何人かは南江に身を投げた。それでも日本軍は全羅道の占領には進まなかった。西方へ襲撃をかけた後、沿岸へ戻ったのである。この包囲戦は韓国では悲劇として、また忠義の象徴として記憶されているが、今なお難しい問いを投げかけている。そもそもこの町を守るべきだったのか、という問いである。

[12][14][3][9][27]

やさしい

なぜ再び晋州なのか:和平交渉のさなかの報復

1592年旧暦10月の第一次晋州城の戦いは、陸上での日本軍の最悪の敗北の一つだった。『宣祖修正実録』によれば、明の交渉役・沈惟敬と、九州の名護屋の本営で秀吉に会った明の使節2人が戻ってくると、彼らは、秀吉が軍を引き揚げる前に兵力を合わせて晋州を滅ぼし、「前年の敗北に報いる」決意を固めていると報告した。沈惟敬はまた朝鮮の都元帥に宛てて、秀吉が将軍たちに「汝らもまた晋州を攻め、その城と堀を破り、旧怨を晴らせ」と命じたと書き送った。沈惟敬は日本側のほかの不満も挙げていた。晋州で多くの兵が殺されたこと、海で船を失ったこと、朝鮮軍がたびたび日本軍の食糧徴発隊を殺したことである。

報復だけが動機だったわけではない。『韓国民族文化大百科事典』は、日本軍は和平交渉で有利な立場を得ることも狙っていたとし、韓国語版ウィキペディアはこの攻撃を交渉のための武力の誇示と説明している。このころ秀吉は明の使節に示す講和条件をまとめており、その中には朝鮮南部の4道を日本に割譲することが含まれていた。日本語版ウィキペディアは、出典を示さずに、日本軍は南部の支配を既成事実にしようとしたのではないかと述べている。晋州はまた慶尚道西部の主要な拠点で、全羅道へ向かう道の上にあった。全羅道は、日本軍が1592年に首府の全州と主要な穀倉地帯を押さえられなかった道である。

つまりこの攻撃は、戦争が公式には終息に向かっていた時期に行われた。日本軍は明との合意に基づいて旧暦4月18日(5月18日)に漢城を去っており、『韓国民族文化大百科事典』は、明が交渉を理由に戦闘を避けていたと指摘する。侵略者を追い出すまで戦い続けたい朝鮮は、交渉からほとんど締め出されていた。外交は戦闘を止めてはいなかった。

[1][2][12][14][20][21][22][27]

やさしい

残るか去るか:晋州を守る決断

南部の連合軍は分散していた。『宣祖実録』によれば、明の将軍・劉綎は大邱に、駱尚志は南原に、王必迪は尚州におり、沈惟敬は小西行長の陣営で交渉にあたっていた。朝鮮の都元帥・金命元と全羅道観察使の権慄は王命により宜寧に至ったが、『韓国民族文化大百科事典』の言葉によれば、敵の勢いの前に退いた。

警告は双方から届いた。沈惟敬は、日本側の交渉を担っていた小西行長からの伝言を伝えた。晋州へ向かう軍は巨大であり(小西は30万と言った)、晋州の人々はその進路から退くべきだ、日本軍が町を空と見れば東へ引き揚げるだろう、というものである。沈惟敬自身も朝鮮の指揮官たちに、城を空にしてしばらく避難するほかないと語った。慶尚右兵使の崔慶会は、この警告を自身の報告に添えて朝廷に伝えた。沈惟敬に同行していた通訳は、小西が、秀吉に攻撃を強く求めた加藤清正を懸命に止めようとしたと主張していると述べた。

朝鮮の指揮官の何人かは、城は守りきれないと判断した。全羅兵使の宣居怡と洪季男は、敵は多く味方は少ないので、退いて内陸を守るほうがよいと主張し、城を離れて雲峰に陣を張った。慶尚道で最も名高い義兵将・郭再祐は、入城の命令を拒んだ。『宣祖修正実録』によれば、彼は「周囲わずか三里の孤城で、どうしてこれほどの軍勢を防げようか」と問い、「城に入るより、外から助けたい」と述べた。さらに、歴戦の兵を捨て去ることは忍びないと付け加えた。

残ることを選んだ者もいた。『韓国民族文化大百科事典』によれば、全羅道羅州出身の元官僚で倡義使(義兵を統率する役職)の称号を持つ金千鎰は、旧暦6月14日(7月12日)に約300人の義勇兵を率いて晋州に入り、撤退の提案を論破した。忠清兵使の黄進は700人、崔慶会は500人を率いて来た。1592年に父の高敬命を殺された高従厚は400人の「復讐」の義勇兵を率い、ほかの者たちも牧使の徐礼元や将校の李宗仁、金俊民に合流した。韓国側の記述では、彼らの理由づけは、晋州は全羅道への入口であり、晋州を取ったら去るという日本の約束は信用できない、というものだった。黄進は、晋州は彼の責任ではなく外から戦えばよいと言われると、金千鎰と誓いを立てたので破ることはできないと答えた。金千鎰と崔慶会が共同の指揮官となり、金千鎰が義勇兵を、崔慶会が官軍を率い、黄進は城壁の巡回を任された。町の穀物倉が満ちているのを見て、彼らは持ちこたえられると判断した。

[9][6][2][4][12][15][16][20][27]

やさしい

1593年7月の9日間

旧暦6月21日(7月19日)、町の北東の丘に日本の騎兵が現れた。22日(7月20日)には本隊が到着して二手に分かれて展開し、最初の衝突で守備側は日本兵約30人を射て撃退した。攻撃側は日暮れに再び攻め、夜通し攻撃を続けた。守備側は東からの攻撃だけを予想していた。南は南江と矗石の断崖に守られ、西と北は水をたたえた堀が守っていたからである。しかし日本軍は堀の水を抜き、土で埋めて道を作った。また周辺の郡県に兵を置いて救援軍を阻み、のちに脱出した朝鮮の将校の報告によれば、包囲の陣は町の周囲約5里にわたって続いていた。

朝鮮の記録は、来る日も来る日も繰り返される攻撃を描いている。しばしば昼に3回、夜に4回であった。旧暦6月25日(7月23日)、日本軍は東門の外に土の山を盛り、その上に町の中へ射撃するための小屋を設けた。黄進は戦袍と笠を脱いでみずから石や土を運び、町の人々は男も女も一夜のうちに対抗する土の山を築き、そこから大型の玄字銃筒で敵の陣地を打ち砕いた。26日(7月24日)、攻撃側は生皮で覆った木の箱をかぶって城壁に迫って掘り崩そうとし、木の櫓から火矢を射て城内のわらぶきの家々に火をつけた。大雨で守備側の弓の膠がゆるみ、兵は疲れ果てていった。一方、はるかに数の多い日本軍は新手の兵を入れ替えることができた。

旧暦6月27日(7月25日)、日本軍は東門と西門の外に五つの土の山を築き、竹の台の上から撃ち下ろして、『宣祖実録』によれば城内の約300人を殺した。また四輪の車に載せた大きな木の箱を城壁まで押し出し、その中に鉄の鎧を着た兵を潜ませて、鉄の棒で城壁を崩そうとした。守備兵で最も力の強い李宗仁がそのうち5人を討ち取り、守備側は油に浸したたいまつで車を焼いた。28日(7月26日)、黄進が城壁の前の死体を見下ろし、今日は敵が千人は倒れたに違いないと語ったとき、下から撃たれた弾丸が木の盾に当たって跳ね、彼の額に命中して彼は死んだ。彼の死は守備兵を動揺させた。

旧暦6月29日(7月27日)、黄進の後任に任じられた牧使の徐礼元はうろたえ、張潤に交代させられたが、張潤もまもなく撃たれて死んだ。昼過ぎ、雨でもろくなった東の城壁の一部が崩れた。日本軍は屋根付きの車の陰に隠れて前進した。日本側の記述はこれを「亀甲車」と呼び、『韓国民族文化大百科事典』は牛の皮を何枚も重ねて覆ったものと説明している。李宗仁とその兵は弓を置いて槍と刀で第一波を押し返したが、攻撃側は続いて金千鎰の義勇兵が守る北西側から突入し、防衛は崩れた。

[9][8][3][12][21][27]

中級

落城と虐殺

日本軍がなだれ込むと、多くの守備兵は川を見下ろす矗石楼へ退いた。『韓国民族文化大百科事典』によれば、金千鎰、高従厚、崔慶会は王のいる北の方角に向かって拝礼し、南江に身を投げた。『宣祖修正実録』はさらに、金千鎰が息子の金象乾とともに死に、羅州でともに義兵を挙げた梁山璹も一緒に死んだこと、そして李宗仁が川まで戦い進んだ後、日本兵2人を両脇に抱えて「金海府使・李宗仁、ここに死す」と叫んで飛び込んだことを記す。金俊民は、最後に街中でただ一人馬上で戦っている姿を見られたが、どこで死んだのかはだれも知らなかった。牧使の徐礼元も殺された。

そして殺戮が始まった。『宣祖修正実録』によれば、町が落ちると日本軍は「大いに殺戮」し、町の男女は川へ殺到して身を投げ、ついには「浮かぶ屍が川を埋めた」。日本軍は城壁を崩し、家々を焼いた。のちに慶尚道観察使の命で行われた検分では、城内に千を超える遺体があり、矗石楼から南江の北岸まで死体が積み重なり、はるか下流まで遺体が浮かんでいた。朝鮮の記録は、戦闘、虐殺、川での溺死を合わせた死者の総数を約6万あるいはそれ以上としている。正確な数は決してわからないが、守備が崩れた後に町の民間人が大規模に虐殺されたことに疑いはない。

日本軍も大きな代償を払った。『宣祖修正実録』は、9日間に昼夜大小100回を超える戦闘があり、敵の死者もまた多かったとする。英語版ウィキペディアは歴史家ケネス・スウォープを引いて日本軍の死傷者は1万3000人を超えるとするが、信頼できる集計はない。『韓国民族文化大百科事典』は、日本軍の損害があまりに大きかったため、それ以上進めずに撤退したと判断している。

知らせは遅れて伝わり、援軍はついに来なかった。明の指揮官・李如松は南部の将軍たちに救援に進むよう命じていたが、『宣祖修正実録』によれば、彼らは敵の勢いを恐れてあえて進まなかった。陥落から2週間あまりたった旧暦7月15日(8月11日)になっても、宣祖は明の指揮官たちに救援を求める新たな要請を送るよう促しており、陥落の知らせが朝廷に届いたのはその翌日だった。その後、宣祖は陥落の責任を明の交渉役・沈惟敬に帰した。『宣祖修正実録』はまた、李如松が晋州の陥落を隠したまま、晋州救援のために南下したと北京に報告したこと、そして和平を進めていた明の経略・宋応昌が朝鮮の急報を阻んだことを非難している。

[12][15][16][3][5][9][7][10][19][27]

中級

軍勢はどれほどだったのか:動員兵力と包囲兵力

日本軍の数は大きく異なるが、それは数えている対象が異なるからである。この作戦に動員された全兵力は、通常約9万~10万とされる。英語版ウィキペディアは歴史家スティーヴン・ターンブルに従って9万とし、戦争全体を通じて単一の作戦のための日本軍の動員として最大だったとする。韓国語版ウィキペディアは合計9万の五つの部隊を挙げ、『韓国民族文化大百科事典』は「金千鎰」の項目で「10万近く」、「彰烈祠」の項目で「10万を超える」としている。

いくつかの史料は、これらの兵のすべてが城を囲んだわけではないことを示唆している。『韓国民族文化大百科事典』の「晋州城」の項目は、約4万の日本軍が攻撃したとする。日本語版ウィキペディアは、島津家の文書に残る名簿を引いて、包囲部隊を4万2491人としている。黒田長政、加藤清正、島津義弘、鍋島直茂らの第一隊と、宇喜多秀家、石田三成の第三隊である。毛利秀元の軍勢と、小早川隆景・立花宗茂の軍勢は築城に、小西行長、細川忠興、宗義智の軍勢は釜山からの輸送と守備に割り当てられた。日本語版ウィキペディアに挙がるこれらすべての部隊の数を合計すると約9万1000になる。この復元によれば、約9万1000人が作戦に割り当てられ、約4万2500人が城を囲んだことになる。すべての記述が一致するわけではない。英語版ウィキペディアはターンブルに従って、9万の全軍が晋州に到着したとし、小西を2万6000の兵とともに城の西側に置いている。したがって約4万~4万3000という包囲兵力の数字は推計である。ただし、『韓国民族文化大百科事典』と島津家の名簿の双方に支えられた推計である。

当時の朝鮮の人々はさらに大きな数を聞いていた。『宣祖実録』は、加藤清正が連合軍を30万と称したと記しており、これは小西が沈惟敬に告げた数と同じだった。一方、7万あるいは8万とする者もいた。こうした主張そのものが、守備側への圧力の一部だった。

守備側ははるかに少なかった。『宣祖修正実録』は町に入った部隊(金千鎰の300人、黄進の700人、崔慶会の500人、高従厚の400人、張潤の300人、ほか小部隊)を挙げ、戦闘員はわずか「数千」だったとする。現代の数字は、兵4000~6000人(英語版ウィキペディアが引くターンブル)から、兵6000人と義勇兵2800人(韓国語版ウィキペディア)、あるいは約7000人(日本語版ウィキペディア)まで幅がある。『韓国民族文化大百科事典』によれば、避難民を数えに入れると城内には6万~7万人がいた。ある生存者は朝鮮の将校たちに、様子を見に来ていた明兵20人ほどが、敵の規模を見て町を去ったと語った。

[19][20][15][18][13][21][9][6][2][8][12]

中級

落城の後:全羅道方面への襲撃と沿岸への帰還

落城の後、日本軍の部隊は確かに西へ動いた。旧暦7月4日(7月31日)、全羅道求礼の境にある石柱を守る伏兵将・王景祚は、「2万余の騎兵」が晋州から岳陽倉へまっすぐ来てこれを焼き、彼の陣地に迫っていると報告した。彼の兵はこの知らせを聞いて逃げ散った。全羅道観察使の李廷馣はこの報告を朝廷に伝え、道は「朝夕のうちに」崩れるかもしれないと警告して、精兵を求めた。同じ報告で彼は、700~800隻の日本の船が熊川に集まって巨済へ向かい、三道の水軍が閑山島と見乃梁でこれを阻む決意をしていると報告した。全羅道への脅威は、陸と海から同時に迫っているように見えたのである。

『宣祖実録』によれば、日本軍は落城後いくつかの部隊に分かれた。一隊は丹城と山陰(現在の山清)を経て智異山に入った。別の一隊は西へ進んでこれに合流し、求礼、光陽、南原、順天に広がって村々を略奪した。ほかの部隊は泗川・固城一帯や三嘉・宜寧一帯の家々を焼いてから咸安と昌原に陣を張り、一隊は捕虜と略奪品を携えて金海へ戻った。『宣祖修正実録』は、これらが前年には敵を免れていた地域だったと記す。明の将軍・駱尚志は南原の守りを固めて鉄砲兵300人を前に送り、朝鮮の指揮官・洪季男は日本軍の先鋒と長い距離にわたって戦いながら求礼・光陽まで下り、ついに日本軍は退いた。

日本語版ウィキペディアは、日本軍が旧暦7月5日に求礼、同7日に谷城に達したが、南原の守りが堅いのを見て同9日に晋州の方へ引き返したとする。日本軍は全羅道の奥深くへの攻勢を推し進めず、主力は南岸沿いの陣地へ戻った。そこではすでに毛利、小早川らの部隊が恒久的な城(倭城)を築き始めていた。なぜ彼らが止まったのか(晋州での大きな損害、南原の守り、和平交渉の論理、それとも最初から示威以上のことを狙っていなかった計画なのか)は、後で論じる。

[11][9][5][21][12][27]

中級

論介:伝承と記録

第二次晋州城の戦いで最もよく知られているのは論介の話である。伝承によれば、落城後、日本の指揮官たちが矗石楼で祝宴を開いていたとき、晋州の妓生(地方の役所に属する女性芸能者)だった論介が、日本の武将を下の川の中の岩へ誘い出し、抱きついて彼とともに南江へ身を投げた。その岩は現在、義巌(ウィアム、「義の岩」)と呼ばれている。

このうちどこまでが記録なのか。『韓国民族文化大百科事典』は論介を晋州の官妓とし、彼女の行いは初め口伝えで広まり、包囲からおよそ一世代後の1620年ごろ、柳夢寅が逸話集『於于野談』に収めたことで初めて書き記されるようになったとする。ほぼ同じころ、晋州の人々は岩に「義巖」の文字を刻んだ。同事典はさらに、官妓を顕彰することに一部の編纂者が反対したため、彼女の行いは戦争中の忠臣・孝子・烈女を描いた公式の絵入りの記録『東国新続三綱行実図』から外されたと付け加えている。

公式に認められたのは18世紀になってからである。1721年、晋州の人々の願いを受けて慶尚右兵使の崔鎮漢が彼女の顕彰を朝廷に求め、記念碑・義巌事蹟碑が建てられ、子孫には賦役の免除が与えられた。1739年には岩の近くに祠堂・義妓祠(「義の妓生の祠」)が建てられ、1868年からは、約300人の女性芸能者が参加する3日間の祭祀・義巌別祭が毎年行われたが、日本の干渉によって途絶えた。

現在論介について語られる細部の多くは、後から付け加えられたものである。19世紀以降、書き手たちは、彼女が全羅道の長水で生まれた、姓は朱だった、両班の家の出だった、崔慶会あるいは黄進の恋人だった、などと主張してきた。『韓国民族文化大百科事典』は、文献上の根拠がなく、彼女の出自を過度に飾り立てることには注意が必要だと警告している。後の記述はまた、その日本の武将を毛谷村六助としているが、本稿が用いた史料からはこの同定を確かめることはできない。言えるのは、自分の命と引き換えに敵の武将を殺した晋州の女性の話が、包囲から約30年のうちに書き記されていたこと、そしてそれがこの戦争の最も力強い記憶の一つになったということである。

[17][23][20][19]

中級

同じころの世界(1593年7月~8月)

この包囲戦は、日本での和平交渉が転機を迎えていた時期に行われた。朝鮮にいた明軍の司令部から送られた明の使節は、旧暦5月に九州の名護屋で秀吉と会見した。日本語版ウィキペディアによれば、秀吉は彼らに七つの条件を示し、その中には明の皇女を日本の天皇の后とすること、勘合貿易の復活、朝鮮南部の4道の日本への割譲が含まれていた。同記事の年表は、秀吉がこの条件を示したのを晋州陥落の前日の旧暦6月28日としている。その後、小西行長の家臣・内藤如安が日本の使者として北京へ向けて送られたが、明の都に着いたのは日本の暦で1594年12月になってからだった。

秀吉自身の生活もこの夏に変わった。1593年8月28日、側室の淀殿が息子の秀頼を産んだ。この誕生は後継者問題を生み、それは1595年、甥で後継者に指名されていた秀次が自害に追い込まれることで決着した。

遠く離れ、朝鮮とは何の関係もないところでは、フランス国王アンリ4世が、晋州陥落の2日前の1593年7月25日、正式にプロテスタントの信仰を捨ててカトリックとなり、フランス王位を確かなものにした。「パリはミサに値する」という言葉は彼のものとされるが、その帰属は疑わしい。

[22][25][26]

中級

包囲戦はどう記憶されているか

1593年の死者は戦後まもなく顕彰された。官僚と町の人々が協力して晋州に祠堂を建て、それは1607年に彰烈祠として王から扁額を賜り、1871年の祠堂・書院の撤廃も免れた。『韓国民族文化大百科事典』によれば、その正殿には、1592年の守将・金時敏を筆頭に、金千鎰、黄進、崔慶会、張潤、高従厚、柳復立の7人がまつられ、李宗仁、金象乾、梁山璹、金俊民ら20人を超える人々が両側の列にまつられている。金千鎰は羅州などの祠堂にも、崔慶会は綾州(現在の和順)にもまつられている。

矗石楼のそばにはほかの記念物も立っている。韓国語版ウィキペディアによれば、忠義の死者を顕彰する碑・矗石旌忠壇碑が1686年に建てられ、1987年には1592年の勝利と1593年の義に殉じた死者のための壇が楼の向かいに築かれた。義巌の岩と義妓祠は論介の記憶を伝えている。1970年代に復元された晋州城は、今日、1592年の勝利と1593年の喪失がともに記憶される史跡となっている。

この包囲戦がどう記憶されてきたかは、後世の価値観についても教えてくれる。身を投げた指揮官たちは王への忠義の模範としてたたえられた。命を落とした数万の普通の人々は、記録の中ではほとんど一つの推計の数字として現れるだけである。そして最も有名な個人の物語は、一世代後に初めて書き記され、18世紀になってようやく公式に認められた女性の物語なのである。

[18][15][16][17][13][20]

上級

死者数とその他の数字:記録は何を数えているのか

死者数は、この戦争の数字がさまざまに異なるものを測っていることを示している。最も早い詳細な朝鮮側の記述は、『宣祖実録』の1593年旧暦7月16日(8月12日)の条に収められており、「城中の死者は6万余人」とし、注で8万とする者も3万とする者もいたと付け加えている。数十年後に編纂された『宣祖修正実録』は「6、7万ばかり」とする。これは城内にいたとされる住民と避難民の数と同じであり、同書は脱出した戦闘員はわずか2、3人だったと主張している。これらは、川で溺れた者を含め、兵士と民間人を合わせて死んだ全員についての推計である。

同じ条には、数えようとした試みも記されている。慶尚道観察使の金玏が送った察訪(駅の役人)の李瀞は、城内に千を超える遺体を見つけ、矗石楼から川の北岸まで死体が積み重なり、はるか下流まで遺体が浮かんでいたと報告した。こうした証拠は殺戮の規模を示しはするが、総数を出すことはできなかった。

日本側の数字は別の種類のものである。英語版ウィキペディアはターンブルを引いて、日本側の記述によれば勝利の後に2万の首が日本へ送られたとする。これは軍功の証拠として取られた戦利品の数であって、死者の調査ではない。韓国語版ウィキペディアは、後世の日本の軍記『陰徳太平記』を引いて死者3万とする。これらの数字は互いに一致させることはできないが、いずれも途方もない規模の殺戮を伝えている。日本軍の損害も同様に不確かである。英語版ウィキペディアが(スウォープを引いて)挙げる1万3000人を超える死傷者と、日本語版ウィキペディアが引くはるかに多い現代の推計は、異なる方法に基づいている。

ほかの細部も異なる。『宣祖実録』は、黄進が旧暦6月28日に銃弾で死んだとするが、町が落ちるまで生きていたという報告にも触れている。英語版ウィキペディアはターンブルに従って、彼が胸に2発の銃弾を受けても生き延び、最後まで戦い続けたとする。英語の記述はまた、日本軍の攻城櫓や、捕らえた農民の首をはねるという脅しについて述べているが、これらは朝鮮の記録にはこの形では現れない。参加者についての記述も異なる。沈惟敬に同行していた通訳は、宇喜多秀家と小西は進軍に加わらなかったと述べたが、日本側の史料は宇喜多を総大将としている。日付にも換算が必要である。英語版ウィキペディアは本格的な戦闘の初日から数えて7月20日~27日とするが、本稿は朝鮮の旧暦の日付(6月21日~29日)を韓国天文研究院の換算表で換算した7月19日~27日に従っている。

最後に、朝鮮側の記述は中立的ではない。報告は朝廷に向けて書いた官僚や兵士によるものであり、17世紀半ばに編纂された『宣祖修正実録』は、金千鎰を長々とたたえる一方で牧使の徐礼元を厳しく非難し、徐礼元の兄が彼の汚名をすすごうとしたことにも触れている。この史料の個人に対する評価は、同書のほかの称賛や非難と同じく慎重に読むべきである。

[9][3][19][20][21][24][27]

上級

論争:無駄な犠牲か、罠か、意味のある抵抗か

晋州は守られるべきだったのか。同時代の人々の意見は分かれた。郭再祐、宣居怡、洪季男は城を守りきれないと判断して外にとどまり、沈惟敬は退避を促した。韓国語版ウィキペディアによれば、戦後、柳成龍は金千鎰を志は高いが能力に欠けると批判し、安邦俊は彼を擁護した。この論争には党派的な色合いがあった。金千鎰と安邦俊は西人に属し、柳成龍は南人を率いていたからである。『宣祖修正実録』は、撤退の提案を退けたことについて「世は金千鎰を責める」と記しつつ、彼を擁護している。金千鎰とその部将たちがいなければ、臆病な徐礼元は一日二日も持ちこたえられなかっただろうし、城内の6万~7万の人々はどのみち死に、町の穀物と武器は敵の手に落ちただろう、というのである。

晋州を放棄せよという助言は本心からのものだったのか。『宣祖修正実録』の編纂者たちは罠を疑った。彼らの論じるところでは、小西は加藤と対立しているふりをし、朝鮮が晋州を決して手放さないと知りながら退避を勧めて、朝廷が最良の指揮官たちを町に送り込み、ともに死なせるように仕向けたのだという。彼らは日本側の発言を引いており、そのうちの一つは、のちに日本で捕虜となった朝鮮の学者・姜沆が伝えた「朝鮮の勇士はみな晋州で死んだので、もはやわれわれを煩わす者はいない」という言葉である。これは後世の朝鮮側の解釈であって、日本側の意図の証拠ではない。より単純な読み方として(これは本稿の解釈で、実録のものではない)、和平交渉を主導していた小西には、血なまぐさい包囲戦が交渉を損なうことを恐れる理由があった、と考えることもできる。

包囲戦は軍事的に意味があったのか。韓国語版ウィキペディアは、全羅道の義兵が一挙に指導者を失ったことを指摘している。一方で、日本軍は全羅道を取らなかった。求礼と南原の方面へ襲撃をかけた後、沿岸へ戻ったのである。『韓国民族文化大百科事典』はこれを日本軍の大きな損害によるものとし、英語版ウィキペディアが引くターンブルは、晋州が取られたのは象徴的な理由のためにすぎず、そのような目的のために多くの兵を失ったのは無駄だったと判断している。日本語版ウィキペディアは、この攻撃を講和の前に朝鮮南部を確保する取り組みの一環として描いている。これらの読み方のどれも、この包囲戦を都への新たな進軍の始まりとは見ていない。

この包囲戦は同盟内部の緊張もあらわにした。晋州の救援に来た明軍はなく、宣祖は陥落を沈惟敬の外交のせいにした。朝鮮にとって晋州は、自らが発言権を持たない和平の過程の犠牲にされたことの象徴となった。一方、自らも補給の問題を抱えていた明の司令部にとって、戦闘を避けることは、費用のかさむ戦争を終わらせると期待した交渉を守ることだった。この対比は、史料が描く立場を本稿がまとめたものであり、どちらが正しかったかという判定ではない。

[20][2][3][10][12][14][19][21]

重要なポイント

和平交渉中の戦争
包囲は、明と日本の使節が交渉しているさなかに命じられた。交渉から締め出されていた朝鮮は、交渉で優位に立つ目的もあって戦われた戦闘の代償を負った。
1592年の報復
朝鮮の記録は、秀吉が1592年の晋州での敗北に報いようとしたと伝える。『韓国民族文化大百科事典』は、交渉で日本の立場を強める狙いにも触れている。
動員兵力と包囲兵力
作戦には約9万~10万の日本軍が動員された。『韓国民族文化大百科事典』と日本語版ウィキペディアが引く島津家の名簿によれば、そのうち城を囲んだのは約4万~4万3000にすぎず、残りは築城や補給線の守備にあたったが、全軍が晋州にいたとする記述もある。
全羅道への入口
守備側が残ったのは、晋州を全羅道への入口とみなし、晋州を取ったら去るという日本の約束を信じなかったからである。
さまざまな種類の死者数
死んだ全員についての朝鮮側の推計(約6万あるいはそれ以上)、取った首についての日本側の集計(2万)、後世の軍記の数字(3万)は、異なるものを測っており、単純には比べられない。
伝承と記録
論介の話は包囲から約一世代後に初めて書き記され、18世紀になってようやく公式に認められた。彼女の生涯についての細部の多くは後からの付け加えである。
突破なき落城
晋州を取っても全羅道は開かれなかった。日本軍は求礼と南原の方面へ襲撃をかけた後、南岸の陣地へ戻った。

記録

  1. 1592年 — 旧暦10月5日~10日(11月8日~13日):第一次晋州城の戦い。日本軍は撤退する。守将の金時敏は包囲戦の間に負傷し、のちにその傷がもとで死去する。
  2. 1593年 — 2月:明・朝鮮の軍が平壌を奪回する。旧暦4月18日(5月18日):和平交渉が続くなか、日本軍が漢城を去り、南岸へ退く。
  3. 1593年 — 旧暦5月:明の使節が名護屋で秀吉と会見する。朝鮮の記録は、晋州での敗北に報いたいという秀吉の意向を伝える。
  4. 1593年 — 旧暦6月14日(7月12日):金千鎰が約300人の義勇兵を率いて晋州に入る。黄進、崔慶会らが加わる一方、郭再祐らは城外にとどまる。
  5. 1593年 — 旧暦6月21日~22日(7月19日~20日):日本軍が晋州を包囲し、本格的な戦闘が始まる。
  6. 1593年 — 旧暦6月28日(7月26日):黄進が銃弾に当たって戦死する。
  7. 1593年 — 旧暦6月29日(7月27日):雨を吸った東の城壁が崩れて城が陥落する。金千鎰と崔慶会は南江に身を投げ、町の兵士と民間人が虐殺される。
  8. 1593年 — 旧暦7月4日(7月31日):王景祚の急報が、晋州から来た日本軍がすでに岳陽倉を焼き、全羅道の求礼に迫っていると伝える。日本軍はのちに沿岸へ戻る。
  9. 1593年 — 旧暦7月16日(8月12日):晋州陥落の報告が宣祖の朝廷に届く。
  10. 1607年 — 晋州の死者をまつる祠堂が、彰烈祠として王から扁額を賜る。
  11. 1620年頃 — 柳夢寅が『於于野談』に論介の話を記す。岩に「義巌」の文字が刻まれる。
  12. 1721年 — 晋州の人々の願いを受けて、論介の顕彰が朝廷に求められる。記念碑が建てられ、子孫に免除が与えられる。
  13. 1739年 — 論介をまつる義妓祠が晋州に建てられる。

用語集

倡義使(チャンウィサ)
「義兵を統率する役職」。1592年に朝廷が義勇兵の指導者として金千鎰に与えた称号。
兵使(ピョンサ)
道の陸軍の指揮官。たとえば慶尚右道の崔慶会、忠清道の黄進。
義兵(ウィビョン)
地方の学者、元官僚、僧侶、平民が侵略者と戦うために正規軍の外で組織した義勇の部隊。
慶尚右道(キョンサンウド)
都から見た慶尚道の西半分。晋州がその筆頭の町だった。
全羅道(湖南)
朝鮮の南西部の道。米が豊かで、1592~93年にはその大部分が日本軍の支配の外にあった。
亀甲車(きっこうしゃ)
皮で守られた屋根付きの攻城用の車。1593年、日本軍が晋州の城壁に近づいて掘り崩すために用いた。
倭城(わじょう)
1593年から朝鮮の南岸沿いに築かれた日本式の城。和平交渉の間、日本軍はここで待機した。
妓生(キセン)
朝鮮で官庁に登録された女性芸能者。論介は晋州の官妓とされる。
義巌(ウィアム)
「義の岩」。矗石楼の下の南江にある岩で、論介がここから身を投げたと伝えられる。
『宣祖実録』
『朝鮮王朝実録』のうち宣祖の治世の公式年代記。その改訂版が1657年に完成した。
太陰太陽暦
朝鮮と日本で用いられた暦で、月の満ち欠けに従って月を定める。その日付はグレゴリオ暦に換算しなければならない。

よくある質問

日本軍はなぜ1593年に再び晋州を攻めたのですか。

朝鮮の記録は、秀吉が1592年のそこでの敗北の報復を望んだと伝えています。また、この攻撃は和平交渉の最中に行われており、『韓国民族文化大百科事典』は、日本側が交渉での立場を強めたかったのだとしています。

何人の日本兵が攻めたのですか。

作戦には約9万~10万が動員されました。『韓国民族文化大百科事典』と日本側の包囲部隊の名簿によれば、実際に城を囲んだのはそのうち約4万~4万3000にすぎず、残りは築城や補給線の守備にあたりました。ただし、全軍が晋州にいたとする記述もあります。当時、日本側は30万と称していました。

ほかの人たちが去ったのに、守備側はなぜ残ったのですか。

金千鎰、黄進、崔慶会らは、晋州を全羅道への入口とみなし、晋州を取ったら引き揚げるという日本の約束を信じなかったからです。郭再祐やほかの何人かの指揮官は、城は守りきれないと判断して外にとどまりました。

何人が亡くなったのですか。

正確にはだれにもわかりません。朝鮮の記録は兵士と民間人を合わせて約6万あるいはそれ以上としています。日本側の記述は日本へ送られた2万の首に触れ、後世の日本の軍記は3万としています。それぞれ数えている対象が違いますが、どれも大規模な虐殺を示しています。

論介の話は本当ですか。

この話は包囲から約一世代後の1620年ごろに初めて書き記され、そのころ晋州の人々は岩に「義巌」と刻みました。生まれた場所や家柄など、今日語られる細部の多くは後から加えられたもので、文献の裏づけがありません。

晋州を取ったことで、日本軍は全羅道を征服できたのですか。

いいえ。日本軍は求礼や南原の周辺まで襲撃をかけましたが、それ以上は進まず、主力は南岸の陣地へ戻りました。

第一次晋州城の戦いとはどう違うのですか。

1592年には、金時敏が率いる数千の守備兵が城外の軍勢の助けを得て日本軍を退けました。1593年には、はるかに大きな日本軍が戻ってきて、救援は来ず、城は陥落しました。

出典・参考文献

  1. Revised Annals of King Seonjo (Seonjo sujeong sillok), vol. 27, Seonjo 26 (1593), 6th month, 1st day, entry 1: Katō returns the two princes; Hideyoshi resolves to destroy Jinju. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  2. Revised Annals of King Seonjo, vol. 27, Seonjo 26 (1593), 6th month, 1st day, entry 3: the Japanese attack Jinju; government troops and volunteers are ordered to defend it. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  3. Revised Annals of King Seonjo, vol. 27, Seonjo 26 (1593), 6th month, 1st day, entry 5: the Japanese take Jinju; Kim Cheon-il, Choe Gyeong-hoe and others die. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  4. Revised Annals of King Seonjo, vol. 27, Seonjo 26 (1593), 6th month, 1st day, entry 7: obituary of Hwang Jin. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  5. Revised Annals of King Seonjo, vol. 27, Seonjo 26 (1593), 6th month, 1st day, entry 17: Japanese troops from Jinju plunder Gonyang, Hadong, Sanum and other districts. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  6. Annals of King Seonjo (Seonjo sillok), vol. 40, Seonjo 26 (1593), 7th month, 10th day, entry 8: report of Choe Gyeong-hoe, forwarding Shen Weijing’s warning. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  7. Annals of King Seonjo, vol. 40, Seonjo 26 (1593), 7th month, 15th day, entry 13: the king orders further appeals for the relief of Jinju. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  8. Annals of King Seonjo, vol. 40, Seonjo 26 (1593), 7th month, 16th day, entry 4: report of Yi Si-eon, with the testimony of a survivor of Jinju. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  9. Annals of King Seonjo, vol. 40, Seonjo 26 (1593), 7th month, 16th day, entry 5: detailed account of the fall of Jinju. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  10. Annals of King Seonjo, vol. 40, Seonjo 26 (1593), 7th month, 18th day, entry 5: the king blames Shen Weijing for the fall of Jinju. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  11. Annals of King Seonjo, vol. 40, Seonjo 26 (1593), 7th month, 20th day, entry 9: Jeolla governor Yi Jeong-am reports the Japanese advance from Jinju towards Gurye. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
  12. Kim Seok-hui, 진주전투 (Battles of Jinju). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  13. 진주성 (Jinju fortress). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  14. Yi Jang-hui, 임진왜란 (Imjin War). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  15. 김천일 (Kim Cheon-il). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  16. 최경회 (Choe Gyeong-hoe). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  17. 논개 (Nongae). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  18. 창렬사 (Changnyeolsa shrine). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  19. Siege of Jinju (1593). Wikipedia
  20. 제2차 진주성 전투 (Second siege of Jinju). Korean Wikipedia
  21. 晋州城攻防戦 (Sieges of Jinju). Japanese Wikipedia
  22. 文禄・慶長の役 (Bunroku and Keichō campaigns). Japanese Wikipedia
  23. Nongae. Wikipedia
  24. 선조실록 (Annals of King Seonjo, including the Revised Annals). Korean Wikipedia
  25. Toyotomi Hideyori. Wikipedia
  26. Henry IV of France. Wikipedia
  27. Lunar–solar calendar conversion (음양력 변환 계산). Korea Astronomy and Space Science Institute (KASI)

関連記事

上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

← 地図に戻る